11 覚え無き記憶に心寄り添いて


 晴湘ハイウェイから晴湘市へは下りることができない。高速道路が開通されたとはいえ、まだ立ち入り禁止区域。街全体を覆うように正体不明の黒霧が充満しており、中は謎に包まれている。

 ハンドルを握る朱鷺が春夏に言った。
「これから向かう街は危険な場所だ。無理について来なくても良かったんだぞ?」
「ううん。一緒に行かせて。足手まといにはならないから――」
 そう言って、静かに胸に手を当てた。
(この胸の奥から聞こえてくる声が、私を先へと促すから――)
 春夏の心臓。その声は誰にも聞こえていない。

 朱鷺の車に乗せられた想夜と狐姫が窓から外を眺めている。
「晴湘ハイウェイで双葉とやり合った時、よくここを無事に通れたな」

 後部座席の狐姫が黒い霧を遠目に見ている。戦闘時、黒妖犬の何体かが落下していったが、彼らは黒い世界の中でどうなってしまったのだろうか? 考えるのが恐ろしくなってくる。

「ふふ、晴湘ハイウェイで派手にやりあったそうだな。咲羅真どのから聞いているぞ」
 朱鷺が横目で狐姫を見ると、片手を振って全力で否定してくる。
「いやいやっ、あのおっぱい魔人が一番暴れてたって! 内心ノリノリだったんじゃね?」
 幻龍偲のもとで吹っ切れたものだから、動きも軽快そのものだった。
「朱鷺さん、御殿センパイって強いんですよ! こんな構えで、こうやってこうやって、こんな感じで敵をやっつけるんです!」
 隣に座る想夜が盆踊りよろしく腕を振り回してすごんでおり、それを狐姫が白い目で見ている。
「想夜がやると不思議な踊りに見えるのは俺だけか?」
 隣に座っているとMP吸われそう。

 賑やかなのも束の間、後ろを走る御殿から通信音声が入った。

『もうすぐ大浜市に到着するわ。左の道に逸れて晴湘ハイウェイを降りましょう――』
「了解だ」

 朱鷺はハンドルを切り、晴湘ハイウェイを降りた。その後を御殿と水角のバイクが続いた。



大浜市おおはまし


 一同は大浜市に到着した。かつて調太郎たちが彩乃の車で逃げ延び、到達したた街である。

 バイクから降りた御殿が朱鷺の車に近づいてきた。
「あれを見て」
 指さすと、想夜たちが一斉に視線を向けた。

 遥か遠く、巨大な橋のような物体が見える。長方形の積み木を横倒しにしたような造りをしていた。

「鴨原さんが言っていた倒壊したビルよ。あそこまで行くには徒歩で駅ビルを通過しなければならない。車とバイクは駐車場に置いていくわ」
 狐姫が御殿の横にやってきた。
「なあ御殿、鴨原さんってやけに協力的だよな。ひょっとして、お前に気があるんじゃねーの?」
 からかい半分で御殿にいたずらな視線を送る。

 炊事洗濯掃除――鴨原の家に押しかけ女房しているのだから、男にそんな感情も芽生えるかもしれない。

「馬鹿なことを言わないの。せっかく協力してくれたんだから」
 と、狐姫の頭に手を添えた。

 想夜は鴨原のことを考えた途端、不吉な感情に包まれた。
(なんだろう? この嫌な感じ――)
 どこかから聞こえてくる風の声に耳を傾ける。鴨原を思うと、不快なインスピレーションを感じ取っては不安になり、胸に手を添えてうつむいた。
(鴨原さんの身に何も起こってなければいいのだけれど……)


 大浜市の外れ。川の隣にはショッピングモールが新設されており、買い物客でにぎわっていた。

 小さな駅に電車が止まると、車内から人がまばらに溢れ出してくる。
 さらに中央街からコミュニティバスがやってきては、新たな買い物客をおろしてゆく。

 朱鷺が流れる人波を目で追う。
「テラスモールへ向かう買い物客か。もたもたしてるとさらに人が多くなりそうだ。ババロアの手下に見つかって戦闘になったら厄介だ。一般客を巻き込まないように移動しよう。拙者が先頭を行こう。水角どの、援護を頼む――」
「うん、いいよ」

 刀を所有した剣士が2人――朱鷺と並ぶように水角が先頭を走る。その後ろを想夜、御殿、狐姫が行きかう人の波をくぐり抜け、先へ先へと進んでゆく。

 外に設置されたエスカレーターを上るにつれ、遠望が見える。2キロほど離れた場所に晴湘市のビルが横倒しになり、橋がかかるように川をまたいでいた。

「あれが鴨原どのが言っていたビルか」

 もう何年も放置された巨大ビル。外壁にはガスがこびりついてカーテンのように邪魔をしているが、建物の中までは入りこんでいないらしい。鴨原の助言通り、そこから晴湘市に侵入することができそうだ。とはいえ、そこにたどりつくにはショッピングセンター内を通過しなければならない。

「魔臭がするね。お姉ちゃん、どうする?」
 暴魔の臭いを嗅ぎ取った水角が不安そうに質問してくる。
「暴魔と鉢合わせて騒ぎになるとマズイわ。買い物客に紛れ込んで先に進みましょう」
 想夜たちは人混みの中に入り込むと、姿勢を低くしながら進んでいった。


 建物は何棟にも分かれており、想夜たちがいるのは川から一番離れた端の棟。隣の中央棟に移動するためには人混みを避けて移動しなければならない。

「はい安いよ安いよ~!」
 フロアを走る狐姫の目に人の壁が入った。
「うわっ、セール期間中かよ、安いものには目がない奴らだぜ」
 人様のことは言えないぜ。
「しゃーねーな、遠回りだけど別のフロアから移動しようぜ」
 来た道を引き返して折り返し階段を上り、食品フロアに出た。


「――ふう、やっと中央棟に入れましたね」
 揉みくちゃにされた想夜が振り返ると、御殿と朱鷺が鋭い視線でフロアの隅を睨みつけている。
「どうしたんですか、御殿センパイ?」

 御殿の視線の先を追うと、小さな子供が走ってくるのが見えた。

「ママーッ」
 子供がキャッキャと笑いながら母親に向かって走ってゆく。
 それを見た途端、御殿が腰のホルダーに手を回した。
「来るわよ!」

 走る子供の後ろから、いきなりヘドロを被ったような人型暴魔が現れたのだ!

「ぼ、暴魔!?」

 想夜が叫ぶと同時に、さらにもう2体の人型が反対方向から出てきた。

 大浜市は常に晴湘市からの影響を受けている。いたる所から暴魔が溢れ、黒い世界から侵入してくるようだ。

「ちっ、挟まれたか。俺は正面のヤツを仕留める! 子供と母親を頼むぜ!」
「了解ちゃん!」
 想夜は子供へと走り、狐姫は反対方向に向かっていった。

 いち早く動いた暴魔が子供と母親に割り込むように割って入り、子供に襲い掛かる!
「キャ……ッ」
 母親が叫ぼうとした瞬間、御殿が素早くその口に手を添え、ウインク。
「大丈夫です、安心して下さい。すぐに終わらせます。水角、お願い――」
「うん、わかった!」

 御殿に促された水角が頷き、壁に向かって頭から飛び込んでゆく。
 壁が水面のように波紋を広げ、水角を飲み込んだ。

「少しだけ屈んでいて下さい」
 御殿が母親の頭に手を添え、一緒にしゃがむ。
 そこへピクシーブースターで突っ込んできた想夜が暴魔を窓の外まで弾き飛ばし、ワイズナーのアローモードで狙い撃つ!
 レーザービームと化した矢が暴魔の体を貫き、串刺しにした。

 子供を狙う暴魔のすぐ横――突然、水角が壁から現れ子供に飛び掛かり、抱きかかえて横転。みごとに奪い返した。
 それを待っていたかのように、御殿が暴魔に向けて2発発砲。退魔弾の詠唱波紋が敵の肩を貫く!
 ひるんだ敵の首めがけ、朱鷺が絶念刀を走らせた。

 ザシュッ。

 首を斬り落とされた暴魔が黒い蒸気となって消えた。
 絶念刀の威力はすさまじく、死体すら残さないシロモノ。それを扱えるだけの侍がここにいた。

 御殿が遠く離れた狐姫に目を向けると、ちょうど別の暴魔にローリングソバットを決め、窓から上空に吹き飛ばしたところだった。
 遥か上空で暴魔が燃え上がり、炭と化す。
 まさに一瞬の出来事。一同が人型暴魔2体をあっさりと片付けることに成功する。

「う、うわああああんっ」
 我に返った子供が母親に向かって走る。
「怖かったでしょう。よしよし、いい子ね……」
 母親はすぐさま子供を抱き寄せ、守るように腕を絡ませた。
「無事だったみたいですね」
 想夜がホッと胸を撫でおろしたのも束の間、多くの視線に気づいた。

 周囲の客がバケモノを見るような白い目で想夜たちを見て震え上がっていた。皆、晴湘市の事件で神経が尖っているのだ。

「拙者たちの存在は一般人から見れば魔族と同類。無理もないさ」
 高次の能力を得たところで、世間の評価なんかそんなもの。やがてはトリックだとか映画の撮影だとか、あれこれ理由をつけられ、存在自体が無かったこととされる。

 想夜はワイズナーを背中に収め、風呂敷を背負いなおした。

「大丈夫だよ、朱鷺さん。あたしはあなたが立派な人だって知ってるから……」
「勇気が出る言葉だな、感謝する――」

 想夜の耳にヒソヒソと聞こえてくる声――「な~にあの子、気味が悪い」、「関わりたくないわね」、「バケモノだよ、バケモノ……」。

(いいの。これでいいの……)
 想夜は恥ずかしいことなどしていない。己の行動に胸を張れると自覚している。その小さな胸の奥、「別に悪いことしてるわけじゃないのに」という寂しい気持ちはあるけれど。
 けれども母親からしてみれば、そんなことはどうでもいいこと。子供が無事ならそれに越したことはないのだ。
「ああ……ありがとうございます! なんてお礼を言ったらいいのか……」
 母親が泣く子を抱きかかえ、あやし始めた。
「よしよし、いい子ね~」
 想夜も一緒に変顔で子供をあやす。
「もう怖くないからね~。はいっ、お菓子あげる」
 と、背中の風呂敷から調太郎が作ってくれたお菓子を差し出す。妖精は無垢な命が大好きだ。
「泣かないで、ベロベロバア~」
 両手でほっぺを押したり、引っ張ったり。想夜はいつだって一生懸命。
 やがてピタリと泣き止む子供。想夜の変顔に笑顔を見せ、お菓子に手を伸ばした。
「……ありがとう、リボンのお姉ちゃん」
 それを見てはニッコリ笑う想夜。子供には想夜が妖精だと分かったらしい。

「――先を急ぐぞ、リボン」
 朱鷺が絶念刀を腰にかけ、想夜の肩を叩いて促した。


【悲報】 ドンパチ開催のお知らせ。


 中央棟を走り抜けた想夜たちが、晴湘市に一番近い隅の棟に足を踏み入れた時だった。

「待ちなさい、きききき、き、君たち――」

「――え?」
 一行の背中に声がかり、振り返ってみる。

(……公安?)
 御殿が顔をしかめた。

 最初はひとり、その後、わらわらと。全部で10人ほどの警官が溢れ出してきては、想夜たちを取り囲んだ。

「だだッ、だめじゃ、ないか……こここ、こんな場所で、あ暴れたり、ししししたら……っ」
 ろれつが回らない口調で攻め寄ってきた。
 想夜が慌てて弁解する。
「あたし達、違うんです。その、子供が暴魔にさらわれそうになって……」

 言葉の途中、想夜は警官の動きに異変を感じた。

「こ、この人達……」
 後ずさる想夜。

 警官たちの動き――まるで不格好な長靴をはいたかのように、足を引きずりながらやってきては威嚇してくる。

「おい想夜――」
 想夜に擦り寄ってきた狐姫が耳打ちをした。
「こいつら、ただの警官じゃねえ。ワーム感染してやがる。おそらくババロアの仕業だぜ」
 警察官は操り人形のように、おぼつかない足どりで警棒を構え始めた。
 誰よりも早く動いたのは御殿だった。
「ゾンビに用はない――」
 問答無用。腰に差した空泉地星を取り出し木刀型警棒を伸ばした直後、その場で腰を深く落としてクルリとターンを描く。

 バシバシバシッ!

 群がる警官たちの足元を空泉地星で一気に払い飛ばす!

 逆さまになって頭から落下する警官たち。その後、ゆっくり起き上がると拳銃を抜き出す。
「公務執行妨害! 逮捕! 死刑! 殺す殺す殺す!」
 裁判官でもない分際で判決を言い渡す行為。ババロアの術中にいても人権侵害は変わらない。

 バキュンバキュンッ!
 フロアに銃声が鳴り響く!

「うわあっ、撃ってきましたよ!?」
 想夜はワイズナーを横倒しにして、飛んできた弾をはじき返した。

 キンキンッ、カンッ、キンキン!

 金属同士がぶつかり合う音があたりに響き、さらに警戒心を煽ってくる。

「みんな、後ろにさがって!」
 想夜を盾にしながら、一同が物陰に身を潜めた。
「さて、どうしたものかしら?」

 何とか逃げ道を確保できないものだろうか? ――御殿はマガジンの弾数を確認して周囲を見回した。すると通路のずっと向こう、離れた場所にエレベーターが設置されているのが見えた。ランプはかなり上の階を指している。

 御殿は柱に背を預け、ボニー&クライドを両手に構えて叫ぶ。
「狐姫! 今から援護する! あなたはエレベーターを動かしてきて!」
「ういっさー」
 狐姫がだるそうに移動。腰を低くしながらダッシュでエレベーターに近づき、ボタンに手をかけた。その後ろで御殿が盾になって威嚇射撃を開始。

 エレーベーターのランプが点滅し、移動し始めた。

「おい御殿! エレベーター、時間がかかりそうだぜ!? おわっ、あぶね!」
 流れ弾が脳天をかすめるも、狐姫はエレベーターのボタンを連打しまくる。そんなことをしても速度が上がるはずもない。無意味とはわかっているけど、何故かやっちゃう行動。無意味だけれども、けれどもけれども……ああ~、早く来てくれ~っ――そんな感じで地団駄を踏んでいる。
「時間がかかりそうね。 …………やるか」
 ため息を漏らし、呼吸を整えてからボニー&クライドを顔の真横で構える。目についたソファを足で蹴飛ばし、フロア中央まで移動させて防御壁を作った。
 御殿は腰を低くして、横倒しになったソファまで走りより、スライディングで飛び込んだ。
 そのすぐ後ろを想夜がついてきて、一緒にソファに隠れる。
「御殿センパイ、やりますか!?」
「ええ。銃弾も税金だってことを……教えてあげる――」


 ――銃撃戦、開始だ!!


 御殿が身を乗り出してトリガーを引きまくる!
 警官たちも負けじと乱射!

 バンバンバンバン!
 チュインチュイン!
 ドッ! ドッ! ドッ!
 バンバン!

 撃った弾が壁や床に反射して火花をまき散らす!
 瞬く間に火薬の匂いが充満し、各々の嗅覚を刺激してゆく!
 御殿はマガジンを素早くリロードし、再び撃ちまくった。

 ババババッ
 キンキンッ
 バンバンバンッ!

 双方が障害物に隠れ、隙を見ながら身を乗り出してトリガーを引いている。フロア一面に薬莢がばら撒かれ、あっという間に硝煙がその場を支配した。
 御殿が銃をぶっ放すたびに、ボニー&クライドから薬莢が飛び出す!
「うわっ、うあっ、あイタッ」
 想夜は頭や顔に薬莢が降ってくるたびに、目を閉じて身をかがめた。

 バババッ、バンバンッ、ドドドドド!!
 バンバンバンバン!

 キン!

 ガッガッガ!
 ダダダダダダダダダダ!!
 バババババ!!

 あげくには、警官がマシンガンまで持ち出してきた。
「警察らしからぬ武装ね」

 しばらく続くと思われる銃撃戦。

「まだかなまだかな~♪ 公安の~、弾切れまだかな~♪」
 某CMよろしく口ずさむ狐姫。エレベーター到着までには時間がかかる。変わらない状況下――だんだんイラついてきた。
「くそう、キリがないぜ……」

 さらに腰を低くして隠れる狐姫の目が一人用のソファをとらえた。

「おおう!? そんな所にそんな物が! ラッキー♪」
 すぐそばに設置してあるソファに足を伸ばし、つま先で引き寄せ持ち上げる。
「ふふん、生意気な国家権力め。俺様のマグマの味をとくと思い知るがいい」
 自慢気に鼻をならし、ソファにマグマを点火した。
「ワールドカップフォーエバー! これでも食らえ、オラァァァァ!!」

 ガッ!

 コーナーキックよろしく、ボウボウと燃えるソファを警官に向かって蹴飛ばした!
 空中で弧を描いて落下してゆくソファはまるでグレネードだ。

 ドオオオオオオン!

 障害物の向こうにソファが着地すると同時に爆音。その後、火だるまになった警官がワラワラと溢れ出してきた。
「狐姫、やりすぎ」
 御殿に咎められた狐姫が消火器に手を伸ばし、設置場所から乱暴にむしり取った。
「チッ、うっせーな。火ぃ消せばいいんだろ……ほらよ!」

 ブン!
 イラつきを叩きつけるよう、消火器を警官目がけて投げつけた。

「さっさとしろよ、おっぱい魔人」
 狐姫の暴言を受け、御殿が肩をすくめた。
「人使いが荒いんだから……」
 銃を構え、物陰から身を乗り出し、宙に舞う消火器に狙いを定めてトリガーを一発引く。

 ドン!
 プシャアアアアア!

 弾が消火器に命中した瞬間、瞬く間に消化剤が散乱し、フロア全体が白い霧に覆われた。

「――げほっ、ごほっ」
 頭から消火剤を被った想夜が咳込んでいる。

 淡い霧の向こう、警官がホルダーに手を伸ばそうとしているのを御殿は見逃さない。
「この状況で銃を持たれると厄介ね――まあ、お互い様かしら?」
 視界を殺す霧の中、警官の手元に狙いを定めて躊躇なくトリガーを引いた。

 バン! キン!

 警官の手から見事、銃を弾き飛ばした。銃は壁に当たって跳ね返り、御殿の目の前まで滑ってくる。それを拾い上げてため息をついた。
「ベレッタ92カスタマイザー。いい銃を持っているのね。改良も完璧。公安が所持する武器ではないわね」
 さすがミネルヴァ重工。武器の製造、密輸はお手のもの。
「けれどもお互い、ハンドガンだけでどこまで粘れるかしら?」

 御殿は額に汗し、ボニー&クライドを握りなおす。挑発的笑みを浮かべたのも束の間、目に飛び込んできたのは1人の警官――巨大な銃器を抱え込み、フロア中央で銃口を向けて立ち止まる。

「!?」
 御殿は眉をひそめた。
「あ! あれは!?」
 想夜も一緒になって驚く。

 かつてシュベスタ戦で御殿を蜂の巣にした自動小銃。けれども、目の前の警官が持っているのは、それよりもひと廻り大きい改良型。筒状の先に無数の銃口が備わった、とてつもなくゴツい銃だった。

「あれは……ガトリングザッパー!?」
「ミネルヴァなら複製も容易いってわけか。厄介な企業が敵に回ったものね」
 蜂の巣経験者がゲンナリしている。過去を繰り返すのはゴメンだ。
「撃ってきます! みんな伏せて!」
 無数のバレルが想夜たちを捕え、高速回転で火を噴いた!

 ズガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ!!

 無数に飛び散る弾幕が一行に襲い掛かる!
 想夜たちがうつ伏せになって両手で頭を抱えているその頭上、ザッパーで細かく砕かれた壁などが落下してきては視界を殺してゆく。

 ズガガガガガガガガ、ズガガガガガガガガガガガガ!!

「おいおいおい、ガトリングソルジャー巡査! ……弾幕出しまくりじゃん! アイツ弾切れしねーのかよ!?」
 突っ伏した狐姫がケモ耳を両手で抑えながら叫んでいる。
「おかしいです! 大量のエーテルを消費しているはずなのに全然動きが鈍らないなんて!」
 これだけの弾幕を作っておきながら、エーテルを消費している気配がない。ガトリングソルジャー巡査(仮)は平然と銃器を構えて立っていた。

 ガトリングザッパーの弾はエーテルを変換して作成される。栄養源となるエーテル所有者が他にいるはずだ。

「あいつら、エーテルはどこから補給しているのだ?」
 朱鷺の問いに一同が頭を悩ませ、やがてひとつの答えを打ち出した。
「まさか、晴湘市の人たちから搾り上げているんじゃ……?」
 想夜の言葉を聞いた途端、御殿の頭に血がのぼった。
「アイツら……今すぐ殺してあげる――」

 狐姫が御殿の服を掴んで引き留め、冷静になるようになだめた。

「落ち着け御殿。カッとなる気持ちもあるだろうけど、今出て行ったらまた蜂の巣にされるぜ!? それに警官は一般人。ババロアのハイヤースペックを解けば攻撃は止むはずだ!」
 想夜がワイズナーを握りなおした。
「御殿センパイ、あたしがガトリングザッパーを止めます」
「何か手があるの?」

 御殿の手前、想夜は顎に手を添えて考えている。

「……動きを止める方法、思いつきました。あたしに考えがあります」
 小さきリボンの戦士は周囲を見渡し、提案をする。
「ガトリングザッパーだって銃器、完璧ではありません。当然、いくつか弱点が存在します」

 1つ目は環境――砂漠、水中といった場所ではトリガーがうまく作動しなかったり、弾自体に影響が出る。
 2つ目は行動――改良型は非常に重いため、著しく動きが鈍くなる。
 そして3つ目――それが製品の信頼ともいえる安定性だ。

 ミル規格のように、軍隊で使用するアイテムをパスできる条件がガトリングザッパーにもある。が、目の前の改良型はミネルヴァで即席に作成されたもの。はたして過酷な戦場をパスできるほど完璧な銃器を作る時間があったのだろうか?

「銃器は何回にも及ぶ試験が必要です。あたしはフェアリーフォースであの改良型を見たことがありません。そこから察するに、人間界で作成されてから日が浅いはずです」
 想夜は13歳、小柄な妖精。でも列記としたフェアリーフォースの軍人だ。その辺の事情には人間よりもずっと詳しい。
「……なるほど。リコール対象に入っているってことか」
「はい。晴湘市の人たちのエーテルだって無限じゃありません。連射し続けるとどうなるか……想像は容易いです」

 ズガガガガ、ガ……ガッ……。

 想夜の言ってるそばから、警官のガトリングザッパーが不規則なリズムを響かせ、やがて鳴り止んだ。

 御殿がガトリング巡査の様子を伺う。
「弾が止んだわね」
「あれは一定の時間だけ高速連射が可能のようですが、熱を取らなければオーバーヒート状態に陥るんです。ましてや改良されているともあれば銃本体への負荷がとても大きい。威力の大きいものほど、耐久性や持続性に欠けるものなんです。冷却装置にだって限界があります。その限界こそが……今なんです!」

 フェアリーフェイスワイズナーの変形――2つに分かれたブレイドが弓となり、リボンで弦を作成。中央の槍が矢となり、アローモードは完成される。
 想夜はワイズナーをアローモードに切り替えると物陰から身を乗り出し、狩りをする時のように中央の槍を思い切り引っ張って狙いを定める。

「孤高のやいばよ……」

 ぐぐぐぐぐ……。

 弓のリボンを力いっぱい引き、胸を張る想夜。命中率が低いレーザータイプでは危険だと判断し、威力のデカい一撃にすべてを賭ける!
「……って!」
 槍から手を離す!

 シュッ!

 想夜の放った槍が一直線に飛距離を伸ばし、警官の肩を捕えた!

 ストオオオオオン!

 みごと命中!
 槍で狙撃された警官の体が後ろに吹き飛び、ガトリングザッパーごと弾き飛ばした。

「公務執行妨害! 公務執行妨害!」
「死刑死刑! 殺す殺す殺す殺す!」
 後ろで待機していた警官たちが慌てはじめる。援護射撃が一斉に始まり、隙ができた想夜目がけて弾を飛ばしてきた!
「わたしの後ろに隠れて!」
 御殿は物陰から身を乗り出し、想夜の盾となった。警官めがけ、躊躇なくトリガーを引きながら前進してゆく。

 ドドドッ、ドドドドドッ!
 バン! バンバンバン!

 警官の撃った弾が御殿の頬をかすめる。さらに腹に2発、胸に1発食らう――それらを防弾コルセットやハートプレートでうまくガード。避けられない弾はわざと防弾装備に当てて相殺。若干の青アザくらいは残るだろうが、弾が体内にめり込むより遥かにマシだ。

「想夜! こっちで援護するから朱鷺さんを連れて敵の後ろに回ってちょうだい! 水角は例のヤツお願い!」
 大股開いて仁王立ち。両手で器用にリロードしながら、後ろの想夜と水角に支持を出した。
(すごい……御殿センパイ、完全に弾の軌道を読み切っている!)
 戦闘慣れしたエクソシストを前に、想夜は目を真ん丸にして驚くばかり。御殿の戦闘スタイルは少々乱暴ではあるが、確実に敵を殲滅させてゆく。1発2発の弾を食らったところで致命傷でもない限り、どうという事はない。
「狐姫ちゃん、朱鷺さん、あたしにつかまって!」
「うい~っ」
「御意だ!」

 ボシュウ!

 想夜が朱鷺と狐姫を抱え、ピクシーブースターで一気に警官の後ろに回り込む!
「朱鷺さん、今です!」
「参る!」
 侍が長い髪をなびかせ突き進む! 瞬く間に警官たちの懐に潜り込むと、縦横十文字に絶念刀を振り下ろした。

 ザシュ! ザシュザシュ!
 1人、2人、3人――胸元から血しぶきを上げて倒れる警官の腹に蹴りを入れて吹き飛ばし、次の獲物に斬りかかる!

 斬られた警官はピクリとも動かない。それを見た御殿が朱鷺に叫ぶ。
「殺したの!?」
「安心しろ、命までは取らん。死体を片づけるのが面倒なのでな」
 血は一瞬で止まる。絶念殺は優れモノだ。目が覚めれば銃をぶっ放していた事や「死刑」を連呼していたことも覚えてないだろう。

 狐姫が警官の腕を捻り上げ、顔面にパンチを叩き込む!
「ホワチャア!」
 ひるんだところへ蹴りを入れ、朱鷺のもとへと弾き飛ばした。
「ふん!」

 ザシュ!

 朱鷺は狐姫からパスされた警官を斬りつけると、うしろ襟首をつかんで壁に放り投げた。
 壁に打ち付けられた警官が力尽きて崩れ落ちる。

「ハイヤースペック・ソニックウォーター」
 水角が壁に滑り込むように消え、離れた警官のすぐ横まで泳いで移動すると、そこで再び姿を現す。
 警官たちに足払いを入れて体勢を崩す。鳩尾みぞおちに刀の柄を叩き込んで、一瞬のうちに何人も気絶させた。

 ピコーン。

 ちょうどその時、陳腐な電子音がフロアに響いた。
「おっしゃ、エレベーターが来たぜ!」
「援護します! あたしの背中に隠れてください!」
 想夜がワイズナーを横に構え、盾代わりにしながらエレベーターへと後退してゆく。

 キンキン! カン! キン!
 警官が発砲した弾が想夜のワイズナーに当たって火花をまき散らす!

「みんな急いで!」

 御殿の合図で一斉にエレベーターに乗り込んだ。その間にも警官たちの銃から発射された弾が想夜たちを襲う。

 バンバン!
 チュインチュイン!

 エレベーターの中、ワイズナーや壁に当たった弾がはじけ、ふたたび火花をまき散らした。

 うつ伏せの水角が頭をもたげた。
「お姉ちゃん、撃たれたとこ痛くない?」
「大丈夫よ水角、伏せてなさい」
 御殿が水角に覆いかぶさり、ふくよかな胸にぎゅうっと弟の顔を埋めた。
 弾幕に恐怖を覚える水角が姉の胸の中で怯える。
「お姉ちゃん、ボク、こんなの初めてだよおっ」
「ふふふ、お姉ちゃんもよ」

 ぎゅううううっ。弟の顔をさらに谷間に押し込んだ。

「おい、そこのバカ姉弟キョーダイ! 少しは真面目にやれよな!」
 すかさず狐姫が突っ込んだ。

 キンキンキン!
 バキュンバキュン!

「ぬあああー、早くドア閉まってくれええええ!」
 蜂の巣はゴメンだぜ――狐姫が頭を抱えてうずくまる。閉まるドアがこんなにも遅く感じたことはなかった。


覚え無き記憶


 エレベーターから降りた想夜たちは、デパ地下を抜けて地上へと出てきた。
「ようやくたどり着きましたね」

 深く息を吐く想夜の目の前、横倒しになったビルの屋上が現れた。
 ビルは川の向こうの晴湘市から倒れてきており、橋の役割を担っている。

「よっしゃ、中に入ろーぜ」
 狐姫が塔屋によじ登ると、設置された鉄製扉にまたがり、ドアノブに手をかけて捻った。

 ガチャガチャ……。

 鈍く擦れる金属音とともに錆がボロボロと落ちる。
「ありゃ? 開かねーな……おりゃ!」

 バキンッ。

「……あ、取れちった」
 ドアノブを見つめる狐姫。かったるそうにドアを無理やりこじ開けて中へと侵入した。


 薄暗いビルの中を進んでゆく想夜たち。
「だいぶ浸水しているな。皆、足元に気をつけろ」
 朱鷺が注意を払いながら先頭を進む。

 ふつう階段は上下に移動するものだが、横倒しになった建物内では隣のフロアへの移動を阻む障害でしかない。天井には蛍光灯のスイッチが設置され、ポスターも張られており、かつては人の手が届く壁だったことを訴えてくる。2年以上にも及ぶ放置により、ビルの中はカビ臭く、川の水が入り込んだり雨風に晒されたせいで大部分が水没していた。

 しばらく進んでゆくと、真横になった扉に行き着いた。
「また行き止まり……」
 想夜が残念そうな顔でドアノブに手をかけ、何度もひねる。

 ガチャガチャ……。

「ここも開かない。向こう側から頑丈な鍵が何重にもかかってるみたいです」
 ションボリと肩を落とす想夜に御殿が近づいた。
「きっと政府が調査に訪れた時に鍵をかけたのでしょう。一般人には危険すぎる場所だもの」
「……ですよね。回り道はないのかなあ……」
 風呂敷を担ぎなおし、天井を見まわしては落胆する。
 けれども諦めるのは早すぎる。
「想夜ちゃん、ボクに任せて」
「水角クン」
 想夜の隣を水角が通り抜け、壁に手をかざした。
「ハイヤースペック・ソニックウォーター」
 能力発動と同時に、壁の中へと消えていった。


 ――しばらくの間、静かな時間が経過したと思いきや、時折、扉の向こうが騒がしくなる。


「大丈夫かな? 水角クン……」
 そんな時だ。

 ガチャン! ギィ……。

 想夜の不安をよそに非常口の向こうで開錠音が響き、立て付けの悪いドアのようにゆっくりと開かれた。

 扉の向こうから明るい笑みを覗かせる水角。その後ろでは斬られた暴魔が何体も転がっていた。
「おまたせ。さ、入って――」
 一同は暴魔の死体をまたぎながら先を急いだ。


 何度目かのドアをこじ開けて奥へ奥へと突き進む。

「今いる場所はどのあたりかな?」
「おそらくビルの地下あたりだろう。いつでも刀を抜けるようにしておくといい」
 先頭の朱鷺と水角が刀に手を添えながら話している。

 幾度となく登ったり下りたりを繰り返したが、ここを抜ければ晴湘市にたどり着くはずだ。

「――もう暴魔はいないみたい」
 想夜が後ろを確認しながら足早に先を急ぐ。けれども行く手を阻むものは、必ずしも動くものとは限らない。

 一同の行き着いたのは、やはり行き止まり。それも今度はただの行き止まりではなかった。
 朱鷺が見上げた視線の先――天井に位置する扉には陣を用いた鍵がかけられていた。

「一体なんだこれは?」
 観音扉の隙間に絶念刀の鞘をねじり込んで力を入れる。
「――ダメだ。この扉、ビクともしない」
 あと一歩だというのに開く気配がまったくない。上下左右、どこもかしこも扉は閉ざされ、鋼鉄製の頑丈な鍵がかけられていた。しかもご丁寧に電子ロックまでかけられている。
 御殿が埃まみれの電子ロックを手で拭う。
「バッテリーが切れそうね。液晶が薄くなっている……」
 電気の供給が切れたらお手上げ状態。もう開錠はできない。
 心配そうに見守る春夏が異変を覚えたのはその時だ。


鍵になりなさい――



「――え?」
 小さな胸の奥底で、誰かが囁いてくる。春夏はそっと耳を傾けるが、もう声は聞こえてこない。

「壁の向こうの様子を見てくるよ」
 水角が壁に手を添えた途端、

 バチッ。

「あ痛っ」
 壁に滑り込もうと手をかざそうものなら、ものすごい電圧が襲ってくる。真冬のドアの静電気で感電死するような感覚を味わう。
「この陣、ボクのソニックウォーターでも抜けられない。どうしよう……」
 姉の懐にすがる水角。その頭を撫でながら御殿が諭した。
「誰も晴湘市へ侵入させないように、政府とババロアが防御壁を張ったのでしょう。それだけじゃなく、別の誰かが何らかの仕掛けを施しているみたいね。複数の人物がそれぞれバラバラに鍵をかけている。二段階認証も顔負けね」
「晴湘市からやってくる悪魔たちを、ここで足止めしているというわけですね」
 想夜があたりを見回すが打つ手なし。
「クソ、この先に行けば晴湘市に出られるのによお……」
 狐姫があちこちの壁をガンガン蹴とばすも、足が痛くなるだけだった。


鍵になりなさい――



 ふたたび春夏の胸元から声が聞こえる。
(え? ……どういう意味なの?)
 ネコ耳を傾けるも、返事がくることはなかった。

 御殿の手の届かない位置にあるドアの周辺。そこに目を向けると、埃を被った小さな陣を見つけた。

「あれがもう一つの陣。電子ロックと連携しているようね。おそらくエクソシストが用意したものでしょう」
 狐姫が後ろから覗き込んだ。
「突破できるのん?」
「少し時間がかかるけどソースコードを解読する。狐姫、肩車するから代わりに解読してちょうだい」

 御殿がしゃがみこんだ瞬間、ショッピングセンターの方角から呻き声が響いてきた。

「ヤベぇ、敵がやってきたぜ」

 解読している時間はもうない! 先には進めず、後ろは暴魔が押し寄せてくる――どうする御殿!?


鍵になりなさい――
その魂を灯として、皆を先導なさい



 先ほどから幾度となく、春夏に誰かが語り掛けてくる。
 春夏が防御壁を不思議そうに見つめ、やがてうわ言のように口を開いた。

「ババロアの陣は絶念刀で斬れる……と思います。あの陣は鍵の属性を持った特殊な生き物なんです。それを斬れば、残るはただの頑丈な鍵と電子ロックのみ……だと思います。電子ロックの解除キーは、『G6$d83%hQZ2――』……あと5文字があるはずなんだけど、なんだっけ……?」

 自信なさげに言う春夏を見た朱鷺が鋭い視線で睨み返した。

 ババロアが張った陣。
 政府がかけた鍵。
 何者かが悪魔の侵入を妨害するために張った陣と電子ロック。

 それらの解除方法を知っているのは、どこからか情報を入手していた夢。そして――

 朱鷺は御殿に見つけてもらったお守りの中から一枚の紙切れを取り出し、記載されていた文字を春夏に伝えた。

「残り5文字は『4Zw1e』……だ」
「それを合わせると、『G6$d83%hQZ24Zw1e』。それが電子ロックのパスワードですよ。解除すれば小さな陣も消える…………あれ?」
 自分で言っておきながら、春夏が首を傾げた。
 朱鷺は俯き、消え入りそうな声で春夏に問う。
「春夏……、どうして解除キーの断片を知っている?」
 問われた春夏は、
「……あ、あれ? そうだよね。おかしいな……私、なんでこんなことを知っているんだろう?」
 瞳が潤み、涙で滲んだ。頭の中がこんがらがって、もう何だか分からないといった感じだ。
「あれ? 涙、出てきちゃった……やだ、私、こんな記憶、持ってるはず、ないのに……」

 誰かの記憶。
 覚え無き記憶。
 それを春夏は知っている。

(春夏、お前の中にはやはり……)
 いや、もはや何も言うまい――朱鷺は春夏と重なる妹の幻を拭おうと必死だった。

 目の前にゆめがいる、そんな夢――もう戻らない大切な家族だというのに、目の前にいる女の子は、それさえも簡単に否定してしまう。朱鷺にとって春夏は、曇った感情を破壊してしまうほどの強靭な刃を持つ女神にしか見えなかった。

春夏ゆめ……)

 朱鷺の記憶の隅で、妹の姿がちらつく。
 拭おうとも拭おうとも、朱鷺から離れることのない姿。
 いつだって朱鷺に笑顔を向けてくれた、その存在がそこにいる。

 DNAストレージ。
 セルメモリー。
 細胞の記憶――。

 想夜は朱鷺と春夏の間に芽生えるぬくもりを感じ取っていた。
(そうか……夢さん、あなたは春夏ちゃんの中でずっと生きているのね。これからもずっと、朱鷺さんの近くで見守っていてくれるのね――)

 誰かが見守っていてくれる。それだけで人は、限りなく勇気が芽生えてくるもの――支えとなる存在を、想夜は目の当たりにした。

 夢の記憶が敵に渡れば、ババロアが好きなタイミングで陣を開錠できる。好きなタイミングで日本を制圧できる。
 けれどもパスワードを2つに分けられたことにより、夢の記憶を奪おうともババロアには開錠ができない。

 夢は、もしもの時を予知していたのだろう。パスワードを2つに分けていたのだ。2つの鍵がそろわなければ、誰にもパスワードは変更できない。よって陣は現状を維持され、ババロアの侵略の足止めになっている。
 好きなタイミングで開錠できるという条件を、朱鷺は手に入れたのだ。

 神威人村の才女が作り出した2つの鍵がたった今ひとつに交わり、ババロアを迎え撃つ!

 朱鷺が絶念刀で陣を斬り、鍵属性を絶った。

 バシュッ。

 一瞬フロアが白く光り、その後は静寂だけが支配した。

 想夜が羽を使い、天井に張り付いて電子ロックに暗証番号を入力する。

 御殿がヘアピンを鍵穴に差し込んで、小刻みに左右させると……

 カチャッ。

 乾いた金属音とともに、あれだけ頑丈だった鍵の集合体があっけなく姿を消した。

 朱鷺が一歩踏み出し、先頭を行く。
「よし、急ごう」
 一同につられ、一歩踏み出す春夏。
 その肩に朱鷺が手をかけて引き留めた。
「待て春夏、お前はここに残るんだ」
「え? どうして?」
 春夏がキョトンとする。
「今の晴湘市は魔界と変わらない。戦う術を身に着けていない者を戦場に送り出すわけにはいかん。ステルスで身を隠しながら、来た道を戻れ。敵に感づかれることのないようにな」

 つっけんどんに言い放つ侍――そんな不器用な言葉しか思いつかない。連れてゆくつもりではいたが、夢の存在が消えていないと確信するや否や、ふたたび妹を失うかも知れないという恐怖が芽生えてしまうのだ。

「で、でも……」
「春夏、言う事を聞くんだ」
「……わ、分かりました」
 朱鷺の鋭い視線の手前、春夏はネコ耳を下へと落とし、大人しくその場にとどまる。ションボリと去ってゆく背中が寂しそうだった。

 春夏を見送った朱鷺が観音扉を開く。
「よし、行くぞ――」
 扉の向こう、一行は黒い霧が支配する晴湘市へと足を踏み入れた。