10 聖色サンドの生みの親
とある弁当屋の前でリムジンが急停止する。
「叶子様、着きました」
小安がサイドブレーキを引き、車内から出て周囲を確認する。
「間に合えばいいのだけれど。いくわよ華生」
「はい、お嬢様――」
小安が確認を終えるや否や、叶子と華生が即座にドアから飛び出した。
店のドアを開けようと手をかけたところ、
グワシャアアアアアン――。
中からテーブルをひっくり返したような騒音が叶子たちの鼓膜をつんざいた。
「華生!」
「はい、お嬢様!」
互いに顔を合わせ店中へと侵入。
華生が前衛をカバー。両手でネイキッドブレイドを構え、先陣切って突き進む。
その後に叶子が続き、後衛の小安も銃を取り出して店内に入っていった。
華生が中の様子を伺うが、人の姿がない。
「叶子様、誰もいません!」
言いかけた途端、奥から食器が割れる音が響いた。
(華生……)
叶子が無言のまま顎で華生を奥へと促す。
(はい、お嬢様)
華生はコクリと頷き、さらに奥へと進んでゆく。
店内と厨房を仕切る暖簾をくぐり抜けた瞬間、物掛けに潜んでいたスペクターが華生に襲い掛かってきた!
折り重なった反動で倒れた華生。
「死ねええええええええ!」
華生にまたがり、半狂乱で刃物を突き刺してくる!
薬物投与でもしているのか、男はヨダレを垂らしながら華生の首に長剣を押し付けてくる。
華生と男の取っ組み合いが始まり、瞬く間に殺し合いに発展。
「死ね死ね! 死ねええええええええええ!」
「地獄のスカウトマンに堕ちたハイヤースペクター、恥を知りなさい!」
華生は敵の腹に蹴りをぶち込み、巴投げで壁に叩きつけた。
ガッ。
ダウンした敵の後頭部を小安が銃の底で殴りつけて気絶させる。
「そこで大人しくしていろ」
のびるスペクターを一瞥する小安。
騒ぎに気づいたのか、一匹だけでは収集つかず、あれよあれよとスペクターが溢れ出してくる!
「いたぞ! 晴湘市の生き残りだ! 殺せ殺せ殺せえええええ!」
叶子が手を上にかざして叫んだ。
「ハイヤースペックレベル2!」
どこからともなく赤帽子メイド10人が店内に乱入。叶子に襲い掛かるスペクターを見るや、血相変えて飛び掛かってきた。
「あ! あのバカ! 叶子様になんてことするのよ!」
「きゃー、叶子様ー!」
「いや~ん、叶子さま~んっ」
「みんな! 叶子様をお守りするのよ!」
店の中、店の外。あれよあれよと言う間に大乱闘が始まった!
店内。両手にネイキッドブレイドを持った叶子が、2人の妖精とブレイドの打ち合いを続けている。左右のブレイドを器用の扱い、左からの攻撃を受け流しては、右から斬りつける。
キンキンキン!
金属同士がぶつかり合う音が響いた後、叶子は下からえぐるように斬り上げた。
ザシュッ!
「ギッ!?」
中途半端な悲鳴を上げると、襲撃者は黒い霧となってあたりに散らばった。
叶子の斬撃でもう一匹がひるんだ。
「華生!」
「かしこまりました、お嬢様!」
叶子に促された華生がスカートを翻らせて敵に飛び掛かる! 空中でローリングソバットを叩き込み、連続で後頭部に回し蹴りを入れて吹き飛ばす。
勢いよく吹っ飛んでゆく巨体が他の敵まで巻き込んで、ボーリングのピンのように弾き飛ばした。
何人かの襲撃者を斬った叶子が髪をかき上げ息を吐いた。
「ふう。そっちは終わった?」
と、その後ろから残ったスペクターが襲い掛かる!
「お嬢、後ろ!」
小安の声と同時に遠くからフライパンが飛んできてはスペクターの頭に直撃! その場にダウンさせた。
叶子たちが店の奥に目を向けると、そこには金髪の青年がピッチングを終えた姿勢でシニカルスマイルを決めていた。
「ナイスピッチング。変わったボールを投げるのね、助かったわ」
叶子が金髪青年のほうへと歩み寄る。
「――やっと見つけたわ。聖色サンドの生みの親、咲羅真調太郎さん」
他の従業員を庇いながら、金髪青年が顔を上げて声を発した。
「あんた、愛宮……叶子か?」
「ええ、愛宮叶子よ。こんな美人が暴魔に見えて?」
調太郎と呼ばれる青年は苦笑しながら首を横に振った。
「いいや……暴魔よりおっかない女に見えるよ」
「ありがとう。誉め言葉として受け取っておくわ」
叶子は乱れた髪を手櫛で整え、慎ましやかな笑みを作った。暴力行為を笑顔で清算しようとしているしたたかさ。
叶子の視線の先――調太郎の後ろにはヒゲを生やした中年男性と若い女性が身を隠していた。
(たしか、
源次が如月に支えられ、足を引きずりながら立ち上がる。
叶子は視線を源次の左足に向けた途端、表情に陰りを落とした。
(源次さん、左足が……)
源次の左足は生身のそれではなかった。災害の時に負傷したのだ。
暗い顔の叶子に調太郎が茶々を入れてきた。
「俺が愛宮邸にいた頃は、もっとムスッとして可愛げが無い感じだったんだが……」
「覚えていてもらえて光栄だわ」
「ああ、行き場のない俺を拾ってくれた人たちを忘れたりするものか。それより、俺の事をよく知っているな」
「知ったのはついさっき。愛宮邸で働いていた時、貴方は偽名を使っていたんだもの。分かるわけないわ」
調太郎の使用していたマイナンバーも他人の物だった。
「すまん。こっちも事情があってな。愛宮のご令嬢をつまらない事に巻き込んじまった」
叶子は肘を包むように腕を組み、安堵のため息を漏らした。
「まあ、軽い準備運動だったから安心なさい」
「その割には暴れまくってたじゃねーか。服だってボロボロだし」
と、調太郎がジト目をお嬢様に送る。
「心配ご無用。服は何着でも用意できるから」
「自慢かよ。それに、そこのメイド達は何だ? 俺が愛宮邸にいたときにはそんな連中いなかったぞ。何かのコントか?」
叶子の周りに群がる赤帽子のメイド達。その数、ざっと11人。口々に調太郎に牙をむく。
「なによ金髪! ぬっころすわよ!」
「丸坊主にして髪の毛真っ黒に戻したろかいってゆう!」
「店の醤油とソース入れ変えたろかい!」
調太郎をキッと睨みつけ、悪態をつくメイドもいれば、
「叶子様ぁ」
「叶子様! 今すぐお手当を!」
「ふえええん、叶子様ああ~ん」
甘い吐息を漏らしながら叶子の傷の手当を始めるメイドもおり、弁当屋の一室が瞬く間にハーレム状態となった。
「みんな私のメイド。紹介するわね――」
出た。メイド11人紹介。
(時間がアレなので早送り――)
「――というわけで、みんな私のメイド。私は無敵なわけ。理解できたかしら調太郎さん?」
スペックハザードで暴徒化した連中如き、この愛宮叶子が蹴散らしてくれるわ! ――フフンとドヤ顔。力のこもった、そんな表情。
「んあ? ……話、終わった?」
調太郎は既に眠そうに瞼をこすっていた。源次と如月は頭を寄せ合ってすでに眠っている。
叶子がメイド達に手当をされながら事情を説明する。
「調太郎さん、それに源氏さんにひとみさん。あなたたちに会わせたい人がいるの」
叶子に言われ、3人は互いの顔を見合わせた。
「俺たちに……会わせたい奴?」
訝しげな表情を見せる調太郎に向けて、叶子が笑みを浮かべた。
「ええ。あの子もあなたたちに会いたがっている。長い年月を経て、この時がやってきたの。そして皆に話して欲しいの。あなたたちが晴湘市で何を目撃したのかを――」
調太郎たちは何故ババロアに狙われているのか?
彼らは晴湘市で何を見たのか?
それが明らかとなる。
デリバリースタッフの記録
愛宮邸の一室。
朱鷺は壁にもたれかかり、腕を組んだまま俯き、これからの行動を考えていた。
御殿が朱鷺に近づき口を開く。
「どうしてババロアはそんなにまでして晴湘市に執着するの?」
「それは――」
朱鷺は表情をこわばらせながら、晴湘市がゲッシュ界を封じているという事実を打ち明けた。
「ゲッシュ界を封じている街、じゃと?」
メイヴは顔をしかめ、想夜は得も言われぬ恐怖に口を
先日、想夜がいた妖精界の果て。それが今、日本各地に散らばり、隣り合わせに存在している。
「柏木が言うに、晴湘市はゲッシュ界への経路を封じる役割を担っているらしい。あの街と重なるように、ゲッシュ界が存在している」
御殿たちの顔が青ざめてゆく。
「晴湘市とゲッシュ界が……隣り合わせですって?」
朱鷺が頷いた。
「ああ。あの街は自然が豊富だから質の良いエーテルが生成される。それにより、ゲッシュ界の入り口を封鎖も容易にできたのだろう。ババロアの目的は、人間界にゲッシュ界を構築することだ。そうすることで、この世界を簡単に魔界にすることができる。その計画は魔族にとってヨダレもんだろうよ」
「だからババロアは執拗に晴湘市に足を運んでいたのか。あの街を地獄に変えるために……」
狐姫が親指の爪を噛み、明後日のほうを睨みつけている。内心、ムカついているご様子。
「お主はやけに詳しいのう? まるでずっと過去を見てきたように思えるのじゃが……?」
メイヴが問うと、朱鷺は御殿を見ながら頭を下げた。
「咲羅真どのの協力で、妹の行方と柏木の悪行を知ることができた。感謝する」
多少強引なやり方だったが、結果を出すことができた。時として、無理にでも実行に移すほうがいい。
朱鷺が柳の記録を皆に打ち明けると、一同は息を呑んで黙ってしまった。とくに想夜には残虐性への耐久がないため、ショックを隠し切れなかった。
御殿もそう。夢に起こってしまった悲劇を思い出す度、己の無力さを実感せずにはいられない。
「わたしは柳の記録を引き出したこと以外、本当に、何もできなかった……」
神威人村の才女に想いを馳せ、拳に力を込めた。
「わたし、エクソシストのくせに、本当に何も……できなかったの――」
しまいには俯き、落胆してしまった。
部屋に若い男の声が響いたのは、そんな時だった。
部屋の入口に立つ青年に一同が目を向ける中、御殿の目が大きく見開いた。
「あ、あなたは……」
佇む金髪の青年を前に、御殿は瞳いっぱいに涙を浮かべて肩を震わせた。
「う、うそ……」
ウソなんかじゃない。
「本当に……生きていて、くれた……の?」
すがるような御殿の視線の先で、青年がコクリと頷いた。
「……ああ」
「本当に……調太郎?」
「……ああ」
「今までどこにいたの……バカ――」
「……すまねえ」
「死んじゃったと思ってたんだから……」
「か、勝手に人を殺すなよっ、じゃじゃ馬」
ぐす……。調太郎は涙を堪えて鼻をすする。申し訳なさでいっぱいのあまり、話を変えるべく、おふざけ半分で御殿をからかった。
調太郎の後ろには顎ヒゲの中年男性と勝気な表情の若い女性がいた。
「御殿、あんた、色々デカくなったねえ」
「如月さん……」
如月が御殿の髪をワシャワシャと撫でた。
再会は喜ばしい事ばかりではなかった。御殿の視線が中年男性に向けられた。
「源さん、その足……!?」
源次は杖を突き、左足を引きずりながら御殿に力ない笑顔を送ってきた。
「地下ターミナルでガレキに潰された時にやっちまってな。 ……結局、左膝から下の神経機能は戻らなかった」
「そ、そんな……」
御殿は悲しそうな顔をして、両手で口元を抑えた。
「お前のほうこそ大変だっただろう? 叶子さんから色々聞いたよ」
御殿は源次の目の前で、悪魔に殺された過去がある。
死んだ者、生き残った者。過去の苦痛はまだ続いている――。
周囲が暗い表情のまま沈黙を続けるが、調太郎が話題を瞬時に変えた。
「――てかおまえ、髪すげー伸びたなあ……洗うの大変じゃん? 見て見ろよ、サダ子だぜサダ子」
周囲に笑いを振りまき、御殿のつま先から頭のてっぺんまで、まじまじと見つめた。
「あの御殿がねえ……へえ、人ってこんなにも変わるもんなんだな」
うれしい顔。でも寂しい顔。2つの感情で揺れ動く青年の心情は、親の持つ感情そのものだ。が、必要以上に御殿の胸に視線を注いでしまうのは男の
「ほほお~う、あの御殿がねえ~」
調太郎。鼻の下が伸びる伸びる。
「あ、あなたはちっとも変ってないわね」
御殿がふくよかな胸を腕で隠しながら、金髪の視線から逃げる。
「ちょっと触らせてみ?」
「……聖水ぶっかけるわよ?」
御殿の目がすわり、調太郎をビビらせた。この数年間で悪魔をも震え上がらせる貫録も身につけている。
「さっきから気になってたんだが、なんで女言葉なの?」
一同、同じことを考えていた。
「これはエクソシストになってから最初の任務で、女性として潜入捜査をした時に身についてしまって……」
『あーなるほどー』
一瞬で謎が解けた。子供の時に学習したことは、根強く残るものである。
そこにリボンが挙手ながら割り込んだ。
「あ、あたしは御殿センパイの言葉づかい、柔らかくって好きです!」
想夜が力の限り擁護する一方、
「は? どこが柔らけーんだよ。暴言吐きまくってるのと変わんねーよ」
狐姫は御殿にシビアだ。
「そ、そんなことないもんっ。御殿センパイ優しいもんっ」
「どこがだよっ。コイツが優しかったら、人間全員天使だろーがっ」
「なによ、狐姫ちゃんの設定過多!」
「あっ、おまえまた言ったな! やるってか!?」
「望むところよ! ……やや!? あんなところにベッドみたいなリングがっ」
調太郎が御殿に穏やかな目を向けた。
「いい仲間を作ったじゃねえか」
御殿は少し照れながら、笑顔で返した。
――募る話もあるだろう。けど、それは後回し。
「――なぜ俺たちが馬車の女に追われているのか、理由が知りたいんだろう?」
「調太郎は何か知っているの?」
御殿が身を乗り出すように聞いた。
調太郎は一呼吸おいて、話はじめる。
「――ダイニングで働いていた時、デリバリーをやっていたのを覚えているか?」
「ええ。わたしは免許を持っていなかったから自転車で近所しか配達ができなかったけど、みんなはバイクで街中を走り回っていたわ」
デリバリースタッフはバイクで街を走り回り、いろんな道を通る。その際、リアルタイムで見る光景が多い。中には工事中の建物や道が含まれており、店に戻ると同時に通行止め情報などをスタッフの間で連絡しあって効率の良い配達を進めてゆく。
「あの頃、ドライバーをしていたバイト連中の間で、奇妙な話が持ち上がっていたんだ」
「奇妙な話?」
「ああ。俺も見たんだが、奇妙な装置が放置された場所がいくつかあった。巨大なスポイトを逆さまにしたような装置だ。空地やスーパーの路地裏、山林、廃校になった場所、街の中――俺たちが見た場所を総合すると――」
調太郎が御殿たちに指を広げた。
「全部で5ヶ所、奇妙な装置が晴湘市内の端に設置されていた」
「その装置はどんな動作をしていたの?」
「何に使っているのか分からないが静かだった。ただ……その土地の周辺から、だんだんと人が離れていくのが分かった」
デリバリーではよく統計が利用される。どの地区からの利用客が多いかを調べることで、売り上げを向上させるためだ。当然、チラシ配りも効果がある地域には重点的に配られる。
「一定の距離を保って設置された装置の周辺からは、デリバリーの注文がなくなり、そこには誰も近づかなくなっていった」
地獄の妖精や魔族に殺されていった仲間たち――学生やパート主婦は、それらの位置情報を調太郎に託していた。
話を聞いていたメイヴが口を開く。
「おそらく、そのヘンテコリンな装置の中身は汚染エーテルじゃろう。じわりじわりと晴湘市を汚染してゆくためのシステムじゃな」
「なら、早くにでも破壊しなきゃ」
焦る御殿に、調太郎が一枚の地図を取り出して見せた。
「ダイニングのみんなのことは覚えてるよな? これは俺とあいつらで書き込んだポイントだ」
晴湘市の中央、隅――東西南北に散らばった5ヶ所の地点に×印が記入されている。
叶子が覗き込んだ。
「1つ1つがかなり離れているわ。効率よく汚染しているみたいね」
メイヴは地図を手に取り、一同に見せた。
「短時間で同時に、これら5ヵ所を叩かなければ意味がない。破壊したことがババロアにバレれば、奴はすぐ次の手段を打ってくるじゃろう」
水角が調太郎の横まで来て自己紹介。
「ボク、水角っていうんだ。調太郎さんはお弁当屋さんで働いている人でしょ?」
「ああ、確かウチの店に来たことあったな。覚えているよ」
調太郎は水角を見る度、昔の御殿を思い出しては切ない気持ちになる。
「へえ、御殿の弟か。ほんとお前、昔の御殿にソックリだよな」
サラサラのショートヘアを見ては、過去に思いを馳せた。
水角も姉に似てると言われて満更でもない。姉のことは大好きだ。
「調太郎さんは晴湘市のデリバリーも長くやってたんでしょ?」
「ああ。3年くらいかな」
「だったら抜け道とか詳しいんじゃない?」
水角の質問に調太郎が顎に手を添えて考える。
「ショートカットなら自信があるぜ。短時間で移動するなら、たしかに有効的だよな」
「だったら案内してよ。ボク、調太郎さんを守れる自信あるよ! ね?」
水角の手前、調太郎が暗い顔をした。
「気持ちはすげえ嬉しい。けど……俺たちはただの人間だ。戦う力なんか持っちゃいない」
消え入りそうな声で目を伏せた。
「調太郎さん……」
想夜の悲しそうな表情を見ては、調太郎は取り繕ったように続ける。
「そりゃあ、俺だって力があれば何とかしたい。でもさ、お前らだったら人間がどれだけ弱い生き物か分かるだろう? サバンナに放り出されたら人間なんか1時間だって生きていられるかどうかなんだ」
その悲し気な視線を御殿に向けた。
「御殿、俺はおまえにサバイバルを教えてやれなかった。喧嘩が強ければ、おまえに何か教えてあげられたのにな。ずいぶん強くなったそうだな……嬉しいよ」
調太郎は御殿を真っすぐに見つめて言う。そこに嘘偽りはない。
「調太郎……」
「だけどな、悪い奴らと戦いましょうって言われたところで、やはり俺にはそんな術はない。水角が守ってくれたとしても、足を引っ張って、やがて限界が生じる。それが……人間なんだ」
無力なんだ――調太郎はうつむく。ここまで、幾度も幾度も希望を胸に抱いてきた。けれど、現実はどうだった? ババロアの息がかかった政府には見捨てられるし、挙句に妖精に襲撃される。いつまでもいつまでも、地獄絵図から抜け出せない。それが調太郎を苦しめているのだ。
調太郎は両手を合わせ、聖母に祈るようなポーズをとる。
「こうやって、毎日毎日、手を合わせて、何者かにすがるのさ。『助けて……助けて』って。けれども、やってくるのは気味の悪い連中ばかり。そんな連中から俺たちを助けてくれた愛宮叶子だって、普通の人間じゃないんだろう?」
そう。叶子はもはや、ただの人間ではない。華生から能力を継承している兵器、フェアリーフォースも手を焼くハイヤースペクターだ。
「晴湘市が黒い女に襲われた日、俺は裁判にかけられたと感じた。妖精裁判さ。人間が調子に乗って妖精事に首を突っ込んだから審判が下ったのさ――そう、思っている」
調太郎は御殿を見る。
「なあ御殿? 俺って間違ったこと言ってるか? 人間として精一杯抵抗してきたけれど、どうすることもできないことが、今、まさに、目の前までやってきている。それにどう抗えっていうんだ?」
俺は間違っているのか? ――調太郎の言葉を否定できる者は誰もいない。人間は迫りくる脅威に無抵抗のまま消される。大自然を前に、どうすることもできず、強い相手にも跪く生き物だ。世界を支配しているようでいて、実は搾取される立ち位置にいる。
話の中、想夜の脳裏に誘拐された男の子の姿が浮かんだ。その事をメイヴに打ち明けると、答えが返ってくる。
「ふむ。誘拐犯が子供をさらった理由が臓器売買だった事は既に分かっておる。『人間のため、平和のため』と、言葉巧みに誘い出し、凌辱し、解体して売り払うつもりだったんじゃろう。食い殺されて当然じゃ」
妖精は謀られるのが大嫌いだ。けれども妖精の子供がそのような狂気じみた行動を突然とるのだろうか? 朱鷺が子供たちに与えたお菓子は何を意味していたのだろう? それらがメイヴの気になるところだった。
メイヴは調太郎を諭すよう、腰をポンポンと優しく叩いた。
「のう、調太郎さんとやら。人間たちが調子に乗ってるのは事実じゃ。けれども、妖精裁判はババロアが勝手に開いたもの。主らの過ちではない。そう自分を責めないでおくれ。それに、MAMIYAには強力なコマがそろっておるようじゃぞ?」
メイヴは御殿の横に近づいた。
「ババロアは一度、軍勢を率いて晴湘市を手中に治めようと企んでいた。だが、思わぬ脅威がそこにいた。それが沢の八卦。お主と共に生活してきた戦士じゃ」
八卦の存在を知るや否や、悪魔たちは恐れ慄き逃げてゆく。虫よけとなった御殿の存在、そして朱鷺が持ち込んだお菓子により、ババロアの計画は失敗に終わったのは周知だ。
「ババロアは八卦の力に惚れ込み、水無月の娘を手に入れようとしたが、これも失敗。やがてコントロールの利かない八卦を入手するのには時間がかかると見通し、水の八卦に目をつけ、蟲を感染させて奴隷に仕立て上げた。その後、八卦プロジェクトが始動しないよう、水無月主任と、その支援者であるロナルドを消す計画を実行。ババロアからしてみればMAMIYAに八卦を集められたら厄介なのだろう。それに水無月主任は八卦に打ち勝つ方法さえ見出すじゃろうて」
多くの黒妖犬を使って想夜たちを襲撃してきたのは記憶に新しい。ババロアにとって彩乃は、人間の中でもっとも脅威なのだろう。
調太郎がメイヴを真っすぐ見た。
「俺は正直こう思った――人間たちが調子に乗ったから、こんな現状が生まれたんだって。妖精の逆鱗に触れさえしなければ、普通に暮らせたんだって」
それに対し、メイヴは首をゆっくりと左右させた。
「残念じゃがの……人間が大人しくしていても、地獄の妖精たちは容赦なく人間界を地獄に書き換えるじゃろう」
「そんな……あんまりだ……」
歯を食いしばり、瞳いっぱいに涙を溜めて呟くのだ。
「俺は何もできないのか……クソ、クソクソ……クソ!」
無力を理解した料理人の拳は震えていた。
「調太郎さん……」
想夜は悲し気にうつむく青年の横顔を見るたび、その悲痛に胸を痛めた。
人間は妖精の力をあまく見ている。高次の異能を前にして、人間たちは蟻んこ以下。束になっても勝ち目はない。そのくせ人は、とにもかくにも強欲。分不相応というものを理解している者が、この世の中にどれだけいるのだろう?
車、財産、権力、人間関係――身の丈にあった力で満足していればよいものを、より良い富を求めるために、自分をより大きく見せるために、人間たちは今日も目の前のものを両手いっぱいにかき集める。地獄の妖精にとって、人間界は残す価値もないのだ。
けれども想夜は、この世界が地獄ではない事を知っている。両手いっぱいに笑顔をかき集められる世界だと信じている。
慈悲のカケラを拾い集め、やがて両手いっぱいに大空へ舞い上げて見せる。
胸に描いた世界は……現実のものとなる!
「調太郎さん、あたしね、お腹ペコペコになると元気なくなっちゃうの。羽もね、しなびた花びらみたいにションボリしちゃう」
「誰だってそうさ。その内に食べる気もなくなって野垂れ死ぬようにできている。けれどもお前は妖精だ。特別な力を持っているから、脅威に立ち向かうことができるんじゃないのか?」
想夜はゆっくり、首を横に振った。
「ううん。ダメなの。あたしひとりじゃダメなの。お腹すくとフニャ~ってなっちゃう、戦えないの。誰かが支えてくれなきゃ、妖精だって鬼だって、頑張れないの」
想夜は糸の切れた人形のように肩を落としながら、両手でお腹を押さえた。
「人間の作ってくれたお菓子は大好きよ。植物や動物たちに想いを馳せる人たちも大好き。調太郎さんは聖色サンドを作ってくれた人なんでしょ? あたし、大好きな聖色サンドに何度も元気にしてもらえたの。人間界はこんなにも多くの大好きで埋め尽くされている。だからね――」
想夜は調太郎の手を取り、両手で強く握りしめて言った。
「だから、あたし達が最前線で戦うから、調太郎さん達は後ろから元気づけてほしいの。いっぱいいっぱい、美味しいものを作って、それで、支えてほしいの。あたしにはそれができないけれど、調太郎さんにはそれができるでしょう?」
自分にそれができなければ他の誰かに頼めばいい。できるヤツができる作業をする。効率のよいやり方。他人ができない脆弱性を、己の力で埋めるのだ。それは助け合いと呼ばれている。
迫りくる脅威に立ち向かうには、自分以外の魂たちに助けを求めろ――そうやって魂たちはスクラムを組み、強靭な盾は鉄壁と化す!
「調太郎さんは、ずっと呼んでくれてた。助けてって、呼んでくれてた。だからあたし達……助けに来たよ」
ずっと、ずっと、何者かに助けを求めていた。その相手が姿を現し、正体を名乗るのだ――それは妖精だよ、と。
「気づくの遅れちゃって、ごめんなさい。あたし、まだまだ弱いし、フェアリーフォースのお荷物だったから、調太郎さんの声まで聴くことができなかったけれど、今、こうして、やってきたよ」
13歳の幼き戦士は政府の犬となり、藍鬼となり、やがて晴湘市の意思を継ぐ光となった。
調太郎の目に光が戻ってくる――。
「後ろを向き続ける日々に、終わりを告げる時が来たというのか?」
「うん! やってみなきゃ分からないもの! あたし達には未来を創る力があるはずよ!」
戦うことの意味を調太郎は悟り始めている――戦力は腕力だけにあらず、共に支えることだって立派な力となりうる。それなくしては、強靭な戦士でさえも立ち上がれない。エールは戦士の活力につながるのだから。
御殿がそっと、調太郎の背中に声をかける。
「調太郎……。わたしが晴湘市であなた達に助けてもらってから、幾年もの月日が経った」
時の経過とは人を変えるもの。御殿の武装を見れば、ただの料理人にだってそれくらいは分かるはずだ。
「調太郎には、料理で多くの人たちを笑顔にするという役目がある」
御殿は少しだけうつむいた後、黒ずくめを自慢しながら、少しおどけて見せた。
「わたし、こんな姿に変わっちゃったけれど後悔なんて微塵もないわ。晴湘市がこんな状況になった今でも、多くの人たちに支えられているのだから。人との出逢いのチャンスをくれたあなたと、こうして再開を果たせたのだから」
「……御殿のクセに……」
と、ささやかな嗚咽をあげる。
「御殿のクセに、生意気だ……」
調太郎は潤んだ瞳がバレぬよう、顔をそむけた。
源次が片足を引きながら前に出てきた。
「御殿……」
「源さん」
無理をさせまいと肩を貸す御殿。
「御殿、俺と碧に約束してほしい。必ず無事に帰ると……約束してほしい」
あの時の強かった源次の姿はそこにはなく、ただただ腹を空かせて弱っている野良犬のように頼りなさそう。妖精との戦争に巻き込まれ、やっとのことで逃げのびてきた姿がそこにある。
やつれた源次を見るたび、御殿の中にはババロアへの怒りと、罪なき人間を守りたいという暴力エクソシストとしての誇りが大きくなるのだ。
御殿は源次の手をそっと握り、まっすぐに見つめてこう言った。
「源さん、わたしはあの日、あなたの前で悪魔に殺されてしまった。けれど、もうあの時の弱いわたしではない。こうして今、晴湘市の涙が生み出した黒き弾丸となって帰ってきた。弾丸となったわたしの向かう先は……地獄の妖精の額――ババロアの命」
御殿よりもずっとずっと大きな源次の手。その手でどれだけ多くの胃袋を幸せにさせてきたのだろう? 晴湘市で初めて口にした食べ物は源氏が作ってくれたもの。晴湘市にいた頃、住む家もない人たちのために炊き出しも振舞っていた。御殿はそれを間近で見てきた。だからこそよく分かる。源次の手は人々を幸せにできる手なのだと。
「御殿、お前はとても変わった。強くなったよ」
源次の瞳に光が宿る。未来を携えた希望の光。
御殿は調太郎と向き合った。
「調太郎。想夜が言うように、あなたは自分の使命を続けてちょうだい。暴力沙汰は専門家であるわたし達に任せて。ずっと続いてきたあなた達の悪夢を、この手で拭って見せる。地獄の妖精ごと消し去ってみせるわ」
「カッコつけやがって……御殿のクセに、生意気だ」
調太郎の目頭がふたたび熱くなり、胸の奥からこみあげてくるものを堪えた。それをごまかすよう、御殿の艶やかに伸びた髪をわしゃわしゃと手でかき乱す。
「ったく、こんなにサラサラヘアになりやがって……」
御殿のくせに。
御殿のくせに。
薄汚い検査着に包まれたあの子は死に、生き返り、強くなり、今こうして暴魔に対抗できるエクソシストとなって帰ってきた。生まれたばかりの雛が育ち、やがて親のもとを去ってゆく。それがどれだけ嬉しくて切ないことか、親代わりだった調太郎には、陳腐な言葉でしか表現できなかった。
晴湘市で御殿を引き取った後、タバコも女漁りもやめた。親代わりになろうと懸命になる青年の背中を、雛はちゃんと見ていた。だからこそ、今の御殿がここに君臨しているのだ。
メイヴがあることに気づき、語り掛けてくる。
「のう? 調太郎さん。たしかに人間の中には自分の利益優先で、弱者の誘拐までをも企むお調子者がおる。じゃが、晴湘市の誘拐事件はババロアの想定内じゃよ」
「想定内?」
「うむ。ババロアのことじゃ、誘拐犯がさらなる利益を求めて裏切ることくらい、最初からお見通しじゃ」
メイヴの手前、調太郎は頭を悩ませた。
『妖精を怒らせると、このような世界になるのです――』。
――誇らしげにババロアが言っていた言葉は、犯人の悪行を指すのではない。真の意味は、エーテルの感染にあった。
「汚染エーテルとはウイルスみたいなもの。感染させた子供に恐怖を与えることで、特殊な悲鳴を作り出すことができるようじゃな」
「特殊な悲鳴? 子供まで感染実験に使っていたいうの?」
想夜をはじめ、一同が騒然とした。
「うむ。ババロアは本来、これと同じ周波数を作り出せるのだが、数年前から声帯を痛めておってのう、誰かの声無しでは集団をうまくコントロールできないらしい。事件当時、誘拐された子供の悲鳴ひとつで、日本中にいる感染者の子供たちを動かすことができた。鴨原副所長はこれをDDos攻撃と呼んでいるがの」
「誘拐された子供がキレたり、集団で押し寄せたりしたのは、ウイルスの感染作用だったってことか?」
狐姫は怒りで肩を震わせていた。
「それだけじゃない。それかだけの膨大なハイヤースペックともなれば、ババロアの力の源は魂じゃ。魂たちを自分のテリトリーに縛り付けておくこことで、魂たちからエーテルを補給しているのじゃろうて」
御殿の顔が強張った。
「そ、それじゃあ、殺された人達の魂は……!?」
メイヴは静かに答えた。
「人々の魂は今も、眠ることができないでいる。死んだ土地に縛られたまま、苦痛は続いておる――」
如月の顔が青ざめてゆく。
「じ、じゃあ、碧さんの魂も……?」
メイヴが深く頷いた。
「人々の苦痛がお主たちに訴え、悪夢を見せているのじゃろう。惨いことじゃよ」
自分で狂ったことをしておきながら他人事のように、さも当たり前のように、悪行を誇らしげに語る黒き婦人。
「――それが、地獄の妖精なのじゃよ」
メイヴの言葉は調太郎にどのように作用したのだろう? 彼の怒りに満ちた表情を見た誰もが、容易く想像できた。
「実験や力の所有のためだけに、こんなことをする奴が本当にいるのかよ……」
「それがいるのじゃよ。そして今、そやつはお前らさん達がずっと守ってきた晴湘市に君臨している」
メイヴは調太郎、如月、源次へと視線を変えながら言った。
「悔しくはないのか? お前さん達がずっと愛してやまなかった領土を取られても、ただ黙って指をくわえているだけか?」
「そんなわけねえだろ! これは弔い合戦だ! あのクソババア、絶対に許さねえ!」
調太郎の瞳の奥に熱い焔が現れる。メイヴはそれを見逃さない。
「多くの眠れぬ魂を解放できる唯一の方法がある。それを可能にできるのが妖精界の歌姫なのだが、ババロアはそれを恐れてか、歌姫から声を奪っていきおった。それが原因で、妖精界も面白くない事態に陥っている」
歌姫の声は妖精たちの心を穏やかにしてくれる。乱れた心の波長を整える作用がある。
「だから最近、人前に出てくれなかったのね……」
想夜がションボリと肩を落とした。バイトで疲れた体を癒してくれる彼女の歌声。それがどれだけ支えになっていたことだろう。
メイヴの肩に妖精が舞い降りた。
(あれ? あの妖精は京極隊長の……)
首を傾げる想夜の視線の先、メイヴが何やら妖精と話し中。
「おお。持ってきてくれたか。どれ――」
メイヴは妖精が手にした小さな果実を受け取ると、それを調太郎に投げてよこした。
「ほれ、受け取れ」
調太郎が果実を片手でキャッチ。職人のクセなのか、手触り、香りなどを楽しみながら、淡いピンク色の果実を不思議そうに見つめている。
「桃に似てるが……少し違うな。 ……これは?」
「それは妖精界の果物じゃ。ネクタルという甘い酒にも使われておる。どうじゃ? それで景気づけに菓子でも作ってはくれぬかのう?」
「は? 菓子?」
「ババロアの過去の行動から推測するに、失踪した子供たちは既にウイルス感染させられ晴湘市に捕らえられているはず。感染した子供たちの血を使えばゲッシュ界への経路構築には効果が高い。その果実を調理して食せばウイルス駆除ができるはずじゃ。何としても子供たちを取り戻すのじゃ。やってくれるな?」
調太郎はこんがらがった脳の中身をぶちまけるよう、髪の毛をクシャクシャに引っ掻き回して唸った。視界に想夜の顔が入り、脳内で先ほどの会話がリピートされる。
誘拐された子供たちには皆、聖色サンドの生みの親が作ったお菓子を待っているのだ。
調太郎がボサボサの金髪をかきまくった。
「あ~、もう! 妖精の小難しい話にはついていけねえし、アンタが何を考えているのか分かんねえけど……けど! 狂った連中のケツを蹴り上げてくれるってんなら……協力するよ」
「賢い選択じゃな」
意気投合。メイヴにつられて調太郎もニシシと笑った。
そこへ、人知れず部屋から出ていたはずの叶子が、気難しい顔をしながらやってきた。
「おう叶子、どうかしたのか?」
能天気に聞いてくる狐姫に対し、叶子が端末を見せながら答えた。
「ええ。さっきから双葉さんに連絡を入れてるんだけど、誰も出ないの」
御殿の目が鋭くなる。
「まさかババロアの手下が……? 様子を見てくるわ――」
身を乗り出す御殿をメイヴが引き留めた。
「待て。ルー邸には叶子と真菓龍の令嬢を向かわせる。おまえはすぐ晴湘市に向かえ」
「で、でも……」
躊躇う御殿の肩――叶子はそこに手をかけ、静かに諭す。
「メイヴの言う通りよ。こうしている今にも、地獄の妖精は子供たちの血で宴を開こうとしている。私も一緒に晴湘市へ行きたいけれど、今は手分けして敵の一手を阻止しましょう」
「叶子……うん、わかった。ロナルドさん達は任せる」
御殿の横の想夜が胸を叩いた。
「大丈夫! 想夜たちに任せて! 必ず晴湘市を取り戻してみせるんだから!」
その瞳、覚悟の証。決して揺らぐことのない決意が宿っている。
そこへ双葉から連絡が入った。
『――緊急事態よ! 誰かこっちに向かわせて!』
叶子が端末に問いかけた。
「どうしたの、双葉さん!?」
『変な黒い騎士たちに囲まれた! リンとおじさんは無事よ!』
「状況は!?」
『現在交戦中、屋敷からの脱出は無理ポ! あーし1人じゃヤバいかも!』
叶子が華生に目配せ。華生は意を決したように頷いた。
「わかったわ。今から華生とそっちへ向かう。お願い双葉さん……持ちこたえてちょうだい」
『ガチャーーーーン!!』
端末の向こうで大きな音の後、通信が途切れた。
叶子の最後の言葉は双葉に聞こえたのだろうか? 端末を切ったあと、叶子と華生が部屋を出てゆく。
「双葉さんの援護にまわる。何としても子供たちを連れ戻してちょうだい――」
叶子を見送るメイヴが想夜の袖を引っ張った。
「おい雪車町、お前に話がある。ちょっと来い」
「また何か企んでいるんじゃないでしょうね、メイヴ」
目の前の幼女には何度も痛い目に合わされている。疑うのも無理はない。
「ワタシはお前の上司だぞ? 様をつけんか、様を。何度も言わせるな、ったく――」
「だってあたし、もうフェアリーフォースとは関係が……あん、引っ張んないでくださいメイヴ様ぁ」
メイヴは強引に想夜の手をとり、せっせと部屋を出て行った。というより、リボンのお姉さんに連れられた子供のようでもある。
廊下に出たメイヴは、想夜の数歩先を歩きながら、飴玉大の物体を投げてよこした。
「ほれ、土産だ。持ってゆけ――」
想夜が一直線に飛んできた飴玉をあたふたと両手でキャッチする。
「なんです? これ?」
飴玉をかざして不思議そうに見つめていると、メイヴが偉そうに腕を組んでドヤ顔を見せてきた。
「それはヴォイスリバティ。エーテルリバティを真似て作ってみた。どうじゃスゴかろう。恐れと敬意を表して天才メイヴちゃんと呼べ」
「天災メイヴちゃん」
「言うと思ったよ。背中に毛虫を入れてやろうか?」
「うう~~~~っ」
ゾクゾクッ。恐れと敬意から背中がムズ痒くなった。
想夜はヴォイスリバティをかかげてみた。
「へえ~、きれいな宝石~、キラキラしてる……」
想夜は視線をヴォイスリバティからメイヴに移して首を傾げた。
「これ、何に使うんです?」
メイヴは自分の首に人差し指を当てた。
「ババロアの首に打ち込め。ババロアの声帯を弾き飛ばすのだ。それで相手のハイヤースペックを無効化できる。弾き飛ばした声帯もヴォイスリバティの追跡プログラムによって本来の主の声帯へと帰ってゆく。現在のババロアの声は歌姫のものだ。花を植える……鉢に魅力がないのなら、元の花園に戻したほうがしっくりくるだろう? それくらい単純な答えじゃよ」
声というものは、その者の存在を表す波だ。心が濁った者が麗しい声を発する度、声そのものも濁ってゆくもの。
気に入らない気に入らない、まったく気に入らない――歌姫の声が本来の主のもとから離れているこの状況に、メイヴは酷く落胆するのだ。
想夜の疑問は続いた。
「どうして、あたしにこれを託すのですか?」
メイヴは想夜を真っすぐに見つめ、それに答えるのだ。
「それは、お前がエーテルバランサーだからさ」
「……え?」
なにを言われたのか理解できぬまま、想夜はポカンと口を開いている。
その疑問に答えるよう、メイヴが口を開く。
「考えてもみろ。フェアリーフォースから懲戒免職を受ければ、寮住まいすら出来なくなるであろう」
たしかに。想夜だって、いつ寮を追い出されるのかと不安に満ちていたはずだ。
「だが、お前の呑気な寮生活は続いている。特待生制度も続いている。つまり――」
メイヴの言葉を前にして、想夜は息を呑んだ。
「つまり雪車町想夜、お前はまだフェアリーフォースから任を解かれていないのだよ」
「あ、あたし、まだ……フェアリーフォース……、フェアリーフォースの隊員ということですか!?」
素っ頓狂な声を上げる想夜の手前、メイヴは指で耳栓をした。
「声がデカい、コロスぞ。お前さんが水晶端末にアクセスできないのは、サーバー側の問題じゃて。現在、京極らが問題解決に当たっている。じきに復旧するはずだ」
「そんな、そんな……あたし――」
想夜は握り締めた拳を胸に当ててうつむいた――そこに眠る思い。聖色市のエーテルバランサーとしての役割り。それらがまだ終わっていないことを自覚する。
「お役御免だったはずのお前が、どうしてこのような未来を描いているのか……それはお前が一番よく知っているのではないか?」
想夜はなにより、エーテルバランサーとして人間界の平和のために戦ってきた。そこにある想い――人間界が好きだから。ひたむきで一途な日々が、己を満足させることができる未来を構築してゆくのだ。
未来は想夜をエーテルバランサーとして迎え続けている。妖精界の小さな戦士を手放すことを拒んだのである。
当初の入隊理由は、ディルファーを消すための核弾頭だった。暴撃妖精にぶつけてお役御免――それが想夜のフェアリーフォースでの存在理由だった。
けれども時は流れ、日々刻々と変化を遂げた。
想夜は、己の力で未来を捻じ曲げたのだ!
メイヴは想夜の顔を覗き込み、白い歯を見せながら皮肉めいた。
「またたっぷりこき使ってやるぞ? ……嫌か?」
意地悪な上司の意地悪な問いに、想夜は首が千切れるほど左右させた。それはそれは強く、ポニーテールの毛先が頬にペシペシ当たるくらいに。
「ううん! あたし、まだまだフェアリーフォースの隊員として妖精たちの力になりたい! 人間たちの力になりたいもん! だってこの想いは……押さえ切れないくらいに溢れているんだから!」
2つの世界に想いを馳せる感情の波――見せられないのが悔しいけれど、小さな戦士はそれを確かに抱いている。その場にいる小さな女王にだって、それが見えているはずだ。
雲の上の存在であり、一戦交えたこともあるが、メイヴは上司。想夜ひとりの役職くらい好きにできる。
「シュベスタ戦以降、状況が劇的に変わってしまってのう。それ故、おまえの暴撃妖精登録も抹消しておいた。しばらくはランクDのままだが我慢しろ、すぐにランクアップしてやる。今、フェアリーフォースは不安定な状態だが、おまえが人間界で行動する分には何の問題もないだろう。ましてや酔酔会は、フェアリーフォースにとっても危険因子。お前が酔っぱらい共に立ち向かうのであれば、フェアリーフォースにとっても好都合なのだよ」
それは敵の敵は味方? 捨て駒という意味か?
……否、そうではない。想夜はすでに、立派な戦士として認められているのだ。
メイヴのなかで、想夜はなくてはならない駒へと変貌を遂げている。ポーンがクイーンになるには、遠く遠く、険しい道が待っているだろうが、メイヴの手元のカードを彩るには充分な存在だ。
「やってやる! あたし、やってやるんだから!」
両手で拳を作る。俄然、やる気が満ちてくる。
「ゲッシュの呪いはそのままにしておく。お前と離れ離れでは鬼も寂しかろう。せいぜい可愛がってやれ」
「了解!」
白い歯を見せながら笑顔の想夜。姿勢を正し、踵を合わせてビシッと敬礼。
「うむ、良い返事じゃ。鴨原に買ってもらった菓子をくれてやろう。今、子供たちに大人気らしいぞ、ほれっ」
と、スーパーで買ってもらった玩具入り菓子の箱を投げてよこした。
「わーい、お菓子だーい好きぃ♪」
飛びつく想夜。お菓子につられて両手を伸ばしたまではよいものの、やけに箱が軽くない?
「中身は空じゃ♪」
「……」
お菓子の残り香でも楽しめと言うのか?
小一時間ほど経った。
想夜とメイヴの会話中、部屋を出て行ったはずの調太郎が風呂敷に包まれた荷物を持って戻ってきた。
「あ、調太郎さん」
調太郎が想夜に風呂敷を投げてよこした。
「ほれ、チビ助、これ持って行け」
唐草模様の風呂敷。開けてみると、中にはたくさんのお菓子。ひとつひとつ丁寧に、フィルムに包まれている。
「うわあ、お菓子がこんなにたくさん!」
「妖精界の果実を練り込んでおいた。小腹がすいたら食え。子供たちの分もちゃんと残しておけよ」
「ありがとうございます調太郎さん! 大切に食べます!」
瞳を輝かせる想夜の手前、調太郎は自慢気な表情を作り、指で鼻っ柱を乱暴に拭った。
「おうよ!」
「えへへ」
互いに笑顔で相槌。
「死ぬんじゃねえぞ!」
「おーよ♪ 任せておいて!」
想夜が唐草風呂敷を背負った。ドンッと胸を叩き、背筋を伸ばして歩き出す。
「本当に、死ぬんじゃねえぞ――」
調太郎は小さな軍人の背中をいつまでも見送っていた。
想夜の横をヒョコヒョコ歩くメイヴが風呂敷姿を指摘する。
「滑稽じゃのう。お前はどこかの盗人か?」
「いいんですう。これから子供たちを奪いに行くんですう~」
絶景かな、絶景かな。晴湘市の
「やれやれ、京極に似おって……」
「え? どういう意味です?」
「なんでもない。どれ、ワタシも混ぜてもらおうかのう? ……その怪盗ゴッコとやらに――」
メイヴはニヤリと口角を吊り上げた。
準備は整った。
行こう、ババロア・フォンティーヌが待つ晴湘市へ――。
小さなエーテルバランサーが、風呂敷の傍らにワイズナーを背負う。
仲間たちと共に、死んだ街を取り戻す戦いに向けて。
奪われた魂たちの争奪戦を始めようじゃないか。
冷たいアスファルトの上で……。
帝王ホテルのロビー。
宗盛に呼び出された鴨原は、カフェの隅に腰を下ろしていた。
「ミネルヴァがシルキーホームに向かったという情報は確かだったよ。感謝する」
宗盛が深々と頭をさげた。
「大したことはないさ。それより、こんなところに呼び出してどうした? 医療費の請求か?」
悪態をつく鴨原が宗盛の腹部に目をやった――以前、その場所に向けて引き金を引いたことを悔やんではいない。鴨原には彼なりの考えがあったからだ。
宗盛はひとクセあるような企みのある笑みを浮かべて口を開いた。
「治療費の請求も結構だが、ババロアという女の情報提供をして欲しい。コネクション豊富なお前のことだ、他にも何か知っているんだろう?」
宗盛がねだるように鴨原へと目をやる。
「リボンの女の子を覚えているな? あの子たちは晴湘市へ向かうそうだ。既に出撃準備に入っている。戒厳令の敷かれた晴湘市はどこも通行止めだ」
「……」
無言の鴨原をじっと見る宗盛。
「……晴湘市には、どうやったら入れる?」
「ほお……、ミネルヴァに喧嘩を売ることになったか」
男2人。テーブルに置かれたコーヒーを寡黙にすする。
「晴湘市、か……」
鴨原はカップをソーサーに戻すと、一度呼吸を整えた。
「晴湘市への侵入経路を掴んではいるが……」
「……いるが? 続けてくれ」
先を急ぐよう、鴨原を促す。それだけ切羽詰まっている状況に置かれていた。
宗盛の立場を察した鴨原は、惜しみなく協力する姿勢を見せた。
「有毒ガスが発生しているらしいが、政府の発表はデマだ。ババロアが内閣府に金を握らせている」
「そうか。さすが元議員だな。つまり、晴湘市に侵入しても人体に影響はないということか?」
鴨原が難しい顔をする。
「――いや。黒い霧の成分が気になるが、少なくとも有毒ガスではない……が、安全とも断言できない」
「ほお」
「自衛隊が遠方から調査したが、視界が暗くて分からなかった。暗い霧の中に入ろうとすると、何故か進行方向に修正がかかり、街の中まで入ることができない。街周辺を覆うように霧の壁ができているようだ。まずはそこを越えることを考えなければならない」
「上空からの潜入は?」
「パラシュート部隊が試したが、霧に運ばれて隣街の海まで放り出されたよ。真冬の海水浴で風邪を引いたそうだ。お可哀そうに」
フフッ。鴨原が小バカにしたように笑う。生身の人間はベッドの上が一番安全ということだ。
「打つ手はないのか?」
宗盛の言葉に、鴨原は首を横に振った。
「いや、一ヶ所だけ侵入可能な経路がある」
宗盛がゆっくりと身を乗り出した。
「その侵入経路とは?」
「隣街の大浜市だ」
「大浜市? 川の向こうじゃないか。そこからどうやって彼女たちを渡らせる?」
鴨原は袋に入ったウェットティッシュを手にすると、ソーサーとソーサーの間に置いて橋をかけた。
「晴湘市の災害時、街と街の間に、こんなふうに……川をまたいでビルが倒壊した。それが橋代わりに使えるが……」
鴨原が少しうつむく。
「なにか問題あるのか?」
「横倒しになったビルの屋上から中に侵入し、地下に設置された扉を抜ければ晴湘市に出られるのは確かだ……が、扉を抜けた者はひとりもいない。そこで足止めをくらう」
「扉付近に何がある?」
「『開かずの間』、だ。祈祷師たちが結界を張り巡らせている。小難しいパスコードが必要だそうだ。政府が調査したが、暗号製作者は行方不明。ひょっとしたら、もうこの世にはいないかもしれん」
鴨原の視界に、エレベーターから溢れ出てくる人々が飛び込んできた。皆、忙しそうにしていて、扉の向こうにどんな罠が待ち受けているのか、などと考えてもいない。日常に飼いならされると危機感はゼロになる。戦うことも忘れ、迫りくる脅威にさえも気づかない。そうやっていつの間にか危機は近づき、その者の命を奪ってゆく。
宗盛が問う。
「――話は変わるが、なぜMAMIYAに協力する?」
鴨原が吹き出した。
「おいおい、冗談はやめてくれ。これでも元MAMIYAの研究員だぜ? 忘れたのかい?」
MAMIYAに所属していた頃の鴨原は、それなりの貢献を果たしていた。シュベスタに移ったのは妖精界との密接な関係を築きたかったからである。結果、メイヴと手を組み、想夜、御殿、叶子の敵に回った。それがどういうわけか、シュベスタ崩壊後に状況は一変。鴨原は想夜たちにえらく協力的になっている。
「フェアリーフォースに協力していたにしては行動に矛盾がある。お前がかつてフェアリーフォースと仲良しだった頃、お嬢様と華生をフェアリーフォースに引き渡して戦力にしようとした。そこまでは理解している。御殿さんを消そうとした事実も理解している。けれども、お前が心底、御殿さんを消そうとしている気はしないんだ。おそらくは八卦である彼女がミネルヴァに渡る前に処分することで、ミネルヴァの戦力を削ぐことができるからか。それとも、御殿さんのことを思ってのことのか――俺も華生の養父だ。子供がいる以上、若い命が気になる」
話を終わらせたくなった鴨原がイラつきを見せ、重苦しいため息をついた。
「どうして気になる?」
「掌を返したように協力的になっているお前を見ていると、その胸の奥に眠るミネルヴァ潰しという計画が見えてくるんだよ」
宗盛は言うか言うまいか迷った挙句、口を開いた。
「八卦プロジェクトを始動させたのは鴨原、お前だ。御殿さんを消そうとする理由は、自責の念からじゃないのか? まさか御殿さんを消した後……お前自身も――」
鴨原の顔色が変わった。感情むき出しで早口にまくし立てる。
「勘違いをするな。全てはおまえの勝手な妄想だ。いつから余計な詮索をするようになった。いい加減にしてくれ」
鴨原の態度。もはや宗盛の予感が的中していたのは確かだった。
「そんなことをして御殿さんが喜ぶとでも思っているのか? おまえの命で何を清算しようとしてい……」
「黙れ!」
鴨原は強く、宗盛の言葉を制止した。ざわつく周囲の視線を睨み返した後、再び、静かに呟いた。
「情報提供はした。もう、放っておいてくれないか」
席を立った鴨原。宗盛に背を向け、振り向くこともないままロビーから去っていった。
帝王ホテルを後にした鴨原は、人の多いショッピング通りを抜けて国道に向う。
急ぎ足。常に急ぎ足でホテルから離れてゆく。少しでも早く、その場から逃げるように小走りに。宗盛に突きつけられた言葉から逃げるように。
途中、後ろのほうで何やら人々が騒ぎ始めた。何者かが人混みを無理やり裂いて走ってきたのだ。
肩がぶつかる度に発せられる通行人の声――それがだんだんと鴨原に近づいてくる。
一度は後ろを気にする鴨原だったが、振り向くことなく国道へと向かって歩いた。
人混みを抜け出てきた影が鴨原めがけ、いきなり後ろからぶつかってきたのだ!
一瞬だけ腰のあたりに痛みが走ったことに気づく鴨原。
(……?)
その後、腰に手を添え、それを手前に持ってくると……。
鴨原は真っ赤に染まった自分の手を、ただジッと見つめたまま、振り返る間もなく、その場に崩れた。
「え? なになに!?」
「きゃああああああ!」
「人だ! 人が刺されたぞ!」
とたんに周囲がざわつき、ギャラリーでごったがえした。
「救急車を呼べ!」
「やべえ、写真撮っとかなきゃ」
「おい、犯人が向こうに逃げていったぞ!」
髪を振り乱して逃げ行くは、女の姿をした通り魔だった。
「クケッ、クケッ、クケケッ」
通り魔――文字通り、通る、悪魔。不気味な笑い声を吐きながら長い髪を振り乱し、スクランブル交差点を走り抜けていった。
鴨原は遠のいてゆく通り魔を睨みつけながら呟いた。
「ミネルヴァ、か……」
くの字に倒れる鴨原をぐるりと取り巻くように、人々が覗き込んでいる。
(ババロア、フォンテーヌ……かなり、切羽詰まっているようだな……。 俺も、大概、だがな……)
アスファルトに広がる真っ赤な水たまり――鴨原はひとり、薄れゆく意識のなか、赤子のように丸くなり、静かに瞼を閉じた――。