12 ガーディアンスピリット


――鴨原のマンション。

 書斎のデスクに鴨原は座っていた。
 モニター越しに電話のやり取りをしている相手は防衛大臣の男。モニターからの問いに淡々と答える鴨原の姿がある。

『鴨原先生、本当に何も隠していないんですか? 流船で巨大な熱量を感知したのは事実なんですよ。情報通のあなたのこと、本当は何か隠しているんじゃないですか?』
「さきほどから言っているだろう。駅前で交通事故が多発しているだけだ。車両から漏れたガソリンに引火したと、情報提供者から入手している。それだけだ」
『その情報提供者とは誰なんです? お知り合いなのでしょう?』
「赤霧の中にいる匿名者だよ」
 のらりくらり。まるで悪知恵を覚えたクソガキのようにはぐらかす鴨原。連絡をとっている御殿の情報を流すわけにはいかない。御殿を政府の監視下におかれるのはいい気がしない。

 自衛隊も赤霧に率先して入ろうとは思っていないらしい。ましてや先に赤霧に入った者がいるのなら、その者たちから流船の情報を聞き出したほうが戦略に役立つのは明白。そこで聖色市の事情に詳しい鴨原が集中業火に晒されているわけだ。
 しかしながら、八卦の情報だけは政府に与えるわけにはいかなかった。恋音が八卦となった今、彼女は核ミサイルだ。それをアメリカに知られた瞬間、レプラビルにミサイルが放たれる。アメリカは恋音の抹殺に全力を注ぐだろう。

『鴨原先生。本当に、何もご存じないと?』
「くどいなあ君も。そんなに知りたければ可愛い部下を赤霧に放り込むんだな。全員悪魔に憑依されて帰ってくるぞ。いや、帰ってこれないかも知れんな。なんたって霧の中は悪魔の巣窟。隊員の除霊は必須。となれば、結果として暴力祈祷師たちのサイフが潤うだけだ。暴力祈祷師に助けられたんじゃ陸軍もメンツが立たんだろう……なあ?」
 鴨原はにやりとほくそ笑み、強い口調で長官を突っぱねた。
「おとなしく暴力祈祷師たちに任せておけばいい。すぐに片がつく」
『暴力祈祷師といってもたかが数人でしょう!? こちらもすでに祈祷師を流船に向かわせてますから!』
「ただのエクソシストに何ができる。暴魔にケツを蹴り上げられて泣いて帰ってくるのがオチだ」
『鴨原先生、あなたねえ……、少しは協力する姿勢を見せたらどうなんですか!』

 そんなやり取りが、かれこれ4人目。2人目で総理大臣が出てきた時には、ちょっぴり焦った。3人目でアメリカ国防総省のお偉方が出てきた時はコーヒーを吹き出してしまった。
 気を抜けば世界が恋音を殺しにかかる。それを今、ここで阻止できるのは鴨原だけだ。

 政界を退いたとはいえ、鴨原は鉄壁である――。


 ――数分前、鴨原のもとに御殿から連絡が入った。

 端末を手にした鴨原が険しい口調で御殿に問う。
「獅子恋音が八卦になったというのは間違いない情報なんだな?」
『――はい。金盛の身柄はフェアリーフォースが拘束しました。神城博士と沙耶さんの救出と除霊は完了。大樽の壺もフェアリーフォースが押収済みです。現在は狐姫が獅子恋音と応戦中です』
「なるほど。たしか獅子恋音は焔衣狐姫の友人だったな。大丈夫なのか? なんというか、その……」

 これは友達同士のケンカではない。獣人同士の殺し合いだ。鴨原はそのことを気にかけていた。

『ふふ、わたしの相方を心配してくださるのですか?』
 ちょっぴりいじわるな御殿の言い方にイラッとする。
「そうではない。ただ、焔衣狐姫ひとりで火の八卦を食い止められるかが心配になっただけだ。火の八卦の能力・ギャンサーエフェクターの脅威で世界が吹き飛ぶ可能性があるからな」

 鴨原は過去に狐姫を撃ったことがある。その罪滅ぼしを考えているもの事実だ。そして恋音にオクトフレアを撃たせるわけにはいかない。オクトフレアは、かつて妖精界の大半を焼き払ったディルファーの業火。今、この瞬間にでも世界中が灰になることだってある。狐姫には何としても止めてもらわなければならないのだ。

「――とにかく、君たちは獅子恋音の処理にあたれ。政府の連中はこちらで食い止める」
 鴨原は受話器を置くと、深く息をついて精神を整えた。それからずっと、電話対応に追われている。


呪符のリボン


 人喰い絵画の中から現れた恋音。
 その恋音と向かい合う狐姫。すでに力の差は見せつけられた。八卦の炎に太刀打ちできるマグマを、狐姫は持ち合わせていない。

 だが太刀打ちできる手段がひとつだけある――。

 狐姫は呪符のリボンに手をかけ、ゆっくりと解いた。
 まとまっていたツインテールが解かれ、一直線にスルリと落ちる。きめ細かなシルクのようなブロンドが流れ、まるで西洋人形のように突風になびいた。
 訝しげな顔の恋音が問う。
「以前から気にはなっていたが、そのリボンはなんだ? なんの意味がある? どんな秘密を隠している?」
「……」
 しかし狐姫はうつむいたまま、答えようとはしなかった。
「何とか言ったらどうなんだ? 小生の言葉が聞こえているのだろう?」
 無視され続ける恋音はイラつきさが増し、小馬鹿にされたような屈辱を感じていた。
 一見、友達に無視されている光景――だが、決してそうではない。
 
「……、……! ……、……」

 何をしているのだろう? 狐姫はずっとブツブツと独り言をつぶやいていた。何かの詠唱ではなく、誰かとの会話をしているのは確定していた。
 
「……ああ、そうだ。それでいい」

 恋音は深く眉をひそめた。
「――おい焔衣、誰と何を話している? 答えろよ」

「……わかってるって。何度も言わせんなよな」
 恋音との会話がかみ合っていない。つまり狐姫は、別の誰かと会話していることになる。

「おい! 小生の言葉が聞こえないのか!」
 恋音が叫ぶも、狐姫にはその声がとどいていない。ただ、ずっとひとりでブツブツと誰かと会話を続けている。
「近いうちに……、……ああ、約束は守るよ。必ず――」
 その言葉を最後に、狐姫はうつむいたまま言葉を発しなくなった。

 狐姫は深く息を吸い、そして吐き切る。その後スッと姿勢を正し、割れたガラス窓に近づき、炎の荒波に飲まれた流船駅前を見渡した。
(くそ、思ったより時間がかかりそうだな。ここにいてもバーベキューになるだけだ。これ以上、この社長室にいるのは危険か)

 狐姫は床に落ちていた看板を手にすると、それを窓から放り投げ、炎の波の上でサーフボードのように乗りこなす。
 炎の荒波をくぐり抜け、活きのよいマグロのように一直線に突っ切り、向かいのビルの屋上に飛び移る。
 流船駅前は蒸し風呂状態。八卦の炎がビルや道路を占拠し、一気に気温を上げていた。
「向かいのビルに移ったか」
 恋音は窓枠に足をかけると、狐姫の後を追うように向かいのビルに飛び移った。
 とたんに流船駅前が爆炎に包まれる。恋音の行く先々で火柱が舞い上がり、火炎の龍となって町を飲み込む。まるで移動する焔である。


恋音の気持ち


 レプラビルの向かいにあるビル。その屋上――。

 狐姫が屋上に着地すると、追うように恋音も着地した。
 ビルの屋上を狐姫が見渡す。
(よし、想夜たちは退避したな。 ……ん? まだ誰かいるのか!?)
 ちょうど狐姫の目の前で、4人の少女がヘラヘラと笑いながら談笑していた。先日のハッピータウンで想夜を嘲笑っていたマデロムチームの少女たちだ。それを確認した狐姫がギョッとする。
(フェアリーフォースかよ!? まだ残っていたのか!)
 狐姫が少女たちに叫ぼうとするも、その声は見えない壁によって遮断されてしまう。己の能力を心底呪った。
(ばかやろう! そんなところでボサッとしてねぇでさっさと逃げろ!)
 やはり狐姫の声は少女たちに届かず、狐娘の変てこゼスチャーに終わる。

 少女たちは小バカにしたような笑みで狐姫の神経を逆なでしてきた。

「なにあの獣人。なんで口パクパクさせて踊ってんの? バカ?」
「そこのシスターちゃん、ハイヤースペックを発動したんだろ? 拘束すればウチらの手柄じゃん」
「そうそう、こんなオイシイ仕事ないってーの」
 ふたたび狐姫が大口を開けて叫ぶ! ……が、声が出ない。
(ただのハイヤースペックじゃねえ! 八卦のギャンサーエフェクターだ! ディルファーの火炎だ! 早く逃げろ!)
 すると少女たちが大爆笑。
「だからなんで口パクパクしてんの? いっこく堂のモノマネ? あれ? 声が、おくれて、聞こえるよ?」
「きゃははははっ」
「やっば。超ウケる~!」
 危機感ゼロのアルバイト隊員たち。死が一歩手前に迫っていることさえ理解していない。

 沢木が遠くのビルの窓から身を乗り出して叫ぶ。
「おいガキども、無駄な挑発はやめろ! 相手はただの獣人じゃねーんだぞ! わかってんのか!」
 と、フェアリーフォースの少女たちをなだめるが、少女たちは逆に噛みついてきた。
「あ? うっせーよクソジジイ、人間がチョーシのんなよバーカ! きゃはははっ」
「ったく。親の顔が見てみたいぜ。どういう教育してんのかねぇ……」
 かつては人の親だった沢木は顔をしかめた。

 狐姫の背中に恋音の声がかかる。
「――おい焔衣、あいつらさっきから楽しそうだな。小生もまぜてもらうよ」
 ゾッとするくらいに冷たい口調を前に、狐姫は身動きひとつ取れなかった。

 恋音は準備運動さながら首を捻ってコキコキ鳴らすと、瞬間移動のごとく少女たちの前に飛び込んだ。

 ――スタッ。恋音は修道服をなびかせ、少女たちの前に綺麗に着地する。
「ひっ」
 突如として立ちはだかる恋音を前にビビる少女たち。
「ハーイ、政府の犬ども」
 恋音の挑発めいた挨拶。その目はカッと見開いた死体のように真顔を作る。喜怒哀楽が一切うかがえない、そんな表情だった。
「ファイルを取り返しにきたのか……な?」
 恋音はいきなり少女Aの髪を鷲づかみにすると、くの字に曲げた横っ腹にボディブローをかます!

 ドゥ!

 重低音――腹パンを喰らった少女Aの腹から鈍く、かつ強烈な音がして、その場で吐瀉物をまき散らした!
「うっ、うげえええ!」
 Aは膝から倒れて四つん這いになった。臓物を吐き出しそうな苦痛から逃れることが出来ず、顔面に血が上って眼球が真っ赤染まる!
「軍人なら少しは痛みを学習しよう……な!」
 恋音はつかんだAの髪を、今度は後ろに捻り、額をガレキに叩きつける!
 ぐわしゃああああん!
 その一発でAは白目をむいてノックダウン。ピクリとも動かなくなった。

 それを見ていた少女Bはたじろぐばかり。さっさと逃げればよいものを、恋音のローリングソバットがこめかみにヒット。ゴキュッと異音を立てて首がおかしな方向にねじ曲がり、その場で真横にぶっ倒れた。
「脳震盪か。小生の前で気絶なんかするな、おもしろくない」
 白目をむいてグッタリするBの胸倉をつかんで往復ビンタで叩き起こす。気絶から目覚めたBの口に手頃なブロック片をねじり込み、その横っ面を思い切りグーで殴りつけた。
 ガ!
「ふぐぅ!」
 血で真っ赤に染まったブロック片を吐き出したBが真横に吹っ飛ぶ!
「誰が吐き出せと言った」
 恋音は吐き出されたブロック片を拾ってBに近づくと、その口にふたたびねじり込み、横っ面に何度もパンチを浴びせた。20発を過ぎた頃、Bの意識は完全に飛んでいた。

 少女Cは恐怖で腰が抜け、その場にペタンと座り込んでいる。尻もちをついた地面には広範囲に水たまりが出来ていた。
「おもらしか。行儀が悪い……な!」
 恋音は高く上げた足をCの腹に思い切り振り落した。
「ギャッ!?」
 Cは悲鳴をあげて地面でくの字にひしゃげた。その後、糞尿の臭いが充満する。

 少女Dなんて酷いもので、ほとんど火あぶり状態だ。獅子の炎が引火して、あちこちに転げまわっている。その体を思い切り蹴り飛ばして骨の数本をへし折ると、Dの後頭部を掴んで地面に押し付け、うつ伏せにさせた耳元に口を近づける。
「獅子の焔、とくと味わえ――」
「す、すみませ……許し、してっ……」
 焔色の瞳が相当恐ろしかったのだろう。Dは歯をガタガタさせ震え上がり、ろれつの回らない舌を必死に動かす。
「ごめ、ご、ごめんなさ――!」
 恋音が腕に力を込めて、Dの顔面を地面に押し付ける!
 ドオオオオンン!
 ごめんなさいも言えないまま、Dの顔面が地面にめり込み爆炎に包まれた。

 4人の少女は恋音の手により、一瞬のうちに半殺しにされた――。

「ほれ見ろぉ。普段から大人しくてマジメな奴ってのはよお、一度キレると収拾つかねーんだよ」
 沢木は頭に手をおき、目を伏せてしまった。
 沢木のもとへ想夜と御殿が駆け付けた。
 足を引きずる想夜が、遠くのビルの屋上で起こっている惨事を見て息を呑んだ。
「ひどい、こんなのって……!」
 半殺しにされた少女たちから目を背けたかった。これは八卦の力ではなく恋音個人の腕力の餌食だと察する。なぜなら世界は業火に焼かれていない。幸いにも、まだオクトフレアは発動していない。

 シンと静まり返った屋上で、恋音が立ち尽くす。
「4人とも、焼却するか……」
 とどめを刺そうと両手に着火した瞬間、後方から飛んで来たレプラの看板が恋音の真横をかすめた。狐姫が投げつけたものだ。

 恋音が亡霊のようにゆっくりと立ち上がり、狐姫のほうに振り向く――。
 
「――そんなにやきもちを焼くなよ焔衣。今相手してやるからな。見ろ、邪魔なゴミは消しておいた。焼却できなかったのは残念だがな。おまえもこれから小生と……踊れ」
(くっ……)
 一歩後ろに下がる狐姫。額の汗を拭い、目の前の脅威と視線を合わせる。
(ルーシーは八卦の力を使わなくても、俺が扱うマグマレベルの炎なら使いこなせる。腐ってもフレイムワークスの優等生。相手を消し炭にすることだって可能だ)
 八卦の恋音は、まるでシュベスタ研究所で藍鬼になった想夜と同じ状況である。ちょっとしたイラつきが一瞬で殺意に進化を遂げ、目の前のすべてを葬り去るようなシステムと化している。

 狐姫の心のなか、嫌気と焦りが入り混じる。
(呪符をほどいてから何分経った? 時間かかり過ぎだろコレ。マグマも使えねーし声も出ねーし、体力もだんだん奪われて立っていられなくなってきた。思った以上のクソスキルだな。はやくルーシーを止めなきゃ。このままだと本当に死人が出るぞ)

 狐姫は足元に転がる空き缶に手を伸ばすと、それを遠くの恋音に投げつける。
 一直線に飛んでゆく空き缶だったが、恋音の手前でジュッと音を立てて蒸発する。灼熱の炎が恋音を守っているのだ。
 隙を突いた狐姫が、さらに隣のビルに飛び移ろうと試みる。が、得体の知れない重力に足をとられ、その場で尻もちをついてペタンと座り込んでしまう。
(くそっ、もう立つことができねえ!)
 狐姫の表情に焦りの色が見えた。屋上でジタバタともがいて恋音と距離を取ろうとする。

「どうした焔衣、足なんか開いて。小生を誘っているのか?」
 恋音は寝そべる狐姫に近づくと、猫のように忍び足ですりよって耳元で囁いた。
「なあ焔衣。小生の体、今どんなふうになっていると思う?」
 恋音はささやき、狐姫の防弾コルセットに手をかけてベルトをゆるめる。
(ちょっ、何しやがる!)
 嫌がる狐姫の耳元でささやきながら、今度は狐姫の袴の横から手を忍ばせ、スルリと膝まで脱がせた。
「小生のここ、見てみる? 焔衣になら見せてあげるよ」
 恋音の視線を辿るように、狐姫は恋音の下半身に目を向けた。
(今のルーシーも能力を発動した想夜と同じように変なもんが生えているのか。こいつも半分妖精になっちまったのか)

 八卦――ハイブリッド・ハイヤースペクターとなった恋音は両性具有となっている。女を孕ませることもできるし、子を宿す事もできる存在となった――。

「一回、こういうのを試してみたかったんだ。だって普通のメスには、ついてないもんなコレ。女にはさ、好きな女の子・・・・・・ができても、その子を孕ませることができない。男女のように、エッチなことできないんだよな。……あ、ごめん。想像してたら、なんか、固くなってきちゃった。こういう感覚って初めてだ。なんてゆーか、あそこが充血して、皮膚が張って、ちょっぴり痛い」

 恋音は狐姫の両手を抑え込み、仰向けの状態にさせてねじ伏せた。

(――え? ルーシー、おまえ今、なんて言ったんだ?)
 抑え込まれる狐姫には、恋音の言っている意味がわからなかった。新しく生まれた生殖器の性能を狐姫の体で試そうとしているのはわかる。ただ、恋音の言葉の片隅に違和感を覚えたのだ。

 好きな女の子ができても、その子を孕ませることができない――恋音は確かにそう言った。

 狐姫は諦めたかのように腕から力を抜き、ゆっくりと瞼を閉じた。
(そうかよルーシー。おまえ、そんなことを黙っていたのかよ)
「――焔衣。小生はずっとおまえの泣き顔が見たかった。弱い部分を小生だけに見せて欲しかった。笑った顔を見ていたかった。小生のためだけに向けてくれる多くの感情に、ずっと触れていたかった」

 おまえを、独り占めしたかった――。

 覆いかぶさる恋音は、狐姫の耳を軽く噛んだ。
 狐姫の耳に心地よい刺激が伝わり、ピクリと見悶えた。
「はじめて会った時からずっと……、そう思っていた」

 狐姫の耳から頬、首筋へと唇を走らせる恋音――その胸に秘めたる思いを遂げられぬまま、行動で気持ちを表現してゆく。

「けれども、どいつもこいつも邪魔ばかり。小生から、この手から……、なけなしの大切なものを奪ってゆく。そのくせ、いらないものばかり押し付けてくる。そろそろ受け取ることを拒否することも覚えないとな。それから、お返しも用意しないとな……」

 恋音は狐姫から離れると、天高く両手を掲げる。とたんに着火が始まりメラメラと炎が灯った。続けて両手いっぱいに腕を広げて円を作り、上空に巨大な陣を描く。
 恋音の目前に巨大な陣が出現し、それが分離して8つの陣となって規則正しい図形を作り出す。

「やべえな。あれがオクトフレアか。このままだと世界が終わっちまうぜ!」
 沢木の口からタバコがポロリと落ちる。

 八卦の焔を解き放つ恋音――言葉とマグマを禁止された狐姫に対して一方的に話を続ける。
「さっき金盛に言われたよ。ヒーローは悪役が引き立ててくれるからヒーローなんだって。焔衣という劣等生あくやくがいなくなったら引き立て役がいないのも同然。小生はヒーローもなんでもないゴミだって。けれども小生は、おまえのことを悪役だなんて思ってはいない」

 上空の陣が恋音を中心として規則正しく配置された。頭上の陣から焔の火柱が舞い下りてきては、恋音の周囲を真っ赤に彩った。
「見ろ焔衣。これが小生の焔……いや、八卦の炎か。火で火は消せない。おまえは小生に勝つことはできないんだ」
 恋音は頭上の陣を見つめると、肩幅におろした灼熱の両手をかるく広げた。

「町に赤霧が出現した時、色んなしがらみや邪魔なものがなくなるんだって、一種の安堵感を覚えた。赤霧の影響でこの世はきっと混沌に向かう。けれども、そんな世界でもおまえと一緒なら、この世界は小生にとって楽園なんだ。混沌の世界であっても、おまえはいつものように小生に元気をくれることだろう。小生にとって、おまえはお日様だ。小生の沈んだ気持ちを照らしてくれる光だ。小生は、おまえの背中を追いかけてきた。凍える日常で暖を取るのは必然のこと。温かいおまえは小生にとっての、命の焔だ」
(やべえな。ルーシーのやつ、完全に目がイッちゃってるぜ……)
 ハイライトが消え失せた死んだ瞳。それでいて獲物を狩る力強さを持つ瞳――恋音の瞳、不気味な眼差し。
「なぜ八卦の力は小生を受け入れたのか。なぜ小生はギャンサーエフェクターを使えるのか。ひょっとしたら神様は、この世界が嫌いなんじゃないかって、小生はそう考えたんだ。だから小生にすべてを焼き尽くすように宿命を与えたんじゃないかって、そう思うんだ――」

 恋音はポツリを言った。
「どのみち、ソレイユも助からない。この世は無情そのものだよ。邪悪な人間は皆、ここで消し炭に変えてやるよ――」
(ソレイユが助からないだと? どういう意味だ!?)
 狐姫は疑問を抱いた瞬間、恋音はオクトフレアのスタンバイに入った!

 10秒後、八卦の炎が人類を飲み込む!


金盛の取調べ


 妖精界 一般総合病院――。

 恋音に半殺しにされた金盛は、妖精界にある一般病院に運ばれた。牢獄ではないため、治療が済んだ金盛は何人もの隊員たちに見張られている。

 病室内――。
 個室のベッドに横たわる金盛のまわりをフェアリーフォースの隊員たちが厳重に取り囲んでいる。ちょうど金盛の取り調べが行われていっるところだ。

 金盛につなげれれた点滴の雫ががどれだけ落下しただろう? 麗蘭は乱暴にパイプ椅子に手をかけると、ベッド脇に放り投げるように置いて、そこにふんぞり返った。

「――さて、妖精たちの税金で治療してもらった感想でも聞こうか? ふかふかのベッドでぬくぬくとしていられるのも今だけだ。夜には臭い豚箱に移す。48時間みっちり絞ってやるから覚悟しておけ」
 包帯まみれの金盛は、息も絶え絶えで呟く。

「ワシゃぁ……、ワシゃぁ……、そそのかされた……、だけじゃぁ……ワシゃぁ、被害者、なんじゃぁ……」

 ワシは、ワシは――そうやって何度も何度も自身を擁護する。悪人には反省という概念がないのは事実。それを麗蘭はよく知っている。

「ぬかせ。貴様が何をしてきたかわかっているな? 善良な人々を拉致監禁して奴隷や家畜同然に扱い、彼らの労働で私利私欲をむさぼってきたんだ。500年は強制労働の刑が確定だな。もう生きて刑務所を出られないだろう。貴様の資産も政府がおさえた。壺も人喰い絵画も、今頃はフェアリーフォースの保管庫の中だ」
「……」
 無言の金盛。麗蘭は、包帯の向こう側の表情筋がニヤリと緩んだのを見逃さなかった。
「――何がおかしい? 骨董品を収集していたな。そんなに押収されたコレクションが恋しいか?」
「……」
 空調の音に消されるくらい小さな声で、金盛が何かを呟いている。
 声がよく聞き取れない麗蘭は、イラつきながらも金盛の口に耳を近づけた。その時、病室の扉が勢いよく開き、隊員のひとりが入ってきた。
「京極! ソレイユという妖精のことで話がある」
「何かわかったのか?」

 麗蘭は渡された報告書に目をとおした途端、鬼のような形相へと変わった。

「――おい! これは事実なのか!?」
 いきり立った麗蘭が報告書を放り出し、金盛の胸倉をつかんでベッドから無理やり起こそうとする。
「金盛! おまえこの事実を知っていたな!?」
「おちつけ京極!」
「放せ! そいつにはまだ聞くことがある! おい金盛! 貴様何を企んでいる!」
 周囲の隊員たちに羽交い絞めにされる麗蘭が憤怒する。
「金盛! おまえ、どこまで卑劣なやつなんだ!」

 叫ぶ麗蘭は、隊員たちの手を振りほどくと病室から廊下へと飛び出した。

「アロウサル! ハイヤースペック・エレメントナイト」
 すぐさま腕を横に振りかざしてハイヤースペックを発動。小さな妖精を人間界へと解き放った。
「急がなければ、人間界はとんでもないことになるぞ――!」
 焦りの色――麗蘭の額に滝のような汗が流れた。


守護の人々


 恋音は右腕を大きく天に掲げ、腹の底から声を絞って言葉を届けた。
「さよなら、焔衣。 ……今でも、大好きだよ――」
(万事休す!? 万事休す!? 間に合わなかったのん!? ……てか、この状況でなんで告られてんの俺っ)
 狐姫が嗚咽をあげかけた、まさにその時だった。

「――全身に確かな温もりが戻ってきたな。これこれ、この灼熱感。これを待ってたのよ。おし、準備完了。派手にブチかますぜ! ……て俺、言葉も話せるじゃん。やっぱ喋れるって幸せだわ~っ」

 狐姫の声を聞いたとたん、恋音は危機感を持って距離をとる。
「へえ、だんまりを決め込んでいたのに急にお喋りになったな。まあ、いつもの焔衣らしいけど」
「火で火は消せる。それをおまえは、さっき証明してたぜ!」

 狐姫は拳にマグマを宿らせ、床めがけて一気に叩きつける!
「ルーシーには特別に、とっておきのやつを…………お見舞いしてやるぜ!」

 狐姫を中心にド派手な爆炎が舞い上がり、その場の酸素を食い尽くす!

 荒れ狂う龍が如く、炎たちが水を得た魚のように弧を描いてマグマの表面を飛び交う!
 駅前全体がマグマで彩られ、そこにプロミネンスは広がりを見せた!

「プロミネンス!? マグマの炎が周囲の酸素を喰らってる! マグマで小生の炎をかき消したというのか! まるで太陽の表面にいるかのようだ! だが、そんなことをすればおまえだって呼吸ができなくて死ぬぞ! ……そら見ろ! 現におまえは呼吸できずに、そうやってくたばっているじゃないか!」
 恋音は地面の上で膝をつく狐姫を指さし嘲笑った。
 だが狐姫は、それをニヤリ顔で返し、こう言った。


「ショータイムの始まりだぜ――。
マジで痛ってぇからな。
泣くんじゃねーぞ、ルーシー」



 追い詰めれているはずの狐姫が余裕の笑み。そのことが気に入らない恋音は、眉を吊り上げ怒りをあらわにした。
「抜かせよ! 負けてるクセに! 小生よりも弱いクセにいいいいいいいい!」

 半狂乱の恋音が両腕を大きく広げて詠唱を始めると、眩い炎の球体が8つ出現し、それらが小さな体を取り囲む!

「かつて妖精界を炎に変えたディルファーの能力、ギャンサーエフェクター。その中でもオクトフレアは別格の威力。狙った人物を好きな数だけ焼き殺せる。この一発で多くの人類が黒炭と化す。今回は悪魔と波長が似ている人間にのみに作用するよう改良しておいた。小生は優等生のいい子ちゃんだからな、特別サービスだ。この1発で小生も消えてなくなる。そして焔衣、おまえの枠も特別に用意しておいてやった」
「なるへそ。神城博士と沙耶ちんらは救われて、俺ちゃんはルーシーと心中というわけか。いつもは消極的なおまえにしては大胆な判断だ。好きだぜ、そういうブッ飛んだ考え」
 悪魔と波長の似ている者は焼却――それを耳にした狐姫は、ちょっぴり安心した。御殿や想夜はオクトフレアの犠牲にならないと確信したからだ。

「……それじゃあ、温もりあるひと時を。アディオス、焔衣――」

 8つの球体が恋音の頭上で1つに集結し、かつてないほどの大爆発を引き起こす!

「人類が焼かれる!」
 想夜たちが身を伏せた時だった。その場にいる皆がただならぬ気配に取り囲まれ、周囲を見渡す――。

「――なんだ、この無数の気配は……!!」
 恋音も周囲を見まわす。その視線の先に、ひとつ、ふたつ――まるで亡霊のように炎が現れたかと思うと、ひとり、ふたりと人の姿にその身を変えてゆく。

「獣人? どうしてこんなところに!?」
 御殿が息を呑んだ。突如として現れた無数の獣人。人知を超えた現象に成す術もない。

 皆、人の形をした獣人――ある獣人は着物姿の女性であり、またある獣人はメガネをかけた青年、またある獣人はふくよかな体型をした中年男性であり、またある獣人はモデルのような華奢なスタイルの女性。大人や子供。男と女。皆、個性豊かな命たち。それらがゆっくりと一歩前に足を踏み出す――。

 恋音のオクトフレアが発光を増す。が、皆、それが無意味だと理解するのに時間はかからなかった。
 
 焔から生まれし獣人たちは、あれよあれよという間に増え続け、20数人強にまで達した。

 御殿が得体の知れない獣人たちを遠くから見届けていた。
「あれは……獣人?」
 誰に問いかけるでもない問いに対し、想夜がポツリと口を開いた。
「あ、あれは……ガーディアンスピリット!?」
「ガーディアンスピリット? 守護霊とか守護天使とか、そういう類?」
「はい。普段は見えない霊体で、あたしたちを陰でサポートしてくれる人たちです。危険な場所や状態から遠ざけるよう助けてくれたり、必要な場所へと導いてくれたりするガイドスピリットなども存在します。でも、まさか具現化するなんて……あたしも初めて見ました。狐姫ちゃん、何者なんです!? 相当の霊力の持ち主ですよ!」

 意気込む想夜に問われるも、御殿は何も答えられないでいる。日常では狐姫は過去を語りたがらず、御殿も無理に聞き出そうとはしないからだ。

「ひょっとして狐姫の独り言は彼らと話をしていたの? マグマも使えなかったみたいだけれど?」
「高次元の存在たちと周波数を合わせてたんです。この世界は波の連続。物体として存在していない人たちでさえ、周波数を用いた連絡手段を持っています。それほどまでに、波は重要な通信手段なんです。今の狐姫ちゃんは現世の人たちと周波数が異なります。高次元の存在に片足を踏み込んでいる状態です」
「高次元の存在、か。あの場所にいるガーディアンスピリットたちと狐姫との関係性は?」
 状況を察した御殿に、想夜が答える。
「――あの人たちは全員、狐姫ちゃんとゆかりある人物。狐姫ちゃんのご先祖様や、狐姫ちゃんの前世、または前々世。遠い過去に関係が深かった人たち。すでにこの世には存在していない人たちです」
「死者? どうしてそんな存在がここに集結しているの?」
 どうして存在しているのかと問われても返答に困る。想夜自身が知りたいくらいだ。
「おそらくは、呪符のリボンを解くと高次元の人たちと周波数が合うのではないかと思います。リボンをしていない狐姫ちゃんの声は、あたしたちと会話するためではなくガーディアンスピリットと会話するための通信手段となっているのでしょう」
「なるほど。だからリボンをしていない時は無口だったわけか。それなら説明がつくわね」
 御殿との生活の中で、リボンをほどいた狐姫はいつも部屋にこもっていた。入浴中も髪を洗う時は決まって静かだった。

 奇想天外な出来事に御殿も想夜も絶句するばかり。本来、霊体である彼らが肉体を持つことはない。だがこうして、目の前には狐の獣人が無数に実在しているのだ。彼ら、または彼女らを呼び出したのは他でもない、狐姫である。

 御殿が恋音とガーディアンスピリットの動きを捕らえた。
「はじまった!」

 今、獅子と狐たちの宴が幕を開ける!

 ガーディアンスピリットのひとりがものすごい速度で恋音との間合いをつめてきた!
「早い! 瞬間移動!?」
 身構える恋音のガードをあっさりと崩して獣人のボディブローがぶち込まれる!

 ボフッ!
 
「うぐ!?」
 拳をもろに受けた恋音がくの字に腰を曲げて嗚咽を上げた。とたんに8つの紅玉が散り散りとなり、八卦の焔が無となった。間一髪でディルファーの爆炎を防いだのだ!
「オクトフレアを止めた!」
 御殿が叫んだ。
 だが恋音はすぐさま体勢を立て直す。無数の攻撃にさえひるまず、終始真顔。ボディーブローを食らってくの字に折れた状態から頭を落下させ、左足をサソリの尻尾のように獣人Aに叩き込む。すぐさま姿勢を戻してしゃがみ込み、獣人Aの顎にサマーソルトキックをぶち込んだ。
 空中に吹き飛ぶ獣人Aに対し、恋音は暴魔を放って場外に殴り飛ばした。続けて左手の獣人Bに裏拳を叩き込み、真後ろの獣人Cを蹴り飛ばす。直後、右腕を大きく空に向ける!
「暴魔、おいで!」
 突如、上空から降ってきた暴魔たちは恋音を守るように立ちはだかり、狂ったように両腕を振り回して獣人たちを弾き飛ばす。
 暴魔に丸のみにされたガーディアンスピリットも、暴魔の体内を爆炎で突き破って生還してくる。
 恋音はすかさず、暴魔の胃袋から生還したガーディアンスピリットに蹴りをブチかまして吹き飛ばす。

「暴魔操作だけじゃなく、ガーディアンスピリットと互角に戦っている! まさしく正真正銘のエリート祈祷師!」
 その場にいる全員が息を呑んだ。恋音は正真正銘、優秀な暴力祈祷師だった。その格闘センスたるや獣人の中でも、いや、すべての暴力祈祷師の中でもずば抜けた存在だった。

「小生は世界の笑顔を願ってきた! 暴力祈祷師として人間たちを支えてきた! だというのに、世界はいっこうに平和にならない! 人間たちは過ちをくり返し、私利私欲のために罪なき人を犠牲にする! 小生には人間が悪魔に見える時があるんだ! それでも暴力祈祷師は全人類に手を差し伸べなければならないのか!? この問いに、おまえは答えられるか!? 答えてみせろよ焔衣!」
 恋音は誇らしげに、声高々に叫ぶ。
「知らねえっつーの! バカなんてほっときゃいいだろ! 俺なんてムカつく人間のケツ蹴り飛ばしてるぜ!」
 狐姫の答えに御殿が頭を痛める。コンビを組んだ当初、クライアントの尻を思い切り蹴飛ばして契約無効&裁判沙汰になりかけたんだっけ。
「おまえがうらやましいよ焔衣! 小生もそんな器用に生きられたらよかったよ! でも小生にはそれができなかった! できる奴にはできて、できない奴にはできないことだってあるんだ! だがもう限界だ! 徹底的にぶち壊してやるよ! 危機感のない人間にはお仕置きが必要だ! 誰もやらないなら、小生が人間たちにわからせてやるよ!」
 恋音が怒りまかせにガーディアンスピリットたちに蹴りをぶち込む。身勝手な人間から受けた数々の仕打ちの憂さ晴らしをしているかのよう。人間が食い散らかしたゴミの後始末を、ずっと恋音のような真面目な者たちは行ってきたのだから無理もない。

 狐姫は親指をかみしめた。
「くそっ。ルーシー、完全にキレて頭に血がのぼっちまってる。よほどガマンしてたんだな。システマで痛みをデフォルト化してやがるから、ぶん殴っても構えが崩せねえ。スーパーアーマー実装ってところか。おまけに暴魔まで使ってきやがる。こんな厄介なヤツを親友に持った俺って優秀すぎじゃね? 俺も参戦してえけど、ご先祖様の攻撃力と比べたら俺の攻撃力はカスレベルだからな。だがな、スーパー狐姫ちゃんタイムは……始まったばかりだぜ!」

 狐姫は高く掲げた両腕を振り下ろし、地底から引きずり出したマグマでガーディアンスピリットたちをコーティングする。そうすることでご先祖様の防御力を上昇させた。

「補助役もできる狐姫ちゃん様だぜ! かわいいだけじゃないって、もはや俺ってチート代表だろおおお! かわいすぎちゃって……、すんませええええーーーーん! かわいくって……ゴメーーーーン! なんつってえええええ!」

 テンションMAX。狐姫が全身全霊で叫び、マグマの荒波をかちあげる! マグマの火柱が無数に天空へとのぼり、幾本も頭があるオロチのようなマグマを形成。それらがガーディアンスピリットたちに力を与え、さらなるマグマを宿らせ、各々の移動速度をはじめとするパラメーターを上昇させた!

 狐姫が恋音に向かって叫ぶ。
「確かに人間ってのは勝手な連中ばかりだよ! 好き好んで危険な行為をするし、魔族に肩入れまでしやがる人間もいる。獣人に対しても酷いことばかりする。俺だってムカムカしてるぜ! だからこそ、嫌なことは嫌だって突っぱねる勇気が必要なんだ! 断る力が必要なんだ! 魂が目の前のことを拒絶するのなら、それを突っぱねてみせろよ! 魂に耳を傾けろ! 自分の本音を大事にしてやれよルーシー!」
 そうやってブロンドの少女は恋音を指さし、マグマの中で舞い踊った。

 ガーディアンスピリットから顔面にパンチをもらった恋音。修道服をヒラリとひるがえらせ、速攻で相手の顔面めがけて反撃パンチを叩き込む!
「ルーシーに攻撃を入れるともれなくカウンターが返ってくる。必ずおつりがくるのか。あれがシステマのストライク。肩の力が抜けているぶん攻撃も早く、拳には力を集中させているから威力は絶大。スピードもパワーも申し分ない。ルーシーめ、頼むから早くくたばってくれ……よっと!」
 ふたたびマグマでご先祖様をコーティング。今度は攻撃力を上昇させる。

「言ってくれるな焔衣! だが拒絶したところで世界は平和になるか!? 人間たちは会心するのか!? 人は人の不幸を見て笑う生き物。粛清が必要な人間にはな、罰を与える存在が必要なんだ!」
 恋音の言葉を聞いた沢木が「まあ、正論だわな」と頷く。

 獣人に挟まれた恋音が獅子の炎でそれらを蹴ちらすも、次から次にしむけてくる攻撃に対処しきれない。
「くっ、さばききれない!」
 恋音に焦りの色が見えた瞬間、その隙をついて別の獣人が立て続けに恋音に蹴りを入れて上空にかち上げた!
 空中でバランスを崩した恋音は目の前の電柱を蹴飛ばし、ビルとビルの間に潜り込む。
「空中だとうまくバランスを保てないな」
 左右のビルの外壁に炎をぶつけ、爆風を用いながら上空でバランスを立て直して真横からの攻撃を防御する。が、背後からマグマを叩きつけられ再びバランスを崩してしまう。そこに別の獣人のかかと墜としが炸裂!

 ガッ。

 蹴りが恋音の脳天に直撃し、真っ逆さまに落下する。
「なんて強烈な威力だ! 焔衣がガーディアンスピリットたちの攻撃力をあげているのか! まともに受けてたらきりがないな」
 地面に直撃する瞬間、くるりと体勢を直して着地。

 四方八方から放たれる獣人の攻撃。恋音はそれらを1つ1つさばいては軌道をそらして受け流す。目の前の獣人にパンチを叩き込み、背中に迫る獣人には後ろ回し蹴りで吹き飛ばした。だが、そんな攻防も長くは続かない。ガーディアンスピリットの力は偉大だ。獅子の娘ひとりで太刀打ちできる連中ではない。たとえそれが八卦であったとしても――。

 ひときわ巨大な獣人が恋音の顔面をわし掴みにすると、乱暴に地面に叩きつける!
 アスファルトに叩きつけられた恋音はバウンド後、すぐさま体を捻って相手の手から抜け出した。しかし相手の獣人も恋音に素早く対応。恋音の尻尾を掴んで引きずり戻す。

(しまった、尻尾をつかまれた!)
 焦りも虚しく、恋音は弧を描いて背中からアスファルトに突っ込み、派手な蜘蛛の巣状の亀裂を作り上げた。
 ガーディアンスピリットの攻撃はこれからだ。立ち上がったばかりの恋音に対し、無数の獣人がボコボコに殴りつける!
 顔を、腹を、背中を――攻撃を受け続ける恋音は、まるで不格好な盆踊りをしているかのようだった。

「ぬるい! ぬるいぬるいぬるい!」
 恋音は寝ながらの姿勢で無数の攻撃をさばきながら、反撃を繰り出す。20人以上のガーディアンスピリットに、たったひとりで応戦。起き上がりざま、足払いでガーディアンスピリットたちのバランスを崩して難を逃れる。天才児、ここにあり!

「暴魔、おねがい!」
 恋音の支持で暴魔が動き出す! ビルの向こうからヌウッと巨大な影が現れ、大蛇のような暴魔がガーディアンスピリット目めがけて突っ込んできては、あたり一面を食い散らかす!

「ルーシーめ、大型暴魔まで操作できるのか。やってくれるじゃん。だけどこっちも遊びで暴力祈祷師やってるんじゃねーんだ……ぜっと!」
 狐姫が両腕を大きく交差してマグマを操作。ガーディアンスピリットたちが動きやすいよう、マグマの進路を形成しては地形に変化をもたらす。
 狐姫が形成したマグマの地形を使い、何人かの獣人が効率よく行動をとる。暴魔1体に対して獣人がひとりで応戦。恋音を護衛する暴魔をマグマで焼き払い、常に効率のよいやり方で戦略を進めてゆく。そうやって一瞬のうちに恋音を崖っぷちに追い込んでいった。

「俺がルーシーを止めてみせる。ルーシーひとりを世界の悪者なんかにさせてたまるかよ。悪役になるなら、俺も一緒になるぜ」
 狐姫はそうつぶやき、ありったけのマグマでガーディアンスピリットたちを彩っては癒し続ける。

 ガーディアンスピリットの滞在時間は限られている。そもそも死者がこの世に存在していること自体が摂理に反しているのだ。長く思える戦闘でさえ、まだ20秒も経っていない。間もなく彼らは黄泉の国へと帰ってゆく。そして、それまでに決着がつく確信もガーディアンスピリットたちは持っている。獅子の娘ひとりをねじ伏せることなど造作もないこと。守護の天使たちの力は絶大なのだ!

 獣人Eが恋音の腹に回し蹴りをかまして向かいのビルまで吹き飛ばす!

 ドオオオオン!

 ビルの表面に叩きつけられた恋音は煙を巻き上げ、窓ガラスをぶち破って室内で横転。デスクを散乱させて壁に激突。起き上がろうと膝に手をかけたところへ獣人Fのマグマをまとった裏拳が炸裂!

 ガ!

「痛っ」
 恋音の体がさらに向かいのビルまで吹き飛ばされる! 真正面から別の獣人に殴り飛ばされた恋音は、ビル一面に蜘蛛の巣状のヒビを作ってめり込んだ。まるで貼りつけにされたキリストだ。
 ガーディアンスピリットたちが道路を占拠し、大の字にめり込んだ恋音めがけて掌をかかげた。
「一斉射撃がくる!」
 御殿がそう言ったとたん、ガーディアンスピリット全員の掌が発光し、マグマの弾幕を準備。射撃が始まった!

 ドドドドッ
 ドドドドッドドドドドド!
 ドドッドドドドド!

 ビルに貼りつけにされた恋音に浴びせられるマグマの弾幕。それがやむと四方八方からマグマをまとって何体もデッドエンド・フレイムダウンで突っ込んくる。その後はガーディアンスピリット全員で一斉に飛びかかり、殴る蹴るの暴行。
 息つく暇もなく無数の攻撃をあびせられる恋音は成す術を持たない。

 沢木が目をそむけた。
「マジかよ。まるで集団リンチだな」
「ええ。でも、ああでもしなければ八卦の焔は止められない。今はガーディアンスピリットの活躍にかかっている!」
 御殿は遠くで地面に突っ伏している狐姫に目を向けた。
(狐姫。あなたは一体何者なの? どこからやって来たの? どうして人間社会に溶け込んでいるの?)
 相方の狐姫がこの世の者ではない神聖なもののような気がして、ちょっぴり遠くに感じた。

 獣人Jが壁にめり込んだ恋音を引きずり出して上空に放り投げる。それをK、L、M、N、Oが連続で蹴り飛ばし、殴り飛ばし、最後にPが恋音の胸倉を掴んだ時のことだ。
 
「気安く触るな。小生の肌に触れていいのは……焔衣だけだ」

 恋音はこれ以上ない冷たい口調で獣人Pの腕をつかみ、両手で関節を決めると一気に骨をへし折った。

 ――ボキッ。

 獣人Pの右腕がおかしな方向に捻じれて不格好な人形のようになる。
 恋音はその不格好な人形の髪の毛を掴みんで獣人Qに叩きつけると、2体まとめて蹴り飛ばした。
「おまえら死んでるんだろ? とっくにこの世を満喫してきたんだろ? だったらおとなしく、そのまま死んどけよ! そもそもおまえらが人間たちを甘やかしてきたからその分、小生たちが尻ぬぐいをしているんだよ……な!」

 PとQが近くの巨大看板に激突したところへ、恋音は追い打ちの飛び蹴りをかまして首をへし折った。

 道路に落下するQとPだが、アスファルトの上で上体を起こすと、折れ曲がった首をコキコキと左右に調整して元の位置に戻してゆっくりと立ち上がる。普通の肉体をも超越したガーディアンスピリットに死の概念などない。

 駅前交差点の中心に着地した恋音に対し、獣人Rが後方上空から飛びかかる。恋音の顔面を片手でつかむと、アスファルトに思い切り叩きつけた。
 クレーターを作ってダウンする恋音にガーディアンスピリット全員が飛びかかり、八つ裂きのような総攻撃を開始する!
 パンチ、キック、マグマの連弾――恋音の体力を極限まで削り取ってゆく。

 狐姫が最後のマグマを振り絞り、ガーディアンスピリットたちに力を与える!
「いいか、よく聞けルーシー! 世界の悪者になるなら俺も誘え! 世界を救うなら俺も誘え! ついでに雷々軒でメシ食う時も俺を誘え! んで奢れ! おまえが暴走した時は俺が止める! 八卦の焔で燃え尽きるなら俺も付き合う! だが、まだやるべきことがあるのなら、俺はおまえを未来に導く! おまえに未来があるのなら、くたばってなんかやるもんか! 絶対にくたばってなんかやるもんか! 今! この瞬間! この命を……おまえのために捧げる!」
 魂の奥底からありったけの声で、そう叫ぶのだ!


 ここまでしなければ、八卦の力は止められない。
 誰かが命をかけなければ、ディルファーの脅威に対抗できない。
 たとえ命をかけたとしても、
 それは博打にすぎず無意味に終わる。
 そんな未来かもしれない。
 
 だが、どんなことでもやってみる価値はあるはずだ。
 何事も、やってみなければわからない。
 
 未来は確定していない。
 
 声を上げて前進する者たちよ。
 未来はいつだって君たちに作り出される。

 挑戦する者よ。
 命をかける者よ。
 それは誰だ?
 それは今、火の八卦の目の前にいる者。
 
 その名を、焔衣狐姫という――。



 どれだけのリンチが続いただろう? ひとりの獣人が手を上げた瞬間、ガーディアンスピリットたちの攻撃がピタリと止んだ。

 恋音に背を向け、ガーディアンスピリットが去ってゆく。
 道路で這いつくばる狐姫の横を通り過ぎるご先祖たち――ひとりは狐姫に微笑み、別のひとりは狐姫の頭にそっと手をそえて去ってゆく。「我々の役目はここまでだ。あとはしっかりやれ」と言わんばかりに。

 静まり返った戦場で、御殿が固唾を呑んだ。
「……終わった、の? 狐姫は? ルーシーは……? 無事なの?」
 視線の先に狐姫と恋音の姿があり、御殿は胸を撫でおろした。
 ――だが、まだ戦いは終わってはいなかった。


ソレイユの異変


 流船駅前。
 交差点のど真ん中。
 アスファルトのクレーターの中心で恋音がピクリと動き、上体を起こした。
 突っ伏していた狐姫も、ゆっくりと立ち上がる。
「あれだけフルボッコにされたのにまだ立てるのかよ! 暴力祈祷師の中にあんなタフな奴がいたのか!」
 沢木が唖然とした。

 恋音はゆっくりと両膝に手をかけ、亡霊のようにユラリと立ち上がると周囲を見渡した。
 静まり返った流船駅前。焼け焦げた匂いが充満し、あたり一面が真っ黒に染まっていた。
 あれだけ派手にぶちまけられた炎やマグマは不気味なほどに沈静化し、道路のあちらこちらに点々としているだけだった。

「ガーディアンスピリットは全員消えたか。まるで子供同士のケンカに親兄弟を連れて来るチキンちゃんじゃないか。そうだろう、焔衣?」
「ケロッとしてんじゃねーぞルーシー! こっちは秘伝のタレを使ったんだぞ! いい加減くたばりやがれウンコ!」
 狐姫が助走をつけて恋音に殴りかかった。が、ガーディアンスピリットを召喚した狐姫の体力はゼロに近い。ヘロヘロパンチが恋音の頬に届く瞬間、狐姫は力なくクルリと目を回してぶっ倒れてしまった。
 恋音は狐姫を支えながら、自分も道路の真ん中にしゃがみ込んだ。

 恋音の膝枕で、大の字に寝そべる狐姫。
「おまえ強すぎなんだよ。 ……汁のクセに」
 悪態でもつかなきゃやってられない。だって恋音ときたら、右頬がちょっとだけ腫れてるだけなんだもの。
 恋音はボロボロの修道服で力なく微笑む。
「小生があれしきのことでくたばるかよ……汁って言うな」
「焦ってたクセに。どうせギャンサーエフェクターを使う体力もないんだろ?」
「……まあな」
「ライターレベルの炎も出せねーだろ?」
「……まあな」
「なら……、俺の勝ちだな」
「ふふ、そうだな」
 ニシシと笑う狐姫。諦め顔の恋音――ふたりは視線を交わし、真っ赤な空を見つめた。

 狐姫が召喚したガーディアンスピリットにより、八卦の焔は阻止された。
 世界は救われたのか?
 誰の脅威から救われたのだろう?
 恋音の脅威から救われたのか?
 ディルファーの脅威から救われたのか?
 そうしたら、邪悪な人間は会心するのか?

 こんなもんが、ハッピーエンドなのか?

「けっきょく、小生は何もできなかった。勝手な一人よがりに終わったな」
 ポツリとつぶやく恋音の膝に、狐姫はやさしく手を添えた。
「そんなことねえよ。あれだけキレたんだ。ビビッて会心する奴らも出てくるさ。おまえの言うように、好き勝手なことばかりする奴らが多いからな。たまにはバカどもにはお仕置きが必要なんだ」
「焔衣は優しいな」
「だろ?」

 恋音は狐姫をアスファルトに寝かして立ち上がった。

「――さて、今回の最後の仕事をするか」
「ルーシー?」
 狐姫は恋音の背中を目で追った。行き先は神城親子の方向。
 ソレイユを抱く沙耶が、なかば喘ぐよう恋音にすがった。
「恋音、ソレイユの様態が……」
 恋音は不安そうにする沙耶に力なく微笑む。
「もう大丈夫だよ沙耶。小生は暴力祈祷師だ。ソレイユを、苦痛から解放してあげるからな」
 恋音はその後、無言のまま沙耶からそっとソレイユを引きはがし、両腕で大切に抱っこしては交差点の真ん中に戻り、そこで立ち尽くした。

 流船駅前。交差点のど真ん中で、恋音はグルリと世界を見渡し、ソレイユにこの世界を見せてあげた。

「ごらん、ソレイユ。妖精のおまえが守ろうとしている人間の世界は、こんなにも、こんなにも真っ赤で狂った世界なんだよ。それでもおまえは、小生に力を託して戦えというんだな。その意思を継げというんだな。小生を残して――」

 その姿はまるで赤子を諭すようでもあり、気が触れてしまった戦士のようでもあった。

 そして一同は、ソレイユの異変に気づく。
 白くてフサフサの毛並みが逆立ち、血走った眼球。むき出しの歯茎から殺意に満ちた躍動が芽生えていた――。
 祈祷師なら誰しもわかる。

 ソレイユはもう、助からない――。


ありがとね、ソレイユ


 人間界 流船――。
 ビルの屋上の想夜のもとへ、1匹の妖精が舞い降りた。
「京極隊長の妖精さん。どうしたの?」
 妖精は想夜の額に手をあてると、妖精界の麗蘭との通信を始める。
『――聞こえるか、雪車町!』
「京極隊長。はい、聞こえます。どうかしましたか?」
 小さな妖精の向こうで、麗蘭が乱れた呼吸を整える様子が伝わってきた。切羽詰まった感じだった。
『いいか雪車町、よく聞け』
 その後に続く言葉に、想夜は耳を疑った。
「――え、今、なんて……?」
 想夜は固唾を呑んで、もう一度麗蘭の支持を聞きなおした。
 
『ソレイユを、今すぐ殺せと言ったんだ――』

 想夜がポカンとしている。
『赤霧の正体は知っているな?』
「たしか暴力祈祷師たちの血肉からまれる怨念……」
『そうだ。そして妖精のクー・シーであるソレイユは、その赤霧を体内で浄化して綺麗な感情として解放する力がある。二酸化炭素を浄化する植物のような役割だ。そうやって長い時間、人喰い絵画の中で多くの暴力祈祷師の魂を浄化し続けてきたらしい』
「じ、自己犠牲……」
『ああ。だが絵画の中で悪霊に晒され続けた結果、ソレイユの体は悪しきものに支配され、逆の作用を引き起こすようになった。今のソレイユは金盛のコレクションの1つになり果てようとしている』
「逆の作用……ですか?」
 想夜はその言葉を聞きながら、ゆっくりと恋音の方に視線を移した。 

 想夜の視線の先――恋音はソレイユを抱きしめたまま、ただ茫然と夕日を見つめていた。オレンジ色が恋音の頬とソレイユの毛並みを染めている。恋音の表情は少しだけ大人びた、まるで何かを悟ったような、とても柔らかな表情だった。

「恋音ちゃん……」
 想夜はつぶやくだけだった。恋音はすでに、ソレイユの置かれた立場を理解していたのだ。

 牙を剥き出しにして、真っ黒にそまった眼球で世界を睨みつけている――肉体にやどる魔界を解き放ち、これから日本を魔界に変えてゆく。それがソレイユに課せられた最後の努めだった。

 想夜の真横、小さな妖精から麗蘭の声が聞こえてくる――。
『金盛はソレイユの体内に魔界を感染させたんだ! 今のソレイユは移動する魔界発生装置だ! ソレイユはずっと暴力祈祷師の怨念を浄化してきた。フィルターも使い続ければ黒くなる。結果、ソレイユのフィルターは真っ黒に染まってしまった。それを金盛は見越していたんだ!」
「そ、そんな……っ」
 想夜が膝から崩れた。

『ソレイユは悪霊に憑依された。人体実験さながら、金盛に無理やりにだ。間もなくソレイユは大量の悪霊を吐き出す。その後、ソレイユがいる場所から魔界が始まる! もうすぐソレイユは人喰い絵画として生まれ変わる! 聞こえているのか雪車町! はやくソレイユを殺すんだ! おい、聞こえているのか――!』

 淡々と下される上司の指令を、想夜は嗚咽を上げながら聞いている。その瞳に涙が溢れ出し、ポロリ、またポロリと頬を流れてゆく。

「人間を助けてきたのにっ、どうしてっ、ソレイユは、こんな目に、あっ、合わないといけないんですか!? ねえ、京極隊長、答えてよ、京極たいっ、ちょお! うぐっ、えっ、うぐっ……っ」
 想夜は涙を拭うこともしないまま、目を、鼻を真っ赤にして、鼻水を垂らしながら目の前で起こっている出来事を見守り続ける。武器を握る戦士のひとりとして、角膜に、その有志を焼き付けずにはいられなかったのだ。いつか自分にも訪れるかもしれない、無情で、理不尽な、この戦いの結末を――。

「これが、暴力祈祷師しょうせいの仕事だ――」
 恋音はソレイユをそっと抱きしめ、その首に腕をまわすとヘッドロックをかけて力を込め、一気に締め上げた。ソレイユに視線を落とすことはなく、ずっと夕日を見つめたまま、腕に力を入れる。
 
 人喰い絵画の中。ソレイユから八卦のチップを取り出した際、恋音にはこの結末がわかっていた。悪魔に憑依されたソレイユを火の八卦は認めなかったのだ。八卦のチップはソレイユを切り捨て、別の主を探しはじめる。それを理解した時、恋音は笑みをこぼした。嬉しい時の笑みではない。この世の無情に対する諦めの笑みだ。慈愛に満ちたソレイユが簡単に切り捨てられる世界に落胆したのだ。
 だが、そんな無情な世界を作り変えるのも、生きとし生ける者の努めだ。恋音はそれを理解した時、神様ってなんて勝手なんだろうと、ひどく幻滅した。そして「こんなふざけた世界で生き続けるなら、いっそ悪者でもいいかな」と思えた瞬間、フワリと心が軽くなった。吹っ切れた先に、自分の本音が少しだけ見えたのだ。「他人の言動に振り回されず、自分の信じた道を進む」という答えが見えたのだ。
 ――そうすることで、新しい世界が創れる。そんな気がした。

 想夜は泣くばかり。
 本当ならば自分がソレイユを手にかけるべきなのではないか?
 自分はフェアリーフォースの隊員。恋音にその役割をさせてはいけないのではないか?
 ――そんな自責の言葉が体じゅうを駆け巡る。自分のことをひどく無責任な奴だと罵る言葉が想夜の中にはあった。なにより、恋音の気持ちが全身に流れ込んでくるのだ。大切なものを手にかける心の激痛。人間たちのために戦い続けてきたものから命を奪う儀式。人間たちのために戦い続けてきたものに捧げる最後の花束――それが引導だなんて……あんまりだ。
 ――あんまりだ……。

「うっぐう……えっ、うぐっ」
 想夜は恋音の代弁者だった。終始嗚咽を上げ続けるその姿は、冷静を演じる恋音の本音そのもの。

「ソレイユ、ありがとうね。小生はおまえがいてくれた時間を覚えているよ。この世界に思いを馳せていたことも覚えているよ。この世界は無情なことが多いけれど、この世界は理不尽なことばかりだけれど、小生はもう少しだけ、歩いてみるね……」

 恋音の腕から全身にソレイユの脈が伝わり、じわり、じわりと悪霊に支配されてゆくのが分かる。

 そして――


「ありがとうね、ソレイユ――」



 ――ボキッ。

 恋音は、ソレイユの首をへし折った――。

 グッタリした大型犬はその後、ピクリとも動かなかった。
 恋音は犬の死骸からヘッドロックを解くと、両手で抱きしめ、そっと胸元に手繰り寄せた。
「ソレイユ……」
 フサフサの毛並みに顔をうずめ、頬をすりよせた。
「ソレイユ……おまえはあったかいね……いつも、いつも、あったかいね……」

 世界を愛してくれた命を、恋音は力を以ってして消し去った。
 世界を愛してくれた者を、恋音はその手で、絞め殺した――。 

「ソレイユ……、ソレイユ……」

 ソレイユの口から微かな赤霧がこぼれ、風に消えた――今、人間界は獅子恋音という暴力祈祷師によって、一命をとりとめたのだ。

 恋音は放心状態から抜け出せないまま、その場に這いつくばり、一滴として残らない赤霧をたぐり寄せるように、ひたすら両手を使って地面の上でかき集めた。そうすることで、ソレイユが戻ってきてくれるんじゃないかって思った。まるで気が狂ったかのような醜態でもあった。

 されど、その手には何も残らない。
 消えた者を拾い集めても、
 消えた想い出を集めても、
 そこには、何も残らないんだ。
 それを理解するのに、時間はいらなかった。

 ソレイユは暴れなかった。あえて悪者を受け入れ、暴力祈祷師の手によって処刑された。

「ごめんね、ソレイユ。小生、こんなことしかできなかった。いつまでも臆病だから、こんなことしか、してあげられなかった。小生がはっきりしないからいけなかったんだね。小生が偽りのいい子を演じてばかりいたから、おまえがお尻を叩いて、前へと促してくれたんだね……」

 小生が。小生が――そうやって自責を募らせ、最後の答えにたどり着く。

「……ごめんね――」

 恋音から一気に感情が溢れ出し、

「ごめんね……」

 嗚咽をあげ、

「ごめんねえええええええええ……!!!」

 その場に泣き崩れた。

 たとえ八卦の力を受け継いだとしても、その悲しみを止めることはできない。
 たとえ強大な力を以っていしても、己の無力さを補うことはできない。

 炎の宿命を持つものでさえ、こんなにも無力。
 とつじょ立ちはだかった運命を前に、火を司る八卦は、無力そのものだった――。

 恋音はソレイユを始末した後、亡骸に向けて独り言を続けた。募る想いを言葉に乗せていた。それが精一杯の供養だった。
 すべては己の弱さが招いた結果だと、恋音は終始、自分を責め続けた。
 責めても何も生まれないと理解し、やがて諦め、途方に暮れる暴力祈祷師の姿がそこにあった。

 恋音はソレイユの亡骸を抱きかかえると、幽霊のように力なく立ち上がり、フラフラと戦場と化した無人の駅へと進み、踏切に入り、長い長い線路の上を歩いてゆく――。

「ルーシー……」
 狐姫が伸ばした手も、消え入りそうなその声も、恋音の背中に届くことはない。狐姫でさえ、力尽きた戦士を見守ることしかできないでいた。

 これが戦士の最後だ。
 世界平和を心から願い、人間たちのために命を捧げた妖精の、ソレイユの最後――無様に、ヨダレを垂れ流し、白目をむき出しにして、そうやって命の灯火を消してゆく――想夜は一瞬たりとも目をそらさず、瞬き1つせず、それらを受け入れた。それが恋音とソレイユに向ける精一杯の誠意と手向けの花束だった。


 傷だらけの戦士たち。
 ボロボロになったその背中。
 その有志を見た人間たちは、口々にこう吐き捨てるだろう。
『あははははっ。お疲れちゃん』と――。

 その有志を見た人間たちは、口々にこう吐き捨てるだろう。
『あははははっ。かわいそう』と――。

 その有志を見た人間たちは、傷ついた背中を指さして、こう吐き捨てるだろう。
『あははははっ。あははははっ。あははははははっ』――。

 笑われても、罵られても、ボロボロの心体を引きずって前へと突き進み、その役割を果たす者たちがいる。

 人間たちのケツを拭く種族。
 人間たちのケツを拭く職業。

 ――それが妖精、
 そして暴力祈祷師の役割だ――。

 聞こえているか? 人間たちよ――。
 この声が届いているか? 人間たちよ――。

 暴力祈祷師は言葉を飲み込み、ただ寡黙に歩き続ける――。