10 100匹目の猿


 聖色市せいろんし 流船るふな駅前――。

 レプラ・スタッフサービスの総合ビル――そこから中央通りを挟んだ向かいのビル屋上に御殿ことのが立った。レプラのビルよりやや高めで、社長室の窓を見下ろすかたちだ。
 沢木と宗盛は別のビル屋上に配置した。ともにスナイパーライフルを武装している。角度的に宗盛、御殿、沢木の順番だと絵画から出てきた悪魔を仕留めやすい。御殿の弾が届かない場所も、宗盛と沢木がカバーしてくれる。

 スコープを覗く御殿の頬に夕日がさしこむ。鋭い視線の先にはレプラの社長室が見え、すでに京極チームが到着していた。
 それを確認した御殿がインカムで指示を出す。
「――こちら咲羅真さくらま、京極チームが配置についた。総員戦闘準備に入る。OK?」
 耳にノイズ音、そのあと沢木と宗盛の声が聞こえてきた。
『――ザッ。沢木、了解だ』
『――ザッ。九条、かしこまりました』
 続いて京極チームの声。
『――ザッ。こちら小動こゆるぎ。御殿さん、こちらの様子は見えてますか?』
「――ザッ。スコープで見ている。しっかりやるのよ、OK?」
『――ザッ。了解です』
 ――通信が切れた。

 京極チームにはありったけの聖水を持たせた。
 御殿は瞼を閉じ、鴨原の言葉を思い返す――。


 数時間前 鴨原のマンション――。
 リビングに立つ鴨原。ホワイトボードの手前でバスタオル姿の女子たちに指示を出していた。

 御殿が驚きの声をあげた。
「赤霧を綺麗に消したうえに金盛を捕らえる策があるですって? そんなあっさりと解決できるものなのですか?」
 訝し気な表情の御殿に、鴨原は言う。
「ああ、手はある。が、何にでも犠牲はつきものだ。ここにいる数人にはその犠牲になってもらう」

 鴨原が麗蘭れいらに目を向けると、そこには瞼を閉じる寡黙な姿。かつてフェアリーフォースと癒着していた鴨原のこと、麗蘭のおおよその力量は把握している。
 
「京極君と言ったな。君は察しているようだな」
 ワンテンポ置いて麗蘭が口を開いた。
「――うむ、我々フェアリーフォースは武力だ。武力は平和のためにある。我々はその武力の1つだ。戦いの先に平和があるなら、血を見ることも覚悟のうえだ」
「結構。死ぬ覚悟はあるようだな。場合によっては絵画の中で死霊に憑りつかれてゾンビのように魔界をさまようことになるぞ? それでもいいのか?」

 鴨原の言葉を聞いた麗蘭は、小さな軍人たちをまっすぐに見つめた。

「小動、雪車町そりまち、そして高瀬。君たちは私とともに絵画に入ってもらう。これは命令だ。拒否することはできない。いいな?」
「「「イエスマム!」」なの!」
 3人の声がそろう。リーノの語尾は相変わらずだが、軍隊としての教育がしっかりできている。
 鴨原が話を続ける。
「しっかり調教しているな、結構だ――」

 鴨原はマジックペンを取り出すとホワイトボードの前に立ち、ペンを走らせた。リビングにうっすらとインク特有の匂いが立ち込める。

「――これはあくまで、絵画が火の八卦を吸収していないという条件のもとで行う作戦だ。やる事は多いぞ。まずは神城たちの救出と八卦のデータ回収。データは用心深い神城が隠しているはずだ。次に壺の強奪、そして赤霧の中にいると思われる獅子しるこという少女と合流。金盛はとりあえず無視していい」

 マジックペンがキュッキュと音を立てる。

「現在、MAMIYA側には八卦が5人揃っている。雷、水、風、地、そして沢である咲羅真御殿、君だ」
 と、ペンで御殿をさす。
「――だが今回は八卦のカードは使えない。絵画は八卦の力を取り込む危険がある。敵にカードを総取りされたらたまったもんじゃないからな。そこで京極チームには、まず神城親子を救出してもらう。残りのメンバーは絵画から溢れだす死霊たちを1匹残らず始末しろ。悪魔が町をうろつき出したら被害が拡大する。それを阻止するんだ。絵画は口を開いた瞬間に大量の赤霧を吐き出す。そこで咲羅真御殿スナイパーの出番だ。君には赤霧に巻き込まれない距離から魑魅魍魎どもを狙撃してもらう。幸いにもレプラビル以外は霧が薄くなっている。チャンスは今しかない」
「質問があります」
 と想夜が挙手。
「雪車町君」
 鴨原がペンで想夜をさす。まるで授業中の光景だ。
「あたしたちが絵画の中にいる間は絵画の口は閉じてしまいますよね? そうしたら脱出できませんよ?」
「社長室にはいくつかの家具があったはずだ。京極チームが神城を探している間は絵画の口に頑丈なキャビネットでも突っ込んでおけ。そうすれば絵画の口が開きっぱなしになる。当然その間は絵画の口は半開きになり、死霊たちが溢れ続け、町は瞬く間に混乱に陥るだろう。が、もちろん全て狙撃で片づけてもらう。スナイパーが足りないようなら人材を確保しておけ。いいな?」
 と、ペンで御殿をさす。
「わかりました」
 御殿が強くうなずいた。

 鴨原がペンを走らせる。

「――次に京極チーム、君たちには絵画の中で三手に分かれてもらう」
 鴨原の声に麗蘭が驚愕する。
「三手? ほぼ1人に1つの問題を任せることになるな」
「ああ、だがやってもらう。絵画の中に長時間いるのは無謀だ。まずは神城、沙耶さん、サモエドの救出だ。神城たちが死霊に憑かれている可能性は高い。除霊が必要になるかも知れんな。京極チームの中に祈祷師はいるか?」

 京極チームは黙ってしまう。

「――いや。我々はおろか、妖精界では暴力祈祷師の存在を耳にしたことがない」
 首を左右させる麗蘭。
 それを見た鴨原が肩をすくめた。
「――だろうな。妖精界には悪魔はいないから祈祷師も不要なわけだ。それに軍隊は祈祷専門ではないから仕方がない。もし神城と沙耶さんが死霊に憑依されていたら首に縄をくくりつけて連れてこい。そこの暴力祈祷師が除霊する」
 と、鴨原は顎で御殿を指名した。
「それと沙耶さんがスペックハザードの影響で妖精に憑依されていた場合は、憑りついた妖精の帰界処置をとれ。それは京極チームに任せる。絵画の中に魔界が広がっているとはいえ、所詮は赤霧で作られたインスタントな魔界だ、地獄ではない。気を抜いてはいけないが重く考えることもない。いつものようにやればいい」

 鴨原がホワイトボードを裏返す。

「――次に大樽だいそんの壺。これは意外と簡単かも知れん。金盛から壺を奪って逃げる、それだけだ。当然、奴は血眼になって追いかけてくるはずだ。が、とにかく壺を抱えて絵画から脱出しろ。金盛とのスピードレースになるだろうから素早い隊員がいい。脂肪の塊とはいえ何をしてくるか分からん。気を抜くな」
「スピードレースか、ふむ……」

 麗蘭が任務の人選を考える。

「雪車町は羽を負傷してるからピクシーブースターは使えない、か。となれば、この役目は私、小動、高瀬の誰かだな」
 「すみません」と申し訳なさそうにする想夜の頭を麗蘭が「気にするな」と撫でた。

 鴨原が話を続ける。

「最後は獅子恋音しるこ れおんの探索。実はこれが一番厄介だ。というのも、彼女の考えがいまいち分からない。クライアントである神城を追っていったようだが、憑依されていることも予測されるし、祈祷師だから持ちこたえているとも予測できる。だが恐らくは、神城と沙耶さんを解放した後に金盛の殺害にいたる可能性が高い」
 狐姫が口をはさむ。
「ルーシーのやつ、頭に血がのぼったら誰にも手が付けられないからなあ」

 そこで御殿は赤いスイートピーの話をした。
「実は先日、奈美さんのお見舞いに行ったときなのだけれど――」
 それを聞いた一同は、啞然としていた。
「――つまりルーシーは死ぬこと前提で絵画に飛び込んっだってことか?」
 真顔で問い詰めてくる狐姫に、御殿は静かにうなずくしかなかった。
「ふざけんなよな! おまえ何でそれを早く言わなかったんだよ!」
「ごめんなさい。狐姫にはどうしても言えなかったの。それにアンダーグラウンドで暴力行為に及んだあげく、フェアリーフォースの極秘資料まで入手している。コミュニティからのペナルティも覚悟していることから、もうこちらの世界に戻らないと決めているのかも知れない」
 御殿はそう言って、狐姫から目をそらした。狐姫の怒りに満ちた、それでいて悲しそうな瞳を見るのがつらかったのだ。

 鴨原は顎に手を添え、苦虫を噛み潰したような顔をする。

「――うむ。だとしたら獅子恋音にはさらなる注意が必要だな。獣人ならば簡単に金盛を殺害できるはずが、獅子はそれをしなかった。そこから推測するに、金盛の力量は獅子以上だ。もし獅子が金盛殺害を考えているとすれば、より強い力を欲しているはずだ。となれば、獅子の目的は八卦のデータに絞られる。獅子が金盛の首を狙っている以上、金盛を捕らえる京極チームにも牙を剥いてくる。最初から死ぬ気で金盛に戦いを挑んでいるようだから、尚のこと邪魔者を排除しにかかるだろう。思考がパンクしているようにも思えるから異常行動に出る可能性も高い。ヘタをすると、ここにいる全員が焼き殺されるかもな」
「敵は2人――金盛だけならまだしもルーシーが敵になるのか、マジかよ……」

 狐姫がイラついた表情で呪符のリボンをいじりはじめた。友をぶっ飛ばすのも気が引けるし、勝てるとも限らない。恋音の格闘術は狐姫よりも数段上をゆく。火の八卦として覚醒までしたら一体どうなってしまうのか。分が悪すぎる。

 鴨原が追い打ちをかける。
「もしも金盛か絵画が八卦のデータを取り込み、そして神城と娘が死亡していた場合はもう打つ手がない。計画は失敗だ、大人しく撤退しろ。炎の能力――ギャンサーエフェクターはこの上なく強力だ。それ1発で日本を破壊できる。そうなったらまずは逃げることに徹しろ、できるだけ海外にな」

 鴨原は国外避難を推奨した。日本が脅威を抱えた以上、アメリカを始めとする先進国は黙ってはいない。日本に向けての攻撃を始めるだろう。

 近い未来、妖精界の大半を焼き尽くした炎が人間界を飲み込む――その威力は、強力な核ミサイル数発分に匹敵する。街も、人も、動物も、植物も、すべてが炭と化す。

 今から数時間後、ディルファーの炎を手に入れた怪物と戦う世界線がある。そしてアメリカからもミサイル攻撃が始まる――一同はそれを想像し、固唾を呑んだ。

 鴨原ができるのはここまでだ。戦力にならない自身にもどかしさを感じつつ、気まずい表情でペンを置き、最後に口を開いた。
「それと絵画だが――」
 そうして最後に入れ知恵をした。


 レプラ社長室――。
 麗蘭が絵画の前に立ち、各々に指示を出す。他の部隊が駆け付けるまでには、まだ時間がかかる。それまでの間、すべては京極チームにゆだねられた。

 横一列に並んだ想夜たちの前に、麗蘭が向かい合うように立った。
「全員そろっているな。各自、聖水を装着しろ」
 継紗つかさ、想夜、リーノが素早く弾丸ベルトに手を伸ばす。そこには聖水アンプルがビッシリと並んでいた。それを各々がたすき掛けで装備する。
「小動、聖水装着完了しました!」
「雪車町、聖水装着完了しました!」
「リーノ、聖水装着完了しました、なの♪」

 麗蘭も聖水の弾丸ベルトを装備した。

「――よし、まず負傷している雪車町のサポートだが……」
 そこで継紗が素早く名乗り出た。
「京極隊長、それはウチが引き受けます。神城博士たちはウチのシルクワームで包んで運べます。沙耶さんが死霊や妖精に憑依されていても包んで運べます。想夜には運ぶのを手伝ってもらいます。想夜、それでいいよね?」
「うん、了解ちゃん」
 
 かつて継紗は、執拗に想夜をイジメていた。けれども今は誇れる仲間。少しでも一緒に作業をこなしながら、互いの溝を埋めていきたいのだ。
 仲良くなりたい気持ちは想夜だって同じ。互いの気持ちがシンクロするとき、そこには戦力的な相乗効果が生まれる。
 
 麗蘭は少し考え、今の継紗と想夜なら組ませても問題はないと判断した。絆を深めれば、より強力なチームへと成長すると見越してのことだ。
「――わかった。小動、雪車町は神城親子とサモエドの救出。高瀬は金盛を見つけ出して大樽の壺を奪って逃げろ。金盛はレプラコーンだ、人間の力量とは思うなよ。私は獅子恋音の身柄確保に努める。鴨原氏いわく、八卦のデータは神城博士が所持しているとのこと、決して金盛と獅子恋音には渡すな。各自、絵画に入る前に霞喰丸かじきがんを摂取、赤霧への耐久性を高めておけ! 以上、総員配置に着け!」
「「「イエスマム!」」なの!」

 麗蘭が人喰い絵画に思いきり聖水を投げつけると、絵がグニャリとへこんで額縁の中に魔界が広がった。
 
「グアアアアアアア!」
 
 絵画が牙を剥き出し、熱風のそれに近い吐息で隊員たちの頬をなでる。
 麗蘭は迫る灼熱を払いのけて叫んだ!
 
「今だ、行け!」

 継紗を筆頭に、想夜、リーノがワイズナーを背負って絵画に飛び込み、散り散りに飛翔していった。

 麗蘭は3人を見送った後、キャビネットを引きずりながら尻から絵画に入り、額縁にねじり込んで固定した。額縁とキャビネットの隙間から死霊たちが外へと溢れてくるだろうが、そこはスナイパーたちに任せる。
「これで少しは時間を稼げるだろう」
 額縁の牙がキャビネットをかみ砕こうとするが、うまく引っかかって閉じることができないでいる。

 やがて4人の姿が絵画に溶け込み、絵具の一部となった。絵具とキャビネットが捩じり合い、まるで絵画が四角い家具を吐き出したかのよう。とても不格好なオブジェ。
 絵画を見れば中の様子が分かる――真っ赤な世界の中で、妖精たちが飛翔する作品の完成だ。


 御殿がスコープを覗きながら見届けていた。
「――状況報告。京極チームが絵画に入った。現在、絵画に4人の姿が描かれている。沢木さん、九条様、聞こえますか?」
『――ザッ。あいよー、バッチリ聞こえるよー』
『――ザッ。こちら九条。こちらも京極チームの確認がとれました』
 沢木、宗盛、問題なし。

 御殿ひとりでは魔族の狙撃に似合わない。そこで声をかけたのが沢木と宗盛。沢木は奈美の除霊の件もあり、その借りを返すために引き受けてくれた。御殿のクライアントである宗盛は、MAMIYAグループのために名乗り出てくれた。赤霧の猛威は企業の首を絞め続ける。そのため、即急に赤霧を晴らすべくスナイパーライフルを手にした次第だ。

 御殿のいるビルから距離をおいた雑居ビル、その屋上に沢木がライフルを構えていた。そこから少し離れた場所には宗盛がライフルを構えている。

 ふたたび御殿がインカムに囁く。叶子、華生、水角も町の至る場所に配置している。狙撃から逃れた死霊どもは3人で切り刻む。狙撃班とブレイド班の二段構え。備えあればうれいなし。
「叶子、華生けいきさん、水角みずの。スナイパーが取りこぼした死霊を1匹残らず排除してちょうだい。数は多いわよ、OK?」
『大丈夫よ。華生も問題ないわ』
『ボクも配置についたよ、お姉ちゃん』
「OK、頼んだわよ」
 絵画から溢れ出してくる魑魅魍魎を片っ端から狙撃し、ぶった斬る。
 流船の混乱を何としても阻止するのだ!

 御殿はスコープから目を離して振り向いた。

「――狐姫、筋肉をほぐしておきなさい」
「……もうやってる」
 準備運動で体の筋を伸ばす狐姫は、いつになく沈んだ声。恋音のことで頭がいっぱいなのだ。かつての親友とり合うことになるかも知れないのだから無理もない。
「大量に聖水を使うから装備を忘れないで」
(くそぅ、待ってろよルーシー。ゼッテー無事に連れて帰るからな)
 口うるさい御殿をよそに、狐姫は聖水のアンプルを弾丸ベルトに差しまくり、肩からナナメにぶら下げた。まるでコマンドー部隊である。
 八卦たちが同行できない分、救出作戦は京極チームの手にかかっている。

 御殿が振り返ると、視線の先では奈美が道具箱から筆とインクを取り出していた。
 御殿は深く息を吸い込んでライフルを構え、スコープを覗いた。
「――さて、こっちは準備できたわ。金盛、姿を見せなさい」


即席の魔界


 閉じた瞼――。
 ごうごうと鼓膜をつんざく突風の音。
 灼熱の嵐が頬を頬りつけては遠くへ去ってゆく。

 そうして麗蘭はゆっくりと瞼を開く――。

 今立っている場所。そこは先ほどまでいたはずのレプラ・スタッフサービス。ガレキの一部と化したビルは黒焦げとなり、気持ちていどの床と骨組みしか残っていない。
 社長室の壁は丸ごと崩れ落ち、そこから見える町の光景は無残なものだ。
 
「ここが即席の魔界なら、本当の魔界とは一体どんな世界なんだ」
 
 目の前に真っ赤な世界が広がっている。
 吹き荒れる熱風がふたたび麗蘭の頬を殴りつける。それに合わせてリズミカルにツインテールがバサついた。
 怒り狂った砂嵐をくらっているようで、瞼を開けるのもやっとのことだ。そうやっているうちに気力も体力も削られてゆき、やがて足取りも重くなる。
 麗蘭は非常階段をくだり、外へと出た。


 想夜、継紗、リーノの姿はすでにない。
 炎で覆われたカーテンの向こうに見慣れた景色がある。
 麗蘭は横断歩道を渡ると、嵐でへし折れた踏切を拾い上げた。

「――ここは、流船駅前か?」

 足元には亀裂の入ったアスファルト。亀裂から見える乾いた土。草木はとうに燃え尽き灰となり、みずみずしさとは無縁の世界が広がる。
 ひしゃげた線路。衝突事故を起こした車の数々――それらを横目に歩み出す。

 灼熱の世界を背に、麗蘭はワイズナーに搭載したレールガンレーザーユニットを確認する。充電時間が大幅に減ったことで威力も低下したが、飛び道具を入手できたのは頼もしい。

「霧の濃さから察するに、霞喰丸の効果は約5分。連続摂取しても30分が限界だろう。それまでに獅子とやらを探し出さねば――」

 気づくと四方八方から影が近づいてくる。頭からタールをかぶったような人形の群れ。むき出しの目玉、肉は黒く変色して削げ落ち、ところどころ白骨化している。ナナメに傾いた不格好な姿勢で足を引き釣りながら、ノソリノソリとゾンビよろしくやってくる。

「死霊とやらのお出ましか。こちらもあまり時間がなくてな。一匹ずつは相手してやれん」

 麗蘭は腰を落としてワイズナーを構え、鋭い眼光を死霊の群れに向けた。

「――束になってかかってこい」


ともだちの嫉妬


 想夜と継紗は熱風の中を飛翔していた。
 絵画に入った瞬間のこと、どこからともなく飛んでくる妖精反応に気づいたのだ。それが沙耶のものだと推測したふたりは一直線に北東へと舵を切った。

「このあたりかな?」
 ふたりは突風にあおられながらも、めぼしいビルを見つけて外壁にしがみつく。

 継紗が羽の弱った想夜に手を貸しながら叫ぶ。
「妖精反応があったのはこのあたりだったよね!?」
「うん、ビルの中を見てみよう!」
 大声じゃなければ声は突風でかき消されてしまう。返事をするのも一苦労。壊れた窓から7階建てのビルへと侵入する。


 ビルの中は比較的静かで、熱風は入ってこないようだ。とはいえ、壁が熱風で削られてゆくため長くはいられない。10分もすれば鉄骨だけになるだろう。

 崩れかけの階段をのぼる途中で会話が途絶え、気まずさのあまり継紗がポツリと口を開いた。
「――このあいだ、アンタのお弁当ダメにしちゃったっしょ?」
「……うん」

 覚えているだろうか? シュベスタ研究所が倒壊する前、想夜が妖精界に戻った時のことだ。想夜は尊敬する上司であるディアナに会いたがっていた。しかしフェアリーフォース本部で待っていたのは麗蘭。想夜は麗蘭から「余計なことに首を突っ込むな」と説得を受けたにも関わらず、挑戦的な態度で突っぱねた。そして人間界に戻る時のこと、継紗とその取り巻きが想夜のお弁当を取りあげ、からかい出した。お弁当は落下して泥んこまみれ。それは御殿と狐姫が想夜のために作ってくれたお弁当だった。

「――あれ、御殿さんが作ってくれたんでしょ? その……ゴメンね」
 ションボリする継紗に、想夜は瞼を閉じて静かに首を振った。
「ううん、いいの。御殿センパイには謝ったし、また作ってくれるって言ってくれたから。だから気にしないで」
「……うん」
 本当は罪悪感でいっぱいの継紗。気にするなと言われても、やはり気にするもの。けれども素直に受け入れ、想夜の優しさに甘えることにした。
「本当はねウチ、人間界で色んな人たちと仲良くしてる想夜のことがうらましかったんだ」
「あたしが、うらやましい?」
「うん。嫉妬とかやっかみっていうの? 人間と仲良くする想夜が大人びて見えたの。先を越されたみたいで、置いてけぼりにされたみたいで、人間に友達を奪われたみたいで。そういう色んな感情が爆発しちゃたんだ。それで八つ当たりしちゃったんだ。 ……いじめてたのに友達とか言ちゃってる。勝手だよねウチ」

 想夜は返答に困った。イジメを最低の行為といえば最低そのものだし、継紗の人間性が最低と言われれば決してそうではない。かといって自分のことを友達と言ってくれる継紗のことを勝手だなんて思わない。もちろん人間の中にも想夜にいじわるをする者もいる。広い世界、どこにだって意地の悪い者はいるものだ。けれども想夜は無言をつらぬく。多くの言葉を吐き出したい継紗の気持ちをくみ取ったからだ。故に、次の言葉を待つ。

「シュベスタ研究所でアンタが大勢の隊員から白い目で見られた時にね、ウチ、とっても辛かったの。こう……、胸のあたりから何かが溢れ出してきて、叫びたくなったんだ。想夜はみんなが思っているような悪い子じゃない、優しくていい子なんだって。あの場所には上司とか先輩とかたくさんいたけれど、想夜のことをどうでもいいだなんて、ウチには思えなかったの。そこでやっと想夜のことが好きだったんだって分かったの。でも、アンタが藍鬼あおおにになった時、ウチの心は引き裂かれそうになった。まるで自分の体が千切れんばかりに痛かった。友達が壊れてゆく姿を、見たくなかったの」

 心ある者になら分かるはず。相手の感情は自身に伝わってくるもの。痛み、喜び――他者と何かを共有することは、相手の中に己を見出し、己の中に相手を見出すこと。それ即ち、他者の命をその身に宿すことでもある。そうすることで、他者を自分のことのように大切にできる。相手の痛みも、苦痛も、幸福も、理解できる。

 その身に他者の魂を見出すことを、人は愛と呼ぶ――。

「あの時ウチ、他人の心なんて分かるはずないって言ったっしょ? あれ、無し。相手の気持ちってさ、心のどこかで分かるものなんだよね。どうしてだろうね? 体が繋がっているわけでもないのに、神経が繋がっているいるわけでもないのに、相手の気持ちが分かることって確かにあるの。不思議だよね」

 多くのことを経験すると他者の気持ちが分かるのだろうか? 否、生まれながらにして他者の気持ちがくみ取れる者もいれば、多くを経験しているのにも関わらず他者の気持ちがくみ取れない者もいる。

 では他者の気持ちが分かるメカニズムとは何だろう?
 想像力だけで成せる技なのか?

 そこで想夜は言う。
「つか。人間界には百匹目の猿現象っていうお話があるの。知ってる?」
 暗い顔をしていた継紗がちょっとだけ吹き出した。
「へえ、何それ面白そう。聞きたい」

 『百匹目の猿現象』を知っているだろうか?
 百匹目の猿現象――人間界の生物学者が創ったお話。1匹の猿が川や海で芋を洗って食べ始めた。それを見ていた別の猿がマネをし、やがて一定数の猿が芋を洗って食べ始める。この学者は一定数を100匹として例えた。しかし一定数を超えたあたりから、どういうわけか離れた場所にいる猿の群れまでもが同じ行動を取り始めた。それが100匹目の猿という架空の物語。

「つまりね、あたしたちの心はどこか見えないところで繋がっているという仮説なの。思いを馳せるという行為は相手の気持ちに入り込むのであって、それはただの想像では終わらない話のかも」
「そう言われると神秘的だけど何だか怖いなあ。だって知られたくないことまで知られちゃうってことっしょ?」
「そこはほら、バリア張ればブロックできる……たぶん」
「あははっ、バリア都合よく出てくるなあ。バリア最強かよ」
 適当なことを言う想夜の言葉でその場が和んだ。
「あのお弁当はね、狐姫ちゃんも作ってくれたのよ」
「うげー、あの狐もかい。後でグチグチ言われそうだなあ」
 とたんに継紗が顔を歪ませた。アイス1つで口汚く罵ってくる狐姫のことは好きになれない。

 階段の踊り場に差し掛かった頃だ。突然、通路の角を影が横切った。
(見た?)
(見た)
 ふたりは無言で顔を合わせ、ワイズナーを引き抜く。
 継紗が腰を落とし、顎で想夜を促す。
 想夜は頷くと、素早く手前の壁に背中を合わせて張り付いた。と同時に、継紗は真逆に移動して壁に背中を張り付ける。
 壁から柱の陰へ。柱から奥の部屋へと移動するふたり。過酷な訓練の成果が出ていた。
 黒焦げになったドアの横、その左右に身を潜め、部屋の様子をうかがう。

 そこに白衣の男はいた――。
 
 部屋の奥、白衣の男が横たわっている。黒縁メガネに無精ヒゲ。風呂に入っているのかいないのか分からないクシャクシャに乱れた頭髪。離れた場所からだと生死の判別が難しい。

 継紗が胸のポケットから写真を取り出して確認し、それを想夜にも見せた。
(間違いない、神城博士だ)
 ふたりが視線を合わせて大きくうなずいた。

 そして部屋にはもうひとり、ツーサイドアップの少女が背を向けていた。ふたりよりも身長は高い。
(沙耶さんだ!)
 沙耶と思しき背中からは、殺意をまとった妖精反応がビンビン伝わってくる。どうやらこの人物が妖精反応を放っていたらしい。
 ふたりが視線で会話する。
(妖精が憑依している! つか、どうする!?)
(3秒後に踏み込む! 聖水準備!)
(了解ちゃん!)
(3……2……1……GO!)

 継紗と想夜は意を決し、身分証を呈示しながら中に踏み込んだ!

「フェアリーフォースだ! 手を頭の後ろに回して床に伏せろ!」

 継紗の後ろに想夜が続く。ワイズナーの矛先を沙耶に向け、左右から挟みこむように距離を詰めてゆく!


キャビネットの向こう側


 ――流船駅前。
 御殿のインカムが声を傍受した。
『――ザッ。こちら小動。応答願います!』

 声の主は継紗だ。絵画の出口付近まで来ているらしく、息切れがひどい。何度も連絡を入れていたようで、ようやく連絡がついた感じだ。

 御殿がインカムにささやく。
「こちら咲羅真。そちらの状況を報告せよ」
『――ザッ。絵画の出口に向かってます! 負傷者、小動、雪車町、神城静也、神城沙耶、以上の4名! 死霊の群れに追われてます!』
「了解。神城博士と沙耶さんを救出したのね。死霊のおおよその数を報告してちょうだい」
『――ザッ。死霊、暴魔、合わせて約300、いや400! 徐々に増えてます、どうぞ!』
「了解。狙撃準備に入る。各位、狙撃準備。狐姫、社長室に向かって」
「ほんじゃ、かる~く暴れてきますか」

 狐姫はかるく屈伸すると、大きくジャンプして中央通りを飛び越え、レプラの窓を突き破って社長室に突入する。散乱した窓ガラスとともに、床をゴロゴロと前転しながら着地した。

「うえーい、着地成功~」
 瞬時に立ち上がって袴についたガラス片をはたいた。
 それを見届けた御殿が継紗に指示を出す。
「流船駅前、総員配置についた。悪魔退治はこちらに丸投げしていいわ」
『――ザッ。了解。それと神城沙耶が死霊に憑依されています。憑依した妖精は雪車町が帰界処置を施しました』
「沙耶さんは妖精と悪魔の両方に憑依されていたというの?」

 継紗の言葉に耳を疑う御殿。予想はしていたが、少女ひとりが背負う役目としては重すぎる。

「わかったわ。沙耶さんに憑りついた悪魔はわたしが何とかする。どのくらいで出てこられる?」
『――ザッ。もうすぐです……今、絵画の出口に着きました、今想夜がキャビネットを押し出してます。これから脱出します!』
「了解。社長室に出たらなるべく床に伏せていなさい。3方向からライフルの弾が飛んでくるわよ」
『――ザッ。了解しました』

 御殿がライフルを構えてスコープを覗くと、額縁に引っかかったキャビネットがガタガタと揺れているのが見えた。絵画の中で想夜がキャビネットを押し出している最中だ。そうして大量の死霊を引き連れてくる。

「さあ、出てきなさい死霊ども――」
 御殿は吸い込んだ息を止めてトリガーに指をかけた。


ソレイユの正体


 神城静也、沙耶、ソレイユ――恋音にはそれがすべてだった。あたたかな食卓。争いなき食卓。笑い、慈しみ、そうやって時間を紡いで行く。神城家での生活は、まさしく理想のそれだった。

 守るべきもの。
 命に代えても守るべきもの。
 それが他者と紡ぐ温もりの時間とうたうのならば、命を差し出す価値は十分にある。恋音はそう思うのだ。

 炎の向こうに玉座があり、そこにでっぷりとした巨体がふんぞり返っていた。
「獅子ぉ、遅い遅い遅お~いぃぃ。待ちくたびれたぞおぉ」
 金盛がまとわりつくようなネットリ声で恋音を叱責する。

 恋音が懐からファイルを取り出した。
「お目当てのものを持ってきた。神城と沙耶はどのあたりにいる? おおよその居場所くらいは分かるのだろう?」
「まあそう急かすなぁ。ファイルの件は二の次。ワシが今一番欲しいものはなあ……」

 どっこらしょ。金盛は玉座の手すりに手をかけると、重い体を起こした。ようやく立ち上がると、のっしのっしと足を引きずりながら遠くの廃墟を指さした。恋音もそちらに目を向ける。

 金盛は、まとわりつくようなロレツで言葉を発した。
「あそこに、町が見えるだろう?」
 金盛が指さす方向に恋音が視線を向けた。
「流船駅前に似ているな。あのあたりに神城と沙耶はいるんだな?」
 金盛がとたんに憤慨する。
「急かすなっつってんだろメスガキがぁ! ワシがここの王なんだよ! ここではワシが一番偉いんだ! 偉いと言ったら偉い! 偉いエラいエラいエラいエラいいいいいい!」

 ヒステリックに罵声を浴びせてくる。ブラック元上司、絶賛血圧上昇中。それを目にした恋音が吹き出した。

「部下なんてひとりもいないじゃないか。まあ、小生が全員半殺しにしといたからここに来られるはずもないがな。絵画の中でも、どうせ死霊が怖くて自由に歩けないのだろう? それで神城を探せなかったんだな? とんだチキン野郎め。いや、チキンじゃなくてブタかな?」

 金盛のこめかみがピクリと動き、血管が浮き出る。その後すぐに冷静さを取り戻し、不敵な笑みを作った。

「ふん、まあいい。まずはおまえにこれをくれてやろう」
 金盛が白い毛並みの大型犬を乱暴に放り投げてきた。
 恋音の足もとにサモエドが落下する。
「おまえの探しているゴミはそれじゃないのか?」

 恋音はそれを目にしたとたん、一気に血の気が引き、次に全身の血液が沸騰する感覚を覚えた。

「ソレイユ!」
 そうして横たわるソレイユに覆いかぶさるよう跪いた。
「しっかりしろソレイユ、迎えにきたぞ」
 息はある。そして心臓も動いている。瞼を半開きにしながら恋音に視線を送り、ペロリ、ペロリと力ない舌で恋音の頬を撫でるのだ。
「ソレイユ、もうすぐ神城たちの家に帰してやるからな」

 そこで金盛はソレイユを指さした。
「ところで獅子ぉ、その犬ころの体内には何が隠されているか知っているかぁ?」
「体内? 何のことだ!?」
 キッと睨みかえる恋音に、金盛は答えた。
「その犬の中には八卦のデータが組み込まれている。ワシがどんなにどおおおんなに探しても見つからないはずだぁ。神城は八卦のデータを犬のDNAストレージに保存していたのだからなあ。しかも八卦の力を発動させることなく、ただデータを保存している状態に留めてある。誰にも見つからぬように、誰にも観測できぬように。それはまさしく天才の成せる技だあ」
「ソレイユの中に、八卦のデータが……?」
 恋音は腕の中のソレイユを見下ろした。

 火を司る八卦のデータは解放されることなく、ソレイユの細胞の一部に記録されていた。つまりソレイユがデータの格納庫だったのだ。そして神城静也は、そのデータを取り出す術を知っている。

「妖精のデータなんて体内に取り入れたら無事じゃすまないのでは……?」
 恋音の疑問に金盛が答えた。
「それは犬であって犬ではない。妖精界からやってきたクー・シーだ。」

 クー・シーとは犬の姿をした妖精。牛のように大きな犬であり、妖精たちの番犬とされている。獲物を狙う時は吠えることをせず、すさまじい唸り声をあげるのも特徴の1つだ。

「ソレイユが、妖精クー・シー?」
「放浪の旅を続けていたようだが、先日のスペックハザードで戒厳令が発令された際、町から出られなくなった野良犬だあ。もともと神城の家に居座り続けていたから、町を出るタイミングを見誤ったのだろう。大人しく生活している妖精かと思えば、ソイツがとんでもないクセモノだった。襲撃者を近づけない結界を作成するハイヤースペックの持ち主だったんだあ。そのため、そちらから出てきてもらわないと神城には近づくことができなかった。これには手を焼かされたものだ」

 そこで金盛は沙耶に妖精を憑依させ、沙耶自ら行動を起こすように促した。悪霊より妖精を憑依させたほうがソレイユに気づかれにくいし、ソレイユの張った結界から出してしまえば、すべては金盛の思うがまま。それには多くの人間を利用しなければならない。金盛は神城を拉致するため、沙耶ひとりを妖精に感染させるため、あらゆる手段を使い、多くの人材を奴隷のように使った。

 火の八卦は、絶大な力を有する。それだけで国を支配できる。世界を手中に収めようとする金盛にとって、これほど欲しい力はない。
 とはいえ、まずは神城を手に入れなければならない。
 そこで考えたのが、結界を丸ごと飲み込むくらい大きな赤霧を発生させて、絵画の中に閉じ込める方法だった。だが、赤霧の発生には暴力祈祷師の血肉が必要。よって金盛は、いたる場所から暴力祈祷師たちをかき集めた。

 ソレイユの結界を無効化するため、そして火の八卦を手に入れるべく大量の赤霧を発生さる悪魔の所業――多くの命は絵画という火室に投げ込まれ、多くの暴力祈祷師たちが犠牲となり、その血肉は赤霧へと変えられたのだ。

 ――そうして金盛の企みは成功した。
 だが金盛には誤算があった。それは絵画の中に取り込んだ神城の行方と死霊の数だ。こいつらは金盛の社員でも奴隷でもない、知性のない悪魔たちだ。故に多数で金盛に襲い掛かってくる。神城の探索に時間がかかっていた金盛は、探索できない自分の代役として恋音の存在に目をつけたのだ。

 恋音は愕然とした。
「こんなにも多くの暴力祈禱師が犠牲に? 小生ではなく、ソレイユが神城と沙耶を護ってくれていた……?」
「おまえは、なああああんにも知らないんだなあ獅子お。おまえが神城親子を守っていたのではない。ただの犬っころが結界を張って守っていたんだ。それに引きかえおまえは何の役にも立たねえウスノロ野郎だなあ、バカバカ優等生の獅子恋音んん!」
 金盛は恋音を指さし、プギャーと爆笑した。

 バカにされることなどどうだっていい。実はソレイユがいたから神城親子に危険が及ばなかった。恋音はボディーガードとしてはただのお飾りだった。それもどうだっていい。今はただ、すぐにでもソレイユに治療を施したかった。そのためなら多少のことはガマンできる。何を言われても、どうということはなかった。

 恋音はソレイユを丁寧に寝かしつけると、ゆっくりと立ち上がった。
「――わかった。神城を見つけてソレイユからデータを引き出してもらう。それをおまえに渡せばいいんだな?」

 火の八卦が手に入れば金盛は満足――恋音はそう思っていた。だが、そうではなかった。

 金盛が分厚いタラコくちびるを歪ませた。
「獅子ぉ、おまえは色々知り過ぎだあ。二度と歯向かえぬよう、ここでワシに忠誠を誓え」
「忠誠だと?」
 表情を歪ませる恋音に、金盛は黒い笑みを浮かべ、次の言葉を投げつけるのだ。
 
「今ここで、クー・シーの体内から八卦のデータを取り出せ。体のどこにあるは知らん。四肢を引きちぎり、腹の中を手で探りながら、ゆっくり、そう、ゆうううううっくりと解体するんだぁ」
「ふ、ふざけるな! 気でも狂っているのか!? だいたい神城じゃなきゃデータは取り出せないだろ!?」
「チッチッチッ。神城なら犬の臓物からデータを取り出すくらい造作もないこと。心配はいらああああん。ワシはおまえが泣き叫びながら解体するところが見たいんだあ」

 目の前にいるこいつは悪魔か? 金盛を見る恋音は、その言葉を飲み込んだ。何故なら、目の前にいるこいつは悪魔だからだ。

 金盛は妖精なんかじゃない。
 こいつは、正真正銘の悪魔だ――。

 何もできないで、ただ歯を食いしばり、握りしめた拳はその行方を決められぬまま――無力の塊。それが今の恋音だった。

 手足の出せない恋音をおちょくるように、金盛は次々と言葉を投げつけてくる。
「早く犬を嬲り殺せっつてんだろウスノロビッチがあ! てめえがクソ垂れてる時間なんてキョーミねーんだよメスガキ! とっととワシに泣きっ面をさらしやがれボケェ! 渡す時には跪いて命乞いをしてションベン垂れ流しながら靴を舐めやがれ! 神城と娘の命がかかってんだろ!? 神城と娘を取り戻してぇんだろ!? ならさっさとしろや、分かったかバカヤロウ!」
 勝利を確信したブタ上司は言いたい放題、やりたい放題。悪魔の本性は、相手の苦痛を味わうところにある。

「くっ……」

 恋音は下くちびるを噛み、拳を握りしめた。思考も停止し、どうすることもできない。
 ソレイユの命を取るか、神城と沙耶の命を取るか。
 選択が迫られる――。

 その様子を、ひとりの少女が岩壁の隙間から覗き込んでいる。
「――見つけたの。玉座の横に壺もおいてあるの。アイツ嫌いなの。とってもとっても悪いヤツなの」
 リーノは背中のワイズナーに手をかけ、金盛の隙を伺っていた。


 次回へつづく――。