4 想夜は男の子?


 妖精界にはフェアリーフォース以外にも様々な機関が存在する。
 たとえばフェアリーフォースは警察兼軍隊だが、民間などの個人を対象とした護衛にまでその手を広げるには限界がある。
 そこで登場するのが民間企業だ。
 シークレットサービスPHEGINOSフェギノスはその一つであり、全シークレットサービスの中枢を担う強力な企業でもある。
 青山家は代々PHEGINOSに属する家系であり、私こと青山萌香もそこに属するエージェントだ。
 ――否、だった・・・

 私は、いつか護衛するであろうクライアントの影武者になるように躾けられ、影の存在として任務をまっとうするように教育を受けてきた。

 護衛の仕事とはセキュリティポリスやシークレットサービスを連想してもらえればわかるだろう。つまるところ他人の盾になれということだ。
 私たちエインセルは他人そっくりに化けるのが得意。クライアントに化けながら危機をやりすごすのだ。よって自分を殺しながら生きなければならない。時には暗殺にも駆り出される。

 誰かを殺したことはあるかって?
 まだない。
 ――そう。まだ・・ないのであり、ゆくゆくはこの手刀で誰かの命を手にかける日がこよう。獰猛な猛獣を相手に、血生臭い教育も受けてきた。

 自分なんか持つな。
 自己主張など論外。
 好きなものなど不要。
 個性は不要。
 そう、教え込まれた。

 誰かになりたい。別の誰かに――。
 私はつまらなそうな顔で、いつもそんなことを考えていた。
 そう考えるようになったのは数年前の忌まわしい出来事がきっかけだ。

 私には姉がいたが、任務中に命を落としている。
 姉様ねえさまの作る肉じゃがが大好きだった。あの甘じょっぱさが白米によくなじみ、私を笑顔にしてくれた。

 姉様のことが大好きだった。
 でも、死んだ――。

 今でも肉じゃがを見るたびに姉の無残な亡骸が脳裏をよぎる。フラッシュバックというやつか。ジャガイモの汁の中、ドロドロに溶けだした豚肉の破片が姉の肉体の一部に感じられて胃袋を刺激し、幾度となく吐き気をもよおし、それを便器にぶちまけた。吐いた時の眼球への圧力を何度も何度も経験し、鏡に映る真っ赤な自分の瞳がさらにイラつきを煽る。
 それゆえ楽しいはずの食卓が、食事が、拷問に変わった――。

 不愛想で可愛げのない私とは違って姉は気立てがよく、いつも笑顔が絶えない人だった。半面、凛とした姿勢で冷静に任務をこなす冷徹なマシーンのようでもあった。
 物事を冷静に見つめる大人の女性――姉様は私の憧れだった。はやく大人になりたかった。

 姉様はいつも口グセのようにこう言っていた。

『萌香、あなたは自分の好きな道を歩みなさい――』

 私の両肩に手を置いて淑女たる笑顔を向けてくれる。他にも何か言っていた気がするがよく思い出せない。ただ、与えられた使命を宿命として受け入れるその姿は、受け入れがたい一面も感じていた。与えられた物事に抗わず、ただロボットのように振る舞うことが大人なのかと疑問を抱いたものだ。
 物わかりのよいのが大人ならば、何かに抗おうとする私は子供のままなのだろうか? 
 誰かに与えられた未来に対して疑問を抱くことは、子供の考えなのだろうか?
 それらの疑問は、今も続いている。

 ある日、いつものように姉のところに依頼が来た。要人の娘の護衛が主な任務。影武者となり、抗争から生じる危機を回避するようにとの任務だった。
 妖精界にも悪党は多く、ほとんどが人間にたぶらかされた成れの果てだ。悪党が見たいのならば人間界をさまよっていればすぐ見つかると教えられた。人間界の悪党事情は妖精の私たちよりも人間のほうがよく知っているはずだ。
 任務を淡々とこなす姉は、最後には悪党たちの抗争に巻き込まれ、無残な死を遂げた――。

 彼ら悪党どもは最初から生贄を欲していた。
 対象者と瓜二つの姿に化けた姉は、クライアントの敵対勢力に差し出され、複数の男たちに凌辱され、街角のゴミ箱に捨てられていた。

 雨の降る街角――冷たくなった姉の体を前に、ゴミコンテナの前で座り込む私。泣いていたのか、それとも無表情だったのかは覚えていない。頬を雨がつたう感覚だけは覚えてる。
 ボロ雑巾のように変わり果てた姉の姿を見た私はその場にしゃがみ込み、この世界は常に魔界と隣り合わせなのだと理解した。

 肉片と化した姉を前にしても、一族は皆、涙を見せなかった。
 それが青山家。
 それがPHEGINOS。
 それが、闇の一族たる結末だ――。


 時待たずして、私は人間界へとやってきた。姉の言葉を果たすために。使命に抗うために――。

『好きなことをしなさい――』

 悪魔に魂を売り渡した人間という生き物。それらが巣くう人間界――私はこの場所の醜態を、この目で確かめることにしたのだ。
 魔界の臭気は人間界のいたる場所から漏れ出している。世界が重なりあっているのだから不思議ではない。魔臭に汚染され続けた人間たちは、あらゆるものに危害を加えて被害を拡散させる。動物、植物、同種の人間はおろか、妖精にいたるまで。まるでウイルスそのものだ。人間界の空気に触れているだけでも反吐が出るような気持ちになる。と、妖精なら誰しも思うはずだ。
 驚いたのは、人間が悪意を生み出す装置でもあったことだ。つまり魔臭が原因とは限らない。一部の人間が魔臭拡散生物でもあったことに一種の絶望を覚えた。それらの悪しき存在は生まれた時からそうなのかもしれないし、成長過程で人間とは違った存在に変わっていくようだ。まさに人のツラをした悪魔である。
 それらの存在に近づくのは非常に危険だ。私はそれらの人間とは関わりたくない。

 だというのに、なんの因果かシュベスタ研究所から漏れ出した汚染エーテルの餌食となってしまったのが私である。ミイラ取りがミイラになったという情けない結末。一族に知られたら切腹ものである。
 汚染エーテルに心を支配されながら、所詮自分は無力なのだと悟った。戦うこともできず、自分以外の誰を責めることさえできない無力な存在。這いつくばって死ぬだけ。未来には何もない。
 私の心の中の世界はクソそのもの。

 クソみたいな世界に、栄光あれ――。


 後にスペックハザードと命名された戒厳令はご存じだろう。被害は広範囲におよび、汚染エーテルはたちまち多くの妖精たちを狂わせた。その中に私も含まれていたわけだが、摩訶不思議な出逢いもあった。

 スペックハザードが発令される前日のこと。
 真夜中。私は聖色市せいろんしの隣町にある一角で舞い上がる黒煙を見ていた。
「こんな時間に火災?」
 シュベスタ研究所の大火災。真っ暗な視界のなか、真っ赤に燃える炎をよく覚えている。
 その日は関東地方をかするように台風が移動しており、強風が続いていた。
 南西からやってくる風は黒煙を運びながら、私のいる町を一瞬で飲み込んだ。嫌な刺激のある風にイラつきを感じたが予想は敵中。魔臭に汚染されたエーテルの毒性は強烈なものだった。
 妖精ならそれを吸い込めば一発でアウト。精神を邪悪な感情に乗っ取られて、よからぬ行動をしでかす。
 先日の赤霧事件を思い出してほしい。あの赤い霧のような成分がエーテルに混ざり、風に乗ってこちらの町を飲み込んだのだ。妖精にとっては大惨事。人間界には私以外にも多くの妖精がおり、その被害は想像に容易い。たちまち各地でハイヤースペックの乱用がはじまった。

 妖精の私には汚染エーテルの威力は絶大だった。一瞬にして我を失った私は欲望に駆られ、人間の肉体を利用しようと考える。
 とりあえず手頃な人間を探すことにした私は、すぐさま行動に出た。私と接続した人間はハイヤースペクターとなって強力なハイヤースペックを発動できる。その者を暗示にかけて洗脳すれば強力な駒となり、可愛いペットの完成。ハイヤースペクターを思うように操れる。それでやりたい放題だ。力が欲しいと思った。無力のまま息絶えるのはごめんだ。

 スペックハザード発令日――。
 正気を失った私は戒厳令を破り、手頃な人間を探すために行動範囲を広げる。
「手頃な人間を探そう。そいつに化けて人間界に溶け込めば堅苦しい妖精界の法律にとらわれることなく生活できる。枠にとらわれず、ルールに捕らわれず、羽を伸ばし、やりたい放題自由に生きよう」

『萌香、あなたは自由に生きなさい――』

「――ええ。自由奔放に生きるわ、姉様」
 化けた人間の生活を乗っ取るのもいいだろう。ハイヤースペクターとて私には邪魔なだけ。
 それでも心の中ではこう叫んでいた。「誰か、この役を代わってくれないだろうか」と。
 青山家は闇の血族。私は本心でそれを受け入れられずにいた。いつも嫌気をさしながら、退屈な日常に空っぽの自分を見出していた。
 影武者。否、私は私でありたかった――だが、それも今日でおしまい。何もかもを捨ててやりたい放題生きるのだ。自分の代わりはいくらでもいる。他人の代わりだっていくらでもいる。
 人ひとりの役割なんて、さほど重要ではない。
 私の役割なんて、さほど重要ではないのだ。

 彼女と出逢ったのはそんな時だった――。

 聖色市に潜り込むことに成功した私は、この聖色市まちでターゲットを見つけて化けることに決めた。ここに獲物がいる。肉体に流れる血が、そうささやく。
 他人をマネるエインセルらしい生き方。本来エインセルはいたずらをする妖精だが、いたずらなんかして何になる? 無意味だ。影武者なのだから対象者のすべてを乗っ取ればいい。影武者にはその力がある。影武者の特権だ。

 愚かな人間よ、私のハイヤースペックちからに飲まれなさい――。

 皆が寝静まった真夜中のこと。愛宮総合病院の屋上に彼女ターゲットはいた。フェンス上に両腕を乗せて寄りかかり、寂し気な表情で夜空を見上げていた。
 
 彼女の名は柊双葉――彼女もまた、退屈な日常に空っぽの自分を見出していた。無力な自分を嘆いていた。

 弟の様態が危険だと双葉から聞かされた私は、とある婦人を双葉に紹介する。それが酔酔会すいようかいのババロア・フォンティーヌだった。今思えば恐ろしいことに巻き込んでしまったと後悔している。汚染エーテルは心を邪悪にさせる。とはいえ、私の無力が招いた結果でもある。

 リンの誘拐――それがババロアとの取引。リンの誘拐計画に関与した私と双葉は、他のハイヤースペクターたちを狩りながら能力を吸収しつつ、後にフェアリーフォースと暴力祈祷師を相手に戦うこととなる。

 しかし戦闘は惨敗に終わる。晴湘ハイウェイを走るトレーラーの上で私と双葉はブチのめされるわけだが、結果としてロナルドさんのご厚意をいただけて、今となっては感謝と罪悪に打ちのめされる日々である。

 ちなみにトレーラーの上で雪車町想夜と戦っていた双葉は私である。双葉AだかBだか知らないが、うまく化けすぎて我ながら天才かと自画自賛してしまう。躊躇なく雪車町想夜の肩を刺したのも私。サクッと刺したのは記憶に新しい。向かってくるほうが悪い。殺さなかっただけでも感謝してほしい。

 それらの結末は周知だろう。双葉の弟のたくみは無事に手術が終わり、今では元気に日常を送っている。ロナルドさんとリンの親子関係も良好。未来はわからないものである。
 
 ――そして現在にいたる。
 
 ロナルドさんの敷地内にあるはなれ。茶室のような畳部屋を借りての生活は素晴らしい日々だ。家政婦、リンの護衛、そして家庭教師。どれも私の日常を彩ってくれる。学校にはちゃんと行きなさいとロナルドさんが入学手続きをしてくださり、学業にもいそしんでいる。双葉の学力が補習組アレなもんだから、リンの勉強は私が見ている。双葉には料理に専念してもらっている。

 PHEGINOSから遠ざかった私にとって、闇の生活を忘れさせてくれる人間界での生活は居心地がよかった。悪い奴もいるけど、いい人のほうがずっと多い――それがこの目で実際に見てきた人間界の姿である。
 私はこのまま人間界に骨を埋めるのか?

(リンの護衛を任されているのに、とんだ失態をしてしまったわね)
 研究室に残してきたリンが心配だ。こうしている今も酔酔会がリンを狙っている。一体どうすれば……

 ふと、彼女のシルエットが浮かんだ――。

(こんな時に双葉の顔が浮かぶなんて。私ってば、わがままで醜悪な女――)

 おどろくほど自分が無力だと知った。
 ……子供だと思った――。

 深く息を吸い、吐き出す。そうしてこれからのことを考える。

(姉様……、私はこれからの道を決めました)
 窓から差し込む夕日が冷たく見えた。


 ――過去を振り返りながら瞼を開く。目の前には冷徹な瞳の拘束部隊ワイヤードの姿。ベッドに腰かけた姿勢で私を見下ろし、髪をかきあげ、私を嘲笑った。
「――言われた通りに話してくれたわね。上出来」
 瀬禅 星斗七らいぜん せどなは私の端末を片手で弄んで電話を切り、シーツの上に放り投げた。
「人間界はとても広い。私ひとりでは捜索に時間が取られる。そこで、あなたにもミルキィ・マキアートを探す手伝いをしてもらう」
 瀬禅が真っ先に目をつけたのがハイヤースペクターである双葉だった。双葉をおびき出すよう私に電話をかけさせた瀬禅のねらいは、双葉にもミルキィ・マキアートの拘束に参加させるというものだ。
 結果として、私はハイヤースペクターである双葉まで巻き込んでしまったわけだ。

 睨みつけることしかできない己の歯がゆさよ。ベッドの上の私は、ただの無力な妖精にすぎない――。

(私、どうして双葉とケンカしたんだっけ?)
 彼女との日常を思い出す。脳裏によぎる双葉の姿は、いつも笑顔で、時には怒って、泣いたり、悲しんだり、そうやっていつも隣にいてくれた。
 彼女が隣にいてくれる安心感に甘えすぎていたのだとわかってきた。
 それでも私は、彼女の優しさという甘い蜜を欲してしまう。私、自分勝手な子供なの。

 白馬に乗ったギャルが迎えにでも来てくれる……そんなこと、望んでない。

 望んでなんか、いない――。

 ベッドに腰かけた瀬禅がうざったるそうにため息をついた。
「――あなたPHEGINOSのエージェントだったのね。こんな人間界ところで油売ってないでさっさと妖精界に帰界すればいいものを……」
 目の前に放り出されたPHEGINOS登録証と学生手帳を見ては、双葉や皆の顔が頭に浮かんだ。リンの護衛中にこんなことになってしまったのだ。エージェント失格である。何よりロナルドさんにも顔向けできない。
 私は護衛役の価値を失った存在。生きる意味のない存在――。

 私の首、手首、足首。5箇所それぞれにワイヤーが巻きつけられている。
 それらのワイヤーに触れながら瀬禅は言う。
「くくりつけた5つのワイヤーがあなたの居場所、行動、言動を監視する。下手な行動に出ればすべてのワイヤーがあなたの四肢に食い込んで肉体をバラバラにする。私のことを他言した場合、ワイヤーを無理やり排除しようとした場合、そして人間にあなたのハイヤースペックを許可した場合にワイヤーは作動する。ワイヤーは皮膚に食い込み、窒息状態のまま細胞組織を切り裂き、あらゆる動脈から血が吹き出す。そして筋肉、骨ごと切断――ジ・エンド。想像を絶する苦しみを味わうのはイヤだろう? くれぐれも忘れないことだ」

 電話・GPS・自滅機能を実装した首輪。脅迫にも拷問にも使える厄介な代物。双葉にハイヤースペックなんて使わせようものなら、ダメージ転移でふたりとも一瞬でバラバラだ。巻き込むわけにはいかない。いったん双葉とのハイヤースペックの接続を解除しよう。

 首輪をつけられた私は、この時をもって瀬禅の監視下に置かれた。
 おとなしく瀬禅の支持に従う理由? 瀬禅はバカではない。拘束された私が自決の道を選ばないよう、彼女のほうから交渉を持ちかけてきたのだ。とてもおいしい情報を提示してくれることになったのは不幸中の幸いだ。それを入手するまでは死ねない。
「ミルキィ・マキアートを拘束した暁には約束を守ってもらうわよ、瀬禅星斗七」
「ええ。ミルキィを拘束できたら、あなたたちの欲しがっている情報を提示する」

 8人目の八卦の情報を、ね――瀬禅はニヤリと口角を尖らせて笑い、そう言い切った。

 8人目の八卦――もうすぐディルファーの力が終結する。8つの力が揃った先になにがあるかなんて想像もできない。だが、八卦を酔酔会の手に渡すわけにはいかない。何としても阻止する。
 ただ私は、支えてくれた人たちに報いたかった。
 
 そもそも瀬禅は本当に8人目の八卦の所在を知っているのか? ――そんな勘繰りをしている時間はない。今はミルキィ・マキアートの拘束だけ考えよう。8人目の探索に時間を取られるよりも効率がよい。瀬禅から情報を聞き出した後にミルキィを奪還すればよいだけのこと。しかしミルキィがどんな人物なのかさえMAMIYAは情報を得ていない。敵なのか? 味方なのか? 考えるだけで頭が混乱してくる。

 ――姉様。私は正しい道を歩んでいるの?


恋音と神城親子


 聖色市流船せいろんし るふな 沢木の事務所――。

 乳羽うばのレズビアンバーで治療してもらった恋音れおんは狐姫と別れた後、沢木の事務所に戻った。
 事務所で恋音を待っていたのは八卦プロジェクトの元メンバー、神城静也。それと娘の沙耶だった。
「恋音!」
 頭の包帯を見るや沙耶がかけよる。
「あんたどうしていきなり出てっちゃったの? 心配したんだからね!」
 そう言って涙ながらに力いっぱい恋音を抱きしめた。
「あんたがここにいるって狐姫ちゃんが教えてくれたの」
「焔衣が?」

 恋音は数日前まで神城親子の護衛を担当していた。だが赤霧事件後、恋音がその場所を去ったのは周知である。
 思い詰める恋音のことを狐姫はずっと気にかけていた。されど狐姫にできることは限られている。恋音の生活にあたたかさを取り戻すには、やはり神城親子の存在が大きいのだ。ずっと恋音を見てきた狐姫は、それをよく理解していた。

「沙耶……」
 申し訳なさそうに顔に翳りを落とす恋音。ソレイユを守れなかったことや、暴力祈祷師として未熟なことに罪悪を感じながら、神城親子の前から姿を消したのだ。もう会うつもりはなかったはずなのに。
「沙耶、それに神城。小生はソレイユを守れなかった。おまえらふたりの護衛さえ、まともに務まらなかった。護衛失格だ。だからもう、あの場所に帰るつもりはない」
 恋音は右腕に巻き付けた首輪を見ながら、そう言った。
 それを聞いた沙耶がクスリと笑う。
「なに言ってんの。あんたが守ってくれたから私もオトンもこうして無事でいるんだ。なのに、あんたがいなくなったら私らまた危険にさらされるだろ? オトンだって、まだ安全とは言えない立場なんだから。あんたが守ってくんなきゃ誰が守ってくれんの?」
 八卦プロジェクトに関与していた神城が酔酔会すいようかいから目をつけられないわけがない。誰かが守らなきゃ彼の命の保証はないのだ。

 その役目は恋音、まだおまえに託されている――。

 沙耶は力いっぱい言う。
「だからさ恋音、また戻っておいで。一緒に生活しよ? ……ね? ソレイユだってきっとそれを望んでいる」
 頭の包帯を避けるよう、沙耶は恋音の頭をそっと撫でた。
 羽毛のような愛情に包まれながら、恋音は気まずそうに、それでいて照れながら頷く。眼球がジワリと熱くなりって過度な潤いが増した。
「――うん。小生、またおまえら親子を守りたい。また全力で守りたい。ソレイユの分まで、小生がおまえらを守るんだ!」

 こみ上げてくる涙を乱暴に拭う恋音。八卦の力を手にした暴力祈祷師は数日前とは一味違う。何よりソレイユとの別れが恋音を強くした。さらなる敵にも対応できるまでに成長した。怒りと悲しみと希望、それらが一体となって恋音という刃を研ぎ続ける。まだ戦える、戦えるはずだ。戦いは始まったばかりなのだから。

「そうこなくっちゃ!」
 沙耶は恋音の答えに歓喜した。

 再会のともしび、今ここに――。


詩織の悩み


 沢木、恋音、神城静也、沙耶が客人用のソファに腰をおろしている。
 テーブル上には人数分のコーヒー。ほのかな香りが事務所内に漂う頃、恋音は乳羽で起こった出来事を沢木に伝えた。

 沢木は手持ち無沙汰にタバコの箱をいじっている。とっても吸いたいらしい。が、客人がいるので我慢である。

「――なるほどなあ。乳羽が魔界化し始めたってか。でもって、レズビアンバーだっけ? その店で治療してもらったわけか。ちゃんとお礼言ったか?」
「ああ。ちょっとだけ派手に暴れたが、消防車とパトカーが数台やってきた以外はなんの問題もなかったぞ」
「大問題だろ。顔見られなかっただろうな? 請求書きたらお前の給料から引いとくからな」
 鼻高々にする恋音に沢木のツッコミが入った。
「しかし乳羽がそんな状況になってたとはねえ……。こりゃあ本格的に魔界化阻止に力を入れないと町全体がヤバいことになるぞ」
 沢木がイラついた表情を作り、かったるそうにポリポリと頭をかいた。
「小生に任せとけ。魔界に呑まれる前になんとかするって」
 恋音は自慢げな表情で自分の胸を拳で叩いて見せた。

 そんなやりとりの横で沙耶が面白くなさそうな表情を作った。恋音が強いのは理解している。が、強いことは無敵という意味ではない。これから恋音が負傷するたびに胸を痛めることになるだろう。戦場に身を置くということはそれを意味している。

「恋音、その……、無理しないでとか無責任なことは言わない。でも、信用してないわけじゃないけれど、その、心配っていうか……」
 不安な表情の沙耶を前に、恋音はションボリと大きなケモ耳を折り曲げた。
「……うん。なるべく無理はしない。 ……約束する」
「うん、ありがと。いい子」
 沙耶は笑顔を作って恋音の肩を抱き寄せた。

 微笑ましいシーンはさておき、コーヒーをすする神城が難しそうに眉をよせた。
「さっき聞いた雷音ライオットだっけ? 詩織ちゃんの言ってることが事実なら、おそらく雷音の暴走は人間の技術じゃ制御できない可能性が出てくるな」

 AKIの店にいた詩織はリンの雷音の件で頭を悩ませていた。MAMIYA研究所で暴走した雷音は、雷の八卦の力を安定させることができる。しかし現状では放電程度の技術にとどまってしまい、魔法少女へのトランスフォームの際に力が分散してしまうのだ。その力を収束させつつリンの体に八卦の力を流し込まなければ魔法少女への変身は夢のまた夢である。おまけに想夜、シュウとクリム、萌香まで突然いなくなってしまい、丸焦げになった研究室に残された詩織は心細いわけで――そんな詩織からの話を、恋音は先ほど神城に伝えたばかりだ。

「妖精界の技術が必要ってことか? 神城の頭脳じゃ解決しないのか? 神城は八卦を作ったひとりだろ?」
 すがるように問う恋音に対して神城は黒縁メガネをクイッと指で上げ、さらに難しい顔を作った。
「雷音は湖南鳩こなはと君と水無月君が作ったのだろう? 2つの頭脳だけでも相当の技術力が注がれているはず。それに湖南鳩先生の正体は妖精メイヴなんだろう? それを聞いて驚いてはいるが、妖精の頭脳を介しても雷音が不具合を起こすというのなら、もう一度設計から見直す必要があるかもしれんな。リンちゃんの力が数日前より増幅されている。きっと雷の八卦が宿主に馴染んできている証だろう」

 神城はコーヒーをすすり、言葉を付け加えた。

「――妖精界の道具作りに詳しい者の知恵を借りられれば道は開くかもしれん。たとえば妖精界の道具職人とか。 ……まあ、そんな都合よくは見つからないか。ははっ」
 乾いた笑い声がコーヒーの香りとともに消えた。その後、神城はいつものように独り言をブツブツいいながら周囲とのコミュニケーションを忘れた態度をとった。
「そうか。神城でもわからないことがあるんだな……」
 理解すればするほどわからない事が多くなるのが研究職というもの。恋音はふたたびションボリとケモ耳を折り曲げた。

 一同は頭を悩ませため息をつき、口をそろえた。
「「「「う~ん、どこかに妖精界の道具作りに長けたエンジニアはいないかなあ~?」」」」


エインセルの本名


 聖色市 ほわいとはうす――。

 萌香が拘束されてからすぐのこと。ほわいとはうすから血相を変えて出てゆく双葉を御殿が引きとめようとする。が無駄に終わる。

 端末を握りしめる御殿。電話の相手は叶子だった。
『――なんですって? ケンカ中の萌香さんから連絡があった? それは大変ね、早くなんとかしなきゃだわね!」
 受話器の向こうで意気込んでいる叶子が想像できた。
『……ところで御殿』
「え?」
『……萌香さんて、どなただったかしら?』
 あ、そこからね。説明するの忘れてた。てか御殿もさっき双葉から青山萌香という名前を聞いたばかりである。

 御殿は叶子にエインセルもとい青山萌香のことを説明した。

『――ふうん、それがエインセルの本名だったのね。それで、肝心の双葉さんは?』
 端末の向こうから終始冷静な声。それに対して御殿も淡々と答える。
「今出て行った。双葉さんの端末に連絡が入ったのが数分前。どうやらただ事ではない状況みたい」
『ただ事じゃない? それはどういう意味かしら?』

 双葉の端末に突然かかってきた電話。萌香からの電話番号が表示された時の表情を御殿はよく覚えている。
(あんなにも安心した表情を見せるくらいなら、さっさと仲直りすればいいのに……)
 そう思った矢先、双葉の様子が変わったのだ。

 『――今から20分後、聖色駅前のUFO道に来て』

 UFO道とは聖色駅前にあるドーナツ型の歩道橋。屋根も付いていて待ち合わせに使われる場所だ。
 萌香からの言葉を聞いた双葉の表情が凍った。萌香の意地っぱりは熟知している。ケンカの最中、簡単に電話をかけてくる性格ではない――御殿の前で、双葉はそう言ってきかなかった。
 そこで御殿は考える。萌香は誰かと一緒にいるのではないかと。抵抗できない立場に陥っている可能性もあることを考えると人手がいる。そこで叶子の知恵を借りようと連絡を入れたのだ。人間の叶子も妖精の華生けいきから能力を継承しているハイヤースペクターだ。双葉とは似た者同士であるがゆえ、何か力になれるはずだ。

 叶子が質問してきた。
『たしか萌香さんはスペックハザードを破って行動していたわね。つまり指名手配されているのかしら?』
 叶子の言う通り、戒厳令を破っている萌香はフェアリーフォースから逃げる立場にある。
 御殿が顔をしかめて問う。
「つまり萌香さんはフェアリーフォースに捕まっていると?」
『可能性は高いわね。双葉さんがハイヤースペクターであることを考えると、ふたり同時に拘束するのが狙いかもしれないわね。だけど犯罪者を拘束するのにわざわざ双葉さんを呼び出させるのは不自然よね』
「双葉さんと萌香さんを何かに利用しようとしているのでは?」
『そうね。想夜なら何か知ってるんじゃないかしら? あの子フェアリーフォースでしょ?』
「想夜に連絡を入れてみる。ありがとう叶子。相談してよかった」
『気にしないで。私も華生とUFO道に行ってみる』
 御殿は端末を切った。持つべきものは親友である。
「そうと決まれば行動ね」
 バイクのキーを探すも、修理に出していることを思い出して肩を落とした。
「しばらくは運動量が増えそう」
 御殿は徒歩で女子寮に向かった。


想夜は男の子?


 MAMIYA研究所から萌香が消えた時のこと。
 開いた窓に異変を感じた想夜は、そこから身を乗り出すと外を見回した。雷音のスパークに便乗して何者かが研究室に侵入したのはわかっている。萌香が消えたのはその時だった。
 その後、沙々良は雷音の調整のため研究室にこもり切り。おまけに護衛のいなくなったリンの面倒も見ることに。
 詩織は連日の作業で煮詰まってしまい、息抜きのために夜の乳羽に繰り出していった。

 残された想夜は萌香を探すため、聖色市上空を飛び回っていた。
 その後ろをシュウとクリムが小さな羽をパタパタさせながらついてくる。
「萌香さん、どこへ行っちゃったのかしら?」
 独りごとの想夜に双子が話しかけてきた。
「こりゃあ双葉とかいう女に愛想つかして妖精界に帰ったな」
「おやおや破局ですな。実家に帰らせていただきます現象ですね、わかります」
「もう、ふたりとも変なこといわないの」
 想夜は不安そうな顔のまま電柱の上に舞い降り、キョロキョロと街を見回した。
「萌香さんいなくなっちゃうし、リンちゃんの雷音も不具合で力の制御に時間かかりそうだし。これからどうすればいいの?」
 ちょっぴりベソをかく。でも大人の女にならなくちゃ。冷静にならなくちゃ。

 シュウとクリムはお腹が減ったりトイレに行きたくなったりする。想夜はそんな双子の面倒をみながら、しっかり者のお姉さんを証明した。そうやって無理しながらも、一人前の女を演じ続けた。
「西のほうも探してみよう」
 ふたたび羽を広げては心当たりのある場所を転々としつつ萌香を探す。


 だんだん日が暮れてきた。
 聖色駅前のベンチに腰掛ける想夜がションボリと肩を落とした。
「どこに消えちゃったのかしら萌香さん……」
 端末の時計に目をやると、すでに夜の7時を回っていた。
「いけない、もうこんな時間っ。そろそろ京極隊長のところに戻らないと」
 双子の面倒を任された以上、麗蘭れいらのもとへ送り届けるのが保護者の努めだ。
「シュウ、クリム。そろそろ京極隊長のところへ帰りましょ?」
 想夜はポケットから端末を取り出す。
「萌香さん、双葉さんと話したくなさそうだったけど、やっぱり双葉さんに連絡しよう」
 と、双子に視線を向けた時だ。UFO道の階段付近に立つ双葉と萌香らしき影に気づく。
「あ! 萌香さん!?」
 ようやく見つけた! と思い、UFO道まで走っていったが見失ってしまう。
「人違いだったのかしら……」
 途方に暮れる。それに追い打ちをかけるよう、困った状況に陥った。後ろにいたと思っていたシュウとクリムの姿がないのだ。いったいどこへ消えてしまったのかしら?
「あれ? シュウ? クリム!? ふたりともどこ行っちゃったのぉ!」
 夜空を見上げるとシュウとクリムが小さくなってゆくのが見えた。
「ちょっとぉ、どこへいくの!? 待ちなさい! 待ってよおぉ!」
 叫ぶ想夜に双子の声が返ってくる。
「先に戻ってろー! こちとら緊急事態なんだよ! 行くぞクリム!」
「マイあるじハケーン! れっつらごー!」
 ふたりして羽ばたいて、遠くの彼方に消えてしまった。
「もうっ。また京極隊長に怒られてもしらないんだからねっ」
 駅前ロータリーに想夜の声が虚しく響いた。

 シュウとクリムのことは諦めて、ひとりで帰路をゆく想夜。夜の駅前。迷子の子猫のように頭を落としてトボトボ歩く。子供がふらつく時刻ではない。

「京極隊長に連絡入れなきゃ……」
 想夜は端末でMAMIYA研究所での一件と、シュウとクリムを見失ったことを伝えた。
 「あの双子ならすぐ戻ってくるだろう」――正直、そんな慰めの言葉を期待したのは確かだ。でも、麗蘭からの言葉は手厳しいものだった。
 「青山萌香の失踪は事件か? 事故か? 逃亡か? 誘拐か?」「どうして双子を追わなかったんだ?」――萌香と双子を見失った失態。保護者として失格。それらの言葉でとがめられ、とっても怒られた――。

 そんないっぺんに色んなことを対処できない。そんな思いが脳裏をよぎった。
 でもあたしは大人の女。冷静に現実を受け入れて、しっかり考えて次の行動に生かさなきゃ。完璧な大人にならなくちゃ――そうやって気丈に偽りの大人を振る舞った。大人は鉄壁の心を持っていると勘違いしながら背伸びをし続け、まぼろしを演じる中学生の姿がそこにはあった。
「週末は御殿センパイとクレープ食べに行くんだもの。がんばらなくちゃっ」
 両手で拳を作ってガッツポーズを決めた。


 想夜は暗くなるまで萌香と双子を探し続けた。が、見つけることはできなかった。
「もう真っ暗だわ。寮母さんに叱られちゃう」
 いったん捜索を打ち切きる。

 女子寮に着くころ、路地の向こうから長身の黒装束が歩いてくるのが見えた。
「御殿センパイ」
 暗かった想夜の顔がぱあっと明るくなる。
 最初に口を開いたのは御殿からだ。
「想夜。萌香さんを見なかった?」
「萌香さんならあたしも探していたところです」

 御殿から双葉と萌香の情報を聞いた想夜はさらに困惑をする。

「――それじゃあ萌香さんは今、フェアリーフォースに捕まってるということですか? 今調べます。そんな情報入ってきてなかったと思うんですが……」
 想夜はポケットサイズの水晶を取り出すと、慌てて水晶端末を操作する。が、やはり青山萌香に関する情報は得られなかった。
「萌香さんが捕まればデータベースが更新されると思います。でも、これといった情報は出てきませんね……」
 忙しなく指を動かしてくまなく調べるが結果は同じ。
「そう。想夜なら何かわかると思ったのだけれど……残念ね」

 残念ね――その一言が小さな胸にグサリとくる。「おまえは役立たずだ」と遠回しに言われた気がして己を恥じた。

「お役に立てなくてすみません……」
 想夜はしょんぼりと肩を落とした。
(やっぱり大人の男の人のほうが頼りになるのかなあ……)
 落ち込みモード。上目づかいで御殿の顔を見上げた。

 想夜だって大きくなったら小安や朱鷺のように高級車で颯爽と現れ、運転席のドアを開けて軽快に降りてきては御殿をエスコート。いつかそんな未来がくるかもしれない。だけど、それは何年も何年も先になる。ましてやそんな未来こないかもしれない。想夜が成長する頃、御殿は別の男にその肩を抱かれている。そんな未来かもしれないのだ。それを想像するたびに想夜の胸はキュンと締め付けられて苦しくなった。
 免許を取得して高級車を買って……それだけでもいくらかかるのだろう? 数百、いや数千万という金額は中学生には理解ができない。今の想夜には千円だって高額なんだもの。

(そうだわ! 学校を休んでたくさん働けばあたしだって……)
 そう思い、途中で考えるのをやめた。想夜はまだ中学生。それも華奢な女の子。ハイヤースペックが使える妖精だからといって、成人男性に経済力と包容力で勝てる部分など皆無に等しい。とかく世間は中年男性を煙たがるが、この世は男性のほうが有利に働ける。比べて10代女子の想夜は稼ぎもなく、世間の言うおぢさんに何一つ勝てる要素がない。それを認識するたびに想夜は、この世は男性の力が必須であり、男によって構築されているのだと嫌でも理解せざるを得なかった。女である自分は肩身が狭くて無力。子供ならばさらに無力なのだと現実を突きつけられる。

 何もできない子供。それが今の想夜なのだ。フェアリーフォースの軍人だからといって、誰かを養える経済力もない。逆に政府に養ってもらっている身。高級車のハンドルなんて、とうてい握る日は来ない。

(ううん、諦めないんだからっ。ちゃんと御殿センパイをエスコートするんだからっ)

 想夜はティーンズ雑誌に載っていたあれやこれやを思い出す。女の子向けの雑誌にはデートプランが掲載されることがある。『こんな彼氏にエスコートしてもらおう!』『デートに連れて行ってほしい場所』などなど。雑誌から見習うことは多かった。それらを男の子目線で読みふけり、数日の夜を明かした。

「御殿センパイ、はやく萌香さん見つけましょう。あたし、夜中も寮を抜け出して探しますから!」
 拳を作って自分の胸を軽く叩く。好きな人にたくましさを見せつけるのが男の役目。13歳の女の子は、そう思った。
 だけど、気丈に振る舞う想夜を見た御殿は力なく微笑むのだ。
「そんなに頑張らなくてもいいのよ。夜はわたしが萌香さんを探すから、あなたはゆっくり休みなさい。もう遅いでしょう?」
「で、でも……」
「それに、あなたはまだ中学生でしょう? 」
 御殿センパイだって学生でしょう? という言葉を飲み込む。
(――ううん。御殿センパイは社会人。八卦プロジェクトで生まれたばかりだけど、ちゃんと就職して働いてて、自立した大人の人。あたしとは……違う)
 そう。御殿は警備として学園に潜入しているだけに過ぎない偽りの学生。さらに別案件として彩乃の護衛も掛け持ちしている、業界では引っ張りダコの暴力祈祷師である。想夜はそのことをすっかり忘れていたのだ。

 オトナの世界。今の想夜が背伸びしても、手の届かない世界――。

 オトナというキーワードが頭に浮かんでは、社会人と学生というカテゴリーが脳裏をよぎる。それらは決して同じではない。経済面、社会的責任、大人と子供の差は計り知れない。それを思うたび、小安と朱鷺の間に御殿が含まれ、想夜から遠のき、想夜の手前に境界線の幻像を作りあげた。

 御殿がだんだん遠くへ行ってしまう――想夜はそれを感じては孤独を覚える。

(あたし、週末は御殿センパイとクレープ食べに行く約束してるもん。昨日だって夜遅くまでデートプラン考えてたんだからっ)
 子供の負け惜しみっぽくて虚しくなるけど、持ち前の明るさで笑顔を作った。
(はやく目の前の問題を解決して、週末は御殿センパイと楽しんじゃうんだからっ)
 そう思った矢先、想夜の笑顔も虚しく、御殿の口からはつらい言葉が返ってきた。
「想夜、クレープ食べに行く約束だけれど、また今度にしましょう」
「え……?」
 想夜は耳を疑った。
「ど、どういうことですか? 週末はダメということですか? なにか他のご予定があるんですか?」
 すがるように問い詰める想夜。それはそれは泣きそうな表情だ。
「ええ。報告書の提出とかも立て込んできたし、双葉さんたちの動きに異変が出てきた以上、わたしのスケジュールも組み直さないといけない」
 双葉と萌香はリンの護衛役だ。リンの父親はロナルド。ロナルドはMAMIYA研究所を支援する投資家。つまり双葉と萌香は必然的にMAMIYAの強力な駒となるので失うわけにはいかない。当然、MAMIYAの番犬である御殿は、ふたりのサポートにまわるつもりだ。

 大人の世界はこんなことばかり。急な予定変更は日常茶飯事である――物わかりのよい想夜は、それを汲み取る事ができた。

「そ、そうですよね。皆さん大変ですものね。 ……わかりました。クレープは、また今度……にしましょう」
 と、無理して笑顔で返した。皆が大変なのだ。自分のことばかり優先してはいられない。こうなるのも当然の流れ。そんなこと想夜だってわかっている。だからね、「今度っていつですか?」なんて、聞くつもりはない。

 「今度っていつですか?」なんて、聞くつもり…………ない――。

 想夜は大人の女。どんなことだってガマンできちゃうんだから。
 想夜は大人の女。どんな時だって冷静でいられるんだから――。
 だって想夜は大人の女を目指しているんですもの。

 理想の大人は、完璧じゃなきゃダメなんだもの……。
 大人になれば、落ち込むことなんてなくなるもの。
 きっと大人になったら、なんでもガマンできる。大人になったら、なんでも乗り越えられる。しっかりした存在。それが大人。
 でも……、でも……、本当にそんな完璧な存在になれるのかしら?
 それを確かめるためには、何年もの時間が必要になってくる。そしてすぐには訪れない。
 大人……オトナ……。想夜の中で大人の定義がわからなくなってきた。

 はやくオトナになりたい――。

 だけど想夜にはそんな能力はない。ないんだ。
 リンのように変身アイテムを使って何かに変身することもできない。人間社会ではクソの役にも立たない子供のままだ。
 所詮は女。
 所詮は子供。

 もっと時間が早く進めばいいのに。そうすれば早くオトナになれるのに。働いて、いっぱいお金稼いで、貯金だっていっぱいするの。そうすれば好きな人を包んであげられるのに。手を引いてあげられるのに――そんな儚い想いは、現実を突きつけられては遠のいてゆく。

「それじゃあ御殿センパイ、おやすみなさい」
 ベコリとお辞儀をして御殿に笑顔で背を向けた。
 女子寮の玄関前で、ポロリ――想夜の頬を一粒の雫が伝った。


 女子寮。想夜の部屋――。
 暗い部屋の中、想夜は電気もつけないままベッドに向かって前のめりに倒れ込み、突っ伏した。
「……」
 無言。
 ふと机のペン入れに立ててあるハサミに目がいく。
 ベッドからノソリと起き上がると、机の前までやってきてハサミに手を伸ばした。
 机の上には宿題で使った赤ペンが転がっている。

 ――バスルーム。
 想夜は鏡の前に立つと、リボンで束ねたポニーテールを軽くつまんでため息をついた。
 鏡に映る顔は酷いもので、くちびるは赤いペンで彩られ、まるで妖怪のよう。大人の女はメイクを覚えるものだと思い立ってのことだけど、筆記用具じゃ女にはなれない。
 そうして、今度は何をしたかといえば逆の行動に出る。大人の女がダメなら男の子になろうといった奇妙な方向に暴走する。
(あたしが男の子だったら、御殿センパイはきっと……)


きっと、振り向いてくれる――。



 手元のハサミの先端をポニーテールの根っこにゆっくりと突き刺すと、握った柄に力を込めた――。

 一本……
 二本……
 ポニーテールがパラリパラリと足元に落ちてゆく。

 男――。
 女――。
 両性具有の存在は、どちらの道も選べる。複数の道が与えられている。ゆえに、己の性別に振り回されることもある。
 やがて想夜にも、それは訪れる。

 想夜はマデロムのことを思い出した。執拗に麗蘭に突っかかっていたのは彼の嫉妬。男の領域に男性器を兼ね備えた女が侵入してきたのだから危機感この上ないだろう。藍鬼あおおに想夜に執着するのは彼の男としてのプライドだ。力強さで多くの民を引っ張ってゆくのが男の努めであり居場所だ。強い男じゃなければ誰もついてはこない。
 だというのに、ハイヤースペックを使う女たちは、男の役目や居場所まで奪う力を秘めている。
 居場所を奪われる男たちにとって、それがどれだけ恐怖か? 想夜はそれを理解しかけている。
「あたしだって、男の子の中に入って、御殿センパイを守れるんだから。小安さんや朱鷺さんにだって負けないんだから……」
 想夜は性別の侵略をおこなおうとしている。これから男の子として生き、女の子を守る。そんな道も用意されている存在の暴走。
「あたし、藍鬼化シャドウシーズンができるもの。藍鬼さんになれば、男の人より強いもん。大人にだって負けないもの……」

 だが、想夜には決定的に欠落しているものがあった。

「髪を切って、男の子になれば……、週末は御殿センパイの隣を、歩けるのかな……」

 なぜなの? 震える手。
 なぜなの? 瞳を覆う水面みなもで視界がぼやけちゃう。

 想夜に欠落しているもの。それは男として生きる覚悟だ。
 女の子の想夜には覚悟がない。想夜の性自認は男性ではない。女の子そのものなのだ。

 それでも、ハサミで髪を切断しようとした。そんな時だった。

 コンコン――。

 部屋の扉がノックされた。
「あ、はーいっ」
 想夜は我に返ってハサミを手放し、慌ててバスルームから飛び出す。鏡に映る顔が酷いもんだから、手でゴシゴシとくちびるの赤インクを落とした。ついで涙も乱暴に拭う。涙のあとで少し目のまわりが腫れているけど、そればかりは拭っても治らない。

 扉を開けるとそこにひとり、女性が立っていた。

すみれさん……」
 想夜は覇気のない声でその名を口にした。
「やっぽー想夜。お部屋に入れてくれるかしら?」
「あ……、ど、どうぞ」
 想夜は扉を目いっぱい開けて菫を部屋に通した。
「菫さん、どうしたんですか? こんな時間に……」
 夜の9時をとっくに回っていた。
「ん~? なんだか想夜のことが気になっちゃってね~。来ちゃった♪」
 いたずらっぽい笑顔の大人の女は、想夜のことが好きでたまらない。いつも、いつでも、想夜のことを気にかけている。


想夜は女の子


 菫は部屋に入った瞬間、バスルームに置いてあるハサミと散乱した数本の髪の毛を目にして表情を曇らせた。
「髪を切ろうとしたのね? どうして……」
 問われた想夜がうつむく。
「だ、だってあたし、今すぐ大人の女性になれないんだもの。それだったら、いっそのこと髪を切れば男の子になれるかもしれないもの。そうすれば、御殿センパイを男の人のようにエスコートできるもの」
 喘ぐ想夜に、菫は諭すようにたずねた。
「想夜はそれでいいの? 男の子になりたいの? 女の子のままではイヤなの?」
「そんなことない! あたし、女の子に生まれて良かったと思ってる。でも、でも……、あたし大人の女になれないの。でも……、男の子になることなんて、もっとできないもの……」

 そうやって、ふてくされた感じで頬を膨らませながら、悲しい顔を作っては涙を浮かべた。

「もうどうしていいかわからない……。ねえ菫さん、あたしが大人の女になれば本当に御殿センパイと今以上に仲良くなれるの? それとも小安さんや朱鷺さんのように男の人になれば御殿センパイを上手にエスコートできるの?」

 半べそが泣きべそに代わり、しだいに大粒の涙をこぼし始めた。

「ねえ菫さん。あたしには好きな人がいたらいけないの? 誰も好きになっちゃいけないの? 妖精だから? 女の子のクセにおちんちんが生えてくるから? あたし人間界こっちに来てわかったもの。人間の女の子にはおちんちんなんて生えてこないもの! こちらの世界ではありえないことだもの!」
「想夜……」
「人間から見たあたしはオバケなんだもの! 体のことでみんなに嫌われちゃうならハイヤースペックなんていらないわ!」
 戸惑う菫の前で、想夜は涙ながらに口を開き続けた。
「あたしがんばってるもの! みんなの力になりたくてがんばってるもの! 期待に答えられるようにがんばってるもの! だけど、完璧になんてできないもの!」

 想夜は軍人、そして両性。いつも男性と女性の役割をこなさなければならない。妖精界ならこなせるかもしれない。されど人間の世界で両性が務まるものだろうか? 人間界は男か女のどちらかしか認められない世界。両性はイレギュラー――ハイヤースペックを使う妖精は、人間界ではとても難しい立場に置かれる。

 色んな出来事が溜まりに溜まり、しだいに心の処理が難しくなってくる。そうして想夜は本音を口にするのだ。

「あたしだってご褒美欲しいものっ。御殿センパイとクレープ食べに行くだけでもいいの! だけど、だけど……、それも叶えて下さらないなんて……、神様はイジワルなお方だわっ」

 小さな胸の中にずっと抱いていた耐え難い苦痛。ガマンしていた感情が一気に溢れ出したのだ。

「京極隊長だってひどいわっ。なんでもあたしに押しつけて、期待にこたえられなかったらあたしのことを怒ったりして。フェアリーフォースのお仕事だってちゃんとしてるもの! だけどっ、お仕事と関係ないことまでカンベキにこなせだなんて勝手だわっ。あたし、あたし……そんなにいっぺんに色んなことできないものっ」

 想夜は子供。まだ中学生。だというのに、ずっと物わかりの良い大人の道を歩んできた。自分で選んだことには責任を持って取り組む女の子だ。だが一生懸命歩いてたどり着いた場所に苦痛しかなければ、誰しも気が滅入ってしまうもの。ゴールにご褒美がなければ心がしぼんでしまう。想夜だって人の子とかわらないのだ。

 デキる者にはさらなる要求がなされる。それはどこの世界でも同じ。皆の期待を背負いながら、さらなる試練を突きつけられる。
 男には男の役割を。女には女の役割が要求される世界。
 でも想夜はまだ子供だ。それらすべてをさばけるほど器用じゃない。断る力。拒否する器用さを持ち合わせるのは、大人になってからでもいいはずだ。
 適切なご褒美があっても、いいはずだ――。

 想夜の涙が感染したのか、今度は菫は涙ぐみ、目の前の震える体をぎゅっと抱きしめた。
「想夜、ごめんねっ。ごめんねっ。変なこと言ってあなたを振り回してしまって……あなたの気持ちも知らないで勝手なことばかり言ってしまって……」

 泣きじゃくる想夜の頭を何度も、何度も何度も撫でてくれる菫。その手はとても細くて、柔らかくて、あたたかくて――まるで女神様のようだと想夜は安らぎに包まれた。

「想夜はがんばってるわ。いっぱい、いっぱい、がんばってる」
 そう言って想夜の頭に頬をうずめ、背中に回した腕に力を込めた。
 想夜が嗚咽をあげながら言う。
「……いやだわ、あたしったら……。あたしのほうこそ、ごめんなさい。菫さんが悪いわけじゃないのに……、菫さんはいつもお話を聞いて下さってるのに……、あたしのために来て下さったのに……あたしのために……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 そう言って、何度も何度も菫の胸に顔をうずめてあやまった。
「いいのよ想夜。ちょっと無理しすぎちゃったのね。泣きなさい。今はぜんぶ吐き出しなさい」
 菫は優しい眼差しを想夜に向けながら、その背中をポンポンと優しく叩いてあげた。

 ――どのくらいの時間、菫の胸で泣いただろう。嗚咽を上げ、咳込んで、目を真っ赤にして……。蓄積されてきた小さな傷でボロボロになった心に絆創膏を貼る時間を、菫と一緒に紡いだ――。

 菫が想夜の頭を撫でる。
「――どう? 落ち着いた?」
「……はい。すみません、泣いたりなんかして……。あたしったら、やだ、恥ずかしい……」
 ぐすん。想夜は真っ赤な鼻をすすりながら答えた。

 少し間をおき、菫が口を開く。
「――ねえ想夜」
「――はい」
「ちょっとこっちへ来て」

 菫は想夜の肩を押しながらバスルームに引きずり込み、鏡の前に立たせた。

「――さあ想夜、鏡の前で私に笑って見せて」
 鏡には自分の姿。そして後ろから菫がギュッてしてくれる。それがとっても心がポカポカして心地よくて……。
「ほら、笑えた。見て。こんなにも素敵な女の子が鏡の中にいる。想夜はいつだって素敵な女の子」

 鏡の中の少女は笑顔で、いつも頑張っていて、ほっぺたの泣き後がちょっぴり変だけれど、それでも好きでいられた。鏡に映る自分がどういう存在なのかを客観視できて、これからどうすればいいのかがわかってきた。

「そうよ。自分を俯瞰的に見るの。もうひとりの想夜があなたを見ている感じよ。宇宙から自分を見ているイメージでもいいわ。そうすれば、自分の置かれている状況とか考えていることとか、これからどうすればいいかもわかってくる。目の前の女の子は想夜にそっくりね。あの子、とっても可愛いわ。ほら、笑顔で手を振ってエールを送ってあげて。きっと喜んでくれるから」
「えへへ……なんだか照れちゃう」
 想夜は菫と一緒に鏡の中の女の子に手を振った。
 するとどうだろう? 鏡の中の女の子も笑顔で想夜に手を振ってくれるではないか。

 菫は想夜と一緒にゆっくりと左右に体を揺らしてリズムをとった。まるで揺りかごの赤子を扱うように、大切に大切に……。

「いい想夜? いつもハッピーなことを想像してみて。心をワクワクさせるの。不安なんて入り込めないくらいのたくさんのハッピーなイメージで心を満たすの。そうすれば物事がハッピーなほうに動き出すから」
「あたしにも、それはできますか?」
「大丈夫。きっとうまくいく。これから色んな問題が解決していって、順調に進んでゆくの」
「もしも、うまくいかなかったら?」
「そんなことは考えないの。本当にそうなっちゃうでしょう? 余計な心配はしなくていいの。理想の未来だけを心に描くの」
「そうすると、どうしてハッピーになれるの?」
「幸せの波動が体の底から溢れてくるのよ。幸せがいっぱい、いーっぱい想夜のところに集まってくるの」

 この世は波だ。気持ちや考えが波動を作る。同じ波は引かれ合い、引き寄せ合う。それは事実なのだ。
 ハッピーな想像が、ハッピーな未来を引き寄せるのだ。

「なら、双葉さんと萌香さんも見つかる?」
「ええ、きっと見つかる」
「御殿センパイとクレープ食べにも行けますか?」
「ええ、きっと行けるわ。きっとね」
「リンちゃんの雷音も完成する?」
「ラ……え、なにそれ??? 多分完成するんじゃない? 知らないけど」
 最後のほうで適当に答える大人の女。
「くすっ。菫さんてば適当~」
 想夜にだんだん笑顔が戻ってくる。ハッピーな時間が増えてゆく。
「大人なんてそんなもんです。子供が夢見てる大人なんて存在しないんですっ」
 ぷいっとふくれっ面を作る菫。
 そしてふたりして、
「「ふふふっ」」
 頬をよせて笑い合う。

 子供が憧れる理想の大人なんて存在しない。ガキっぽい部分を懸命に隠しながら生きている哀れな部分ばかりだ。大人なんてそんなもの。

 子供は背伸びをしてばかり。ボロを出すクセに巨勢ばかり張りたがる。
 だけどね、少しずつ、ちゃんと大人になってゆくから。足元をしっかりと踏みしめて歩いてゆけばいい。

 鏡に映るふたつの笑顔。笑顔は明日を力いっぱい走り抜けるための潤滑油だ。
 大丈夫。想夜は明日も走り抜けられる。


次回につづく――。