13 私が悪ものになっても


勝手な人々

 
 聖色せいろん市 流船るふな駅前――。

 流船駅前に夕日がさす。
 広範囲に散らばった赤霧は、金盛から押収した大樽だいそんの壺により吸収され事なきを得た。
 静けさを取り戻したはよいが焦げた異臭が漂い、赤霧事件の名残りを忘れさせてはくれない。

 ソレイユを抱えた恋音の背中は、線路の上をゆっくりと移動しながら夕焼けの彼方に消えていった――。

 かなり遅れて祈祷師たちがゾロゾロやってきては、線路のずっと先をヘラヘラと笑いながら指さした。
「お、あいつが獅子しるこじゃね? 優等生も堕ちたもんだな。おーい犯罪者め、戻ってこーい!」
「あの白い犬が悪魔なんだろ? 取り返しにいこうぜ。おまえ取り返してこいよ」
「こ、こっちは状況確認で忙しいんだ。おまえが取り返してこいよ」
「線路の上なんか歩いてカッコつけやがって! おい! 除名は免れないからな! わかってんのか元優等生!」
「そんなに優等生でもなかっただろ。そもそもガキのくせに暴力祈祷師とか名乗っちゃって。気に入らん」
 皆、口々に勝手なことばかり。思いつくかぎりの罵声を恋音の背中に浴びせ続けた。
 逆立ちしても恋音に勝てない者たち。相手がつまづいた時のみ、ここぞとばかりに攻撃を仕掛けてくる。嫉妬のかたまりである。

 沢木は苦笑しながらタバコに火をつけた。
「おーおー。言いたい放題いってるねえ。これだからただ・・の祈祷師は……」
 暴力祈祷師と祈祷師の大きな違いは能力の差だけじゃない。地獄を見てきたかどうかでもある。恋音は厳しい両親のもとでスパルタ指導を受けてなお成長を遂げたエリート猛者。例えるなら小学校から飛び級で大学院にいった生徒である。ボケ~と卓上で教科書広げてきた連中には暴力祈祷師の偉大さは分かるまい。

 彼らを前に、とうぜん狐姫だっていい顔をしない。
「くそ、勝手なことばかり言いやがって! おめえらコミュニティの人間だろ! ちったあ悪魔と戦えよカスども!」
 狐姫が祈祷師たちにつかみかかろうとするが、数人の祈祷師によって取り押さえられてしまう。体力ほぼゼロの獣人によってたかってやりたい放題の人間たち。
「なんだ、不良ヤンキーの焔衣か。フレイムワークスの面汚しめ。これだから獣人は信用できねえんだ、暴力魔め」
「暴力祈祷師といってもただの暴力集団だろうが。それって反政府じゃねえの? 賃貸借りられんの? 偉そうにすんなよ」
「ここでコイツらボコッちまえば俺たちの手柄じゃね? よお~し、暴力祈祷師が無能集団だって世界中にわからせてやる」

 祈祷師の青年が舌なめずり。動けない狐姫の服に手をかけようとした時、御殿がニッコリ顔で割って入った。

「お早いご登場ですね祈祷師・・・のみなさん。では残留した赤霧の始末をお願いできますでしょうか?」
 すると祈祷師のひとりが偉そうに御殿に反論してくる。
「赤霧問題はウチらの仕事じゃないの。お姉さんわかる? ウチらはもっとこう、なんてゆーの? 悪魔に憑りつかれた人を助けたり、悪魔と戦ったり? そういう神聖な仕事をしてんの。暴力祈祷師にはわからないかなあ? はい論破ぁ、はははっ」
 ナルシストっぽい青年が髪をかきあげ、御託を並べた。が、御殿は満面の笑顔を作り、青年たちに視線を後ろに向けるよう促した。
「左様でございますか。それでは祈祷師・・・のみなさん。後ろに暴魔が一体残っておりますので退治していただけますかしら? よろしくお願いしますね。祈祷師・・・のみなさん」

 『祈祷師』を何度も嫌味ったらしく強調する御殿は知っている。目の前の連中は祈祷師じゃなく、何もできないで好き勝手に言葉をならべるだけの役立たずどもということを。

 役立たずどもの背中に巨大な黒い影が迫る――彼らが振り返る。そこには恋音が召喚した鳥型の大型暴魔が一体だけ残っており、ぬうっと巨大な顔を覗かせていた。頭のデカさだけでも4tトラックほどはある。

「うわあああああ! 暴m……!」

 悲鳴をあげる間もなく祈祷師たちは暴魔の後ろ足で蹴とばされ、遠くの空に消えていった。

 御殿がウンザリ顔で長い髪に手ぐしを入れる。
「騒がしいですね。それと、わたくしの相方に気安く触れないでくださいね……って、あの距離だと聞こえないか。おーい、役立たずの≪ピーーーーーー≫ め 、戻ってこーい」
 棒読み。かつ、とても放送できないような侮辱用語を投げまくった。
 沢木も御殿と並んで遠くの空に目をやる。役立たずどもが星となって消えた。
「なんだなんだぁ? 遅刻に早退。ただの祈祷師ってのはいいご身分だねえ。てか咲羅真、気持ちはわかるが怒りを抑えろよ。言い過ぎだぞ」
 御殿の言葉に青ざめた狐姫が肩をすくめて言う。
「さすがの俺も……言いませんねぇ……酷すぎます」
 御殿は振り向くと狐姫の目の前に立ち、頼もしい相方をまっすぐに見つめた。
「ありがとう狐姫。あなたはわたしとの約束を守ってくれた」
「あん? なんか言ったっけ俺?」
「言ったじゃない。病院のベッドの上で」

 俺が守ってやんよ――狐姫は愛宮総合病院で御殿に言った約束を思い出し、顔を真っ赤にする。

「べ、別におまえのためじゃねーし! 恋音がキレちまったから仕方なくだ……し――」
 狐姫が言いかけたところで、御殿は小さな体をそっと抱き寄せた。
「――ありがとうね。狐姫」
 御殿の胸に顔を埋めた狐姫は、静かに瞼を閉じる。
「い、いちいち頭撫でるなよな。 ……これからだって、守ってやんよ――」
 ゴニョニョと言いながら頬を染め、少し照れぎみにつぶやく狐姫だった。
 沢木は顔をほころばせ、やれやれといった感じでタバコをふかした。
「相方同士……か。微笑ましいねえ。まあとりあえず、今回の赤霧騒動は一件落着ってとこか」
 白い煙が宙を舞い、夕焼けの彼方に消えていった――。


マデロムの拘束


 想夜、継紗つかさ、リーノが恋音にボコられた少女ABCDを介抱している。
 先ほどまで金盛の様態を確認していた麗蘭れいらが戻ってきた。妖精界と人間界を行ったり来たりで多忙である。
小動こゆるぎ、傷の手当は済んだか?」
「はい。全員終わりました」
 麗蘭にきびきびとした声で答える継紗。チームのまとめ役としてしっかり者を貫いている。

 妖精界の薬はよく効く。ボコられた少女たちの回復も早いだろう。
 想夜は下着を汚してしまったCに学校のジャージを貸してあげた。洗濯するためにバッグに詰めて持ち帰っていたのが幸いした。

 少し間をおいてからマデロムが妖精界から駆けつける。
 麗蘭はかったるそうに歩いてくる巨体を確認すると、部下たちに指示を促した。
「――よし。マデロムも到着したようだし、我々はフェアリーフォース本部に帰還する。雪車町そりまちは明朝8時までに今回の報告書を提出するように。先週の報告書も遅れてるから早めに提出すること。それが終わったらゆっくり休め。小動も夜まで人間界に残って雪車町の報告書作成を手伝ってやれ。リーノは私と一緒にフェアリーフォース本部に戻る。以上だ」
「「わかりました。お気をつけて」」
 敬礼する継紗と想夜。
 それを見たリーノがプププと吹き出す。
「つかさんとソーヤちん、残業大変なの♪ リーノは本部に帰ってゆっくりするーの♪」
 リーノにからかわれた想夜が、てへへと頭をかく。
 余裕をかますリーノに麗蘭が言う。
「リーノは小動と雪車町のことを笑ってられないぞ? これから本部で徹夜作業に取りかかる。今日は帰れないからな。ご両親に連絡しておくように」
「え~、なの」
「え~、ではない。貴様それでも軍人か。はいと言え、はいと」
「は~い、なの」
 しょんぼりと肩を落とすリーノ。まるで魂が抜けたような暗い顔。人を笑えば自分に返ってくる教訓を学んだ。

 そこへ少女A、Cが想夜のところへと駆け寄ってきた。

「雪車町、あの……、この前はからかったりして、その……、ごめんね」
 上目づかいのAが消え入りそうな声で想夜に謝罪した。
 それを聞いた想夜は静かに首を左右させ、噛みちぎった右手首をかかげては、おどけて見せた。
「ううん、いいの。リストカットしたのは事実だし」
「京極隊長も、先日のご無礼をお許しください」
 と、Cも麗蘭に深々と頭をさげた。
「いいさ、私こそ馬鹿呼ばりして悪かったな」

 麗蘭はハッピータウンでの出来事を思い出し、それらを水に流した。そして少女の頭に手を置くと、その髪をやさしく撫でる。

「あ、頭撫でられると安心します。ね?」
 喜びの表情を見せるAが、Cと相槌をかわす。
「ねっ。京極隊長、聞いて下さいよぉ。マデロム隊長もたまに頭撫でてくれるんですよ。 ……張り手も飛んできますけど」
 遠慮がちにクスクス笑うAとC。
「おまえらは雪車町と同じことを言うんだな。頭なんかいくらでも撫でてやるぞ」
 想夜と同じように喜んでくれる少女たちに微笑ましさを覚える麗蘭である。
 それを見たマデロムは面白くなさそうにしている。
「女同士でキャッキャしやがって。おめえら余計なこと言ってんじゃねえ、ぶん殴るぞ」
 マデロムに喝を入れられて押し黙るAとC。マデロムの説教は続く。
「八卦には手を出すなってあれほど言っただろうが。ボコられたのは自業自得だ。命令違反は帰ったらおしおきだな」
「「す、すみません」」
 ションボリと肩を落として口をそろえる少女たち。反省の色はじゅうぶん顔に出ている。

 マデロムが重症の少女Bを背負う。
「よっこいしょ。京極、おめえも妖精界に帰るんだろ? 手伝え」
「おまえはほんっと妖精ひと使いの荒いやつだな」
 麗蘭が大やけどのDを背負う。こっちの隊員も治療が済んでいるとはいえ重症だ。しばらくは安静を余儀なくされるだろうが、火の八卦相手によく生き延びてくれたと胸を撫でおろす麗蘭だった。


 麗蘭とマデロムが流船るふなから離れた頃――深い森の中、泉の中央にフェアリーリングが輝きを放っている。ここを通って妖精界に戻る。

 部下たちの無残な姿を気にながら苦笑するマデロム。
「――しっかしおめえら、派手にやられたなぁ。生きてっか? 相手は八卦だが、それ以前にマジメすぎる奴は暴走すると歯止め利かないからな」
 いっぽう麗蘭は申し訳なさそうにしている。
「わざわざ人間界に来させて悪かったなマデロム」
「ほお、やけにしおらしいじゃねえか京極隊長。男でもできたか? それとも女か?」
「か、からかうな。せっかく頭を下げたのに失礼なヤツめ」
 ニヤつくマデロムを前に赤面する麗蘭。愛しの瞳栖あいすにくすりと笑われた気がした。
 もうひとつ。麗蘭には最悪感があった。
「ところで、その……、マデロム。無理に流船に呼びつけてしまったわけだが。君にはその、灼熱の光景が癪に障るのではないかと思って躊躇はしたんだ……」
 麗蘭の言葉にマデロムが押し黙る。

 マデロムの脳裏。マグマに焼き尽くされ蹂躙された故郷が浮かび上がる――灼熱のマグマの向こうで無数の獣人がうごめき、若かりし頃の無力なマデロムや横たわる町人たちを見ては笑い転げている、まるで悪魔のような集団。忘れたくとも忘れられない過去。ずっと遠い過去のこと。彼の故郷はマグマを引き連れた獣人たちによって略奪されている。

 暗い気分を拭うかのように、その巨漢は麗蘭に背を向けた。
「気にするな。半殺しにされた可愛い部下の面倒を見るのも隊長の努めだ。 ……おら、おめぇらも帰るぞ」
「「はい!」」
 少女A、Cがマデロムの後ろを追いかけていった。

 今はそっとしておいてくれ。余計な詮索は、しないでくれ――麗蘭には、マデロムの背中がそう語っているように思えてならなかった。

「――そう言えば京極、おまえ」
 マデロムは確認したかったことを思い出して麗蘭に問う。


「おまえ、『レリオラ』というガキを知っているか?」



「レリオ……ラ?」
 麗蘭が首を傾げた。
「ああ、レリオラだ。システム室の掃除当番表に書いてあった名前だが、クリスタルサーバーには登録されていない隊員だ。訓練中、そんな名前のガキんちょがいただろう? ほら、藍鬼あおおに雪車町ガキと一緒に訓練していたはずだが……」

「レリ、オ、ラ……」
 麗蘭は深く考えたが、思い当たる隊員はいない。いや、その少女にフィルターがかかったようにぼやけ、やがて頭の片隅がポッカリと空洞ができた錯覚に襲われる。その感覚ときたら、まるで頭の中を引っかき回されてる気がしてとても気持ちが悪かった。

「――さあ……? わからない、な……」
 途切れ途切れの返事をする麗蘭。その様子を見たマデロムはうつむきながら考えた後、なかば諦めた感じで答える。
「――そうか。俺の勘違いかもしれないな。この話は忘れてくれ」

 マデロムが茶を濁すように話題を切り上げた時だ――麗蘭の体がフラリと揺れ、その場に倒れ込んでしまった。

「ん? おい京極、どうした?」
 ぐったりとして意識を失った麗蘭をマデロムが覗き込む。
「おい、しっかりしろ京極! 京極!」
 マデロムが麗蘭の肩を揺さぶるが、一向に目覚めることはなかった。
「ったくよお、一体どうなってんだよ」

 お手上げ状態のマデロム。部下ふたりを背負い、途方に暮れてしまう。

「おい、おめえら手を貸せ。京極をフェアリーフォースまで運ぶんだ」
「「わかりました隊長!」」
 少女A、Cが麗蘭の肩に手を回す。
 少女たちに担がれる麗蘭はグッタリと首を垂れ下げたまま、少女たちに運ばれる。

 ――その時だった。フェアリーリングが発光し、巨大な光の輪からフェアリーフォースの隊員がワラワラと出てきた。

 マデロムが訝し気な表情を見せる。
「あん? 調査室の連中じゃねーか。人間界まで何しに来たんだ? まあいい、おーい! おまえらも京極コイツ運ぶの手伝えや!」
 目の前の隊員たちに言葉を投げるマデロム。

 ――だが状況は一変。調査室所属隊員がひとり、マデロムの前に立ちはだかり、手前で令状をかかげた。

「マデロム隊長。あなたに逮捕状が出ている。罪状は窃盗による機密情報漏洩ろうえいの罪、ならびに殺人罪だ。速やかにフェアリーフォース本部に同行せよ」
 そして周囲の隊員に指示する。
「この巨漢に手錠をかけて連行しろ――」

 とたんにマデロムの形相が変わる。
「おいおい、ふざけんな。俺が何盗んだってんだ? これはなんの冗談だ! それに俺ぁ、人は殴るが殺したりはしねえぞ!」
 マデロムは背負ったチェーンソー型ワイズナーに手をかけた直後、その動きをピタリと止めた。周囲をグルリと部隊にかこまれガトリングザッパーを突きつけられたのだから無理もない。動けば蜂の巣、ひき肉と化す。
「――チッ。一体どうなってんだよ、クソが」

 マデロムは諦めまじりに舌打ちする。ワイズナーを地面に放り投げ、両手を頭の後ろに回した。

「わかったよ、わかったわかった。おら、どこにでも連れていけ」
 抵抗が無意味だと理解し、投げやりな態度。その大木のように太い腕に手錠がはめられた。
 連行されるマデロムを見たAとCが悲鳴に近い声をあげる。
「マデロム隊長!」
「隊長!」
 親鳥を失う寸前のヒヨコのように、マデロムの後ろを追いかけることしかできない少女AとC。
 先ほど気を失ったばかりの麗蘭、それに少女BとDも部隊に運ばれてゆく。
「た、大変なの。京極隊長……隊長ぉ……」
 リーノは青ざめ、オロオロするばかり。けっきょく部隊の後ろについてゆくことしかできなかった。

 後ろ手に手錠をはめられたマデロムは、少し前のことを思い出していた。フェアリーフォース資料室にそそくさと入っていった女性隊員とすれ違った時のことだ。調査室隊員の話によると、殺害されたのはその隊員だった。
 つまりマデロムは、女性隊員がおこなった窃盗の濡れ衣を被せられたのだ。
 マデロムは瞬時に推測する。

(――なるほどねえ。あの隊員おんなが掃除当番表を外に持ち出したってわけか。そして何者かに殺害され、そこで掃除当番表を奪われた。奪われた掃除当番表は獅子恋音にふたたび奪われ、金盛へと渡った。 ……が、ふたたびフェアリーフォースに掃除当番表は戻ったわけだ。だとすればフェアリーフォースの次の狙いは、殺害容疑者の顔を見ている獅子恋音が狙われるな。おもしれえ、フェアリーフォースが八卦にどう立ち向かうのか見ものだぜ)

 マデロムはせせら笑い、声を張り上げた。
「まったく――。あ~~~あ! 闇だらけだよなあ、政府ってのはよお!」
 森の中にマデロムの罵声がこだまする。その声は風に飛ばされ草木に消えた。

 連行されるマデロムは、隊員たちとともにフェアリーリングへと消えていった――。


朱鷺の婚姻届


 戦闘不能となった狐姫は御殿におんぶされ、ほわいとはうすに運ばれた。

 呪符のリボンを結う想夜の手前、狐姫は何も話そうとはしなかった。
 想夜も狐姫の事情を察してか、何も聞かなかった。あれだけのガーディアンスピリットを具現化した獣人を前に、何を聞けばよいかもわからない。「すごいねー」の一言では終わらない世界を狐姫は背負っていることだけは理解していた。
 狐姫のことを知れば知るほど、狐姫のことがわからなくなる――それが表面だけのお付き合いに思えて、想夜は少し寂しくなった。

 想夜と御殿がバルコニーで空を見上げている。
 つい先ほど、妖精界のリーノから連絡を受けたばかり。麗蘭の様態やマデロムの逮捕を聞かされた想夜は取り乱してしまったが、御殿になだめられようやく落ち着きを取り戻した。しかしながらマデロムの情報漏洩ならびに殺人容疑には、ふたりして首を傾げるばかりだ。彼は暴君だが、それらの犯罪をおこなうメリットはないとわかっている。

「――京極隊長、先日のレールガンレーザーユニットでエーテルを使い過ぎたみたいです。倒れた原因は過労だそうです」
「そう。少し休養が必要かもね」
 麗蘭だってまだ未成年だ。屈強な軍人であっても、普通の女の子である。
「レプラコーンの金盛の取り調べは今も続いているようです。赤霧事件は裏で手引きしていた主犯格がいるらしくて、入れ知恵を受けていたことがわかりました。それとは別に、ずっと悪いことをしてきた金盛には重い刑が下されるでしょう」
「社員を奴隷や道具として扱ってきたのだから自業自得ね」
 いち労働者として御殿は、万人が働きやすい世界になってくれるよう願ってやまない。
「それとマデロム隊長は今、プリズンルームの留置所に収監にされています。通常は最大72時間の身柄拘束となります。取り調べを受けることになりますけど弁護士がつくそうなので、容疑が晴れればすぐに釈放されると思います」
「――最大72時間の身柄拘束。人間界と同じか。容疑、晴れるといいわね」
 御殿は静かに憤りを飲み込むことしかできない。妖精界のことは妖精に任せるしかない。

 御殿は気を取り直して深呼吸した。
「狐姫は? ちゃんとベッドで寝てる?」
「ソファでゲームしてます」
「もう、しょうがないんだから。あれだけ安静にしなさいと言ったのに」
 ド派手に暴れた狐姫は完全に体力を消耗していた……と思いきや、新作ゲームが我慢できないらしい。リビングでゴロゴロしながら携帯ゲームに夢中である。

 想夜の脳裏に流船での戦いが蘇る――町をマグマで飲み込もうとする狐の脅威。ハイヤースペックでもなく、八卦の力でもない能力。狐姫はいったい何者なのか?

「――あたし、狐姫ちゃんのこと何も知らないんだ……」
 ションボリと肩を落とす想夜に、御殿が言う。
「わたしも狐姫のことはよくわからない。ルーシーでさえ狐姫の過去は謎だらけと言っていた」

 努めて明るく振る舞っている狐姫だが、ムードメーカーの裏の顔には誰も想像できない世界が隠されているらしい。
 この先、狐姫の支えになれるのだろうか?
 狐姫に何かしてあげられるのだろうか?

 今の接し方のままで、狐姫に安息を与えているのだろうか――御殿も想夜も、狐姫と距離感を測るのに戸惑いを覚えるのだ。

 口を閉ざしたふたりだが、やがて想夜のほうから口を開いた。
「――恋音ちゃんですが、金盛逮捕に協力したことでフェアリーフォースから感謝状が贈られるそうです。マデロム隊長が持ち出したとされる機密事項ファイルを取り戻したことにもなっているようです。外部に持ち出されたファイルを恋音ちゃんが奪い返したことには代わりありませんからね。確かに恋音ちゃんは活躍しましたが、このモヤモヤした感じはなんでしょう……?」
 想夜は小さな胸に手を添えて、納得のいかない様子。
「たしかにマデロムが機密情報を窃盗したとは考えにくい。ルーシーだって疑念がわく勲章を授与されても受け取らないでしょう。そもそも、機密情報といってもただの掃除当番表にどうして政府が躍起になるの? 想定外の事態になっているわね」

 万事塞翁が馬とでもいうべきか、はたまた漁夫の利か。悪に染まったソレイユを処刑して日本を救ったこともあり、結果として恋音は悪ものから正義の味方に転じた。数日後にそれを聞かされる恋音は険しい顔のまま寡黙をつら抜き、頑なに拒否をしめす。納得のいかない勲章を得ても、人々に思いを馳せた妖精のソレイユは帰ってこないのだから。

「もっとも、ルーシーの功績はそれだけじゃなかったみたいだけど」
 御殿は束ねた数枚の紙を想夜に見せた。
 それを不思議そうに覗き込む想夜。数字や詳細がびっちりと書かれた統計が記述されている。
「何かの統計ですか?」
「ルーシーが処理した暴魔の数」
「ええ!?」

 想夜がぶったまげた。その数に圧倒され、何度もゼロの数を数え直す。用紙に顔を近づけ、肩をこわばらせながら食い入るように見る。

「ものすごい数ですよ!? いちじゅうひゃ………え? いちじゅうひゃくせん……」
「その中にはスペックハザードの影響で狂暴化したハイヤースペクターも含まれている。悪魔に憑依されたハイヤースペクターもいたみたいだから、さぞ手ごわかったでしょうね。それと知らずひとりで対処していたルーシーは、まさしく天才児のデビルハンターね」
「恋音ちゃんは御殿センパイより多く悪魔や悪いハイヤースペクターを退治してるんですか?」
「もちろん。わたしが処理した数とは桁が違う。正当な額を稼いでいれば今頃は家を持てたかも。けれど子供だからか人柄の良さからか、悪い大人たちにいいように利用されてたみたい。受け取っていた報酬はひどく少なかった。まるで奴隷ね。断れない性格に漬け込んでくる人間が多いから、そこを利用されたのね。それでも世界が平和になるよう頑張っている。ルーシーはまだ子供。言葉巧みに騙して無償で働かせる者が多くいたこともわかった。そういう人間には、改めて追加料金と賠償請求を取り立ててもらうようコミュニティからお願いしておいたわ。どう考えても法律違反だもの」
「御殿センパイ、恋音ちゃんのことをそこまで調べていたんですね」
「ええ。あんなにも狐姫のことを思ってくれる子が酷い目に合わされたんだから、身過ごすわけにはいかない。それに悪い大人たちは今頃、悪魔退治の追加料金で冷や汗を流していることでしょう。自業自得だけれど。いったい誰が悪魔なのかわからないわね」
 と、御殿はため息交じりで肩をすくめ話を続ける。
「ルーシーが憤怒するのも無理はない。わたしだって退治した暴魔の数を前にそんな金額を提示されたら黙ってられない。弾がいくつあっても足りないわね」
「あはは……」
 悪い大人たちにレーザーポインターを浴びせる御殿を想像してか、想夜は恐怖のあまり引きつった笑いを見せた。
「もっともルーシーの心の傷はお金の問題ではなく、身勝手な人間たちに対する憤りの蓄積だったわけだけど」

 一般人でさえ身勝手な人間にはキレて当たり前。なにも恋音だけが特別ではない。仏の顔も三度まで、である。

「あたし、恋音ちゃんにありがとうっていわなきゃ。あと、ごめんなさいも」
「どうして?」
「だって、あたしは聖色市のエーテルバランサーなのに面目が立たないです。悪いハイヤースペクターはあたしが対応しなければいけないのに、そのお仕事を恋音ちゃんにさせてしまって……」
 しょんぼり肩を落として申し訳なさそうにする。自分のドンクサさが身に染みる。
 それを聞いた御殿は想夜を元気づけるのだ。
「想夜が悪いわけじゃない。ルーシーが特別有能だっただけの話よ。狐姫に截拳道ジークンドーを叩き込んだくらいですもの。ルーシーがいなければ、今頃わたしたちはこうして狐姫とともに戦ってはいなかったでしょう」

 ふたりは狐姫と恋音のこれからを想像するも、どうなるかまではわからなかった。

「――ところで恋音ちゃんは今どこに?」
「獣人街の施設に戻ったみたい。わたしたちにはどうすることもできないから、ルーシーのことは狐姫にまかせましょう」
 これからのことは恋音自身が決めるべきこと。そして、恋音のことをよく知っている狐姫なら、うまい具合に寄り添ってくれることだろう。御殿は、そう信じている。
「そうですね」
 想夜も静かにうなずいた。が、御殿にはちょっと不満が残る。
「是非ともルーシーには我が社で働いて欲しかったのだけれど……、今回は別の会社に譲ることにするわ」
「別の会社、ですか?」
 想夜が首を傾げた。
「ええ。あの人は、ルーシーのような優秀で人柄のよい暴力祈祷師をほっとく性格ではないから。もっとも、紹介料2000円はかなり不満だけれど」
 夜空を見上げる御殿。赤霧騒動も終息をむかえ、星々の輝きは日常を取り戻していた。


 リビングに戻った想夜に水角が申し訳なさそうに言う。
「想夜ちゃん。ボク、あのとき想夜ちゃんに酷いこと言っちゃった。 ……本当にゴメンね」
 シュンとする水角に想夜は瞼を閉じ、ゆっくりと首を左右させた。
「ううん、いいの。あたしのほうこそ水角クンがあんな大変な状態になっているなんて知らなくて、強く言い返しちゃった……ごめんね」
 お互い、恥ずかしそうにうつむきながら、上目づかいで謝る。ケンカの後の仲直り。
 赤霧の脅威はメンタルまでも破壊する。それが八卦であっても容赦なく襲いかかる。
 何はともあれ、怒りで心を乗っ取る脅威が世界に広がる前に対処できたことは喜ばしいこと。水角も回復したことだし、ほっと胸をなでおろす想夜だ。


 キッチンに立つ継紗が何やらでっかいおにぎりを手にしている。
「御殿さーん。こんな感じでどうですか……って、あれ? 御殿さんどこ行ったんだろう? バルコニーにもいない」
 おにぎり片手にキョロキョロと御殿を探していると、想夜が近づいてきた。
「つか、何を作ってるの? わあ、おっきなおにぎり!」
 継紗の手料理を想夜が覗き込んだ。
「この間、想夜のお弁当こぼしちゃったでしょ? そのお詫びに……じゃーん!」
 継紗がお手製のお弁当を見せた。
「想夜に食べて欲しくて、御殿さんに教えてもらいながら作ったんだ」

 お弁当箱の中のおにぎりには、海苔で顔が描かれている。ちょっと大きくて顔同士が頬を寄せてひしめき合っている。

「このポニテが雪車町の顔。この髪の長いのが御殿さん。で、この変な顔がクソ狐。似てるっしょ?」
 それを見た想夜が歓喜する。が、ソファでぶっ倒れている狐姫から「全然似てねーよ!」というクレームが飛んできた。
「そんなことないだろ! 似てるだろクソ狐! ほれ、よく見ろ!」
 継紗が目くじら立てて反論。体力ゼロの狐姫に詰めよる。
「似てねーっつってんだろクソ妖精! ひとりで燃えプロやってろやカス!」
「あんだと! やるってか!」
「ああん!?」

 バチバチと火花を散らし、両者の睨み合いは続く。この後ふたりは『超人ウルトラベースボール3』で決着をつけることとなり、軍配は継紗にくだった。

 狐姫がコントローラーを放り出す。
「あ~あ、クソ妖精とゲームなんかやってらんねーぜ。アイスでも買ってこよ~っと♪」
「あ、逃げんな。大人しく負けを認めろクソ狐!」
 継紗が目くじらを立てる横、狐姫がリュックを手に部屋を出ていった。

 ところで御殿はどこへ消えたのでしょう?


 御殿の寝室――。
 さきほど目覚めた朱鷺。あぐらをかいて、気難しそうに瞼を閉じて腕組み。この上なく深刻そうな表情。
 赤霧に毒された朱鷺は、瞳栖のディメンション・エクスプローラーで霊界の狭間に隔離されていた。体内から赤霧が抜けた頃を見計らい、ようやくこちらの世界に戻されたばかりである。
 いっぽう、ちょこんと正座する御殿がテーブルをはさんで向かい合っていた。

「――咲羅真どの。拙者は今回のことで無力を感じた。埴村ばにら殿がいなければ拙者はどうなっていたことか……面目ない」
「そうですか? 朱鷺さんは瞳栖さんのことを守ったじゃないですか」
 朱鷺は御殿の言葉を強く否定。
「いいや! 拙者は己の浅はかさを自覚した。まだまだ修行が必要だ。この戦いの先、いつ命を落とすかわからないと改めて感じたのだ」
「は、はあ……」
 御殿は朱鷺の言葉が理解できぬまま、ポカンと口を開いて生返事。
「そしてこの先、愛する者の支えが必要だと知ったのだ」
「――え?」

 朱鷺は懐から一枚の用紙を取り出すと、バンッとテーブルに叩きつけた!

 一瞬ビクッと肩を震わせる御殿が用紙に目をやる。
「……なんですか、これ?」
 問われた朱鷺は腕を組んでドヤ顔である。
「見ればわかるだろう、婚姻届だ。念のために2枚用意した」
「……え?」
「婚・姻・届。CON、IN、TODO、KE」
「2回も3回も言わないでください。見ればわかります。 ……なんでちょっぴり英語調なんですか」

 【1枚目】
  夫:叢雲朱鷺
  妻:咲羅真御殿

 【2枚目】
  夫:咲羅真御殿
  妻:叢雲朱鷺

 ……と書いてある。用意周到なことで。
「さあ、ここに拇印を押せ! 名前の横だ! 今日からおぬしの姓は叢雲! 叢雲御殿……うむ、しっくりくる名だ」
 ひとり腕を組んでウンウンと頷く朱鷺。完全に自分ワールドに入っている。
「さあ押すのだ!」
 くわっ。ものすごい形相で御殿に近づくと、両手で御殿の人差し指を掴んで無理やり拇印を押させようとする。まるで発情期のオスである。
「な、なにを考えているんですか朱鷺さん!」

 嫌がる御殿が朱鷺の手を振りほどこうともがく! ……が、ものすごい力を前に打つ手なし。

「おとなしく押せと言っているであろう! さっさとしろ黒髪ロング!」
「なんですか突然! 嫌です! だいたい拇印だけで受理されるわけがないでしょう!? 黒髪ロングはあなたもでしょう!」
「やかましい! 女房が亭主に口答えするな! 押せえええええええええええええ!」
「嫌ですうううううううううううううう!」
「黙って毎朝拙者の味噌汁作れええええええ!」
「ご自分でお湯でもそそいで作ればいいじゃないですかあああああああ!」
 互いに懇親の力を両手に注ぎ込むのでテーブルが上下左右にガタガタ動く。
 雌雄を決する戦いは10分ほど続き、この戦いは危機を感じた御殿の逃亡に終わった。



 誰もいない廊下。朱鷺から逃げ出した御殿は壁に背中をあずけ、そこにもたれかかる。
「……ふう」
 思うは己の体のこと。性別が不安定とはいえど、生理が始まり健康面で変化が出てきた。いつ性別変化が起こるかわからないし、戦闘スタイルも考慮しつつ、まわりの人たちに打ち明けるための心の準備をしなければならない。母以外、誰に相談しようかとひとり思い詰めては静かにため息。前途多難である。
 母である彩乃から「あったかいスープ持っていこうか?」と言われた時は血の気が引いた。彩乃は手料理で研究チームを地獄送りにしている。その後「レトルトだけど」と聞いて胸を撫でおろしたのは言うまでもない。
 御殿に対して母親らしいことをしたいという彩乃の気持ちを察しては、その頼もしさに支えられているという安心感を覚える御殿だった。


一族との契約


 「アイス買ってくる」と、ほわいとはうすを出た狐姫は、国道の歩道橋の上で流れゆく無数のヘッドライトを眺めていた。
 真っ赤なテールランプが行きかう。だんだんとマグマの川流れに見えてきた。
 思い出すのは流船での戦闘のこと。リボンをほどいた直後のことだ。

 戦場と化した流船駅前。狐姫の耳元に無数の声が聞こえてくる――。
『――ようやく見つけた。人間たちと行動を共にしておったのか。呪符なんぞで我らの声を遮断していたとはな』

 狐姫に向かって無数の気配が歩み寄ってきては、ぐるりと狐姫を取り囲んだ。

 目の前の恋音が何やら叫んでいる。
『――以前から気にはなっていたが、そのリボンはなんだ? なんの意味がある? どんな秘密を隠している? 何とか言ったらどうなんだ? 小生の言葉が聞こえているのだろう?』
 そんな声も聞こえぬまま、狐姫はガーディアンスピリットたちとの会話を始める。

『今ちょっぴりピンチでさ。力、貸してよ』
 狐姫はモジモジと、はっきりしない態度で声を出す。頼み事が嫌らしい。が、火の八卦を前に陳腐なプライドを捨てざるを得ない状況だ。親友がピンチなのだ。

 厳格な老人の声を持つガーディアンスピリットが詰め寄る。狐姫のご先祖だ。
『――ほお。身内を切り捨て、使命を投げ出した娘子ひよっこが今さら血族に泣きつくか。このたわけめ!』
『悪かったって。謝ってんじゃん』
 ふて腐れた態度の狐姫を睨みつけるもの、せせら笑うもの、黙って聞き入るもの。20人以上の獣人の表情は多彩だ。その中から穏やかな表情の獣人が数名、狐姫の前に立って語り掛けてくる。

『――狐姫よ。おまえが我々をここに呼んだということは、それが何を意味するのかわかっているな? この力を使えば、やがておまえの灼熱の力は消失する。それを阻止するためには我々のもとに戻り、力を補給しなければならない。だがおまえも知っての通り、我ら一族は太刀打ちできない脅威に支配され、灼熱の能力を意のままに扱えなくなっている。まさに我らの血が途絶える寸前のところまで来ている。風前の灯火の中、おまえはその脅威に対応しなければならない。それを契約とせよ。さすれば我らの残り少なき力、おまえに貸そう――』
『ああ、そうだ……です。俺たち一族にはもう後がありません、わかってます。契約もそれでいい……です』
 狐姫は腹をくくったように静かに瞼を閉じる。狐姫にだって逆らえない存在もいる。それを前にはしおらしく、礼儀正しく務めてしまうもの。

 ガーディアンスピリットとの会話中、死者の声が不気味なノイズとなって狐姫やガーディアンスピリットたちに叫び声を投げつける。死してなお怨念の塊と化した魂たちの報われない想い。それらが終始会話の邪魔をしてくるのだ。
『血肉を捧げよ! 耳だ! 尻尾だ! 許さない……おまえら一族を絶対に許さない! くるしい……、くるしい……くるしいいいいいい!』
『コロセ! 殺せ! 殺せ殺せ殺す! おまえら一族は多くの命を焼き払った! みんな、 みんなみんな……、みんな八つ裂きにしてやる!』
『マグマの一族よ、おまえらの末代まで祟り続けてやる! 呪い続けてやる!!!』
 それらの声に耳を塞ぎたい思いを、狐姫は必死で振り払った。

『――おい焔衣、誰と何を話している? 答えろよ!』
 恋音の声がとても遠くに聞こえる。多くの魂に責め立てられて、本当は心細くて、今にもその手を取りたかった。恋音なら何とかしてくれる。恋音なら味方になってくれる。そんな甘えを抱きながら、肩を寄せ合って食べたカップラーメンのことを思い出していた。そばに寄り添っていてくれる存在がどれだけ頼もしいかを、狐姫は改めて身に染みた。

 怒り気味のガーディアンスピリットが割って入る。
『少しは口を慎め小娘が! 契約は絶対だ。放棄すれば全身の血管にマグマが流れ、おまえの肉体は蒸発する。わかっているな!?』
『わかってるって。何度も言わせんなよな』

『――おい! 小生の言葉が聞こえないのか!』
 ルーシー、聞こえているよ。おまえ、いつの間にそんな遠くに行っちまったの? おまえの声はいつも元気づけられるよなあ。聞いていて心地がいい。遠くでもいいんだ。そうやってずっと俺に囁いていてくれよ。今怖くてさ、震えているんだ。俺さ、いつもおまえに甘えてばかりで……ごめんね――狐姫の本心が声になることはない。周波数が違うため、声音が人間界に響かないのだ。

 ガーディアンスピリットのひとりが怒りの形相を解き、歓喜な態度で狐姫に詰め寄る。狐姫のお調子者気質は、このガーディアンスピリットの一部を受け継いでいるらしい。
『戻ってくるのだな!? 一族に背を向けた裏切り者のクセに。プププーだ』
 煽る態度に狐姫は口を噤むも、やがて答えるのだ。
『近いうちに、行くよ。だからさ、ルーシーの、八卦の力だけでも止めてやってよ。 ……お願い、します――』
 冷ややかな目のガーディアンスピリットが狐姫に淡々と語る。
『一族のツラ汚しよ。ならばそのマグマですべてを洗い流し、清算し、身を投じ、全身全霊でこれから迫る脅威に信念を投じよ。契約の証としておまえの体に灼熱の地図を描く。時間が経つにつれ火傷は体を蝕み、神経を蝕み、やがて全身からマグマを噴き出すであろう。解除方法はただひとつ。こころざしなかばで命を落とした我が一族たちの魂を鎮めること。ゆめゆめ忘れるな――』
『……ああ、約束は守るよ。必ず――』
 まっすぐに伸びたブロンド姿の狐姫がその場にひざまずき、地面に両手を添えて哀願する。まるで穢れを知らない神聖なる巫女のように。

 ガーディアンスピリットたちが一斉に、恋音に視線を移して牙をむく!


 ――ならば手を貸そう。

 獅子の娘よ

 我ら『 プロミネンス一族 』の叡智ちから

 とくと味わうがよい――!!!!




 ――狐姫は深くため息をついた。
「はああああ~。この生活もそろそろ限界きてるよなあ。 ……ま、それまでは気楽にいきますか」
 歩道橋の上、両腕を空高くかかげてウ~ンと伸びをする。
 こっそり持ち出したリュックを背負い、その場を離れる。
 コンビニ袋を手に、向かうは獣人街だ。
「――と、その前に神城博士んところに寄らないとな」


 獣人街に向かう途中、狐姫は流船にある神城親子のマンションに立ち寄った。
 
 体内から悪霊を駆除された神城と沙耶は普段の生活に戻りつつある。
 沢木のエルボーがこめかみにヒットしたこともあり、沙耶の頭部に貼られた湿布が痛々しい。そうでもしなければ悪霊に憑依された人間には太刀打ちできない。一瞬の躊躇が命取りの世界なのだ。
 
「――え? ルーシーのやつ、さっきここに来たの?」
「うん。今はそっとしておいてあげるのがいいのかもね。あの子を追い詰めたのも私らの責任でもあるし、罪悪感を覚えちゃうよ――」

 キョトンとする狐姫に沙耶が説明してくれた。
 
 沙耶は恋音が切り出した「もうここには来ない」という言葉を受け入れることができなかった。
 頑固な性格の恋音。コミュニティのルールに違反して多くの者たちを半殺しにしたことや、八卦の脅威として覚醒したこと。クライアントである神城親子を危険な目に合わせてしまったこと。そして、ソレイユを殺めたこと――それらひとつひとつが脳裏をよぎり、今も己を責め続けている。不甲斐ない自分が許せないらしい。
 
『はあ? 恋音、あんたはよく働いてくれてるよ。考えすぎだって。おとんもそう思うでしょう?』
 恋音の頑固さを前に呆れ顔の沙耶。書物を漁る神城の背中に声をかけた。
『え、あ、うん……うん……DNAとRNAを……そうかそうか……』
 だというのに神城ときたら相変わらずブツブツと独りごと。研究バカここにあり。
『そりゃあさ、ソレイユのことは寂しいよ。こうしている今も、ソファにソレイユが座っている気がするんだ』
 沙耶は悲しげな顔を作るも、やがて笑顔を見せては恋音の頭に手を添える。
『恋音、あんたはたくさんの人たちを守った。酷い目に合わされていた暴力祈祷師たちも金盛から解放された。あんたは暴力祈祷師として……ううん、ひとりの日本人として立派に戦ったんだ。もっと自分を褒めてやらなきゃ自分が可哀想だろ」

 自分に厳しく、人に優しく――己を律するのは確かに美徳かもしれない。だけど、そればかりじゃ魂が疲れ切ってしまうのだ。己が魂を他人として客観視できれば、自然と自分自身にも優しい言葉をかけられる日が来る。恋音がそれに気づくのは、いつになることだろう?
 沙耶はおタマ片手に、小さな暴力祈祷師の帰りを待っている。

 ――それらを沙耶から聞かされた狐姫は、少し考える素振りを見せる。
「――そうですか。わかりました。ありがとうございました。沙耶さんもお大事に――」
 狐姫がペコリと頭を下げ、その場を立ち去ろうとした時だ。
「あ、そうだ。さっき恋音のお母さんから電話があった。とっても心配してたからさ、連絡くらい入れたらどうって伝えといてもらえるかな? あと、奈美も恋音の帰りを待っている。だからさ、またここに戻っておいでって。ね?」
「あ、はい。ルーシーに伝えておきます――」
 と、ちょっぴり元気なさそうに狐姫が答えた。

 すると今度は部屋の奥から神城の声が聞こえてくる。何かを思い出したかのように沙耶に言うのだ。
「――ああ、そういえばさっき沢木さんという人から連絡があったぞ。緊急で話があるそうだ。会ってくるといい。あと、夕飯までには帰ってきなさい……って恋音に伝えておいてくれるか? えーと、ポム……ポプライ君だっけ?」
「焔衣です」
「あーそうそう、焔衣君ね焔衣……」
 書物に目を向けたまま、神城はまたブツブツと言いながら自分の世界に入ってしまった。神城も恋音との日常を望んでいる。
「そういや沢木さんにルーシーたち・・のことを紹介したんだっけ」
 狐姫と沙耶、研究バカの神城を見ては互いに吹き出して肩をすくめた。


紹介料2000円


 赤霧事件の直後、沢木はふたたび聖色市を訪れていた。
 狐姫からの紹介で、獣耳課フレイムワークスより何人かの獣人と待ち合わせることになっている。おかげで紹介料がサイフからぶっとび、人材を横取りされた御殿からはネチネチと文句を言われる有様だ。

 学校帰りの想夜。近くの駐車場で沢木を見つけて近づいてきた。
「こんばんは、沢木さん」
 沢木がタバコに火をつけようとした手をとめて振り向いた。
「ん? おう、たしか妖精の……雪車町、想夜ちゃんだっけ? もう足のケガは大丈夫なのか?」
「あ、はい。先日は助けていただきありがとうございました」
 ペコリ。深々と頭を下げる想夜。
「お、礼儀正しいねえ。さすが愛妃家まなびやの生徒だけのことはあるな。いいってことよ、これも仕事だしな。それに新人確保も順調に進んでいるし、めでたしってことで」

 沢木は疑問に思っていたことを想夜に尋ねる。
「なあ雪車町。どうしてそこまで躍起になって戦うんだ?」
 戦う理由はそれぞれ。沢木の闘争心は家族を悪魔に消された怒りだ。
 沢木の問いに、想夜は星を見上げて静かに答えた。
「2つの世界のために戦います。あたしたち妖精は、人間に必要とされなくなった時に消えてなくなる運命です。人間が生み出す希望や思いやりの心が妖精に元気を与えてえくれます。そして妖精たちは草木や火、水といった存在が潤滑に活動できるよう働いています。ですが人間界と妖精界は2つで1つ。どちらかが消滅すると片方も消えてしまいます。世界のバランスを保つエネルギー源がエーテル。そのエーテルを乱用したり粗末に扱う人を阻止するために、あたしたちエーテルバランサーは編成されました」
「で、妖精は2つの世界と種族を守る役目を担ったわけか。思ったより深刻な状況下に置かれてるんだな。妖精も、人間も」
「はい。だからあたし、酔酔会すいようかいになんて負けてられないんです。痛い目にあったって絶対、絶対に負けないんだから――」

 政府の任務か。はたまた善意か――想夜を駆り立てる理由が何なのか、正直なところ本人にもわからない。魂の奥底から聞こえてくる声に導かれ、ロボットのように武器を握る己の本音を、いつも手探りで探しているのは事実なのだ。

 子供の思い詰めた表情は苦手だ。気まずくなった沢木が想夜に茶々を入れる。

「おまえ、咲羅真のこと好きなの?」
 言われた想夜がドモり、ゆでダコのように顔を真っ赤にした。
「なななっ、なに言ってるんですか!」
 目をまん丸にさせてすごむ想夜に、沢木が追い打ちをかけてくる。
「ははーん。だから世界平和に躍起になってるんだな? 人間界が消滅したら咲羅真も消えちまうもんなあ。それはつらい。たしかにつらい」
 腕を組んで、ひとりウンウンうなずく沢木。
「もうっ、せっかく真面目に話しているのにっ。沢木さんなんて知らない!」
 想夜はプイッとそっぽを向いた。
「わりぃわりぃ、仕事疲れでちょっとからかっただけだから気にするな」
「もーっ、いじわるはナシですっ」

 気を取り直した想夜が、何かを思い出したかのように口を開いた。

「そういえば、御殿センパイから聞きましたよ。会社設立されたそうですね。おめでとうございます」
「おう、あんがとさん」

 沢木は会社を立ち上げることにした。そこでは暴力祈祷師の獣人たちが安心して業務にあたれる職場だ。
 人間に搾取され続ける獣人たちの労働は奴隷といっても過言ではない。
 日々の獣人の扱いが問題視されてきた業界に一石を投じた沢木は、きっと多くの獣人たちに称えられるだろう。
 この世は誰かが行動しなければ現状を変えられない世界。恋音の心の爆発が沢木の中の何かを突き動かしたらしく、それは沢木だけが思う所である。

 ――そして沢木は、人間と獣人の溝が埋まることを願ってやまない。
 悪魔はそこかしこに存在している。気を抜けば一瞬で闇に引きずり込まれる。悪魔の力は絶大で、奴らは人間の姿にまで扮して人間界に入り込んでいる。けっして善良な人間だけでは太刀打ちできないのだ。
 だからこそ、他種族の協力が必要不可欠となる。協力し合えば、きっと悪魔に対抗できるはずだ。
 もう二度と、妻と息子の二の舞を生み出したくはない。
 沢木は家族の不幸と引き換えに、種族交流の先駆けとなり、先陣を切る存在となる――。


 想夜が去った後、沢木の吐き出したタバコの煙が空へと舞った。
「――ふう~。獅子恋音か。焔衣から紹介はされたはいいが、俺んとこ来てくれるなあ……」
 暴力祈祷師とはいえど、恋音は繊細なお年頃の女の子。今はそっとしておいたほうがよいのではないかと、かつては人の親だった沢木は頭を悩ませている。

 そこで暗闇にひとり、逆立てた髪の青年の存在に気づく。獣耳課フレイムワークスで狐姫とひと悶着あった青年だ。

「――おう、おまえか。焔衣の言ってた火力の強い獣人ってやつは。ちょうどいい人材を探していいたところでよお。今何人かに声をかけてるところだ」
 沢木は青年に近づくと、なれなれしく肩に腕を回した。
「なんだ、顔色悪りぃなあ。ちゃんとメシ食ってるか? いつから来られる? 仕事はこっちで回すから派手に暴れてみせろや。期待してっからよ」

 暴力祈祷師も人手不足が深刻である。それでも沢木は人材確保を進めてゆく。
 悪魔をのさばらせないために。
 悪魔のような人間をのさばらせないために。
 今は亡き妻と息子が、笑顔でいられるように。
 そう、願いながら――。


小生を見守る者


 獣人街 児童施設――。
 誰もいない上袖の部屋。ガレキが散乱した部屋には光をなくした裸電球だけが吊るされている。以前はこの場所で、焔衣と寝食をともにしていた。

 小生は暗闇の中、汚れた毛布にくるまり、そっと瞼を閉じた。ダンボールのベッドがとても贅沢に感じる。

 派手に暴れた事実を両親に話したら、父は憤慨し、母は泣き崩れた。期待を裏切った不良娘、その烙印を押されたわけだ。
 小生の家系は暴力祈祷師のエリート集団だ。小生も獅子しるこの表札に泥を塗らないよう耐えてきたつもりだ。そうして暴力祈祷師の道を歩むこととなった。
 小生は「もう家には帰らない」とだけ告げ、端末を切った。もう期待に答えるのも疲れた。

 ソレイユは浜辺の散歩が好きだった。沙耶と小生が散歩に連れ出して、よく砂浜を走り回っていた。
 だから亡骸は灰とし、海に返した――。
 小生の炎で灰となり大海原へと帰ってゆくその姿。跡形もなく消えてゆくその有志を、小生はひとり、黙って見届けた。神城と沙耶には邪悪に染まったソレイユの黒い瞳を見せたくはなかったのだ。

 残ったのはソレイユの首輪。大型犬ほどのソレイユがつけていた首輪。ずっと一緒にいられるよう、それをお守りのように右腕に巻き付けた。ただの勝手な考えだけれど、こうしているとソレイユが見守ってくれる気がして安心する。

 沙耶と神城は家に戻ってこいと言ってくれたけど、とてもそんな気分にはなれなかった。神城と沙耶を危険な目に合わせてしまったこと、そしてソレイユを犠牲にしたことへの罪悪と羞恥心が頭から離れない――。

 普段はお祈りだってろくにしないくせに、小生は左手の拳を右手でそっと包んでは見えない存在に祈りを捧げる。目の前に聖母マリアの幻影を作り出しては、救いを求めるのだ。
 小生はなんて勝手な生き物なのだろう。人間を責める資格なんてない。

 いろんな場所で暴れたこと。
 大切な人たちを危険な目に合わせてしまったこと。
 友達とケンカしたこと。
 その友達に胸の内を打ち明けたこと。
 大切な命をこの手にかけたこと。

「截拳道からシステマに切り替えたのも、焔衣に嫉妬していたからです。振り向いて欲しかった。尊敬して欲しかった。焔衣の視線を独り占めしたかった。いろんな邪な思いを振り切るために、過去から逃げたいために、自分を書き換えてしまいたかった。だからカップラーメンも新しい味に乗り換えたんです。でも、でも……、焔衣に依存してたらいけないと感じていながらも、本当は焔衣と食べたラーメンが好きだった。だって大好きなんだもん、あの子のことが……。好きな子のことを、簡単に忘れられられるわけ、ないでしょう?」

 ――この数日でたくさんの出来事がありすぎた。
 それらの想いを、誰かに聞いて欲しい。誰でもいいんだ――。

 おそらくは誰しも抱いたことがあるであろうその考えを、小生も抱き続けた。ただ、これ以上誰かに責められるのだけは嫌だった。長い間自分を責め過ぎた。己が魂を罵り続けた。だというのに、これ以上他の誰かから責められたら、小生は本当に、本当に悲しくって消えてしまいそうだ。

 小生は弱い生き物だから、これ以上、責めないで――。

 いろんな感情の波が押し寄せて、心が……引き裂かれそう――。

 そうして、眠りにつく。
 そうして、夢をみるのだ――。


 夢の中――。
 小生はひざまずき、天から注ぐ光に向かって祈りを捧げた。


「聞いて下さい。小生は、生きるのがヘタクソです――」
 これまで起こった出来事を洗いざらい打ち明けた。懺悔とは言わないで欲しい。長い間、たくさん自分を責めすぎた。だからもう、責めないで欲しい。お願いだ――。

 小生は妖精界を炎に変えた力について、見えない存在にそっと打ち明けた。
「八卦の力をこの身に宿した時、ディルファーの声が聞こえたんです。ディルファーは妖精界を炎に変えました。理由はわかりませんが、ディルファーは妖精界を見限ったんだと思いました。小生も同じことを考えていました。この世界に見切りをつけているんです。だって、どんなに頑張っても世界は良い方向にならないんだもの。世界が平和から遠のいてゆくんだもの。他者に対する過度な期待も捨ててきたつもりです。必死に戦ってきたつもりです。それらは小生の勝手な思い込みだったのでしょうか? 小生は喜怒哀楽を捨てて、完璧な存在にならなければいけないのでしょうか? 小生はもう、歩けません。それでも小生は、やっぱり悪い子なのでしょうか? 小生は、傲慢な生き物なのでしょうか?」

 傲慢な人間たちのふるまいが脳裏をよぎるたび、身勝手な人間に対する絶望を覚えるたび、ひとりでは崩れゆく心を支えきれなくなり、楽になりたくて、それらの思いを打ち明けた。ひどい人間ばかりじゃないのはわかっている。けれども、多くの人間がこの世を血の色に変えているのは事実なのだ。その憤りをどうやって処理したらよいのか、小生にはわからなかった。

妖精クー・シーのソレイユは人間界に思いを馳せていました。そんなソレイユを、小生は救えませんでした。小生は……、小生は……うぐっ」
 グジグジと泣き続けることしかできない。涙を拭っても拭っても、際限なく溢れ出してくる。
「今回のことでみんなにも嫌われてしまいました。多くの人が小生を白い目で見るようになりました。正義の味方になりたかった。悪しき存在を倒してこの世の浄化に努めたかった。でも小生は……悪ものになってしまいました。悪ものになるなんて、望んでいなかったのに……」

 やがて本音が漏れ出す――。

「うぐっ……、もういやだ……もう、楽になりたいよお……」
 心がポッキリと折れ始める。人間のために、世界のために戦い続けるなんて、小生には……もう……

「――もう、できません……もう、疲れました――」

 小生は暴力祈祷師として育てられた。
 暴力祈祷師じゃなくなった小生には、なんの価値もない。
 弱き者の味方でありたかった。
 みんなから頼られる強い者でありたかった。
 でも今、小生の背中には石が飛んでくる。
 小生には、生きる価値がないのだ――。

 夢の中でどれだけ泣いただろう。一瞬だった気もする。とてもとても、長い時間だった気もする。
 夢の中でどれだけ喘いだだろう。溢れる涙。両手で拭っても拭ってもそれは止まらず、ただ泣きじゃくるだけ。
 涙の泉で溺れる地獄を垣間見た。


 そんな時だ――。


 声が聞こえる――。
 声の主は女性――。



 夢の中、誰かがそっと小生の頭に手をおいて撫でてくれた。
「――マリア様?」
 ゆっくりと頭を上げ、床の上を膝で這って修道服の女性に近づいてみる。

 目の前でディルファーの炎が揺らめいた。とても小さく、緩やかな炎。

 目の前には、炎の君――。
 小生の中に宿りし、炎の力――。

 やがてディルファーの業火は別の存在に姿を変え、目の前に降り立った。
 おそらくは『彼女』と呼べばよいのであろう、女性のシルエット。聖母マリアにも似たその姿は眩い光に包まれながら、小生の瞳を、心を、潤してくれた。
 彼女は聖母のような温かな微笑みで、小生を包み込んでくれた。

「あなたは誰ですか? ……マリア様?」
 四つん這いになり、恐る恐る、すがるよう彼女に近づく。
 小生の問いを、彼女はゆっくりと首を横に振って否定した。

「――いいえ。私はあなた。あなたの中に宿る存在。そして、あなたもまた、私たちの中からこぼれた一粒の雫――」

 なんて透き通った声なんだろう。小生ときたら間抜けヅラよろしく、思わずポカンと口を開いてしまう。例えるなら誰かに見守られ、励まされ、支えてられている時の安心感。それらの感情に包まれたのだ。

「小生が、あなたと同じ? それはどういう意味なのでしょう?」
 もはや言葉はいらなかった。

 ――そう、彼女は小生。小生のハイヤーセルフだった。

「あなたは小生のハイヤーセルフ?」
 目の前の彼女。今度はニッコリとほほ笑み、小生の問いを肯定した。

 小生はたまらずにすがった。誰かに気持ちを共有してほしかったのだ。
「き、聞いてください。小生は大切な人たちを守れなかった。大切な友達に酷いことをしてしまいました。それから、それから……うぐっ」
 涙を拭い、感情が高ぶり、今にも消えてしまうのではないかという不安から、彼女に早口で打ち明けた。話を聞いて欲しくてたまらなかった。こんなにもお喋りになるものなのだと我ながら驚いた。ひとつひとつの思いを、とにかく聞いて欲しかった。そして目の前の彼女は、それらひとつひとつを笑顔で受け入れてくれた。
 そうして彼女は、小生にこんな言葉を届けてくれるのだ。
 
「それでいいの恋音。そのままで正しいの。それらを受け入れなさい。無理に自己犠牲など考えなくてもいいの。今まで通り、多くの命に想いを馳せなさい。無理だと思ったら無理をせずに羽を休ませなさい。そして、新しく授かった力を受け取りなさい。遠慮なんてしなくてもいいの。その力はあなたを選んだんですもの。そして私たちは、あなたがその力と繋がることを許可しました」

「――はい」

 彼女は続ける。
「あなたはじゅうぶん戦ってきた。多くのものに思いを馳せてきた。だからそんなに自分を責めないで。美味しいものを食べて、ゆっくり休んで、明日を迎え入れなさい。次の戦いが迫っているのだから」

「――はい」

 ウインプルの向こうの笑顔。そこにあたたかな陽だまりを覚えた。
 曇っていた心に日差しが舞い降りて来る。ヤコブの梯子はしごのように、小生のもとへと一直線に天から光が舞い降りて来る。

「――いい子ね。私たちはいつも恋音のことを見ている。どんな時でもあなたを見ている。どんな時でもあなたの味方。どんなあなたも……大好きよ、恋音――」
「小生が悪者になっても?」
「ええ。どんなあなたも大好きよ。とっても大好き――」
 彼女はふたたびニッコリとほほ笑んだ。

「――さあ、あなたを待っている人たちがいる。お行きなさい、その人たちの元へ。みんながあなたの帰りを待っている」

 そう言って、また小生の頭を撫でてくれた。
 今まで言われてきた厭味ったらしい「いい子」「優等生」という意味ではなかった。つまりは正しい行いや慈愛を有する者に向けられる「いい子」というそのままの意味。どんな小生であっても受け入れてくれるという意味だった。小生には彼女、ハイヤーセルフの言いたいことが手に取るようにわかった。だって小生は、彼女たちからこぼれた一粒の雫なのだから。

 ああ、小生は孤独ひとりじゃない。見守っていてくれる存在。それは確かに小生の中にある。
 たとえひとりであっても胸張って歩いてゆける覚悟。
 姿は見えないけれど、この背中を強く支えてくれる存在。
 それらの想いが小生の胸に、確かな灯火となりて生まれる。

 胸の奥、八卦の焔がふたたび宿る――。
 小生は理解する。
 本当の戦いが、これから始まる――。

「ソレイユ。あとは小生に、まかせておけ――」
 右腕に巻きつけた首輪に、そっと唇をそえて眠りにつく――。

 ――あたたかい。とてもあたたかい。

 暗闇の中、猫のように丸まって眠るのだ。
 暗闇なのに、心の闇は消えていた。
 胸の奥、瞳の奥、かつては妖精界を炎に変えた焔が、小生にずっと寄り添ってくれた――。


悪ものになっても


 獣人街 児童施設――。

 陽も沈み、あたりはすっかり暗闇に包まれていた。
 施設から少し離れたブロック塀にひとり、恋音は体育座りの姿勢でうずくまっている。泣きはらした頬は赤く腫れあがり、表情に翳りをおとしていた。

 どのくらい眠っただろう? 暗い部屋で聖母のような存在と会話をしたのを覚えている。
 寝ぼけ眼でフラフラと施設を出て、静かなこの場所に座ったんだっけ。

 枯れた涙のあとを両手で拭い、星を見あげた。
 恋音の頭上に輝く無数の星たち。

 そこに近づいてきた影に目をやる恋音。影の正体は狐姫だった。

「よおルーシー」
 狐姫はなんの躊躇もなく恋音の横に腰をおろした。
「神城博士んところ寄ってきた。夕飯までには戻って来いだって」
 狐姫は沙耶の伝言ひとつひとつを恋音に伝えた。

「父ちゃんと母ちゃんに連絡入れたんだって? なんか言われた?」
「お父さんとはわだかまりが続きそう。獅子の表札に泥を塗ったようなもんだからな。でもまさかお母さんから連絡があっただなんて……。心配させちゃったね。小生が『縁を切る』だなんて言い出すもんだから動揺したのかも。直接電話をかけてこないあたり、気を使わせちゃったね。でも本音を伝えられたから少し肩の荷が下りた。小生は聖人君子じゃないから過度な期待されてもすべてには答えられないからな」
「そうだよな。聖人君子って俺みたいなヤツのことを言うんだよな、まったく」
「しばくぞボケナス」
 恋音の冷ややかなツッコミが入る。

「いい母ちゃんじゃん。オヤジはウザそうだけど」
「うん。でも、友達は全員いなくなった。『成績優秀の恋音が好きだったのに~』『もう絶交~』だって。みんな勝手なことばっかり言って。こっちから願い下げだよな。な?」
「ほっとけほっとけ、そんな軟弱なやつら。そもそも友達じゃねーだろ、それ」
 狐姫はヘラヘラと笑い飛ばす。つられて恋音もそうした。
「ふふ、そうだな。『馬鹿がうつる』とか酷いこと言われた。もう頭きちゃってさ、ケツを2~3発蹴とばしてやった」
「それはやりすぎ」
「焔衣のマネをしたんだよ」
「ならよし」
 ふたりしてゲラゲラと笑い飛ばした。ムカつく奴はケツを蹴り飛ばしてやればよい。

 ふたり、夜空を見上げる――。

「なあ焔衣」
「あん?」
「どうして人間嫌いのおまえが咲羅真御殿についたんだ?」
「それなあ……」

 狐姫は御殿に誘われた当時のことを思い出す。

「俺もさ、はじめは御殿のことロボットだと思ったよ。だってずっと真顔で淡々と喋るんだぜ? 普通に考えたら怖えーだろ。表情筋ぶっ壊れてんのかよって」

 狐姫が笑い転げながら話を続ける。

「でもさ。中身は違ってたんだ。俺、商店街で警察と揉めたじゃん? あれを御殿に話したらさ、ズカズカと警察署に乗り込んでいって法律ならべて警官を論破してやんの。んで頭に血がのぼった警官と派手な口論になっちゃって、御殿もヒートアップして警官を一気にまくし立てて。俺に酷いこと言った警官は顔真っ赤にしちゃって……。そこで署長が出てきて平謝り。その警官、署長に怒られて半ベソかいて俺に謝罪してやんの。いや~スッキリしたってもんじゃなかったね~。御殿も頭に血がのぼっちゃって訴訟起こすだの監察に訴えるだのヤベー状態になっちゃって。アイツめっちゃ早口で喋るんだぜ? あんなに話せるなら最初から喋れよなってーの。そん時にさ、頭を使って生きる道もあるんだな~って思ったのよ。人間って暴力以外で解決する方法を持ってるじゃん。そこに惹かれたっていうの?」
「それだけじゃないだろ?」
「ルーシーはお見通しだな。御殿はさ、俺を仲間として大切に扱ってくれた人間なんだ。それで……ちょっと惹かれたっていうか、その、人間と距離を埋めるチャンスかなって思って……あ~、この話はもうやめやめ!」
 狐姫はケモ耳をクシャクシャとかいて早々に切り上げた。
「顔真っ赤にしてやんの。好きなの? 咲羅真のこと」
「殺すぞ」
 恋音にからかわれ真顔になる。

 翳りをおとしていた恋音だったが、狐姫と会話しているうちに少しずつ心の重さが取れていくのがわかった。
 そこで狐姫の胸元に目がいく。恋音は火傷の跡を見逃さなかったのだ。
「――焔衣」
「んー?」

 火傷跡やガーディアンスピリット、そして『プロミネンス一族』という存在について聞こうと思ったが、やはり言葉を飲み込んだ。おそらくは何も答えてはくれないだろうと察したからだ。それに狐姫が背負っているものを詮索するのも気が引けた。

「――いや、なんでもない」
「あっそ」
 狐姫は気にせず荷物からキャンプバーナーとカップ麺、手頃な大きさのヤカン、それからペットボトルに入った水道水を取り出した。
「臨時収入2000円でカップ麵買ってきた。沢木さんから紹介料もらっちった。これ、おまえがこの前言ってたクッテルのみそ味、あとクリーミーシーフード。魚肉ソーセージもある。一緒に食おーぜ? 俺んちの蛇口ミネラルウォーター出るんだ。すげーべ」
「それミネラルウォーターって言わないよな? なんで自信満々なんだ」

 狐姫はヤカンに自称ミネラルウォーターを注いでマッチでシングルバーナーに火をつけた。

 シングルバーナーに灯った揺らめく炎――それをしばらく見つめていた恋音が打ち明けた。

「――八卦のチップを体に埋め込んだ時にさ、ディルファーの声が聞こえた気がしたんだ」
 恋音が右手首のあたりをさすった。
「ディルファーの声が聞こえた?」
 狐姫が首を傾げた。
「――うん。よく声は聞き取れなかったけど、悲しそうに何かを訴えてくるようだった。ディルファーはどうして妖精界を焼き払ったんだろうね。それを考えた人っていたのかな? もしも焼き払う正当な理由があったとしたら、ディルファーは必要悪ということにならないかな。そうなれば、おのずと妖精界全体に責任追及がはじまると思う。だって業火の原因を生み出したのは妖精界ってことになるからな。ディルファーはそれを訴えてきたんじゃないかって、小生は思ったんだ」

 しばらく恋音は口を閉ざし、狐姫もまたそれに従った。

 間を置き、恋音が言葉を切り出す。
「――なあ焔衣」
「あん?」
 恋音は振り絞るように言葉を発する。
「もしもな、もしも、小生が悪者になっても……」
 狐姫は恋音の口に魚肉ソーセージを突っ込んだ。
「んぐ!?」
 恋音は突っ込まれたソーセージを引き抜くと咳込んで声を張り上げた。
「いきなり何するんだ! 魚肉ソーセージで殺人事件が起きるところだったぞ! 口に魚肉ソーセージ突っ込まれて死んだ死体の気持ちがおまえにわかるのか!」

 恋音がそう言いかけたところで、狐姫はその頭をそっと抱き寄せた。

「よけいな心配しなくてもいいんだよ。ルーシーは完璧を求めすぎ。他人に期待しすぎ。勝手に期待したって思い通りのポイント還元なんかされねえよ。だいたいさ、相手は人間だぜ? 俺たちがどんなに悪霊を追っ払っても、人間は性懲りもなく同じことを繰り返す。だから俺たちは腹いっぱい食えるのさ。もっと気楽にいけよ」
「焔衣……」
「思い出せよ。あの頃の空腹をさ。もう、一杯のラーメンを分け合うこともないけれど、今は2杯のラーメンをわけあうことができる。それは俺たちが前に進んでいる証なんだ。色んな人と出逢って何かをつくり上げている証なんだ。 ……お、出来たみたいだぜ? ほれ、割りばし」

 狐姫がカップのフタを開けると、あたり一面に食欲をそそる香りが充満した。それが恋音の胃袋を刺激したのは言うまでもない。

 ぐううううう~。
 恋音の腹の虫が鳴る。食欲が戻るということは元気に向かっている証拠だ。

「ほれ、食おうぜルーシー」
 恋音もしぶしぶ狐姫に従い、カップラーメンに手を合わせる。
「「いただきます」」

 いつ以来だろう。ふたりしてカップラーメンをフーフーしながらすすったのは。
 星空の下で食べるカップラーメンは最高だった。真冬に食べるとまた格別な味だということも知っている。

「ルーシー知ってる? 一杯のカップラーメンって話」
「それ小生が教えた話だろ」
「あ、そうだった。 ……その昔、貧しい親子3人がおりました。親子3人は――」
「なんで淡々と語り始めるんだよ。小生が教えたっつってんだろ! 貧しい親子3人で大晦日の夜に一杯のカップラーメンを分け合ったの! んで大きくなって子供が出世してカップラーメンを親子そろって人数分食べたの! んでカップラーメンの会社を設立して『いいかい学生さん、カップラーメンをな、カップラーメンをいつでも食えるくらいになりなよ。それが人間えら過ぎもしない貧乏過ぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ。』っていう迷言をどっかのマンガからパクッてSNSで呟いて炎上したの! それが今食ってるクッテルの会社の会長! わかったか!」

 狐姫と話していると体力が消耗する。けれども恋音は、それをとても心地よく感じた。だってこんなにも笑顔が溢れてくるんだもの。

 目の前にはカップラーメンが二杯。もう、貧しさから一杯のラーメンを分け合うことはない。
 今は味の違う二杯のラーメン。互いの味を交換しあい、喜びを共有する。
 味は違うけれど、歩む道は違うけれど、いつだってふたりは、隣を歩いている。どちらが先頭でもなく、後ろでもなく――。

 狐姫が恋音のカップラーメンに手を伸ばす。
「スープちょっとくれよ、汁」
「汁言うな」
「おめーのことじゃねえよ」
「うそつけ! 今の汁発言は絶対小生のことだよな!」
「うっせーな。スープくれっつってんべ、汁」
 恋音から容器を引ったくると、一気にスープをあおる。
「また汁って言ったな! 少しだぞ少し……あー! 全部飲むんじゃない、少しっつったろ! ……半分も減ってるじゃん」
 恋音は狐姫のほっぺを摘まんで泣き叫ぶ。
「ピーピーうっせえな。また買ってやんよ」

 少しずつ、少しずつ。
 ちょっとずつ、ちょっとずつ。
 恋音の沈んだ気持ちが浮上してゆく。

 今はそんなに急いで立ち上がらなくてもいい――狐姫との時間の中で、本来の自分の気持ちに素直になろうと思う恋音。自分が何が好きでどうしたいのか。何が嫌いで何をしたくないのか。本音をさらけ出すのも生きる目的のひとつである。学歴に振り回されず、他者からの評価に振り回されず。自分の心に優しく寄り添うことは、生きてゆく上での重要な課題となる。

 人に優しく、時に厳しく――。
 自分に優しく、時に厳しく――。

 他人が頑張ったら褒めるくせに、自分が頑張っても褒めてあげないのは自分が可哀想である。誰しも頑張ったら頭を撫でてほしいもの。
 これからは、もっと自分に優しくしてあげようと恋音は思った。

「――さっきの話だけど」
 狐姫は空を見上げた。
 恋音は狐姫の横顔を見た後、それにならって空を見上げた。
「もしもおまえが悪者になったら、そん時は俺が正義の味方になっておまえと結託する。そこでおまえが正論を述べたなら、そんときゃ俺も悪者になる。そしてまた、ここでカップラーメンを食うんだ。そしてまた、いつもと変わらない時間を送るんだ」
 狐姫がにししと八重歯を見せた。
「だから悪者になったら真っ先に俺んところに来い。そうしてふたりで全味を制服しようぜ。そんときゃ、ちゃんとカップラーメン買ってこいよ」

 そのあと、狐姫はちょっぴり頬を染めて口を開いた――。

「それから、おまえの気持ちだけど……」
 振り絞るように言葉を発する。
「返事は……、もうちょっと待っててくんね? なんつーか、俺にも色々あんだよ。べ、別におまえのこと嫌いになったりしてねーから安心しろよな!」
 恋音はくすりと笑った。
「わかった。しばらく焔衣への想いは、この胸にしまっておく」
「さんきゅ。だからそれまでの間、またよろしく頼むぜ。MAMIYAの戦闘員も人手不足だし暴力祈祷師も数が少ないけどさ、おまえみたいな有能なやつはどこいっても重宝されっから。だからおまえのペースで突っ走れ。理想を押しつけてくる連中なんかシカトして、肩の力抜いて、気楽にゆるーくやってこうぜ」
「――やってみる」

 お互いに拳をつくり、コツンと合わせた――。



 誰かが声をあげなければ動かないことがある。
 誰かが犠牲にならなければ解決しないことがある。
 声を張り上げるものはいつだって、その背中に石を投げられ笑われる。
 声を張り上げないものはいつだって、「余計なことをするな、カッコつけんな」と罵声を飛ばしてくる。
 奴らは好き勝手な生き物だ。君に不気味な理想を押しつけてくる。君を支配しようとする。

 けれどもね、ふるい上げたその拳を、どうか下げないで欲しい。
 拳を振り上げ、叫び続けているのは君ひとりじゃない。
 胸を張れ。拳を高々とかかげ、己が信じた正義をいだいて一直線に突っ走れ。
 やがてその背中についてくる奴らの存在に気づくだろう。

 だからね、その胸に宿る魂の叫びに耳を傾けるんだ。
 自分が正しいと思ったことを貫くんだ。

 たとえ背中に石を投げられたとしても。
 空に伸ばした両手をへし折られたとしても。
 その誇り高き背中に、唾を吐かれたとしても――。


 ――ねえ、私が悪ものになっても、あなたは私を好きでいてくれる?
 ――ねえ、私が悪ものになったら、あなたは私を成敗してくれる?

 正義と悪の定義など、視点が違えば見え方も価値も違ってくる。
 たとえ悪ものだとしても、たとえ虐げられたとしても、世界の1割は君の味方でいてくれる。否、半分以上かもしれない。それは数億人の味方を意味する。

 本当に君は悪ものなのかい?
 本当に君が間違っているのかい?


――本当に君が悪いのかい?

――そんなに君が悪いのかい?



 その問いに口を紡ぐのならば、きっと君は正義かもしれない。
 ならば、味方でいてやれよ。
 自分の味方でいてやれよ。
 自分を信じていてやれよ。

 善悪を定義できる者などどこにもいない。神でさえ、その力を欲するものだから。
 難しいことを考えるより、答えが出せないことを考えるより、肩の力を抜いて、気楽に昼寝でもしていればいい。そのほうが健康的だ。

 ひとりで不安な夜。
 誰かにそばにいて欲しい夜。
 ふたりの獣人は、あったかいカップラーメンを食べながら頭上に広がる星空を見上げるのだ。
 ラーメンの湯気が空に舞う。
 匂いにつられた星々が心を温めてくれる。そんな気がした、獣人、ふたり。
 カップラーメンは相変わらず、今日も美味しかった。

 右腕の首輪から気配を感じる。鼻を鳴らし、お腹の虫を鳴らして尻尾を振っている。

 これは、そんな日の出来事でした――。


第6話
『ごめんね、ソレイユ』