6 命の独り占めは無し、ね――。


 愛宮邸を訪れた御殿は、さっそく宗盛の寝室に顔を出した。

「お体の具合はいかがでしょうか?」
「お蔭様で。ほら、すっかりこのとおり」
 と、宗盛は元気アピール。上半身を大きく捻って御殿に見せ付けた。
 目の前の元気な姿に、御殿は胸を撫で下ろした。


「――吸集の儀式を破壊できたのも咲羅真様のご活躍あってのこと。感謝しております」
「ご謙遜を。九条様のご尽力あってのことですよ」

 宗盛はその身を呈し、腹に一発受けている。鴨原から食らった弾丸は宗盛の功績でもある。

「以前の咲羅真様からのご指摘どおり、鴨原の行動には目を光らせていました。なので煽りをかけたらこの有り様です」
「そういうことは、わたくし達の役目ですので、どうぞお任せください」
 とはいえど、蜂の巣にされるのはもうまっぴらだ。


 宗盛が御殿を呼び出したのには理由があった。

「咲羅真様がシュベスタのご出身ということを鴨原から聞きました」
 宗盛の言葉を御殿は、ただ黙って聞き入っている。
 鴨原は誰に、何を、どこまで話したのだろう?
 そんな思いを胸に秘めている。

「もっとも、鴨原とは古い仲でもあります。体に聞くような野暮なマネはしません。こちらの欲しい情報は、鴨原自らすべて打ち明けてくれました。ただ……」
「……ただ?」

 御殿が宗盛をうながすと、宗盛はすぐさま返答する。

「ただ、鴨原は自分の描く思想について、頑なに口を閉ざしていました。我々は、彼の思想まではたどり着くことができませんでした」
 鴨原は人間界を妖精達に導かせるため、メイヴやフェアリーフォースと手を組んでいた。
 八卦プロジェクトを始動させたのも彼である。

 八卦の御殿が生き残っていたという事実をつかみ、叶子にぶつけて相殺しようとした。フェアリーフォースの敵にまわるハイヤースペクターを1人でも多く消しておきたかったのだ。そうすることでフェアリーフォースも有利に動ける。

 パーティーの時に暴魔を使ってMAMIYAの重役を消そうとしたのも、シュベスタが有利に動けるようにと先手を打ったのだ。
 鴨原は妖精界が人間界を統括しやすいように立ち回る役回りだった。

「鴨原は妖精界に統括してもらうため、フェアリーフォースと手を組んでいたようですが、どうやらフェアリーフォースの上層部は鴨原の考えとは異なる思想を持っていたようです。現に鴨原は今、フェアリーフォースとの縁を切っているようです」

 一呼吸入れる宗盛と一緒に、御殿も鴨原の思想について考えていた。

 鴨原は人間界をどのように再構築しなおそうとしていたのだろう?

 鴨原は人間を知能が低い生き物だと感じていた。乱暴な言い方をすれば、ほとんどの人類がガキっぽく見えていたのだ。

 優秀な鴨原のことだ。戦争などを求めていたのではなく、今より何歩も上をいく技術と思想を持った人間界を求めていたはずだ。
 そこから結論を出すならば、自己中心的な人類に白い目を向けていた鴨原の思想は全面的に間違っていたとも考え難い。

 鴨原が千年王国のような人間界を望んでいたのだとすれば、フェアリーフォースに期待しすぎである。なぜならフェアリーフォースは、技術と教養を用いて他の界をも侵略しようとしているからだ。
 無論、フェアリーフォースはそんなことは考えていない。エーテルバランサー同様、人間を家畜として管理するシステムを構築し続けるだろう。

 想夜によってフェアリーフォースの目論見は明るみにされていったが、それでも政府はびくともせず、すぐにでも妖精界の闇が消えたりはしないだろう。

 鴨原は、妖精界に夢を見ていただけなのだろうか? ――御殿が鴨原の思想にたどり着くのは、もう少し先になりそうだ。

 宗盛が御殿のほうにシワを作って笑顔を向けた。
「まさか鴨原が咲羅真様を消すために聖色市に招き入れていたとは。いやはや、不思議なこともあるものですな。そんなこともあって、我々は時間を共にしているのですから」
 そう、この街で御殿を待っていたのは、多くの出逢い。ひとりひとりの顔を思い浮かべては、控えめな笑顔を見せる御殿。

 これも何かのご縁なのでしょう――宗盛の笑みの数だけ回復が早まっている。そんな気がする御殿だった。

 ひとまず安心した御殿。宗盛の洗濯物を華生に渡すために部屋を後にした。


 洗濯カゴを抱えた御殿が、ランドリールームに顔を出した。
「華生さん、洗濯物、ここに置いておきますね」
「ありがとうございます」

 額に汗して華生が労働に勤しんでいる。こんな時間の合間を見つけては、叶子と一緒に想夜たちを探していたのだ。
 それを思うたび、御殿は友というものがどれほどかけがえの無い存在なのかを学習する。尊いものはお金では買えない。

 洗い物を分けている御殿に華生の声がかかる。
「咲羅真様、そろそろ休憩時間ですので、よろしかったらわたくしの部屋でお茶になさいませんか?」


 華生の部屋――。
 木造宿舎にある6畳ほどの寝室。ヘッドと机以外、ほとんど何もない。
 他にあるものと言えば食器棚。その中に並ぶ銘柄はちょっとした価値あるもの。午後の一息にこだわりがあるようだ。

 髪を覆う布巾をはずした華生が戸棚から食器を取り出す。

 華生のシニヨンからこぼれる髪。毛先を伝う汗が光る――。
 そんな光景でさえも、御殿には草木の朝露のような神聖さを感じてしまう。まるで朝靄の中で肺いっぱいに取り込んだ、ほどよく冷たい酸素をご馳走してもらっているみたいに。妖精に肺の中を浄化してもらっているみたいに。そうやって御殿の心から錘を取り除いてくれるのだ。

 妖精の華生に叶子が心を奪われるハズだ。やはり叶子お嬢様は御目が高い――と、シニヨンの後姿に見とれる御殿、その目線に気づいた華生が頬を染めながら小さく吹き出す

「そんなに見ないでくださいな。わたくし、ショーケースのお人形になってしまいそうです」
「ごめんなさい。失礼だったわ」
 指摘された御殿はそそくさと席につく。
「けれど、悪い気はしませんよ?」

 華生はカップとソーサーをテーブルに並べては御殿に微笑む。

「さあ、お座りくださいな」
 華生に誘われ、御殿はティータイムと洒落込むことにした。


 真っ白なテーブルクロスを前に、御殿が借りてきた猫のように座っている。

「こうして咲羅真さまと2人きりでお茶を飲むのは初めてでしょうか?」
「そうね。意外なカップリングかもね。想夜が見たら驚くかも。叶子が見たら、きっとヤキモチを焼くでしょうね」

 香り際立つ紅茶の時間。御殿はこういう時間が大好物だ。が、だた座っているだけだと落ち着かない。とたんにキョロキョロしはじめる。

「華生さん、わたしも手伝いましょうか?」
「お客人なのですから、気を使わないでくださいな」
「お願い。何かしないと落ち着かない」

 なにが御殿をそこまで行動に駆り立てる? それは紅茶の時間は飲むだけじゃないってこと。一度紅茶の時間を味わったものなら、誰しもその魅力に惹かれるはず。それがティータイムの恐ろしい副作用なのさ。

「ふふっ、辛抱たまらないってところでしょうか? では、カップにこれをお好みの分量、入れてくださいな」
 手渡されたのはマシュマロの入った袋。
「マシュマロ?」
「はい。マシュマロミルクティーを作ります」
 華生があらかじめ熱湯で蒸らしておいたセイロンの茶葉を沸騰寸前のミルクに投入。こうすることで濃いめの紅茶とミルクが混ざり合い、コクのあるミルクティーを作り出す。

 ※ダージリンなどは香りがよくて、あっさりしているが、若干薄い色合いになってしまうしコクにかける。

 あとは気取ることなく、カップの中のマシュマロ山脈にゆっくりとミルクティーをそそぐ。

 少しずつ溶け出してゆくマシュマロが雲のようにカップを覆い、ふわっふわな妖精の飲み物に変化を遂げる。

「お砂糖はお好みで。わたくしはいつも多めに入れるんですよ」
「なら、わたしも多めで」
 御殿は華生にならい、スプーンで山盛りに砂糖をすくった。

 どばー。

 子供っぽいところがある御殿。どこかの研究者にそっくりだ。
「シナモンパウダーもございますよ」
「ならシナモンパウダーも」
 御殿、至れり尽くせり。
 カップから漂う香り。御殿の嗅覚にエンジンがかかる。

 妖精が作ってくれたマシュマロミルクティー、いただきます――。

 御殿がカップに鼻を近づける。
「セイロンはコクがあるから、やはりミルクと相性がいいわね」
「紅茶ソムリエ、ここに降臨……ですね」
 くすりと笑う華生。

 御殿がカップを口につけると、口のまわりに白いおヒゲが生えてきちゃった。

「ふふ、咲羅真さま、サンタさんみたいになってますよ?」
「華生さんも、サンタクロース」
 と、お互いクスクスと笑いながら指摘して、舌でペロリと口元を拭う。


 ゆったりとした時間。
 紅茶の時間。
 シュベスタ戦で、御殿はこんな時間を望んだはずだ。心の底から望んだ。

 そして、それは現実のものとなった――。

「こんな時間がくることを望んでいたわ。現実のものとなってくれて嬉しい」
「神様からのプレゼントですよ、きっと――」
 シュベスタでの銃撃戦で、御殿は華生たちの前で蜂の巣にされた。あのような無残な光景を晒してしまったことを恥ずべきことだと思っている。友に心配をかけさせるものではない。

 ――とはいえ、弾幕を食らってもなお生き続けている頑丈さには、敬意を表されるのではないだろうか。

「あの時、わたくしは咲羅真さまをも妖精界の問題に巻き込んでしまったと悔いました」
 妖精界を逃亡している最中、華生を擁護した多くの妖精たちがフェアリーフォースから惨い仕打ちを受けたと御殿は聞かされている。そんな過去が今になっても継続しているとなれば、華生にとって地獄でしかないはずだ。

 だが、御殿は華生の心配をよそに、鎖を断ち切った。なぜなら御殿は、『死』にフラれた戦士なのだから。華生に心配されずとも、その鼓動は続いている。

「心配しないで華生さん。わたしは八卦。人間ではないのだから」
 それを聞いたとたん、華生の顔が曇った。その後、少しムスッとした感じで口を開いた。
「わたくし、その言い方、好きにはなれません」

 華生はカップを静かにおいて、御殿をまっすぐに見つめる。

「八卦であろうとなかろうと、咲羅真さまは人間です。貴方の言い方は、どこか皮肉めいているようで、なんだか……胸が痛むのです」

 どうせわたしは人間ではないのだから、バケモノなのだから――御殿の言葉には、そういうニュアンスが含まれている。自分のことを兵器と見ている。兵器だから敵陣に突っ込んで役目を終えよう、とばかりに無謀な考えに走ろうとしている。そんな言い方をする。

「妖精やスペクターの叶子様を見ていて分かったはずです。命の優先順位を種族で決める必要なんてないんです。妖精だろうと人間だろうと、命は命なのですから」
 華生はそう言って、静かにカップに口をつけた。

 非道な実験を行った鴨原をクズ呼ばわり時、どれだけのダメージが華生を襲っただろう。自らの言葉で己を傷つけてしまう者が多いなかで、「本当はこんなことを言いたくないのに」と悪役を買った彼女を前に、御殿は「本来ならば自分のセリフだったのではないか?」と罪悪を感じている。

「怒りとは相手を破壊する前に、自分自身を破壊してしまうものなのですね。元副所長の頬を叩いたとき、わたくしの怒りが猛毒となって己の体を蝕まんでゆくような感覚を知りました。けれどもわたくしは後悔などしておりません。なぜなら貴方さまのことを悪く言われて、黙っていることこそが、わたくしにとっては猛毒なのですから」

 華生は御殿の手をそっととってくれた。

「貴方さまはご自分が思っているよりも、ずっと多くの方々に愛されています。だから咲羅真さまはご自身のため、大切な人たちのために、ご自分の命を守る義務があると、わたくしは思うのです。あなたは使い捨ての弾薬ではないのですから」
 よほど蜂の巣にされたときのショックが大きかったようだ。狂ったように叫ぶ華生の声が今でも御殿の耳に残っている。もう、あんな叫びは聞きたくない。

 この数日間、御殿はいろんな人達に言われた――死に急ぐ必要はないのだ、と。

 御殿はさらに臆病にならなければならない。そうすることで、もっともっと命を大切にすることだろう。
「わかった。もっと命、大切にする」
「一つの命は他者と共有しているんですもの。命の独り占めって、誰にもできないんですよね」
 彩乃や多くの人たちによって紡がれた命、大切にしなければ罰があたる。
「と言っても、叶子様を独り占めしたいと思ってしまうんですけどね」
 華生は悩ましそうに笑顔をつくる。
「ふふ、それはそれは……ごちそうさま――」
 聞いているほうが妬けてくる。御殿はカップを置いて華生をまっすぐに見つめた。
「わかった。命の独り占めは無し、ね――」

 約束ね――指きりげんまん。ウソついたらゴハン抜き。おやつ抜き。

 閑話休題。

「ところで華生さん、その後の妖精界の動きは? なにか進展があった?」
「聖色市の妖精たちに向けてフェアリーフォースがスペックハザードを発令したのはご存知かと思います。行動を規制することでエーテルの感染を防ぐのが狙いでしょう。ハイヤースペクターが急増するのはフェアリーフォースにとってもマイナスですから」

 先日、御殿は華生から事情を聞いている。

「市内に残された妖精たちから情報を集めているのですが、どうやらフェアリーフォースの機能がうまく働いていないみたいなのです」
「政府がうまく動いてない? ……何があったのかしら?」
 たしか想夜もそんなことを言っていた。その時は「できることをしよう」と、なだめた御殿だったが、やはり政府の動きは気になるところだ。

 想夜の一件にしては、巨大な組織が突然の機能停止に追い込まれるなんて行き過ぎている。となると、別の理由が浮上する。

「ストライキか、何らかのクーデターか。妖精界が混乱しているのは確かなようです」
 妖精界をおわれた華生はそれを確認することができない。それがとてもはがゆく感じる。

 現在のところフェアリーフォースが御殿たちを追ってくる気配はない。ケンカを吹っかけてくるのは、もっぱらスペックハザードで暴徒化した妖精やハイヤースペクターだ。

「暴徒化した連中にわたし達を消させる手段に出ているのでは? そうすれば直接手を下さなくても済むし」
 御殿の言葉に華生は首を横に振る。
「いいえ。わたくし達の首に賞金をかけているといった話も耳にしません。フェアリーフォースは想夜さまを暴撃妖精として登録したようですが、それ以上は想夜さまの件まで手がまわっていないことが事実のようです」

 フェアリーフォースの機能停止――これはいい兆候かもしれない。巨大な勢力の足止めは御殿たちにとってみれば、行動の妨げが一つ減ったことになる。行動がとりやすくなること、それはたった一日でもいいのだ。

「とはいえ、ダフロマの進捗状況が気になるところです」
「ダフロマ……今どこにいるのかしら?」
 先日、ゲッシュ界から出てきた暴撃妖精。監守が言っていた『馬車の女』によって解放された危険因子。
「暴撃妖精は非常に危険な存在です。その存在だけで街一つが簡単に消えます。藍鬼化した想夜さまの力をご覧いただければ簡単に推測できると思います」

 藍鬼――女王メイヴをたった一撃で倒し、幾千ものフェアリーフォースの戦士たちを蹴散らした存在。鬼と化した妖精の力は、世界を揺るがすほどの力がある。その強さが暴撃妖精と呼ばれる所以だ。

 今は想夜の中で大人しく眠っている藍鬼。まだ不慣れとはいえど、今の想夜には簡単なコントロールくらいは出来るだろう。だが、いつ味方の首筋に食らいつくか分からない。藍鬼を発動するということは、その場でプラスティック爆弾をセットするようなもの。慎重に扱わなければ、全員が死ぬ。

「馬車の女がダフロマを解放したと監守は言ってたけど……華生さん、これについて何か知ってる?」
「晴湘市を妖精の世界に変えようとした婦人のことですね」
 御殿の育った街は、謎の婦人のトリガーが引かれたことによって地獄と化した。婦人が今回の事件との関係性があるのなら、これは大きな進展だ。

 華生は顎に手を添え考え、ポツリ、ポツリ、とつぶやくように御殿に話す。
「妖精と馬車、首無し、といったキーワードから連想するに……デュラハンが浮上します」

 デュラハン――アイルランドに伝わる首なし妖精。死を予知し、姿を見たものの目を鞭で潰すという恐ろしい妖精。

「へえ。血の気の多い妖精もいるのね。華生さんの爪の垢でも飲ませてあげたい」
「ふふ、ご冗談ばかり」
 想夜みたいにお菓子のことばかり考えている妖精ばかりなら、世界も平和で愉快なんですけどね。
「デュラハンの伝承は、晴湘市での惨事と恐ろしいほど似ております」

 死の予告。姿を見たものの目を潰す――すなわち殺戮。

「もしも晴湘市での一件が今回のスペックハザードと関りがあるのなら、これからどこかの街が消えると予測してもいいでしょう」
 華生の予想を聞いた御殿が顔をしかめた。
「どこかで災害が発生するということ?」
「はい。そのために、馬車の女はダフロマを放ったと見てもよろしいかと」

 もちろん憶測ですが……華生は恐ろしさを消したいがため、震える手でマシュマロミルクティーに口をつけた。甘いものにすがり、気持ちを安定させたかったのだ。

「晴湘市の惨事が、また起こる……」
 御殿の全身の血液が沸騰しかけた。

 なぜこのタイミングで、そのような事態に進んでいるのだろうか?

 今までの経緯はこうだ――
 フェアリーフォースの戦士洗脳が想夜によって暴露される。
 シュベスタの崩壊。
 スペックハザードの発令――。

 御殿はひとつの糸を手繰り寄せていた。
「もしもダフロマの進行によって街が崩壊し、そこに人間が住めなくなったら、代わりに誰が住むと思う?」

 御殿の問いに華生が答えた。

「おそらくスペックハザードで暴徒化した妖精とスペクター達が押し寄せてくるのではないでしょうか。人間に邪魔をされない居場所は、彼らにとってみれば安息の地ですから」
「シュベスタに設置してあったエーテルポットから漏れ出した大量のエーテルなのだけど、なぜか汚染されていた。想夜が言うには、妖精に注入することで攻撃力の高い妖精をつくろうとしていた輩がいるみたいだけど」

 華生がカップをゆっくりとテーブルに置き、口を開く。

「――はい。エーテルは妖精の肉体と精神に大きな影響をもたらします。最初は監禁した妖精たちで実験するつもりだったのでしょうけれど、シュベスタが炎上した時に漏れ出してしまいました。結果、スペックハザードが発令されました」
「敵がスペックハザードを逆手にとったということでいいのかしら?」
「可能性は高いです。炎上させたのも、その者の仕業ということでしょう」

 シュベスタにエーテルを集めさせて汚染。想夜たちにエーテルポットの機能停止をされたと分かった途端、それをばら撒いてスペックハザードに陥れる。

 その後、暴徒化した妖精とハイヤースペクター達を日本で増やし、妖精たちの新天地を築き上げる――敵の考えていることは正気の沙汰ではない。

「とはいえ、シュベスタに飼われていた実験用の暴魔が溢れ出せば、人間界の軍隊が動く。ことが大げさになることを阻止するため、暴魔の群れを綺麗に消し去るコマを放った。その人物が伊集院さんや小安班長が目にした少女ってことね」

 それを聞いた華生がクスリと吹き、ホッと胸を撫で下ろす。

「咲羅真さま、なんだか変わりましたね」
「え? どのへんが?」
「暴魔の殿方を『さん』付けするなんて、以前の貴方にはなかったことですよ?」
「そ、そう?」
 たしかに。悪魔を目にしたとたん、「バカヤロー! コノヤロー!」と狐姫よろしく胸倉をつかんで殴り倒すだけのオーラは持っていた。カレーのおすそわけにも毒や下剤を盛っていたかもしれない。
 それが御殿さん、一体どういう風の吹き回しなのん?

「なにが貴方をそこまで変えたのです?」
 その問いに対し、御殿は考えたのち、こう言った。
「真の敵は悪魔ではない。といったところに気づいたってことかしら?」
 御殿は薄々気づいている。悪魔よりも恐ろしい存在が、この世のどこかで息を潜めていることに。
 ただ、その答えにたどり着くまでに、どれだけの時間を要するかは謎である。


JC1試合目


 御殿が出て行った後も想夜と狐姫はゲームに夢中。
「ねえ……狐姫ちゃん?」
「あー?」
 ゲーム画面を食い入るように見つめる2人が会話をはじめる。
「痛かった?」
「……あん?」
「御殿センパイに……された時――」
 想夜が口をモゴモゴさせて狐姫に質問する。

 無理やりのハイヤースペックレゾナンス――御殿は八卦としての奥底に眠る「ひとつになりたい」という欲望を狐姫の胸に無理やり捻りこんだ。

「んー、まあ……そうだな」
 あの時の御殿のイッちゃってる目を思い出した狐姫が、思わず身震いしてしまった。八卦との力の差がそれを自覚させた。
「八卦の御殿センパイ、恐かった?」
「まあ、そうだな……目が、恐かった。いつもの御殿からは想像できなかったな。八卦って、そんなもんなのかね」

 はははっと笑い、さらっと受け流す。触れられたくない出来事だけれど、想夜にならこのキモチを話してもかまわない。だって想夜は御殿と狐姫を一つに紡いだのだから。そうやって御殿の奥底に眠る感情を知ることができたのだから。

 ゲーム画面から目をそらさずに会話を続ける。
「狐姫ちゃん」
「あー?」
「御殿センパイとひとつになるって……どんな感じだった?」
 好きな御殿センパイとつながった感覚、想夜は気になってしかたがない。

 狐姫はコントローラーを置き、胸に手を当てて静かに呟いた。

「御殿の過去の映像が流れてくるんだ。それと同時に感情の共有がはじまる。嬉しいとか、痛いとか、つらいとか。それを感じることで、アイツに近づける気がした。ひとつになれた気がした」
「なんか……うらやましい」

 想夜、ささやかな嫉妬――。

 それを聞いた狐姫がしかめっ面を作った。
「そうかあ? 他人の気持ちをまんま共有するのは簡単なことじゃないぜ? 俺の醜態を見ただろ? 他人の気持ちなんて想像の範疇だけでとどめておいたほうがいいんじゃね? でなければ……心、壊れちまうよ」

 ポツリ、最後に狐姫はつぶやき、こう続けた。

「それでも誰かの気持ちとひとつになりたいっていうのなら、想夜の想いは本物なんだろ。きっと」
 狐姫は何事もなかったようにゲームに熱中している。

 ネンネの想夜には、狐姫の言葉がとても大人の女に見えて敬意を覚えた。

「狐姫ちゃん」
「あー?」
「ごめんね……巻き込んじゃって」
「ははっ、俺が好きで首を突っ込んだんだ。想夜は……悪くない」
 狐姫がゲームをしながら吹き出した。
「だ、だって……」
 想夜がもじもじと身をよじって狐姫の顔をうかがう。

 狐姫の中で恐怖の根源といえば、ハイヤースペックの暴走が最初にあがる。
 叶子の魔人化だけでなく、御殿に無理やり接続され、あげくには妖精の想夜までもが鬼へと変貌を遂げる異能。そんな脅威を目の当たりにしたのだ。妖獣といえど力の差に愕然とする部分もあるだろう。

「そりゃあさ、ハイヤースペックはスゲー能力だと思う。近づくとヤケドする力だってことも分かってる。だからって俺はおまえらのことを気味悪いとか思わない。想夜は想夜で、御殿は御殿さ」
「あたしが藍鬼で、御殿センパイが八卦でも?」
「ああ。俺も妖獣だ。叶子はハイヤースペクターで、華生は赤帽子だ。みんなで仲良くしよーぜ」
 ニカッと白い歯を見せる狐姫。

 種族が違えどお友達。年齢、性別、職業、国籍、肌の色――そんな違いはどうでもいいのです。と、狐が申しております。

「もしあの時、想夜が再接続してくれなかったら、俺と御殿、きっとダメになってたと思う。だから……サンキュ、な」
「……うん。御殿センパイの中で狐姫ちゃんの声が聞こえたから、がんばれた。あたし」

 ハイヤースペック・紡ぐ――想夜自慢のハイヤースペック。

 想夜と狐姫、少し照れながらも赤くなった互いの顔に愛しさを覚える。
 狐姫は気を取り直すよう明るく振舞い、会話の内容を変えた。
「でも御殿の年齢聞いたか? あのおっぱいで4歳だぜ? 小姑みたいにうるさいクセに。俺たちのことバカにしてんの?」

 想夜がコントローラーを置いて狐姫の顔をガン見してきた。

「俺たち? 狐姫ちゃん、さりげなくあたしまで巻き込まないでよ」
 狐姫もコントローラーを置いて想夜と視線を合わせる。
「は? おまえ俺よりチッパイじゃん?」
「ふえぁ? あたしチッパイちゃうねんでよ?」

 やる気満々で立ちあがる2人。

「ちゃうねんでよって何だよ、どこの言葉だよ? いい加減に人間語おぼえろよなっ」

 ゲシッ!

 狐姫が想夜をかるく肩パン。
「あ痛ったー。殴らないでよ、もー!」
 痛さのあまり、目をまん丸にする想夜。頭にきたご様子で、狐姫の袴の裾を引っ張る。

 スルリ――。

 狐姫の袴が簡単に床まで落ちてしまい、狐姫のふとももが露になる。
 ※妖精界の住人のみ可能な技です。
「ちょっ、肩パンしただけでなんで俺脱がされてるのん? おまえやりすぎだ……ろ!」

 狐姫が想夜のサスペンダーを軽く引っ張ると思った以上に簡単に外れてしまい、拍子にスカートがズリ落ちる。

「あー! サスペンダーに攻撃するとか、どんだけ狐姫ちゃんなの!?」
「どんだけ狐姫ちゃんってどういう意味だよ? 俺=悪人みたいじゃん?」
「人質や物質ものじちへの攻撃は悪モンのやることだよ。特撮ヒーローで言ってたじゃん」
「なに言ってんだよ、変な言葉ばっか使いやがって。おまえどこ人だよ?」
「狐姫ちゃんだって『じゃんじゃん』いうじゃん? 湘南人みたいでおかしいじゃん?」
 湘南人に謝れ。
「何だよ湘南人て。おまえだって『じゃんじゃん』言うだろ、神奈川県民に謝れコノヤロー!」
「狐姫ちゃん神奈川人じゃないじゃん!」
「プッ、また神奈川人とか言うっ。湘南人とか神奈川人とか、やっぱ妖精って妖精人だよな~!」

 チラッ。狐姫が想夜を一瞥、ヘラヘラと笑っておちょくった。

「妖精人ってなによっ、妖精に対する果たし状に匹敵するよっ。放課後、体育館裏に来てよねっ」
 想夜、コントローラーを投げ出し臨戦態勢に入った。
「おうよ、体育館裏でも屋上でも、どこでもいったるわい!」

 喧嘩上等! 狐姫もコントローラーを投げ出し臨戦態勢に入る。

 売り言葉に買い言葉の想夜がクワッと表情筋に力を入れる。
「コントローラーなんか使わなくっても熱き血潮でやったるわいっ」
「やるってか? おうよ、リングに上がってこい、コノヤロー!」

 狐姫が御殿の寝室に飛び込み、ベッド上でカモンカモンッと想夜を挑発。

「おうともぜよ、這い上がったるわいっ」
「おうともぜよって何だよ? ハウ○ドドッグかよ! おまえffじゃなくてAAだろ!」
「Bだよ!」
「はははっ、ちっさ! いえーい、俺の勝ち~。想夜なみだ目~」
 強く、強く、挑発を繰り返す狐姫。
「もー、アッタマきた! 来い! このやろ~!」
「しゃーっ、コノヤロー! 妖精界で俺に挑戦する者はいないか? いないよな、コノヤロー!」
 蝶のように舞い、蜂のように刺す――マグマを背負いしモハ○ド・アリ、ほわいとはうすに降臨。

 カーン! 御殿の寝室にゴングが鳴り響く!

 たった今、異種格闘技戦が幕を開けた!!

 想夜と狐姫、パンツ丸出しのまま腰を低く保ち、互いに睨みあう。熱いヤカンに触れるよう、慎重に相手の手をつかんで……そのままフィンガーロックの体勢に入る!
「ふんぬぅぅぅううっ」
「ヌア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッーー!」
 両者、意味不明の奇声。

 想夜の細い腕を……狐姫が捻り上げた!

「イタタタタタ! 狐姫ちゃん本気出しすぎい!」
 いちおう手術したばかりですがお構いなし! 女同士の戦いは弱肉強食だ!
「わーはっはっは! 手四つ力比べで俺に勝てるとでも思っ――」

 ピキッ。

 狐姫の腕から変な音がした直後、飛び上がって悲鳴を上げる。
「痛ってー! 腕つったああああ!」
 ここで狐姫選手、入院生活からの運動不足が祟ったあああ!
「ププーッ、狐姫ちゃんだらしなーい」

 おっと! ここで想夜が狐姫の後ろに回りこみ、腰に手をかける。

「チッ、後ろをとられたか。しかたねぇ、これでも食らえ!」
 狐姫、尻尾を振り回して想夜の鼻をコチョコチョ。
「ふえ、ふえ……へっくち!」
「ぶわはははっ、変なくしゃみしやがって。妖精でも花粉症になるのか? おまえの頭ん中は年がら年中お花畑だがなっ」

 狐姫が想夜の後ろに回りこみ、羽交い絞めにする。
 と、そこへ想夜が羽を広げて応戦。突如として現れた羽にビビる狐姫が後ろに仰け反った。

「おわ!? きったねーぞ、さっきまでそんなの生えてなかっただろ! 凶器だ! へい、レフリー! アイツの羽を取り上げろよな!」
 レフリーなんていない。
「あたしの羽はデフォルト仕様なんですう~。装備品じゃないんですう~」

 鼻高々の想夜。尻を向け、パタパタと羽を使って狐姫を挑発する。

「ふざけんなよな! チート装備をはずせコノヤロー!」
 ぎゅうううううう。狐姫が想夜の羽を握った。瞬間、
「ふああああああ!?」
 慌てふためく想夜。頬を真っ赤に染めて、腰が抜けたようにその場にヘナヘナとしゃがみ込んでしまう。

 妖精にとって羽は敏感な部分。性感帯の一部だ。

「なんだその声、だらしねえなあ……これはどうだ?」
 狐姫の容赦ない攻撃。指先でさらなる刺激を想夜の羽に与え続ける。
「あんっ、ふああああん、らめえ、らめっ、ヘンになるううう!」
 想夜はピクン、ピクン、と小さな背中を震わせながら、唇で指をかみ締め、涙目で悶え始めた。
「はははっ、羽なんか出すからこうなるんだ」
 得意気に羽をシコシコとピストン運動させる狐姫。
「想夜の弱点、見切ったり~!」
「もう……狐姫ちゃんのばかぁっ」
 ぎゅううううう。想夜、負けじと狐姫の尻尾を握り締めた。
「ふああああ!?」

 狐姫が吐息を吐いて悶えだす。尻尾は狐姫のデリケートな部分。性感帯の一部だ。ヘタにさわると――

「らめっ、らめっ、らめっ」
 想夜のリズミカルなピストン運動に狐姫、全身をビクンビクン震わせている。
「狐姫ちゃん、ここ? ここがいいの?」
「しょこ、しょこお! らめええええ!」

 いいの?
 らめなの?
 お互いに羽と尻尾をいじりまくり、ベッドの上でハアハア息を切らせている。

 永遠に続くかと思われたマッサージごっこ、ここですかさず狐姫が後ろ足を想夜の足にからませて転ばせる。
 ずでーん。2人してベッドに倒れた。
「ふう、一本とったぜ! とっととコレ……よこせ!」

 狐姫が想夜のクマさんパンツに手をかけ~……おもむろに脱がす!

「今は生えてないな? 女のクセに、いっつもいっつも変なモン生やしやがって!」
「ぎゃー! あたしのパンツ返してよ、狐姫ちゃんの……エッチ!」

 想夜、負けじと狐姫のキツネさんパンツを~……下げる!

「うああああ!? なにすんだよっ、おまえ一本も取ってないだろ! このハゲ妖精!」
 狐姫が奪われたパンツを取り戻そうと懸命に手を伸ばす。
 勝ち誇った顔の想夜。下半身丸出しのまま、奪った狐姫のパンツを覆面剥ぎよろしく指先でクルクル回して遊んでいる。
「ハゲてないも~ん! サラサラだも~ん!」
「ウソつけ! ツルッツルじゃねーか、ションベン妖精!」
「なによっ、狐姫ちゃんだってツルッツルじゃん!」
 くわっ。想夜、またまた頭に血がのぼる。
「ああん!? おまえの目は洞穴ほらあなか! これを見ろ! 毎日手入れしてるからフッサフサだぜ!」

 組んず解れつ、両者一本も譲らない(※体毛のことではない)。

 想夜と狐姫が同時にクッションを掴んでブン投げた!

「そんなのフサフサちゃうわいっ、ツルツル狐!」
「全然サラサラじゃねーだろっ、ツルペタ妖精!」

「「そんなの全国体毛連盟が認めんわ!
これでも食らえ!!」」


 投げたクッションが互いの顔面にめり込む!
 あげく、クロスカウンター。
 両者ノックアウト。息絶え絶え、リングに沈んだ。

 カンカンカーン! ここで試合終了のゴング~。
 元気があればそれでいい。多少のことは……シカタナイネ?


御殿の決断


 帰宅した御殿が自分の部屋へと向かう。

 開けた扉の向こうで想夜と狐姫が談笑している。
 と思ったら、半裸のJCが2人してじゃれ合っているではないか。しかもベッドの上で。

「――2人とも……何してるの?」
 御殿の冷ややかな視線に両者が奇声を上げる。
「ギャー、御殿センパイ!?」
「こっち見んな、おっぱい魔人!」

 クシャクシャになったシーツの上で体を隠す2人。

「ここ、わたしの部屋なんだけど……?」
 人の部屋でスッポンポンになって何してるの、この人たち。
「最初にアイツがやってきたんだぜえ~」
「最初にアッチがやってきたんですう~」
 JC水掛け論開始。ダメージ1でも100でも一回は一回ってところか。

「「向こうが先にやってきたんだもお~ん!」」

 最後は2人して仲良くそろった。


 御殿は気にせず荷物を下ろす。

 いそいそと服を着る想夜と狐姫。まるで浮気中、夫が帰宅した時の光景みたいな。
「……おかえりなさい。どこに行ってたんですか?」
「ただいま。調査で各地を点々と……はい、おみやげ。華生さんから」

 御殿が華生から持たされたマシュマロを想夜に渡す。

「わあ、マシュマロだあっ、ありがとうございます!」
「なんだなんだ? アイス? アイス?」
 後ろから顔を出てきた狐姫と無邪気な盛り上がりを見せる。
「OH! マーシマーロー♪ 向こうで食べようぜ想夜!」
「わーい! 御殿センパイも早くぅ~!」

 マーシマーロ~♪ 2人して御殿の部屋から飛び出していった。
 んでもって、さっそく台所でお茶の用意。まるでお母さんに甘える子供たちのよう。仲のよろしいことで。

 ……で、なんで裸だったの? ――あの2人はいつもあんな感じなので、御殿はあえて追求しなかった。


 想夜と狐姫が煎れてくれた紅茶でホッと一息した御殿は、デュラハンについて聞き出していた。
「たしか御殿センパイ、晴湘市に現れたのはタールをかぶったような黒い女って言ってましたよね?」
「ええ。たしかにみどりさんが言っていた」

 みどり――その名を口にするたび、御殿の胸が締め付けられる。御殿を育ててくれた人であり、その身を呈して御殿を守ってくれた女性だった。

 想夜は口をつぐんだ後、胸に手を添えて話はじめる。
「あたしは妖精なので魔界のことには詳しくないんですが、昔、京極隊長から怖い話を聞いたことがあります」
「怖い話? なんだソレ?」

 ――「『地獄の妖精』の話です」

「地獄の……妖精?」
 御殿が顔をしかめた。
「はい。人間が地獄へ堕ちるのとは違い、好き好んで地獄へ堕ちてゆく妖精たちの話です」
「妖精は友愛な存在でしょ? どうしてわざわざ地獄なんかに行くの?」
「力があるからです」
 地獄を統括できるほどの力があれば、妖精でも他界への行き来が可能である。
「妖精の中にも強欲なもの達がいます。地獄の妖精たちは全てを自分のものにしなければ気が済まない、狂った覇者ばかりだと聞かされました」

 地獄に君臨することで、さらなる領域を広げている妖精たちがいる――それが事実ならば、人間界を手中に治めるために陰で行動を起こしていても不思議ではない。つまり、人間界を家畜小屋にしたがっている。

「妖精たちの領土を広げるため――それには強力なコマが必要よね。その方が効率よく領土を広げられるし」
 と、御殿は過去を振り返る。

 晴湘市、かつて源次が馬車の女を叱責して追い返したことがあった。当時の御殿は憤怒した源次の態度にひどく怯え、何も無かったように忘れる努力をしてきた。けれどあの時、馬車の女が御殿を迎えに来たことに焦点をあてると、おのずと八卦へのつながりが見えてくるのだ。

 八卦を集めている者がいる――伊集院の言葉を思い出した御殿の瞳に憎悪がたぎる。

「おそらく馬車の女は八卦プロジェクトのことを知っていたのでしょう。となると、考えられるのはMAMIYAとシュベスタに精通している者ってところかしら?」
「研究者か?」

 狐姫の問いに御殿が首を横に振る。

「いいえ。必ずしも社員とは限らない。プロジェクトの成果物である八卦を引き取りたいだなんて言う物好き、いるとすれば戦争好きな輩なのでしょうね」
 より強力な兵器を欲するもの。それは……

「――株主。そして投資家」

 そう。企業を裏で牛耳っている者。それは企業のバックアップ。資金面のサポートをしている存在である。
 御殿の調査ではMAMIYAの株主総会に妖しい人物はいなかった。投資家であるロナルドは彩乃をサポートしている。いわば味方だ。

 投資家の関係者で八卦プロジェクトにご熱心な人物に心当たりはないか? ――御殿は先ほど、電話でロナルドに質問をぶつけてみたが、なぜか言葉を濁す態度をとりたがる。返答に困っている様子だった。

「ロナルドさんが何かを嗅ぎ付けているのは確かだと思うのだけれど、それが晴湘市の事件とどう関りがあるのかは検討がつかないの」
 どうやら御殿たちは、ロナルドですらも口を閉ざしてしまう人物に接近しているらしい。

 頭を悩ませていた御殿に、想夜が問いかける。

「彩乃さんはなんて言ってるんです? ……あっ」
 想夜は「しまった」と言わんばかりに口を閉ざした。御殿と彩乃の距離のとり方は本人達でも難しいもの。自分でも無神経な発言だったと思ったのだ。
「ご、ごめんなさい御殿センパイ……失言でした」
 シュンとうつむき、上目づかいで申し訳なさそうにする想夜。
 それ見た御殿がクスリと笑い、想夜の頭に手を置いてなだめた
「いいのよ、そんなに気を使わないで。どのみち水無月先生にも話を聞くつもりだったし」

 ――と、そこへ狐姫が口を挟んできた。

「鴨原さんなら何か知ってるんじゃね? 聞きに行くのは気乗りしねーけど」
 狐姫は口を尖らせて胸をさする。
 狐姫を撃った人物。MAMIYAの関係者を銃殺しようとした人物。八卦プロジェクトを進めた人物。御殿を聖色市に呼び出した人物。シュベスタに精通した人物。フェアリーフォースと癒着していた人物。なにより、思想の分からない人物――。

「あ、あたしも気乗りしません。けど……けど……」

 チラリ、想夜と狐姫が互いを見ては押し黙る。2人とも考えていることは同じなのだ――そう、『鴨原稔がいなければ、咲羅真御殿は存在していなかった』。

 勝手に八卦プロジェクトを進めた鴨原の行為が正しかったのかは誰にも分からない。だが鴨原は、こうして想夜と狐姫の前に御殿がいるという現実を作り上げた張本人でもある。

 御殿は思う――自分が本件を放っておけば、おそらく想夜と狐姫が鴨原と接触を試みるかもしれない。心強い2人ではあるけれど、難しい話についていけるだけの知識が伴っているとも思えない。

 諸々の聴取作業は御殿の役目だ。
 御殿は少し考える素振りを見せたあと、決断を下した。
「――鴨原さんに会ってくるわ」
 

ハイウェイへの招待状


 医学、政治、経済、歴史、心理学、文学、雑学、妖精学、電子工学、プログラミング言語、サーバー構築、サイバーセキュリティ、人工知能とディープラーニング――あらゆる教養が本棚にはつまっている。

 御殿は目の前の本棚を見上げて肩を落すのだ。
「本、お好きなのですね」
 本棚にぎっしりとつまっている書籍を見ては、己が読書家からはほど遠いことを認めざるを得ない御殿。一体、ここにある本を読破するためには、どれだけの年月を要するのだろう?

 鴨原が書斎のイスに座り、御殿をまっすぐに見つめる。
「本は教養の塊だ。それを起点に技術と戦略も身につけるんだ。たった数千円の買い物で未来への投資が出来る。IQを高めたかったら本を読め。読書とIQの高さは密接な関係にある」

 鴨原の言うように、読書とIQの高さは比例するというデータがでている。読書の数だけ、その者の視点が高くなり、より高いところから世界を見ることができる。とうぜん、本を読まなければ視点はいつまでたっても地面しか見ることができない。

 鴨原はイスから立ち上がると、その辺の本を手に取り、無言で御殿に手渡す。

 御殿も無言のまま受け取った本を開くも、目に飛び込んでくる内容ときたら意味不明なものばかり。ドイツ語らしき文章でぎっちり書かれた書物に頭が痛くなって閉じた。
 御殿の態度に鴨原は「フンッ」と鼻で笑うと、御殿から本を取り戻す。

 鴨原からしてみれば、御殿の読書家は自称に過ぎない。かつては御殿の超学習能力に過剰な期待を寄せていたが無残な結果に終わり、期待した俺がバカだったと肩を落すのだ。
「本はただ読むだけじゃない。教養を身につけてゆくものだ。数の多さで勝ち誇るものではない。脳の中に知識を残し、それを活かしてゆくことが重要だ」

 好き放題言われているのも腹立たしい。こっちは蜂の巣にされたのだ、皮肉の一つでもご馳走してやりたい――そう思った御殿が反論をする。

「どんなに読書の量を増やしても、議員の椅子を退かざるを得ない状況に陥ったあなたは、説得力が欠落していると思いますけど? ――と、わたしが言ったら、それは意地が悪い質問でしょうか?」

 鴨原は一本取られたみたく苦笑し、ゆっくりと首を左右させた。
「いいや。キミの言うとおりだ。俺は世界から切り離された男に成り下がった。これだけの本を読んでも無意味だったというわけだ。未来への投資もクソもないな」

 本棚を高く高く見上げる鴨原が毒づくも、御殿は彼の自己評価を否定する。

「そう思っているのは、貴方だけではないのですか?」
「ほお。今度は俺を擁護してくれるのか。おもしろい、聞かせてくれ。キミの意見を」
「なぜなら、わたしは貴方の知識にあやかろうとしている」
「つまり、俺の知識が必要でここへ来たってことか?」
「……はい」
「てっきり八卦に殴り飛ばされるかと思っていたのだが。ここへ来たのも何かのご利益目的といったところか」

 鴨原は黙り、ふたたびソファに腰を下ろした。
 テーブルを挟んで、御殿も後からそれに習って腰を下ろす。

 御殿は差し出されたブラックのコーヒーを一口すする。とたん、少し苦い顔を作る。香りはいいのだけれど、コーヒー慣れしていない。

 ソファで足を組む鴨原が御殿の些細に変化する顔を見るや否や、ミルクと砂糖の容器をすすめてくる。
「まだ4歳だったな。子供が無理して背伸びか?」
「……どうも」
 ムッとして、少しスネた感じで御殿は容器に手を伸ばす。想夜たちが見たら何て言うだろう? 「御殿センパイかわいー」と言うだろうか。狐姫はもちろん大爆笑するだろう。

「子供は素直なのが一番だ」

 結構です。ミルクと砂糖なんかいりません――とか、ふて腐れたりしない御殿に鴨原は好感が持てた。


 御殿が鴨原に質問する。
「シュベスタで連行された後を、九条様から聞きました。その後、貴方はどうしていたのですか?」
「四六時中、愛宮の連中から拷問を受けていた――」
 とたんに御殿の表情が少しだけ歪む。あまり聞きたくない話だ。
 それを見てすぐ、鴨原は「ははっ」と吹き出す。
「冗談だ。不思議なことに指一本触れられなかったよ。きっと汚い者には触れたくないのだろう」

 冗談で笑い飛ばしながら、コーヒーを一口。鴨原は話を続けた。

「九条には俺が行った一連の行動を話した。パーティーでの惨事、九条を撃ったこと、八卦プロジェクト。だが、それらの話は口外されることはなかった。MAMIYAにも都合があるのだろう。愛宮がすべて綺麗に始末したようだ」

 企業イメージは絶対に守らねばならない。たとえリスクが大きくなろうとも、それをカバーできる力が備わっていれば何も問題はない。それがMAMIYAの成せる技だった。

「たしかロナルド氏は水無月主任のバックアップだったな」
「はい。実はその件で――」

 御殿がリンの置かれている状態を鴨原に話す――彩乃がリンの容態を回復させるには、特別な治療が必要なのだ。けれど、それが見つからない。八卦の力がリンの体を救ってくれるといった都合のいいことなどないのだ。

 話を聞き終えた鴨原が難しそうな表情を作る。
「残念だが、俺が八卦プロジェクトに関ったのはキミが最初で最後だ。先ほどキミから聞かされた『雷の八卦』については正直何も分からん。今回の件はお手上げということを告げておく」
「……そうですか」

 御殿は落胆した。調査早々、リンを救う手立てが絶たれてしまった。

 八卦はこの世に存在していてはいけないのだろうか? 命たるもの、必ず生まれてきた意味があると思うのは、偽善からくる言葉なのだろうか。ディルファーのデータを共有したもの同士、御殿はリンのことを他人とは思えない。

「リンさんはまだ11歳です。打つ手は、無いのでしょうか?」
「残念だが」
 鴨原からの死刑宣告に御殿は押し黙った。

 水無月先生、リンさんの命は諦めてください――これから御殿は、彩乃にそう告げる。その役目を担っている。難儀な役まわりだ。


「話が済んだのならもう――」
 鴨原が早々に話を終わらせようとするところへ、御殿は慌てて鴨原の言葉を遮った。
「まだ……まだ、聞きたいこと、あります――」

 御殿自身、どうしてそんなに焦るのか分からなかった。ただ、分かりやすく説明するとすれば、鴨原ともっと話がしたかったのだ
 酷い仕打ちを受けたが、御殿には鴨原への嫌悪感がこれっぽっちも無い。ウソじゃない。

「貴方がパーティー会場でわたしに言っていた言葉、覚えてますか?」

 まだ続けるのか――鴨原はウンザリ顔で御殿に付き合う。

「ああ覚えている。失敗作だと思っていたのだが、よく育ったものだ。ここまでの成長を遂げていたとは……正直、驚きだった」
「わたしを破棄したこと、後悔してますか?」
 鴨原が眉をよせ、怪訝な表情を見せる。
「何が言いたい?」
「沢の八卦が発動したとあっては、今のわたしは軍事兵器としては優良物件ではないでしょうか?」
「自分の売り込み営業か何かか? あいにくだが、俺は研究者としての席を剥奪された。パトロンだったら他をあたってくれ」

 心なしか御殿には鴨原が自分のことを拒絶しているようにも思えた。それが御殿を破棄したことからくる罪悪感だとすれば、鴨原は本当にクズなのかを疑いたくなる。本当に何を考えているのか分からない男。

 とはいえ、非道な妖精実験を行い、利用価値のある詩織にワームを寄生させ、失敗作はいらないからと御殿を捨てた罪は見過ごすことができようか。妖精たちに人間界を託そうとした行為は、あまりにも身勝手すぎる。そんな命を軽んじている部分に華生は酷く激情したのだろう。

 結局のところ御殿の中で、過度な同情はビジネスにはふさわしくないという答えに終息する。

 これで話を終えよう。そう思った御殿が話を続けた。
「わたしが愛宮邸を訪れた全社総会のあの日も、貴方はこちらを見てましたよね?」

 ――するとどうだろう? 一瞬だけ、鴨原はかたまり、
「さあ、どうだろうな。そこまでキミに熱心ではない。俺のなかではキミへの研究意欲は、もうない」
 と、はぐらかすではないか。

 御殿はそれ以上聞かなかった。目の前の男が何から何まで話してくれるとも思えない。それに、またゴミだの失敗作だのと言われるのもゲンナリする。
「聞きたいことが他にあります」
 鴨原は御殿を睨みつけるように見つめる。事情聴取をされているみたいで嫌気がさしているのかもしれないと、御殿には思えた。
 御殿は初めてMAMIYA研究所を訪れた時のことを打ち明ける。暴魔の口封じのため、スプリンクラーで聖水を撒き散らして証拠を隠蔽した出来事だ。

 『鴨原さん、MAMIYA研究所でスプリンクラーを動かしましたか?』
 『スプリンクラー?』

 シュベスタで鴨原と対立した時、御殿はスプリンクラーを作動させたのは鴨原ではないか疑った。しかし、その後の想夜の問いに、鴨原は首を傾げたのだ。それは鴨原が犯人ではないという証拠だった。

 そんなやり取りもあり、鴨原以外の犯人が浮上するのだ――スペックハザードに便乗した人物が。

「おかしなことばかり聞く友達を持ったな。妖精ってのはそんなものか?」
「想夜のことですか。いい子ですよ、今度連れてきましょうか?」
「冗談はやめてくれ。ここは子供の遊び場じゃない」

 苦笑する鴨原に御殿がいたずらっぽく微笑む。

「気になっているのでしょう? あの子はスーツとネクタイに疑問を抱く貴方に『きっと答えが見つかる』と言っていた。そこに希望を抱かないほど、貴方は愚かではないはずです」

 スーツとネクタイは囚人服だ。そんなこと誰だって分かっている。認めないのはバイオパワーにひれ伏す臆病者だけ。この世界のほどんどの人間が、独りで戦うことすらできない臆病者だ。

「青二才がずいぶんと偉そうな言い方をするじゃないか」
 鴨原が御殿のネクタイを指摘してきた。
「だいたい何故キミはネクタイなんかしているんだ? 戦闘には適していないだろう?」

 御殿は何も答えられない。御殿自身、エクソシストになってから今の服を着用するようになったのだから。理由は、「クライアントの前ではちゃんとした服を着ろ」と言われてきたから。そもそも、ちゃんとしか服という概念ですら正確な答えを持つものか怪しいものである。ゲッシュ界でハイヤースペクターとやりあった時、叶子にジャケットとホルダーを預かってもらったが、戦闘中、確かに身軽だった。

 鴨原のスーツ嫌いは正論すぎる。誰も反論できないだろう。

 返答にこまる御殿にバカバカしさを感じたのか、鴨原が苦笑する。
「まあ、こんな場面でキミとスーツやネクタイの話をすること自体、ムダな時間だがな」
 鴨原は言葉で御殿を折りたたむ。
「妖精のガキが偉そうな言葉を並べたところで、所詮は偽善の羅列にすぎない。大人の世界はあまくない。キミだって戦場を味わっているのだろう? それが分からないほど愚かではないはずだ」
「そうですけど……」

 ブーメラン。鴨原に言葉を返されてしまい、御殿はつまらなさそうにそっぽを向いた。

「そうですけど、わたしも戦場を歩いてきた身。想夜のように純粋な心の持ち主の言葉に、捻くれてしまった感情は揺さぶられるもの。鴨原さんもそうではないのですか?」
「タールをかぶったような汚れた心を浄化してくれるとでもいうのか? 余計なお世話だ」

 タールをかぶった。それを聞いた御殿は馬車の女を思い出した。

「質問を変えます。シュベスタに関係している投資家、もしくは株主のなかで八卦プロジェクトに熱心に取り組んでいた人……どなたか心当たりのある方はいませんか?」
「八卦プロジェクトにお熱を上げている奴らはたくさんいたさ。俺も含めてな」

 だが次の瞬間、鴨原は興味深いことを口にするのだ。

「……ただ、ギブ&テイクの世界にも関らず、妙にサービス旺盛な企業があったな」
 何かを思い出しているように天上をあおぐ鴨原を、御殿はまっすぐに見つめた。

 やがて鴨原が口を開いた。

「その企業の名は、ミネルヴァ重工」

「ミネルヴァ重工……あのミネルヴァ?」
 御殿は驚きのあまり、目を見開いた。

 ミネルヴァ重工――世界中に軍事ヘリや銃器を提供している日本の企業。近年、医療器材などの運用を開始し、医療機器のトップシェアであるMAMIYAに切り込みをかけてきている。

「ミネルヴァの関係者で、とある婦人がやけに八卦プロジェクトにご熱心だったことを今、思い出した。正直……不気味だったがな」
 八卦プロジェクトから生まれた御殿は、シュベスタの所有物でもあった。ミネルヴァの手には入らないので、大したメリットもない。なのに、その婦人ときたらサービスだけはいい。裏があるのは明白だった。

 婦人の横割り込みに不信感を抱いていたシュベスタの研究者は多かった。が、毒を食らわば皿まで――八卦プロジェクトの歩幅を縮めるものは誰もいなかった。皆、プロジェクトの成果に期待をよせていた。つまり、前しか見ていなかったのだ。

「その婦人の名前を教えていただけますか?」
「本名は知らん。だが、コードネームみたいなもので呼ばれていたな」
「コード、ネーム?」
 御殿が眉を寄せた。
「確か……ババロア、だったか?」
「ババロア?」
 御殿が拍子抜けするも、鴨原は表情筋ひとつ緩めなかった。いたって真剣、真顔だ。

「……そう。ババロア・フォンティーヌ」

「ババロア……フォンティーヌ? それは日本人なのですか?」
「国籍など知らん。色白だったが、整形で肌の色なんていくらでも変えられるしな。年齢だって分からん。戸籍はどこでも売られている。作ることだってできる、キミのようにな。キミは20歳前後を演じているようだが実際は幼稚園にも入園できない年齢だ。目に見えるものを信じるな」

(ババロア・フォンティーヌ……)

 もう一度、御殿はその名を心に刻んだ。とたん、全身を鳥肌が襲う。
(なんだろう、この悪寒。妖精の件に近づこうとすると、必ずこの寒気に襲われる)
 御殿の中の野生の感覚が近づくなと警告を出してくる。それは今までの比ではない。何かとてつもない力に立ち向かおうとしているのが自分でもわかるのだ。

 甘いものには罠がある――ババロア・フォンティーヌ。いったい何者なのだろう? 御殿にはそれ以上のことが想像できなかった。


 御殿が書斎を出てゆく。
「お聞きしたかったのはそれだけです。お忙しいところ、突然お邪魔してすみませんでした」
 ババロア・フォンティーヌについての収穫があったものの、結局、リンを救うことはできなさそうだ。
「いいさ。どのみち堕ちた男に会いにくる物好きなどいない」
 非肉が多い男ではある。が、御殿は鴨原と言葉を交わすたび、目の前の男が自ら人間関係を切り離しているような気がして寂しさを感じてしまう。周囲に迷惑をかけたくないという鴨原の感情が漂ってくるのだ。

 狂気の世界に身を投じた男が下した決断。それは孤立してでも前に進むことだった。それが八卦プロジェクト。

「九条華生の言うとおり、俺は人間のクズだ。キミもそう思っているだろう?」

 御殿は少し考える素振りを見せて、答えた。

「わたしには貴方がクズなのか、そうでないのか、正直、よく分かりません。そうかといって、華生さんの言葉を否定する気もありません。ただ、わたしは貴方の強引な研究によって命を与えられた。それによって多くの人たちと出逢い、喜怒哀楽も共にしてこれました」
「俺はキミの父親でも何でもない。キミが役立たずのゴミだと判断したから破棄した」

 鴨原は意味もなく本棚から書籍をとりだし、目を通しはじめた。
 きっと読んでもいないのだろう。つくづく不器用な人だな、と御殿は思う。
 そんな不器用な男を前に、御殿は無邪気な子供心を感じずにはいられない。
 それに御殿には、鴨原に伝えたい言葉がある。

「それでも……たとえ、わたしがゴミであったとしても……」

 御殿は胸のうちを、正直に鴨原に伝えるのだ。

「わたしを聖色市に呼んでくれて、ありがとう。わたしを皆のいるこの時代に造ってくれて、ありがとう。わたしにこの世界を与えてくれて……ありがとう――」
 無言で背中を向ける鴨原に微笑み、御殿は静かに部屋を出ようとした。

 その時だ――

「――待ちなさい」

 鴨原は振り向き、御殿の背中に声をかけて引き止めると、そばにあったメモ用紙を乱暴にむしり取ってペンを走らせる。書き終えると、それを御殿の目の前にぶっきらぼうに差し出してきた。

「ここに書かれている国立病院へ向かえ。古い知り合いで八神という医師がいる。脳神経外科の権威だ」
「脳神経外科の……権威?」
 鴨原からメモを受け取った御殿は首を傾げた。メモを見ると病院の住所と電話番号などが書かれているではないか。

「――これは?」
「元々は癲癇てんかん患者の研究を行っていたチームだ。癲癇脳の原因はよく分かっていなかったが、最近の研究発表でニューロンを駆ける電流をチューニングすることで回復への兆しが見られるようになった。八神たちはブレインチューニングのプロだ」
「ブレインチューニング?」

 癲癇の脳波は、必ずしも癲癇患者ないし痙攣疾患者だけが所有するものではない。健康に生活している者でも癲癇脳の脳波を持っている人間は多数みられる。また、とつぜん癲癇に陥るケースも多々あることから、正確な原因究明と治療が困難とされてきた。八神チームの脳波チューニングは、脳波の乱れを健康に近い状態に保つための取り組みとしておこなわれている。臨床試験中ではあるが、賭けに出るリスクがあったとしても、現状を打破しなければならない状況下に御殿たちは置かれていた。

「八卦のなかでも雷の能力は、神経経路に大きな影響を及ぼす。体中の神経は電気信号が関っていることから、尚のこと脳波に乱れが生じる。チューニングをほどこすことで、ハイヤースペックを発動した時にかかる脳への負担を軽減できるかもしれない。それによって体への負担も若干ではあるが軽くなるはずだ」
「けれど、国立病院にたどり着くには結構な時間がかかります。何時間もの移動はリンさんの体に多大な負荷が……」
「だったらショートカットを使え。新しく改装された真湘南バイパスの上空を沿って走る晴湘ハイウェイがある。それに乗ってひたすら西へ進め」
「あのハイウェイはまだ開通してないのでは?」
 晴湘市を突っ切るため、立ち入り禁止指定が解かれなければ晴湘ハイウェイを走ることは不可能。そして、開通は何年も先になる見通しだ。

 だが、鴨原は知っている――それは一般人に出回っている誤った情報であることを。

「晴湘ハイウェイは、早ければ5日後に開通される」
「5日後!?」

 驚きのあまり、御殿の目が丸くなった。無理もない。あまりにも突然の情報だからだ。

「ああ。今日から3日後に国土交通省のお偉方が開通式を行う。それまでは誰も使用していない。現場の人間も、すでに作業を終了して撤退している。ただし、そこに到達するには一般の高速道路を走る複数の車の群れを縫って走らなければならない。ましてやキミ達の言う暴撃妖精が上陸すれば、そこで思わぬ足止めを食うことになる。もしそうなったら、戦闘に参加している者は全員腹をくくれ。失敗すれば一つの命が消え、その後、日本も暴撃妖精によって崩壊するだろう。死ぬ気で取り掛かるんだ、分かったな?」

 御殿が驚きのあまりにドモる。

「ど、どうしてそんなことを知っているのですか?」
「鴨原稔だからだ」
 バン! 鴨原は恥ずかしげもなく自分の名を名乗った。そのくらいの情報提供ができなければ鴨原稔ではない。それができる男こそが鴨原稔だ。叶子同様、鴨原も己の名にプライドを持っている。

 なんだかんだで鴨原が御殿たちに協力してくれるのには裏があるのだろうか? 無論、それはない。鴨原は妖精にご熱心だが、執拗に追いかけることはしない。ましてや御殿に対して許しを請うようなことも考えていないいさぎよさを持っている。

 鴨原稔――宗盛以上に食えない男。不器用な男。シャイな男。

 晴湘ハイウェイは幾段にも重なる立体高速道路。無数に入り乱れる経路から、いつ、誰が、どこから襲ってくるかわからない。場合によっては敵陣に囲まれる覚悟も必要だ。となると、1人でも多くの手が必要となる。

「――わかりました。こちらも頭数を増やして取り組みたいと思います」
「賢い選択だな。八卦とはいえ、味方の力は必要だ。誰だって1人じゃ何もできやしない」
 鴨原はそう言って、乱雑した本に目を落す。家政婦でも欲しいのだろうか? 男1人じゃ掃除もできやしない、といったところだろう。
「……ありがとうございます」

 行ってきます――御殿は深々とお辞儀をして部屋を後にした。


 鴨原のマンションを出た御殿は手渡された紙を取り出す。
「晴湘ハイウェイを抜けて国立病院へ向かう、か。 ……邪魔者が来なければいいのだけれど。と言っても無理か」

 リンを送迎中、多くの者がリンを狙ってくるだろう。ましてや彩乃を手にかけようとする輩まで押し寄せてくるのは明白だ。言うなれば、鴨原から手渡されたメモは、地獄のハイウェイを通過するための片道キップ。

 ――御殿、それでもやるか?

「当然でしょう。この魂に迷いはない」
 自問自答の末にたどり着いた覚悟は伊達じゃない。