8 赤いスイートピー


 寝室にこもっていた御殿ことのがリビングに戻ると、想夜が心配そうに近づいてきた。
「御殿センパイ……」
「おまたせ。会社と連絡をとってて長くなってしまったわ」
「何かわかりましたか?」
「ええ、レプラは企業としても悪魔の巣窟だった」

 御殿は端末を取り出すと、過去のニュースを映して皆に見せた。

 レプラ・スタッフサービスは人の生き血をすするブラック企業だ。契約違反、不当解雇。数年前には、過酷な業務によって過労死した遺族から訴訟を起こされている。しかもレプラ側は圧倒的に不利な状況に追い込まれていた。

 狐姫が生唾を飲んだ。
「思った以上にやべえ会社だったな」
「ええ。けど裁判になる予定だったものが、遺族の失踪により中止になっている」
「失踪? どゆこと?」

 首を傾げる狐姫の手前、御殿が眉間にシワを寄せてうつむいた。

「金盛に消されている証拠をいくつかつかんだ。原告側は失踪する前にレプラの社員と町中で遭遇している。その後すぐに失踪」
「失踪ってまさか……」
 瞳栖あいすの予感は的中するものだった。
 御殿が険しい顔を作った。
「複数の男に拉致されたようね。町の監視カメラが記録していた。失踪した人たちはレプラで消息が途絶えたから、絵画に食われたものと推測できる」

 それを耳にした麗蘭れいらが首をゆっくりと左右させる。

「まるで焼却炉じゃないか。どうやら金盛という男は尋常じゃない精神の持ち主のようだな。妖精の風上にもおけん。咲羅真さくらま御殿、はやく身柄を抑えないと犠牲者は増える一方だぞ? フェアリーフォースとしては即急に片づけたい事件だ」
「善処する。わたしたち暴力祈祷師も他人事ではないから。でも赤霧が発生した今、レプラはもぬけの殻。社員たちは悪魔へと姿を変えて散り散りに逃走している」

 しばらくテレビのリモコンをいじっていたリーノが指をとめた。
「みんな観て! 大変なの!」

 一同がテレビニュースに目を向けると、スクリーンには暴徒化した市民が乱闘騒ぎを起こしていた。皆、赤霧に感染して我を見失っている。それらを取り締まる警察さえ感染しているもんだから収拾がつかない。市民を警棒で滅多打ち。あげくに銃を引き抜き追いかけまわしている。バカボンの警官が現実化したら笑いごとでは済まないってことが誰にでも理解できた。
 
「消えた悪魔たちを探そうにもこの惨事。不要な外出をすれば、すれ違った市民がいつ襲い掛かってくるかわからない。目が合っただけでも掴みかかってくる。地獄そのものね」
 瞳栖の話を聞いた継紗つかさとリーノが納得する。
「だから御殿さんの服がビリビリに破れているのですね。災難でしたね」
「ガクブルなの。玄関には黒い布切れが山積みなの」

 狐姫が玄関に目を向けると、ブラウス、ジャケット、ストッキングがボロボロの状態で積まれている。市民に銃を向けることを避け続けた結果がごらんの有様だ。
「資源ゴミの日まであのまま放置だな。経費で落とすには無理がありそうだぜ」

 不幸中の幸いなのが、絵画から吐き出された赤霧は流船駅周辺のみを覆うだけの量だった。そして赤霧は、時間経過とともに空気によって浄化されてゆく。問題なのは霧を吸い込んだ人たちだ。市民の体から赤霧を排出しないかぎり、事態は悪化の一途をたどる。

 継紗が何かを思い出した。
「京極隊長、例の壺をうまく利用できないでしょうか?」
「例の壺?」
 御殿が問うと、麗蘭が口を開いた。
「うむ、実はな――」

 麗蘭は赤霧を吸収する壺のことを皆に話した。それが大樽だいそんの壺である。吸引力バツグン。サイクロンなみの威力が売りである。

 今度は想夜が何かを思い出したように、御殿に目を向けた。
「大樽の……壺ですか? それってひょっとして……」
「たしか金盛が壺を大事そうに抱えていた。あれが大樽の壺ね」
 御殿が顎に手を添えて思い出している。
「大樽の壺を知っているのか?」
 麗蘭の問いに狐姫が答える。
「金盛が後生大事に持っていたのが多分それだぜ。暴力エクソシストを食らい、その血で赤霧を作り出す絵画。その赤霧を吸引する大樽の壺。金盛は2つとも持ってるってことか。最強かよ。ブクブク太ってるのは傲慢さの象徴。名は体を表すってか?」
 と舌打ちして毒づいた。

 継紗が御殿に問う。
「御殿さん、本当に暴力エクソシストを食べる絵画なんてあるんですか?」
「ええ。おまけに口の中は魔界が広がっている」
「魔界ですって!?」

 継紗が声をあげた。しれっと答える御殿の態度にも驚愕した。頭に『暴力』が付くだけで格が違いすぎると理解せざるを得ない。ただのエクソシストという考えを改めるばかりだった。

 御殿と継紗の会話が続いた。
「けど問題なのは金盛が言っていた言葉。それが引っかかる」
「金盛が言ってた言葉、ですか?」
「金盛は『神城博士を捕まえてはいるけど自由にはできない』と匂わせた。それが本当なら、神城博士は絵画の中にいるのかも知れない。つまり神城一家がそこで身をひそめている可能性はきわめて高い。けれど絵画の中は魔界。とても人が生き残れる場所ではない。だとすれば、神城一家が生き延びられる理由はひとつ。誰かに守ってもらっているとしか考えられない」

 そこに麗蘭が会話に割り込んでくる。

「その誰かとは?」
「先日、赤霧の中で白い大型犬サモエドを見つけた。あれは絵画の中の光景が映し出された姿と推測している」
「あ、あたしも確かに見ました」
 想夜が皆に訴えた。
「そのサモエドがどうかしたのか?」
 麗蘭の問いに御殿が答える。
「そのサモエドが神城博士を守っている可能性がある」
「そんなバカな。ただの犬が魔界で人を守っているだと?」

 鼻で笑う麗蘭に、御殿は淡々と述べた。

「さっきわたしが得た情報が正しければ、サモエドは妖精との関連性が高い」
「妖精だと? ハイヤースペックを発動できる犬なのか?」
「わからない。これからそれを確認しに行く」
 御殿は代えのジャケットを羽織ると武装を整えて玄関に向かう。もう一度団地の少女に会いに行くためだ。
「麗蘭さん、留守番お願いします」
「わかった。くれぐれも気をつけてくれ」

 一通りの話を終えた一同が、各自行動に移す。
 想夜、継紗、リーノは街の様子を見に行った。毒性の霧に耐久性がつく霞喰丸かじきがんを持っているので赤霧には対抗できるが、想夜は羽が完治していない。死霊と遭遇して戦闘になれば地上戦オンリーとなる。友達ふたりのサポートが支えとなるだろう。
 麗蘭と瞳栖はほわいとはうすで待機。
 狐姫は恋音を探しに行った。


 ほわいとはうすに残された麗蘭と瞳栖。静まり返った空間が恋心を支配する。

 分かっている。緊急事態だということは分かっている。だというのに……、だというのに!
 麗蘭は揺れる心を制御できないでいた。惚れた女とふたりきり。これはもうやる・・しかないでしょ!

 瞳栖がソファの距離をつめてきては、麗蘭にピッタリと肩をつけた。
「こうしてふたりきりになるのは、ハッピータウン依頼かしらね」
「う、うむ。まあ……、そうだな」

 麗蘭は関係ないほうに目をそらし、かるい咳払いをしては赤面する。相手の目を見るのが恥ずかしく、定まらない視線を部屋のあちこちに向けていた。はじめて好きな女子とふたりきりになったときの男子中学生のようだ。
 エクレアを始末した後、天空から落下してゆくその身を抱きしめてくれたのは目の前にいる天上人、瞳栖だ。完全回復が困難だった麗蘭の羽を復元させたのも瞳栖。瞳栖はいわば、命の恩人である。
 そして瞳栖からとはいえ、互いの唇を交わした間柄でもある。
 だから今度こそ麗蘭からブチューっとやる・・のだ! チュッチュするのだ! チッスをするのだ! さっさとやれよ、聖女を押し倒せ。
「黙れ外野」
 ……。

 男子中学生のようにキョドる麗蘭。
 それを不安そうに見つめる瞳栖
「あの時キスをしたのがそんなに嫌だった?」
 申し訳なさそうにする瞳栖。
 その言葉を聞いた麗蘭が声を荒げた。
「い、嫌なものか! ずっと……、会いたかったんだ。心配してたんだよ」
 ガーゼと包帯まみれの瞳栖に、麗蘭は優しく、そっと触れた。

 見つめ合うふたりが指を絡めた。
「麗蘭……」
「瞳栖……」
 くちびるが触れるかどうかの矢先、寝室から何者かがノソリとリビングに入ってきた。

「お、おふたりとも、ボクの存在を忘れてませんか?」
「「あ……」」
 赤面した水角がモジモジと、それはそれは申し訳なさそうな顔で訴えてきた。どうやら体から赤霧が抜けたらしい。回復してよかったねっ。
「え、なんですか今の態度。完全に忘れてたって顔してましたよね?」


ソレイユ


 流船団地――。

 沢木の情報だと、八卦プロジェクトには白い大型犬が候補としてあがっていたらしい。だがプロジェクト凍結後、神城一家が消息を経ったのと同時に大型犬も姿を消している。
 それらしき大型犬が赤霧の中で、御殿と想夜に目撃された。
 神城の連れた大型犬がサモエドであり、神城家で飼われていたとしたら、一緒に絵画に入った可能性がある。
 そしてサモエドがなんらかの能力を所持していたとすれば、能力を用いて主を守っているのではないか? というのが御殿の推測だ。

 もうひとつ。
 神城静也しずやには子供がいる。名前は沙耶。
 沙耶は命桜めいおう高校に通う学生で、神城とともに消息を絶っている。
 そして、これから会う向井奈美も命桜高校。
 赤霧事件の接点はここにあった。
 奈美は「行方不明になった友達を探しに赤霧に入った」と言っていた。
 沙耶が姿を消したのはスペックハザードが発令されてすぐのこと。そのことが御殿の不安をかき立てていた。

 流船に到着した御殿は、先日おとずれた団地に来ていた。手にした花束と手作りのお菓子は奈美のために。
 以前と同じ場所にバイクを停車し、敷地奥、棟の4階へと急いだ。


 団地の一室。玄関には向井と書かれた表札。先日、この家に住む奈美が悪魔に憑りつかれた。それを追っ払ったのは御殿と沢木である。

 散乱していた家具は元の状態に整理されているが、剥がされた壁紙は原型をとどめている。
 盛大に剥がれた奈美の爪が伸びるのは先のこと。包帯まみれの指先、体のあちらこちらの生傷がなんとも痛々しく、目をそむけたくなる。
 奈美は美術部。部屋には花、草木の油絵が飾ってあり、どれも画家の心を反映させたかのように明るい色合いだ。

 パジャマ姿の奈美は御殿の姿を見ると、ずり落ちたまん丸メガネを両手で上げ、慌てて頭を下げてきた。

「ここ、この前は助けて頂いたみたいで、その……、ありがとうございます!」

 深々とお辞儀をする奈美からは育ちの良さがうかがえた。ずり落ちたメガネを慌てて戻す天然さは、どんくさいけど可愛げがある。古びた団地住まいとはいえ、ここは人間の住む場所。悪の巣窟ではないのだと分からせてくれる。

「気にしないで。これも仕事だから」
 除霊代は沢木からもらっている。2000円。ちなみに獣人ふたりのランチ代で消し飛んだ。
 御殿は小さな紙袋を取り出し、机の上に置く。
「お菓子作ったから食べて」
「あ、ありがとうございます」
 ヘッドバンドのように勢いよく頭を下げる奈美。メガネがずり落ちると、それをふたたび手で直す。


 御殿は花瓶に水を入れると、持参した花を生け、それを奈美の部屋に飾った。
 花瓶は2つある。もう一つには真っ赤なスイートピーが飾ってある。どうやら先客がいたようだ。

 談笑も交えつつ、御殿がベッドの脇に椅子を移動して腰をおろした。
「病み上がりのところ無理をさせてしまってごめんなさい。答えられることだけ聞かせてもらえたら帰るから」
「あ、はい……じゃなくて、ごゆっくり」

 御殿がメモを取り出し、記者のように質問を始めた。

「まず初めにお友達について聞きたいのだけれど、その子の名前を教えてもらえるかしら?」
「え、はい。名前は神城沙耶です」
 沢木の情報は正しかった。
「沙耶は私と同じ学校に通ってるんです。クラスも一緒なんですよ」
「たしか同じ学校だったわよね?」
「はい。県立命桜高校です」
「ふたりとも1年生?」
「はい。沙耶、お母さんと暮らしていないから、家のことを全てこなしているんですよ。食事も洗濯もできる子なんです。すごいですよね。私も教えてもらってるんです。沙耶には感謝です!」
 奈美が両手を絡ませ、瞳を輝かせている。

 炊事洗濯掃除でここまで褒めてもらえるのか。狐姫にもこのくらい感謝して欲しかった――などとは……ちょっぴり思った。

「確か沙耶さん、お母様とは別居してたわよね」
 よその家庭の事情もずけずけと聞く。一刻を争うのだ、躊躇している時間はない。
「は、はい……、よくご存じですね。両親ともに仕事人間だから、夫婦ですれ違いが続いたらしくて別居したそうです。それで沙耶、ご両親の家を行き来しているんです」
「沙耶さんがお母様の家にいる可能性は?」
「ないです。沙耶のお母さんにも聞きましたが、なにも情報は得られませんでした」

 奈美が端末を握りしめている。沙耶に連絡しているが、今のところ返信はない。

「沙耶さんが消息を絶った時期の詳細は覚えていますか?」
「あ、はい。たしか――」

 奈美の話では、神城家は古びたマンションに住んでいたとのこと。親子の消息が途絶えたのは1週間前。登校前、いつものように沙耶を迎えに行ったものの、インターホンを鳴らしても無反応。それを不信に思いながらも数日が経過していた。
 マンションの住人に聞いたところ、親子で大きなバッグを持って出て行ったとの情報があった。つまり、神城は沙耶を連れて遠出する予定だったのだ。よって、捜索願いはまだ出されていない。
 以上の経緯から神城親子に関しては事件性が乏しく、警察が動くことはなかった。

(神城博士は身を隠そうとしていた? 一体誰から……?)
 御殿は深く考える。八卦プロジェクトがらみなら、やはり金盛の線が濃厚だろうか? それともフェアリーフォース?

「――沙耶さんは、どうして赤霧の中に入ったの?」
 奈美は落ち込みながらも、ポツリ、またポツリと話してくれた。
「沙耶の様子が変わったのがひと月くらい前なんです。いつも元気で、勝気で、正義感も強くて、とっても明るい子。だけど、まるで人が変わったように閉ざしてしまって。一緒に下校している時だって、私が振り向いたら突然いなかったりして。まるで人間じゃないみたい」
「悪魔に憑依されていた可能性は?」
「わかりません。ただ、私のように暴れたり叫んだりはしなかった。いつもうわごとのように、静かに何かを呟いていました」
「なんて言っていたか分かる?」

 奈美は天井を仰ぎながら、ゆっくりと思い出している。

「――たしか、ハイスペックがどうとか……」
「ハイヤースペック」
「そう、それです! ……けれど、それ以外は聞き取れませんでした」
「なるほどね。わかったわ」

 沙耶がスペックハザードが原因で妖精に憑依されたハイヤースペクターである線は濃厚だ。獰猛な妖精に憑依されていたら性格まで豹変する。場合によっては、神城静也に危害をおよぼすことだってある。親子で外出し、ふたりは消息を絶った。それは何を意味する?

 御殿は天井を見上げ、顎をペンでつつきながら考える。
(神城博士は沙耶さんにさらわれた? その線も探ってみるか)

 奈美に視線を戻して話を変える。

「――ところで、白い大型犬に心当たりはないかしら?」
「白い大型犬? ソレイユのことですか?」
「ソレイユ!?」

 奈美の口から出た言葉で御殿がおどろく。赤霧の中で聞いた名前。やはりあのサモエドは神城家と関係があったのだ。

「沙耶、ソレイユっていう白い大型犬を飼っているんです」
「サモエド?」
「あ、はい。サモエドです。 ……よくご存じですね」
 御殿がここをおとずれた理由のほとんどは、沢木から得た情報を確認するためだ。

(神城親子が赤霧の中にいるのは確かね)
 御殿が赤霧の中で聞いた声やソレイユの姿は絵画の中の光景だ。吐き出された赤霧によって魔界の光景が人間界に投影されたのだ。

(なら、赤霧の中で聞こえた女の子の声は一体……?)
 娘の沙耶だろうか? それとも別の人物?

「ねえ奈美さん、ソレイユってどんな犬なの?」
「ソレイユですか? とても賢いワンちゃんですよ。人の言葉を理解してくれるし、沙耶のボディーガードもしてくれるんです」

 奈美は笑顔で語る。神城家との日常は平穏そのものだったのだろうと御殿は思った。シュベスタ研究所を去った後も、戦々恐々とはしてなかったらしい。ただ一点、気になることがある。

「犬がボディーガードを?」
「はい。沙耶と下校中、不良に絡まれたことがあったんです。そこにソレイユがやってきて吠えて追っ払ってくれたんです。普段は大人しい子なのに、邪悪なものに対してすごく怒る子なんです。相手に噛みつこうとして私と沙耶で止めたこともあったくらいですから。悪人を片っ端から排除しそうな子なんです。正義感の塊とでもいいますか」
 たははと笑う奈美。正義の塊相手に骨が折れることもあるようだ。
「へえ。親近感がわくわね」

 ソレイユは激しい憎悪でも持っているのだろうか、まるで暴力祈祷師じゃないか。いつか犬に仕事を取られる日がくるのではないかと不安になる御殿。現にキャンキャンうるさい狐に仕事を任せているわけで、人間の肩身も狭くなるご時世だ。

「それに毛並みも普通の犬っぽくないんです、サラサラのキラキラで。美容室でトリートメントしてもらったかのようにしなやかで。まるで妖精のよう」
(妖精……)
 御殿は待ってましたと言わんばかりに鋭い目を作った。

 訝し気にする御殿が少し怖かったのだろう。奈美はやや縮こまってしまう。

「た、例え話ですよっ。でも、きっと咲羅真さんもソレイユを見れば思うはずです。妖精のようだって」

 御殿は思う――奈美は妖精を見たことがあるのだろうか? ……いや、きっとないだろう。おそらくは絵本か何かで得た情報と照らし合わせているだけだ。それを理想として、ソレイユに当てはめてるだけに過ぎないのだ。ましてや妖精が本気で憤怒した時の狂暴かつ残忍さを見れば、ソレイユを再評価せずにはいられないだろう。最悪、不良たちのはらわたを食いちぎることだってあるのだ――この時の御殿は、そう高を括っていた。

「あ、そういえば……」
 奈美はベッドから起き上がると、戸棚からアルバムを引っ張り出して一枚の写真を取り出した。

「この写真を見て下さい」
 御殿は差し出された写真を受け取る。女の子ふたり、カメラに向かって笑顔でピース。そこには奈美のほかにツーサイドアップの少女が写っていた。しっかりとした表情からは勝気な性格がうかがえる。
 奈美が写真を指さした。
「この子が沙耶。で、その手前に写っているのがソレイユです」

 沙耶と奈美の足もと。その真ん中にサモエドが写っていた。
(間違いない。赤霧の中にいたのはこの犬だ)
 写真でも質感が分かるように、ソレイユの毛並みは輝いていた。この姿を見れば誰しも普通の犬ではないと納得するだろう。

「最近になって、ソレイユの様子もおかしかったんです」
「おかしい?」
「はい。いつも沙耶に懐いているんですが、最近になってから牙を剥いて吠えたりするんです」
「それは妙ね」
 ソレイユは邪悪なものに牙を剥く。即ち、沙耶がハイヤースペクターなら、邪悪な妖精と接続を交わしているということだ。

 しばらくアルバムを見つめる御殿。そろそろ帰ろうとした矢先、奈美の口から思わぬ言葉が飛び出した。

「ソレイユ、恋音れおんちゃんとも仲良しなんですよ」

 御殿の顔が凍り付いた。
「なんですって?」
 その目があまりにも鋭かったので、奈美は肩を縮めてしまう。
「あ、あの……恋音ちゃんていうのは沙耶んちのお手伝いさんで――」

 御殿が端末を取り出し、狐姫からもらった画像を表示させた。
獅子しるこ恋音。この画像の子であってる?」

 奈美が端末を見つめる。

「……はい。これが恋音ちゃんです。 ……え、え、ケモ耳?」
「コスプレよ」
「あ、なるほど。咲羅真さん、恋音ちゃんとお知り合いだったんですか?」
「ええ、まあ」
 相方の友達だ。「知っているの?」と問われれば「知っている」と答えるが、実のところ恋音の素性をほとんど知らない。
「昨日、私のお見舞いに来てくれたんです。その花は恋音ちゃんが持ってきてくれたんです」
「ル……、獅子恋音が?」

 先客は恋音だった――。
 奈美がかげりある表情を見せた。
「恋音ちゃん、なんだか様子がおかしかった」
 奈美は自分の前で力なく微笑む恋音に違和感を覚えたのだ。

 御殿たちは思った以上に切迫した状況に置かれていたようだ。
(赤いスイートピーか。 ……急がないと取り返しのつかないことになる――)


 団地を後にした御殿は、バイクを走らせながら奈美との会話を思い出していた

『奈美さん、獅子恋音が今どこにいるかわかる?』
『沙耶の居場所がわかったって言ってました。それ以外は何も。咲羅真さんお願いです、みんなを見つけてください!』

 哀願する奈美の涙が頭から離れない。
「赤霧の中、そして絵画の中にも魔界が広がっていた。もし神城親子がそこにいるとしたら、すでに心身ともに悪魔に支配されているはず。もう手遅れか――?」

 絶望が御殿を支配する。額に汗をにじませながら、それでも次の手を打ち続ける。

「いや、まだ確定はしていない。諦めてはいけない。赤霧は絵画の呼吸。吐き出した分だけ体内の濃度は下がるはず。赤霧を思い切り吐き出させれば、絵画の中に飛び込むことも可能かもしれない」

 暴力エクソシストらしい考え。悪魔の胃袋に飛び込んででも任務遂行を狙う。積極的じゃなきゃ務まらない職業だ。

 御殿の脳裏に双葉の姿が浮かんだ。彼女はスペックハザードがもたらしたハイヤースペクターだ。ハイヤースペックはただの人間さえも驚異に変えてしまう。取り扱い次第で、沙耶も危険人物と化す。

「沙耶さんが神城博士を誘拐したとするなら、それも金盛の企みだというの?」

 赤霧。
 魔界。
 スペックハザード。

 沢木の情報はどこまでも正しかった。
 御殿ひとりの力では、とうてい解決できない状況に陥っている。
「こんな時ばかりに頼るのもどうかと思うけど……」
 罪悪感あれど、御殿はMAMIYA研究所へとバイクを走らせた。


八卦の誕生


 MAMIYA研究所。
 御殿は母・彩乃のもとを訪れていた。

 以前、彩乃の口から神城静也の名を聞いたことがある。その後の居場所を突き止めた沢木には頭が上がらない。

 応接室。御殿が彩乃から話を聞き出す。
「――ええ、神城博士は八卦プロジェクトのメンバーよ。ずっと行方がわからなかったんだけど、まさか市内にいたなんて、灯台下暗し。よく調べたわね」

 情にあつい彩乃のこと。ずっと神城のことを気にかけていたようだ。

「実は神城先生、火を司る八卦のデータを所持しているの」
「え?」
 驚愕する御殿だったが、金盛の狙いが定まってきた。彼は支配を欲している。
「なるほど。金盛は八卦のデータを狙っていたのか。どうりで八卦の事情に詳しいはず」
 御殿が研究室の一角を睨みつけるようにつぶやいた。
「――となると、金盛の狙いは火の八卦?」

 御殿の言葉に彩乃が付け加える。

「それにスペックハザードの原因は広範囲にわたるエーテル汚染。その成分は邪悪な感情に汚染されたエーテル。つまり、赤霧とエーテルを融合させれば簡単にスペックハザード以上の世界を作り出せるわ」
「金盛は赤霧とエーテルを使って、そんなことを企んでいるのですか?」
「充分に考えられるし、それだけじゃない。スペックハザードで生まれたハイヤースペクターたちを八卦レベルまでアップグレードさせることも視野に入れているでしょうね」
「八卦レベルのスペクターを増殖させるですって? そんなこと可能なのですか?」
「妖精兵器ディルファーの複製は簡単ではない。けれど悪魔ならやりかねない。無論、それらを作り出すには優秀な頭脳が必要になるわね」
「そこで神城博士に狙いを定めたということですね」
「そういうことね。沙耶さんとも何度かお話したことがあるけれど、まさかそんな事態に巻き込まれていたなんて……」

 彩乃は己が関与したプロジェクトから被害者を出してしまったことを悔やんだ。沙耶の身が安全であることを願うことしかできないでいる。

「そんなにご自身を責めないで下さい。水無月先生のせいではありません」
「ありがとう。優しいのね」
 彩乃はそう言って、御殿の手をポンポンと握った。

 話はソレイユの件へ――。

「ところで水無月先生。ソレイユという大型犬をご存知でしょうか?」
「大型犬? 白い?」
「はい」
「モサエド?」
「やはりご存知なのですね?」
 御殿の言葉を聞いた彩乃は、肩をすくめた。
「知っているというか、いぜん神城博士が連れてきた犬がそんな感じだったれど。ただ、鴨原先生に早く追い出せって言われてたわね。一体何だったのかしらね?」

 彩乃は八卦プロジェクト当時を思い出しながら、煮え切らない態度で答えた。どうやら彩乃でさえもソレイユの詳細を知らないようだ。

 ソレイユの詳細は分からなかった。が、それでも御殿は心底、彩乃に相談してよかったと思った。金盛の計画が見えてきただけでも儲けものである。彼はさらなるスペックハザードを引き起こし、多くのハイヤースペクターを作り出そうとしているのだ。そしてそれら能力者は、神城博士の頭脳によって八卦レベルまでアップグレードされ、金盛の支配下にならぶ。そうやって描かれる世界では、金盛が王となる。

 偽りの王のもと、この上ない凶悪な社畜たちが人間界を支配する。そんな未来が描かれようとしている。


 御殿が応接室から出る時、彩乃に引きとめられた。

「御殿ちゃん。もし神城先生が火のデータを所持していたら、くれぐれも取り扱いには気をつけてね」
「そうとう危険ですか?」
「ええ。八卦の中でも特に威力の強い攻撃スタイルを誇るデータよ。世界の半分を一瞬で火の海に変える力があるわ」

 ディルファーは妖精界の半分を炎に変えた。火の八卦はその力を秘めている。
「ディルファーの炎と同等の火力――」
 息を呑む御殿の手前、彩乃が口を開いた。

「それが、かつて妖精界を炎に変えた能力――『ギャンサー・エフェクター』よ」

「ギャンサー・エフェクター?」
「その中でもオクトフレアは核並みに強力ね。加減を誤ると世界が消し飛ぶわ」
「脅威ですね」

 御殿は冷や汗をかいた。自分が所持する能力、レゾナンスでは到底歯が立たないと理解したからである。

「だから神城先生の頭脳が必要なの。彼が一番、火の八卦に詳しい人だから、うまいこと火力の調整ができる」
「でも、神城博士は絵画の中。わたしが絵画に飛び込んだ後、うまく救出できるかわかりません」

 御殿がうつむき気味に呟くと、彩乃がその肩にそっと手を置いた。

「鴨原先生にも相談してみたらどうかしら? きっと力になってくれるはずよ。ましてや今のあなたは女性化が始まっている。自分のことも大切にしなきゃ。私もいるから。ひとりで抱え込まないで、ね?」
 そういって、彩乃は笑顔で御殿を送り出した。
 母親の言葉がどれだけ御殿を支えてくれたかは、言うまでもない。

 金盛は八卦の力で人間界を火の海に変えようとしているのか。
 はたまた、人間を家畜として働かせるためのディストピアを築こうとしているのか。
 
 御殿たちは、これから真相を目の当たりにするのだ。


金盛が欲しいもの


 鴨原のマンション。

 鴨原稔57歳。端末片手に深刻な表情を作っていた。

「――ああ、それで進めて問題ない。赤霧の被害が増大した時に改めて連絡をくれ。官僚どもは君の力で黙らせられるだろう? しっかりな」
 鴨原は通信を切った。

 赤霧の発生により、多くの専門家が鴨原の知恵にあやかっていた。国会ならびに厚労省から退いたとはいえ、適切なアドバイスを与えられる役目は健在である。今もこうして、一般人の避難や政府の行動に一役買っている。おかげで先日から一睡もできていない。

 肩に手を添えてかるく関節を回す。60近くになると凝りが酷くてしょうがない。
「厄介な事態になったものだな。今のうちに風呂でも入っておくか」


 鴨原稔57歳。風呂場に向かい服を脱ぎ、肩まで湯船につかる。お湯が全身にしみわたる。濡れたタオルを絞って頭に乗せる。

「ふう~、極楽だ」
 至福のため息。体脂肪も気になるが、今はそんなことどうでもいい。湯舟が俺のユートピア。
 しかしそんな時間を破る者たちが現れるなどとは想像すらしていなかった。

 にゅい~ん!
 突如、上空に歪みが生じる!

「ん?」
 なんとしたことか。パックリと開いた空間の中からワラワラと女子の群れが落下してくるではないか!

「な、なんだ!?」
 鴨原が目をパチクリしながら慌てふためく。そして――

 ザッバーン!
 ザッバーン!
 ザッバーン!

 湯舟で大波を作りながら、立て続けに湯舟に落下する女子たち。その数ざっと7人。

「あちゃ! あちゃ! ほわっちゃあああ!」
 狐姫が尻尾を振り回しながら湯舟から飛び出す!
「ふえーん、パンツ濡れちゃったぁ~」
 想夜が風呂場のすみっこでスカートを絞っている。
「御殿ちゃんに任せておけばよかったの! 全員で移動する必要なかったの、あいた☆」
 湯舟に頭から突っ込んだリーノ。さらには風呂場の隅で足を滑らせ尻餅をついている。
「誰ですか! 後ろから押したのは!」
 継紗が吠える。「おまえが行け」「わたしが行く」と揉みくちゃになり、こじ開けられた空間に雪崩のように入ってしまったのだ。被害者のひとりでもある。
「落下に気をつけて。お湯の温度は43度くらいあるから」
 湯舟につかる御殿が上空に広がる空間に叫ぶと、ニュルリと麗蘭が出てくる。
「瞳栖、せめて玄関から出て来る仕様にしろ、身が持たん!」
 ザッバーンと湯舟に落下しては、文句タレタレの麗蘭。
 最後に瞳栖が飛び出してきて、やっぱり湯舟にダイブ。ストールも純白のワンピースもスブ濡れである。
「これが精一杯の愛情表現。能力の半分はエクレアに取られてるんですもの。ディメンション・エクスプローラーはこれが限界なのよ」
 とりあえず皆がそろった。

 湯舟の中の鴨原はポカンと口を開いたまま硬直。直後、「キャー、のび太さんのエッチー!」と叫ぶ代わりに、


「ぶっ、ぶぁっかもおおおおおおんん!!」



 鼓膜をつんざく怒声がマンション全体を揺さぶった。
 怒り心頭の鴨原。御殿たちを指さして怒鳴りつける。
「いきなり他人ひとんちの風呂場の上空から溢れ出してきて、おまえら気でも狂ったか!?」

 このあとメチャクチャ怒られた――。


 ごうんごうんごうん……
 乾燥機は終始フル回転。
 なんで突然降ってきた女子たちの服を乾かさなければいかんのか。鴨原稔57歳は頭痛で頭が痛い。
 バスローブをまとった鴨原。素っ裸にバスタオル1枚を巻いた娘たち。
 鴨原の手前で想夜たちは横一列に正座をしていた。いちおう反省しているつもりらしい。

 瞳栖のディメンション・エクスプローラーによって霊界の通路を通ってきた一同。
 1時間前のこと。MAMIYA研究所から戻った御殿が事の重大さを皆に話した。そこで鴨原の名が出たもんだから、急げとばかりに押しかけたはよいが、ごらんの通りである。当初では御殿だけ転送される予定だったのに。

 狐姫が御殿に耳打ちする。
「おい御殿。あの乾燥機って最新式のやつじゃね? 一瞬で乾くやつ。俺らもアレ買おうぜ?」
「バカなことを言わない。我が家の家計事情は分かっているでしょう? 外干しで充分」

 継紗とリーノがヒソヒソと耳打ちし合っている。
「ねえねえ、つかさん♪ リーノね、こういうのテレビで観たことあるよ。バスローブをまとったおじさんが村娘たちをより取り見取り……」
「しっ。高瀬は変なアニメの見過ぎなんだよ」

 それらの会話が鴨原に聞こえていたようで、「んんん!」と咳払いでイラつきをぶつけては、皆を黙らせた。

 鴨原が一呼吸して冷静さを取り戻す。
「――それでNO.01ナンバーゼロイチ。これは一体なんの嫌がらせ……」

 なんの嫌がらせだ。鴨原がそう言いかけたところで、無防備な御殿が哀願するように迫ってきた。

「お願いです鴨原先生、時間がないんです」
「ち、近い近い! お願いって言われても……」

 ほんのりいい香りの御殿を前に、鴨原は眉間にシワをよせながら、口をもごもごさせて煮え切らない態度を取った。一方的に拒否するのも気が引ける。それに御殿を見れば、何やら緊迫した様子。おそらく問題となっているのは赤霧だと推測もできた。

「赤霧関連か?」
「はい。時間がないんです」

 いつになくしおらしく真剣なまなざしの御殿を前に、鴨原は一旦冷静さを取り戻す。目の前のエクソシストを生み出し、勝手に破棄し、数年後に聖色市せいろんしに呼び戻し、シュベスタで蜂の巣にした。それらの所業がトゲとなり、いつまでも胸の奥に刺さっている。そしてトゲを抜かないのも彼なりの生き様だ。一生背負う覚悟でいる。

 だというのに御殿ときたら、何事もなかったかのように無邪気な子供よろしく距離を縮めてくる。バスタオルからはみ出しそうな乳を、これでもかと近づけてくる。無自覚とはいえ、何というけしからん攻撃を身に着けたことやら。
「鴨原先生お願いします、力を貸してください――」
「ぐぬぬぬ……」

 八卦プロジェクトを発足させた男とはいえど、今の御殿を突っぱねるほどの冷酷さは持ち合わせていない。胸元にグイグイ迫る御殿に反論もできず、ただ流されるままだった。
「お願いと言われてもな……、まあ、困っていることがあるなら力に……」

 言ってる途中で麗蘭が割り込み、鴨原の手を取りガッチリと握手する。

「そうか鴨原氏、力になってくれるか!」
「いや、君には言ってない。急に割り込んでくるな」
「ご協力、感謝するぞ!」
「誰だ君は?」
「申し遅れた。私はフェアリーフォース京極チーム隊長、京極麗蘭だ。いつも部下の雪車町が世話になっている。あ、これ濡れているが名刺だ」

 お湯でへろへろになった名刺をわたす。
 それを受け取る鴨原。しばらくフェアリーフォースとは接点がなかった。一時期とはいえ、交流があったのも事実。厄介事に巻き込まれなけばよいがと内心、冷や汗をかいている。

「ご丁寧にどうも。こちらも名刺を、どこやったっけかな? えー名刺名刺……いや人の話を聞け。いきなり人ん家の風呂場に押しかけてきて、一体何なんだ……」
 だが狐姫を見るなり口ごもり、言葉を飲み込んだ。

 鴨原はシュベスタ研究所内において、狐姫までも手にかけようとした犯人でもある。

 最初に口を開いたのは狐姫からだ。
「鴨原さん、神城って人、知っているんだろ?」

 その問いに、鴨原はしばらくしてから無言でうなずいた。

「ああ。神城はともに八卦プロジェクトを遂行したチームメンバーのひとりだ。八卦プロジェクトを凍結した直後に失踪している。神城がどうかした? 見つかったのか?」
「神城博士、金盛に捕まっているらしいんだ」
「神城が捕まっている? 金盛とは誰だ?」

 御殿が鴨原に説明する――赤霧、レプラ、金盛それらのキーワードを次々と口にするたびに、鴨原の表情が強張っていった。

「――じゃあ、君たちは赤霧の中に入ったのか?」

 少し驚きを見せる鴨原。暴力エクソシストのことだから無茶をするのは分かっていたが、いささか積極すぎではないかとも感じている。

 御殿は淡々と説明を続けた。
「赤霧の中では死霊がうごめいていました。脱出する直前、誰かがソレイユという言葉を呟いていました。声の主は女の子のようでした」

 鴨原が顔をしかめた。

「ソレイユ? 神城が飼っている犬の名前がソレイユだったな」
「やはり知っているのですね?」

 御殿が問うと、すぐに答えが返ってくる。

「ああ、神城はソレイユという大型犬を飼っている。表向きはな」
「表向き、ですか?」
「ああ、ソレイユは八卦のデータを組み込むための実験体だ」
「犬を実験体に!?」
 一同が息を呑んだ。

 鴨原は御殿の言葉にうなずくと、一呼吸してから口を開いた。

「これは神城が俺だけに話した内容だが、当時神城はソレイユを八卦の検体候補としてプロジェクトを進めようとしていた。もっとも夢物語だがな。だが、結晶化された火のデータは神城が保管していたはずだ」
「火の八卦は威力と危険度が高いと、水無月先生から聞かされました」
「水無月君の言う通りだ。そして、もし神城の実験が成功してソレイユが八卦になっているとしたら、それを嗅ぎつけた金盛が絵画に閉じ込めたのかもしれない」

 鴨原の話を聞いた麗蘭が顎に手をそえて考える。

「火の八卦まで絵画の中に? 絵画のバケモノがどういうヤツかは知らんが、八卦の力までも栄養分として取り込み、吸収できる体質を持ち合わせているのだとすれば、そうとう厄介な敵かも知れん。八卦全員を飲み込んで能力を吸収することも可能かもな。雑食か?」

 想夜が血相を変えた。

「八卦すべてを取り込むということは、ディルファーと同等の驚異が生まれるということでしょうか?」
「ああ。おそらく金盛という男は、ディルファーと同等の驚異を作り出すことも考えているはずだ。ディルファーを可愛いペットとして飼うこともできるかもな。絵画を用いれば召喚は思いのままだ。先ほどのテレポートみたいにな」

 一同をチラ見する鴨原。バスタイムを邪魔されたのだ。嫌味の一つでも言わなければ気が済まない。

 瞳栖が麗蘭に問う。
「ディルファーを操つるほどの敵? 勝ち目は?」
「勝算は極めて低いな。ディルファーの存在だけで世界は崩壊する。八卦を食われたらおしまいだ。なんとしても金盛の陰謀を阻止しなければならない。これ以上赤霧を吐き出されたらたまらん。フェアリーフォースに絵画の押収を急がせよう」

 麗蘭はインカムでフェアリーフォースと連絡をとるが、返ってきた通信を聞いたとたん表情を曇らせた。

「――なんだと? ……わかった。こちらでもその犯人を捜そう」

 通信を切った麗蘭が頭を抱えた。

「ふう、どうにも厄介事は重なるものだな」
「どうかしたんですか、京極隊長?」
 首をかしげる想夜。
「ふむ。フェアリーフォースの機密情報を狙っている奴が人間界に住む妖精を襲っているらしい」
「え!?」

 想夜が素っ頓狂な声を出して驚く。
 その後ろで、今度は御殿の端末が響いた。相手は沢木だ。

「沢木さん?」
 応答する御殿の耳に聞こえるのは、やや慌てている様子の沢木の声。
『咲羅真か? ヤバイ事になってるぞ。暴力エクソシストとしてはほっとけない事態だ』
「何があったんです?」
『実はな――』
 
 沢木の一報を聞いた御殿は通信を切ると、何かを諦めた感じでまぶたを閉じ、深く息を吐いた。

 狐姫が御殿の横で様子をうかがう。
「どしたん?」
「狐姫、こちらも緊急事態よ。ルーシーがフェアリーフォースの機密情報を入手してレプラに向かった」
「はあ!? マジかよ! なんでそんなこと……」
 言いかけた狐姫がハッとする。
「妖精を襲撃しているのもルーシーってことか?」
「どうやらそのようね。妖精を片っ端から手にかけている。無関係な者にまで手を出して情報を集めまわっているらしいわ。かなり無茶をやっているようね。アングラからも情報を集めているみたい。すでにコミュニティにも連絡がいった。ペナルティは避けられないわね」
「何考えてんだよアイツ……」

 狐姫も一緒に頭を抱えた。
 鴨原は一連の流れを聞いて推測する。

「一般人には無害の暴力エクソシストが襲撃を繰り返してレプラに向かったということか。おそらくは金盛に何らかの交渉を持ちかけられたのだろう。心の脆弱を突かれれば誰だって無茶をするものだ。よほど大切なものを奪われて弱みを握られているようだな」
「大切なもの? そうか。だからルーシーのやつ、俺の制止を振り切って行動に出たのか」

 狐姫が乱暴に頭をかいた。友人がそこまで切羽詰まっていたとは思わなかったのだ。

「ルーシーというのは君の知り合いか?」
 鴨原が狐姫に問う。
「友達。フレイムワークスに所属してる獣人です」
「獣耳課か。取引する瞬間に金盛の命を奪う気でいるんだろうが、敵もバカじゃない。暴力祈禱師ひとりくらい処分できる策を持っているだろう。なにせ妖精界をも手中に治めようとしているのだからな。だがこちらにも策はある――」

 鴨原のアドバイスは的確だ。なんの打開策も持たない恋音は、金盛に勝つことはできない。飛んで火にいる何とかというやつだ。


今までの努力


 鴨原のマンション 屋上。
 遠くの空を見据える狐姫。流船の方角を睨みつける頬に夕日が差し込む。急がなければ、ここも赤霧に覆われる。そして恋音の命も――。

 御殿と想夜は寡黙をつらぬく。
 狐姫は夕日を見つめたまま呟いた。
「俺はルーシーにずっと輝いていて欲しかった。落ちぶれて欲しくなかった。光であって欲しかったんだ。そうすれば、ずっとあいつの背中を追い続けていられる。あいつは俺の目標なんだ。でも、それは俺の勝手な思い込みでさ、理想のルーシーを作って無理矢理押し付けていただけだったんだ。それがルーシーには重荷だったんだよね」

 後ろに立つ御殿と想夜に打ち明けた。

「ルーシーのやつ、俺の気持ちに答えようとして、ずっと無理してた。常に俺の前を走ってなければいけないって思ってたみたい。俺、心のどこかでそれを知りながら、それを喜んでいた。ルーシーが俺のことを気にしてくれてるのが分かるから、それが心のよりどころだったんだ。けれどそれって、ただの甘えなんだよね。依存てやつ? 結果として、俺はルーシーを走り続けさせてしまった」

 それを黙って聞く御殿。

「俺さ、イキってるけどいつも怯えてる。置いてけぼりが怖いんだ。まわりの奴らがどんどん先に進んでいっちゃって、焦りまくって、頑張っても思ったような成果も出せなくて、結局ひとり取り残される。周回遅れの笑い者なんだ」

 深く息を吸い込み、そして吐き出す。

「――けどさ、最初からまわりなんて関係なかったんだ。周回遅れだろうが笑い者だろうが、その時の俺にできることをやる。それが俺にしかできないことだから。すべては自分との戦いじゃん?」

 拳を作ると、リストバンドの圧迫が手首の筋肉に負荷をかけ、心地よい反発を与えてくれる。押し付けるものを押しのける快楽を覚えては自信を作り、己を奮い立たせた。

「今までいろんな敵にブチのめされて、そしていろんな敵をブチのめしてきた。その集大成がここにあると思う」

 ただ遊んでいたわけじゃない。日々のトレーニングは狐姫の筋肉にしかと刻まれている。龍虎が描かれたリストバンドの下、血流の躍動、血管を流れる血潮を感じ取る。
 筋肉に、御殿や想夜の記憶に、そして宇宙の片隅に。狐姫の努力は刻まれている。

「ルーシーにとって、神城親子はかけがえのない存在だったんだ。あいつのことだから、きっと刺し違えてでも神城親子を助けるに決まっている。けどルーシーがなんの対策もないまま絵画に飛び込んだら手遅れになる。そうなる前に止めにいくぜ。そして――」

 ふたたび大きく息を吸い込む。

(俺もルーシーに、ちゃんと伝えるんだ――)
 最後の言葉は胸の奥に響くだけ。狐姫の口から出ることはなかった。

 狐姫が右の拳を左手に打ちつけた。
「おっしゃ、戦闘開始だ――」
 夕日に背を向け、屋上を後にする。


スイートピーの花言葉


 レプラ・スタッフサービス 社長室

 先日まで金盛が居座っていた場所に脂肪の塊はいない。彼は絵画の中に消えた後、一度だけ恋音の前に姿を見せた。そして神城親子を引き合いに、フェアリーフォース機密情報の交渉を持ち掛けてきた。

 社員に扮した悪魔たちはレプラに戻っていた。魔の巣窟は居心地がよいらしい――だが戻ってこなければ、今頃はのんびりと人の生き血を吸い続けていられたのかもしれない。

 恋音の足元に散らばる無数の悪魔たち。皆、呻き声を上げてくたばっている。
「てめえ、こんなことをしてタダで済むと思って……ぐはっ」

 恋音が横たわる悪魔の顔面を思い切り蹴りつけ、首の骨をへし折った。
 くの字に首が折れた悪魔はピクリとも動かない。

 恋音が拳を作り、巨大な絵画を睨みつけるように立つ。
 その手には、『機密事項 調査書』と書かれたファイルが握られていた。

「金盛、今からおまえのはらわたを引きずり出しに行く。刺し違えてでも、おまえを許しはしない。臓物洗って待っていろ――」

 怒りに満ちたその表情は、まるで悪魔のようだった。
 恋音は絵画に足を踏み入れた。

 シスター恋音。死霊うごめく魔界の中へ――。

 スイートピーの花言葉――『別れ』。
 真っ赤な地獄に身を投じ、皆に永遠のさよならを告げる――。