9 ディアボロス
想夜たちがミネルヴァに転送された後のこと。メイヴの肩に一匹、掌サイズの妖精が舞い降りて耳打ちをする。
「――なに? ……そうか。分かった」
妖精は役目を終えるとその場から消える。
「――おい、愛宮の令嬢」
メイヴが叶子に声を投げ、静かに告げた。
「すまぬが弁当を買ってきてはくれぬか? 腹が減ってきた。血の滴るコッテリした肉がよい」
叶子が眉をひそめた。
「こんな時になに悠長なことを言っているの? まさか私と華生を残した理由はそれじゃないでしょうね? 食事なら自分で買ってきなさい」
「女王メイヴ、貴方はご自分が何を言っているのか分かっているのですか?」
叶子を辱め、尚も馬鹿にする言動。大人しい華生でさえ怒り心頭。
それでもメイヴはヘラヘラしながら口を開いた。
「話はあとじゃ。急がなければ死体が増えるぞ? ババロアはこちらの戦力分散を狙っておると先ほども話したはずじゃろう」
「戦力分散? どういうこと?」
メイヴは叶子を真っすぐに見つめてこう言った。
「昔、ここの厨房で金髪の青年が働いていたであろう。そやつの店にババロアの手下が向かっておるとの情報を部下が入手した。晴湘市の生き残りだそうだ」
「なんですって!?」
叶子が驚きのあまり声を荒げた。
「華生、そんな人が愛宮邸の厨房で働いていたの!?」
華生は首を大きく横に振った。
「いいえお嬢様、そのような人物は存じ上げません」
華生は何年も愛宮邸に勤めている。それらしい人物がいたら気付くはずだ。けれど髪を染めている社員は多いし、晴湘市の過去を話していた人物はいなかった。
それをメイヴが補正する。
「青年の名は咲羅真調太郎。 ……はて? どこかで聞いて事ある姓じゃな……どこだったかのう? 春夏秋冬、季節が巡る度に忘れっぽくなる」
幼女になってから物忘れが酷い(笑)。
(咲羅真調太郎……まさか――)
彩乃が大きく息をのんだ。
「貴方のわざとらしい態度は置いておくとして。咲羅真? ……御殿と関係がある人?」
叶子の問いに華生はさらに大きく首を振った。
「いいえ、お嬢様。そのような名前の方はおりませんでし――」
そう言いかけ、ハッと口を閉ざした。
「……ま、まさか!?」
「うむ。偽名じゃよ。ババロアから身を隠すように生きてきたらしい。ずっとずっと、殺されまいと、怯えながら生きてきたのじゃろう。さぞつらい日々だったろうて」
「なんてことなの……」
身近に苦しみの日々を送っていた人物がいたことに気づかなかったこと。それが叶子と華生の胸をしめつけ、表情に陰りをおとす。
「そんなに暗い顔をするな。訳アリ人間をここで働かせているお主の優しさ、それが彼を救っていたのもまた事実」
行き場を失った従業員たちをここで働かせてもらうよう、いつも祖父の
「お褒めの言葉、感謝するわ」
まさか自分を
「それはともかく、なぜ調太郎さんはババロアから逃げるの?」
ふむ……。メイヴは顎に手を添え考えた。
「ババロアにとっては生きていてもらっては困る人物のようじゃな。ひょっとしたらババロアが知られたくない情報を知っているのかも知れんぞ?」
「調太郎さんが何かを知っているですって? いったい何を知っているというの?」
「ババロアが必死になって殺したいほどの人物。さぞ重要なことじゃろう。あとはご本人に聞くことじゃな」
メイヴはドカッとソファに身を預けて寝そべり、プレプレβを取り出した。
「ワタシは雪車町たちをここに戻すために力を温存させねばならない。しばらく待機させてもらう。もう少しで中ボスが倒せそうなんじゃ。このっ、このっ」
うつ伏せになり、のんびりとゲームを始める。
目の前で余裕ぶっこいてる女王の姿を見ては、少しだけ心強くなる叶子。
「分かったわ。買ってくるのは暴魔のステーキ弁当でいいかしら?」
「うむ。なかなかマズそうじゃな。期待しないで待っているよ」
ケタケタ笑うメイヴ。
叶子もニヤリ顔を返しながら、華生と小安に声をかけた。
「華生、調太郎さんの所へ向かうわ。準備をしてちょうだい」
「かしこまりました、お嬢様――」
華生が深々頭を下げる。
「小安さんは車を玄関に回してちょうだい」
「かしこまりました、お嬢様――」
1分後、愛宮邸から一台のリムジンが弁当屋へと向かった。
消えたくない
日々の暮らしの中で、誰にも攻撃されずに身を潜めている奴を見たことはないか?
波風立てず、ただ流されるようにフラフラと己を捨てている奴。
敵を作らないためだけに命をかけている弱者。
ネットの中にもいるだろう? 匿名で言いたい放題の評論家気取りの連中。
自分で何かを生み出すこともせず、ただ言いたいことだけを並べている。
世間の言いなり。政府の言いなり。
自分で牙を抜いた、戦うことをしない奴ら。
説教だけは一人前の奴ら。
ただジッと物陰に隠れ、ビクビクしながら小石を投げ続けるだけの存在――。
目立たないことはとても楽だ。誰にも構ってもらえないということは、誰からも必要とされていないこと。即ち、味方もいなければ敵もいない。
――とても楽な道。
されどされど、楽な道は筋力を弱らせる。道の選び方ひとつで、人も妖精も日に日に力が衰えてゆく。楽な道には力が必要ないからだ。
そうやって楽な道を選び続けた結果、ある日やってくる急な坂道で行き止まりになる。坂を登れない者にとって、そこは道ではなく行き止まり。
つまり、そこで野垂れ死ぬ――。
汝はこの坂を登れるか?
――そう問われた時、人は何と答えられるだろう?
文句を垂れながらも坂を登れる奴はまだいい方だ。が、その文句は女神には届かない。大抵は己の耳に返ってくるもの。過去の己に悪態をつくのだ――「どうしてこんな事になっちまったんだ!? 過去の自分を呪うよ」と。
後からやってくる別の誰かに背中を押してもらって助られたところで、その先にもまた坂は存在する。結局は坂を登らなければならない。
後からやってくる誰かを待てばいい?
また背中を押してもらえばいい?
さらにその先、さらにさらにその先にも坂はやってくる。
その先は? そのさらに先は? ――幾度となくやってくる坂道。平坦な道の先には必ずあるもの。そこを登れるだけの筋力は、日々の中に鍛えるチャンスが転がっている。危険な道を歩いている奴ほど、死と背中合わせに生きている奴ほど、小さな坂道はどうということはない。
身を潜めるように生き続け、やがてどこかで朽ち果てるのもまた一興。その者が選んだ道ならば、それが正解なのだ。
けれど、そいつは坂道を前にして、死ぬ。それに変わりはない。
後から来た者たちが、そいつの死体を踏みつけてゆく。
それは正解?
それは
春夏はずっと目立たない存在だった。
ステルス能力を使わなくとも、目立たない子だった。
争うことが苦手で、友達との喧嘩も避けてきた。
ステルス性能も手伝って、戦うことを放棄して来たのだ。
ごめんなさい、これからは必死に戦います――そう言ったところで、もう坂道は待っちゃくれない。容赦なく弱者に襲い掛かるんだ。
「――これからお前の心臓を取り出す」
坂道がやってくる。
坂道に食われる――。
身を挺して想夜を庇った時、目の前の坂道は登れないのだと春夏は気づいた。悪魔には勝てないと気づいた――諦めである。それに反して死への恐怖もあるのだから欲張りな娘だ。死ぬことが怖いクセに、何かに挑んでは、いざという時の保険も欲しがる。人も妖精も欲張りだ。
ひとつ、確かなことがある――恐怖を睨みつけることにより、誰しも底知れぬパワーが生まれ、坂道を登る術を得るということだ。その味を知る者ほど、恐怖を家畜ととらえる。まるで弱いものイジメをするかの如く、恐怖に対して大きな態度を見せるのだ。
春夏は妖精界に帰った母を想っていた。
(お母さん。私、死んじゃうの? 消えたくない。消えたくないよ……)
ずっと消えてきた女の子が「消えたくない」と思った。ステルス機能を持っても尚、消えたくないと願った。
その願いは、叶うのだろうか?
柏木が口を開いた。
「麻酔は使わない。苦痛に満ちたお前の顔が拝めないからな。俺は子供の悲鳴が大好きだ。口の中に含んだイクラがプチプチと弾けるように消えてゆく、あの時の感覚がまさにそれ……最高の美味だとは思わないか?」
無表情でヌメヌメとしたツラを見せる。死ぬ者にとって麻酔は意味無きもの。誰も食用の牛や豚に麻酔を施すものはいない。柏木の場合、それを楽しんでいる。
「それじゃあ、始めようか――」
柏木の手にした刃物、そこに映った怯える自分の姿――それを見て春夏は思うのだ。刃物は私の存在を映し出してくれる。そして、これから私を世界から消そうとしている意地悪な存在なんだと。
そうやって武器を手にした者たちに嫌悪感を作り出してゆく。
消えていればそれで済む、
目立たなければそれで済む、
出ない杭は打たれない、
そんなの全て……まやかしだ。
大人しくしていても、いつかは食われる。食い殺される。
(こんなの……こんなの、イヤ――)
イヤならば……精一杯抗い続けなさい――。
春夏の心の奥底に響く声。今、それに耳を傾ける。
春夏よ、目と閉じていても何も変わらないぞ?
何もしなければ、ずっとずっと、昨日のまま。
それが嫌なら、恐怖に立ち向いなさい。
新たな自分を見たいなら、恐怖に立ち向かいなさい。
今、この瞬間が坂道だ。もはや、逃げも隠れもしない。
――ガブリ。
恐怖で涙しながらも、春夏は柏木の腕に噛みついた――。
VS 柏木
「――ふむ。やはりロックがかかっているな。ドアは防弾ガラスか」
本社の入り口。朱鷺は自動ドアが開かないと分かると、その隙間に絶念刀の矛先をすべりこませた。
スッ……。
滑り込むように刀がドアに飲み込まれ、ロック装置を斬り落とした。
ドアをこじ開け、中へと入る。
ジリリリリ!!
警報器が響くが、配線に小太刀を投げつけ黙らせた。
警報が鳴り止み、シンと静まり返るロビー。
「おかしい。人の気配がないではないか……」
ミネルヴァ本社は薄暗く、もぬけの殻。受付はおろか、残業する社員、肝心の警備員までも姿が見えない。
「まったく、どいつもこいつも何をしているのだ」
斬らずに済んだのが幸いだ。が、所詮やってくるのは暴魔だろう。
『ミネルヴァ侵入、成功』――携帯端末を取り出し、御殿に状況を知らせた。
ロビーを抜けて奥へと進んでゆくも、誰もいない監視室を見ては「ここもか……」と悪態をつき、暗い廊下をひたすら進んでいった。
「人払いの術でも施されているのか? まさか、全員悪魔に食われたわけではないだろうな」
社員の確認ができない時間が続くほど、朱鷺が心に描いた不安が確信へと近づいてゆくのだ。
会議室へと続く廊下に差し掛かる。
「ん? 散らかっているな」
最初は書類が無造作に散りばめられた光景にも見えたが、そうではなかった。
壁一面ビッシリ、隙間なく張られた無数の札。
「これは……!?」
人払いの札。想夜と御殿が学園で暴魔に襲撃された際、狐姫が貼っておいたものと同一のもの。
「やはり。これが原因だったか」
札を剥がそうと手を伸ばすが、この状態を保っていれば建物には人は近づかないはず。結局、そのまま残すことにした。
「ここに春夏がいるというのか?」
ミネルヴァという怪物の腹の中、風の八卦は胃液に溶かされてゆくような感覚に襲われた。
すぐ目の前、中央に設置された扉。その先には広い会議室が設けられている。
朱鷺は巨大な観音開きの扉を開け、中へと入っていった。
目の前に広がる空間――椅子も机も端にどけられ、会議室の中央だけが広く使用できるようになっている。
そこでは目を疑う光景が――。
中央に胸がはだけた春夏が横たわっている。腹を切り裂かれて、臓物をぶちまけていたという惨事はまだ起こっていないようだ。
春夏の手前、スーツの男が朱鷺に背を向け立っている。
「柏木! その娘から離れろ!」
朱鷺の声に、柏木はゆっくりと振り返る。
「早かったな。もう少しゆっくりでもよかったんじゃないか? 侍風情が――」
柏木は笑うでもなく、怒るでもなく、手にした解体用の刃物をぶら下げ、朱鷺を見据えて答えた。
「ここに足を踏み入れることを許可した覚えはないぞ? 叢雲朱鷺、いや……風の八卦か」
柏木は右手を抑えながら苦痛に悶えており、そこには少量の出血が見られた。
「このガキ、大人しくしていたと思ったら、いきなり噛みつきやがって……」
横たわる春夏の頬が微かに腫れ上がっている。柏木に抵抗したために思い切り殴られたのだ。
「春夏!」
朱鷺は柏木に視線を移し、殺意満々で睨みつけた。
「貴様……、やはり多くの子供たちを誘拐して臓器を!?」
朱鷺が低く身構えて絶念刀に手をかけた後、柏木は何度もゆっくりと頷いた。
「察しがいいな……ああ、そうだ。子供たちは新鮮な臓器を運んでくれる天使さ――」
予感は的中。
柏木は当然の如く答えた。
「ミネルヴァは児童の臓器売買を手がけている――」
朱鷺の嗅覚が柏木を拒絶した。
「この臭い……柏木、貴様……人ではないな?」
そう問われた柏木。春夏の胸に指を当て、
「――御社相談役のバロア・フォンティーヌを知っているな?」
朱鷺はそう問われ、相談役の顔を思い起こす――先日のテレビ出演においてモニター越しに目にしたが、どれほどの権力を握っているかは分からない。ましてや相談役ともなれば、企業にとっては老害だのお荷物だのと、いい話を聞かない。そもそも全国の相談役が何を目的として存在しているのかさえも怪しい。
「企業の甘い汁を
朱鷺の挑発を耳にした柏木は鼻で笑い、不敵な笑みを作った。
「どうしたもこうしたも……彼女もお前と同じくハイヤースペックの所有者。それも生粋の妖精だ」
「なん、だと!?」
朱鷺の目がカッと開く。
柏木は会議室を往復するよう、ゆっくりと歩き回り、自慢気に話を続けた。
「バロアの能力はなかなかのものでな、魔族はおろか誰もが欲しがる力を持っている。対象者の意思に関係なく
「魔軍を、意のままに操る……だと?」
「無論、それだけではない。命無き物体さえも、操り人形のように操ることができる。言わば軍隊作成機能の持ち主。そこに命というカテゴリーは存在しない」
ウイルスに感染させた多くのホストコンピューターはボットネットというリンチ攻撃用ネットワークを形成できる。トリガー一発で感染者に命令を投げることができ、ターゲットとするサーバーにリクエストを送り続けることでダウンさせることが可能だ。ITではこれを
「つまるところ、バロア1人で戦争を起こすことだって可能だ。我々の長に君臨するに相応しい、それだけの力の持ち主なのさ」
柏木は続けざまにこう言った。
「――それが地獄の妖精だ」と。
朱鷺は今にも襲い掛かる勢いで柏木を真っすぐ睨みつけて問う。
「何年か前に晴湘市で奇妙な事件が起こった。子供たちが押し寄せる『逆ハーメルン事件』だ。子供たちの体内には蟲が感染していたらしく、菓子を与えたらウソのように正気に戻った。子供たちの感染元はバロアのハイヤースペックということか? 晴湘市の子供たちを感染させたのは貴様らの仕業だったというわけだな?」
柏木は小バカにしたように、ゆっくりと頷いた。
「――ああ。そうすることで、子供たちは騒ぐこともなく、文句ひとつ垂れることなく、群れで移動する。もっとも、どこかの侍のご活躍で、子供たちに感染した蟲は全て駆除されてしまった。おかげでバロアの計画はパーだ」
柏木は恨めしそうに絶念刀を見つめた。
朱鷺は絶念刀を引き抜き、ギラリと光る
「バロアの目的? 教えてもらおうか。ここで全て吐いてもらうぞ」
「よかろう」
柏木が片腕を真横に上げて演説をする。
「子供たちの血、それこそがゲッシュの扉を開くための鍵となる」
「ゲッシュ? ゲッシュ界のことか?」
「そうだ。ゲッシュ界と魔界は非常に相性がよく、互いにトンネルを掘ることで通路を構築することができる。だが大昔の祈祷師たちがゲッシュ界を封じておくための聖域として、いくつかの街を建設した。そのひとつが晴湘市。言わば井戸の上にある邪魔な石だ」
晴湘市そのものが、祈祷師たちが作り上げた巨大結界だった――。
「多くの子供たちの血を以ってして結界は崩れる。だが邪魔な晴湘市が存在している限り、我ら魔族は人間界の制圧に時間がかかる」
「生贄儀式の失敗かい? そりゃあ気の毒だったな。諦めて実家に帰れ。おふくろさんも泣いてるぜ?」
朱鷺の挑発に対し、柏木は微動だにしない。
「想定外の事態の末、逆ハーメルン事件は失敗に終わり、当初の計画を変更した。晴湘市の各ポイントに汚染エーテルを凝縮した容器を打ち込む計画さ」
「土地に容器を打ち込む、だと?」
「汚染エーテルは時間経過とともに
植物を植えた土に栄養ドリンクをさす要領で汚染エーテルは浸透してゆく。こうしている今も、晴湘市は徐々に汚染され続けているのだ。
「――なるほど。この先、てめえらがゲッシュ界で立ち回るには、八卦が欲しくなるわけだよなあ?」
「確かに八卦を揃えたいところだが、なかなかうまくいかないこともあるものでな……」
自慢気だった柏木の表情が途端に変わる。
「……とあるオークションに風の属性データが出品された」
「オークション、だと?」
朱鷺が顔を歪ませた。柏木の言葉に大袈裟なほどの反応を示したのだ。
「オークション会場では、あらゆる企業が多額の金をつぎ込んだ。が、一人の娘が提示した金額には誰も勝てなかった。兆に手が届く金をどうやって手に入れたのかは、もはや問題ではない。問題なのは娘が手に入れた八卦のデータがどこに消えたかだった」
ミネルヴァが総力をあげ、あらゆる手段を用いても風のデータは見つからなかった。
「ある日のこと、我々はやっとのことで神威人村の存在を突き止めた。住人をかき集め、ひとりひとり一滴の血も残さずに搾り上げていったが、誰一人として口を割る者はいなかった」
朱鷺の表情が見る見る鬼のように変わってゆく!
「おのれ……やはり村人を襲ったのは貴様たちだったのか!」
柏木は朱鷺の言葉を無視し、話を続ける。
「ようやく風のデータがどこにあるのかを突き止めたものの、それは
そう、風の力は……朱鷺を選んだのだ。
(夢――)
朱鷺の脳裏に声が聞こえた――。
『隠すんじゃなくて、託すの。
兄さんに――』
一匹の侍の存在が知れ渡れば、風の力は地獄の妖精の手に落ちるだろう。そうなるまでに風の八卦を覚醒させなければならない。
村人一丸となって一匹の侍は隠され、やがて風の八卦が誕生した。
叢雲朱鷺は……日本が誇る侍の村、神威人村の魂たちによる、愛とテクノロジーの結晶だ!
朱鷺の中であらゆる答えがでた。
「そうか……そうかよ。拙者は消されたのではなく、村の人々に守られていたのか……」
村に伝わる宝刀のよう、朱鷺は大事に大事に扱われてきた。その事実を知らないのは、朱鷺だけだった。
柏木は余裕の表情を朱鷺に向けて言った。
「もっとも、貴様の死体を持ち帰れば、それで事が済む。新しく作成した蟲は強烈だぞお? 簡単には駆除できない。ミネルヴァが所有する風の八卦の誕生だ。ふはっ、ふははははは!」
朱鷺はシトラススティックをペッと吐き捨て、絶念刀を構えた。
「いいぜ。村人の仇――貴様らの計画共々、拙者がここで斬り捨てる!」
「はははははっ、面白い。這いつくばったお前の前で、この娘を解体してやろう」
柏木は後ろで横たわる春夏を一瞥すると、
「それじゃあ…………殺し合いといこうか」
両手を前に差し出し、殺気立つ朱鷺を迎え入れた。
「風の八卦よ、地獄の苦しみ、とくと味わうがいい!」
「いざ、参らん!!」
心臓摘出
株式会社ミネルヴァ重工――。
会議室に黒い霧が現れ、その中から想夜たちが現れた。
「成功したみたいですね」
想夜が周囲を見渡すと、フロア一面に巨大な陣が形成されている。
「こんなところに吸集の儀式が!?」
想夜の後ろから御殿が声をかけた。
「おそらくここからエーテルポットに汚染物質を流し込んでいたのでしょう。これを破壊しなければ、またどこかが汚染されてしまうはず」
御殿が陣に近づこうとした時だ。
「おい、あれを見ろ!」
狐姫が指差す方向に一同が目を向けた。
「春夏さん。まだ無事みたいね」
その間近で朱鷺と柏木の戦闘が続いており、火花を散らしまくっていた。
絶念刀を素手で引っかくように弾き返す柏木。誰がどう見ても人間技ではない。
御殿が銃を引き抜き、柏木の後頭部にレーザーサイトを当てた。
「――柏木、その子から離れなさい」
ゆっくりと近づいてゆく御殿の足音が室内に響くなか、柏木が振り返る。
「暴力エクソシストか。フン、とんだ邪魔が入ったな。それに、そっちの娘は先ほどのエーテルバランサー。こんなチビ助に任務を与えるとは、フェアリーフォースの人手不足も深刻だな。おっと、確かクビになったんだよな?」
想夜は微塵の恐怖も感じることなく一歩前に出る。背中のワイズナーを引き抜くと、矛先をまっすぐ相手に突き出した。
「歳なんか関係ないわ。あたしの知ってるフェアリーフォースは志高き者の集う場所。小さい子からお爺ちゃんお婆ちゃんまで、妖精たちは人間界をずっと見守ってきた。クビになった今でも、そしてこれからも――」
春夏の母が言ってくれたように、フェアリーフォース全体が悪に染まっているわけではない。そのことを想夜は知っている。
リハビリの甲斐もあり、右手もいい塩梅だ。それもこれも人間たちが知識と技術を用いて手引きしてくれたおかげである。
「威勢がいいのは恐怖を知らない証拠だ。気の狂うような苦痛を知れば、誰しも自ずと魔界の前に跪く……」
柏木は語り掛けている途中、しかめっ面をつくり、忙しなく鼻を働かせる。
「――この感じ。先ほども気になっていたのだが、やはり鬼の匂いがするな。キサマ何者だ? 本当にフェアリーフォースなのか?」
想夜は余裕の笑みを浮かべて答えた。
「ええ。あたしは元エーテルバランサー、雪車町想夜。列記としたフェアリーフォースの一員! ……だった戦士よ!!」
威勢がいい奴にはもう一つの理由がある。それは苦痛を乗り越えているということ。地獄の底を這うような痛み、苦痛、激痛――藍鬼と化した想夜は、それらをすでに経験している。「痛いよ、苦しいよ……」、そうやって泣き叫んでいた時間さえも、今では想夜に味方してくれる。
ゲッシュの苦痛を乗り越えたことで、その力は想夜自身の味方となり、鬼神も慄く存在として君臨させているのだ。
「ふむ。ゲッシュか……呪いの力を以ってして、妖精が鬼になったというわけか。ならば貴様は魔界に連れてゆく。そこで仕事をくれてやろう」
部屋中に柏木の笑い声が響くなか、狐姫が割り込んできた。
「ほお~、おもしれえじゃねえか。やって見せろよハゲ頭」
想夜の前に立ち、指をボキボキ鳴らしてケモ耳を尖らせる。
戦闘態勢に入った狐を前にし、笑い声がピタリと止んだ。
「ふん、人間に肩入れした獣か。どれ、魔界への手土産にキサマの首もいただくとしよう。まずは耳をむしり取る。次は尻尾、目玉、剥がせるものは全て剥がし取り、メインディッシュは心臓といこう。それとも脳か? 選ばせてやる」
「テメーが無事に魔界に帰れる余裕があるなら、俺のゲーム機ごと持っていってもいいぜ? セーブデータもくれてやんよ。無論、ここでテメーを始末してやるがな!」
ズビシィ! 狐姫が柏木を指さした。拳の向かう先はとっくに決まっている。勇敢な男の子のボディーブローを預かってきている。
ここは魔族のテリトリー。会話だけでもジワジワと体力を削られてゆく。制限時間は、たったの5分。それまでにケリを付けなければならない。
ディアボロス戦
「それでは……はじめようか――」
柏木が一言発した途端、建物の外が皆既月食のような暗闇に覆われる。窓ガラスに墨汁をぶっかけられたように視界が途絶え、蛍光灯がバチンッ、バチンッ、とはじけ飛び、スパーク音を連発させる。
スーツがグニャリと歪んで薄いゴム板のように伸び、柏木を包み込んだあと真っ黒に染め上げた。
「柏木の顔が……!?」
顔の一部から徐々に墨汁で染まってゆく。黒い粘土を捻じったように顔が変化し、鼻と口がはヤギのように尖り、目幅が横に移動してゆく。そうやって貧弱ながらも、決して細さを感じさせない、ほどよい筋肉を披露した。
コウモリのように尖った、大きくて黒い羽を背に宿し、黒き悪魔が腕を組んだまま宙に浮く。
ガスマスクを被ったような、こもった声。耳をつんざく不快な重低音が周囲に響いた。
「この姿になるのは晴湘市の宴以来――。いささか人間の姿では窮屈すぎる。軟弱すぎる」
狐姫が声を荒げて指をさす。
「おまえ、ただの悪魔じゃねえな? 何者だ!!」
目の前の黒き悪魔が歯茎をむき出してニヤリと笑い、名乗りを上げた。
「我が名はディアボロス。地獄の使い。スカウトマン、魂を地獄に導く者。地獄の妖精を支持する者――」
「ディアボロス……」
暴力エクソシストの御殿が呟いた――正真正銘、地獄に生息する悪の化身。
「スカウトマン……」
元フェアリーフォースの想夜が呟いた――目の前にいるのは、多くの戦士を地獄に導くための存在。かつては叶子も、その手に堕ちるはずだった。
「我ら魔界は妖精界と手組んだ。そして――」
ディアボロスは両手を広げて天を仰いだ。
「やがては、我々が妖精界をも支配する存在と成るだろう――」
悪魔は妖精を糧にのし上がる。結局それが狙いだ。
朱鷺は半身になって中腰の姿勢で構え、絶念刀に手をかけた。
「斬っても斬ってもビクともしねーワケだ。ついに正体を現したか柏木、いや……魔界の使者よ――」
「いいぜいいぜえ~、その腐った根性! 焼き甲斐があるってもんだぜっ」
狐姫も朱鷺に倣い腰を落とし、拳にマグマを引き寄せた。と同時に床が真っ赤に染まり、赤い水飴のようなマグマを呼び起こす!
「そこを動くなよディアなんとか。灼熱のボディーブローで一発でしとめてやんよ! デッドエンドオオオォォォ……」
「ほお、おもしろい。キサマのマグマと地獄の炎、どちらに軍配が上がるか試させてもらうぞ……」
ディアボロスも狐姫に倣い、同じ姿勢。半身で腰をかがめて拳を作ると、右手の拳を高く上に突き上げ、詠唱を開始。
両者ともに拳を掲げ、暴走機関車の如く突っ込んでゆく!
「――フレイムダウン!!」
雄叫びを上げる狐姫!
「ダークフレイム」
静かに呟き、拳を突き出すディアボロス!
暴走列車が正面衝突を起こし、
ドオオオオオオオオオンッ!
あたり一面が爆炎に変わる!
「うあぁ!?」
「手加減なさい狐姫!」
周囲に流れ弾が飛び火。想夜たちの体を吹き飛ばし、遠くの壁に叩きつけた。
爆炎が落ち着くころ、御殿は目を凝らしてディアボロスを確認する。その後、信じられないといった表情で驚愕した。
ディアボロスの右手。骨がむき出して肉が削げ落ちている。
「狐姫のデッドエンドフレイムダウンを……片手で防いだというの!?」
地獄の使者に驚愕する御殿。
ディアボロスは自分の朽ちた右手をまじまじと、興味深そうに見つめては余裕の表情を見せていた。
「ふむ、女狐の小技など右手のみで相殺できる……大した事は無い」
狐姫の姿が見当たらない。
「狐姫はどこへ行ったの!?」
想夜と御殿がキョロキョロと周囲を見渡すと、遠く離れた場所に狐姫はいた。負傷した右腕を庇い、息絶え絶えで立っているのがやっとだった。
「くっそ……暴魔とは比べものにならねえぜ……何なのアイツ?」
悪態も束の間、
「狐姫ちゃん! 後ろ!」
想夜の叫びよりも一足早く、ディアボロスは狐姫の後ろに回り込むと、左手で大きく、暴れ狂ったように、引っかきながら斬りつけてきた。
ザシュッ! ザシュザシュザシュザシュ!!
何百発ものかまいたちが小さな狐を切りつける!
狐姫が暴れ狂ったように体を踊らせ、血しぶきを上げた!
「ま、まじかよ……強えぇ」
引っかき傷だらけの狐姫は声を上げる間もなく、その場に倒れた。這いつくばってから桁違いの実力を理解した。
「
ディアボロスは狐姫のブロンドを鷲づかみにして引き寄せ、真横に放り投げた。
「女狐、おまえは弱い、弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い……話にならない」
そう言って宙に浮いたまま姿勢を正し、左手を胸元に添える。誇らしさを主張すれど、負傷した右手はブラリと垂れ下がり、ピクリとも動かない。修復には時間がかかるようだ。
「我が右腕を持っていったくらいでいい気になるなよ。こうしてわざわざ魔界からから出向いているのだ、キサマらもそれなりの敬意を持って戦え。悪魔を侮辱する行為は許さない、命乞いも、ユルサレナイ。全員、血肉を捧げろ」
御殿が懐に手を忍ばせた。
「人間の
取り出した聖水をディアボロスに投げつける。が……
パリン! パリンパリン!
敵の手前で聖水の瓶が膨張して破裂、無残に破片が落下する。2本で1000円が無駄になった。
「
立てた人差し指を内側にクンッと折りたたむと、御殿の体が勢いよくディアボロスに向かって引き付けられてゆく。
「くっ!?」
御殿は一瞬だけ両足で踏ん張ってみたものの、生粋の悪魔には歯が立たず、掃除機に吸い込まれるように敵の懐に突っ込んでいった。
(このまま突っ込んだら間違いなく首を落とされる!)
空中で素早く銃を抜き、ディアボロスめがけて発砲!
バンバンバン!
退魔弾がいくつもの螺旋を描きながら突き進んでゆくも、ディアボロスの手前で真っ赤に発光し、あっけなく燃えつきた。
ディアボロスは飛んできた御殿の首を片手でつかみ、軽々と持ち上げた。
「悪魔を敵に回した事を、地獄で永遠に後悔し続けるがいい……」
手に力を入れ、ギリギリと御殿の首を締め付ける。
「うっぐう……っ」
両手を使ってディアボロスの左腕をつかみ、引き剥がそうと必死にもがく。
「ムダムダムダムダ……」
白い歯を見せて笑う悪魔。
御殿は敵の左手首をつかみ、鉄棒の逆上がりの要領で腕にしがみついて両足をからめた。関節技に持ち込むつもりだ。
ギギギギギ……。御殿の太腿がディアボロスの腕の筋肉を締めあげ、雑巾を捻じるような鈍い音が続く。
(右手は使えないはず。このまま左腕も潰しておけば有利になる)
御殿の関節は綺麗に決まった。が、ディアボロスは左腕を高く持ち上げ、御殿の体を床に向かって思い切り叩きつけた。
ドウッ!
床に落下する瞬間、御殿は受け身をとってダメージ回避。ゴロゴロと器用に転がって想夜の下まで戻っていった。
「御殿センパイ、下がってください!」
想夜が御殿とディアボロスの間に割り込み、ワイズナーを手前で横に倒して詠唱を開始する。
「
想夜の全身にダークブルーの力が駆け巡る!
「bás dteagmháil!!」
――そこを動くな!!
藍鬼想夜がピクシーブースターにブーストをかけ、ワイズナーを突き出しながらディアボロスに突っ込んでゆく!
「いい気になるなよ、フェアリーフォース」
ぐぐぐぐ……っ。
片手でワイズナーの先を掴むと、発育の乏しい想夜の全身を舐めるように見つめた。
「妖精の鬼化か。こんな娘がいたとはな……実に興味深い。やはり貴様は地獄へ連れてゆく。地獄に堕ちた人間たちを監視する業務につけ」
職場が地獄だなんて洒落にならない。きっとロクな仕事ではない。さいの河原に積まれた石を蹴飛ばして遊ぶような仕事はゴメンだ。妖精はそれをブラック企業と呼ぶ。
「キサマも所詮は鬼。我々と同類――」
藍鬼さんを悪魔と一緒にしないで! ――心で叫んだ。藍鬼は友達であり子供のような存在。想夜の抱く藍鬼への想いが、藍色に輝く闘争心をいっそう奮い立たせた。
ディアボロスが左手を顔の手前まで掲げ、素早く詠唱を行う。
「
奇妙な声を発したあと、
ジュッ!
想夜の腕から水分が蒸発して煙が舞った。それを気にせず、速度を落とすことなく突っ込んでゆく。
「ほう、その狂った瞳、鬼と呼ばれるに相応しい」
悪魔は狂気に満ちた存在が大好きだ。
「Clúdaithe suas, Demon!!」
――黙れ、悪魔!!
想夜は瞳を真っ赤にさせて、ディアボロスの黒い皮膚にワイズナーの矛先を捻りこんだ。
ぐぐぐぐ……ッ。
どうしたことだろう? 矛先が1ミリも進まない。
(そんな! 藍鬼さんの力でもダメージが与えられない!?)
それには理由があった。数秒前に想夜を襲った魔術、そのダメージが右腕の筋力を大幅に弱めていたのである。
(あ、あれ? 腕がとっても熱い……さっきの術はいったい何?)
藍色のオーラが勢いを無くし、想夜と藍鬼の姿がブレる――リボンの妖精に焦りの色が見え始めた。
悪いことは重なる――本来、鬼とは悪魔である。属性が同じであれば過度なダメージを期待しないほうがいい。場合によっては傷ひとつ負わせることができない。
「鬼の力は悪魔の力……この体に傷を作ることなど、キサマに出来はしない」
悪魔の絶望的な言葉。悪魔はいつだって人々の心に揺さぶりをかけ、信念をへし折ってくる。そうやって根こそぎ希望を奪っていく。それが悪魔の常套手段である。
されど、それに屈するリボンの妖精ではない。
(負けるもんか! この力は悪魔の力なんかじゃない!)
想夜はディアボロスに鋭い視線を投げた。
「藍鬼さんは……あたしの友達だ!!」
藍鬼の口から想夜の本音が漏れた。それは藍鬼の力を徐々に制御しつつある証拠。
藍鬼想夜はワイズナーを一度引いてから角度を変え、ディアボロスの横っ面を殴りつけた。
バチイイイン……!
皮膚を叩いた音が響き、黒い悪魔が体勢を崩した!
「なに!? この俺が鬼の力に押されてるだと!?」
藍鬼と妖精の波長が一瞬重なる――藍色のオーラが浄化されたことを感じ取った想夜は、ピクシーブースターで一気に飛翔した。
ボシュウ!
ディアボロスの顎から左こめかみにかけてワイズナーを走らせ、顔面半分をえぐり取った!
「クソ! 小娘が!!」
顔面を手で抑えるディアボロス。かなり強烈なダメージだったようだ。
そこへ朱鷺が素早く割り込む!
「悪魔め、ぬかったな」
ディアボロスのアキレス腱めがけ、絶念刀を走らせた。
ザシュッ。
「ぐう!?」
一瞬だけ呻き声を発した悪魔がバランスを崩し、その場に膝をついた。邪魔な藍鬼を振り払い、朱鷺を真っすぐ睨みつけてくる。
「侍風情、悲鳴を聞かせろ――」
ふたたびディアボロスが左腕を掲げて詠唱する。
「cell boil……」
セルボイル――悪魔詠唱の一つ。狙った者の血液を沸騰させ、ダメージを負わせる魔術。食らった場所から細胞破壊がはじまり、それが続けば一瞬でゆでダコになる。当然、筋力も低下する。
術を喰らった朱鷺と想夜。
「うぐっ……あああああっ!」
「きゃあああああああ!!」
悶え、床に転げまわった。
朱鷺の血液が熱を帯び、すべての血管が火傷をするほど熱くなっている。瞳全体が充血し、眼球のまわりから血を流しながらも、それを乱暴に腕で拭い続けた。
たとえば熱した鉄に触れれば、人は瞬時に手を引っ込めるだろう。だが、今の朱鷺にはそれすら許されない。血管は肉体から離すことができない。焼けるような苦痛が体の中を駆け巡り、すべての血管が熱い針金になった感覚に見舞われる。
激しく火照った想夜も藍鬼化が解除され、そこには弱々しいリボンの妖精が横たわっているだけである。
朱鷺が絶念刀に身を預けて立ち上がる。
「くそ……尋常じゃない強さ、だ……」
「八卦と言えど所詮は人間。鬼と言えど所詮は小娘。悪魔と一緒にしてもらっては困る」
ディアボロスは片足を引きずりながら朱鷺へと近づき、長髪を鷲づかみにして顔を引き寄せた。
「キサマの体も捕獲対象だ。八卦を集める事で、ミネルヴァの戦力は増してゆく」
(か、体が……言うことを聞かねえ……)
歯を食いしばろうが気合を入れようが、セルボイルをまともに受けた者が無事でいられるはずもなかった。悪魔からしてみれば人間など蟻と変わらない。
「こんなところで……こんなところで死ねるかよ……」
けれど、と朱鷺は思うのだ――せっかく
絶望――。
なにもできないという無力を確信する。あまりにも出来すぎた答え――今の朱鷺の心情を表すにはふさわしい言葉。
悪魔ごときに介錯を頼まなければならないのか?
この苦痛から逃れるため、さらなる苦痛が待つ世界へと堕ちてゆく――一時の苦痛から逃れるために、永遠に続く苦痛に逃れてゆくのだ。誰しも一度は彷徨う選択。朱鷺はその深淵に落ちてゆく。
「キサマの息の根はすぐには止めない。何も出来ないまま、ここにいる仲間たちの悲鳴を聞き続けながら、じわりじわりと死んでゆけ」
ディアボロスが乱暴に朱鷺を放り投げた。
這いつくばった朱鷺の目の前で、想夜たちはひとりひとり心臓をえぐり取られてゆく――それを死ぬまで見続けなければならない。
無力な時――。
無力な朱鷺――。
絶望を前に、苦痛を和らげるための作業が1つだけある。それは瞼を閉じて逃げることだ。
(こんな……こんな奴の前で目を閉じなければならないのか!? 笑われながら、目を閉じなければならないのか……!?)
そう思い、何度も、何度も、拳を床に叩きつけた。
(こんな! こんな! こんな! こんな!)
ガス! ガス! ガス!
何度も、
何度も、
朱鷺が床を殴りつける度、そこが真っ赤に染まってゆく――朱鷺の拳から血が滲みだしていた。
悔しいか?
悔しいだろう――悪魔は人の苦痛を見るのが愉快でたまらない。
ディアボロスが御殿に視線を送る。
「おい、エクソシスト……こっちへ来い」
クイッと指を折り曲げると、先ほどと同じように御殿の体が引き寄せられてゆく。
御殿は両手で顔を防御するが、悪魔の腕力には到底及ばす。
ガスッ!
敵の拳をもろに受け、体がくの字に横に
ガシャアアアン!
散乱したガラスの破片の上で、御殿が必死に起き上がろうとする。
(くっ、思った以上に体力を奪われている……このままでは全員殺される――)
這いつくばったエクソシストを見ながら、ほくそ笑むディアボロス。
「無力だなあ、エクソシスト……」
ディアボロスは横たわる想夜に近づき、リボンで結った髪をつかんで持ち上げた。
「エーテルバランサー、キサマは魔界に行くまで大人しくしていろ。だが斬られた顔の礼、ここでキッチリ払ってもらう」
ディアボロスは手刀を作り、想夜の顔面に狙いを定めた。
「エーテルバランサー、これから貴様のツラの皮を、剥ぐ――」
朱鷺は目の前に広がる惨たらしい現実を呪った。
「やめろ……やめろ……やめろおおおおおお!!!!!」
「はははははっ、無力だなあ! 無力無力無力!」
笑いが止まらないディアボロス。それが実力の差というものだ。
「拙者は無力なのか? 何もできないのか? なあ、答えてくれよ! ……夢! 夢! ……夢ええええ!」
何度も、何度も、何度も何度も、床に拳を叩きつけた。が、状況が変わる事はない。
妹の名を何度も叫ぶが、これは夢じゃない。現実だ。
仲間が次々に殺されてゆく現実。
目を覆いたくなるような現実。
故に、目をつぶる現実。
地獄を彷徨うような現実。
朱鷺は絶望の中、暗闇に落ちてゆく感覚に見舞われた――。
死体のフリに終わりを告げろ
永遠に続く絶望の中、遠くの方から声が聞こえた。
男とも女とも判断し難い声。
やがてそれは、少しずつ近づいてくる。
……おい。
「………………」
無言の朱鷺に向かって、誰かが語り掛けてくる――。
おい……聞いているか?
「…………」
この声が聞こえているか?
「……」
生きているのか死んでいるのか、ハッキリしたらどうなんだ?
死体を演じるならば、息なんかするんじゃねえよ。酸素の無駄だ。
生体を演じるならば、返事くらいしろ。時間の無駄だ。
どうせ生きているのだろう? 我々には分かっている。
死体のフリなんかして、カッコつけてんじゃねえよ。
(――誰だよ、うるせえな……死んでねえよ……まだ、な――)
息はあるが意気がねえってところか。黒い奴にコテンパンにやられてるみたいじゃねえか。
乱れ狂う精神の中――二日酔いの朝のようにうざったい表情で目を覚まし、朱鷺は付け加えて思う。
(死んでねえよ――だが、もう、動けねえ……)
ほお、なぜ動けない?
(クズ野郎からダメージを受けたんだよ……いちいち言わせるな)
なぜ動かない?
(知らねえよ、魂が動くことを認めてくれねえんだよ……)
魂だと? 知った風な口聞くじゃねえか。おまえに死体になるような許可を下した覚えはないが?
(……)
なにを燻る?
なにを躊躇う?
てめえ自身の胸に手を置いて聞いてみろよ。答えが眠っているはずだ。それを口にしてみろよ。
(拙者は、ずっと……生きた心地がしなかった)
本当は知っているんだろう? それを認めるのが怖いんだろう?
生きている実感が湧かないのは、真の苦痛の味を知らないからではないのか?
腹を空かせた野良犬のよう、てめえはヨダレを垂らしながら歩いたことがあるか?
(あるに決まってんだろうが。どんだけ彷徨ったと思ってんだよ)
ならば聞くぞ。その後のにぎり飯の味はどうだった? どうやって食った?
(がっつくように食ったぜ。あれはうまかったなあ……)
なんだかんだ言ったって、てめえは今までふてぶてしく生き残ってきた。
そしてこれからも生き続ける。何故だか分かるか?
(……)
分かってるじゃねえか。それだよ、今アタマに描いた言葉。それを吐き出して見せろよ。
(……やるべきことを終わらせていない奴に、死ぬ権利はない……か?)
ああ。まだ何も終わっちゃいない。戦いは始まったばかりだ。
苦痛から卒業した者こそが得られる至福の味。それを感じた時に、人は生きている実感を得られるものだ。
喉の渇きを知らない奴は、潤される喜びを得られない。
喉の渇きを潤した時にこそ、生きている実感が得られるのさ。
喉が渇いたままじゃ、地獄を彷徨っているだけというもの。
乾ききった心を潤すもの。それはいつだって目の前にある。
今はそれに気づいていないだけだ。
それに気づかないまま、背を向けようとしてないか?
立ち上がるには、一瞬だけ踏ん張らなければならない。
飛び立つには深く屈め。
絶滅した朱鷺の名を背負って、深く屈め。
……違う、もっと深く屈めよ。
ビビる必要なんかない。その踏ん張りはほんの一瞬だ。一瞬だけ踏ん張れば済むこと。
背を向けるのは今じゃない。
背を向ける行為は、死ぬその時までとっておけ――恐らくは何十年、何百年先になるだろうがな。
その身が朽ち果てるまで、もがいてみたらどうだ?
もがくことができるのは、生きている証だ。
死体はもがくことすら許されないのだから。
(…………)
――おい。
(……なんだよ、うるせえな……)
聞こえるか?
(聞こえてるよ、うるせえな……)
よし、威勢がいいな。今度はちゃんと返事ができるじゃねえか。
てめえの獲物は目の前にいる。
次は本気で戦え。
嘘っぱちな時間を送って遊んでる暇があったら、敵の顔面ど真ん中にパンチを食らわせてから遊べ。宿題を終わらせてから遊べ。
目覚まし時計の役目は、これで終わりにしてやる。鶏ゴッコも疲れるからな。
我々は消える。また困った時にはセットしてくれ……てめえのツラをひっぱたいて、叩き起こしてやるからよ――。
――声たちはそう言い残し、朱鷺のそばから離れていった。
「ふん。もう来るんじゃねえよ――」
悪態、けれども安堵――朱鷺の表情に余裕が戻ってくる。
朱鷺の耳元。ふたたび誰かの声が聞こえる。今度は若い女の声だ。
「兄さん……」
「夢……」
「ふふふ、またお寝坊さん?」
「どこに行ってたんだよ? 心配させやがって……」
朱鷺の背中に夢の手が触れる。そうやって兄のぬくもりを感じている。
「兄さんの本気はまだ誰も見ていない。それをこれから解放するの。限界だなんて言わせない。夢が確信しているんだもの。兄さんは悪魔もひれ伏す最強の侍だって。だから、ね? さあ……立って――」
朱鷺が振り向いた時には、すでに夢の姿はなかった。
「夢……」
朱鷺よ。
彷徨える侍よ。
風を継ぐ者よ。
風を詠う者よ。
お前は風と共にどこへ行く?
「知らねえよ。そんなことは――」
朱鷺は決まってこう言うのだ。
「風に聞いてくれ――」
汝、決して切れぬものを斬るもの
「やれやれ。めんどくせえことに巻き込まれちまったな……」
懐からシトラススティックを取り出し、口にくわえる。セルボイルを食らってもなお、朱鷺は立ち上がった。
肺いっぱいにシトラスパウダーを吸い込んでリフレッシュ。
「――ふう、うめえ……」
空になったスティックをペッと床に叩きつけた。
「――さっぱりしたよ柏木。風呂あがりの気分だぜ」
絶念刀に寄りかかり、足に、全身に力を込めて立ち上がる――全身血まみれの朱鷺。ギロリとディアボロスを睨みつけた。
「気持ちのいい術をあんがとさんよ。だがな、てめえ如きに……この叢雲朱鷺の首は落とせねえよ」
その姿は子ヤギのように弱々しくもあり、鬼神のように力強くもある――矛盾が描くその先に、朱鷺は矛先を向けて挑んでゆく。魂が躍動を続けるかぎり、神威人村の侍は歩み続ける。
ディアボロスを真っすぐに睨みつけ、半身の姿勢で柄に手をかけた。
「絶念殺か? 皮膚を通さなければ意味がない事をまだ理解していないようだな」
ディアボロスは右手を朱鷺に向けて詠唱を開始した。セルボイルの準備に入っている。
「おい気をつけろ! セルボイルがくるぞ!」
床に座り込んだ狐姫が遠くから叫ぶと、朱鷺はニヤリと口角を吊り上げた。
「案ずるな。一瞬で片づけるさ。助太刀無用――」
ディアボロスのセルボイルが発動した!
瞬間――
「死線、見切ったり!!」
一匹の侍、抜いた刀でディアボロスの体をナナメに
ザシュ!!!!!!
本当に。
本当にあっけない出来事。
閃光の後、残ったのは人の姿をした悪魔――本当に一瞬の出来事だった。
血も出ない。悲鳴もない。ただそこにディアボロスの姿。否、黒き生命体の姿が見当たらない。
突っ伏している想夜があたりを見回した。
「いったい何が……起こったの?」
あまりにも一瞬の出来事に、口をポカンと開いている。
「ディアボロスが……消えた?」
想夜の目の前に一人の男がいる。ディアボロスではない男の姿。
男は何が起こったのは分からず、しわくちゃにヨレたスーツのまま、ただただ呆けている。
朱鷺は絶念刀をゆっくりと鞘に納め、こう言った。
「安心しな柏木。斬ったのは命じゃねえ……てめえさん自身を見てみろよ――」
柏木は両手をジッと見つめ、信じられない光景を目の当たりにした時のように、見開いた眼球を忙しなく動かす。
「ば、ばかな……人間如きにこんな芸当ができるわけが……ない」
なかば半狂乱の悪魔が、ワナワナと唇を震わせていた。
フッ……朱鷺は口角を吊り上げ、静かに、ニヒルに笑う。
「ああそうだ。ただの人間にはできねえ芸当だろうよ。だが、妖精にはできるのさ」
――そう、妖精にはそれができる。なぜなら朱鷺はハイブリッドハイヤースペクター。八卦だからだ!!
「悪魔として生まれ、悪魔として死する――それもよかろう。だが……」
朱鷺は目の前の男を指さし叫んだ。
「だが、斬らせてもらったぞ。その因果!」
朱鷺が斬ったもの――柏木が悪魔として君臨しているという事実。すなわち、ディアボロスを柏木から切り離したのである。
「確かにてめえは人間じゃねえ、悪魔だ。それはよぉく分かったよ」
朱鷺は絶念刀をゆっくりと鞘に納めて話を続ける。
「では聞くが柏木、悪魔から『悪魔』を奪ったら、いったい何が残る? それをこれから、てめえの体で教えてくれよ……」
想夜がポカンと口を開けている。
「なぞなぞ? あ、悪魔から『悪魔』を取ったら、人の姿をした……ただの悪い人?」
想夜、正解――人の姿をした悪魔から悪魔を取ったら、そいつはただの悪魔のような人間である。
想夜に倣い、御殿もポカンとしていた。
「朱鷺さん、あなたは一体、何をしたというの?」
朱鷺はニヤリと口角を吊り上げた。
「ハイヤースペックレベル2・
名は体を表す――悪魔という名が消えた存在は、人の姿をした何者だというのだろう?
朱鷺は語る。
「人の姿をした悪魔を腐るほど目にしてきたが、今のてめえは……何と表現すればいいのだろうな?」
半身になって柏木と向かい合い、一定の距離を保ちながら横に移動して御託を続ける。
「人間のような悪魔。いや、それは人間を侮辱する時に使う言葉だ。強いて言うなら今のてめえは……虫ケラか?」
朱鷺はゆっくりと柏木に向かって歩き出し、息がかかるくらいに顔を真横にピタリとつけた。
「なあ? ミネルヴァ重工の重役さんよお」
「あ……あ……ああ……」
ガクガクと震える元悪魔。額にはビッシリと汗を湧き立たせ、恐怖のあまり、今にも崩れてしまいそうだ。
「怖かろう? 無力ってのはよお。それこそ拙者が経験してきた恐怖さ。一族を潰され、妹をバラバラにされ、誰にも助けてもらえず、それでも這いつくばって、ここまで生き続けてきた。遠慮はいらねえさ、無力をじっくり味わえよ。てめえには時間がたあっぷりあるからよ」
ディアボロスにはもう悪魔の力は使えない。強靭な肉体すら持っていない。権力からも見放され、企業からも見捨てられ、弱き人間はどこへゆくのだろう?
女神よ。もし、かつて悪魔だった男の願いが叶うのならば――そのぬくもりと慈悲を以ってして、虫ケラと化した男に手を差し伸べてやってはくれないか?
――虫ケラが女神の優しさを望むのならば。
あるいは女神が虫ケラに微笑むのならば――願いは叶うのかもしれない。
「もっとも、なんの力も無くなったてめえを、どこかの誰かが必要としてくれるかは疑問だがな。手招きしているのは……看守くらいじゃねえのかい?」
朱鷺は柏木に背を向けた。
「また、つまらねえモノを斬ってしまった―――」
そう言い残す。
「もっとも、今まで斬ったモノの中で、てめえが一番つまらなかったがな――」
ひと言付け加え、その場を去っていった。
「あ、ああ……あああああ……」
朱鷺が去った場所、柏木は魂の抜けた人形のように、ただ天井を見上げて、ガクリと膝をついた。言葉はなくとも、絶望にまみれた態度は隠せなかった。
人は誰しも共通することがある。
理不尽な思いをしてでも、歩くことを強要され、休むことさえ許されない。
殺してやりたいほどムカつく奴の前で、手足が出なせないまま半殺しにされ、血の涙を流すことだってある。
徹底的に打ちのめされ、それでも這いつくばって、やがて立ち上がる――それが我々人間だ。
おい悪魔ども、よく聞いておけ――人間たちは皆、そうやって生きているんだぜ?
まあ、いつもの事だよ。なぁに、大したことではないさ……。
もっとも、おまえら悪魔にそれが耐えられるかどうかまでは知らねえけどな。
人間ってのはよ、悪魔以上にタフなんだぜ?
そこんとこ、よぉく覚えておけよ。クソ野郎ども――。
かくれんぼ
闇霧のカーテンに包まれた想夜たちはディアボロスとの闘いから生還し、愛宮邸に連れ戻された。無事、春夏を取り戻すことにも成功した。
「――ジャスト5分だ。思ったよりも早かったのう。こっちもちょうど中ボスを倒したところじゃ」
メイヴが彩乃の膝枕で気持ちよさそうに横になり、プレプレβで遊んでいた。人の苦労も何のその。女王様はいつだってマイペース。
「俺たちが半殺しにあっている間、ずっとゲームで遊んでたのか。相変わらずブレない女だな……」
狐姫が呆けていた。
血まみれの朱鷺は春夏をベッドに寝かせると、想夜たちに問う。
「少しだけ、この娘の心臓と話をしてもいいか?」
春夏が目を覚ます前に、伝えておかなければならない事がある――。
その場にいる誰一人としてそれを拒否することはしなった。皆、小さく頷いた後、兄妹の時間に入り込むことをやめて口を閉ざす。
「……感謝する」
朱鷺が春夏の前に立つ。そっと、小さな胸に手を当てた途端、背中を震わせた。
――侍の頬、一筋の光が伝う。
「夢――こんなところに隠れていたのか……ずいぶんと探したぞ」
朱鷺の指先を伝い、心臓の鼓動がその存在を訴えてくる――
『兄さん、とうとう見つかっちゃったね――』と。
屈強な侍の力ない笑み。やがて崩れるようにクシャクシャになる表情。
「お前は昔から鬼ごっこが得意だったな。日が暮れるまで、ずっと隠れてた。夕飯時になっても見つかりゃしねえ。おかげで拙者は今の今まで、ずっと……鬼だったよ」
春夏の心臓が打つ度、朱鷺にシグナルを伝えてくる。
『どんなに強くても、どんなに賢くても、人は人――いつかは星に肉体を返さなければいけないの。兄さんだってそう。いつかはその肉体を返す時がくる』
「遠い未来の話だろう?」
『ええ。ずっと、ずっと、遠い未来の話――けれども、必ず訪れる未来』
朱鷺には夢が両手を広げて空を見据えているように思えた。
『だけど安心して。私は世界中にいる。世界中の人たちの体の中で生きている。私もそうね、星に肉体を返すのは、まだずっと先みたい』
心臓がハミングするように、陽気な音を奏でてくる。
『だから、ね? 元気を出して。兄さん――』
「夢……」
『私はこの子の中で、元気に生きているから。私の頭脳も、兄さんの中で生きているから……』
春夏の中で、鼓動として生きている。
朱鷺の中で、八卦として生きている。
叢雲夢――一族きっての才女。世界から消えるのは、まだずっと、ずっと、先になりそうだ。
『だからね、兄さん。風の八卦として、その力、世界のために使ってみて』
心臓の鼓動は緩やかに、やがて静かに夢の声だけ消してゆく。
『大丈夫よ兄さん。夢が、村の人たちが、ずっとついているから――』
「生意気になりおって……馬鹿タレが、馬鹿タレが、馬鹿タレが……」
春夏の体の上、朱鷺は崩れるように突っ伏して顔をうずめた。
どんなに強い侍でさえ、どうすることもできない事がこの世には存在している。
どんなに強い力を以ってしても、避けられない宿命が存在している。
避けられない悲しみを避けることはできない。けれども恐れることはない。乗り越えることで魂は輝きを増すものだから。
悲しみを切り捨てる必要などない。それは胸に眠り続け、やがては強い味方となりて、その者を支えてくれることだろう。
床に横たわる絶念刀でさえ、それを切り捨てる役目は持ち合わせていない――。