1 獣耳課 フレイムワークス
とあるビルの一室に30匹ほどの獣人が集う。
規則正しく並べられた長机とイスが100席ほど。天井には縦長の照明が正面のホワイトボードに向かって無数に設置され、部屋の隅々まで明るく照らしていた。
人間社会のミーティングでよくある風景。
獣の耳や爪を尖らせる者。熊のように大柄な者。一匹狼から徒党を組む者まで、イスや机の上に散り散りになって腰かけている。
やっていることは会議室にこもる人間たちとほぼ同じ。
狐姫の席は一番後ろ。イスの背もたれに体を預けて膝を組み、頭の後ろでも手を組んでいる。そして終始無言。
マイク片手に登壇している者。話を聞く者、聞かぬ者。きほん後者の狐姫でも、
スピーカーから漏れる声はいつもの内容。
人間たちと仲良くしましょう。
助け合いましょう。
悪い事はダメ。
きちんと挨拶をしましょう。
ゴミはゴミ箱へetc……
――いつも同じ。互いに状況を報告しあい、人間との距離感を分析する作業。
狐姫はそれらを他人事のように聞き流していた。言われなくとも守っている。これでも毎日気ぃ使ってるんだぜ、と窓の外に毒づく。
人間の世界には、獣人たちが集う
獣耳課が結成されたのは、今からずっと昔のこと。
人間たちと争いを繰り返していた獣たちは、ある日を境に人と協定を結んだ。協力しあうほうが効率よく生きてゆけるからだ。
人並み外れた力の持ち主たちを歓迎する人間、嫌う人間――人それぞれではあったし、今でもわだかまりは多い。けれどもここに集うものは皆、人間と手を取り合いながら生計を立てている。狐姫もその中のひとりだ。
獣耳課に登録された獣人は、属性によって所属する部署が変わってくる。
火器類を扱う者たちが集うコミュニティ。それがフレイムワークス。
獣耳課 フレイムワークス――狐姫が所属する部署である。
獅子の少女が近づいてきた。
「
隣の席に女の子が座る。
名前を
煌めく
両手首から肘にかけてリストバンドを装備しており、いちおう武闘家であることを主張。
彼女もまた、狐姫と同じ暴力エクソシストのひとりであり、フレイムワークスに所属している。
年齢も身長も狐姫とほぼ同じ。語尾にやたらと「なーなー」つけるあたりが、いちおう獣の鳴き方にも取れる。
狐姫からはルーシーと呼ばれている。
「ハロー、シスターおしるこ。ご加護の押し売りか?」
机に突っ伏した狐姫がめんどくさそうに挨拶をする。
狐姫とは腐れ縁。挨拶の雑さが互いの距離感を証明していた。
きちんと挨拶をしましょうといった約束事はどこへやら。
「また
ウンザリした感じでフードとウィンブルに手をかけ、ゆっくりと背中に回す。
「ふう、にしても今日はあっついな。 ……どした焔衣、相変わらずやる気なさそうな顔してるのな」
「は? 見ればわかんだろ、全快バリバリなんですけど?」
解けたスライムみたいにグデ~と机に額を当てて突っ伏してる。机と口づけを交わしながら話すのは何かのコントですか?
「シャキッとせんかいシャキッと。小生を見習え!」
パシッ
「あうちっ」
思い切り背中を叩くもんだから狐姫の鼻先が机にめり込む。まるで釘をトンカチで叩いた時のようだ。
「痛ってぇ~、おまえマジふざけんなよな……」
怒る気ゼロ。気の抜けた声で机と唇を交わし続けている。
「焔衣、よほど机が恋しいのな」
とても気だるそうな友人に呆れる恋音。
「それより焔衣、さっきの室長の話聞いた?」
机に肘をついて身を乗り出すように聞いてくる。
「あん? 室長がなんか言ってたのん? 住んでる犬小屋の修理のことか?」
「やっぱり聞いてないのな。ほら、街を騒がせてる赤い霧の噂よな」
「赤い霧?」
狐姫が顔をしかめた。
「霧の発生条件とも無縁。気象庁も首を傾げている。これといった被害はまだない、今のところはな。ほんと謎だらけよな」
恋音がヤレヤレと掌を見せて大げさに肩をすくめた。
「その霧ほっとくと害でもあんのか?」
狐姫が棒読みで質問すると、恋音は身を乗り出してきた。
「それな――」
耳を傾ける狐姫。直感からか、赤霧にただならぬ危機感を感じていた。
ふたりが赤霧についての話を終えた頃、室内の人気はだいぶ減っていた。
狐姫に1匹のオスが声をかけてきた。逆立った髪、吊り上がった目、青白く痩せこけた頬。貧相な性格が顔を作り上げている。獣人のひとりだ
「よお、暴力エクソシストさん」
フニャフニャとした姿勢でポケットに手を入れ、だらしなく
「あんた焔衣っつったな。たしか新宿の人間様と組んでたよな? 景気はどうよ?」
御殿の会社は新宿にある。
「あん? 余裕で儲かってますけど何か?」
狐姫も袴のポケットに手をつっこみ睨みつける。互いの態度は最悪だ。が、獣人の世界で舐められたら敗北を意味する。大きく見せるのもマウントを取らせないための防御法だ。
「人間様のペットに成り下がった気分はどうよ、焔衣?」
「ペットはおまえだろ。ご主人にエサもらえよ、顔色悪いぞ。ちゃんと散歩連れてってもらってるか?」
売り言葉に買い言葉。挑発に乗る。
「焔衣ぃ、やけに人間様を立てるじゃねえか。去勢でもされたか?」
「言ってくれるじゃねえか。おまえは去勢済んでそうだな」
ヘラヘラと煽ってくる相手に対し、狐姫は少々乱暴に席を立つ。
睨み合いと暴言は続く。
「威勢がいいのは相変わらずだな焔衣。ご主人様にオスと間違えられてねえか? ああ?」
「ねえよ。おまえは? オスと間違えられてねえか?」
ニシシと笑う狐姫。
相手も少々カチンときたらしく、頭に血がのぼっている様子。
「人間に舌出して媚売ってるんじゃねえぞクソガキ。ほら、お手!」
「なんだその汚ねえ手は。生命線が切れてるぜ、大丈夫か? それとも手首から焼き切って欲しいのん?」
ザコ相手に本気なる狐姫様でもない。かるく脅して威厳を保つつもりだった。
一触即発。誰かが止めなければ乱闘騒ぎになる。
「おい、こんなところで騒ぎをおこすなよ」
「いいぞ、やっちまえ!」
「とばっちりはゴメンだぜ、おい行くぞテメェら」
狐姫と男を止める者。煽る者。そそくさと逃げる者。どこぞの酒場のようでもあった。
狐姫の脇に立つ恋音がそっと耳元でささやく。
「焔衣、落ち着こうな。きっと仕事がうまくいってないんだ。
遠回しに、男の気持ちもくみ取れと言っているのだ。獣人と契約していながらもコピー機作業やお茶出し専門なんかさせたり、あらゆるパワハラはとどまる所を知らない。人間が獣人に対し劣等感を抱いているのも確かだ。その憂さ晴らしを平然と行う輩が後を絶たない。金を払えばペットを殴ってもいいと思っている人間もいるのだ。
それだけならマシなほう。酷い人間になると、人身売買ならぬペット販売みたいな悪行を働く輩まで出てくる有様。
獣人と人間の溝はなかなか塞がらない。
「なんだ、つまりクビかよ。へっザマぁ」
ププッと狐姫が吹いた。
その態度を前に、男はさらなるイラつきをぶつけてくる。
「ところでよお、おまえんとこの相方、コレなんだろ?」
と、手の甲を頬に当てて体をクネらせた。
「あ? なんのマネよ、それ?」
狐姫がこの上ない眼光を男に向けた。
「
「なんだとこの野郎! もっぺん言ってみろ!」
カッとなった狐姫が机を蹴り飛ばし、男の胸倉につかみかかった!
周囲の獣人たちが慌てて狐姫を羽交い絞めにして制止するまでに至った。
あわや大乱闘になりかけるところ。もともと血の気の多い者たち。ヘタするとビル丸ごと消し飛ぶ惨事となる。
一触即発の一歩手前を歩いている。そんなコミュニティでもある。
「――おーこわ。あまりいきり立つなよ。
男は乱れた襟を正すと狐姫に顔を近づけ、自分の首を真横にかき切るマネをした。
人間も獣人も同じ。仕事がうまくいかないと心にも余裕がなくなり、成功者の足を引っ張るようになる。
ケンカの当事者が引き離され、フレイムワークスの集会は終わった。
「ちっ、なんだよあの野郎。いちいち突っかかってきやがって……ムカつくぜ」
帰り道、狐姫は道端に落ちていた空き缶を蹴ってゴミ箱にシュート。誰かがポイ捨てしたかもしれないゴミの始末をしたら、余計イライラしてしまった。
「それにさあ、俺たちと人間は同格だろ? 平等な扱いを受けるのがルールじゃねえのん?」
「仕方ないよ、社会作ったのは人間だしな。それにこんなご時世だしな。小生も焔衣も仕事があるだけラッキーと思わなきゃ、な?」
感情を荒立てない精神は狐姫よりもお姉さんではある。
「そういやルーシーもボディーガードやってるって言ってたな? 人間様とはうまくやってんの?」
「う、うん。うまくやってる……」
そうは言っても、恋音はうつむき気味に、翳りある表情を見せた。
それを不審と感じながらも、詮索するのもどうかと思い、早々に話を終わらせる狐姫だった。
「――ま、俺は戦力外野郎とは無縁だがな。わーはっはっ」
高笑いの狐姫。けれども、ハイヤースペックを前にした時の無力さを自覚しているのもまた事実。
置いてけぼりからの焦りは募る一方。
指先で呪符のリボンを無意味に、ただクネクネといじっていた。
聖女の心配事
赤霧の中に2人。朱鷺と
スクランブル交差点には人の気配はなく、世界から生き物が消えてしまったかのように静寂を保っている。
「噂に聞いたとおりね」
「ああ。早く赤霧の原因を突き止めて晩酌といきたいところだ」
朱鷺はシトラススティックを加え直すと、さらに先へと突き進んだ。
赤霧の話を耳にしたのはフレイムワークスだけではない。政府に出入りする朱鷺も事情は聞いていた。
瞳栖は肩にかけたストールを直して周囲を見渡す。
「妙な霧が出てきたとは聞いていたけれど、たしかに薄気味悪いわね」
「拙者も呼吸することに警戒心を抱いている」
肺の奥まで悪しき煙が入り込んでいそうで、じつに不快である。
まだお昼だというのに、そこらじゅう夕焼け色に染まっている。
視界に赤黒い世界が広がり、遠くでは陽炎がゆらめき、一滴の水もない灼熱地獄のようでもあった。
「禍々しい世界ね」
「ああ。地獄とはこういう場所をさすのかね。
赤霧の濃度が増してゆく中、さらにさらにと進んだ。
つまづいたかのようによろける瞳栖を朱鷺がかかえる。
「埴村殿、大丈夫か?」
「ええ、ありがとう。ちょっと立ち眩みがしただけ」
「貴殿はまだ病み上がり。あれほど無理はするなと言ったであろう」
「ごめんなさい。けれども、じっとしていられない性分なのよ」
体をささえる朱鷺がフッと笑う。
「八卦は皆、血の気が多いからな。
エクレアに刻まれた瞳栖の体。大量の出血をともなう狂った儀式から解放されて、まだ日が浅い。
負傷した体は完治していない。包帯まみれの体を引きずってくるのには、体力的に無理があった。
手を、足を。動かすたびに激痛が走る。皮膚の表面の切り傷はどれも深いものばかりで、無理に動かせば傷が開いてしまいそうだ。
貧血からの立ち眩み。とうぜん単独調査は自殺行為だ。
「麗蘭も連れてくればよかったかしら」
「拙者では不満か?」
「そ、そうではないけれど……」
もじもじ聖女。言葉に詰まる。
「惚れた女を想う気持ち。それも分からんでもない」
「あら、人の恋路に水をさすお侍さんなのね」
麗蘭は頼もしい助っ人だ。戦闘に適さない瞳栖からしてみれば、麗蘭は護衛として文句なしの存在。されど付き合い始めた甘ったれの学生カップルではない。ずっと一緒に行動というわけにはいかない。互いにやるべきことがある。
「さっきよりも霧が濃くなってきたな」
「ええ、まるで私たちを監視しているようだわ」
かるく咳込みながらも、慌ててストールで鼻と口をふさいだ。
霧の中に無数の目玉があるような気がして、常に監視されている錯覚に包まれる。
「ケホッ、霧の様子が妙ね。ガスマスクでも所持しておけばよかったかしら?」
「ここは本当に霧の中なのか? まるで別次元にいるようだ」
霧の向こうを覗き込むたび、そこが地獄の深淵に思えてくる。怪物がこちらを見ている感覚を覚えるのだ。
「ニーチェを思い出しちまったぜ」
「深淵を覗くとき、深淵もこちらを見ている、ね――」
「こっち見なくてもいいんだぜ、怪物さんよ」
「うふふ、好かれているのよ。私たち」
ふたり悪態をつきながらも、深い霧の中へと入ってゆく。
「時に埴村殿。空は飛べるのか?」
「翼のこと?」
黒い巨塔で広げた大きくて白い翼。その姿が女神に見えたのは朱鷺だけはない。
瞳栖は落胆した表情で背中に視線を向ける。
「今は使えないわね。体力を消耗しすぎてるもの。天上人の末裔としては寂しいものがあるわ」
負傷のため天使の翼を広げることもできない。あれは酷く体力を消耗するのでハイヤースペックの発動も困難となる。
黒い巨塔のなか、命がけで麗蘭を救出した時のように羽ばたくことはしばらくないだろう。
「翼を取るか、ハイヤースペックを取るかと問われれば、間違いなく後者ね。それだけ八卦の力は強力だと自覚していわ……げほっ、げほっ」
「おい無理はするな」
瞳栖の咳がしだいにひどくなり、その場にうずくまってしまう。肺から脊髄にかけて激痛が走り、脳を揺さぶられる感覚に吐き気をもよおす。地面が反転しているような
(傷が癒えたら筋トレでもしようかしら?)
誰かに守られていないことを自覚しては、とたんに不安が増して心細くなった。
沸き起こる感情が大波のように襲い掛かる。恐怖の塊のように精神を圧迫しては、瞳栖を孤独のどん底へと叩き落としてゆく。
翼もディメンション・エクスプローラーも攻撃するためのものではないため、戦闘には適さない。ましてや能力の半分をエクレアに奪われている。それ故、皆の足を引っ張ってしまうのではないかという劣等感も抱いている。だからこそ皆を不安にさせぬよう、毅然とした態度で戦いに身を投じると決めたのだ。
「それがこの有様。無様ね」
両手で赤霧を払いのけると、隣にいる朱鷺の様子がおかしいことに気づいた。
「朱鷺さん、どうかして?」
その問いかけに返ってくる言葉は何もなく、朱鷺は無言のまま首を振るだけ。
「ちょっと、どうしたというの? 本当に大丈夫?」
どうしたというのだろう? 朱鷺は終始、人格が変わったように無表情。最低限の返事もなく、無口のまま俯いていた。
いったい朱鷺に何が起こったのだろうか?
得体の知れない何かに煽られているような、急かされているような。心のゆとりが削られてゆく感覚――それが朱鷺の抱いている心境である。沸き起こる悲観的思考を抑えるのにやっとなのだ。気を抜こうものなら、一瞬で己の悲観に飲み込まれてしまいそうだ。
――時、遅くして事態は悪化する。
黒い影がアスファルトを突き破り、ボコリ、またボコリと姿を現す。
邪悪な気配を感じ取り、それが地底から湧いてくるのが分かった。
「こちらに近づいてくる。マズいわね」
瞳栖が慌てて周囲を見わたした。
黒き影は赤霧で姿を隠し、時折、折り紙のようにヒラリヒラリと舞い踊りながら、辺り一面に散らばってゆく。
「伏せてろ」
朱鷺が声を振り絞りながら、懐からスローイングナイフを抜いて霧の中へと投げつける!
ザシュ! ザシュザシュ!
無数の黒い折り紙めがけ、ナイフを叩きつけて撃ち落とした。
折り紙が灰のように真っ黒に燃えあがり、粉々に飛び散る。
「げほっ。埴村殿、ディメンション・エクスプローラーを早く……ゴホッ」
朱鷺は酷い咳を発して片膝をついた。絶念刀に身を預けていないと立っていられない。
「朱鷺さん、さ、肩につかまって。早くここから出ましょう……ケホッ」
瞳栖も咳込みながら朱鷺に肩をかすと、ハイヤースペックを発動させて時空の狭間へと消えていった。
危機感
ある一室から叫び声がこだまする。
「リッベエエエエエエンジ! アイム ストリーム リベンジ アッゲイン!」
マイク片手に叫ぶ狐姫。宿題を終えていない想夜を無理やり連れ出してのご来店。
濃厚なギターイントロから入るヘビメタが想夜の耳をつんざく。指で耳栓してなきゃ正気を保てない。
「うおっろおおおおおおんんぐ!」
Wrong――それは過ち。後悔やらウップンやらが溜まってるご様子。それらを一言一言マイクにぶつけつつ、怒り狂ったテンポで叫びまくる。そりゃあもう尻尾から出血しそうなくらいに叫びまくる。
「……! ……!」
想夜もタンバリンを強要されるが適当に叩くだけ。ヘビメタの良さがわからない。さきほどから狐姫に向かって何やら叫ぶも、スピーカーの爆音にかき消されてしまう。
エアーギターをかましながら、頭を上下に振って髪を振り乱す狐姫。
「キュイーン、ジャカジャカジャカジャカ! アイム、レッドフォックス! U・D・O・N! YOU、緑のラクーン! ズズズッとSOVAにいるぜえええ!」
歌がギターソロになった今がチャンス。想夜が隙を狙ってもう一度叫ぶ。
「狐姫ちゃん! そろそろ時間だよ!」
狐姫がマイクで叫び返す。
「なに? ドラ〇もんを歌いたい? ア〇パンマンマーチにしとけよ、第2章。けっこう泣けるぜ?」
キイイイイン……
「あう!」
ハウリングが想夜の鼓膜をつんざき、その場でのたうち回る。
「もー、すでに泣いてるよぉ。狐姫ちゃん、なにがあったのお?」
あまりの大音響からくる耳鳴り。さっきから一度もマイクを握らせてもらえない想夜。もっぱら聴き手に回されている。
壁に備え付けてある電話が鳴り響いた。
想夜は片耳をふさぎながら受話器に手を伸ばす。
「はい、13号室でっす」
「ポッゼエエエエエスト!」
後ろの狐姫がうるさい。
『お客様、そろそろお時間ですがいかがなさいましょうか?』
宿題だってやらなきゃだし、寮の門限だってある。
「あ、すみません。いま部屋を出ま……あっ」
言いかけた途端、狐姫が受話器をひったくりマイクで叫ぶ。
「延長で」
ガチャ。
店員に一言告げて受話器を切る狐姫。第2ラウンド開始らしい。
「もう狐姫ちゃん、歌はおしまいっ。あたしだって帰って宿題しなきゃいけないんだからね!」
「ここでやればいいだろ」
「さっきから邪魔ばかりしてるのはどこの誰ですかね~?」
すねる想夜。ポケットからお菓子を取り出した。
「あ、キャラメル伝説じゃん! 一個ちょうだい」
手を差し出す狐姫。でもマイクは離さない。
ルイルイ製菓のお菓子。大人も子供も大好きだ。いつだって甘いものは荒れた心を慰めてくれる。
「あ~うめえ~。キャラメル伝説うめえ~。枯れた喉にガツンとくるぜえ~。ありがとう想夜ぁ~、今日は寝かせないぜぇ~」
「うわぁ、もう! 甘い声で頬をスリスリしたってダメなんだからねっ」
モフモフのケモ耳がくすぐったい。
「よし、今日は特別に尻尾もさわっていいぜ」
「そ、そんなことに……釣られないからねっ」
想夜、ちょっと心が揺れるが、すかさず狐姫が耳も差し出してきた。
「し、しかたない。先っちょだけなら入れてもいい」
「ほ、本当? じゃあ、ゆっくり入れる。尻尾もさわるからね」
釣られる釣られる。
「優しくだぞ優しく。痛くしないで」
想夜の人差し指がケモ耳へと入ってゆく。
「ちょ、ちょっとキツイかも」
「もっとゆっくり、ゆっくり入れて……」
「このくらい?」
人差し指の第一関節ほどを入れてみる。
「痛てっ、おまえ入れすぎだろ! ケツにマイク突っ込むぞ!」
キイィィン……
「先っちょだけなら入れていいっていったじゃん!」
キイィィン……
「マイクで叫ぶことねーだろ!」
キイィィン……
「最初にやったの狐姫ちゃんでしょ!」
キイィィン……
血で血を洗う歌合戦。想夜も負けじとマイクで反撃。
そんなやりとりが夕方まで続いた。
悪い予兆
ほわいとはうす。
夕飯を済ませた御殿 がリビングで報告書を作成している。
ノートパソコンと向き合いながらこれまでの出来事をまとめ、クライアントである九条宗盛に送信する。
「――ふう、やっと終わった」
首を左右に捻ってコキコキ鳴らし、ソファに寝転がっている狐姫を一瞥する。
「そう言えば狐姫、今日はフレイムワークスの集会があったんでしょう?」
「あ~」
生返事。邪魔すんなと言わんばかりに携帯ゲーム機と格闘中。
「詮索するつもりはないのだけれど、どんなこと話してたの?」
フレイムワークスは戦略のプレゼンも盛んにおこなわれている。そこでは獣人が今後、人間とどう向き合うかも話し合われている。
同じ暴力エクソシストとして、とうぜん相方の考えに興味がわく。以前は腹三分だった付き合いも、今では一歩踏み込んで腹八分。接触時間が長いだけ、互いの距離も縮まるものである。
「カラオケ行ってきたの?」
「誰から聞いたん?」
「さっき想夜から連絡があったの。楽しかった?」
笑顔で質問する御殿に対し、狐姫はかったるそうに「……うっせーな」と、吐き捨てて自室にこもってしまった。
「狐姫?」
バタンッ。
いささか乱暴に閉まる扉を見つめ、御殿は肩をすくめた。
「どうしたのかしら?」
◆
狐姫はなかば逃げるように部屋に戻った。
ゲーム機を放り出してベッドの上にゴロンと体をあずける。
「ふう」
――ため息。
一日の疲れや嫌な事が肺を通して、全て排出されればいいのにと思う。
久々にフレイムワークスに顔を出せばトラブルに巻き込まれる。
獣人の中には人間と手を取り合うことを嫌う輩もいる。その者たちからしてみれば、御殿と生活を共にしている狐姫なんて、敵と同じ扱いだ。獣人同士だからといって全員と仲がいいわけではない。
ましてや仕事がうまくいってないともなれば、生活の圧迫から余裕がなくなり、悪態もつきたくなる。
食べてゆくためには、働かなければならない――。
「だからって、いちいち突っかかってくんなよな……」
獣人コミュニティでの騒ぎを思い出し、胸クソ悪くなった。御殿を侮辱されたことが癪に障ったのだ。
そしてもうひとつ気がかりな事がある。それは恋音の様子に違和感を感じたことだ。
(あの顔、どう見ても人間とうまくいってねえだろ)
友に思いを馳せるたび、狐姫の心まで苦しみが感染してくるのだ。
コンコン――。
『狐姫、ちょっと出かけるからお留守番 お願いね』
ノックの後、扉の向こうから御殿の声。それからすぐに玄関の閉まる音が聞こえた。
お留守番という単語で先日のことを思い出し、さらに心を乱される。
ベッドから下りると手足で這うように扉に近づき、頭1つ分だけ開けて廊下を覗き込む。
「御殿のやつ、こんな時間にどこに行ったんだ?」
閉じた玄関の扉をしばらく見つめていた。
聞き耳を立てる狐姫。
御殿の足音は階段から駐車場へ。やがてバイクのエンジン音とともにマンションから遠ざかっていった。
「……行ったか」
今度は静かにドアを閉める。さっきのバタンは何だったのか。イラつきを御殿に知って欲しかったのだと改めて知る。かまってちゃんの自分が子供じみてて情けなかった。恋音のようにもっと大人になれればいいのに。
指を絡ませた両手を天井まで伸まし、かるいストレッチ。ふたたびベッドに寝転がり、蛍光灯を見つめる。
放り出したゲーム機にも目もくれず、ただ無意味に、寡黙に、一点だけを見つめていた。
「お留守番、か……」
思うは傀儡街で対峙したオルスバン。
オルスバンとはクモ型サイボーグで見張り番ロボットのこと。
先日、人間界で放置されたオルスバンが怨念となり、霊界で暴れる現象が起こった。
想夜たちと傀儡街に侵入した狐姫だったが、そこでオルスバンにボコられ、反撃さえままならなかった事を今でも悔やんでいる。
悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれないでいる――。
あの時、エンジニアの成瀬がオルスバンを見つけてくれなかったら、狐姫はミンチにされていた。
シュベスタ研究所の崩壊後、御殿と再会した時の言葉――
『俺が守ってやんよ――』
――そう約束をした。
けれども現状だどうだ?
逆に、守られている。
その約束が果たせない窮地に追い込まれている。
いつまでも自分は強いと思い込んでいた自信が、今になって重荷になっている。
傲慢さという過ちに打ちのめされている。
狐姫だって見てきたはずだ。
妖精という存在が繰り出す驚異の力、ハイヤースペック。
周囲の者たちは皆、ハイヤースペックの使い手。妖精の想夜は当然のこと、人間の叶子でさえ、華生 とハイヤースペックを共有しているハイヤースペクターだ。
ましてや相方の御殿は八卦。
八卦とは、妖精の力を借りずともハイヤースペックを発動できる者のこと。八卦プロジェクトから作り出されたハイブリッド・ハイヤースペクターである。八卦ひとりでフェアリーフォースの隊員1000人の力量に匹敵するとも言われている。
狐姫は嗅覚をとおして気づいている。
先日から御殿の体から血の臭いがする。日々の戦いに巻き込まれ、傷つきながらも平然と生き残って帰ってきているのだ。
帰宅した時の御殿の顔はケロッとしていて何もなかったかのように冷静沈着だ。若干、元気がないものの、あれだけの血臭を漂わせておきながらの無傷。やはり八卦の強さは尋常ではない。
狐姫は最近、そう感じるようになった。
「御殿のやつ、あれだけ強くなっちゃったんだから、きっと皆と仲良くなってるんだろうな……」
八卦同士、時折顔を合わせていると聞く。彼女たちが何を話しているかは狐姫の知るところではないが、御殿との距離はそうやって遠のいてゆく。そんな気がする。
――嫉妬。
狐姫だけが置いてけぼり。狐姫だけがハイヤースペックとは無関係。
「――俺、ひょっとして足手まといなんじゃね?」
狐姫は既に悟っていた。
この戦いにおいて、ハイヤースペックを所持しない者に未来はない――そんな幻聴に打ちのめされるのだ。
リビングに戻った狐姫がテーブルの上のリモコンに手を伸ばす。
考えなしにチャンネルを変えていると、その指がピタリと止まった。
「お? 聖色市 のニュースやってんじゃん」
男性キャスターの声に耳を傾けた。
『先日未明から聖色市流船 で女子生徒が行方不明になっており、地元の警察が捜査にあたっております。捜査関係者の調べによりますと――』
ニュースキャスターに私情は禁物。他人事よろしく読み上げるのが仕事である彼らの冷静さを、少しでも分けて欲しいと思う。
「流船? ルーシーのいる町じゃね?」
狐姫の心がざわめく。この感覚をよく知っている。
悪いことが起こる予兆だ――。
「マイクで叫ぶことねーだろ!」
キイィィン……
「最初にやったの狐姫ちゃんでしょ!」
キイィィン……
血で血を洗う歌合戦。想夜も負けじとマイクで反撃。
そんなやりとりが夕方まで続いた。
悪い予兆
ほわいとはうす。
夕飯を済ませた御殿 がリビングで報告書を作成している。
ノートパソコンと向き合いながらこれまでの出来事をまとめ、クライアントである九条宗盛に送信する。
「――ふう、やっと終わった」
首を左右に捻ってコキコキ鳴らし、ソファに寝転がっている狐姫を一瞥する。
「そう言えば狐姫、今日はフレイムワークスの集会があったんでしょう?」
「あ~」
生返事。邪魔すんなと言わんばかりに携帯ゲーム機と格闘中。
「詮索するつもりはないのだけれど、どんなこと話してたの?」
フレイムワークスは戦略のプレゼンも盛んにおこなわれている。そこでは獣人が今後、人間とどう向き合うかも話し合われている。
同じ暴力エクソシストとして、とうぜん相方の考えに興味がわく。以前は腹三分だった付き合いも、今では一歩踏み込んで腹八分。接触時間が長いだけ、互いの距離も縮まるものである。
「カラオケ行ってきたの?」
「誰から聞いたん?」
「さっき想夜から連絡があったの。楽しかった?」
笑顔で質問する御殿に対し、狐姫はかったるそうに「……うっせーな」と、吐き捨てて自室にこもってしまった。
「狐姫?」
バタンッ。
いささか乱暴に閉まる扉を見つめ、御殿は肩をすくめた。
「どうしたのかしら?」
◆
狐姫はなかば逃げるように部屋に戻った。
ゲーム機を放り出してベッドの上にゴロンと体をあずける。
「ふう」
――ため息。
一日の疲れや嫌な事が肺を通して、全て排出されればいいのにと思う。
久々にフレイムワークスに顔を出せばトラブルに巻き込まれる。
獣人の中には人間と手を取り合うことを嫌う輩もいる。その者たちからしてみれば、御殿と生活を共にしている狐姫なんて、敵と同じ扱いだ。獣人同士だからといって全員と仲がいいわけではない。
ましてや仕事がうまくいってないともなれば、生活の圧迫から余裕がなくなり、悪態もつきたくなる。
食べてゆくためには、働かなければならない――。
「だからって、いちいち突っかかってくんなよな……」
獣人コミュニティでの騒ぎを思い出し、胸クソ悪くなった。御殿を侮辱されたことが癪に障ったのだ。
そしてもうひとつ気がかりな事がある。それは恋音の様子に違和感を感じたことだ。
(あの顔、どう見ても人間とうまくいってねえだろ)
友に思いを馳せるたび、狐姫の心まで苦しみが感染してくるのだ。
コンコン――。
『狐姫、ちょっと出かけるからお留守番 お願いね』
ノックの後、扉の向こうから御殿の声。それからすぐに玄関の閉まる音が聞こえた。
お留守番という単語で先日のことを思い出し、さらに心を乱される。
ベッドから下りると手足で這うように扉に近づき、頭1つ分だけ開けて廊下を覗き込む。
「御殿のやつ、こんな時間にどこに行ったんだ?」
閉じた玄関の扉をしばらく見つめていた。
聞き耳を立てる狐姫。
御殿の足音は階段から駐車場へ。やがてバイクのエンジン音とともにマンションから遠ざかっていった。
「……行ったか」
今度は静かにドアを閉める。さっきのバタンは何だったのか。イラつきを御殿に知って欲しかったのだと改めて知る。かまってちゃんの自分が子供じみてて情けなかった。恋音のようにもっと大人になれればいいのに。
指を絡ませた両手を天井まで伸まし、かるいストレッチ。ふたたびベッドに寝転がり、蛍光灯を見つめる。
放り出したゲーム機にも目もくれず、ただ無意味に、寡黙に、一点だけを見つめていた。
「お留守番、か……」
思うは傀儡街で対峙したオルスバン。
オルスバンとはクモ型サイボーグで見張り番ロボットのこと。
先日、人間界で放置されたオルスバンが怨念となり、霊界で暴れる現象が起こった。
想夜たちと傀儡街に侵入した狐姫だったが、そこでオルスバンにボコられ、反撃さえままならなかった事を今でも悔やんでいる。
悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれないでいる――。
あの時、エンジニアの成瀬がオルスバンを見つけてくれなかったら、狐姫はミンチにされていた。
シュベスタ研究所の崩壊後、御殿と再会した時の言葉――
『俺が守ってやんよ――』
――そう約束をした。
けれども現状だどうだ?
逆に、守られている。
その約束が果たせない窮地に追い込まれている。
いつまでも自分は強いと思い込んでいた自信が、今になって重荷になっている。
傲慢さという過ちに打ちのめされている。
狐姫だって見てきたはずだ。
妖精という存在が繰り出す驚異の力、ハイヤースペック。
周囲の者たちは皆、ハイヤースペックの使い手。妖精の想夜は当然のこと、人間の叶子でさえ、華生 とハイヤースペックを共有しているハイヤースペクターだ。
ましてや相方の御殿は八卦。
八卦とは、妖精の力を借りずともハイヤースペックを発動できる者のこと。八卦プロジェクトから作り出されたハイブリッド・ハイヤースペクターである。八卦ひとりでフェアリーフォースの隊員1000人の力量に匹敵するとも言われている。
狐姫は嗅覚をとおして気づいている。
先日から御殿の体から血の臭いがする。日々の戦いに巻き込まれ、傷つきながらも平然と生き残って帰ってきているのだ。
帰宅した時の御殿の顔はケロッとしていて何もなかったかのように冷静沈着だ。若干、元気がないものの、あれだけの血臭を漂わせておきながらの無傷。やはり八卦の強さは尋常ではない。
狐姫は最近、そう感じるようになった。
「御殿のやつ、あれだけ強くなっちゃったんだから、きっと皆と仲良くなってるんだろうな……」
八卦同士、時折顔を合わせていると聞く。彼女たちが何を話しているかは狐姫の知るところではないが、御殿との距離はそうやって遠のいてゆく。そんな気がする。
――嫉妬。
狐姫だけが置いてけぼり。狐姫だけがハイヤースペックとは無関係。
「――俺、ひょっとして足手まといなんじゃね?」
狐姫は既に悟っていた。
この戦いにおいて、ハイヤースペックを所持しない者に未来はない――そんな幻聴に打ちのめされるのだ。
リビングに戻った狐姫がテーブルの上のリモコンに手を伸ばす。
考えなしにチャンネルを変えていると、その指がピタリと止まった。
「お? 聖色市 のニュースやってんじゃん」
男性キャスターの声に耳を傾けた。
『先日未明から聖色市流船 で女子生徒が行方不明になっており、地元の警察が捜査にあたっております。捜査関係者の調べによりますと――』
ニュースキャスターに私情は禁物。他人事よろしく読み上げるのが仕事である彼らの冷静さを、少しでも分けて欲しいと思う。
「流船? ルーシーのいる町じゃね?」
狐姫の心がざわめく。この感覚をよく知っている。
悪いことが起こる予兆だ――。
血で血を洗う歌合戦。想夜も負けじとマイクで反撃。
そんなやりとりが夕方まで続いた。
悪い予兆
ほわいとはうす。
夕飯を済ませた
ノートパソコンと向き合いながらこれまでの出来事をまとめ、クライアントである九条宗盛に送信する。
「――ふう、やっと終わった」
首を左右に捻ってコキコキ鳴らし、ソファに寝転がっている狐姫を一瞥する。
「そう言えば狐姫、今日はフレイムワークスの集会があったんでしょう?」
「あ~」
生返事。邪魔すんなと言わんばかりに携帯ゲーム機と格闘中。
「詮索するつもりはないのだけれど、どんなこと話してたの?」
フレイムワークスは戦略のプレゼンも盛んにおこなわれている。そこでは獣人が今後、人間とどう向き合うかも話し合われている。
同じ暴力エクソシストとして、とうぜん相方の考えに興味がわく。以前は腹三分だった付き合いも、今では一歩踏み込んで腹八分。接触時間が長いだけ、互いの距離も縮まるものである。
「カラオケ行ってきたの?」
「誰から聞いたん?」
「さっき想夜から連絡があったの。楽しかった?」
笑顔で質問する御殿に対し、狐姫はかったるそうに「……うっせーな」と、吐き捨てて自室にこもってしまった。
「狐姫?」
バタンッ。
いささか乱暴に閉まる扉を見つめ、御殿は肩をすくめた。
「どうしたのかしら?」
狐姫はなかば逃げるように部屋に戻った。
ゲーム機を放り出してベッドの上にゴロンと体をあずける。
「ふう」
――ため息。
一日の疲れや嫌な事が肺を通して、全て排出されればいいのにと思う。
久々にフレイムワークスに顔を出せばトラブルに巻き込まれる。
獣人の中には人間と手を取り合うことを嫌う輩もいる。その者たちからしてみれば、御殿と生活を共にしている狐姫なんて、敵と同じ扱いだ。獣人同士だからといって全員と仲がいいわけではない。
ましてや仕事がうまくいってないともなれば、生活の圧迫から余裕がなくなり、悪態もつきたくなる。
食べてゆくためには、働かなければならない――。
「だからって、いちいち突っかかってくんなよな……」
獣人コミュニティでの騒ぎを思い出し、胸クソ悪くなった。御殿を侮辱されたことが癪に障ったのだ。
そしてもうひとつ気がかりな事がある。それは恋音の様子に違和感を感じたことだ。
(あの顔、どう見ても人間とうまくいってねえだろ)
友に思いを馳せるたび、狐姫の心まで苦しみが感染してくるのだ。
コンコン――。
『狐姫、ちょっと出かけるから
ノックの後、扉の向こうから御殿の声。それからすぐに玄関の閉まる音が聞こえた。
お留守番という単語で先日のことを思い出し、さらに心を乱される。
ベッドから下りると手足で這うように扉に近づき、頭1つ分だけ開けて廊下を覗き込む。
「御殿のやつ、こんな時間にどこに行ったんだ?」
閉じた玄関の扉をしばらく見つめていた。
聞き耳を立てる狐姫。
御殿の足音は階段から駐車場へ。やがてバイクのエンジン音とともにマンションから遠ざかっていった。
「……行ったか」
今度は静かにドアを閉める。さっきのバタンは何だったのか。イラつきを御殿に知って欲しかったのだと改めて知る。かまってちゃんの自分が子供じみてて情けなかった。恋音のようにもっと大人になれればいいのに。
指を絡ませた両手を天井まで伸まし、かるいストレッチ。ふたたびベッドに寝転がり、蛍光灯を見つめる。
放り出したゲーム機にも目もくれず、ただ無意味に、寡黙に、一点だけを見つめていた。
「お留守番、か……」
思うは傀儡街で対峙したオルスバン。
オルスバンとはクモ型サイボーグで見張り番ロボットのこと。
先日、人間界で放置されたオルスバンが怨念となり、霊界で暴れる現象が起こった。
想夜たちと傀儡街に侵入した狐姫だったが、そこでオルスバンにボコられ、反撃さえままならなかった事を今でも悔やんでいる。
悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれないでいる――。
あの時、エンジニアの成瀬がオルスバンを見つけてくれなかったら、狐姫はミンチにされていた。
シュベスタ研究所の崩壊後、御殿と再会した時の言葉――
『俺が守ってやんよ――』
――そう約束をした。
けれども現状だどうだ?
逆に、守られている。
その約束が果たせない窮地に追い込まれている。
いつまでも自分は強いと思い込んでいた自信が、今になって重荷になっている。
傲慢さという過ちに打ちのめされている。
狐姫だって見てきたはずだ。
妖精という存在が繰り出す驚異の力、ハイヤースペック。
周囲の者たちは皆、ハイヤースペックの使い手。妖精の想夜は当然のこと、人間の叶子でさえ、
ましてや相方の御殿は八卦。
八卦とは、妖精の力を借りずともハイヤースペックを発動できる者のこと。八卦プロジェクトから作り出されたハイブリッド・ハイヤースペクターである。八卦ひとりでフェアリーフォースの隊員1000人の力量に匹敵するとも言われている。
狐姫は嗅覚をとおして気づいている。
先日から御殿の体から血の臭いがする。日々の戦いに巻き込まれ、傷つきながらも平然と生き残って帰ってきているのだ。
帰宅した時の御殿の顔はケロッとしていて何もなかったかのように冷静沈着だ。若干、元気がないものの、あれだけの血臭を漂わせておきながらの無傷。やはり八卦の強さは尋常ではない。
狐姫は最近、そう感じるようになった。
「御殿のやつ、あれだけ強くなっちゃったんだから、きっと皆と仲良くなってるんだろうな……」
八卦同士、時折顔を合わせていると聞く。彼女たちが何を話しているかは狐姫の知るところではないが、御殿との距離はそうやって遠のいてゆく。そんな気がする。
――嫉妬。
狐姫だけが置いてけぼり。狐姫だけがハイヤースペックとは無関係。
「――俺、ひょっとして足手まといなんじゃね?」
狐姫は既に悟っていた。
この戦いにおいて、ハイヤースペックを所持しない者に未来はない――そんな幻聴に打ちのめされるのだ。
リビングに戻った狐姫がテーブルの上のリモコンに手を伸ばす。
考えなしにチャンネルを変えていると、その指がピタリと止まった。
「お?
男性キャスターの声に耳を傾けた。
『先日未明から
ニュースキャスターに私情は禁物。他人事よろしく読み上げるのが仕事である彼らの冷静さを、少しでも分けて欲しいと思う。
「流船? ルーシーのいる町じゃね?」
狐姫の心がざわめく。この感覚をよく知っている。
悪いことが起こる予兆だ――。