3 八卦 叢雲朱鷺むらくも とき

 2年近く前のこと――。
 神威人かむいとという村がダムの奥底に沈んだ。

 とてもとても古くて小さな村――かつては侍たちが住んでいた村。色あせた灰色の木材の家屋が目立ち、真新しい技術などなかった。インターホンすらあったかどうか。江戸時代から進化を忘れたような、そんな古びた村。

 村人のほどんどは移住を済ませており、残るはある一家だけとなった。
 その一家、叢雲むらくもという姓。
 侍の末裔にあたる叢雲家は、先祖代々その屈強な血を受け継いできた。

 由緒正しき侍の血が住む村。
 長老は頑なに移住を反対したが、都市開発の影響もあり、神威人村の存在意義もなくなりつつあることから苦渋の決断を下す。

『役立たずの村を残しておくよりダムを建設したほうが国が潤うのではないか?』

 政府のいうことは正論だ。横暴な計画に思えるその話でさえ、神威人周辺の住人には願ったりだった。
 日本人は多数決が大好きだ。
 また、ダムを建設することで水不足や水害の拡大を回避できる。水没などの問題で隣町に被害がおよぶことが政府にはネックだった。これを回避するためには神威人村をダムの底に沈めるしかなかった。ましてや水力発電もできるとなれば、一石二鳥である。発電事業にも拍車がかかろう。

 先端技術には縁のなさそうな神威人村ではあったが、村には優秀な者が存在した。

 ここで少し難しい話――。

 バイオ研究について。
 DIYバイオ(Do it yourself biology)。
 研究所といったクローズドな領域から出て、一般人の生活の中で研究することをDIYバイオと呼ぶ。一般人にもバイオ研究に参加してもらおうというコンセプトのもと、これが成り立っている。これに参加している一般研究人をバイオハッカーと呼ぶ。例えば皮膚の下に機械を埋め込み、あらゆる通信技術を取り入れた人を目にしたことがあるだろう。
 研究とは、必ずしも白衣の集団だけが行っているわけではない。一般にも広く普及している。
 DIYバイオの行く先には、体内にチップを埋め込んで生活の一部を手助けすることにも使われる。想夜たちフェアリーフォース隊員の手首に埋め込まれた認証チップもそれに当たる。

 ――生態系とテクノロジーのコラボレーション技術。

 近年、肉体のテクノロジー化が進んでおり、MAMIYA研究所、ミネルヴァ重工が目立った業績を上げていた。
 とくにミネルヴァ重工は人工臓器への執着が強く、MAMIYAのトロイメライに匹敵するほどの人工細胞の作成に成功している。その人気たるや、MAMIYAをも凌ぐ勢いで、人工臓器にも関らず、時間をかけずに体と馴染ませることができ、コストパフォーマンスにも優れている。そんな理由から世界の注目を集めていた。

 つまるところ、『家を買う金と覚悟があれば、思い通りの体が手に入る』という謳い文句を遠まわしに言っているわけだ。
 
 ――技術は必ずしも巨大な研究施設が独占しているわけではない。

 神威人村。有能な少女が一人の青年の細胞に大容量のデータを上書きし、しばらくの間様子を見ることにした。その後、少女は消息を絶った。まだ10代だった。
 
 難しい話をもう一つ。
 『DNAストレージ』という言葉をご存知だろうか?

 細胞に情報を記録させる技術――生物たちが持つDNAには、一定のデータを埋め込むことができる。その領域をDNAストレージという。理論上、生物は1グラムのDNAに10億テラバイトのデータが保存可能だ。御殿、水角、リンのDNAには、このようにエンコード化されたディルファーのスキルデータが上書きされている。膨大なデータは圧縮されているので体への負担も少ない。八卦を発動すると、圧縮されたデータは脳で処理される瞬間に解凍、エンコード化され、御殿たちはディルファーのハイヤースペックを発動する脳波を作成する。八卦はこの技術を使って作り出された。

 村がダムに沈む少し前のこと。その青年に対し、この技術が施された――。
 青年の名は叢雲 朱鷺むらくも とき――神威人村、一匹の侍。『風』を司る八卦。
 

学者達の食事会


 一流ホテルにあるフランス料理のレストラン。そこに多くの学者が集まっていた。

 各研究施設が横槍を入れてきたのは、つい前日のこと。
 あるニュースが報じられてからすぐのこと。MAMIYA研究所に一本の電話。学者同士の馴れ合いのお誘いだった。

 『港の貨物置場で乱闘騒ぎ発生。被害者は鋭利な刃物で襲撃された模様――』

 テレビ局の報道は日本中に知れ渡っている。だが、詳細を知る者は一握り。いつかは忘れられ、事件さえもなかったことになるのが世の常。

 今回の食事会は、「世間に忘れられる前の出来事」が存在していたという証明になるだろう。

 貨物置場で暴れている連中をとらえた映像は、メディアに渡る前に研究機関が金にものを言わせて回収していた。その映像にいち早くありつけた彩乃は、学者として一目置かれている証でもある。
 妖精がらみに関与している学者は、MAMIYAやシュベスタだけではない。陽の目を浴びない研究でさえ、そこには誰かしらが関与しているものだ。

 日本に上陸しかけた暴撃妖精のことは、各機関の重役の耳に届いていた。
 ダフロマ上陸を阻止したのはMAMIYAである。それは彩乃たちにとって強みとなる功績だ。MAMIYAの戦力が各企業に知れ渡ったことにより、MAMIYAは強力な矛として君臨してる。


 ホテル内 フランス料理店。

 学者ひとりひとりの後ろにピッタリと護衛が付き添っている。
 御殿も彩乃のななめ後ろに守護神のように立っている。あくまで護衛だ。難しい話に参加できるほどの頭脳は持ち合わせていない。けれども神経を研ぎ澄ませているため、少々ピリピリしていた。

 ホテル入り口から店内までの通路、誰かに尾行されているような感じはしなかった。

 受付フロア。ガラス越しにビルがそびえ立つが、そこからの狙撃もなさそう。
「水無月彩乃様と……咲羅真御殿様、ですね。ご案内します――」
 彩乃と御殿を女の案内人が出迎える。陳腐な笑顔もなく、気取った感じの店員だ。
 黒ずくめの御殿はぎりぎりドレスコードに引っかからなかった。高級料理店という名目がそうさせているのか、女の傲慢な態度を目にした御殿は、それをいい接客だとは感じなかった。

 きらびやかな通路が奥へと続き、2人は窓のない個室に案内された。


 無駄に広い空間に大理石の長テーブル。純白のクロスが敷かれた上に、たいそうなムニエルが皿に盛られていた。
 対面式に並べられたイス。そこに彩乃や他の学者が席についている。

 御殿の視線の先にミネルヴァの重役がいる――柏木という男だ。下から見上げる冷やかな視線が、企みのある蛇のようで不気味だ。頬が痩せこけているクセして顔全体がヌメッとした色艶で覆われ、常に獲物を狙うように、ただジッとMAMIYA側を見ている。彼が人間であることに御殿は違和感を覚えた。そのくらい薄気味悪かった。

 雑談が他の客に漏れることはない。けれども御殿は、耳をすまし、周囲に警戒しながら緊迫した状態を続けた。

 さきほどから料理に手をつけているのは柏木ばかり。他の学者は料理そっちのけで小難しい話に酔いしれており、難しい話で己のプライドを保っていなければ落ち着かないのだろう。

 柏木は終始余裕の表情。この違いが何を意味するのかが、これから分かるのだ。

 彩乃はというと、ナプキンを膝に敷いてはいるものの、まったく手付かずの状態。並べられたナイフとフォークが位置を保ったままだ。食事の時間にしては、あまり楽しくなさそう。


 御殿のアングラ嗅覚がそうさせるのか、先ほどから気になっていた方向に目を向ける。
(……上映会?)
 御殿の視線の先にはプロジェクター。それが今回のメインテーマとなる。

 モニターに長髪長身の人物が映っている――スラリとした細身ですまし顔。体型からは性別すら分からない。胸の膨らみはなく、凜とした雰囲気は侍のようでもあり、余計な口出しもないまま、ただ監視カメラを一瞥し、つまらなさそうに目を閉じた。小物には興味ないといったところか。

(口に何かくわえている。タバコ? ……いや、あれはシトラススティックね)

 シトラススティック――タバコ状の細長い筒の中に柑橘系パウダーが入っており、吸い込むと喉や肺がスッとする嗜好品。空になった筒は地面に捨てても雨風によって土にかえるエコ仕様である。

 突如、青年をグルリと囲むよう、男たちが映り込んだ。と同時に青年はシトラススティックをペッと地面に叩きつけるように吐き捨て、敵を睨みつける。戦闘意欲は満々だ。

 御殿が気になっていたのは、侍風情が装備している身の丈以上もある竹ざおのようなもの。いつも布に包んで肌身離さず持ち歩いているのだろう。
(棒術か剣術の使い手であることには違いなさそうね)
 御殿はモニターを睨みつけている。

 青年からは尖った殺気は感じられず、少なくとも猟奇殺人を好む輩には見えない。戦闘に突入した途端に性格が変わり、ドンパチと撃ち始めるような短気にも見えなかった。ただただ、川の流れのように、静かに、そこに立っているだけである。

 映像の最後で青年は低く構え、刀の柄に手をかける。

(……斬った、の!?)
 早すぎて確認がとれないことに愕然とする御殿。
 その後、周囲に群がる男たちが呆然と直立。戦場に一滴も血が流れぬまま、立ち尽くす群れの中心を青年はひとり、かき分け、歩いて消えた。

 ――映像はそこで終わっている。


 映像の件で学者たちが顔を近づけていた。
「ふむ……ハイヤースペクターか、参ったな。スペックハザードがらみかもしれない」
 初老の学者が頭を抱えている。論理的に考える面持ちでさえ、周囲の学者に不安を与えていた。

 それを見るや否や、ひとりの学者が鬼の首を取ったかのように勝ち誇った態度で口を開く。
「妖精らしき存在が見あたらない事から察するに、彼が八卦であることは間違いないな」

 口ゲンカ。もとい議論が始まった。

「決めつけるのはどうかと思うぞ? 彼に能力を継承している妖精がその辺に隠れているかもしれんではないか」
「なんだと? そんな者がどこに隠れているというんだね? 透明人間じゃあるまいし。君がここに連れてきてくれるというのなら信じるがね。子供じみた結論にいたるのはいかがかと……」
「子供じみているのはどっちだ! 先ほどから私の肉を盗み食いしているクセに!」
「何をワケのわからんことを! 盗み食いしているのはどっちだ! そっちだってこっちのフルーツをつまんでいるじゃないか!」

 他の男性学者が提案をする度、別の学者が噛みついてくる。挑発を食らっては憤慨し、相手をねじ伏せるために論破に命をかける。挙句の果てには意味不明な発言――そんなプライドの塊たちを見る度、御殿は心の中で深くため息を漏らすのだ。

 御殿が彩乃に近づく。
(水無月先生も大変ですね)
(ふふふ、いつものことよ)
 耳打ちする御殿に柔らかな視線を送る彩乃。

 プライド同士の殴り合いが続く中、やがて己の立場が危うくなった男性学者が攻撃対象を彩乃にそらしてきた。
「水無月さんは先ほどから黙っているようだが、あなたの意見はどうなんですか? ご高説願いたいものだな」

 一部始終を聞いていた彩乃が静かに目を閉じたあと、ゆっくりと口を開いた。

「映像を拝見する限り、少なくとも、ここで結論が出る内容ではありませんよ。犯人が分からないままテレビで議論を繰り返しているコメンテーターと一緒です。話し合ったところで犯人が出頭してくるわけないじゃないですか。出演料の無駄遣いはスポンサーへの冒涜です」

 彩乃先生、ごもっともです。

「私たち学者はコメテーターではありません」
 彩乃がビシッと言ってやった。

 すかさず敵意むき出しの声が彩乃に襲い掛かる。
「そんなことは分かっている。我々を馬鹿にしているのか?」
「MAMIYAに飼われているからっていい気になってるんじゃないのか?」
「いい気になんてなってません。私はただ――」

 各々が言いたい放題。彩乃が喋っている最中も「今か今か」と噛みつく準備をしている。何かしら反論しなければ気が済まない学者たち。それがプライドの高い人物の思考回路。そうしなければ生きてゆけない思考回路。そうしなければ生きてゆけない世界。

「水無月さん、大体あなたはシュベスタで八卦を生み出したチームでしたよね? 分からないことがあるってのは、責任逃れではないのですか?」

 サンドバックにされる彩乃を見ては、面白くなさそうに顔をしかめる御殿――あーもー、聖水をぶちまけたい! うるさい学者だけ蒸発しくれないだろうか? 狐姫に噛みついてもらおうか? それとも額のど真ん中に銃口を突きつけたら大人しくなるのか? ……なんて本音、母にはナイショ。

 学者たちの矛先は彩乃だけではない。黙って聞いていた御殿にも突っかかってくる始末。

「後ろでボケッと突っ立っている君もMAMIYAの犬なのだろう? 何か言ったらどうなんだ?」
「鴨原氏がリタイヤしたとあっては何もできんだろう。もっともシュベスタ同様、鴨原氏も大した男ではなかったがね」

 多くの失笑の中で、御殿と彩乃が余裕の笑みを浮かべている。目の前の大人の姿をした子供たちを生暖かい目で見ている――鴨原は馬鹿にされるような下っ端な男ではない、それが分かっているからだ。ましてやここに沢の八卦がいることを学者たちは知らない。御殿の行動一つで、個室にいる全員の顔から血の気が引くことなど誰が予想できようか?

 彩乃が御殿を庇うように口を開いた。
「ボディーガードに噛みつく暇がおありのようですが、そちらの研究機関は映像の人物に対して何をするおつもりですか?」

 彩乃の視線の先の学者、ぐうの音も出ない。

 彩乃は続けた。
「では皆さまにお聞きします。この中で八卦に遭遇したことのある学者はいらっしゃいますか?」
 彩乃がグルリと学者たちを見渡すと、即返答がくる。
「逢ったことはないが映像でなら見たことあるし、数値化されたデータも見たことがあるぞ? 知り合いの研究者が妖精にも詳しい――」

 でた! 友達の友達がUFO見たことあるぞ発言! ――「分かりません」「知りません」「できません」「持ってません」が言えない奴の口癖。陳腐なプライドのオンパレード。

 彩乃が苦笑する。
「いえ、あなた自身が八卦を見たことがあるのか? と聞いているのです」
「だーかーらあー! 八卦のデータを見たことがあるっていってるじゃないか!」

 バンバンバン!

 男性がテーブルを叩く度に食器がカタカタと揺れ、平皿のスープが波紋を打っている。学者の集まりとは言え、そのほとんどが彩乃の知識にすがるためにやってきた連中だ。この場所に真の学者は、ほんの一握りしかいない。
 彩乃、相手は学歴だけ持った子供だ。その辺にしといてやれよ。

 彩乃が肩をすくめると、横から柏木が言葉をはさんできた。
「やめませんか皆さん、大人気ない……」
 御殿は心の中で睨みつけるように柏木に視線を向けた。

 柏木――よく見れば痩せこけた頬が灰色にも見える。やや尖った耳と横に引き上げたような目。まるで出来損ないのドラキュラだ。

(ミネルヴァの男……)
 相談役のババロアの話が出てくるのを今か今かと待ち望んでいた御殿だったが、驚いたのは柏木の次の言葉だった。
「映像に映っている青年は叢雲朱鷺。一応男性。そして……『風』の八卦ですよ」
「……なんですって?」
 ギロリ。御殿が睨みを利かせた。まるでブドウの皮を突き破った果実がヌルリと、心の中から眼球が飛び出る感覚に見舞われた。

 柏木はフォークでステーキを切りながら、上目づかいで御殿を見てくる。血の滴るような肉をむさぼる仕草は、まるで人間のはらわたに食らいつく獣のようだ。

 瞬間、御殿と柏木の視線が交わる。

「そちらは確か……MAMIYAの番犬、咲羅真御殿さんでよろしいかな?」
 ミネルヴァはなんでもお見通し。肉をほお張り、咀嚼し、飲み込むとフキンで口を拭き、テーブルに両肘をついて指を組んだ。
 御殿の目つきがとたんに鋭さを増す。明らかにMAMIYAサイドの情報を掴んでいる笑みだ。敵の可能性が非常に高い、警戒を強めたほうが無難だ。

「あれが八卦……ハイブリッドハイヤースペクター」
 モニターに映った青年を前に、学者たちがざわついた。

「ははは、見ろ! 私の言った通りだっただろう!」
 勝ち誇る男。陳腐な男。鬼の首でも取ったかのよう。
「君は少し黙っていたまえ」
「なんだと!? 負け惜しみも大概にしたらどうなんだ!」

 彼らのやり取りはずっとこんな感じで続くのだろう――御殿はかまうのをやめ、柏木をまっすぐに見つめた。学者同士の話し合いに余計な口出しはご法度。それが歯がゆい。

 口ごもる御殿の態度を察した彩乃が柏木に質問をぶつけた。
「どうしてミネルヴァさんが青年の情報を入手しているのです?」
 彩乃の疑問はそれだけじゃない。いつ、誰が、どうやって八卦を生み出した? 抱える疑問に向けて、柏木がすんなり答えをくれるはずもなかった。
「こちらも企業秘密でしてね。MAMIYAに属しているあなたにも企業秘密の意味くらいは分かるでしょう?」
「そ、それは……おっしゃる通りですが……」
 彩乃は強張った表情で黙り込んだ。女の感というやつか、御殿が八卦であることがバレている気がしてならない。

 子犬のように縮こまる彩乃。
 それを面白がってか、柏木はさらに煽ってきた。

「もはや八卦プロジェクトはシュベスタの手から離れている。各企業や団体がディルファーのデータを所有していてもなんら不思議ではない。この先のビジネスにおいて、手駒なくしては太刀打ちなどできない。誰かが必要と判断したから八卦というソルジャーを作った。誰が作ったかなどどうでもいいこと。要は風の八卦が実在し、それを手にした者に軍配があがる、それだけだ。簡単な答えだと思いませんか? ねえ? 水無月主任?」
 ヌメッとした眼球。上目づかいで彩乃を捕えた。

 ミネルヴァともなれば、ディルファーのデータを人間の細胞に埋め込むなど造作もない。八卦を捕獲し、データを抜き出すことでさらなる研究への拍車がかかる――言わば、MAMIYAへの宣戦布告ともいえよう。

 御殿の頭に疑問が浮かぶ。
(ミネルヴァは風の八卦を捕獲し、新たな八卦プロジェクトを起動させようとしている?)
 柏木がナイフとフォークを置いた。
「弊社の相談役、バロア・フォンティーヌはご存知ですか?」
(バロア? たしかババロアの実名だったはず)
 御殿の視線が柏木に集中した。

 ええ知っているわ。酔酔会、地獄の妖精――御殿はそう心の中で吐き捨て、眉をひそめた。

 柏木は答えた。
「バロア・フォンティーヌ……彼女の存在がミネルヴァを築き上げたといっても過言ではない」
 だんだん見えない脅威が近づいてくる。それが御殿にはよく分かるのだ。

(御殿さん、落ち着いて)

 ここは任せてちょうだい――彩乃が御殿を目で制止する。すでにミネルヴァの情報のいくつかは彩乃の頭の中にある。

「御社のバロア氏が人工臓器の開発に力を入れているみたいですね。もしよろしければ、そのあたりのお話を聞かせてもらえますか?」
 彩乃が挑発ぎみに煽ると、柏木はニヤリと口角を上げた。
「よくご存じだ、話が早い。弊社は人口臓器開発としてMAMIYAさんと提携を結びたいと考えてるんですよ。そのために、どこに出しても恥ずかしくない技術力を維持してきました」

 MAMIYAの特許、トロイメライ――その場にいる全員の脳裏にその言葉が浮かんだ。

 柏木は舐めるように下から彩乃に笑みを見せた。かつて彩乃は、他人の笑顔がこんなにも気持ち悪いと思ったことがあっただろうか? 記憶にはない。
「バロアはMAMIYAさんが所有する技術、トロイメライとの共同開発を希望しておりま――」

「お断りします」

 彩乃、即答――この提案の裏には血の匂いがする。鳥肌が立ったことにより、ミネルヴァへの嫌悪感が一層増した。

 それに対し、柏木はやれやれといった感じのため息。
「天才とは言え、あなたはMAMIYAの研究員。いち主任のあなたに権限はないはずですよ? この提案をCEOに通していただけるだけでいいのです」
 彩乃が声を張り上げた。
「人造兵器でも作るおつもりですか? トロイメライは傷ついた人の体を修復するために作られた医療技術です。軍事技術ではありません!」

 想夜が自ら噛み千切った右手も、彩乃たちの命が支えている。

 柏木がヘラヘラと笑い飛ばした。
「軍事だなんてあなたも失礼な方だ。臓器に困っている人たちのためですよお。お考えいただけませんか? ……ね?」
 世の中には手足や臓器を失った者たちが多くいる。彼らに手を差し伸べてこそ、学者冥利につきるというものではありませんか? ――あれやこれやと、善人気取りでまくし立てる柏木。まるでどこかのプレゼン、もしくは詐欺商法の語りべのようだ。

 ミネルヴァの提示してきた暗黙の結論は、「叢雲朱鷺の情報と交換」ということ。それくらい、朱鷺のことを知っているらしい。

 トロイメライの技術をミネルヴァに使用させるのは危険でしかない。戦争絡みとしか考えようがないからだ。そのような未来が待っていることを考えると、身の毛がよだつ。かつてはメイヴも考えていた計画だったが、実行に移すことはなかった。使い方次第では悪魔の技術になりうるのだ。

 彩乃の表情が強張ってゆく。

「バロア氏から何を言われたのかは分りかねますが、トロイメライを今のあなたたちに使わせるわけにはいきません」
「分っていただけませんか。もう少し物分りのよい方だと思っていたのですが……」
「買いかぶりすぎですよ。同意できない意思を前にしては、理解力が乏しい石頭でして……」
 彩乃の意思は固い。今なら頭突きでミネルヴァの本社ごと木端微塵に粉砕できそうだ。その迫力を前に、今まで威勢がよかった学者たちが沈黙してしまった。

「……ふう」
 柏木は「やれやれ……」と、ふたたび小バカにしたタメ息をつく。テーブルの上に両肘を立て、組んだ手に顎を落として寄りかかる。

(交渉決裂ね――)
 御殿が静かに瞼を閉じる――賢い彩乃のことだ、間違っても戦争への加担などしない事を御殿はよく理解していた。

(……ん?)
 突如、御殿が睨みつけるように忙しなく眼球を動かした。強力な空調でもないのに、先ほどから自分の衣服がヒラリヒラリと動くことが気になる。誰かに襟や袖を触られている感じもする。とはいえ、目に映るのは学者ばかり。それ以外には誰も見当たらない。
(気のせい……? 誰かに見られていた気がしたのだけれど……)
 御殿は首を傾げた。

 最終的に残ったのは、ミネルヴァが風の八卦という強力なカードを情報として握っている事。つまるところ、「この情報と引き換えに何かを差し出せる者はいるか?」というミネルヴァの売り込み営業でもあった。
 当然ながら、それに挙手する者は皆無。

 ――学者たちを黙らせたまま、プライドのぶつかり合いは幕を閉じた。


 彩乃と御殿、それに学者たちが去った後のテーブルにひとり、柏木が腰を据えていた。
 端末に連絡が入る。
「柏木だ。どうした?」

 端末に耳を傾けながら相手の話を無言で聞く。

「……そうか、準備が整ったか。こちらもMAMIYAとの話し合いが済んだところだ。結果は惨敗だったがな……。他の学者は想定通り無能の集まりだった」

 ズボンのポケットに手を突っ込み、天井からぶらさがるシャンデリアを見ながらニヤリと笑った。

「MAMIYAはしばらく泳がせておく。そっちのザコどもは放っておくとまた厄介なことをしでかすかもしれないな」

 通信相手に対し、静かに、冷たく言葉を発した。

「ロナルド・ルー、家政婦のハイヤースペクターは始末しろ。ロナルドの娘も八卦だったな、脳波を計測したい……首と心臓だけ持ってこい――」

 最後にこう付け加えた。

「ん? ああ、鴨原実か……そうだな。生かしておくと面白くなさそうだ――」

 柏木は要件を伝え終わると通信を切り、シャンデリアに灯る光を見つめた。
「さて、地獄パーティのはじまりだ……」

 その瞳のその奥――人の街が黒い世界に映っていた。


彩乃の鬱憤


 エレベーターに乗り込み、ドアが閉まった途端、彩乃は大きなため息をついた。
「はあ~肩凝った。なんだか退屈な時間だったわ。料理も全然美味しくなかった」
 子供のように駄々をこね、壁にもたれかかる母親の態度を見て、御殿は苦笑していた。
「有名どころの味ですよ? お口に合いませんでしたか?」
 ナントカという名前のシェフ自慢の料理。御殿の目には立派に見えたのだが、彩乃にはそう見えなかったらしい。
「だってえ、堅っ苦しい話をするときに食事なんかしないでしょう? 料理って楽しい話をしながらするもんじゃない?」

 日頃の鬱憤うっぷんも溜まっているのだろう、彩乃はダラダラとグチを続ける。

「それになに? あの店員の態度。『どう? わたし一流店で働いてますが何か?』、みたいに気取っちゃって。案内人ってそんなに偉いの? 料理の説明だって咬み咬みだったじゃないっ」
(ふふ……同意です)
 本当のところ、案内人が御殿に向ける馬鹿にした視線が気に入らなかったのだ。子供を馬鹿にされて何も感じない彩乃ではない。

 苦笑する御殿の横で、よほど退屈な時間だったのだろう彩乃が疲れ顔を作る。ましてや子供を護衛に立たせて自分だけ食事だなんて、彩乃にはできるわけがない。そんな理由もあって、彩乃は御殿の腕になれなれしく寄り添ってくる。

「――ねえ、御殿さん。おなかすいてない? 帰りになんか食べていこうか?」
 御殿は断ることもできず、
「軽い食事なら……」
 と、照れ隠しで答える。宗盛から護衛を任されているので彩乃ひとりをほっとくわけにもいかず、ただただ流されるばかり。けれど、たとえ護衛を任されていなくても、恐らくは同じ展開になっていただろうことは自覚している。それだけ母が気がかりなのだ。
「本当? どこで食べよっか? 御殿さんの好きなところでいいわよ?」
 彩乃は遊園地に連れて行ってもらう時の子供のようにはしゃぐのだ。

 ――食事の話は置いといて。

 御殿が彩乃に語りかけた。
「さっきのレストラン、妙な感じがしませんでしたか?」
「え? 特に何も感じなかったけれど……どうしかしたの?」
 御殿は怪訝な顔をする。個室にも関らず、終始、誰かに見られていた気がしたのだ。それは監視カメラのようでもあり、そうでもない。強いて言うなら、「意思を持った監視カメラ」といったところだろう。少なくともドローンは小型とはいえど目立つので考え難い。誰かが隣の部屋で盗み聞きをしていた気配もなかった。

 彩乃にその旨を伝えると、大丈夫よ、と手を握り返してきては安心感を与えてくる。

「隠しカメラかしら? 何にせよ見えない敵が用心深い行動をとるということは、こちらの戦力に警戒しているのよ。少なくともナメられているわけではなさそうね」
「睨み合いは続く、というわけですね」
「ええ。相手は黒い噂が絶えない企業よ。MAMIYAはミネルヴァにいい感情は抱いていないもの。とはいえ、ミネルヴァが脅威なのも事実」
 企業同士の小競り合いは日常茶飯事である。笑顔のまま、互いの首に矛先をつけて君臨している。
「何事もなく済めばいいのですが……」
「だといいのだけれど……神様はどの駒を進めるのかしらね――」
 神の手には、すでに最初の駒が握られてる。最初の一手で誰が動く?
 彩乃と御殿は煮え切らない感情を胸に、巨大なホテルを後にした。


親子のひととき。


 御殿と彩乃は、街なかの喫茶店で食事をとることにした。

 雑居ビルのテナントにあるこじんまりとした店内。客足はほとんどなく、ホールの席にポツンと御殿と彩乃が座っていた。

 他の雑談無き静かな空間。彩乃がウキウキ気分でメニューを手にし、子供のように覗き込んでいる。
「さてと、なにを頼もうかしら? 御殿さんは紅茶? なら私もそれにしようかな」
 母と子、無難なところでケーキセットを注文。


 ふたり、肩の力を抜いてのティータイム。
「水無月先生はコーヒー派だったのでは?」
「仕事中はよく飲むわよ。どうしても脳に糖とカフェインを入れておかないとスッキリしなくって」

 仕事疲れもあるのだろう。彩乃は無理して笑顔を作っているようにも見える。
 脳にカフェインと糖分を送るというしっかりとした理由を持っている。さすが学者。御殿のように「苦くて飲めない」という理由とはかけ離れている。
 真っ黒いコーヒーが出てくれば、カップの中にミルクどばー。砂糖どばー。似たもの親子。けれど今は屋外、さすがに人前では恥ずかしいのでやらない。 ふたり、肩の力を抜いてのティータイム。

 2人してストレートの紅茶の入ったカップに静かに口をつける。
「うん、美味しい」
 紅茶の味を知ってか知らずか、彩乃は文句ひとつ言うことなくご満悦。
「御殿さん紅茶が好きなのよね?」
「ええ、はい……」

 御殿は煮え切らない態度だ。こうして彩乃と雑談をする日がこんなにも早く来るとは思ってもいなかったので、何を話したらいいのか分からない。ましてや「学者としての仕事は順調ですか?」、なんて聞いたところで、彩乃から返ってくる内容についてゆけるはずもない。理科の授業はお手上げ状態。

 頭を悩ませていると、彩乃のほうから話をふってきた。
「どこか痛むところとかない? 体調は平気?」
 彩乃は終始、御殿の体の心配ばかり。アナタのお子さんはそんなにヤワじゃありません。蜂の巣にされてもスペクターに襲われてもビクともしません。
「いえ。 ……なんともありません」
 御殿は四角く包装された手ごろな大きさの包み紙を後ろに隠した。
 
「あの……八卦についてなのですが――」
 結局、雑談などできる余裕などなく、仕事絡みの話が無難だと思った御殿は、狐姫との接続に失敗したときの状況を彩乃に伝えた。

 シュベスタ戦で初めてレゾナンスを発動したわけだが、その際に能力の2重発動である『競合』が起きて散々な目にあった。その不具合をハイヤースペックコンフリクトと呼ぶ。

「――そうね、確かに八卦は不安定要素が多いけれど……」

 ハイヤースペックコンフリクトが発生した原因について。
 想夜が言っていたように御殿は元々、何らかのかたちで能力を発動していたがために能力の競合が起きてしまった。八卦はその有り余る能力の高さ故、力が体外へ漏れ出すことがある。御殿の場合、八卦を発動せずとも他人の能力を容易く自分のものにできるという状態にあった。日常生活において、周囲のやっていたことを効率よく学ぶことができた理由は『沢』の力の流出によるものだ。御殿のセンスだけではなく、八卦の力も手伝っている。ババロアに捕まり、酔酔会の価値観を植え付けられたらどうなっていたことだろう。考えただけでも恐ろしい。

 現在の御殿は力が安定しているために『沢』を徐々に使いこなしている。桁外れの学習能力も今となっては収まり、何かを学習するためには人並みの努力が必要だ。

「八卦は能力が高いという理由もあり、ハイヤースペックを発動していなくても力が外に漏れ出すことがあるの。溢れ出した力が周囲に飛び火しないためにも、力を逃がすためのアースや受け皿が必要かもね」

 御殿の場合は学習という形で受け皿が整っていた。だが、リンの場合はどうだろう? 能力を発動していなかったリンは雷の暴走が起こり、周囲の者たちを寄せ付けないほどの電撃を作り出していた。ブレインチューニングによって能力のコントロールもできるようになったが、力が溢れるのは非常に危険な状況を作るものだ。

「水角ちゃんはうまい具合に刀や身体能力に溢れた力を流しているみたいね」
 と、彩乃はカップに口をつける。
 御殿は可愛い弟が優秀ということもあり満更でもない様子。
「となると、先ほどの風の八卦も外に力を流している可能性があるということでしょうか?」
 御殿の言葉を聞き、彩乃は静かにカップをソーサーに戻す。
「かもしれないわ。あまりにも能力が強すぎる場合、あり余るエーテルから物体を作り出すといった具現化も考えられるのよ。ちょうど、妖精である想夜さんの羽のようにね」
 レストランで監視されていたような違和感は何だったんだろう? まさか風の八卦が発動する術にかかっていたのだろうか? ――御殿は頭を悩ませた。

 先ほどの集まりで鴨原のネタが上がったのを思い出した2人は話を変えた。

「鴨原先生はお元気にしてる?」
「ええ。リンさんの情報提供をしていただいたお礼を伝えに行きました」

 一度だけお礼をして帰るつもりだった御殿。だが、成り行きで鴨原の食事や、部屋の掃除なども行っていた。人の出入りが少ない書斎は散らかり放題。御殿はそれが気に入らない。
 最初は鴨原も嫌がっていたものの、強引な御殿に押され、しぶしぶ部屋の隅に移動し、そのあとは大人しく読書をしていた。まるで休日に邪魔者あつかいされている父親だ。「掃除の邪魔だからどいて」と言わんばかりに御殿が握る掃除機に追いやられ、自分の家にも関らず、たいそう肩身の狭い思いをしていた。

 鴨原は御殿との会話のなか、MAMIYAの話になる度に気まずそうに窓の外を見るクセがある。彼に多くの人々を傷つけた罪悪があるのは明白だった。悪人になる素質がない不器用な男である。想夜たちを頑なに拒否するのには、「自分には会う資格がない」と言っているのと同じ。そうやって自身をずっと責め続けている男。

「鴨原先生はちょっと強引な性格だけど、周囲の話には耳を貸す人だから、スジが通っていれば賛同してくれるし、協力してくれたりもするのよ?」
 と、彩乃は鴨原を擁護したりする。決して敵だらけの男というわけではなさそうだ。学者たちが鴨原を馬鹿にした途端、御殿と彩乃は面白くなさそうな顔をしていたのも事実。

 八卦プロジェクトを強引に進め、御殿たちに酷い仕打ちを行った。けれども先日はリンの命を救っている。本当に支離滅裂な性格をしている鴨原稔――きっと当の本人でさえも置かれている状況に首を傾げているに違いない。そう彩乃は推測している。

「わたしが八卦としてシュベスタで生を受けた時も、鴨原さんはいらしたのでしょう?」
 御殿の質問に彩乃が笑顔を作った。
「ええ。鴨原先生だけではないわ。あなたが生まれた時、シュベスタの皆が祝福してくれたのよ? もう覚えてないでしょうけれど……」
 答えた後、意味もなくカップを右へ左へ傾け、紅茶をゆりかごで眠る子のように揺らす。

 ――ゆらり、ゆらり。揺れる紅茶を見守りながら、彩乃は力なく微笑んで過去を思うのだ。

 やや元気がなくなった彩乃を見て、御殿が口を開いた。
「……シュベスタの地下で、水無月先生の日記を読ませいただきました」
「……そう」
 翳りかげりのある笑顔。彩乃はカップを口につけた。
 シュベスタが崩壊する前、御殿は自分が生まれた研究室を訪れている。
「わたしがマフラー、食べようとしたの……本当ですか?」
 御殿が恥ずかしそうに聞くと、彩乃は明かりが差したように顔を上げて微笑んだ。
「ええ。おいしそうにかじってた。子供の頃にはよくあることよ? もっと甘えたいという欲求があったのかな?」
「そうですか……」
 御殿は耳まで真っ赤になった。
「別に恥ずかしがらなくてもいいのよ。あなたはもっとたくさんの人に甘えるべきなんだから」

 彩乃には他にも伝えたいことがある。

「あとね、よちよち歩きだったあなたを、よく研究所から連れ出してね、庭でボール蹴りをして遊んだわ。芝生まみれになりながら、楽しそうだった」
 御殿は顔色を伺うように、彩乃の顔を除きこんだ。
「……まさか、ボールも食べようとした、とか?」
 彩乃がプッと吹き出した。
「ふふふ、それはないわ。安心して」
 青ざめていた御殿がホッとする。目に映るものすべてを口に入れるほど食い意地をはっていたのか、と愕然としなくて済んだ。

 厨房で働く従業員の姿が目に飛び込んでくる――額に汗し、忙しそうにフライパンを動かす料理人を見た御殿は、ふと過去の自分を思い出していた。

「水無月先生。晴湘市に、いらしてたんですね……」
「……ええ、行ったわ。あなたを探しにね」
 彩乃は静かにカップをソーサーに戻し、ポツリと呟いた。
「あの夜……街のすべてが炎に包まれていた。まるで地獄にいるようだった――」
「無理もありません。街の人たちは全員、死んだのですから……」
「……」
 御殿の言葉を聞いた彩乃が口を閉じる。そしてこう告げるのだ。

「実はね御殿さん、燃え上がる晴湘市であなたを探している途中、私は2人の市民と会っているの」

「――え?」
 御殿の表情が硬直した。その後、彩乃の目をまっすぐと見つめた。
「わたし以外にも生存者がいた……ということでしょうか?」
 彩乃がコクリと頷いた。
「ええ。おそらく私の車を使い、無事に街から逃げ出したと思うのだけれど……」
 御殿は口を閉ざし、頭をゆっくりと左右に振った。
「そんなはずは……街の人たちは皆、確かに――」

 皆、確かに死んだはず――その言葉を口に出せるほど、御殿の心は頑丈に出来ていない。

「狐姫さんが入院していた時も、あなたは病室で晴湘市のことを話していたようだけど、災害の後、私の車が晴湘市の隣街、大浜市で発見されたみたいだから、やはり2人が無事でいることは間違いないと思うの。20代の男の子と、10代の女の子だった」
「先生の車が……大浜市で見つかった?」

 死んだ。みんな死んだ――否。それは御殿の思い込みに過ぎなかったのだ。あの業火の中で生き延びた人はいない、そう決め付けていただけだった。

「政府の発表では晴湘市民は全員死亡しているはずです! なにかの間違いではないのですか?」
 身を乗り出すように聞いてくる御殿を見て、彩乃は少しビックリしている。店員や客たちも「何事か」とチラ見するほどに声が大きかった。
 周囲の反応に、御殿は口ごもって座りなおした。
「あなたの言うように、たしかに政府の発表ではそうだった。けれど……」
 彩乃は以前、沙々良の父である良夫から、ある資料を見せてもらったことがある。

 良夫には前々から、御殿捜索のために調査を依頼していた。良夫が入手した証拠。それは晴湘市が立ち入り禁止となった後、『生存者の証言』なる報告書だ。
 生存者の証言は人の目にふれる度、証言者の名前が抹消されていった。現在となっては特定不可能になっている。
 だが、良夫が見せてくれたものは比較的古いものであり、まだ生存者の名前が記載されていた頃の物だった。

「誰なんです、その生存者というのは!?」
 さらに身を乗り出してくる御殿に驚く彩乃だったが、生存者の名前はしっかりと記録している。メモ帳を取り出し、ページをめくって御殿に見せる。
「あなたの混乱を招くだろうと思って、話すのを躊躇していたのだけれど……この人たちが晴湘市の生存者よ――」
 メモ帳に記載された名前を見た御殿が愕然とした。



 【晴湘市 生存者】
 ・馬鳥ばとり 源次(39) 飲食店経営
 ・咲羅真 調太郎(24) 飲食店勤務
 ・如月 ひとみ(18) 高校3年

 【死亡者】
 ・馬鳥 碧 (享年28歳) 元飲食店勤務



「こんな……こんなことって――」
 紙切れを持つ手が震える。怖いのだ。心の準備もままならず、亡き人と思っていた人達との再会を果たすことができるかもしれないと考えると、これからどう行動したらよいのか不安でいっぱいになる。
「御殿さん。MAMIYAであなたと再会したとき、咲羅真という苗字に驚いたわ。けれどもあなたが私の子供の『コトノ』だという確証がなかったの。あの時の私には、どうすることもできなかった」

 御殿が咲羅真という姓を名乗っていたことを良夫は調べていた。だだ、生活の詳細を調べる前に晴湘市はあのような事態になってしまった。
 スプリンクラーの聖水でビショ濡れの御殿の髪をタオルで拭きながら、彩乃は「私のコトノであってくれたらいいのに」と、願っていた。
 そして、それは現実のものとなった。

 御殿がメモを彩乃に突き出して聞いてくる。
「この人たちは、今どこにいるんですか!?」
「ごめんなさい。私もその方たちを探しているのだけれど、個人情報守秘義務で厳重に保護されているらしくて、居場所の特定ができなかったの。古賀さんに頼んではみたのだけれど、偽名を使っているらしくてデータベースにもヒットしないみたい」
 彩乃は絶望を感じさせるような暗い顔で、ゆっくりと首を左右させた。
「ごめんなさい。調太郎さん達については、なにも分からなかった……」
「そうですか……」
 申し訳なさそうにする彩乃の手前、御殿は全身の力が抜けたように椅子に座りなおした。

 御殿は過去を振り返る――晴湘市で生活していた時、普通の男の子より胸が大きいことが不思議でならなかった。調太郎にはずっと隠していたけれど、やはり女の子のような膨らみがあるのは恥ずかしい。自分の肉体は一般的な性別という枠組みから外れている。それを悩みとしてきた。調太郎に言えなかったことをずっと後悔している。

「わたしの性別は一体、どこにあるのでしょう?」
「肉体が不安定だったんだもの。あなたが困惑するのはしかたのないことよ。ましてや妖精の遺伝子も受け継いでいるのだから、人間界の常識では語ることのできない領域にあなたはいるの」

 子供に肉体のことで重荷を背負わせてしまったことを、彩乃は酷く悔やんだ。

「けれどもね御殿さん。あなたは最初、女の子として生まれてくる予定だったの」
「……だから、ボディベースが女性よりなのですね?」
 御殿の骨格は女性のものである。
「ええ。もちろん御殿さんが男性を好きになろうと女性を好きになろうと、それはあなたが決めればいいことよ?」
「恋、ですか。正直、そういう感情は……よく分かりません」

 源次の前ではどう振舞ったらよいのかわからず、ただただ人見知り。はじめはツキノワグマかと思ったくらいだ。それを恋心だと調太郎にからかわれたのが嫌だった。勘違いされるということ、それは意思疎通の齟齬だから。気持ちを分かってもらえない歯がゆさから、調太郎の脛を何度蹴っ飛ばしたことか。人の本心はなかなか伝達しにくいもの。時として努力さえ理解してもらえないもの。

 初めて自転車の運転をした時は、正直言って恐かった。転んだら痛いことを知っていたし、痛くて泣いたことだってある。恥ずかしいもんだから、調太郎には内緒でコッソリ練習していた。ユラユラと揺れるハンドル。興奮がペダルを早め、勢い余って顔から地面に突っ込んだんだっけ。
 八卦の力も手伝ってか、割とスムーズに運転を覚えることができたが、転んだ傷はしばらく残った。

 バイクのクラッチに至っては店の裏口に隠れ、トングを逆にして持って練習していたこともある。調太郎にはすぐ覚えたように見えたらしいが、すべては陰の努力あってのものだ。

 料理を作ったとき、失敗したのが悔しくて、しばらく落ち込んだ。焦げた食材を口にする度、食べ物に対する申し訳なさが胸を打ち、次はもっとうまくなろうと努力に努力を重ねた。

 フライパンを振っても振っても、調太郎や源氏の味に近づくことが出来ず、ずっと悩んでいたことがある。今になっても彼らの味に近づいているのかどうか疑わしい。それでも一歩ずつ進んでゆくことを止めたりしない。
 すべては白鳥の水かき。御殿の犬かきのような頑張りは誰にも知られることが無かった。


 ババロアの話に移る。

 ババロアは2度、晴湘市を訪れている。
 1度目の目的は2つ。御殿の捕獲と、晴湘市を妖精の居住区にすること。ババロアは地獄の妖精だ。悪魔たちが居心地のよいと感じる領土を日本に作り上げようとしている。

 ならば2度目に訪れた目的は?
 この時、御殿はババロアの眼中になかった。御殿は問答無用で悪魔に刺殺されたからである。八卦として覚醒していない御殿を除外したとなると、不安定な戦士より、もっといい存在を入手したのだろうか?

「――あの時ババロアは、既に水角の培養に成功していたはず」
「水角ちゃんはあなたと同じ遺伝子を持っているんですもの。細胞のコントロール次第では強力なカードを手に入れたのと同じこと」
 襲撃の際、水角を参戦させていなかったことを考えると、その時はまだ培養カプセルの中で眠っていたのだろう。
「卑劣極まりない――」

 可愛い弟を不憫に思う傍ら、御殿は疑問を募らせた。

「八卦を複製できるなら、なぜリンさんを狙ったのでしょうか?」
 御殿の言うことはもっともである。多くの黒妖犬を使ってまでリンを誘拐する必要があったのだろうか?
「人体を培養するのはおろか、それを育成させるともなれば膨大な時間とお金がかかる。酔酔会にはお金があっても時間には余裕がないのかも。となれば、人体培養以外の技術を用いていることになる」
 無論、人を作成するわけだから、時間と金以外に愛情も必要だ。酔酔会にそれがあるとも思えない。事実、水角は暴魔実験の掃除係として参加させられ、食事も固形栄養食品ばかり与えられ、教育もままならないお粗末な環境で育った。

 御殿がカップを置いて彩乃に質問した。
「培養以外の技術ですか……その技術とは何です?」
 彩乃がある言葉を口にした。
「セルメモリー」
「セルメモリー? 臓器移植などで見られる記憶転移のことですか?」
「ええ」

 細胞記憶――細胞に記憶が備わること。記憶は脳の側頭葉に蓄積されるわけだが、脳以外にもその機能が備わっているという仮説がある。

 極論を言えば、肉片からデータを取り出すことで、多少なりとも記憶を受け継いだ生命を作成できるというわけだ。細胞から取り出す記憶採取をコントロールできれば、好みの記憶を維持した肉体を作り上げることだって可能である。

 それを耳にした御殿の身の毛がよだつ。
「もしかしてババロアは、晴湘市でわたしを殺した後、死体を回収しようとしていたということでしょうか?」
「そういうことになるわね。先手を打ったマダムはババロアの目論見を阻止し、あなたの肉体を回収した。それにより、酔酔会に八卦のデータが渡らずに済んだというわけね」

 死んでも尚、救われる存在――黒き天女は堕ちても這い上がってくるものだ。


 子供と一緒にいる時間が楽しいのだろう。彩乃は弾むようにケーキをフォークですくう。
「そう言えばこの前、マダムから連絡があってね……」
「社長から? どんな話をしたんです? 差し支えなければ教えていただきたいのですが」

 連日連夜、器物破損を繰り返す暴力エクソシストの脳裏に『クビ』の文字が浮かんでは消える。「お宅のお子さんには手を焼かされます。本日限りウチの会社には来ないで下さい!」、なんて言われてないだろうか。法律上、いきなりクビはないだろう。が、御殿はマダムに頭が上がらない。理不尽な要求も数知れず、とつぜん突拍子もないことを言う人物だが、それでも頭が上がらない。御殿が怯える人物の中の1人だ。

 けれども、次の彩乃の言葉で御殿の不安は消える。
「マダムね、心が不安定だった私のことを気にしていたらしくて、あなたが刺された事をずっと隠していたみたいなの。調査会社であなたを預かることで、少しでも私と酔酔会との距離をあけておきたかったみたい。御殿さんはたくさんの人たちに愛されていたのね。あなたが晴湘市で頑張って働いていたことや、海外で活躍していたことも、このあいだ聞かされたわ」
 自分の子供が多くの愛情に包まれ育ってきたことを、彩乃は母親として嬉しく思う。


 御殿はメモ帳に書かれた名前を指さし、ひとりひとりがどんな人物だったかを説明した。

「碧さん、赤ちゃんの発育がとても緩やかで、1年以上、お腹の中にいたんです」
 はじめて御殿がダイニングを訪れた時には、ややさかではあるが碧のお腹は膨れていた。
「出産までが長いわね。とはいえ、世界の記録を見れば、お腹の中に1年以上赤ちゃんがいたケースもあるから、不思議ではないのだけれど」

 御殿は静かにカップを置き、元気なく、ポツリと呟いた。
「わたしの目の前で碧さんは……ビルの下敷きになった。お腹の中に子供がいたのに……」
 昔、御殿はよく碧のお腹に手を当てて、赤ちゃんの鼓動を聞いていた。
「調太郎ね、わたしが『赤ちゃんが蹴った』って言うと、『殴ったかもしれないだろ!』ってムキになって怒るんですよ? まったく大人気ないったらありゃしない」

 御殿は手にしたフォークをケーキ目掛け、怒り任せにブスリと刺した。心なしかベイクドチーズケーキの焦げ目が金髪に見えて腹が立った。

「ふふふ。調太郎さんは面白い方なのね」
「どこがです? 弱い者いじめが大好きだし、女性の尻ばかり追いかけている発情期をこじらせた野獣ですよ。子供だったわたしをエサにして町で女性をナンパしたり、起きるの面倒くさいからって何度も買い物にいかせたりして、人を奴隷としか思ってないんじゃないですか?」

 金髪星人が生きていたと分かると、一気に不平不満が爆発する。それだけ心に余裕が生まれてきたという事でもある。

「……すみません、取り乱しました」
 御殿はイラついた表情を元に戻す。

 ――けれども、そんな思いでも遥か遠くへ消えていったのだと、御殿は肩を落すのだ。

「御殿さん……」
 彩乃は躊躇したが、やはり災害時での調太郎とのやり取りを話しておくことにした――「赤ちゃん」と聞き、あの時出会った青年が調太郎であると確信したのだ。
「御殿さん、実は――」
 彩乃は調太郎たちと遭遇した時のことを打ち明けた――。

 事情を聞いた御殿は驚きの表情を隠せなかった。
「調太郎に碧さんの子供を取り出させたということですか? そんな――」

 こんな時、喜んでいいのだろうか? ……うん、きっと喜んでいいのだろう――御殿は遠慮がちな笑顔を作った。

「つまり、碧さんの子供も生きているということ……ですよね?」
 彩乃はテーブルの上に置かれている御殿の手を、ギュッと握り締めた。
「ええ、おそらく。だからね、あなたがそんなに気に病むことはないの。みんな生きているんですもの。大丈夫、すべては良い方向に進んでいるわ」
「水無月先生……」

 そうだ。案ずる事はない。調太郎たちは……きっと元気にしている! ――御殿の瞳に希望の光が灯っていた。

 ヴヴヴ……。
 とつじょ、御殿の端末にロナルドからの連絡が入った。先日から児童失踪事件のことで何度かやり取りをしていたところだ。
 端末を切る御殿に彩乃が話しかけた。
「ロナルドさんから?」
「ええ、わたしはこれで――」
 席を立つ御殿に彩乃が声をかける。
「くれぐれも気をつけてね」
「水無月先生も」

 御殿は会釈して伝票を手にする。が、彩乃がそれを制止した。

「あっ、いいのよ、ここは私が払うから」
 いっぽう、御殿も同じ行動に出る。
「いえ、ここはわたしが……」
「いやいや、ここは私がっ」
「いえ、わたしが……っ」
「いえ、私がっ」
 強情な部分は似た者親子。後ろを振り返ると、会計を待つ客が並んでいた。
 店員の迷惑そうな咳ひとつ。
 水無月親子は顔を真っ赤にして俯いた。
「「す、すみません……」」