5 人喰い絵画


 2033年12月。
 今から半年近く前にさかのぼる。

 人並み外れた力を持つ獣人たちでさえ、職には頭を悩まされるものだ。
 どこの世界でも助け合いは必要である。恋音れおんと狐姫も、かつては互いに求人情報を持ち合っては生計を立てていた。

 あの日、恋音はクライアントである神城静也の好意で求人枠を抑えることに成功した。つまり狐姫にも恋音と同様、神城一家のボディーガードを任される。そんな未来が用意されていた。
 元シュベスタ研究員にどんな過去があれど、獣人ふたりが護衛につけば心強いはずだった。

 恋音は狐姫と仕事ができることを楽しみにしていた。しかし、それが叶うことはなかった。待ち合わせの時間に狐姫の姿はなかったのだ。

 恋音が獣人街の子供たちと話をしている。
「――え? 焔衣が人間と一緒に出かけた? どんな人? どこに行ったの?」
 面食らった恋音。聞きたいことを子供たちに向けていっぺんに吐き出した。
「ん-とね、お菓子くれたお姉ちゃん。黒髪ロングの人間。おっぱいデカいの。隣町で暴魔が暴れているから行ってくるって」
 子供たちは楽しそうにお菓子を食べている。恋音はそんな表情を見たことがなかった。

 お菓子をくれた黒髪ロングの端末に緊急の呼び出しが入り、そこに偶然狐姫がやってきたらしい。
 狐姫は黒髪ロングと軽い会話を交わした後、バイクの後部座席にまたがり出ていってしまった。つい3分前の出来事だった。
 恋音とは入れ違いで、狐姫は獣人街を去った。
 
 それを子供たちから聞かされた恋音は、煮え切らない態度で施設を後にしたのだ。

 それから数日が過ぎ、狐姫は恋音のもとに戻ってきた。
 この時、すでに他社との契約が完了し、狐姫は新たなるパートナーを迎えていた。

 恋音は時折、そのことを思い出しては虚しさに包まれる。
 友人への執着がそうさせる。
 暴力祈祷師としてのプライドがそうさせる。
 自分には何も残ってないのではないかと、不安が心を支配する。
 だからこそ、手の届くものを必死にかきあつめようとする。
 そんな子供でも戦場に駆り出される世界。この世は残酷の塊だ。

 金盛は恋音から写真を奪うと、そこに写っている御殿ことのと狐姫を見せつけた。
「なあ獅子しるこおぉ~。おまえなら出来るだろう? このふたりを殺れるか? 殺やれるだろう? んん~?」

 恋音はワンテンポおいて、金盛から逃げるように体を逸らした。腐った油臭さ、そしてスロー再生された音声を延々と聞かされているような不気味さも、すべてにおいて耐えられない。女の子が生理的に受け付けない男の代表格である。

「小生にはわかる。そのふたりは何もしていない。神城を拉致しているなんて何かの間違いだ!」
「ほお~う、どうしてぇ~そう思うんだあ~?」

 脂ぎった巨大な顔をこれでもかと恋音に近づけてくる。

「なあ獅子よぉ~、おまえぇ~、そのふたりをぉ~知ってるのかぁ~? んん~?」
 金盛は催眠術にかける前のように、なおもゆっくりとした口調で話しつづける。
 恋音はくちびるを固く閉ざしたまま、金盛を睨み返した。

「お~まぁえええぇ~、やけに反抗的な目つきを~、しぃてぇいぃるぅう~なあぁ~?」
 ジワリジワリと巨体が恋音に近づいてきて、彼女の逃げ場をうばってゆく。
 恋音は冷や汗を垂らしながら、ゆっくりと後退するしかなかった。
 そうやって壁に追い詰めると、金盛はタラコのように分厚いくちびるを引き上げた。

「上司に歯向かうヤツぁ~、づぁ、ずぁ、残業ぉ~がぁ~、必要だぁ~」

 恋音の背中が壁に密着する。
「……」
 部屋の異変に気づいた時には手遅れだった。部屋の気温が急上昇し、体中から汗が溢れ出し、そこらじゅうに黒い折り紙が充満しはじめた。
「黒い折り紙? いや、これは……焦げた紙だ!」
 紙が恋音の手の中で炭となってボロリと崩れ去る。
「なぜ燃えた紙キレがこんなところに……?」
 振り返ると、そこには壁一面を覆うほどの絵画。赤い絵具をぶちまけた絵の中には、灼熱の地獄が広がっていた。
 恋音は絵の中に一匹の大型犬を見つけて驚愕した。

「ソレイユ!」
 恋音が叫ぶと、金盛は目を見開いて不気味な笑みを浮かべた。
「なんだぁ~、おむぁぁぁえぇぇ~、やっぱりそのクソ犬を~、知っていたのかぁ~。なら話は早いぃ~」

 恋音は半身に構えると、日々の中で感じていた疑問を直球でぶつけた。

「金盛! おまえやはり人間じゃなかったんだな!? 神城をどこに隠した! 答えろ!」

 金盛は眼球をむき出しにしながら、にやけた表情で歯茎をむき出し、ふたたび恋音に言い放った。

「気づくのがあああぁ、お、遅いいぃ~。おむぁえもぉ~、せいぜい赤霧にぃぃ~、血肉を捧げろおおおぉ~。暴力祈祷師たちの悲鳴で、でっ、でえぇぇぇ、絵画の空腹を満たせえぇぇ~、グェヘ、グェヘヘヘヘ……」

 額縁が牙を突き立てて大口を開けると、恋音を頭から食らいつくした!


御殿の初潮


 MAMIYA研究所――。
 水無月班 応接室。

「ふう」
 御殿、深いため息。最近のことをアレコレと思い出しては、気持ちも体も重くなっていた。

 彩乃がコーヒーの入ったカップを差し出す。
「あら、どうしたの御殿ちゃん。ため息なんてついて」
 ソファーの上、御殿の横にならんで腰を下ろす。

 先日、御殿は自身の体調不良の件を母である彩乃に打ち明けたばかり。その話というのは、御殿の体が女性へと変化したことである。

 数日前の早朝――。
 自身の性器に違和感を覚えた御殿だが、トランクスが血まみれになっていたことにギョッとする。狐姫に気づかれぬよう、そそくさとバスルームに駆け込み、汚れた下着を洗ったのは記憶に新しい。
 結局、下着に付着した血は落ちる事がなく、真新しいそれを泣く泣く捨てるハメになった。

「――最近、腹痛はありますし、腰は重くてうまく動けないしで困ってます。おまけに眠気もあって仕事に差支えがでますし、お腹だってすくし。わたし、変な病気にかかってしまったのでしょうか?」

 病気にかかるような覚えはない。健康にもかかわらず、男の子・・・がもげてしまった……という心配をしているらしい。

 深刻そうな顔をする御殿に彩乃が寄り添う。
「ばかね、おかしな心配なんかして。前にも話したでしょう? あなたは本来、女の子として生まれてくる予定だったの」
「わたしの性別は……女性――」

 先日、たしかにそう言われたはずだ。ふくよかな胸に手を添えるたび、細いウエストや丸みを帯びたヒップを見るたび、彩乃の言葉がしっくりきてしまう。

「――ええ。本来、あなたは女の子。八卦のハイヤースペックを発動したことも、性別が戻る理由のひとつね。能力を制御できるようになり、だんだん体が本来の姿に戻ってきてるのね。安定している証拠よ」
「安定ですって? ですが、頭痛くなったりイライラしたり、血まみれになったりするんですよ? 安定どころか不安定の塊ですっ」

 イラつきもあり、少々彩乃にキツくあたる御殿。弟の水角みずのにもキツく当たる日々が続いていた。
 けれども娘の不安な気持ちを受け止めた彩乃は、次の言葉を発するのだ。

「体の不調のことだけど……」
 彩乃が診断書を差し出し、事情を説明した。

「――生理ね」
「――せぃ……え? え?」

 御殿はポカンと口を開けたまま、言葉をうしなった。自分の身に何が起こったのかまだ分かっていない。
 彩乃は御殿の横に座ると、頭をたぐりよせて抱きしめた。
「おめでとう、御殿ちゃん。あなたは立派な大人の女性になったのよ」

 御殿はなおも、無言のまま。どういった言葉を発したらよいのか分からなかった。

 先日、御殿は初潮を迎えたのだ――。

 当の本人は、ただただポカンと口を開くだけだった。

「精神の不安定や出血で戸惑うでしょうけれど、困った時は遠慮なく相談にのるわ」
「水無月先生も、その、そういう症状があるのでしょうか?」
「ええ、あるわ」
「あるんですか!?」

 御殿が声を荒げた。
 そんな娘を彩乃がなだめる。

「生理が始まってからまだ日が浅いようだけど、今までどんなふうに対処していたの?」
 問われた御殿だが、正直に答えるのが恥ずかしくて唇をかみしめ、耳まで真っ赤にしながら言葉を飲み込んだ。けれども、この世界では口にしなければ先に進まないことのほうが多い。困った時には正直に、真っ先に信頼できる人に相談したほうが効率的にことが運ぶ。
「テッシュを、下着に……、つ、詰め込んでます」
 御殿にだって恥ずかしいことの1つや2つはある。

 出血でトランクスを汚した朝、こびりついた血は完全には落とせなかった。それを目の当たりにしたこともあり、慌ててボクサーパンツに切り替えてティッシュで出血をごまかすも、それを頻繁に交換することに時間を有していた。生理用品の知識がなかったのだ。

 御殿の話を聞いた彩乃が、気の毒そうに肩をすくめた。

「これからは生理用品が必要になるから種類を覚えておきなさい。初めは生理用ナプキンのほうがいいかもね。慣れてきたらタンポンという選択も考えてみて。戦闘中に激しい動きもするでしょうし、水泳の授業も始まるでしょう?」
「スナフキン? タンポポ?」

 御殿が首を傾げている。タンポポの横で、呑気にギターひいてるだけの無職ニートを思い出す。いや、思い出してる場合ではない。

「健康な体なら、生理は毎月くるから」
「毎月!?」
 素っ頓狂な声をあげる。めんどくさいったらありゃしない。言葉に出さずとも彩乃には伝わっていた。
「ええ毎月。できれば御殿ちゃんには戦闘を避けて安静にしていて欲しいのだけれど……」

 生理中だけではなく、日々の暴力的な仕事も避けて欲しいと願う彩乃。母親なら子供の危険行為に嫌悪を抱くもの。気が気ではない。そんな感情を押し殺してペンとメモを取り出すと、昼用・夜用などと丁寧に書きこんでゆく。

 メモにつづられる文字を真横で見つめる御殿があっけにとられている。
「そんなにたくさん買うんですか?」
「ええ。日によって出血量が違ってくるから。あと頭痛薬も必要かもね、頭痛生理痛のお薬。テレビのCMでみた事あるでしょう?」
「テレビ、あまり見ないので」
「そうだったわね」

 御殿は稼がないと食べてゆけない。テレビに時間を取られるくらいなら体力づくりに当てたほうが効率よく仕事をこなせる。

「生理、来なくなる方法とか、ないんですか?」
「ふふ、誰しもそう思う時はあるかも。けれどもね、これはとても大切な現象なの。少しづつ慣れていきましょう」
「止める方法はありますか?」
「バカなことを言わないの。あなたの年齢の場合、来なくなった時は何らかの異常があるか、あるいは……」

 彩乃は少しおいてから口を開いた。

「――あるいは妊娠した時かしら」
 それを聞いて御殿は少々声を荒げた。
「に、妊娠!?」

 遠くで作業していた研究員たちが何事かと振り返った。
 それに気づいた御殿はあわてて声を殺す。

「……妊娠、ですか?」
「ええ、妊娠。妊娠中は生理が止まるわね」
「お腹の中に赤ちゃんができる、あの?」
「ええ、お腹の中に赤ちゃんができる、あの妊娠のこと」
「えっ、わ、わたしに……あ、赤ちゃんができる、ということでしょうか?」

 顔色を伺うように彩乃を上目づかいで見つめる御殿。ビックリするのも無理はない。つい先日まで男の子だったのだから。

 御殿は口を閉ざし、言葉を絞り出すようにする。
「と、ということはつまり……男の人と、そういうこと・・・・・をすれば……、妊娠……してしまうと……、そういうことでしょう、か?」
「まあ、避妊しなければ出来るかもね」

 御殿は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。視線を向けたり逸らしたり。つまり、その、恥ずかしいのである。

「私は御殿ちゃんと水角ちゃんをお腹に宿すことはできなかったけれど、結果として大切な命を与えてもらえた、それもふたりも。あなたの場合、健康である以上は子供が作れる体ということなの。でも、ちゃんと避妊しなきゃダメよ? まだ学生なんだから」
「ふぁ!?」

 ふたたび素っ頓狂な声を荒げる御殿。顔がゆでダコのようになって蒸気を上げている。
 そこに彩乃が追い打ちをかけてくる。

「相手が男の人じゃなくても、想夜ちゃんみたいな妖精とイチャコラすれば妊娠するかもね。でもちゃんとしなきゃダメよ、避妊」
「そっ、そこまで話を広げなくてもいいんですっ」
「あとは身近な人に相談するといいわ。狐姫ちゃん、想夜ちゃん、それから……」
「狐姫と想夜に? なぜです?」
 まわりの女子には生理がないと思っている暴力祈祷師。体は大人、頭脳は子供。

 彩乃から女の子の事情を聞かされた御殿は、ただ目を白黒させるばかり。月のそれについては、御殿よりも想夜と狐姫のほうが少しだけ先輩だ。

「あとは叶子さんと華生さんにも相談するといいかもね」
「叶子と、華生さんにも……?」

 今まで接してきた人たちが途端に大人に見えてしまう御殿――ひとりだけ取り残された感に不安を抱き、どういう顔をしていいのか分からず、深々と頭を下げて研究室を後にした。

 その場に残された彩乃にも悩みがある。娘の初潮は母として喜ばしいニュースだが、いつまでも暴力祈祷師という危険な仕事をさせておいてよいものかということだ。
「けれども妙ね。狐姫さんなら生理臭を嗅ぎ分けられると思うんだけれど……鼻づまりかしら?」

 獣人特有の嗅覚なら血の臭いは嗅ぎ分けられる。狐姫がよほどの勘違いでもしていなければ(笑)。


 MAMIYA研究所 駐車場。

 御殿はバイクの横に立ち、広がる空に目を向けた。
 晴れわたる空。目を凝らすと想夜が飛んでいるような錯覚さえ覚える。
 聖色市せいろんしに来てからというもの、いつも想夜の姿を見ている気がする。

「想夜が未来の旦那様?」
 少しばかり頼りない、されど一生懸命に働く想夜おっと。それを支える御殿つま――「めし、風呂、寝る」だけ言う想夜の帰宅を待つ自分の姿、今のところ想像できない。

 性別の変化を仲間に報告するのも気が引けた。恥ずかしいとこの上ない。
 これから御殿は、本来の性別を受け入れる準備をしなければならない。受け入れながら、女の子としての生活に少しずつ慣れてゆくのだ。
 八卦と言えど、体は普通の女の子と変わりない。悩みも年相応のものである。

「しかし狐姫にも生理があるということ? ……ショックね」
 妙なところでマウントを取られそうで怖い。「アレレ~? 御殿さん、生理まだだったんですかぁ~? ニヤニヤ」とか言いそう。御殿に対する追い打ち&死体蹴りは狐姫の18番おはこだ。


男の子、女の子


 MAMIYA研究所から出た御殿は薬局に立ち寄ったあと、その足で愛宮邸をおとずれた。

 御殿を自室に通す叶子だったが、ふと異変に気づく。
「顔色すぐれないわね。何かあった?」
 覗き込む叶子に、御殿は首を振った。
「何でもない。少し疲れているのかも」

 御殿はそう言って、紙袋を後ろに隠した。周囲に打ち明けるための心の準備はまだできていない。

「そう? ならいいのだけど」
 御殿の態度を一瞥した叶子は、何事もなかったように紅茶をすすめた。


 叶子がカップから口を離す。
「昨晩、狐姫さんが来てたみたい。友達のことで何か調べてたみたいだけど」
「狐姫が? もうっ。夕食までには戻るように言ったのに」
 カリカリする御殿を見た叶子が苦笑する。

「そうは言うけど狐姫さんだって普通の女の子なのよ? 友達の悩みを持っていてもおかしくないことだわ。甘えたい気持ちだって持っているはずよ?」
「狐姫が甘えたい? 狐姫は強いから、それはないでしょう」
 いつも気丈に振る舞う狐姫の姿が、御殿の脳裏には焼きついていた。

 叶子がため息まじりで肩をすくめる。

「本当にそう思っているの? 心が折れそうな者ほど気丈に振る舞うものなの。風前の灯火という言葉もあるでしょう?」
 消える瞬間の炎は一瞬だけ勢いさを増す。空元気の先にあるのは空っぽの心だ。
「風前の灯火? 狐姫に限ってそんなこと」
「狐姫さんだからなの」
 叶子が御殿の言葉をさえぎった。
「狐姫さんは獣人だけど、心は普通の女の子なの。そもそも若い男女が一つ屋根の下で暮らしていること自体、変だと思わない?」

 男と女――そこ言葉に御殿はさっそく違和感を覚えた。今の自分はどうなのだろう? 男なの? 女なの? 彩乃との会話で、その答えはすでに出ている。

 自身の体の変調を打ち明けようと思った御殿だが、それでも話をはぐらかそうとする。だんだん相方との距離の取り方が分からなくなっているのだ。深く考えることから逃げようとしているのだ。
「狐姫がわたしとの関係を意識してるとでもいうの? 今さら?」
「あら、してないとでも?」

 逆に問われ、口を閉ざす御殿。
 そこに叶子が追い打ちをかけてくる。

「なら聞くけど、女の子の想夜と一緒に生活できて?」
「考えたこともないけど、多分、できない」
「理由は?」
「想夜は女の子、だから?」
「男の子のあなたは女の子との同棲に戸惑うはずよ? なら狐姫さんの場合は?」
「……」

 答えられずに口を閉ざす御殿だったが、答えは出ていた。今さらになって意識しはじめるのは御殿も一緒だ。冷静に考えてみれば、今までよく男女共同の生活ができていたものである。
 同棲に関しては当初、御殿のほうから距離をとるよう言ったはずだ。そして、御殿の言葉に耳を傾けなかったのは狐姫のほうである。そうやって、いつの間にかズルズルと生活をともにするようになったのだ。

「狐姫は、普通の女の子――」
 そう意識しはじめた瞬間、相方との距離が肥大してゆくことを自覚した。

「で、でも、一緒に住むって言い出したのは狐姫のほうからだし」
「分かってないわね。いい? 狐姫さんは獣人コミュニティに属していて、人間である御殿とビジネスパートナーを築いているの。あの若さで獣人コミュニティを背負っているの。獣人が人間と生活できることを証明するための模範材料として身を投じたのよ」

 人間は敵ではない。人間は味方であり生活を共にできる存在だ――獣人たちの見本となるべく、狐姫は身をもってそれを証明できるように努めている。

「狐姫はわたしとの生活に、ずっとガマンを強いられてきたとでもいうの? 狐姫は自己犠牲を選んだとでもいうの?」
「私からは何とも言えない。それは狐姫さんから直接聞くことね」

 御殿は少しふてくされた感じでうそぶいた。

「だったら、最初から女性のエクソシストと組んで生活すればよかったのに」
「そんなエクソシストがいたら、狐姫さんはその女性とコンビを組んでいたはずよ? 獣人である狐姫さんは多くの人間に虐げられてきたと思うの。皆、粗暴な獣人と組むことを嫌がってたし、弄ぶ人間だっていたはず。もう一度、狐姫さんと出逢った日のことを思い出してみて――」

 御殿は愛宮邸を後にする。
 その後もずっと、叶子の言葉が頭に残っていた。


 帰り道、陽は沈んでいた。
 赤信号で停止したバイクの上で、御殿は遠くに広がる街明かりを見渡した。

 思い出すのは、たった数か月前のこと。狐姫と出逢った頃の話だ――。

 御殿に緊急の呼び出しが入ったのは、獣人街を訪れてから数時間が経過した時だった。関東エリアで暴魔が暴れているとのことで、暴力祈祷師が不足しているとのこと。
 いくら暴力祈祷師が強いとはいえ、少人数では太刀打ちできない敵もいる。その場合、声かけをして戦力をそろえる。

 ちょうどそこへやってきたのが狐姫だった。

 必然にせよ偶然にせよ、御殿が戦場から声をかけられたことにより、狐姫もそこへ駆り出されることとなった。

 戦闘が済んだあとも、狐姫は住居を転々としていたこともあってか、御殿との共同生活を提案する。

 ――こうして、ふたりの生活がはじまるわけだが、問題はその後も続く。

 共同生活をはじめてから半月ほど経過しても、その距離は縮まらなかった。狐姫がどこで生まれどこから来たのかも知らないし、知りたくもなかった。
 御殿自身のストイックさもあり、お互いに腹三分の付き合いにとどまっていた。仕事が片づけばそこでお役御免。あとは好きに生きればいい。そんな薄っぺらな関係である。

 御殿も御殿で記憶を失ってもなお、晴湘市せいしょうしの悲劇からパートナーを作ることに潜在意識下で躊躇していた。大切な人を失った時の代償があまりにも大きすぎる。これ以上、心の傷をえぐられるのはゴメンだ。心の奥底で、そう感じながら生きてきた。

 初対面の狐姫を戦場に誘った時も、言葉は素っ気ないものだった。

『これから隣町に乗り込む。暴魔対応料は出る。そちらの交渉には興味ない。やるかやらないか、それだけを聞かせて』

 御殿ときたら、まるでロボットだ。とても感情が備わっているようには見えない――狐姫が漆黒のエクソシストに嫌悪感をしめしたのも事実だ。御殿の手前、その場でツバをはいて威嚇したものである。

『ペッ、なんだおまえ? 気持ちが悪りいヤツだなあ。人間なんてみんな同じだよな。上から上から。ものの言い方気ぃつけろよ。焼き印入れて家畜にすんぞブス』

 一触即発。狐姫も人間不信がかなり進行していた。人間に対してのひねくれた感情は日常茶飯事。

「出逢いは最悪だったっけ――」
 我ながら冷たい口調に反省するばかり。そもそも自己紹介もままならなかった気がする。
 信号が青に変わり、バイクを発進させた。


 ほわいとはうすに帰宅した御殿は、狐姫のために夜食を作って待っていた。今日帰ってこなければ、もう2日も家を空けていることになる。電話もメールも返信がない。想夜たちに連絡を入れたが行方は分からなかった。
「狐姫、いったい何があったというの……?」
 すでに御殿は平常心から外れていた。

 いつまでも誰かを待つ。
 そんな時間を育ての親である調太郎は味わったことがあったと、本人から聞かされた。
 どんなに待っても大切な人たちは帰ってこない。それがどんなに心配なことなのかを、今になって知る。大切な人を作るというのはそういうことなのだ。
 他者と己は繋がっている。大切だからこそ、痛みも喜びも共有できるのだ。他者が己の一部となるのだ。

 けれど、どんなに心配をかさねても、その日も狐姫は帰ってこなかった――。


 深夜、御殿の端末に一本の電話が入った。
 寝ぼけ眼で確認すると、電話の相手は沢木だった。

『おう、咲羅真さくらまか? 俺だ、沢木だ』
 沢木の慌てた様子に違和感を抱く。
「沢木さん? どうしたんですか、こんな夜中に」
 ベッドの上、寝ぼけ眼で端末を握るが、返ってくる言葉に御殿は耳を疑った。
『実は焔衣のやつが――』
「――狐姫が!? それは確かなんですか!?」
『ああ、さっき愛宮総合病院に運んだ。すぐに来い。ロビーで待っている』

 御殿はベッドから飛び起きると、支度を済ませて部屋を後にした。


沢木の過去


 愛宮総合病院――。

 御殿と沢木が待合室で話し込んでいる。

 沢木が狐姫を発見した時にはすでに意識がなく、本人からは何も聞かされてないとのことだった。
 多少の打撲はあるものの、どれも軽傷。しばらくすれば目を覚ますとのこと。
 それを聞いた御殿は、少しだけ胸を撫でおろした。

 禁煙なのがこの上なく苦しいようで、沢木はポケットからタバコの箱を出したり入れたりを繰り返している。
「ほんらい人が悪魔に憑依されるってのはよお、人と悪魔の波長がシンクロした時に起こる現象だ。だが、悪魔がその気になれば、どんな善人でも墜とすことができる。圧倒的な悪を前に、人は成すすべを持たない。この世は弱肉強食だからな」

 沢木の言うことはもっともだ。晴湘市での御殿は今と違って無力そのもの。豹変した妖精と悪魔を前に何もできないでいた。

「今になっても考えちまうんだよ。どうして女房は悪魔に憑依されちまったのかってね。女房の心に闇があったのか、はたまた一方的に悪魔に憑りつかれちまったのか」

 沢木が缶コーヒーをチビリとやる。
 御殿は黙って耳を傾ける。
 
「女房は静かな性格でよお、誰に対しても反論しないほどだった。それがどうよ。憑依された途端、裸足でスクランブル交差点を駆け抜けて、通行人たちを殴り飛ばして爆笑してやがった。背負ったリュックの中に、切断した息子の頭を突っ込んでたらしくてよお。俺はつくづく悪魔に愛されてるんだね、ははは……」

 投げやりにほくそ笑む沢木。当時勤めていたスーパーに警察から連絡が入った時のことは、今になっても脳にこびりついている。悪夢となり、脳にこびりついて離れない。
 さすがの御殿も聞くに堪えられなかった。耳を塞ぎたい事件だった。

「それを面白おかしくニュースとして取り上げるメディア。肩書ばかりのコメンテーターのニヤけた顔も、ネットに好き勝手書き込む連中も、俺にとっちゃ悪魔に憑依された人間どころか悪魔そのものだね。日本中、世界中、悪魔だらけさ。こんな世界で人間に何ができる? 対抗できるのか? できないから俺たちがボコボコにしてやってるだけさ。最近、自分が天使じゃないかって思えてくるぜ。暴力祈祷師バンバンザイさ」

 沢木の言うことはもっともだ。この世には、人のツラした悪魔がウジャウジャと涌いている。それを蹴散らすのも暴力祈祷師の役割だ。そのためなら核弾頭にも手を出しかねない連中だ。

「俺ぁよお咲羅真、この手で悪魔の心臓をえぐり出して、その辺に干物みたいにつるし上げてやりたいのさ。けれどもな、それを考えるたびに、俺自身も悪魔になっているような気分になるんだ。人が憎悪を持つことが悪魔の狙いならば、俺は悪魔のトラップに見事ひっかかっちまってるわけさ。悪魔からしてみれば、してやったりだろうよ」

 沢木がジッポを見つめながら、話を続ける。

「だがな、悪を持って悪を征することができるなら、俺はいつだって悪魔になれるぜ。いつだって人を成長させるのは怒りだ。俺は怒りによってここまで来れた。おまえだってそうだろう? 怒りが人を強くさせる」

 御殿は沢木の言葉を否定しなかった。晴湘市での出来事により、御殿は怒りを抱きながら戦場を突っ走ってきた。

 怒りは全ての不可能を可能にさせる燃料だ。時として、それなくして何かを成し遂げることはできない。

 沢木が強靭な暴力祈祷師なのは、心に地獄を抱いているからだ。その強さたるや、御殿と肩を並べるほどである。

 怒りは時として、人間を前へ前へと突き動かす。
 怒りは時として、人間を奮い立たせる天使にもなる。

 こんな時、どんな言葉をかけたらよいのだろう? 御殿は手探りでそれを探している。
「沢木さん、うまく言えないけれど、その――」
「いや、いいんだ。慰めてもらうためにこんな話をしたんじゃない。俺のほうこそつまんねえ話を聞かせちまったな」

 そこへ看護師がやってきた。

「お、焔衣が目を覚ましたようだぞ。俺は帰るからよ、しっかり相方を診てやれや」
 沢木と当時に御殿も立ち上がる。
「沢木さん、ありがとうございました」
「おう、あとは任せたぜ。じゃあな――」

 そっけなく出て行く背中に、御殿は頭を下げた。

 沢木が何かを思い出したように振り返る。
「あーそうそう、獣人の相方を探してんだ。火力が有りあまってる火属性のヤツ。威勢のいいヤツいたら引っ張ってきてくれや。紹介料出すからよ。 ……2000円な。今金ねーんだわ」
 申し訳なさそうに笑う沢木。
 御殿はくすりと吹き出した。
「わかりました」
「ほんじゃな」

 自分が窮地に陥っていてもなお、まわりを楽しませる男。それが天使じゃなくてなんなのだろう。沢木が心から笑える日を願う御殿だった。