5 八卦 リン・ルー


 ほわいとはうすにお邪魔した想夜は、さっそく御殿たちにシュベスタで投獄されていた妖精たちのことを打ち明けた。

 汚染されたエーテルによって体調不良を訴え、シュベスタに駆け込んだ妖精たち。彼らを言葉巧みに拉致し、なにかの目的のために利用しようとしていた輩がいる。

「――汚染されたエーテル、か……」
「シュベスタを崩壊させたのもそいつの仕業ってわけか?」

 想夜から事情を聞いた御殿と狐姫が頭を悩ませている。

「エーテルポットの中身が汚染されていたことをシュベスタの職員は知っていたのかしら?」
 想夜は首をブンブンと横に振った。
「いいえ。あのメイヴですら知らなかったみたいです。鴨原さんの口からもそんな言葉は出てこなかった」
「メイヴや鴨原さんでも知りえないことがシュベスタで起こっていたの?」

 訝しげな顔の御殿に想夜が答える。

「シュベスタは必ずしも鴨原さんやメイヴが指揮をとっていたわけではないみたいです。他にも関係している主要人物がいたことになります」
「伊集院さんが言ってたように、シュベスタも表と裏に分裂していたようね。表面のシュベスタが崩壊しても、黒幕は動き続けているってことね」
「そういうことになります」

 シュベスタの崩壊は、ただのハリボテに過ぎなかった。裏舞台では、次のシナリオステージが着々と組み立てられている。こうしている間にも、別の策略が進んでいるのだ。

「これは推測でしかないのだけれど……」
 御殿がポツリと口を開いた。
「おそらく、エーテルポットのバッテリー機能という性能に便乗した輩がいるかもしれない」

 エーテルポットというシロモノが出来たことを嗅ぎつけた黒幕――彩乃が人類のために築いた功績。その逆手をとって悪事利用する輩。

「不完全なエーテルポットに、さぞやヤキモキしたでしょうね」
 詩織が持っていた仕様書がなければ、エーテルポットはうまく起動しない。メイヴの出現により、想夜たちはエーテルポットを破壊する方向へ向かったが、実はその行為自体が黒幕の足止めをする結果に向かっていたのだ。

「汚染されたエーテルは各地にばら撒かれたけれど、エーテルポットが健在だったら、その中身をピンポイントで妖精に投与できる。今回のエーテル特売セールは黒幕にとって想定外だったのかもしれないわね」
「証拠隠蔽のためにシュベスタを崩壊させたのはいいですが、エーテルポットを回収することが間に合わなかったってところですね」

 想夜が迫り来る炎の荒波を思い出す。あの火災では回収どころの騒ぎではない。ヘタをすれば全員、灰も残らなかっただろう。

「汚染されたエーテルによる妖精の暴徒化。それを危険視して打ち出されたスペックハザード。そこへ便乗するように放たれたダフロマ。どう見ても事態が起こってから戦略を練るようなタイプのようね。まるで将棋やチェスをやっているかのような、後出しジャンケンをされているような」
 黒幕はこちらの動きを見てから行動を起こしてくるようだ。まるでゲームを楽しんでいるかのように。

 想夜たちが動けば、「そう来たか」と顎に手を添えて次の駒を進ませる――すでに想夜たちと黒幕はゲームボードを挟んで対決しているのだ。

 想夜が鼻息を荒くする。
「だとすれば、あたし達が次の行動にでれば敵も動くってことですね!」
「そういうこと。今回の場合、慎重に動くというよりは、こちらが積極的に動かなければ敵の尻尾はつかめない」
 伊集院の言うように、打って出ることをしなければ進まないのだ。

 頭の後ろで手を組んでいる狐姫が質問してくる。
「ダフロマとか言ったっけか? そいつは今どこにいるんだ? そもそも倒せる見込みあるのん?」

 想夜の表情に陰りが見えた。

「ダフロマは暴撃妖精です。とっても硬い甲羅で覆われたアルマジロの妖精。外部からの物理攻撃がほとんど通用しません。おまけに巨大なので、突進されれば街ひとつを簡単に壊されてしまいます」
「ちょっ、そんなの来たら避難ほうが早くね?」
 狐姫はヘラヘラと受け流すも、内心戦略に困っていた。
「暴撃妖精ダフロマ、か。どこかでのんびり冬眠していてくれればいいのだけれど……」
 御殿はため息を漏らした。

 馬車の女によって、ゲッシュ界から故意に解放された危険な妖精。必ず想夜たちの前に現れるだろう。


 夕方。
 いつもの森。ここは想夜の特訓場――。

 ほわいとはうすから帰宅した想夜がワイズナーを片手に素振りを繰り返し、汗だくになっていた。
 右手のリハビリはすぐに始められると医師から告げられた想夜は、さっそく訓練に励んでいた。

「98……99……100っと」

 術後ということもあり、とりあえず100本素振りからはじめる。
 牢獄生活でなまった体にムチを入れるにはちょうどいいタイミングだ。筋肉痛ですら快感に変わることだろう。

 ピクシー特有の華奢な骨格ということもあり、筋肉には恵まれない。筋肉でのゴリ押し戦闘は絶望的だろう。だが『紡ぐ』能力で諸々をカバーできるはずだ。できることを1つずつこなしていけばいい。

 寮に帰ればいつものストレッチと握力を伴う手首の運動。1分1秒とて無駄にはしたくない。そうかといって、焦りからくる先走りは逆に体を痛めてしまう。ほどほども肝心である。

 額から滝のように滴る汗を手で拭い、想夜は寮へ帰る。


 食後、ひとり部屋に閉じこもった想夜。
「ゲッシュ界で遅れた分を取り戻さなきゃ」
 筋力トレーニングの後はストレッチ。
 それが終わると、いつものようにベッドに突っ伏して考え事――ゲッシュ界から逃げ出したダフロマについて、だ。

「ダフロマの原型は鋼鉄アルマジロの妖精。全身が金属の甲羅で覆われている。通常攻撃では歯が立たない。きっとあたしのワイズナーでさえも……」

 過去、妖精界で暴れる鋼鉄アルマジロ討伐に想夜たちエーテルバランサーが借り出されたことがある。その時の敵は小型だったものの、ワイズナーの攻撃がまったく役に立たず、けちょんけちょんにやられた。けっきょく最後は麗蘭が力任せにがぶり寄り、敵をブン投げて気絶させ、事なきを得た。外部からの攻撃が通用しないこともあり、捕獲するまでにかなりの時間を要したのだ。

 ――だが、今回はサイズが違いすぎる。汚染されたエーテルは、妖精すらも突然変異させてしまうくらい有害だ。

「ダフロマには外からの攻撃がすべて無効のはず。だとしたら内部からの破壊をしなきゃならない」
 内部からの破壊。それには距離を無視した強力な攻撃が必要となる。

 ――そう、ブラスターだ。

 強力なブラスターを撃てる戦士がいるとすれば、八卦である御殿だ。だがシュベスタでブラスターをぶっ放した御殿は、ハイヤースペックの接続が失敗した状態にあった。つまりダフロマを倒すには、その時の状態を作り出さなければならない。
 とうぜん、暴走する八卦を出現させれば、ダフロマ以上に厄介な存在となりうる。

 ダフロマに御殿をぶつける案は却下だ。

 ――では御殿のレゾナンスで狐姫と融合し、あのブロンドの戦士を呼び覚ますのはどうだろう?

「……ううん、ダメ。絶対、ダメ」
 「八卦の能力は安定性が欠落している」と、想夜は御殿から聞いている。御殿のレゾナンスは博打みたいなものだ。失敗すれば戦力を2人失い、立て続けに3人4人と八卦の流れ弾を食らうやもしれない。

 想夜は指ピストルでぬいぐるみに狙いを定めながら呟く。
「強力なブラスター。使える人がいればいいんだけど……」
 そうやって、自分にもブラスターが使えればいいのに、と想夜は落胆する。
「ひとりで考えても解決しないわね。ブラスターのこと、みんなに相談しなきゃ」
 想夜は携帯端末を手にし、連絡を取る。
「……あ、もしもし……御殿センパイですか?」


いかずちの八卦


 コールドスリープケースの前に彩乃が立つ。

 透明な棺おけの向こうで、おさげの少女が一糸まとわぬ姿で眠っている。
 歳相応の小さな体は人形のようにピクリとも動かない。

 名前はリン・ルー。年齢は11歳。投資家ロナルド・ルーの一人娘だ。

 ケース内の温度は低温に保たれており、細胞の活動を最小限に抑えている。心臓、脈拍、血流、脳波。どれも想定内の数値である。
 問題なのは、八卦の力が発動した時にかかる肉体への負荷である。

 沙々良がボサボサの髪をかきむしる。
「執刀医は行方不明か……連絡つかないんじゃ話にならないっすよね~」
 深酒で爆眠しているところに彩乃からの電話だ。出ないわけにもいかんので、話を聞いてみれば緊急事態ときたもんだ。詩織と一緒にMAMIYA研究所に来てみればごらんの有り様。二日酔いがふっ飛んでしまった。
 今もキーボードを叩き続けている。

 データベースと向かい合う沙々良、お手上げモード。リンに関する情報は空欄のものばかりだった。最初から期待してないけど。


 詩織が膨大な資料を彩乃に提示した。
「執刀医の記録を調べましたが八卦の研究者ではありませんでした。聞いたこともない医師ですね。偽名かもしれません」

 彩乃の脳裏にメイヴの姿が浮かびあがるが、即座に消えた。
 メイヴは魔水晶の作成で忙しかった。八卦に費やしている時間などないはず。

 では一体だれがリンの手術をしたのだろう?

 答えの出ない勘ぐりはやめ、彩乃は分析に精を出す。


 リンを囲んだ3人の女は非常に優秀だ。結果はすぐに出た。
 リンに施された力の属性が判明した。

「水無月先生、データ確認できました」
「ほう~、どれどれ――」
 近づく彩乃からはいい香りがする。それを味わうたびに詩織はまどろみを覚えてしまう……とかやってる場合じゃない! しっかりしなきゃ自分! 今は緊急事態なんだから! 詩織も理性を抑えるのに大変だ。
 そんな後輩の気持ちを知る由も無い彩乃は罪作りな女である。

 詩織からバシッと決めの一言。
「使用されたのは『雷』のオブジェクトですね」
「雷か。全身の神経は脳からの電気信号に反応する。雷と電気。上手く合わせたわね。相性がいい。ヤブ医者どころか名医だわ。執刀医の記録がないのが残念ね」
 彩乃が睨みつけるように検査結果に目を通す。

 雷を司る八卦――ハイヤースペック名は、『雷門ゲート・オブ・サンダー』。スキルの中に『スプライトマイン』という強力なブラスターを備えている。距離という概念がないため、発動すれば思い通りの座標にプラズマ爆弾を発生させることができる。出力調整が出来るうえ、威力もデカい。最小出力で発動すれば威力は弱いが連射が可能。最大出力で発動すればどんな強靭な甲羅をもった者でも体内から木っ端微塵に粉砕できる。言わば攻撃特化型ハイヤースペック。

 攻撃重視のため、病弱なリンには向かない能力だ。使用回数はせいぜい一日一発、いや、一発発動すれば一週間は撃てないかもしれない。それほど体に負荷がかかるはずだ。リンの体では最悪の場合、一発打てば命に関るかもしれない。

 「ハイヤースペックを使用しない」という前提のもと、リンの体にディルファーのデータを埋め込んだのだとしたら、執刀医が考えていることは八卦の力に対して反抗の意を称えているということになる。リンは能力の乱用ができないのだから。

 ハイヤースペックを発動すればリンは危険な状態に陥る。だが、使用しなければ平穏に生きられる可能性が増す。

 彩乃たちは非常にもどかしい思いに襲われている。なぜなら、八卦を発動した人間でのデータが無いからだ。まさか八卦プロジェクトが続行しているとは思わなかったからである。

 となると、どこかの誰かが八卦のデータを計測し、それを手にしているとでもいうのだろうか?

 モニターに映し出された波を睨む女たち。
 ロナルドは言っていた。「波を読めば分かる」と。
 彩乃たちも波を見ている。脳波、体温、脈拍、人体に関する波を。
 なんにせよ、周囲の人達にも報告する必要がある。

 これらの波が作り出す未来は、きっと我々に幸福をもたらしてくれる――彩乃はそう信じたかった。


 一夜明け、彩乃、沙々良、詩織。女3人の朝帰り。

 アルコールを入れた後によくある光景、ではない。よく3人連れ添って飲みにはゆくが、今日は直帰。その証拠に沙々良がシラフだ。

 ましてや酒が入ると彩乃はグチが多い。お偉方相手のエリート生活も楽じゃない。相当のプレッシャーが溜まっているようで、はけ口として2人が選ばれている。それだけ信頼しているのか、甘えているのか。意外と子供っぽい一面がある。
 それらの介抱役が必然的に詩織にまわってくる。

 彩乃はリンをコールドスリープケースから出し、車椅子に乗せて帰宅することにした。小さい子をいつまでも狭い檻の中に入れておくわけにはいかない。


 沙々良がすっごくソワソワしている。
「本当に大丈夫っスかぁ?」
「大丈夫大丈夫、脈拍も心拍数も正常だから。安静にしてれば問題ないわ」
「いや主任、そういうことじゃなくてですね」
 つまり、沙々良が心配しているのはリンの食事のことである。
 沙々良ならレトルトだけで満足だ。が、彩乃の料理だけは阻止なければならない。

 ――そう、少女の可愛いお口にそれが入る前にな!

「水無月先生、なんでしたら私が作りますけど……」
 詩織に作らせるのが最善策だろう。なんでも、家庭料理検定を持っているとかいないとか。
「でも毎日詩織ちゃんに作らせるのは大変でしょう?」
「いやいや主任、鹿山ちゃんに作らせるのが無難……いや、待てよ」

 沙々良、ここで名案を思いつく。

「こんな時のために頼もしい助っ人たちがいるじゃあないかっ」
 MAMIYAの駐車場、沙々良はひとり叫び声をあげ、高々と携帯端末を掲げる。そうやって誰かに電話しはじめるのだ。

 トゥルルルルルッ……ピッ。

 とたんに端末の向こうから元気有り余る声が響いた。
『もっしもーし、雪車町でーす♪』
「もしもし、想夜タン? いま暇――?」
『げっ、沙々良さっ……』
 電話の向こうの声が鼻をつまんだ声に変わる。
『おかけになった電話番号は現在登録されておりません。もうかけてこないでください』

 プツン。ツー、ツー、ツー。

「……おい」
 切られた。
 携帯端末を呆然と見つめる沙々良。どうやらポニーテールの強敵に荒波を読まれたようだ。
「仕方ない。取って置きの画像を――」
 沙々良は少女Sがみだらな格好で写っている画像を添付し、本人に送りつけた。先日、女子寮にお邪魔したときに盗撮したものだ。
「秘密の画像……送信っと。これでよし」

 しばらくすると、、沙々良の端末が鳴り響く。

「――お? かかってきたかかってきた♪」
 電話の相手は想夜だった。
 沙々良の端末越しから『鬼! 悪魔!』と、想夜の泣き叫ぶ声が彩乃と詩織の耳まで聞こえてきた。
 一体、どんな画像を送ったのやら。


沙々良さん、人でなし


 咲羅真家の食卓。

 想夜が顔を真っ赤にしてベソをかいている。
「でね、それでね、うぐ……」

 チーン! 鼻を勢いよくかんではティッシュをゴミ箱に捨てる。

「ゴミ箱がティッシュで溢れかえってるぜ。よほどショックな画像だったんだな」
 狐姫、顔面蒼白。
 沙々良に脅されているとの連絡を想夜から受けた狐姫。事情を聞いてみたものの、大した問題ではなかった。なんでも彩乃たちに料理を教えてやってほしいとのこと。
「ねー、狐姫ちゃん聞いてる~?」
「聞いてるぜ。 ……で、どんな写真?」
「もー! もー! もー!」

 びええええん! 鼻水たらした無様なツラの想夜が力任せにブンブンと狐姫の肩を揺さぶる。

 カクカクカク……狐姫の首が折れそう。

「想夜っ、おまえっ、手術っ、してからっ、無駄にっ、パワーアップっ、してるだろ!」
 無駄に右手が強くなっているのは気のせいだ。

 御殿は台所に立って下準備をしている。
 「詩織さんに作ってもらえばいいのに」と、御殿は一度、誘いを断った。理由は明白。彩乃を避けたいのだ。心の準備には時間がかかるもの。彩乃との距離をはかる作業は御殿には難しい。
 ましてや彩乃だって万能生物ではない。不器用さは母も子も似たり寄ったり。

 今回の出来事は母子にとって距離を縮めるチャンスかもしれない――沙々良が気を利かせてくれたのか、そうでないのか。御殿には分からない。

 ただ「料理を教えてくれなきゃ想夜タンの身に何があっても知らん」との沙々良の脅迫を理由に料理指導に当たる御殿なわけで。可愛い友の泣きっ面をずっと見ているほど冷淡ではない。

 ピンポーン。

「お? やっと来たぜー」
 狐姫が彩乃たちを迎える。
 その後ろを重い足取りの御殿がついてゆく。一人だと不安なので誰かにいてほしい、といったところか。


 狐姫を一目見た時から、リンの暗い表情は一変。まるでオモチャ屋のショーケースに飾られたお人形を見るかのごとく、瞳を輝かせている。動物のような耳と尻尾のある存在には滅多にお目にかかれないので当然だ。
「耳、さわっていい?」
「おう、ちょっとだけな」
 ソファの上でゴロンと寝そべってゲームをプレイする狐姫が無愛想に返答する。

 さわさわ……

「いや、ちょっ、指……指入れないで――」
 狐姫が悶える。
「尻尾、さわっていい?」
「それ以上はやめておけリン。地獄をみるぜ」
 地獄を見るぜ……俺がな。

 モフモフモフ……狐姫はいいように遊ばれていた。

 いっぽう御殿は相変わらず。彩乃と2、3言葉を交わすが料理のことばかりで世間話すらしようとしない。何を話したらいいのか分からない。どう接したらいいのか分からない。親子の溝を埋めるには時間がかかりそう。

 彩乃が御殿の包丁さばきを見ては感動を覚える。数年前、シュベスタではスプーンすらまともに握れなかった子が、今では親よりも器用に調理している。それが嬉しくない親はいない。
「叶子さんから聞いてたけど、御殿さん、本当に料理が上手なのね」
「……ええ、まあ」
 彩乃の言葉にそっけなく返す御殿。


 想夜と叶子が、台所に立つ水無月親子をチラチラと見ている。
(2人だけにしていいの?)
(首をつっこむのもねえ……)
 親子の時間を邪魔してはいけないと思いながらも、2人きりにすると気まずくなって無言になることに心配気味の人々。触れるべきなのか、触れてはいけないのか。
「沙々良さんが連れてきたんだろ? なんとかしろよ」
「えー、親子なんだからくっつけときゃいいじゃんよー」

 狐姫の言葉で何かを思い出したように想夜のスイッチが入った。

「あー! 沙々良さん、あの画像消してよー!」
「わーってるって」

 沙々良が携帯端末を取り出して画像を表示させた瞬間――

「ちょ、見せてみそ!」
 面白半分、端末を取り上げた狐姫が画像を見て仰天。
「うわっ。これはヤバイだろ~。ないわ~。俺、こんなの見られたら一生外に出られないな」
 狐姫、ドン引き。

 「どれどれー、見たーい」一同、沙々良の端末にガブりよった。

 御殿と彩乃も興味津々で覗き込む。が、想夜が両手で御殿の目を覆う。
「ギャー! 御殿センパイは見ないのー!」
 目隠しされた御殿、右往左往。
「え? ちょ、なんで?」
「いいのー!」
「気になるでしょ?」
「いいのー!」
 想夜が泣きながら顔を真っ赤にし、御殿の背中を押して排除。
 ひとりハブられる御殿センパイ。一体どんな写真を撮られたことやら。

 端末を覗く者が全員、想夜を哀れんでいた。
『あ~、これはないわぁ……』と。


よそんの食卓


 御殿と彩乃、親子そろっての食事。

 本来なら楽しいはずの親子の食事のはずだ。だけど、なんだかぎこちない。

 他人の家の食卓は気を使ってしまい落ち着かない空間でもある。元々少食という理由も手伝って、リンの箸の進み具合はゆるやかなものだった。美味しくないというわけではない。ただ、楽しい食卓にはほど遠い。

 リンの気持ちを察してか、彩乃があれこれ話しかけてくる。
「リンちゃんはいつもお父さんとお食事しているの?」
「……ううん、パパはお仕事でリンはいつも1人。家政婦さんも次のお仕事で先に帰っちゃう」
 ポツリ。リンが寂しそうに呟いた。
「ああ、そ、そうよねえ。みんな忙しいものね~」

 ははは……と、取り繕ったような笑顔。ましてやリンの母は他界している。そこに触れるほど無神経ではない。

 引きつった顔の彩乃に狐姫が擦り寄る。
「水無月先生、リンの地雷踏みまくりだな。しっかりしろよな」
「う……」
 ヒソヒソと囁いてくる追い討ちが、彩乃の胸にグサリとくる。
 彩乃ションボリ。研究以外はてんでダメなタイプ。

 狐姫は御殿に擦り寄った。
「よし次。御殿、いけ!」
 狐姫に促された御殿がリンに挑む。
「……おいしい?」
 コクリ。リンがうなずく。
「バッカじゃねーの御殿。人の家に来て『マズイ食事ですね!』って言うやついねーだろ、フツー」
 すかさず狐姫が突っ込んだ。
「……そうよね」
 御殿、ションボリ。

「はいはいはいはい! あたし、次あたしやる!」
 想夜が狐姫の肩をバンバン叩く。
「痛て、痛て……よし想夜、いけ!」
 コホン……咳払いのあと、想夜がドヤ顔でリンに話しかけた。
「リンちゃんドーナツ好き? あたし大好き! あとね、シュークリームでしょ? マカロンでしょ? アイスクリームを作った人って女神だよね! あたしアイス食べ放題のお店に行ったことあるよ! おやつは何回食べても許されるよね!」
 甘いの大好きリボンの妖精。
 リンがポツリと呟く。
「リンの家、おやつは一日一回って決まってるんだ……」
「おぅふ!?」
 リンが申し訳なさそうに言うのを見て、さらに申し訳なさそうにする想夜。
 想夜ションボリ。退場――。

「チッ、使えねー妖精だな。次、沙々良さん――」
「リンちゃん……一杯やる?」
 缶ビール片手でノリノリだ。
「やめろ、相手は未成年だ。次、詩織さん……詩織さん?」
 狐姫の視線の先で詩織が彩乃に密着している。トロンとした目がヤバそうだったので、狐姫は見なかったことにする。

「――次、叶子」
「リンさん……うちのメイド枠が空いてるんだけど――」
 出た、時給720円。

「――次、華生」
 狐姫が叶子を遮り、華生を出撃させようとするも食事の仕度で手が回らない様子。

「――コミュ力ない奴らだな、しっかりしろよな」
 やれやれ。狐姫が苦笑する。
「そんなこと言うんだったら狐姫ちゃん、いいとこ見せてよ」
「そうそう、張り切っていってみよう!」

 想夜と沙々良の煽りを受けた狐姫がボキボキと指を鳴らした。

「しかたない、俺、自らが出る。久々にアズナブるとするか」
 行け狐姫! 3倍の速度で場の空気を和ませるんだ!
「コホン、えーと……よく聞けよリン。そもそもマーシャルアーツの歴史を語るとだな……いや、その前にジークンドーって個別の流派が存在しないのは知ってるよな? その格闘術について、これから明日の朝までじっくり解説したいと思ってるん――」
 狐姫が周囲に目を向けた。が、みな別の部屋で談笑していた。

 食卓にひとり残された狐姫。
「……なんなの? このションボリ感――」


 沙々良と詩織は明日の仕事が早いため、先に帰宅。

 食事が済んだあと、リンを寝かしつけた彩乃が戻ってきた。
「スリープケースから出したばかりだから疲れちゃったみたい。体調に異常はないけれど、ゆっくり休ませてあげなきゃね。 ……ありがとう」
 テーブルに座る彩乃に、エプロン姿の御殿が食後のお茶を差し出す。よくできたお子さんだ。

 叶子が御殿に問う。
「そういえば、小安さんが病院で奇襲を受けたらしいのだけど、御殿、なにか聞いてる?」
「詳しい事はまだ何も。明日にでも顔を出すつもりでいるけれど」
「私と華生もついていってあげたいのだけれど、野暮用が多くてね」
「ありがとう、気持ちだけで嬉しい」

 お腹いっぱいの狐姫がソファでごろんと寝そべりながら叶子に問う。

「病院に敵? 俺を奇襲しに来たのか?」
 狐姫はまるで他人事のよう。
「それはないわね。狐姫さんを最初に襲う意味は?」
「う~ん……」
 狐姫、考え中――。

「……俺のゲームのセーブデータが欲しい、とか?」
 いらねーよ。
「狐姫のセーブデータを奪ったあと、犯人はどうするの?」
 御殿が呆れ顔で質問する。
「想夜のセーブデータを奪うんじゃね?」
「え~やだよ~。あのゲーム、まだクリアしてないもん」
 想夜が頬を膨らませる。
「はやくクリアして俺に貸せよ。1日でクリアしてやっからよ。で、ラスボスとエンディングをネットにアーップ!」
「狐姫ちゃん、ゲーム会社の人に殴られるよ? グーで」

 JC同士の会話の横から御殿が質問をする。

「この中に、小安班長が襲われた日までに愛宮総合病院に出入りしていた人物はいる?」
 おっと、全員挙手。
「少なくとも小安さんは無関係ね。敵は命まで奪う気はなかったみたい」
「その少女って何者なんだ?」
 狐姫が特徴を聞くと、叶子はそれを周囲に伝えた。
 いちばん驚いたのは御殿だった。先日、伊集院の話に出てきた少女の特徴と同じだったからだ。

「シュベスタが崩壊した時、証拠隠滅のために暴魔を消していたハイヤースペクターか。一体何者なんだ?」
 狐姫が頭を悩ませる。
「伝えたい事はそれだけじゃないわ。御殿……その子、アナタと顔立ちがそっくりだったみたい」

 叶子の言葉によって、完全に伊集院の話と一致した。

「いったい敵の目的は何なのかしら?」
 叶子の言葉はより確信へと迫ってゆく。
 それを聞くたび、彩乃の顔が蒼白になってゆくのだ。

 彩乃の様子を不審に思った叶子が気にかけた。
「彩乃さん? どうかして?」
「ごめんなさい。ちょっと、気分が優れなくて」
「大丈夫ですか? ……御殿、ちょっとベッドを貸りるわね」
 こくり。御殿がうなずくと、華生が彩乃を連れ添って寝室へと先導する。
「ドクター水無月、肩をお貸しします。どうかご無理をなさらないでください」
「ありがとう、華生さん。でも、これだけは伝えておきたくて――」

 彩乃は御殿たちに、自分とロナルドの命が狙われていることを伝えた――。
 その事実を聞いて、とうぜん面白い顔をするものは1人もいない。

「本当なの? 彩乃さん?」
「ええ……」
 深刻そうにする叶子に、彩乃がうなずいた。
 黒幕は誰なの? と聞いたところで答えられない。知っているなら苦労はない。

 彩乃も御殿の寝室で仮眠をとることにした。


 ショートヘアのスペクターが彩乃を消しにきた可能性が大きい。ひょっとしたらシュベスタが崩壊した時も彩乃を消しにきたのではないか――と、叶子が推測する。それに御殿に良く似た刺客ともなれば、彩乃が何かを知らないわけではなさそうだ。

 事態を重く見た叶子が御殿に告げる。
「御殿、彩乃さんの護衛について頂戴」
「――え?」
 叶子の命令に御殿は戸惑った。
 それを察してか、叶子が御殿の肩にそっと手をのせた。
「御殿の気持ちも察しているつもりよ。だから、どうか難しく考えないで。彩乃さんはMAMIYAの研究員なのだから、アナタには彼女を守ってほしいの。それもMAMIYAの番犬の役目のはず――」

 そう言って御殿の肩を抱いて耳元でささやく。

「アナタのことを友達と言ったり番犬と言ったりして混乱を招いている私を罵ってちょうだい。アナタと彩乃さんだって、今は距離の取り方が難しいかもしれない。けど、今は彩乃さんを守らなきゃ。私も協力するわ」
 御殿や叶子は自分の身を守る術を知っている。
 でも、彩乃はただの研究員だ。スペクターから身を守る術など持ち合わせていない。誰かが守らなければ。
「今の私たちには、それができるはず。大丈夫よ御殿。私たち、以前よりも強くなってる――」


母と子


 ――子供たちの前で弱い部分を見せてしまった。

 彩乃は寝室で横になり、ただ天上を眺めていた。
 これからすべきことを考えているところだったが、今のところ八方塞がり。打つ手なし。
 
 コン、コン。
 
 ゆっくり。静かに。彩乃を急かす要素がひとつもないノックの音。
「はい。どうぞ」
 音が立たぬよう、ゆっくりとドアが開く。

 寝室に入ってきたのは御殿だった。

「失礼します」
「他人行儀にしなくてもいいのに。ここは貴方のお部屋なんだから」

 彩乃が休むベッドのすぐ横、御殿はイスの上に静かに腰をおろした。まるで冷静さの塊。嬉しさもなく悲しさもない、そんな表情をしていた。

「水無月先生、これからしばらくの間、わたしが護衛につきます。宜しくお願いします」
「護衛?」
 なんということだろう。我が子に命の代役を担ってもらうというのか。彩乃は断固拒否するつもりだったが、どうやらそうも言ってられないようだ。
「仕事なくなると、わたしも狐姫も食べていけませんから」
 御殿はそっけない態度で視線をそらす。その言葉で彩乃の拒絶を退けたのだ。
 それでも彩乃は食いさがる。子供を危険から遠ざけたい親の心境がそうさせる。
「生活費なんてわたしが出すわよ。あなたは若いのだから、自分のやりたいことを優先させればいいの」
「やりたいこと?」
 彩乃に言われて、御殿は考える素振りを見せる。

 やりたいことなんてあっただろうか?
 晴湘市のこともあり、御殿はどこか冷めていた。少なくともこの数年間、生き残りたいとも思ったことはないのに。

 将来の夢はなんですか?
 そう問われて「わかりません、決まってません」という答えはよく聞くこと。御殿もそれにあてはまっていた。

「今は……まだ決まってません」
「そう。まだ先が長いんだから、ゆっくり決めればいいわ」
「はい」

 そして沈黙――。

「……」
「……」
 お互い、会話が止まると落ち着かない。

 彩乃はしっかりした母親を演じられるよう、子供より先に打って出る。
「ちゃんと食べてるの?」
「ええ。むしろ水無月先生はご自分の食事の心配をなされたほうがよろしいのでは?」
 子供からのカウンター。痛いところを突かれた。
「ふふ、そうね。お母さん、ちゃんとしなきゃね」

 お母さん――そう言っては口をつぐんだ。彩乃には親を名乗るときに罪悪感がある。

 気を取り直して御殿に問う。
「家賃はちゃんと払えてるの?」
「ええ」
「お金足りないのなら私が出すから」
「大丈夫です」
「欲しいものは? お友達とどこかへ遊びに行きたいんじゃないの?」
「仕事、ありますから」
「いつもどんな仕事してるの? エクソシスト? 護衛? 危ないこと?」
 親の心配をよそに、御殿は控えめに苦笑する。
「また、質問攻めですか?」
「あ……」

 そう言われた彩乃は、「またやってしまった」とばかりに口をつぐむ。

「――狐姫から聞きました。研究所で水無月先生に質問攻めにされたって」
「狐姫さんには失礼なことをしてしまったわ」
「狐姫も失礼の塊なので気にしないでください」
 狐姫に聞かれたら、きっと噛み付かれるね。

「狐姫さん、いい子ね。彼女?」
「……そう見えますか?」
「あら、違うの? なら想夜さんが彼女?」
 知り合いの娘を全員カノジョにしたいのだろうか。御殿にハーレム計画という概念はない。

 無表情を貫く御殿だが、彩乃に想夜たちの看病をしてもらったことは感謝の念でいっぱいだ。想夜の腕も、狐姫の記憶障害も、すべて彩乃あってこそ乗り越えることができたのだから。

「狐姫と想夜のこと、ありがとうございます」
「いいのよ。あなたの大切な人達だもの。少しくらい手伝わせてちょうだい」
 そう言って彩乃は御殿の手を握った。

 一瞬、御殿の手がピクリとする。そうかといって拒絶することもなかった。彩乃がそうしたいのなら、そうさせてあげたかった。

「ふふ、スベスベ。綺麗な手をしているわね」
 彩乃はもう離したくないと言わんばかりに御殿の手を握り締めた。
「昔はね、こうやってあなたの手をよく握ったの。覚えてる?」
「……いいえ」
 覚えているわけがない。まだ小さかったから。ましてや発達に遅れが生じていたのだから。
「そう……」
 少しガッカリする彩乃を見ては、慌てて言葉を付け足す。
「だけど……なんとなく、薄っすらと、誰かに抱いてもらっていたこと、覚えてます。頭を撫でてもらっていたこととか……覚えてます」

 記憶の彼方、御殿はシュベスタで頭を撫でてもらった日々を手探りで思い出す。

 彩乃は御殿の頭を手繰り寄せると、何度も、何度も、やさしく、やさしく、宝物を扱うように撫でた。
「あなたが生まれた時、こうやって頭を撫でるたび、気持ちよさそうに笑ってくれた」
 MAMIYA研究所で彩乃と再会した日、全身ズブ濡れの御殿をタオルで拭いてくれた彩乃。今、指先から直接、そんな母親の温もりが伝わってくる。

 ――けれども3年もの年月は、御殿と彩乃の溝を簡単には埋めてくれない。

「お伝えしたいことは、それだけです。明日から護衛の任務につきます」
 御殿は彩乃の手から逃れると、部屋を後にする。
 彩乃は我が子の背中を、物足りなさそうな目で見送った。


 ひとり残された彩乃。目を閉じ、ロナルドの言っていた言葉を思い出す。

 『もう1人いるのだよ……ドクター水無月、アナタの子供がね――』

「水角……」
 御殿の後に生まれてくる予定だった命がある。彩乃はその子に『水』のつく名前をつけたかった。水無月では、潤いがなくて寂しいから。親子の絆に潤いが欲しかった。

 そうして家族3人で楽しい食卓をかこむ日々――それが彩乃の夢だった。

「夢って叶うものなのかな……」
 女王お墨付きの天才と謳われた科学者でさえ、未来のことは分からない。
「水角。あなたは今、どこで、何をしているの?」
 雨風がしのげる場所にいるだろうか?
 おなかは空いてないだろうか?
 先ほど御殿に質問した言葉のひとつひとつを、まだ見ぬもうひとりの子供に問いたかった。


 ――明朝。
 彩乃の護衛を任された御殿は、彩乃に同行して愛宮総合病院を訪れていた。

 御殿にすがるように彩乃が近づく。
「危ないことがあったら私を残して逃げるのよ、いいわね」
「それでは護衛になりませんよ?」
「そ、そうよね。で、でもね――」
 お母さんはいつだって子供のことが心配。そんなやり取りが何度か続いた。


 診察室――。

 診察を終えた小安が上半身裸で座っている。
 半裸の男を前に頬を染めて視線を逸らすも、部屋を出ていくタイミングを見失い、撤退を諦めては声をかけた。
「小安班長」
 御殿の声に、小安がゆっくりと振り向く。
「咲羅真御殿か……久しいな」
 会うのはシュベスタ崩壊のとき以来だ。鴨原を連行した後、小安の姿を見ていない。こうして無事に再会できたことを心底嬉しく思う。

 御殿の視線の先には、軍人として鍛えられた肉体美。三角筋から外腹斜筋にかけて無駄な脂肪は一切なく、洗練された筋肉は、戦争のために築きあげたであろう彫刻のように引き締まっていた。

 ダビデ像の左肩付近。棒のようなもので突かれたアザがあり、赤紫色に腫れ上がっている。
 御殿の視線に気づいた小安が口を開いた。
「これか? 骨に異常はないようだ。が、鞘で器用に関節を突かれてね。その時の衝撃で脱臼した」
「関節を外されたのですか? 鞘の突きのみで?」
「ああ。世の中には器用なヤツもいるもんだな」

 小安はため息一つ、げんなりとジャケットを羽織った。

「あのクソガキ。今度会ったら、キツイおしおきが必要だな」
「少女だったという事実は本当ですか?」
「ああ。見た感じではな。ショートヘアの……おそらく中学生くらいだろう」
「ショートヘア……」
「おまけに床や壁の中に消えていきやがった」
「床や壁に?」
 それを聞いた途端、御殿の中でひとつの答えが確定した。

 ショートヘアの戦士は、まぎれもなくハイヤースペクターである――。

 御殿のなかで伊集院との会話がまたもや脳裏をよぎる。
 シュベスタ炎上の際、暴魔を綺麗に消し去った人物。ハイヤースペクターならば、両性具有の線が濃厚だ。

 御殿が問う。
「少女だったのですか? 少年の可能性はありますか?」
 小安がせせら笑う。
「さあな。服をひん剥けば分かるかもしれんが、ヘタをすればこちらがスライスチーズにされ兼ねんのでな」
 そう言って部屋を出てゆく際、振り向いて御殿に言葉を残す。
「咲羅真」
「はい」
「――よく戻って来てくれた」
 部下が生きていてくれたことは小安にとっても喜ばしいことだった。


「御殿さん」
 御殿が診察室を出たちょうどその時、彩乃に呼び止められた。
「水無月先生」

 立ち止まる御殿に、彩乃はためらいながら口を開いた。

「叶子さんの心づかい、確かに嬉しい。けど、この任務からおりてほしいの」
「水無月先生の護衛から……外れるということですか? 理由を聞かせてください」

 彩乃は深くうつむいてしまった。

「ごめんなさい。まだ……気持ちの整理がつかなくって」
「小安班長を襲撃した少女と何か関係があるんですか?」
 押し黙る彩乃を見れば一目瞭然だ。
「襲撃した少女のことを知っているんですね?」
 詰め寄る御殿の手前、彩乃が顔を背けた。
「ごめんなさい……もう、どう答えたらいいのか分からなくて……」
 彩乃の疲労はかなりのもの。
 今はそっとしておいておくべきだと御殿は頭を下げて病院を後にした。


 病院の帰り道も御殿の推理は続いていた。

 御殿の中で疑問が浮かぶ。
 ハイヤースペクターの少女を自分にぶつければ、当然ながら彩乃は御殿の身を心配して任を解くだろう。そうすれば彩乃のガードは無いに等しい。
 敵はハイヤースペクターだ。それに対抗する護衛役など簡単に見つかるわけがない。対抗できるコマがあるとすれば、真っ先に御殿が配置につかされる。

(黒幕はわたしとハイヤースペクターが潰しあうことを望んでいる? それとも水無月先生の護衛から外すことを望んでいる? いったい誰がそんなことを……?)

 むろん鴨原ではない。彼には今さらそんなことをする意味がないからだ。
 メイヴなんてもっと論外だ。彼女は彩乃にご執心、妖精界に迎え入れるほどに欲しがっているからだ。シュベスタで彩乃を手にかけたようだが、本気で殺す気があったかどうかさえ疑わしいと御殿は思っている。

 ――だが今回、彩乃のことを本気で殺しにかかってくる敵がいる。黒幕は少なくとも彩乃と御殿の親子関係、それに八卦プロジェクトを熟知している者。考えられることがあるとすれば、彩乃を消すことにより得をする人物。

(水無月先生とロナルドさんが消えて得をする人物――)

 彩乃の研究はロナルドのライフラインによって成り立っているものが大きい。敵はおそらくロナルドが彩乃へ投資することを阻止しようとしている。彩乃の頭脳から生まれる新しい技術に恐れを抱いている人物だろう。

 新たなる研究に恐怖を抱く者――御殿はMAMIYAのライバル会社を調べていた。とはいえ、MAMIYAの競争相手はごまんといる。その中から大企業だけを選ぶなら簡単に済むのだが、MAMIYAに恨みを抱いている者を探せば個人レベルにまで広がる。シラミつぶしに対応していたら100年経っても未解決のままだ。

 手探りの調査は無謀ともいえる。もっと情報が欲しいところだ。

 誰かが何かしらの情報を持っている――。

「妖精たちよ。お願い、わたしを未来に導いて――」
 御殿はその思いを静かに口にした。


 御殿はほわいとはうすに帰宅した。

 頭を悩ませている御殿の横で、想夜と狐姫が仲良くゲームをしながらじゃれ合っている。
「狐姫ちゃんのキノコあたしにちょうだいよー」
「は? おまえ自分のキノコで何とかしろよなっ」
「あー! 後ろからスターとかで突っ込んでこないでよーっ」
「はははっ。近道近道~……って、逆走してんじゃん俺! 何やってんだよ!!」
「ぷぷぷーだ、さっすが狐姫ちゃん! 歪みないね~♪」
「なんだと? これでも食らえ!」

 ゲシ! 狐姫が隣に座る想夜のシリに蹴りをかました。
 ほわいとはうすは今日も平和です。

「つーかさ、なんでカートなのにハイウェイ走れるんだよ、このゲーム」
「そういえばこの前、自転車で高速道路を走っていた人の動画を見たよ? 狐姫ちゃん見た?」
「ははっ、あれはタダの変人じゃん? 後ろからやってきたスターに跳ねられるのがオチだろ。高速車にチャリで挑むなんてBダッシュやターボ使っても無理ゲーだぜ」

 ちなみに自転車で高速道路に侵入したケースは数多く存在する。もちろん日本国内での話だ。

 御殿がソファに身を預けると、そこへ一本の電話が入る。
 着信相手は宗盛だった。