5 サタンコンパイル


 聖色市 流船せいろんし るふな 沢木の事務所――。

 応接室のソファに腰を下ろす御殿の目の前、沢木が報告書を差し出してきた。
咲羅真さくらま、それに目を通せ。さっき獅子しるこ乳羽うばの駅前で暴れた時の現場状況だ」
「拝見します」
「どっこらしょっと」
 沢木もソファにふんぞり返り、コーヒーをまずそうにすする。

 御殿は報告書を手にし、ペラペラとめくりながら素早く目を通した。写真も何枚か添付されており、どれも黒焦げで大惨事。火の八卦である獅子恋音しるこ れおんが相当キレ散らかしたのは間違いなかった。
 魔界化が進んでいることは狐姫から聞かされている。そのことは手元の報告書にも記載されている。
 しかし御殿が気になったのは、店内にはびこる悪魔の多さだった。

「沢木さん。ルーシーが暴れた店……メン、パブ? でしたっけ? この店は人間が経営者ですよね?」
 遊び歩かない御殿にはメンパブがわからない。報告書を読んだ瞬間、人間界に悪魔がたむろする店がオープンしたのかと勘違いしてしまった。
「ああ。半グレどもがたむろしている店――と、最初は俺もそう思った。だが明らかに様子が変だよな。その店で起こっている現象だが、ただの魔界化じゃねえぞ」
「沢木さんもそう思いますか」

 悪魔がこちらにやってくる方法――一般的には人間界と魔界をつなぐ通路を作り、それを使って魔界から魑魅魍魎ちみもうりょうがやってくる。だが、報告書に記載されているメンパブの悪魔の量たるや尋常じゃないレベルだ。ましてやこれを即座に全員ぶっ飛ばした恋音の力たるや、暴力祈祷師の中でも相当の腕っぷしである。

 御殿は眉をひそめた。
「いくらなんでも悪霊の数が多すぎませんか? 数十という悪霊。一瞬で魔界からやってきたとは思えません。最初から人間界に生息していた数ですよね? まるで赤霧の中みたい」
 御殿の脳裏に先日の赤霧事件が蘇った。赤い霧の中は悪霊の巣窟だった。それが原因でバイクはあんな姿に――とほほ……。
「ああ、俺もそう思った。そいつらは最初から店内に潜伏していたのだろう」
「となると、聖色市内には人間の姿をした悪魔が相当数いるということでしょうか?」
「まことに残念ではございますがそう考えるのが一般的ですなあ~。だが、状況はもっと厄介かもしれんぞ」

 沢木はコーヒーを飲むでもなく、もたついた感じでカップをテーブルに置く。そしてタバコを取り出すと、火をつけるでもなく、煮え切らない態度でそれを見つめ続けた。
 どうにも沢木の態度がはっきりしない。御殿の中の沢木はいつだって猪突猛進だ。しかし目の前の沢木はまるで牙を抜かれた虎そのもの。そんな沢木の臆病風が御殿にも伝わり、心がざわつきを覚えるのだ。

 静かな事務所に時計の秒針が響く中、沢木が口を開く――。

「――なあ、咲羅真。これはただの憶測にすぎないのだが……」
 いつになく改まった態度を前に、御殿はおとなしく耳をかたむけることにした。

「もし……、もしもだ。この世界に人間がいなかったとしたら、この世界には一体なにが存在していると思う?」

 御殿には沢木の言っている意味がまったくわからなかった。
「この世界に人間がいない? ……それはどういう意味でしょうか?」
「うまく伝えられないのだが……つまりだ、俺たちが目にしている人間たちの中には、実は人間じゃない者もいるということを言っている」
「悪魔が人の姿をしているという意味……ですか? あなたもわたしも暴力祈祷師です。人のツラをした悪魔なんていつも目にしているでしょう? 人間に化けている悪魔だって見てきたでしょう?」
「まあ、そうなんだが……、そうなんだが……。いや、そういう意味じゃなくて……」
 歯切れの悪い沢木だが、次の言葉に御殿は耳を疑った。
 
『この人間界に、本当は人間なんて存在していないんじゃないか――?』
 
 ポカンと口を開く御殿の手前、沢木は話を続けた。
 
「例えばよ、今までの人間界では正体不明の力が働いていて、その力がこの世の生物を人の形に見せていたとする。だが、何かのきっかけで正体不明の力は効力を失い、今まで人間の姿として見えていた者たちは本来の姿に戻っているんじゃないかって……」
「まぼろしを見せるような力が我々を騙し続けているという意味ですか? ハリウッドもビックリですね。アルコールを控えたほうがよろしいのでは?」
 御殿はあきれ顔で沢木の戯言ざれごとを一蹴した。が、それでも沢木は食い下がらなかった。
「そんな悲しい目で見ないでくれ。俺だってこんなことは言いたくないし思いたくもない。だが連日の魔界化の数はどう考えても異常だ。魔界化の多さがそういった効力を発動しているんじゃないかという憶測を立てたわけだが、実は気になることがある」

 この世界に人間は存在しない――。

「なぜ突然そのようなことを思ったのです?」
 御殿の問いに沢木が身を乗り出し声をひそめた。まるで密会だ。
「咲羅真、『サタンコンパイル』という言葉を聞いたことあるか?」
「サタンコンパイル? いいえ、初耳です」
「人が死んだ後、閻魔様が死亡者の前で過去の行いを映す鏡があっただろう?」
浄玻璃鏡じょうはりきょうのことですね」

 浄玻璃鏡――死後、閻魔がその者の生前の行いを鏡に映して善人か悪人かを見極めるために使うシステム。そのジャッジは死亡者の前で行われ、そこで天国か地獄かの行先を決める。しかしながら世の中は善悪で割り切れるほど単純ではない。あくまでファンタジーである。

「――ああ。その浄玻璃鏡の前ではどんなに着飾っても真実の姿が映し出されるために嘘は無効化される。サタンコンパイルは、この世を真の姿に変換する現象と言われている。まさしく浄玻璃鏡――その現象は魔王の心眼そのものさ」

 世の中なんてものは一人ひとり違って見えるもの。見る人にとっては天国にも地獄にも見える世界だ。個々人の脳が作り出す情報によって認識される世界が、その者が見ている世界のあり方である。
 しかしだ、沢木が言っているのは感じ方や認識の違いではない。

 御殿が息をのみ、ゆっくりと言葉を吐く。
「――つまり、低俗な人間は餓鬼のような姿に変わり、ライトワーカー達には天使の翼のようなものが生えたりする……という意味でしょうか?」

 ライトワーカーとは、人々を良い方向に導くために天から使わされた人間のこと。この世の平和を願う者たちであり、苦しんでいる人や動物、自然に思いを馳せ、積極的に手を差し伸べる者たちのこと。人間ではあるが、天使や天界の使者とも言われている。

「そういうことさ。俺なんか若い女全員サキュバスに見えるぜ? いっつもおっぱいブルンブルンさせながら俺のことを誘惑してきやがる。おまえもサキュバスなんじゃないか咲羅真? おっぱいブルンブルンさせちゃってよぉ」
「……」
 セクハラおやじに対して御殿は無表情。相変わらず冗談は通じない。
「……咲羅真は壊れたブーブークッションに見えるな」
 御殿のこめかみに青筋が浮かんだ。そんなアイテムにはなりたくない。

 閑話休題。

「――ゴホン。冗談はさておき。対象物ってのは見る者の視点、つまり認識の結果から対象物の価値が確定される。だがサタンコンパイルの場合、誰かが認識するしないの問題ではないんだ。容姿が人外になってしまうために、誰しも目に映った人外を人外だと認識せざるを得ない。己の存在を偽ることができない世界。言いようによっては、とてもわかりやすい世界ともいえるな」
「魂が反映された世界……」
 御殿はその言葉を吐いて、それからは言葉を発することはなかった。天使と悪魔が闊歩する世界、果たしてそこは平和な世界なのか? ――否。天使と悪魔はわかりあえない。戦争が始まるのは目に見えている、血の海が広がる世界。もはや地獄そのものである。

 果たして沢木の言葉は酔狂なものなのか? もしそれが事実だとするなら、いつも鏡に映る自分は本当の姿ではないというのか?

 妖精は妖精に。
 天使のような者は天使に。
 悪魔のような者は悪魔に――。

 この先、人間界ではそのような現象が起こるというのか?
 心が形を作り出す世界。人皮がはがれて、すべてが明るみになる世界。それは天国か、地獄か。
 魔界化は人間界を魔界に変えるための現象だ。沢木の言うことが正しいとするなら、乳羽の魔界化は、魔界化以外の別の何かが始まる予兆の可能性が高くなってくる。
 思い返すはババロア・フォンティーヌのこと。晴湘市を汚染し、ゲッシュ界へと変えようとした取り組みがそれに近いのかもしれない。となれば、酔酔会すいようかいにつながる可能性まででてくる。
 サタンコンパイルという変換現象が起これば、世界はたちまち混乱してしまう。人々は目に映るものがすべてだから、バケモノを目にしたとたん逃げるか攻撃をはじめるだろう。

 人間界の崩壊がすぐそこまで来ているのか? ――御殿は、そんな未来を想像しては身震いした。


聖色市の異変


 聖色駅前――。
 濡笑ぬわらエリアに戻ってきた御殿。女子寮前で想夜と別れた後のことを思い出しては、気まずい顔をしながらベンチに腰をおろす。
 週末は想夜とクレープを食べに行く約束をしていた。にもかかわらず無情なドタキャン。双葉と萌香のことが心配ではあれど、寂しそうな想夜の背中が頭から離れない。女の子を怒らせたあげく、ワイズナーで背中から刺されても文句は言えない。
「どこかで想夜との食事の時間を作らないと……」
 罪悪感ゆえ、脳内では悶絶したチビ御殿がポカポカと自分の頭を殴り続けていた。

 端末のスケジュールアプリはどれも仕事関係で隙間なく詰め込まれており、日課に戦闘訓練まで組み込んである。トレーニングの積み重ねが暴魔に対抗できる体を仕上げている。さぼれば負ける。負ければ死ぬ。死と隣あわせの暴力祈祷師が消えた先に待っているのは、魔物に侵略された世界。世界が魔界と化す。それが御殿を仕事人間にしている原因でもある。
 聖色市を訪れる前はダブルブッキングなど皆無だった。だというのに、プライベートが充実したことにより、御殿は仕事人間から卒業しようとしている。それは御殿が兵器ではなく、ひとりの人間であるという意味でもある。
 誰かと共に笑い、泣き、そうやって日常を送る。いつか想いを寄せる人もできるだろう。そうともなれば、おしゃべりしてオシャレして、胸躍らせながら外食なんかもしたりして。端末とにらめっこしながら、既読つくたびに一喜一憂したりして……。
 誰にでもある日常――御殿にだってそれは許されるはずだ。

「えーと、来週のこの時間をこっちにずらせば何とかなるかも……」
 端末を操作しながら、細かい日程を調整しつつ隙間時間を作れるよう頭を悩ませた。
「――双葉と萌香さんを探し出さすのが優先だし、うーん……」
 誰かを優先すると誰かを雑に扱うことになりかねない。タスク管理がこんなに大変と感じたことはなかった。それだけ大切な絆が増えたのだ。

 御殿が独り言をつぶやき続けるさなか、繁華街の一角で騒ぎが起こる。

「火事だ!」
 通行人のひとりがビルの一角を指をさすと、周囲の視線がいっせいにそちらに向けられた。
 御殿の30メートル先の路地が人混みで埋め尽くされ、上空を黒煙が覆いつくしている。
 何事だろうか? まさか双葉と萌香が事件にでも巻き込まれたのか? 不安にかられる御殿が人混みをかき分けながら前進してゆく。
「すみません、通ります」
 野次馬の群れに手や肩を割り込ませ、もみくちゃにされながら、やっとのことで抜け出したところで足を止めた。

 ビルが連立する路地の隙間を端末カメラで撮影する人々――アスファルトの一部が真っ赤に染まり、それが遠くの方に点々と続いているではないか。

「熊よ! 熊が出たのよ! こんなおっきいやつ!」
 両手いっぱいに広げて大げさアピールする女性。
「いや、あれは人間くらいのオオカミだった! 間違いない! そもそもオオカミの生体というのはブツブツ……」
 興奮さながら、学者気取りの男性。
 羽が生えていた、獣のように太い足だった、井戸から出てきたような女だった、頭が3つあるケルベロスのようだった――各々おのおのが好き勝手に騒ぎ、わめき続けている。
 信憑性のある話といえば、建物内に逃げ込んだ動物に対して誰かが火炎瓶を投げつけたとのこと。それが建物に引火し、消防車が出動する惨事となっているらしい。よほどのことがない限りは火など放たないだろう。暴魔でも現れたのだろうか?

 御殿は血の痕跡をたどりながら走り出し、入り組んだ路地でせわしなく視線を動かす。
「ここで血の跡が消えている……」
 しゃがみこんで地面を凝視する御殿の前、角材を手にした数人の若者たちが通り過ぎてゆく。
「ちくしょ~、逃がしちまったぜ~」
「おまえアレ撮った?」
「がっつり」
「お~! アップしてバズらせようぜ」
「あれゼッテーモンスターだって。倒せばギルとか経験値ゲットでしょ」
 誰かを殴りつけたのだろうか? 角材の先にはおびただしい血が付着していた。
「あ、あの――」
 青年たちから事情を聞こうとした瞬間、端末にコミュニティからの緊急メールが届いた。

『日本各地で悪魔崇拝と思しき集団が活動を活性化。聖色市付近にいる暴力祈祷師は調査にあたってください』

 悪魔崇拝を行う新興宗教の出現が絶えなくてゲンナリする。人間そのものがこの世界を地獄に変えるために生息しているバクテリアなのではないだろうか? 人間のエゴに振り回される暴力祈祷師の姿がそこにはあった。
「悪魔召喚でも行っているのかしら? 案件から察するに賞金稼ぎバウンディハンターも出てくるかもね」
 仕事の争奪戦は常に起きている。

 ファンタジーオタクは抜きにして、世界各地にはびこる悪魔崇拝者は珍しくない。悪魔を崇拝する者たちは実在している。
 御殿が想夜と一線を置いているのはこれが理由だ。悪魔崇拝者の中には猟奇殺人に発展するケースも多く、警察や暴力祈祷師が突入した民家には、手足がバラバラに刻まれ臓器がリビング一面に散乱していたことだってある。中学生の想夜にそれを見せたくはない。
 狐姫と恋音は暴力祈祷師であるが故、そういう場面に何度か直面している。人間のやりたくない仕事を押し付けられる獣人は重宝される。場慣れした獣人は、ずる賢い人間に利用される。厄介ごとを押し付けられる動く玩具を欲している企業が無数にあるのだ。先日の金盛率いるレプラスタッフサービスがそれである。そして人間の中にも金盛のような存在は多く見受けられる。
 その一方で、御殿のように獣人を人として扱う者もいる。
 人も、妖精も、ひと皮剥けば何が現れるかわからない。悪魔が人の着ぐるみを被っていることは珍しくない。
 もしもサタンコンパイルによって人間の化けの皮がはがれる日が来ようものなら、世界は戦々恐々とするだろう。


ネイルの記憶


 21:30 ほわいとはうす――。

 帰宅した御殿を待っていたのは叶子と華生。気品あふれるオーラをまといながらリビングのソファに座っていた。キッチンでは華生が紅茶を入れている。勝ち誇った叶子の表情から察するに、双葉の捜索で何やら進展があったようだ。

「おかえりなさい御殿、やっと帰ってきたわね。いつまで待たせる気?」
「おかえりなさいませ咲羅真さま。お邪魔しております」
 フランクに接する叶子。続いてペコリとしおらしく腰を曲げる華生。そんなふたりを前に御殿がソファに腰をおろした。

「ふたりとも、こんな時間まで付き合わせてしまってごめんなさい」
「気にしないでちょうだい」
 叶子はそう言うと、瞼を閉じながらカップに口をつける。無表情――というより、やや難しい顔をしていることから、状況はよろしくないご様子だ。
 「なにか収穫があったの?」と御殿が聞く前に、叶子はカップをソーサーに置いて、テーブルの上で静かにどける。そこへ血の付いたネイルチップを差し出してきた。 
「これは……双葉のネイル? これをどこで?」
 御殿が前かがみになって一枚のネイルチップを凝視する。
「UFO道に落ちていたわ。双葉さんが誰かと接触したことは間違いないわね」
「萌香さんと会えたということ?」
 御殿の言葉を聞いた叶子があきれ顔を見せながら首を左右させた。
「それを調べるのがあなたの役目じゃなくて?」
 そう言って御殿の手を指さす。

 御殿のハイヤースペック・レゾナンスは物体の記憶を読むサイコメトリーができる。ネイルチップの記憶をたどれば双葉に起こった過去の出来事を見ることが可能――それを促しているのだ。

「――なるほど。レゾナンスがあったか」
 御殿は右腕の袖を肘までまくると、横に振りかざして詠唱する。 
「アロウサル。ハイヤースペック・レゾナンス――」
 八卦の能力を発動――ネイルチップに指先がふれた瞬間、御殿の脳裏に双葉のビジョンが浮かび上がった。

 ビジョンの中、そこは聖色駅前だ。
 人混みの中、血相を変えた双葉が走る。
 駅前にたどり着いた双葉はすでに息を切らしていた。それだけ萌香のことが心配なのだ。
 キョロキョロと周囲を見渡したあと、UFO道に続く階段を駆け上がってゆく。
 ドーナツ状の空間には誰もいない。 ――いや、シャッターの下りたショッピングモールの入口付近に小さな人影が見える。
『萌香!』
 その名を叫ぶ双葉が萌香に駆け寄り、萌香もそれに合わせて走り出す。
 ――抱擁。ふたり、つよく、つよく、抱きしめあう。互いの肩に顔をうずめながら……。
『バカ萌香、心配したんだからな!』
『ごめんなさい。こんなことにあなたを巻き込んでしまって……』
 これ以上ないとこうほどに萌香が申し訳なさそうに顔を歪め、そして涙した。萌香が抱く双葉への気持ちがそこにあった。
 涙する萌香とは反対に、双葉はニシシと笑い、萌香の頭を撫でながら諭した。
『ほんとだよっ、めちゃ心配したんだからなっ。 ……で、なにがあったん?』
 萌香の不安はとっくに消えていた。そのくらい優しい笑顔をした双葉の包容力は大きく感じられた。
 それでも萌香は口をつぐんで顔をそらす。
『ごめんなさい。今は……何も言えないの』
 そうして懐から手帳のようなものを取り出すと、自動販売機の裏に投げ捨てた。続けて双葉のネイルをはぎとると、壁にかけられたデジタルサイネージの上に張り付ける。日頃、双葉は粘着テープを使って爪にネイルチップを張り付けている。ネイル用テープはトリモチのように粘着性が高く、2回程度の脱着なら可能だ。家事をする彼女にとって、いつでも脱着できるので重宝してると先日言っていた。当然ながら、双葉といつも行動している萌香もそれを知っていた。
 とても見えやすい位置に固定されたネイルチップ。通行人の目線のやや上の位置、簡単には手が届かない高さだが、誰の目にも留まり、誰も興味がわかないほどに目立たない張り付け方だ。
 次の瞬間、レゾナンス発動中の御殿と萌香の視線が合った。

『御殿さん、あとのこと、よろしくお願いします――』
 萌香のとても悲しそうな、それでいて微かな笑みが御殿の脳に焼きついた。希望と絶望が合わさった表情だった。
 消えゆく恋人同士のワンシーンが上映されているようでもあった。

 ――そこでネイルチップの記憶からふたりの姿が消えた。

 御殿はネイルチップから指先を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
「なにか情報は得られて?」
 叶子が興味津々に聞く。
「ええ。今からUFO道に行ってくる。留守番おねがい。すぐ戻る」
 帰ってきたばかりの御殿だが、ふたたび玄関を飛び出していった。
 本日も暴力祈祷師は忙しい。


 聖色駅前――。
 帰宅ラッシュはとうに過ぎ、町は人気も少ない。酔っ払いの団体がちらほら目につくくらいだ。
 御殿はUFO道の階段を駆け上がるとドーナツ状の歩道橋内に入った。
 ガランとした空間内――隅に設置された自動販売機に近づくと、壁との隙間に手をすべりこませ、これでもかと言うほどに腕を伸ばした。
「もうちょい奥か……」
 グイグイと肩と腕を押し込んで地面をまさぐると、指先に何かがふれる。
「――あった」
 指先を起用に動かして手帳のようなものを引っ張り出す。
「これは萌香さんの身分証ね。妖精界のものかしら? これをリーディングしろってことか」
 ハイヤースペックの連発は生理中の肉体にはハードだ。疲労が蓄積された体にさらなる負荷をかけることになるため、今後の戦闘への参加も困難になってくる。おまけにバイクも修理中。あらゆる武装が排除されてゆく感じがして不安にかられる。それでも御殿は自分の羽をむしる気持ちで力を使うのだ。

 フェアリーフォース、ワイヤード、PHEGINOSフェギノス、天上人、ミルキィ・マキアート、頼禅星斗七らいぜん せどな……大量の情報の渦がビジョンとなって御殿の脳裏に入ってくる。
 あまりの情報量を前に、何から対応すればよいのかわからなくなる。
「ミルキィ・マキアート? エクレア・マキアートの関係者が人間界にいるというの?」
 さらに御殿を困惑させる情報も出てきた。
「……8人目の八卦――?」

 身分証の記憶によれば、萌香と頼禅という少女は8人目の情報を知っているらしい。8人目の情報が出てきたということは、すでに7人目に近づいているということだ。
 ペンダント化されたデータである『天の八卦』は、エクレアとの戦いで紛失したと麗蘭れいらから聞かされている。もし、ペンダントが誰かの手に渡ったとすれば、それが7人目、あるいは8人目になっている。頼禅という隊員がミルキィ・マキアートを探しているとすれば、おそらくはそのミルキィが7人目の八卦である線が濃厚――と、御殿は推測する。

「萌香さんから直接話を聞きたいけど、体に巻かれたワイヤーが邪魔して何も話せないのね。それを先に解除しなけばならないってことか。だけど、ワイヤー1本を切れば残りのワイヤーが連動して萌香さんの命に関わる。となれば――」

 当然ながら、御殿は5本のワイヤーの同時切断を考える。が、仲間たちの力を合わせてタイミングよくワイヤーを切断しなければならない。そんなことが可能なのか?

「朱鷺さんの絶念刀、想夜のワイズナー。それから……それから……狐姫のマグマ? リンさんのスプライトマイン?  ――いや、どう考えても5本のワイヤーを一瞬で解除するのは至難の業。0.01秒タイミングが狂えば萌香さんの肉体はバラバラに刻まれる。5本のワイヤー全てを一瞬で解除できる方法を探さなければ――」
 御殿の顔に焦りの色が見え始めた。
「ひとまず、ほわいとはうすに戻りましょう。その前に……」
 御殿は端末を取り出し、麗蘭に連絡を入れた。


ハコブネ


 22:30 ほわいとはうす――。
 
 御殿がリビングに戻ると、そこには叶子と華生、それから麗蘭と埴村瞳栖ばにら あいすの姿があった。

 フェアリーフォースからやってきたワイヤード・頼禅星斗七。星斗七が探しているミルキィ・マキアートと使徒2名。そして残り2人の八卦――それらの情報を萌香の身分証から読み取ったことを、御殿は一同に伝えた。
 当然、ほわいとはうすに呼び出した麗蘭と瞳栖からミルキィの詳細を伝えられる。麗蘭がシュウとクリムから聞き出した情報を総合すると、ミルキィが天の八卦なのは明白だった。すなわち7人目の八卦ということになる。

「天の八卦――ミルキィ・マキアート。エクレアの意思を受け継いだ者――」
 瞳栖の血を引いたミルキィ。その存在を知った御殿、叶子、華生も驚きの表情を隠せなかった。
「瞳栖さんの子供か。難儀な状況になっているわね――MAMIYA研究所から盗み出されたトロイメライがそんな姿に生まれ変わっていたなんて知るよしもなかったわ。彩乃さんに報告したほうがよさそうね」
 難しい顔を見せる叶子が端末を取り出し、彩乃にメールを送った。

 瞳栖は陰りある表情のままうつむいている。「うちの子知りませんか?」との文字が顔じゅうに書いてある。そんな暗い表情をしている。わが子が何時になっても帰ってこない時の母親のようでもあった。

 御殿がジャケットを脱いでネクタイを緩めた。走り回っているので少し汗をかいている。
「まさかエクレアの側近だった使徒と出逢っていたとは驚きです」
 麗蘭がため息をつく。
「ああ、私も驚いた。それにフェアリーフォースがミルキィを躍起になって探しているだなんて聞かされていない。ワイヤードの単独行動か?」
 フェアリーフォース内部に亀裂が生じているのは重々承知している。まとまりのなくなった軍事勢力が今のフェアリーフォースだ。そこに危機感を抱いている隊長格は麗蘭以外にもいる。気に入らない部隊への情報遮断が行われているならば、こんなにやりにくい仕事もないだろう。

 御殿から一連の話を聞かされた瞳栖がつぶやくように口を開いた。
「萌香さんのワイヤーを一瞬で切る方法ならあるのだけれど……」
 一同が一斉に瞳栖を見た。
「本当ですか、瞳栖さん?」
 問う御殿に瞳栖がうなずく。されど自信なさげである。
「ええ。ディメンション・エクスプローラーを使って霊界からワイヤー5本のプログラムを同時に切断すれば簡単よ。霊界で生まれた情報が物質世界こちらに投影されているから、投影前に霊界でのプログラムを書き換えてしまえば一瞬で解決できる」
「なるほど。その手があったわね」
 うなずく叶子。
 でも瞳栖の表情はおもしろくなさそう。
「けれども、その方法をおこなうには並列処理を行う必要がある。並列処理は経典が完全な形でなければならない。この不完全な経典でできることはマルチタスク処理。マルチタスクは複数の処理を交互に行うので、ワイヤー1の切断処理に当たっている最中にワイヤー2が発動してしまう。これでは無意味なのよ。つまり1食分のおかずを交互に食べるのではなく、1食分を同時に口に詰め込んで消化する作業といえばいいかしら」
 そう言って半分にちぎれた経典を取り出した。分厚い経典の後半ページがなくなった不完全なアイテム。後半ページが完全に欠落している状態では古本屋でも買い取ってもらえない。
 瞳栖が把握している以外にもディメンション・エクスプローラーの能力は多彩に備わっており、その力は計り知れない。でも古本屋でも買い取ってもらえないほどに無残な姿の経典がそこにはある。

「経典の残り半分は、先日ピコット村にたどり着く前にエクレアに奪われてしまった。シュウとクリムに聞いてはみたけど、残りの経典は持ってなさそうだった」
 ふと、麗蘭の脳裏にエクレアとのラストバトルが蘇る――天高くそびえたつ黒き巨塔の内部、麗蘭とエクレアは絡み合うように真っ逆さまに落下しながら死へのカウントダウンを数えた。その時にエクレアが言っていた言葉も同時に思い出した。


『京極麗蘭、はヤく、キサマ、の、名、を、コノ、経典、に、刻、メ……』

『――トモに、ともに、箱舟、ニ、乗るノだ。神に、身ヲ捧げる、ノダ――』



 麗蘭の鼓膜は覚えている。メタル装甲の悪魔から恐ろしいほどの握力で頭をおさえて込まれ、その言葉を耳にしたことを――。
「――あの時、エクレアは私の名を経典に刻もうとした。あれはどういう意味だったのだろうか?」

 顎に手を添えて考える麗蘭。今になって、エクレアが経典を差し出してきた理由に注目が集まる。

「そもそもエクレアは隊員をどこへ導こうとしていたのだろう? ナノマシンを用いたコントロールはただ政府を支配したいがための洗脳だったのか? フェアリーフォースを支配した先に何を築こうとしていたのだろう? 経典に名を刻ませることが狙いなら、なぜ全隊員にそれを行わなかったのだ?」
 エクレアはナノマシンをフェアリーフォース隊員の体内に流し込み、人格制御をおこなっていた。経典はただのコントローラーだったはず。誰かの名を刻むだなんて初耳だ。
 自問自答をする麗蘭に瞳栖が答える。
「エクレアが特別な隊員を厳選していたとすれば、麗蘭はその条件を持っていたのではなくて?」
「私が選ばれる条件? 隊長だからか? ……いや、それならマデロムにも声がかかっているはずだ。箱舟は巨漢だと重量オーバーなのか?」
 どさくさに紛れて失礼なことを言う。

 エクレアがご執心なのは麗蘭だけだった。他の隊員には余計なちょっかいを出していない。それは間違いない事実だ。

「『箱舟に乗る』とか、『もう一度出逢う』とか言ってたが、どういう意味なんだろう? まるでチンプンカンプンだ」
 麗蘭は思考なかばで投げやりになり、考えることをあきらめてしまった。
 そこで麗蘭の言葉を聞いた御殿がハッと顔を上げた。
「箱舟?」
「ああ、エクレアは確かにそう言っていた。 ……咲羅真、なにか知っているのか?」
 御殿はすぐさまPHEGINOSの身分証を取り出した。
「萌香さんの身分証をリーディング中、ビジョンの中に『ハコブネ』という言葉が聞こえたの」
 一同の視線が御殿に向く。
「ほお。ほかにハコブネについて何かわからなかったか?」
 麗蘭に問われた御殿は、さらに深く思い出す。
「え、と……、たしか……」

幾日いくかのひ、ハコブネ 神垂かむしたる――』


「――という言葉が聞こえた」
 それを聞いた叶子が首をひねる。
「近いうちに箱舟が来るということ? ノアの箱舟? 大洪水でも起こるというの?」
 叶子につられて周囲の者も首をひねった。

 麗蘭が少し考えてから言う。
「経典に名前を書けば箱舟に乗れるという意味では? 経典はパスポート的な役割とか? 瞳栖、経典にそういう能力はあるのか?」
 その問いに瞳栖が答えた。
「――わからない。私も八卦になってから日が浅いの。地の八卦は経典に記述されたプログラムとの契約でなされている。八卦だからと言って、八卦のすべてを理解しているわけではないの。そのことは他の八卦も自覚しているはずよ」
 一次的にエクレアが経典の半分を所持していたため、エクレア自身も地の八卦として成り立っていた。ディメンション・エクスプローラーを使うエクレアとの戦闘で麗蘭が苦戦を強いられたのは記憶に新しい。

 エクレア戦の際、麗蘭は経典をエクレアの口に突っ込み、その顔面を殴りつけた。その後、経典がどうなったのか? ――思い出そうにも思い出せない歯がゆさに、麗蘭はイラつきを覚える。

「経典を最後に見たのは黒い巨塔だ。しかしエクレアは私が傀儡街で始末した。レールガンレーザーユニットで頭部を木っ端みじんに吹き飛ばしたはずだが、その際、奪われた経典も消し飛ばしてしまったかもしれない」
 それを思い出しては麗蘭の気が重くなった。自分はとんでもないことをしてしまったかもしれない、と青ざめている。
 落胆する麗蘭の肩に瞳栖がそっと手を添えた。
「あきらめるのは早いわ麗蘭。ミルキィあの子もあの場所にいたんですもの。何か知っているかもしれないわ」
「……そうだな」
 麗蘭は添えられた瞳栖の手に自分の手を乗せ、瞼を閉じた。大切な人の子の身を案ずる自分がそこにいる。それを自覚する麗蘭だった。

 御殿が口を挟む。
「萌香さんはミルキィを拘束して8人目の情報を聞き出した直後に、ふたたびミルキィを奪還することを考えている。だから私たちもミルキィを探し出せば双葉さんと萌香さんに会えるかも」
 御殿の言葉を聞いた麗蘭の瞳に光が宿る。
「皆ゴールは一緒というわけか。よし、力を合わせて彼女たちを見つけ出そう」

 麗蘭は空を飛べて、瞳栖は空間移動ができる。叶子と華生も手を貸してくれる――バイクを失った御殿であっても百人力だ。こんなにも周囲の力に頼ったことはあっただろうか? 思い返してみれば晴湘市せいしょうしでの生活がまさにそれだった。
 自分が強かろうが弱かろうが、周囲に助けを求めるのは正しい選択だ。誰しもできる限り大切な人の力になりたいと考えるし、大切な人から頼られるのは嬉しいもの。御殿だって人間だ。大切な人たちの力になれることに喜びを感じられる普通の人間だ。
 ババロア・フォンティーヌから晴湘市を奪還し、多くの魂を開放した今、御殿は過去に自分に与えられていた人々のぬくもりを再認識している。
 他者と距離を置き続けてきた御殿は今、多くの者たちに囲まれ、支え合っている。いつまでも忌まわしい過去は続かないという証でもある。今の状況のように――この世界が壊れてしまうことを微塵も願わない。御殿は、暴力祈祷師の道を胸を張って歩いてゆける。

 端末を手にした叶子が御殿に声をかけた。
「――彩乃さんから返信がきたわ。話したいことがあるそうよ。御殿、すぐにMAMIYA研究所に向かってちょうだい」
「わかった。こんな時間までいてくれてありがとう叶子。帰ってゆっくり休んで。華生さんもね」
「そうするわ。帰りましょう、華生」
「かしこまりました、お嬢様。それでは皆様、おやすみなさいませ――」
 周囲に深々とお辞儀をする華生。叶子とともに玄関に向かいロックを解除した。その時だった。

 ばたーん!

 玄関のドアが勢いよく開き、通路で仁王立ちしたすみれのご登場! 菫は「待たせたわね!」とでも言わんばかりのドヤ顔をして部屋にズカズカと入り込んできた。尖らせた肩を左右に揺らしながら、のっしのっしと歩く。吊り上がった目が「私、怒ってるんだからね!」という心境を物語っている。額に怒りマークが6個くらい付いているではないか。
「あら菫さん。こんばんは」
「こんばんは叶子ちゃん。今忙しいの、後にして」
 ぶっきらぼうに返事する菫が挨拶そっちのけでスタスタと奥まで突き進む。
 憤怒している菫を横目で追う叶子と華生だったが、ただならぬ空気に息をのんでいる。
 リビングに到達した菫は御殿と麗蘭を指さすと、挨拶そっちのけで一気にまくしたてた。
「ちょっと、ふたりとも! あなたたち私の想夜にひどいことしたでしょ!」
 ひどいこと? ――御殿と麗蘭が互いの顔を見ながら、首を傾げて思い出す。するとどうだろう、あれやこれや……。想夜への無茶ぶりが走馬灯のようにあふれ出してくるではありませんか。
「御殿ちゃんも麗蘭ちゃんも、そんな気まずい顔するってことは心当たりがあるわけよねえ? あるわけよね!」
 ものすごい形相で大切なことを2回言ってきては、案の定、想夜の不遇な対応を指摘し続けた。
「いい? 想夜はまだ中学生なの。子供なのよ? それをふたりして約束やぶったりこき使ったり。仕事だの任務だのって、そんなの免罪符になりませんからね! 少しは女の子の気持ちも考えなさいよね!」

 御殿と麗蘭が視線を合わせ、叱られた子犬のようにシュンとなっては申し訳なさそうに互いの出方を見る。想夜に対しては日頃から負担をかけているという自覚もあるし罪悪感もある。それが態度にはっきり出ていた。

 ふたりの煮え切らない態度に菫も激おこ。鞭のように鋭い声がビシバシ響く。
「――わかってんの⁉ ちょっとそこに座りなさい!」
「「……はい」」
 しぶしぶ床に正座されられる御殿と麗蘭。想夜のことを菫から聞かされると、もう何も言えなくなってしまう。御殿と麗蘭はさらに申し訳なさそうに肩を落とした。

 ガミガミガミガミ! ふじこふじこ! 菫の怒りはおさまらない。1分間に7,453文字くらいしゃべってるんじゃないだろうか?
 まさか夜遅くに怒鳴り込んできた市長から説教くらうとは思ってもみなかった。暴力祈祷師も隊長もタジタジである。

 言い訳がましく麗蘭が口を開いた。
「しかし我々は軍人だ。軍人たるもの甘えは――」
 オーケー麗蘭、おまえはクールなチャレンジャーだ。が、周囲には返り討ちにあうのが見えていた。イキって論破される不良みたいな感じにも見えた。
 案の定、麗蘭の言葉を菫がさえぎる。
「想夜は軍人の前に女の子なのっ。心にパワーがなくなったら動かなくなっちゃうの、お花と同じで水をあげなきゃしおれちゃうのっ。あなた隊長でしょう⁉ 部下のメンタル壊してどーすんの?」
「そ、それは……雪車町なら無理なことは『無理』とハッキリ言うと思うのだが……」
 それを耳にした菫はさらに声をあらげた。
「今まであの子の何を見てきたの⁉ あの子がそんなこと言うわけないじゃない! あの子はいつだって他人優先の生き方をしているの。それはあなたもわかっているでしょう?」
 麗蘭は口をつぐんだ。
「……深く反省している」
「だったら明日、想夜に謝るって約束して」
「うぐ……」
「約束して!」
 菫にピシャリと言われた麗蘭は、振り絞るように言葉を発した。
「わ、わかった……約束する」
 
 当然のことながら、菫の矛先は御殿にも向けられた。
「御殿ちゃんも。暴力祈祷師のお仕事も大変だろうけれど、いつも想夜に甘えているってこと、理解しているわよね?」

 想夜の代弁者として言いたいことを出し切ったのだろう、もうその表情には大きな怒りが感じられない。御殿のことを諭すように、やんわりとした口調で、それでいて大切なことはしっかりと突き刺さすように言う。
 そんな菫の態度を前に、御殿も素直にうなずくしかなかった。想夜への甘えがすぎたのだ。親しい関係とはいえど、距離感を間違えたことによる無礼さ。とても申し訳ないことをしてしまったのだと反省している。

「……はい。想夜には、いつも感謝しています。クレープのこと、なるべく早めの埋め合わせをします。すみません――」

 御殿は他者の気持ちに鈍感すぎた自分を恥じた。まさか想夜がそこまで思い詰めていたなんて思わなかったのだ。
 想夜は、ご褒美が欲しかったのだ。どこかで給油しなければいけないほどにガス欠を起こしている。それを給油できるのは御殿だけ。
 暴力祈祷師は人間の邪悪な部分と向かい合う日々だ。妖精を巻き込まず、なるべく人間だけで片づけるのが理想的だ。だが、もっとうまい解決方法はあるはず。想夜との時間を作りながら任務もこなせる方法。御殿はそれを考える時なのだ。
(わたしが想夜に与えられるものってなんだろう?)
 妖精のことをたくさん教えてもらった。ならば今度は、想夜のほしいものを提示する時期なのだ。

 菫は我に返ったように呼吸を整えると、気まずそうに言う。
「私のほうこそ、まくしたてたりしてごめんなさい。でもね、想夜のあんなにも悲しそうな表情を見てしまったら、私もね、頭に血がのぼっちゃって……、それで……、やだ、こっちまで悲しくなっちゃったじゃない……」
 しまいには菫まで泣いてしまう。だって菫の脳裏に想夜の涙する顔が浮かんだのだから無理もない――ふだんから健気にふるまっている女の子が突然涙を流したのだ。それはただ事ではないと誰しも思うもの。菫自身も、もっと早く想夜のSOSに気づくべきだったと自分を責めている。
 子供は、都合のよいツールじゃない。戦に身を投じていること自体が異常なのだと認識すべきだ。
 子供のSOSは常に発信されている。SOSを受信されなかった子供の心はポッキリ折れてしまう。それを受信するのは、大人の務めだ。


天使たちの戯れ


 シュウとクリムがミルキィを目撃したのは数分前のこと。想夜をひとり残し、ビルとビルの隙間を飛翔し、マイあるじとの合流を果たす。
 しかしながら主であるミルキィは星斗七に追い詰められ、苦戦を強いられていた。両手足に絡まる無数の細いワイヤーの束が星斗七の掌から伸びてきている。

 高層ビルの屋上に舞い降りたミルキィは星斗七とにらみ合い、腰を深く落とした態勢で、身の丈ほどのワイズナーを構えていた。頼りないほどの鎌に変形させたワイズナーを両手で握りしめ、釣り人に釣られる魚のようにもがいては,、ワイヤーから逃れようと四肢を動かし抵抗し続けた。

 上空に視線を向けた星斗七が吐き捨てるように言う。
「ふん、使徒のご登場か」
 高層ビルの屋上。今度はシュウとクリムが小さな羽をパタパタさせながら着地する。
「「ミルさま!」」
 シュウ、続いてクリムがミルキィのもとへと駆け寄り、対峙する相手を見てたじろぐ。
「フェ、フェアリーフォース……」
 殺気に満ちた隊員を見たシュウがゴクリと息をのんだ。蜘蛛の巣のように張り巡らされたワイヤーはとても細いが切れ味バツグンだ。ビルを構築する鉄骨部分のえぐれ方を見れば誰でもわかる。
「ワイヤードですか。厄介なのがご登場ですね。わ、わかります」
 冷や汗のクリムがそう言って、星斗七の白翼を一瞥する。
(フェアリーフォースなのに天上人……?)
 天使なのか妖精なのか。目の前のワイヤードが異質すぎて、そんな外見もクリムの恐怖を煽った。

 ――星斗七の瞳は血の通っていない殺戮マシーンのように冷たい。そんな姿を前に誰しも背筋が凍りつく。下手に反撃しようものならワイヤーで四肢をバラバラに切断されかねない。

 星斗七と対峙するミルキィが横目をふたりに向ける。
「シュウ、クリム。どこにいたの? 吾輩、いっぱい探した」
 その表情にはかすかな安堵。されども窮地の状態ゆえ、すぐに険しい顔に戻す。
「シュウ、クリム。あの敵、とても厄介。吾輩もハイヤースペックを使う。サポートモジュールおねがい」
「ガッテンでさぁ!」
「あいあいさー」
 元気いっぱいのシュウ。気の抜けた返事のクリム――ふたりが互いの手を取り合う。マイ主のためなら、ふたりとも殺る気満々だ。

 ミルキィがワイズナーの矛先を星斗七に向け、瞼を閉じ、汚れたマフラーに手を添える。

「――アロウサル」
 静かに詠唱し、瞼をカッと見開いた。

「ハイヤースペック・ミルキーウェイ」

 小鳥のように静かに口にしてハイヤースペックを発動させた瞬間、体を丸めたシュウとクリムの足元が屋上から離れ、ボーリング玉ほどの大きさとなって発光。小さな妖精の姿となり、ミルキィのまわりを飛び回る。
「――クリム、悲零ひこぼし
「あいあいさー」
 ミルキィの一声でクリムがワイズナーに便乗すると、ワイズナー中央の矛先が長く伸び、2枚の刃のうちの1枚が接続箇所からグルリと向きを変え、液体金属のようにグニャリと広がっては、たちまち大鎌に変形する。
 大鎌のワイズナー。されど先ほどの大鎌とは一味違う。エーテルでコーティングされた鎌は威圧的な存在感が生まれ、その頼もしさたるや、まるで巨人が携える武器のようだ。
 ミルキィは小さな体で大鎌を真横に一振りすると、星斗七から伸びるワイヤーを切り裂いて自由を得ることに成功する。

 星斗七は目の前を飛び交うミルキィを鋭い眼光で追った。眼球から大脳に情報が届いた頃には分析は終了している。
「――へえ。ハイヤースペックにサポート機能を実装しているのか。上層部からオールレンジ型の八卦とは聞いていたが、護衛にいろいろとサポートさせているな」

 星斗七がイラつきをぶつけるよう右腕を下から上にフルスイングさせると、幾本ものワイヤーが分厚い床を突き破って飛び出してきた!

「カラクリがわかればどうということはない。ゆけ! サスペリア!」
 星斗七が叫んだ瞬間、剣のように尖ったワイヤーがシュウとクリムに襲いかかった!
 一撃目はシュウの額をかすめ、二撃目はクリムの二の腕を貫通。
「ぎゃっ」という悲鳴とともにクリムが地上にあえなく落下。
「クリム!」
 二の腕を貫通したワイヤーがクリムの肉片をえぐり取り、あたりを真っ赤に染め上げた。サイボーグといえど鉄分を含んだ鮮血。たちまちあたりに鉄臭さが充満する。
 クリムの腕から機械の一部が見え、関節がショートしながら火花を散らしている。
 それを見た星斗七は両腕でワイヤーを引き上げる。
「天上人の生き残りは新型トロイメライとサイボーグ妖精――と聞かされていたが……、まがいものが天使だの妖精だのと自称するのは聞いて呆れる」
 そう言うと星斗七はワイヤーをクリムの首に巻き付ける。首を切り落とすには効果的なやり方である。
「シュウ、檻陽おりひめ
 ミルキィの声が天空に響くと、冷徹なワイヤードの背後に無数のかまいたちが押し寄せる!

 ズガガガガガガ!
 荒れ狂う風の弾丸が星斗七の腕や太ももをかすめた、

「――‼」
 制服とストッキングに一筋の亀裂が走り、肌が露出。裂けた皮膚から真っ赤な血しぶきが舞い上がった。
 星斗七の視線の先ではミルキィがワイズナーの矛先を向けていた。ワイズナーには小さなシュウを乗せており、その銃口から煙が吹き出し、なおも狙いを星斗七に絞っている。
「ガトリングザッパーだと? 通常のブレイドモードにそんな実装もできるのか」
 ガトリングザッパーの弾丸はエーテルから作成される。終始シュウのエーテルから生み出される弾丸はミルキィのワイズナーに送り出され、エーテルが続くかぎり撃ち出される仕様だ。

「使徒に弾丸を転送させているのか」
 ガトリングザッパーの弾はエーテル供給によってリロードされる。となればシュウを仕留めればガトリングザッパーは使用できなくなる。その答えを瞬時に導き、手首から放出した数本のワイヤーでミルキィのワイズナーとシュウをがんじがらめにした。
「やべっ、捕まった!」
 シュウがもがくも、ワイズナーに絡みついたワイヤーは決して切れる気配がない。
 巨大なカジキを釣り上げるようにワイヤーを引っ張る星斗七。
 ピンと張ったワイヤーから逃れようと必死にもがくミルキィとシュウ。
 両腕を忙しなく動かしながら無数のワイヤーを自在に操る姿は、まるで強靭な人形使いのよう。

 息を荒げていた星斗七が呼吸を整えた。
「貴様のハイヤースペックの分析は完了した。協力者の能力を武器に実装して強化する。それがミルキーウェイの能力だ。そして協力者は複数でも可能、武器はどんなものでも構わない。そう、協力者次第では落ちてる枝木でさえ日本刀レベルにまで強化させることができる。そんなところだろう。違うか?」
 ミルキィは何も答えない。ただ表情からは答えが取れた。
「ご名答といったところか」
 味を占めた星斗七は話を続けた。
「そして距離の概念を無視した攻撃、フェアリーリングを使用しない人間界への移動方法から考えられることといえば……貴様、地の経典を持っているな? すなわち天と地の八卦、ふたつの能力を所持している。それがオールレンジ攻撃の正体だ」

 にらみ合いの中、星斗七が勝ち誇る。
「妖精界で貴様らを襲った団体を覚えているだろう? あれはフェアリーフォースに大きく関与する民間の企業。とても巨大な組織だ。逃げられはしない」
 ミルキィとシュウが眉をひそめた。
「民間企業? どうしてただの企業がミーたちを狙うんでい!」
 シュウの問いに星斗七がニヤリとして答えた。
「1ついいことを教えてやろう。その民間企業は昔から政府を陰で支えてきた闇の一族が主力となっている。セキュリティをうたった事業といえば聞こえはよいが、妖精界でも秀でた暗殺部隊でもある。勢力の数ではフェアリーフォースのほうが上だが、政府も大きく出ることができない関係性にある厄介な企業だ。まあ、持ちつ持たれつといった関係か」

 どの国の政府にも汚れ仕事を引き受ける暗躍者は存在している。テロリストといった邪魔な存在を黙らせるには非合法的に消すのが一番手っ取り早い。フェアリーフォースも裏ではそういった取引が行われているのだ。先日メイヴが想夜のもとに送り込んだ赤帽子の殺し屋たちを覚えているだろうか? あれもその企業のエージェントである。

「そして、その企業の目的は世界を情報で管理すること。この上ない情報取得には情報空間を制御できる能力が必要不可欠。地の八卦は情報制御が可能と聞く。それを所持しているハイヤースペクターなら、狙われて当然なわけだ」

 そして星斗七がゆっくりと口を開いた。
「その企業の名は――」

 PHEGINOSフェギノス――。

 それを耳にしたシュウが眉をひそめた。
「PHEGINOS? 妖精界のシークレットサービスか」

 星斗七は顎に手を添えながら、少し考えるそぶりをみせた。その一瞬でさえ彼女の脳内ではあらゆる情報が交わり、鋭い洞察力を用いて高速で処理される。そうやって1つの回答を導き出した。
「……となるとエクレア・マキアートは……、そうか、エクレアとPHEGINOSはそういう関係だったのか。それが理由ならミルキィ・マキアートの体は理想的だな」
 独り言を続け、ひとり納得する星斗七。どうやらPEGINOSがミルキィを求める理由にたどり着いたらしい。それは地の八卦の能力以外にも関係してくる答えである。

 星斗七は右腕を天に掲げると、一言。
「あまりおしゃべりは好きではない。長話がすぎたようだ」
 突如、ミルキィが叫ぶ!
「シュウ、クリム! 上!」
 その瞬間、ふたりの少女が上空から奇襲をしかけてきた!
 シュウとクリムが間一髪で避けるも、床がへこんで大きなクレーターが出来上がる。
 奇襲者のひとりは明るめの髪をしたサイドポニーのギャル。首にワイヤーが巻かれている。もうひとりは長く伸びた黒髪を真っ赤なリボンで結った少女。四肢にワイヤーが巻かれている。
 奇襲者ふたりの攻撃から逃れたシュウとクリムだったが、その四肢には細いワイヤーが何重にもからみついて自由を奪われている。
 今度はシュウとクリムが叫んだ!
「「ミルさま逃げて!」」

「さようなら。出来損ないの使徒――」

 星斗七の冷たい声の後、ピンと張ったワイヤーが波打ち、高速に乱れ舞う。
 ヒュン! シュパッ、シュパシュパ!
 肉を、硬い骨格を、無情に切断する音が夜にこだました。
 突如として現れた少女ふたりの足元に、バラバラに切断されたシュウとクリムの肉片が散らばった――。


次回につづく――。