7 魔界の定義


 フェアリーフォース資料室。

 猪ヅラのマデロムがいかめしい表情を作り、小一時間、記録帳を漁っていた。

 やがて埃まみれのファイルを1冊手にする。
「――見つけたぞ、このファイルだ」

 天井たかく積み上げられたファイルの山。その中から勢いよく立ち上がると、あたり一面にファイルが散らばった。まるで山から復活した巨人のようだ。

『フェアリーフォース システム室・点検表――』

 そう書かれたファイルをペラペラとめくる。システム室点検表と書かれてはいるが、裏を返せばただの掃除当番記録帳。誰が窓を拭いたのか、誰がモップがけをしたのかが記されているだけのファイルであり、おもに新人の名前が連なっている。

「けっ。データ化が進むご時世に紙の資料かよ。紙が貴重なことくらい分かってんだろうが」

 悪態まじりのエコ宣言。水晶サーバーにデータを移せば、簡単に検索できるはず。それがどういうわけか忘れ去られた存在の如く、紙のまま保存されているもんだから調べるのに時間がかかってしまった。悪態もつきたくなるというもの。

「――とはいっても、紙だからこそ、こうして証拠が残りやすいわけだが……」

 水晶サーバーに保存された記録なら、今頃はコマンド一発で完全消去されていたはずだ。アナログの良さも忘れてはいけない。
 記録帳にズラリと並ぶ名前。その中に想夜の名も記載されていた。だがマデロムのお目当てはそれじゃない。
 
「えーと、確か名前は……」

 まるで脳みそに手を突っ込んでまさぐるように記憶をたどる。縦に並べられた名前一覧を指で追っていくと、ある少女のところでピタリと止めた。

「……コイツだ。この名前、うっすらとだが憶えているぜ」

 忘却の彼方にあった少女の名を引き出すことに成功。ふたたび疑問を抱いて首を傾げ、壁のほうを睨みつけるようにつぶやく。
 
「それにしても妙だ。隊員名簿からは完全に抹消された名前だ。しかも、なぜ京極たちはコイツの名前すら憶えてないんだ?」
 先ほど人間界に向かう麗蘭れいらに、それとなく聞いてみたところだ。

 5時間前――。
『――京極、昔おまえが訓練していたガキどもの中に、やたらとイキった奴がいたよな?』
『イキった奴? フェアリーフォースはそんな奴らの集まりだぞ。皆、年中頭が沸騰している。君と私を含めてな』

 ガハハと笑う麗蘭をよそに、マデロムは呆れ顔。

『自己紹介なんか聞いてねえよ。あと、それとなく口撃を入れてくるな。誰の頭が沸騰してるって?』
『間違ってはいないだろう? ふむ、イキった奴か。小動こゆるぎは抜けてる部分もあるがしっかり者だし、雪車町そりまちと高瀬は頭頂部に花を咲かせて年中ボケ~っとしている。他に誰か目立つ隊員でもいたのか?』
『ううむぅ……、なんつったら言いか……、一匹狼みたいなガキだ。黒い髪の東洋人のメスガキ』
『東洋の新人? そんな威勢のいい奴いたら、とっくに私のチームに引き入れているぞ?』

 マダロムはガックリと肩を落とした。

(だからよお、おまえがそのメスガキの教育をしていたんだよ。わかれよブス)
 せせら笑う麗蘭を尻目に、マデロムは終始呆れるだけだった。

 ――そんな会話のなかで違和感を覚え、その足で資料室を訪れたのである。

「妙だな。誰もあのガキのことを覚えちゃいねえ。登録データも抹消済み。なぜ隠す? なぜ記録が抹消されている? 抹消記録も残っちゃいねえ。このガキは、今どこにいるんだ?」

 数々の疑問が脳内を支配し、やがて結論を見出す。

「ひょっとしてフェアリーフォースのお偉方は、コイツの存在を知られたくないってことなのか?」
 ふたたび記録帳に記載された名前を太い指でなぞる。

 マデロムは壁中央に掲げられたフェアリーフォースの紋章を睨みつけ、ファイルを静かに閉じた。


感染拡大


 流船るふな駅前――。

 絵画から発せられた赤霧。それを吸い込んだ人々が感情を支配され、憤怒しながら暴れまわっていた。
 想夜、御殿ことの、狐姫は、狂気むき出しの群衆に飲み込まれている最中だった。

 霧は細かい水粒だ。中でも赤霧は悪魔の水粒100%でできている。人が肺に吸い込めば、感染というかたちで憑依が起こる。少しの量なら大した問題でもないが、それでも精神力に左右される。悲観的で弱気な人間、または精神力が伴っていない子供たちに関しては、感染力が絶大だ。ましてや大量に吸い込めば、どんなに屈強な戦士であっても感染は避けられない。感情を支配された朱鷺や御殿の弟の水角みずのがその例である。八卦であっても避けられない驚異、それが赤霧だ。

「あのビルまで走りましょう。想夜走れる?」
「大丈夫です!」
「肩貸すぜ!」
 御殿と狐姫が肩を貸す。想夜はケガした足を引きずりながら走ってゆく。
 ひとまず3人は建物のかげに身をひそめ、混乱を避けながらやり過ごした。そうでもしないと通行人に殴り殺されてしまう。

 想夜は酷いケガを負っていた。暴れる市民に鉄パイプで殴られた際、羽と足を負傷したのだ。飛べるまでには時間がかかりそうで、当然ながら御殿と狐姫を運んで飛んで逃げるには無理があった。

「おい御殿、いつまでもここにいられないぜ? 俺たちだけでも赤霧に汚染されない方法を考えなきゃだぜ」

 狐姫は汗を拭いながら、口元を腕で覆った。少しでも赤霧を吸わないようにするためだが、それも気休めでしかない。いつ感情を支配されてしまうかわからないのだ。

「赤霧に汚染されないための方法か」
 御殿が頭を悩ませる。三人よれば文殊の知恵とはいうが、なかなかよい対抗策が思いつかない。知識のない者同士が集まったところで、ダメなものはダメなのだ。
「酸素ボンベに頼りながらの戦闘は動きに制限がある。となれば、ワクチンのようなものが必要ね」
 ワクチンなんてない。そんなことは知っている。
「汚染が広がれば、被害は流船だけにとどまりませんっ」

 想夜は必死に水晶端末をいじりながら、京極チームと連絡を取ろうとしていた。

「誰かと連絡は取れた?」
「――ダメです。誰ともつながりません」
「赤霧が通信の邪魔をしているのね」

 電波は雨に弱い。妖精の端末も同じような仕組みである。
 御殿が見上げた空は、真っ赤に染まっていた。しばらくは通信が死んでいることになる。

「関東は、どうなっちゃうんだろう……」

 想夜は半べそでうずくまった。荒れた町を見れば無理もない。先ほども危うく一般人に殺されかけたところだ。

 御殿は想夜に追い打ちをかけるように言葉を発する。
「みんな悪魔に憑依され始めている。急がないと日本中の人たちが悪魔に憑依されたまま戻れなくなる」
「戻れなくなるって、みんな悪魔になるってことですか?」
 御殿が眉間にしわをよせながら、無言で頷いた。
「ええ。憑依時間が続けば、人間の悪魔化が始まる」

 悪魔のような人ではなく、本当の悪魔と化す。悪魔のような力を手に入れるのではなく、悪魔に体を奪われたままの状態となり、制御は悪魔側に握られる。冬虫夏草のように肉体を侵食してゆくのだ。

「そんなぁ」
 想夜がシュンと肩を落とした。

 もしも首都圏が麻痺すれば被害は想像を超える。人々の生活、経済の破綻。それは最悪の終焉である。

 ――これはパンデミックだ。

「赤霧を多く取り込んだ人は悪魔になりますが、赤霧をあまり吸わなかったらどうなるんですか?」
「おそらくは水角のように回復に向かうでしょうね」
「よ、よかった。だったら早く赤霧をなんとかしなくちゃ」

 胸を撫でおろす想夜だが、御殿はその態度を否定する。

「安心しないで。これは最悪の事態よ。我を取り戻した人は生活の安定を求めて食料などの争奪戦が始まる。あらゆるインフラが途絶えつつある世界で、待っていることといったら地獄絵図以外の何ものでもない。問題はその後のこと。悪魔化した人たちが世界を牛耳るようになる。そうなってしまえば人間界は完全に魔界と化す。正気を保つ人間は悪魔のエサ。そうなってしまえば、ここはもう人間の住める世界ではなくなる」

 電気、ガス、水道はまだ止まっておらず、感染は拡大しているが完全に支配はされていない。ただ、邪気に支配された人間たちは悪魔となり、インフラを制御するようになる。そこから完全な支配がはじまるといってもよい。

 ふと、御殿の脳裏に沢木の過去がよみがえる――人の不幸を面白おかしく書き立てるメディア。それを嘲る人々。それが普通の人間だというのなら、この世界はこんなにも狂っているということだ。御殿がそんな世界を望むはずもなく、ただ浄化に努める日々を送ってきた。狂った価値観に抗い続け、透き通った聖水のように心を浄化する。だが他人の心までは浄化できない。ひとりひとりの心には闇があり、闇を捨てずに育て続ける人間がいるのも事実なのだ。

 そんな時、狐姫が勢いよく立ち上がった!
「やべえ、見つかっちまった! 逃げるぜ!」
 御殿も立ち上がり、車道を駆け抜ける! が、想夜の手前に車が突っ込んできて逃げ場を塞いでしまった。
「このクソガキがあああ! なに逃げてやがんだあああ!」

 追いかけてきた男が鉄パイプを握りしめ、想夜の胸倉をつかんで殴りかかろうとする!
 目や眉を吊り上げて歯茎をむき出しにした形相を前に、子供の想夜は酷く恐怖した。

「きゃあああ!」

 ガス!

 鈍い音とともに、想夜のこめかみから血が吹き出す!
 たとえ負傷しても、人間に対する攻撃はご法度。成すすべもなく、こめかみを手で覆ってしゃがみこんでしまった。

「一般人への発砲だけは避けたかったけれど」
 御殿はあわてて銃を抜き、男の足に狙いを定めた!

 トリガーにかけた指に力を入れた時だ。遠くの空からものすごい速さで何かが急降下し、こちらに向かって飛んでくる!


 飛行中の麗蘭が、後ろに続く継紗つかさとリーノに叫んだ。
「10時の方向に雪車町と他2名を発見! 総員救出に向かえ!」
「「イエスマム!」なの」

 麗蘭たちはビルの隙間を一直線に飛行しながら高度を下げ、想夜、御殿、狐姫をかっさらって一気に上昇した。

「……京極隊長」
 額から血を流す想夜は、麗蘭にお姫様だっこされたまま喘いだ。
「京極隊長、流船が、赤霧に……」
 消え入りそうな声で必死に訴える想夜。
 麗蘭はそれに目もくれず、冷静に対処する。
「わかっている、今は何もしゃべるな。いったん流船を離れる」

 撤退を余儀なくされた一行は、尻尾を巻いて流船から遠ざかっていった。


打つ手はあるか?


 ほわいとはうす。

 狐姫は無気力のまま、ぐで~っとテーブルに突っ伏していた。疲労がたまっているようだ。

 麗蘭が壁に背中をあずけながら紅茶を味わう。
咲羅真さくらま御殿、相変わらず君がいれてくれた紅茶はおいしいな」

 麗蘭はカップをソーサーに戻して肩の力を抜いた。人間界の魔界っぷりに、少々手こずっているご様子。

 御殿は力なく微笑んで返した。
「助けてもらったお礼といっては安いのだけれど。さっきは助かったわ、ありがとう」
 麗蘭たちが駆け付けなければ、御殿たちは流船で籠城していただろう。
「礼などいらん。いつも雪車町が世話になっているからな。今、部下ふたりに金盛の行方を追わせているところだ。先ほど到着したフェアリーフォースも協力して捜索にあたっている。君も一息入れたらどうだ?」
 そう言って御殿にも紅茶をすすめてくる。
「そうね、いただくわ」
 肩の力を抜いてカップを手にする。普段よりもミルクと砂糖を多めに入れたミルクティーは、御殿の心を落ち着かせてくれた。


 バスルーム。洗面台に立つ想夜。
 ひとり鏡の前で体の汚れを落とし終えると、狐姫が用意してくれたモコモコのパーカーとショートパンツに着替えた。足の傷は大したことはなかったが、問題は羽のケガだ。ピクシーブースターをかけると羽の神経から肩甲骨にかけて激痛が走る。数日は飛び回ることができないだろう。
 鉄パイプで殴られたこめかみや全身の止血は今済んだ。
 負傷した羽は継紗とリーノが治療してくれた。そのふたりは、想夜が目を覚ました時にはすでに外出していた。

 深呼吸。落ち込んでいる時間があるのなら、少しでも早く解決策を見つけ出さなけばならない。軍人に休みなどない。とはいえ、羽の負傷が足枷あしかせとなって邪魔をする。焦るな、落ち着けと言わんばかりに。
「羽が無くても足がある。もっとしっかりしなきゃ」
 想夜は両手でピシャリと頬を挟んで気を引き締めると、傷だらけのままリビングに戻ってゆく。


 リビングのドアが開いて、想夜が顔を覗かせた。
「雪車町、治療終わりました」
 と、壁にもたれる麗蘭に敬礼。テーブルには狐姫が突っ伏していた。
 麗蘭が申し訳なさそうにする想夜の肩に手をそえる。
「間一髪だったな雪車町。傷は痛むか?」
「はい、少し」
「そうか。先は長い、痛み止めを飲んでおけ」
「イエスマム」
「いつまでもボケッと突っ立てないで座れ」
「はい、失礼します」

 麗蘭にうながされた想夜がテーブルの椅子を静かに引いて座る。その後、深々と頭を下げた。

「京極隊長、報告が遅れて申し訳ありません」
「あの状況では無理もない。雪車町はよくやったよ」
「でもあたし、容疑者逃がしちゃって……」
 ションボリと肩を落とし、うっすらと涙を浮かべた。
「そんなに落ち込むな」
 麗蘭は想夜の頭に手をおいて、くしゃくしゃと頭を撫でた。
「ほら、これで涙を拭け」

 優しい隊長、テーブル上の分厚いハンカチで想夜の顔をゴシゴシと拭いてあげる。

「ん? なんだこのハンカチ、やけにゴワゴワするな」
「……京極隊長、これ雑巾です」
「あ、すまん」
 麗蘭の天然は相変わらず。
「この家に来るヤツって必ずそのネタに走るよな。流行ってんの?」
 呆れた狐姫が肩をすくめた。


仲直り


 金盛の捜索に出ていた継紗つかさとリーノが戻ってきた。
「小動、高瀬、ただいま帰還しましたー」

 テーブルで突っ伏していた狐姫が飛び起きて、ふたりを出迎える。

「おーう、おかえりー。アイス買ってきてくれた?」
「もち買ってきた。ほい、人数分ね」

 継紗がビニール袋をわたす。

「サンキュサンキュ」
「焔衣、チョコモナカだしょ?」
「ああん!?」

 狐姫がビニール袋をひったくって、中をのぞき込んだ。

「いや、俺バナナチョコチップアイスっつったべ?」
「いやいや、チョコバナナチップは御殿さんしょ。ウチの鼓膜はシルクでできてっから」
「バナナチップチョコだっつってんだろが!」
「チョコバナナチップって言ってましたー!」
「はああ? 脳みそに蜘蛛の巣でも張ってんのかよウンコ!」
「はあああ? 注文もろくにできないとか脳みそバグってるだろ、狐! 金髪! 巫女服! 八重歯! 設定過多!」

 売り言葉に買い言葉。双方の言い分が食い違い、バトルスタート!

「助けてもらったからアイスおごってやったのに、何その言葉の暴力。もーおこ。俺もーおこだぜ。バグってるのはおまえのセンスだろ。なんで燃えプロとか超人ウルトラベースボール推しなんだよ。しかもジーコサッカーでトドメ刺しにくるとか、俺に恨みでもあんの?」
「バントでホームラン打てるゲームなんて美学っしょ、センスの塊っしょ。ピッチャーまでガクガク揺れるほどの地震を発生させる魔球とか胸アツでしょが!」

 クワッ。継紗が白目を吊り上げて叫んだ。

「地震レベルに揺れてるのはおまえの脳みそだろがクソボケカス!」

 クワッ。狐姫が白目を吊り上げて叫ぶ。

「ジーコに謝れクソぎつね!」
「ジーコジーコうるせえな、おまえんちダイヤルアップ接続かよ!」
「はぁ意味わかんないし! ウチがっつりエーテル回線だし! ところであんたんち糸電話? 受話器30センチあるだろ?」
「なんだとコノヤロー! ケモ耳バカにしとんのか、変なヘアピンつけやがって! ひとりキャッチボールでもしてろや!」
「そっちこそ意味不明な文字列リボンでしょが! それなんて書いてあるんだ? 『お花畑始めました』って意味か?」
「ムキー! 言いやがったな! マーシャルアーツの真骨頂見せたろかい!」
「やるかあ!? キックの鬼なめるなよ!」

 狭い玄関でバチバチと火花が飛び散っている。

「ケンカはよくないのっ。アイス溶けちゃうのっ」
 リーノになだめられ、ひとまず言い争いは終了。カリカリ君の袋を上から押すと、プニッとへこむくらいには溶けていた。
 狐姫がリビングに向かって叫ぶ。
「御殿ー、俺のチョコジャンボモナカとおまえのチョコバナナ交換な」
 継紗からビニール袋をひったくる狐姫。
「フン!」
「あ! なんて態度の悪い狐なんだ。御殿さんとは大違いだ。あのまま流船においてくればよかったよ、ったく……」
 継紗がブツブツ言いながら、呆れ顔で靴を脱ぐ。


 想夜がベランダで風を感じている。夜空に浮かぶ月が赤く染まっていないことが、焦る心を落ち着かせてくれた。
「流船は今、どうなっているんだろう……」
 狂気に満ちた人々の顔が脳裏をよぎる。

 ベランダの柵に頬を乗せて思いを馳せていると、そこに継紗がやってきた。

「よ、想夜」
 継紗の声で想夜が振り向いた。
「つか」
 継紗は皆から、つか・・つかさん・・・・、などと呼ばれている。
 継紗は頬を染めながらも重い口を開いた。
「そ、想夜もアイス食べなよ。ちょっと溶けてるけど」
「う、うん」

 想夜と継紗は照れながらうつむき、上目づかいのまま、ぎこちない会話をはじめた。

「想夜、その……シュベスタ以来だね。こんなふうに話すの」
「うん。 ……あ、羽の治療、どうもありがとう」
「え? うん、いいっていいって。慣れてるから」
「「はは……」」

 乾いた笑い声――まいった。うまく会話が続かない。ふたりともそんな気持ち。

 思い返すはスペックハザードが発令される前のこと――。
 鴨原とメイヴは、人間界を妖精に統括させる計画を立てていた。
 だが御殿たちの活躍により鴨原は失脚。彩乃の技術を利用しようとしたメイヴの目論見も阻止された。

 シュベスタ研究所の最上階。追い詰められたメイヴは、邪魔になった想夜たちを消そうとする。
 その際、想夜はメイヴから植えつけられたゲッシュという呪いにより、鬼化シャドウシーズンを発動することになった。

 鬼化した妖精は我を忘れ、残忍で狂暴な存在に変貌を遂げ、目に映る全てのものを破壊しつくす。
 それ故、藍鬼あおおにと化した想夜により、その場に居合わせた隊員たちは皆、半殺しにされてしまう。

 メイヴの想像を超える力を発動した想夜は、たった一撃でメイヴを仕留めて返り討ちにした。
 死を覚悟したメイヴだったが、そこへフェアリーフォース上層部は戦艦を転送させて部隊を送り込んできた。証拠隠滅のため、MAMIYAの人間を消しにきたのだ――。

 急遽、妖精界から駆け付けた麗蘭は、瀕死のメイヴを連れてフェアリーフォースに帰還。

 シュベスタ研究所を裏で牛耳っていたババロアにより施設は爆破され、あらゆる実験の痕跡が闇に消える。
 想夜は爆発の中、御殿と狐姫を連れてシュベスタ研究所を脱出する。

 その後、想夜はひとりでフェアリーフォースと空中戦を繰り広げ、ゲッシュ界という牢獄の世界に身を潜めたのだ。

 フェアリーフォースが続けてきた隊員の洗脳計画――それに気づいた想夜はシュベスタが崩壊する直前、継紗に希望を託した。

 妖精界政府は長年、軍隊を戦闘マシンとして洗脳してきた。政府に逆らえないように、あらゆる手を使って支配してきた。

 想夜は入隊直後に、初めてハイヤースペックを使用した時の違和感が忘れられない。
 能力を使用すると脳に虫が侵入してくる嫌悪感に襲われ、記憶のどこかに異変が生じる気がしてならなかった。

 フェアリーフォースの戦士は能力を使うたび、次第にロボットのような単調な思考回路に書き換えられていった。政府の言いなりに、右へ左へ動くオモチャの兵隊の完成だ。

 実はフェアリーフォースの隊員がハイヤースペックを使用した際、そこには記憶の改竄かいざんが行われていた――。

 なぜそのような現象が起こっているのか、子供の想夜にはそれが分からない。だが、それは現実に起こっていることなのだ。

 戦士たちは皆、記憶の一部が書き換えられている――想夜は薄々、そのことに気づいていた。

『このことをフェアリーフォースの人達に伝えて――』

 あの時、想夜の言葉を妖精界に持ち帰った継紗だったが、それを耳にしたフェアリーフォースでは内部崩壊が始まってしまう。
 
 部隊を支持する者、疑う者――フェアリーフォースは分裂し、京極チームはフェアリーフォースの多数支持派の弾圧によって村八分にされる。食料供給のストップや執拗な嫌がらせが続いたあげく、チームには想夜を覗いて継紗しか残らない事態となった。

 そこにフェアリーフォースの脆弱性が生まれ、エクレアたちにつけこまれ、更なる被害に至ったのである――。


 想夜はベランダに手を置きながら、継紗のほうを見た。
「――つか。フェアリーフォースから酷い目にあってるって本当?」
「誰から聞いたの?」
「マデロムチームの子たち」

 愛宮邸が襲撃された際、マデロムの部下たちが想夜を嘲笑したことがあった。そのとき、京極チームが受けている扱いを小耳に挟んだのだ。それが悔しくて悔しくて爆発しそうなところを、麗蘭になだめられている。

「マデロムチームの奴らか。あいつら性懲りもなく想夜にまで突っかかりやがって」

 継紗も妖精界の定食屋で乱闘騒ぎを起こしている。ケンカを吹っかけきた女子たちをボコボコにしたはずなのに、今度は弱い立場の想夜にちょっかいを出してくるのだから気に入らない。

 想夜は元気なくポツリと口を開く。
「京極隊長も口を噤んで何も言わないけど、村八分にされていることは何となく分かってたの。だって政府に歯向かえばタダでは済まないもの」
「想夜……」
 想夜の沈んだ顔があまりにも悲しげだったもんだから、継紗にまで感情が感染してしまう。
 政府の権力は絶大だ。その力を前にすれば、子供の存在などひと捻りで終わる。それがわかっているから、無力だとわかっているから、余計にもどかしくって悔しいのだ。

「つか、ゴメンね。あたしがシュベスタであんな頼み事をしちゃったから……」
 そう言いかけたが、継紗に止められた。
「待った。ウチ、それを覚悟で洗脳計画を暴露したんだ! これはウチの問題。だから想夜は悪くない。京極隊長もそれを覚悟してる。ウチ、そんな京極隊長も好き。だからチームに残った。たとえひとりぼっちになっても、信じた人たちと一緒なら、なにも怖くないもの。胸を張って自分を誇れるもの」

 胸を張ってハッキリと言う。そして想夜の手前で思いっきり頭を下げた。

「それより、ウチのほうこそゴメン!」
 ビックリした想夜が慌てふためく。
「どうしたの? なんで謝るの?」
「だってウチ、想夜をいっぱいイジメた。想夜のお弁当に酷い事した。せっかく御殿さんやアホ狐が作ってくれたお弁当なのに、それをドロまみれにした。だから、ゴメン!」

 そうやって何度も頭を下げる。想夜の秘めた実力に嫉妬するあまり、入隊した時から気に入らなっかった。だから徹底的にイジメ続けてきた。いなくなればいいと思っていた。そうすれば弱い自分の立場を守れる。安心感を得られる。例えそれが偽りの安心感だったとしても。だが、どれもこれも誤ったやり方だった。そんな罪悪感が今になって襲い掛かる。イジメた分だけ己の心に泥を塗り、己の誇りを滅多打ちにするのだ。他者から排除されることで人の痛みを知り、人の痛みを知ることで、自分がしてきた愚かさに焦点が合う。自分のしてきた愚かな行為を、ようやく見つめ直せたのだ。

「ゴメン想夜! ゴメンゴメンゴメン!」
「そんなのもういいよ! あたしだって無理なお願いを押し付けちゃって、ゴメン!」
 ペコリ。想夜も頭を下げた。
「いやいや、ウチの方が悪いって!」
 ペコリ! 継紗が思い切り頭を下げる。
「違うのっ、あたしのほうが悪いの!」
 ペコリペコリ! 想夜も負けてない。ポニーテールが前後にポンポン揺れる。
「違うっつーの! ウチのほうが極悪だっつってんの! クラウザー様のお墨付きだっつってんの!」
 ペコリどころかヘッドバンド炸裂!
「あたしのほうが極悪だもん! 世界の悪はあたしの別名だもん! クラウザー様もビックリなんだから!」
 想夜、脊髄がボキッと折れるほどに腰を曲げる!

 そうやってふたりして頭を下げるたび、互いの頭がゴッツンゴッツンぶつかり合う。まるでコントである。



 ベランダの異様な光景を目にした狐姫が首をかしげる。
「なあ御殿、なんであいつら額に『殺』って書こうとしてるのん?」
「妖精界の挨拶よ。ほら、ハチワレ猫も額がオシャレでしょう?」
「おまえ、俺をバカにしてるだろ?」
 狐姫の額に青筋が立った。



 想夜と継紗は互いに頭をごっつんこ。額を手で押さえて吹き出した。
「あイター! ……じゃあ、これで仲直りね」
「うん、仲直り」

 どちらが先に差し出したかは分からない。ただ、ふたりして笑顔で握手を交わす。

「ねえ、つか。人間界のお菓子はもう食べた? とってもおいしいのよ」
 想夜がポケットをまさぐり、お菓子の箱を取り出した。

 でた! キャラメル伝説! 味はともかく、ツッコミどころの多いCMでも大人気。

「それ知ってる、ルイルイ製菓のやつ! 前に人間界に来た時に変なCMやってた!」
「そうそう、あのCMのお菓子! はい、つかにもあげるね」

 継紗は受け取ったキャラメルを口に放り込むと、その絶妙な柔らかさと甘さに面食らってしまう。

「うん、おいしい! うわ、なにこれっ、舌の上でトロけてる!」
「でしょう? あたし人間界のお菓子は大好きよ。特に日本のお菓子は世界に誇れる技術力と発想力を持ってるんですって」
「へえ、想夜は昔からお菓子のことに詳しいもんね」
「うん、人間界に来てからお菓子つくりの勉強もしてるの。今度あたしの作ったお菓子もわけてあげるね」
「――え!?」

 継紗が硬直した。

「あ、あはは……、そ、そろそろ京極隊長のところに戻ろうよ」
「……?」
 はぐらかすように逃げてゆく友達を、想夜は不思議そうに見つめていた。


 御殿は本社とのやり取りがあり、自室にこもっている。
 金盛は絵画の中に飛び込んで消えた。その後の行方はわからずじまいだ。

 御殿との会話を終えた麗蘭が、ひとり椅子に腰かけている。リーノはテレビのリモコン操作に夢中。人間界の番組に興味深々のご様子だ。

 ベランダから戻った継紗が布袋を取り出し、麗蘭に手渡した。
「京極隊長、先ほど聖色せいろん駅前でフェアリーフォースと合流して支援物資を調達しました」
「ほお、手に入ったか……『殺』? 額の文字はウェットティッシュで落としておけ。ほら――」
「ありがとうございま……これ雑巾です」
 麗蘭は手におさまりそうなくらいの布袋を受け取ると、結ってある紐をほどいて中を見る。

 想夜、継紗、リーノが麗蘭の手元を覗き込むと、袋の中にはシカの糞ほどの小さな黒玉が詰まっていた。
「京極隊長、このお薬はなんですか?」
霞喰丸かじきがんコーワα。仙人草から有効成分を抽出し、それを培養して薬品化にこぎつけた代物だ。妖精界もやることが人間に近づいてきたものだな。毒性の霧に強くなるらしい。街が赤霧に覆われたら飲め」

 霞喰丸コーワα――仙人は霧を食べて生きている。それに因んで命名された薬。毒性を持つ霧への耐久性が増す。大人2錠、15歳以下は1錠。効果は6時間。用法容量を守って正しくお使い下さい。体調に異変を感じた時は、ただちに医師の診察を受けて下さい。

 麗蘭が霞喰丸コーワαの入った布袋を想夜に渡した。
「あ、ありがとうございます。これを皆にも……」
 言いかけたところで麗蘭に止められる。
「ダメだ。数に限りがある。君が飲むんだ」
「で、でも……」
「隊長命令だ。それを飲んで任務を続行するんだ」
「イ、イエス、マム」
 想夜はとても申し訳なさそうに両手を差し出し、遠慮がちに受け取った。小袋のなかに宝石が詰まっているような気がして、大事に大事に扱う。

 人間を救うために人間の犠牲を払わなければならない。何かを選ぶために何かを犠牲にする。大事の前の小事といえば聞こえはよいが、この世界には、優先順位によって切り捨てなければならないことが多すぎる。だが、すべてに手を差し伸べたいだなんて傲慢な考えだ。自分の力量が分かっていれば、救える数はおのずと自覚できるものだから。
 想夜の手は大量の水をすくえるほど大きくはない。じっと手を見るたびに無力さを覚え、それでいて、できることに焦点が定まってゆく。

 想夜、継紗、リーノは小袋を受け取った。
「大切に使わせていただきます!」
「なの♪」


魔界の定義


 御殿は本社とのやり取りを終えて通信を切った。
 先日からレプラに関する情報を、他のエージェントに調べてもらっていたところだ。結果は酷いものばかり。想像以上の悪行っぷりに耳を塞ぎたくなった。日本のブラック企業が笑い話では済まないことが理解できた。

 部屋を出ようとしたとき、ふたたび端末が鳴った。沢木からの着信だ

「沢木さん?」
『おう、俺だ』
「どうしました?」
『おもしれぇ情報を入手した。買うか?』
「ええ。お願いします」
『おしっ、気前がいいな。といっても、俺も今回の件にはぶったまげた。まさか妖精の件におまえさんが関与していたとはな』

 沢木のことだ。すでに妖精や八卦プロジェクトの詳細まで調べつくしているのだろうと察する。

「すみません。黙っているつもりはなかったのですが」
『別にいいさ。でも水臭いぜ。先に言ってくれれば、もっと早くに調査終わったんだぜ? んじゃ、はじめるか――』

 受話器の向こうから紙の束をめくる音が聞こえてくる。
 
『まずは4年半前の出来事からだ。隣町にあるシュベスタ研究所でプロジェクトが凍結された。プロジェクト名は……』
「八卦プロジェクト」
『……ということは当事者だからもう知っているな。おまえさんは、研究者・水無月彩乃の細胞を用いて培養され、八卦NO.01ナンバーゼロイチとして誕生した。つまり水無月彩乃はおまえの母親だ。プロジェクトには元厚生省の鴨原実かもはら みのる指揮のもと、MAMIYA研究所の水無月彩乃、データ分析専門の神城静也かみしろ しずや博士、現在は絶賛行方不明の湖南鳩冥舞こなはと めいう゛が研究員として関与していた。湖南鳩の正体は妖精界の女王メイヴ。メイヴは現在、フェアリーフォースの上層部に君臨している。ここまでは合っているか?』

 御殿が端末を握り直す。

「――ええ。おおよそ合ってます」
『妖精が用いる異能・ハイヤースペックは、人間への継承が可能。能力を継承した人間はハイヤースペクターと呼ばれる存在となり、驚異的な力を発動する。だが妖精を用いることなく単独でハイヤースペックを発動できる存在を鴨原たちは造りあげた。それが八卦だ。八卦の細胞には、妖精界に深手を負わせた妖精兵器ディルファーの細胞の一部が組み込まれている。八卦の力は、天,地,火,水、雷,風,山、沢。それらディルファーの細胞は数値化されたのち8つに分けられ、その中の1つがおまえの体に組み込まれた。そしておまえは『沢』の力を司る八卦となり、ハイヤースペック・レゾナンスを発動するハイブリッド・ハイヤースペクターとなった』

 自分を取り巻く歴史を淡々と聞かされるのも妙な感覚だが、多くの人が自分の誕生に関与していたことに感謝を抱いている。

『――だがプロジェクトの進行はかんばしくなく、失敗と見なされて凍結。おまえは医療廃棄物として処分されたが、その後、晴湘市せいしょうしという海に面した町で無事保護され、市民と生活を共にする』

 御殿の脳裏に、調太郎や源次たちの笑顔が浮かぶ。どれも大切な思い出だ。
 
『ダイニングの従業員たちに保護された当初、おまえは知能の進行に重大な欠陥があった。それがプロジェクト凍結の原因とされていたが、ダイニングでの食事中に急速に知能が向上。たった1ヶ月で人間15年分に匹敵するほどの知能を身につけた。これはディルファーの遺伝子による超学習能力の成せること。しかし――』
 
 沢木が電話越しに御殿の顔色をうかがう。
 御殿はためらくことなく沢木を促した。

「続けてください」
『いいのか?』
「気持ちの整理は終えてます」
『――わかった。しかし晴湘市は、ババロア・フォンティーヌによって炎に包まれて消滅。約3万もの命が炭と消えた』

 御殿はこみ上げてくる悲しみを、めいいっぱい押しとどめた。過去の激痛に慣れるのは、ずっと先のようだ。
 
『ババロア・フォンティーヌはミネルヴァ重工の元相談役だった女だ。その正体は地獄の妖精デュラハン。酔酔会すいようかいという婦人会に所属しており、魔界を拠点とし、妖精界と人間界を手中に納めようとしていた』

 ババロアはタールに覆われた晴湘市に多くの暴魔をたずさえ、そこに巨大な城を築いた――御殿はそれを昨日のことのように思い出す。

『ババロアは、突如現れたリボンのガンナーによって首を刎ねられ、晴湘市で絶命している。ババロアを殺ったのはおまえと中学生の女の子。その女の子も妖精だ。リボンのガンナーの正体は、おまえがJCと融合した化身だ……おまえスゲエな』
「ええ」
『――さて、問題はここからだ。実はな、その期間内に神城静也の家庭で異変が起きていたんだ』

 沢木から神城のことを聞かされた御殿は、ただ困惑するしかなかった。

「それは本当のことですか?」
『まあ、今伝えた事実を確かめるためにも、自分の足で聞いてまわるのがいいかも知れないな』
「わかりました。さっそく流船団地とMAMIYA研究所に向かおうと思います」
『おう。しっかりやれよ』

 話は赤霧に変わる――。

濡笑ぬわらエリアの状況はどうだ? そっちでも赤霧は発生しているか?』

「まだです。でも、これから被害が出る可能性は高いです」
『だろうなぁ。赤霧は人間に入り込んで移動している。感染者が日本中、あっちこっち出歩いてみろ。世界の皆様は一瞬で赤霧に感染しちまうぜ』
「空気感染さえ押さえれば何とか……」

 御殿の言葉にかぶせるように沢木が反論してきた。

『ウイルス云々を言ってるんじゃねえのよ。赤霧は感情を支配する。感情ってのはよお、人から人へと感染するもんだぜ? 赤霧に感染した人間が他人と接触してみろよ。霧の感染には関係なくても、荒れる感情を叩きつけられたほうは傷つくもんさ』
「感情そのものが狂気を感染させるということですか。確かに危険ですね」
『おうよ。ましてや赤霧の原材料は暴力エクソシストの血肉。俺たちが抱えた憎悪で作られている。人一倍の怒りと悲しみを持った連中だからな、俺も、おまえも。感染した人間の心は、さぞ怒りに満ちて荒れまくっているだろうよ。そんな奴らが隣にいたら正気を保てるか?』

 暴力エクソシストは悪魔に激しい怒りを抱いている。裏を返せば、悪魔のような残忍な心を持つ戦士たちなのだ。その怒りが血肉となり、赤霧となり、他人へと流れこんで感情を支配し、やがて感情を他者へと叩きつけてゆく。

『考えてもみろよ。俺たちは世間様から、悪魔と同レベルの存在としてカウントされているんだぜ? 悪魔を見つめ続けた結果、自分たちが悪魔になっている。ミイラ取りがミイラになっちまってるわけよ。それを聞いてどう思う?』

 御殿は反論しない。悪魔退治は清い心で行いましょう、女神のような気持ちで生きていきましょうだなんて、そんな説教じみた言葉は魂が受けつけないと分かっているからだ。気休めていどに聖水を眺めたところで、一度でも心を闇に支配された経験は忘れられないし、その傷跡が消えることはない。
 御殿も沢木も、傷の味を知っている。そして、この世には人を極端に成長させるエッセンスがあることも知っている。

 ――それは怒りである。

 怒りは人を成長させるための起爆剤だ。起爆剤を以ってして、今までの自分を壊しながら進ませる武器だ。
 そして同時に、破壊をうながす存在でもある。
 今回の場合、後者の意味が強い。

『魔界はあちらこちらに存在する。どっかのバカが食い散らかしたゴミの山、弱者を食い物にするハゲタカのような集団、道を歩けばそれらに遭遇する。目をそらしても向こうから近づいてくる。ちっぽけな魔界があちらこちらにあるのさ。そういうところなんだよ、人間界ってのはよお』

 ここは人間界であり、人が支配する世界だ。同時に、あちこちに魔界の入り口を作っているのも人間なのだ。

 小さな魔界の数々は、やがて融合して巨大な魔界へと進化を遂げる。
 魔界は、落ちている空き缶やタバコの吸い殻からも作られる世界なのだ。
 自分さえ楽しければいい。
 他者の苦痛など想像しない。
 身勝手な自己満足や怠惰は、そこに闇を作り上げる原因となりうる。
 
『魔界を作ってるのはよお、他でもない人間たちなわけよ――』

 沢木の言葉を胸に、御殿は部屋を後にした。

 黒い心の蓄積によって、世界のどこかは暗黒を肥大化させる。
 悪魔はどこからやってくるのか?
 それは魔界である。
 魔界を成長させるものは、人の心である。
 人の心こそが、魔界のはじまりである――。