2 暴力祈祷師ぼうりょくエクソシスト


 PM 22:35
 聖色市 流船せいろんし るふな
 青い月が集合住宅を照らしている。

 駅から離れた場所に古びた団地がある。
 築数十年が経過した5階建ての鉄骨造り。エレベーターもなく、普段であれば静寂な空間に包まれている場所。
 だがこの日はいつもと違った。

 新宿の本社から連絡を受けたのは、つい2時間前。緊急事態ともあり御殿ことのに白羽の矢が立ったのだ。

 情報によると、団地に住む10代の少女が悪魔に憑りつかれたとのこと。
 普段は大人しい子であり、むやみに他人を罵るようなマネはしないらしい。
 それが現在、鬼のような憎悪に満ちた表情で声を荒げ、人間離れした怪力で物を破壊し、周囲の者たちを殴り飛ばしているとのこと。
 少女ひとりに対し、大の男が10人がかりで取り押さえたが歯が立たず。
 専門業者、いわゆる祈祷師たちが作業に当たってはみたが無意味に終わる。
 一足早く暴力エクソシストが駆けつけてベッドに縛り付けたのが4時間前。
 手足をヒモで縛られてもなお、少女は汚い言葉を発し続け、目に映る者たちに罵声を浴びせた。

 それは今も続いている――。


 所々、アスファルトが剥がれた駐車場。
 御殿はそこにバイクを止めた。

 ゴミ捨て場には散乱したゴミの山。その横を抜けると小さな公園に入る。
 砂場には子供のおもちゃが残されており、普段は穏やかな時間が流れている場所だと感じた。

 団地の住人だろう。井戸端会議中の主婦たちが口々に情報を伝えあっていた。

「やだわ、4階のあの子どうしちゃったのかしら?」
「変な薬でもやってたんじゃないの?」
「それが聞いた話だと、突然頭がおかしくなっちゃったんですって」
「まあ怖いわねえ……」

 心配そうにするもの、あらぬ噂を立てるもの。なんにせよ、それを調査するのが今回の任務だ。
 この手の事件には慣れっこ。御殿は歩みを早めることもなく、ゆっくりと建物の入口に足を踏み入れた。

 建物内にはすでに数名のエクソシストが到着していた。

 御殿を確認するや、数人のエクソシストが悪態をつく。
「ふん、また暴力祈祷師さまのご登場か」
「祈祷師って言うなよ。チンピラの間違いだろ」
 一般の祈祷師エクソシストからは忌み嫌われている存在。白い目を向けられ、鼻で笑われる。

 ひとりの男が近づいてきた。名は沢木。御殿の同僚である。50手前のやせ型、長身、白髪交じりの短髪に無精ひげ。カラーグラサンの向こうに切れ長の目。銃器の武装もしており、服装は御殿と同じ黒装束。彼もまた、悪魔に激しい憎悪を抱くひとりである。

 足早に歩みを止めない御殿の真横、沢木が寄り添いながら説明を始めた。
「すまない咲羅真さくらま。おまえが聖色市で仕事をしていると聞いて応援要請を出した。俺ひとりでは手が付けられない荒れようでな」
 それほど慌てた口調ではない。だがピリピリとした空気がふたりを包んでいるのは事実だ。
「気にしないで下さい。よくある事ですから。で状況は?」
「少女は両親と3人暮らし。おまえも知ってるだろ? 昨日ニュースにもなっていた」
「行方不明だった子ですね。無事に保護されたと聞いてますが?」
「ああ表向きはな。警察だって隠しておきたいことの1つ2つくらいある」
「不祥事とか?」
「ご名答。そして今回のケースもだ。いつもは暴言を吐くような子ではないらしい。聖水ぶっかけて、ひるんだ隙にベッドに縛り付けた。すごい怪力で、もうすぐ縛ったヒモも引きちぎりそうだ。体を完全に乗っ取られるのも時間の問題だ」

 そう言って見せた右手首は、通常の2倍ほどに腫れあがっていた。少女の腕力がどれほどのものかを知るには容易だった。

 心配する御殿の表情が曇る。
「手、大丈夫ですか?」
「未成年には手を出すなってね」
 冗談交じりで沢木は右手首を守るように肩をすくめた。1分後に立ち向かう少女は悪魔。前途多難である。

 ふたり、階段をのぼって4階通路に出る。
 内廊下から見下ろすと、枯れ果てた公園から住人がこちらを見ている。皆、不安げな表情。

 御殿と沢木がせまい通路をズカズカ進んでゆく。
「他にもエクソシストがいたようだけれど?」
「ああ、見物人と変わりないね。プライドばかり一人前でよお、聖水と聖書があれば悪魔とファックできると思ってやがる。雑魚はすっこんでろってね」
「その様子だと除霊もまだね」
「へっぽこ祈祷師たちが試みたが、除霊中にケツを殴り飛ばされてたな。呪符の代わりに湿布を貼ってやったよ」
「それで暴力祈祷師わたしたちが呼ばれたと?」
「元気いいのは全部暴力祈祷師こちらに回ってくる。一般のエクソシストはお呼びじゃねえのよ」
 切羽詰まった時に無精ヒゲをさわるクセは今でも健在だ。

 狭い廊下に群がる住人。それをかき分け玄関の中へ――。

 少女の父親だろう。御殿を見るや、すがるように口元を動かすが、あまりの動揺でうまく言葉を発することができない。
 母親らしき人物もその場で泣き崩れていた。

 娘を助けてください――ただその想いだけは御殿の心に伝わっていた。
 
「こっちだ咲羅真。銃は使うなよ、住人がビビる」
 沢木に案内されて少女の部屋に入ると、異様な感覚に襲われる。
 肌寒い季節だというのに、湿度で部屋の空気が濁り、嫌な熱気が肌にまとわりつく。

「ひどい光景ね」
 壁紙はかきむしられ、真っ赤な縦線が無数に走っている。
「ああ、壁じゅう引っかき回してご覧のありさま。かわいそうに、女の子の爪もご覧のとおり全て剥がれている。大家も泣いてるね」

 目の前ではベッドに両手足を縛り付けられた少女が全身を使い、悶えるように身をよじっている。

 御殿はベッドに乗り上げると少女にまたがり、腰を下ろして全体重で無理やり押さえつけた。
 苦しむ少女の頭を沢木が両手でしっかりと抑え込む。
「いいぞ咲羅真。はじめてくれ」

「ギャアアアアウ!」
 ガラスをひっかくような叫び声のあと、少女の頬が盛り上がり、皮膚の中から黒い悪魔が浮かび上がる!
「さっそくご登場か!」
 沢木が口を開いた瞬間、御殿は少女の横っつらにパンチを1発食わらせた。暴力エクソシストならではのやり方。悪魔には容赦ない。
 あまりにも狂暴すぎる除霊に、居合わせたエクソシストたちも唖然としている。
「これが俺たちのやり方でね」
 手も足も出せない外野にウインクする沢木。御殿が到着する前、憑依された少女をたったひとりで抑え込んだツワモノ。愛しい人たちを悪魔に殺されて以来、どこか心が壊れている。

「沢木さん、無駄口叩いてないで手伝って」
「あいよー。おまえ前より短気になった? まあそのほうが人間味があっていいけどね」
 両手でガッチリと少女の頭部を固定する沢木。実のところ、以前のストイックな御殿はロボットみたいで苦手だった。
 御殿は少女の口に聖水を流し込み、すぐ両手でふさいだ。

 御殿と沢木が悪魔祓いの詠唱を口ずさみ、憑りついた悪魔に立ち向かう。
 狂気に満ちった部屋に流れるラテン語。

 暴れる少女が次第に大人しくなる。
 ビクン、ビクン……
 しばらくして、痙攣がピタリとやんだ。

 静まり返った部屋の中、沢木が聞き耳を立てている。
「……来るぞ。やつらの叫び声が聞こえるだろ?」
「ええ、戦闘開始ね」
 御殿が髪をかきあげ、呼吸を整えた。

 次の瞬間、棟全体に動物の奇声が轟いた!

「ギャアアアアアアウ!」
 疾風のごとく少女から飛び出した人型の影。その姿たるや全身の皮が剥がれた真っ黒い大猿。成人男性ほどの大きさはある。
「ギャアアアアウ!」
 部屋のど真ん中に立ち、ナイフのような鋭い牙を剥きだして吠え立ててくる。
「な、なんだあの化物は!?」
 眼球むき出しの悪魔と目を合わせた途端、名ばかりのエクソシストたちが我先にと逃げ出してゆく。
「なんでえ。蹴られたケツはもう治ったのか」
 呆れる沢木。湿布代の請求は後回し。

 部屋に残った御殿と沢木に吠えまくる悪魔。まるで怒りの塊を声に込めているかのように鼓膜に叩きつけてくる。
「ギャアアアアウ!」
「はいはい、自己紹介はそのくらいにしとけ~。今からこのおっかないお姉ちゃんが気持ちいいこと教えてくれるから……よっと!」
 と、片手で椅子をつかんでは振り上げ、悪魔めがけて思い切り殴りつけた!

 バキッ。

 悪魔に直撃した木製の椅子がバラバラに砕け散り、相手から視界を奪う。
 続けざま、沢木は悪魔のこめかみにハイキックを一発。よろめく相手に足払いをかます。
「今だ咲羅真!」

 御殿はひるんだ悪魔に背後から近づくと、横っ腹にボディブローを一発。

 ドンッ

 重い音とともに悪魔の体がくの字にひしゃげる。
 さらにもう一発。

 ドンッ。

 2発目は反対からのボディブローが炸裂。取っ組み合いで部屋中の物という物が散乱。隙を取り、ひるんだ相手の首に腕を回し、素早くチョークスリーパーでねじ伏せた。

 御殿の胸元で悪魔が床で暴れ、叫び、悶える。
「ギャアアアウ! ギャアアアウ!」
 沢木も悪魔と視線を合わせるように床に寝転ぶ。
「おいてめえ、どうやってこっちの世界にきた? どうやって女の子の中に入った? 言え! 答えろ!」
「……ふ」
 悪魔が口を開く。何か言いたそうだ。
「ふ? なんだ?」
「ファックユー、ギャハハハハハ!」
 高々に爆笑する悪魔。話す気ゼロ。それが答え。
「ああそうかい、あんがとよ。おまえにもファックユーをくれてやる。魔界のボスによろしくな。おい咲羅真、これにファックユーって書いとけ」
 沢木は悪魔に中指を立てると御殿と相槌を交わし、退魔術の施された杭を放り投げた。
 御殿は杭を受け取ると、悪魔の口に捩じり込んで掌底をつくり、脳天に向かって思い切り殴りつけた!
「痛かったら右手を上げて」

 ガッ!

 ギャアアアアアア!

 口の中の杭が脳天を貫いた瞬間、悪魔は真っ黒い灰となって燃え尽きた。
 そして静寂。
 ベッドの上の少女はしだいに顔色を取り戻していった。


 ひと段落し、少女と両親が抱き合っている。愛する者との抱擁は幸せの塊だ。
「いいねえ、家族ってのはさ」
 沢木、まんべんの笑み。
「――なあ咲羅真。今回の件、どう思う? 俺ぁ魔界が人間界を飲み込もうとしているように思えるのだが」
「ありえない。悪魔にそんな力はない。神の助けがあれば別だけど」
「ああ、言いたいことは分かる。だが、実際に……なあ?」

 ふたりが我を取り戻した少女に視線を移す。

 御殿のなかには一抹の不安があった。それは妖精の件だ。今回の事といい、魔界の使者が人間界に押し寄せているのは確かだ。
 御殿自身も妖精と深い関わりを持ち、酔酔会すいようかいの存在を知ったことで、どうしても悪魔と妖精の関係性を勘繰ってしまう。

「妖精界は、魔界と手を組んだ――」
「あ? なんだそれ?」
 ポツリと口にした御殿に対し、沢木が訝し気な顔をつくる。

 御殿は以前、MAMIYA研究所で襲撃されたことを沢木に話した。

「――なるほどねえ。悪魔は神の手を借りずとも、聖なる存在でもある妖精の手を借りれば人間界への出入りは容易い、か」
 沢木は何かを思い出したように、ポケットから一枚のメモを取り出した。
「妖精といえば、これは小耳にはさんだ話だが。なんでも某社の人材ブローカーにおかしな動きが目立ってるらしい」
「人材ブローカー? どこかの派遣会社?」
「ああ、表向きはな。だが裏では悪魔との噂が絶えない。アングラから仕入れた話だと、代表は悪魔じゃないようだが……ありゃあ人間でもねえな。それがここに書かれた会社だ」
 と、メモをペラペラと弄ぶ。
「その代表が妖精、とでも?」
「それを調べるのがおまえさんの仕事だろううがぁ。どうよ、調べてみるか?」
 御殿は少し考えたのち、会社の住所が書かれたメモを受け取った。


 帰り際、すでに住人の気配はなかった。夜も遅いし、他人のことより睡眠が大事。それは誰でも思うこと。

 沢木は駐車場に停めておいた車に乗り込むと窓から顔を出し、御殿に言った。
「俺もおまえも愛する者たちを悪魔に殺されている。そして憎悪が人を悪魔に変える。悪魔やつらが巣くう魔界と人間界こちらは常に隣り合わせだという事をもっと世に広めたいものだな」
「本でも出しますか? わたし買います」
 苦笑する御殿につられて笑う沢木。
「ははっ考えとくよ。また何かあったら連絡する」
「これ、ありがとうございます」
 御殿はメモをチラつかせた。
「なあに気にするな、今回の礼さ。ほんじゃな」
 そう言ってタバコをくわえるとキーを捻ってエンジンを回し、早々に去っていった。

 団地の敷地内。棟の屋上に修道着姿の人影が立つ。きらめく白髪はくはつと尻尾を風になびかせ、冷たい眼差しで御殿を見下ろしていた。


死霊の巣窟


 聖色市 流船。

 深夜0時過ぎ。水角は赤霧の調査に来ていた。
 赤霧の噂を聞いたのは授業中でのこと。クラスメイトがしきりに話題に触れるもんだから気になってはいたが、どうやら赤霧は一定の法則をもとに動いているらしい。

 それは人の感情である――特に怒りだ。一定の怒りが集う場所に赤霧は発生し、その場から人々が拡散すると赤霧も拡散。怒れる人が他人と接触するにつれ、感情も感染。次第に赤霧も日本中に感染するようになった。

「感染する霧か。興味深いけど病気みたいで怖いなあ……」
 手持ちぶさたに端末を取り出した。
「にしても朱鷺さんと瞳栖あいすさん、連絡おそいなあ。どうしちゃったんだろう?」

 しばらく端末とにらめっこ。同じく赤霧の調査に出ている朱鷺と瞳栖からの状況報告を待っているが、今のところ何の連絡もない。

 そうこうしているうちに、赤霧に包まれていることに気づく。
「ちょっと入ってみよう」
 水角はバイクを走らせ赤霧の中へ。

 1キロほど走ったあたりで停止する。
「なんだか静かな場所だなあ。まるで人の気配がないや」
 道端にバイクを止めて一息つく。姉である御殿の力になりたくて、こうしてひとりで調査に身を投じたはいいが、いざ赤霧を前にすると足がすくんでしまう。

 誰もいない道の真ん中に水角が立った。
 車が通る様子もなく、世界から生き物が消えたかのように静寂。
 スゥ。水角は深く息を吸い込んだ。
「おーい! 誰かいませんかー!」

 大声を出すも、犬の鳴き声ひとつ聞こえない。
 
 もう一度。

「おーい!」

 そんなことを2度3度繰り返していると、どこからともなくラップ音が響いてきた。
 
 ピシッ。パキッ。
 
 枯れ木を折ったような、地面に叩きつけたような、乱暴で鋭い音。優しい音とはほど遠く、壁に怒りを叩きつけるように威圧的な音だった。

「だ、誰かいるの?」
 耳を澄まし、目を凝らしていると、赤霧が集まり濃度を増してきた。それはやがて人の姿をした真っ赤な生命体へと変化を遂げる。
「ひ、人の姿!? この霧は生き物ってこと!?」
 水角から逃げるように走り出す赤霧。
「ま、待って!」
 それを追いかけようとした時、四方八方から邪悪な視線を読み取った。
「囲まれた!? 赤霧はひとりじゃないの!?」

 水角が慌てて刀に手をかける。群がる赤霧を睨みつけるように見わたし、相手の出方を待った。
 敵の領域に取り込まれたと悟ったのはこの時だ。気づけば体中から汗が吹き出し、衣服をビショビショに濡らしていた。

「熱い……、頭がクラクラする。このままだと血液が沸騰しちゃうよ」
 灼熱のサウナに放り込まれた感覚に襲われるも、力を振り絞ってハイヤースペックを発動。周囲に水の粘膜を張って灼熱から身を守った。

 実のところ、水の粘膜を張ったところで熱からの防御は無意味だった。外部から与えられる熱というより、水角自身の体温の上昇が汗を拭き出させているのだ。脈拍、鼓動がマシンガンのように連打し、一瞬で血圧があがる。それが熱さの原因だった。体温に働きかけるというより、感情に働きかける現象に見舞われている。

 それだけではない。

「あーもう!」
 どうしたことだろう? イライラした感じに支配され、日頃、蓄積されたウップンが水角の感情を乱しはじめる。
 この世のあらゆる憎悪が水角の鼓膜に響いてきて、さらなる憎悪を煽ってくるのだ。
 やがて冷静さが欠落し、悲観に陥り、悪態をつくようになる。
 言葉にできないイラつきが体中の毛穴から吹き出しそうだ。
 らしくないと己をふるわせて平常心を保つも、ネバネバとまとわりつく怒りが水角の感情を支配してゆく。
「水が欲しい、心を入れかえなきゃ……」

 深紅の世界の中、呼吸を整え、我に返ろうと必死にもがく。その時だ。

 ピシッ、バキバキバキ!

 アスファルトを突き破り、何かが生まれる。
 地底から植物の芽が顔を出し、やがて細い茎が黒煙のようにゆっくりと舞い上がり、その姿を折り紙へと変えてゆく。
「これは一体……」
 漆黒の折り紙が無数に漂い、水角を取り囲む。
「折り紙の暴魔? いや違う、これは――」

 次元の隙間。プリンターから印刷されるように出て来る折り紙は、悪しき存在を呼び寄せる予兆のようなもの。

 水角は額の汗をぬぐい、腰の刀に手をかける。呼吸は乱れ、うまく柄が握れない。
 次の瞬間、地面から一斉に白骨の群れが姿を見せた。湯舟から上がるように両手を地面について上体を押し上げ、地上へと湧き出してくる!

「ギャアアアアウ!」

 墓場から死体が這い出してくる映画を見たことはあるだろうか?
 無数の腐乱死体が土を突き破り、墓石を押しのけ、地中から湧き出してくる光景を思い出せただろうか?
 
 今の状況は、まさにそれである――。
 
 白骨の群れは水角を認識するや、怒りをぶつけるような叫び声で威嚇。頭蓋骨からこぼれそうな眼球をむき出し、腐敗した歯茎を見せながら奇声を発する。腐敗が進んだ胴体から肉が削げ落ち、肋骨を見せながら襲い掛かってくる!

「死霊だ! 赤霧の中は人間の世界じゃないんだ!」
 地獄に堕ちたことはない。けれどもし存在するのであれば、今いるこの場所がそれに近いものだと理解できた。
 死霊の群れが鋭利な刃物を手にし、それを引きずるように近づいてくる。

 前から、
 後ろから、
 右から、
 左から、
 鋭利な刃物を振り下ろしてきた!

 水角は素早く上体をのけ反らせ、それらの攻撃を回避する。顔面スレスレを走る刃物が風を切り、鼓膜をつんざくほどの音を立てた。
 大きく後ろに飛びのく水角。着地したのもつかの間、真横から現れた死霊の斬撃を食らってしまう。

 ザシュ!

「痛っ」
 純白のパーカーに一筋の亀裂が入り、肩から血が吹き出す。
「速さも腕力も人間界の死霊とはケタ違いだ。霧の中では敵が有利、か」
 容赦なく襲い掛かってくる死霊たち。怒りに満ちた表情は、この世のものとは思えないほどに恐ろしく、救いようのないほどに醜かった。

 ふたたび斬撃がくる瞬間、水角はふたたびハイヤースペックを発動させた。
「ハイヤースペック・ソニックウォーター!」
 群がる霧に水をふくませ、その場を即席の水中に変える。
 水角は重力から解放された体を素早く、自在に動かしながら、死霊たちの間を駆け抜ける。
 赤霧の中、まるで水中を漂うようにバク宙を繰り返す姿は新体操の選手そのもの。さらにアスファルトを蹴り上げて側転すると、地面すれすれをヘッドスライディングするように漂い、やっとのことで赤霧から逃れた。

 ここで事態の重大さに気づく。
 いま日本では、赤霧の姿をした地獄が移動している。
「ボ、ボクひとりじゃ何もできないや。一度お姉ちゃんに報告しな、きゃ……」
 刀を鞘に納めて額の汗をぬぐう頃には目がうつろに。やる気のなさそうな態度で、水を張った壁の中へ飛び込んで消えた。

 流船で何かが起きている。そして、それが日本中に広がるのも時間の問題だった。


水角の異変


 調太郎の弁当屋の手伝いをする想夜。羽を広げ、青空飛行のデリバリー。

「今日もいい天気ね」
 おかもちを落とさぬよう両手で持ち、頬で風を感じながら空中飛行を楽しんでいると真下に水角の姿を発見。
「あ、水角クンだ! おーい、水角クーン!」

 想夜は高度を落として水角の前に着地した。すれ違う人に妖精であることがバレぬよう、羽もちゃんとしまう。

「想夜ちゃん」
 浮かない顔の水角。目がうつろでやる気もなさそう。いつもの笑顔はどこへやら。
「元気ないね水角クン。どうかした?」
「なんでもないよ。想夜ちゃんはデリバリー?」
「うん、そう。ねえ聞いて。調太郎さんってばね――」

 従業員にケリを入れる。脅迫からのサービス残業。労働基準法の徹底無視――普段ならブラックバイトについての議論が始まるところだが、今日は違っていた。

「ふーん。想夜ちゃんは気楽でいいよね」
「え?」
 普段の水角からは発せられないネガティブ発言に、想夜は面を食らってしまう。
「ど、どうしちゃったの水角クン、どうしてそんなことを言うの?」
「調太郎さんの手伝いが嫌なら、やめればいいんじゃない?」
 と、ぶっきらぼうに答えを返すだけじゃない。さらにはこんなことまで言ってきた。
「街の平和を守る? 守れてるの? お姉ちゃんがいなければ何もできないんでしょ? 自己満足で終わってない? いつもそばにお姉ちゃんがいるわけじゃないんだよ? それって弱いってことでしょ?」
「水角クン……」

 とてもとても悲しい表情をする想夜。瞬きひとつせず、口をつぐみ、言葉を発することをやめ、眉に少々の力がこもる。心が張り裂ける時、少女はこんな顔をするのだ。

 想夜はしだいに大粒の涙を浮かべた。
「な、なによっ、水角クンなんて……もう知らないんだからね!」
 やっとのことで言葉を発したあと、その場から逃げ出すように走り去る。普段はおっとり温厚な水角から、こんなにも酷い言葉を受けるとは思ってもみなかったのだ。

 ひとり道に残された水角はずっと無表情。
 ただ無表情のままポカンと口をあけ、頬に一粒の涙を落としていた。