2 鬼になった妖精


 みすぼらしいフードを被った少女が2人、砂漠化した街をゆく。

 砂に埋もれた石造りの建築物。傾くその姿は、機能を終えた古代遺跡の集まりのようでもある。

 ――と、そこへ突然、湧き出したかのように砂が盛り上がり、巨大でゴツゴツとした砂人形が立ち上がって姿を見せる。

 ――20メートルはあろうか、行く手を阻む砂の巨人。頭からつま先までゴツゴツした砂の塊で構築されたボディ。少女たちの行く手を阻むよう、土砂をこぼしながら産声を上げる。

 フードを被った1人の少女が砂の巨人を見上げるとニヤリと口角を吊り上げ、片手でフードをめくると後ろに倒す。

 1人は黒髪にヘアバンド。
 もう1人はミルクティー色のシニヨンヘア。

 めくり上げたフードの向こう――そこに現れたのは、愛宮叶子と真菓龍華生だった。

 2人は怯むことなく一歩前へ出る。
 先陣切った叶子が空に手をかざして叫んだ!

「ハイヤースペック・レベル2!  24の瞳!!」

 突如、空から10人のメイドが輪を描いて舞い降りてきた。先日、シュベスタから救出された赤帽子たち。各々、両手にネイキッドブレイドを装備している。

 10人の中に華生も加わり、合計11人が叶子を中心として大きな輪を作り、お嬢の手前――礼儀正しくしゃがみ込んでは頭をさげ、2本のブレイドの柄を叶子に差し出した。

 立ち向かうは、ゴツゴツとした岩肌を持つ砂の巨人――ハイヤースペック乱用者。異能を手にしたハイヤースペクターが各地で好き勝手に暴れている。その姿が目の前にある。

 力があれば何でもできる。
 力があれば何でも手に入る。

 それは誰しも思うこと。かつては同じ思想を抱いた叶子は、それを抱く者達を白い目で見たりはしない。

 ――ただ、スペックハザードが発令された今となっては、弱肉強食を貫くまで。
 でなければ……死ぬ――。

 叶子がかかげたネイキッドブレイドに、その険しい横顔が反射し、赤帽子と共に砂の巨人を時計の数字のように囲んだ。

 巨人が足元の12人をキョロキョロと見下げている。
 その隙をついた叶子が巨人に突っ込んでゆき、右足に一発叩き込んだ。

 ズウウウウン……

 巨人は石のように強固だ。が、叶子に足の一角を砕かれて体勢を崩す。
 と同時に、ブレイドの刃こぼれが起こる。

 欠けたブレイドの回復には時間がかかるが、今の叶子には何の問題もない。

 規則正しい時計盤の輪の中で、メイド1名に向かって疾走する叶子――自分のブレイドをメイドに手渡し、差し出されたブレイドを抜き取る。ブレイドをリロードして引き返し、次の斬撃を巨人に叩き込んだ。

 巨人を斬っては刃こぼれ。
 構うことなくまっすぐ突き進み、2人目のメイドにブレイドを手渡し、相手からブレイドを抜き取る。
 その動きはまるで、時計盤の上に咲いた彼岸花のようだ。

 中心の敵にダメージをあたえては、対角線に位置するメイドでリロード。向き合う数字から数字へ、メイドからメイドへ――中心の敵に突っ込んでは、斬って、走り抜け、ブレイドチェンジ、斬って走り抜け、ブレイドチェンジ――それを人数分くり返すのに3秒かからない。

 最後のリロードを終えた叶子が、サッと片手を天にかかげる。
 それが合図だった。

 叶子ひとりを残し、メイド達は空に吸われるように消えた。その後、両手にブレイドを手にしたメイド達が、空から猛襲をかけて舞い降りてくる。

 ドスドスドス! ドスドスドスドスドスドスッ!!

 ゲリラ豪雨のような激しいブレイドの雨が巨人にふりそそいだ。

 1人2回、計22回の斬撃音がこだまする――ある者は斬り、ある者は刺し、それそれ独自のスタイルを所有している。

 目の前に立ちふさがる巨人が砂埃を舞い上げ、バラバラに砕けはじめる!
 殺すことはしないが、相手が立ちあがるにはどれだけの時間を有するだろう。

 目の前の敵を粉砕すること。叶子にはこれが精一杯だった。肝心のエーテルバランサーが不在ため、妖精と人間を引き離すことができないのだ。よってハイヤースペクターの足止めが精々。それゆえ叶子は、力技で相手をねじ伏せるしかなかった。
 けれど、何もしないよりはマシといえよう。


 叶子はこの場所に来る前のことを思い出す――。

 愛宮邸。そこには宗盛と小安がいた。
『お嬢さまを頼んだぞ、華生』
『かしこまりました小安さん』
『行ってくるわ。私が留守のあいだ、愛宮は任せたわよ宗盛』
『かしこまりました、叶子様』
『小安さんもね』
『問題ありません』


 愛宮邸を後にした叶子と華生は、消えた御殿を探していた。御殿から連絡があってもいいはずなのに電話の一本もない、となると仲間の危険を避けるために連絡を避けているか?
 あるいは……
 叶子の頭に最悪の結末が浮かんだ。

(バカなことを考えないの、叶子――)
 叶子は自分に言い聞かせて余計な考えを振り払い、ふたたびフードを被り歩き出す。
「想夜の居場所が分かったというのに……御殿、どこで何をしているの?」

 想夜の居場所が分かったのは、つい先日のこと。
 居場所はわかる。けど、叶子だけでは救出困難な状況に追い込まれていた。

 狐姫はシュベスタの崩壊後、すぐに救助された。けれど、狐姫も一筋縄ではいかない状況にある。

 遠くの夕焼けが血の色に見えて、それが絶望を意味するかのよう。それを見ては叶子はひどく胸を締め付けられるのだ。


 砂漠を抜けると、一つの街がある。

 暴力が蔓延しているスラム街。殺風景、古びたレンガ造りの建物が幾屋いくおくも連なっていた。

「叶子様――」
 叶子の背中に華生の声がかかる。
「やはりここは危険です。一旦引き返しましょう」
「ここまで来て? 冗談でしょう? それに――」
 叶子は風に乱される髪をかき上げた。
「それに、この先には想夜が待っているのだから……」

 叶子が歩み始めたところへ突如、7人のスペクターが立ちはだかる。

「スペックハザードでいきり立つ気持ち、分からなくもないけれど……あまり邪魔をしないでほしいものね」
 たちまち叶子と華生は囲まれてしまった。

 華生が叶子の出方を伺う。

「叶子様、いかがいたしましょう?」
「そうね、とりあえず……」

 逃げ場を失った叶子は目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。

「私の後ろに立たないでくれる? 軟禁罪よ?」

 ガッ!

 叶子が真後ろのスペクターの腹に回し蹴りを叩き込むとブレイドを振りかぶり、縦一文字に敵を斬り付ける!

 続けざま、華生が近くにいた妖精の横っ面に回し蹴りをあびせて怯ませ、足払いで体勢を崩す!
 それに便乗した叶子が、ブレイドを時計回りに振り回して援護する。

 ザシュッ!

 足払いの体勢の華生の頭上を叶子のブレイドが横切り、斬られたスペクターがその場に崩れた。
 一瞬のうちに妖精とスペクターからダウンを奪った。

 ――残り5人。どうする叶子?

 叶子との距離をとるスペクターたち。ネイキッドブレイドが届くかどうかの距離を保ったまま、四方八方から叶子を取り囲んでくる。学習能力はあるようで、なかなかイヤらしい戦略のとり方をしてくる。

 叶子が右のスペクターに目を向けると、反対側にいる左のスペクターが叶子に近づいてくる。

(挟み撃ちか……不利ね――)

 目の前のスペクターに気を取られていると、今度は別のスペクターが背後から忍び寄ってくる。そうやってジリジリと距離をつめてきては、多人数で叶子の手と頭を取り押さえてきた。
「無礼な! 汚い手で触らないでちょうだい!」
 押さえつけられた叶子がブレイドを振り回そうとするも、抵抗むなしく終わる。

 叶子は瞬時にブレイドを逆手持ちに切り替ると、真後ろのスペクターにブスリと突き刺した。

「ぎゃああああ!」
 激痛で叫び声を上げる敵が怯んだ。そこへ蹴りを入れて遠くへ吹き飛ばす叶子。
 けれど、叶子の攻撃はそこで終わる。
 正面から突っ込んできたガタイのいいスペクターが叶子の腹にタックルをかましてきたのだ。

 ドッ!

「うぐっ!」
「叶子様!?」
 腹にダメージを食らった叶子の体がくの字に折れ、砂上で何度も後転しながら勢いよく吹き飛んでゆく。
「う、ぐう……」
 倒れた叶子が地面に両手をつき、起き上がろうと必死。
「さっきの巨人のツケがまわってきたみたいね」

 ハイヤースペックレベル2。今の叶子にとってみれば一日一発が限界だ。使用すれば当然ながら、あとの戦闘に響いてくる。

(華生の言うことを聞いて大人しく引き返せばよかったのかしらね……)
 愛する人の忠告は素直に聞いておくものだ。叶子はちょっぴり後悔した。

 生まれたばかりの子ヤギのよう、震える足で立ち上がる叶子。
 すると、その後ろに影が迫る――。

 叶子は後ろの影に気づくと、「ふふ……」とブレイドを握った手を緩め、両腕を下ろしてこう言った。
「今、何時だと思ってるの?」
 叶子はゆっくり振り向いた。そのあと、後ろに立つ人物の顔を見ては安堵の笑みで表情筋を緩ませるのだ。
「こんなに待たせるなんて……友達失格」
 そう言って叶子は目の前の影を指差し、瞳を潤ませる。
「探したんだからね……ばか――」

 帰って来てくれた。無事に、ここまで。それだけで叶子の胸から熱いものが込み上げてくる。嬉しいという感情の涙。

 そこにいたのは……

 華生の顔がパッと明るくなる。
「咲羅真さま!」

 ――御殿だった。

 MAMIYAの番犬、ここにあり。
 御殿が一歩前へ出る。
「おまたせ、2人とも。あとでドーナツおごるわ」
「駅前の?」
 叶子が横目でチラ見しながら聞いてくる。
「そう。市長の大好物」
 御殿はシニカルスマイルを叶子に向けた。
 みんな大好き甘いもの。帰ったらおやつの時間が待っている。『ニンジンと馬』よろしく、目の前にドーナツをぶら下げてひた走れ!

 運動不足の夫に言葉を投げる妻みたく、叶子が御殿の背中に語りかけた。
「カラダ、なまってるんじゃない? 少し動かしたら?」
「そうする」
 敵は4人。御殿が生身の人間だったら、一撃で殺されるだろう。

 叶子は御殿の隣に並ぶと、横目でイタズラっぽく目配せした。
「いける?」
「いける」

 御殿が脱いだジャケットとホルダーを叶子に手渡す。こっちのほうが動きやすい。

「咲羅真さま、銃はお使いにならないのですか?」
「必要ないわ」
「それじゃ、お手並み拝見といきましょうか」
 叶子は高みの見物と洒落込むようだ。というより、御殿の邪魔をするような気がして気が引けるという理由のほうが大きい。

 御殿が一歩前に踏み出す。

 久々の戦闘――準備運動にはちょうどいいかもしれない。本気の攻撃は大歓迎だ。今の御殿に傷をつけられるものがいるのならば、それはそれで楽しくなりそう。強い奴、大 歓 迎。

 敵がヒソヒソと話はじめる。
「あれは誰だ?」
「咲羅真御殿じゃないのか?」
「あの暴力エクソシストの?」
「ハイヤースペクターじゃないのか?」
「ただの人間だ。一撃でしとめる」

 巷では御殿のウワサが行き届いている――妖精と人間を行き来する存在、ハイブリッドハイヤースペクター。その珍しさからか、御殿の首を狙う輩まで出てくる有り様だ。目立つヤツにちょっかいを出したくなる嫉妬心は能力を持っても変わらないのだろう。

(草壁先生。もう一度、戦ってみます――)
 御殿は半身になって身構えた。片手を腰の後ろに回し、もう片方の手を相手に向けて「……来い」と、無言の挑発をかます。

 すぐさま、挑発にのった1人目が襲い掛かってきた!

「はじまった!」
 叶子と華生が息をのむ。

 御殿は右からの攻撃を前かがみで、いとも容易くかわす。
 中腰の姿勢から角度を戻すと、今度は左からくる攻撃を仰け反ってかわし、ふたたび元の姿勢に戻す。よくできたスプリングのように精密な動きだ。

 今度は左右から連続で飛んでくるスペクターのパンチ、それを首を左右に動かして避ける。
 御殿には余計な力がいっさい入っていない。端から見ると準備運動をして遊んでいるようにも見える光景。

 スペクターの攻撃は御殿に一発も当たらない。カスるどころか、何秒も前から敵の攻撃を読みとって避ける準備をしてきたかのよう。

 御殿は瞬時に相手の攻撃を先読みし、手首を掴んで捻り上げた。
 無理な体勢で固定されるスペクター。あと1ミリ捻れば手首の骨がボキッといく。
「ス、ストップ……やめてくれ! な?」
 手首が折られる恐怖に1人目は動けないまま震えていた。

 そこへ2人目が飛び掛かってくる!

 御殿の片手は1人目の手首を押さえ込んでいて使えない。それでも表情に変化は見られなかった。心の余裕がつくりだす無表情。汗一つかかない。焦りの色は微塵もない。
 手首を捻った1人目の体を2人目に投げつけ、敵2体の体勢を同時に崩す。

 さらに敵の隙を突き、近くにいた3人目の腹に回し蹴りをブチ込む!
「ぐえ!」
 くの字に折れ曲がった3人目に肩をぶつけて動きを封じる御殿。仕上げとばかりに、ふたたび1人目の手首を掴み、それを2人目の首に巻いて締め上げ、2体を3人目へ投げつけた。

 3人の敵が大げさなほどに吹き飛んだ。

 4人目はもっとあっけなかった――飛び掛ってきたところへ、地面に踏ん張って構えた御殿。2~3センチ拳を伸ばして本拳を叩きつける!

 ドッ!

 ――敵が飛び込んできた反動を用いる御殿。カウンターを叩き込まれた相手が勝手に吹き飛んでいった。

 御殿は凶暴化した4人の妖精とスペクターを遠くのガレキの山に埋もれさせた。たった1分ほどの出来事だった。


「やるわね」
「すばらしい体術ですね、叶子様!」
「腹立つわ」
「………え?」
 歓喜する華生の横で叶子が頬を膨らませている。それを華生が引きつった顔で見ている。

 すぐさま、起き上がってきた敵の1人が御殿に殴りかかるが、御殿はまたもや片手で相手の手首を捻って体をブン投げた。
 それに続き、ガレキに埋もれていた3人も同時に御殿に飛び掛ってくる。

 御殿は攻撃ひとつひとつを、ただただ避ける。避ける。避ける――その動きたるや、前からくる攻撃はもちろん、後ろからくる攻撃でさえも完全に見切っていた。まるで後ろにも目がついているかのような、しなやかな動き。

 御殿はふたたび妖精たちの手首を捻り上げ、絡まった糸のように手足を交差させて動きを封じた。しかも今度は4体同時に、だ。

 ドンッ。

 御殿がその中の1体を片手で軽く押すと地面が振動し、他の3体を巻き込んで遠くへと吹き飛ばす。

 吹き飛ばされた妖精とスペクターたち――体が壁にめり込み、もはや動く気力すら残っていない。


 華麗な体さばきを披露する御殿を遠目に、叶子と華生が呆気にとられている。

 しばらくしてから叶子が御殿を指差し、華生に質問をぶつける。
「なんなの、あれ? 八卦を発動させているの?」

 叶子が目を丸くしているすぐ横、華生は御殿の戦闘をジッと観察。

「いいえお嬢様、咲羅真さまからは妖精反応が見られません。あれはただの体術です。咲羅真さまが持つ、本来の体さばきなのでしょう」
「ハイヤースペックを発動させてもいないのに、あんな芸当ができるというの!?」

 武器は使わない。無駄な打撃も使わない。聖水も使わない。防弾コルセットもハートプレートも装備していない。にも関らず、御殿は一瞬のうちに4体もの敵をしとめたのだ。

「きっと咲羅真さまは己の力を確信したんです。人は自信を持つだけで、より強く生まれ変われるものですから」
「にしても変わりすぎでしょ……出番なくなるわ」
 叶子はその場に座り込み、何をするでもなく足元のアリを眺めている。
 そうだ、アリさん達に名前でもつけよう。1匹目がキャロライン、2匹目は真理子。
「聞いてよ真理子。友達が美味しいところを全部もっていっちゃうの。ねえ聞いてる?」
 今の今まで頑張ってきたというのに、御殿の登場で今後の出番が危うくなりそう。
 ドンマイ叶子。


 御殿はここに来る前、愛宮邸に顔を出してきた。その際、宗盛がシュベスタ崩壊の進捗状況を細かく教えてくれた。

 青い鬼がゲッシュ界へ入って行くのを見た――叶子はそんな情報を、ある妖精から入手していた。その経緯があって、誰よりも早くゲッシュ界を彷徨っていた。

 それを耳にした御殿は、ここゲッシュ界へ足を向かわせたのだ。


 御殿は見渡す限りの廃墟を前に、叶子に聞く。
「想夜がこんな殺伐とした世界にいるという話は本当なの?」
「ええ。シュベスタ研究所からあなた達を救出した後、フェアリーフォースの戦艦に単身で突っ込んでいったのを何人もの妖精たちが目撃していたわ。かなりの被害者が出たそうよ。もっとも全員、フェアリーフォースだけど」

 迫り来る炎からの脱出――やはり助けてくれたのは想夜だった。その身を挺して、自分を救ってくれたのだと御殿は知る。

 想夜はあれだけの大部隊にたった一人で立ち向かい、ダメージを与え、それでも生き残っていてくれた。

「そのあとすぐ、想夜はここへ逃げ込んだみたい。きっと被害を最小限に食い止めたかったのでしょう」

 叶子の言うとおり、この空間に留まれば人間界への被害拡散は防げるだろう。想夜の取った行動は正しかった。

 ひとりで背負い込むのはナシ。それはみんなで決めたことだけど、今回の場合、想夜の背負いし問題が誰かに解決できたとは思えない。準備が整うまで、想夜は孤独なままで問題を背負わなければならなかった。

 ――でも今、こうして準備は整った。

 想夜の背負っている荷物を、少しでも分かち合える力を、各々は手にしていた。

 叶子が周囲を警戒しながら御殿に話しかけた。
「聞いた話だと藍鬼想夜ちゃんは、かなりのオテンバみたいね」
「誰から聞いたの? 想夜は無事なの?」

 藍鬼になった想夜のことを御殿は詳しく知らない。見えない情報だからこそ気になり、御殿の心をネチネチと突いてくるのだ。

「ええ、想夜の命に別状はないみたい。『情報屋さん』のことは、想夜を連れ戻したら教えてあげる。私たちより想夜に関係ある人達みたいだから」
 叶子と華生は勿体ぶったように見つめ、クスリと笑う。
 御殿は首をかしげて肩をすくめた。
「わかった。わたし達も急ぎましょう――」

 御殿たちは色あせた荒野を歩き出した。


藍色の狂犬


 街の外れにひっそりと収容施設が設置されていた。

 収容施設とはいってもアーチは岩を積み上げただけの乱暴な造り。
 入り口を抜けて地下へと下り、暗い通路の左右に牢獄が並んでいるだけの一時的な隔離施設である。

 入り口の受付窓口。
 小汚い生地、ほつれたフードを被った小柄ででっぷりとした体格の男が居眠りをしている。
「ここの監守のようね」
「ドワーフの殿方です。きっとこの地下施設を掘ったのでしょう」
 叶子と華生が小声でやりとりをする。
「入りましょう」
 叶子は眠っている監守を無視し、周囲に警戒しながら躊躇なく進んでゆく。


「お二人とも、足元にお気をつけください」
 華生が水晶型ペンダントをカンテラ代わりにかかげて先導する中、御殿と叶子に小話をする。
「本来ドワーフの皆さんは仕事が丁寧なのですが、こんな乱暴な造り方をしているとなると、きっとエーテルの乱れで体が思うように動かないのでしょう。ここに配属されたのも、政府からの強制的な指示だと思います。政府は彼らに建設させておきながら、危険なので近づかないのでいるのでしょう」

 汚染された地域での強制労働を強いられるドワーフ達を思うたび、華生の胸は締め付けられた。

 螺旋状に下る石畳の階段。足場がこの上なく悪く、気をつけて歩かないと足をくじいてしまいそうだ。手っ取り早くやっつけ作業で建設されたことが伺える。それだけ緊急を要する出来事があったとすれば、スペックハザード以外に考えられない。

 階段を下りきる。
 むわっとした生ぬるいカビの臭いが鼻をつき、それが通路が奥まで続いた。

 石造りの壁に囲まれ、一部屋一部屋に鉄柵が施された牢獄。
 床の血液は時間が経過したように固まっており、奥の中央に設置された部屋まで続いていた。
「この奥に想夜が?」
「情報が確かなら、ね」
 3人は奥へ奥へと進んでゆく。


 どこまでも続く長い廊下。
 左右の牢獄の中から、しみったれた目をした囚人たちが3人を恨めしそうに睨みつけてくる。
 殺気のこもった視線に構うことなく進んでゆくと、やがて薄暗い一室にたどり着いた。
「――お待ちください」

 華生が灯りをかかげ、鉄柵の隙間から中の様子を伺う。

 その後ろから御殿と叶子が牢屋の隅を覗き込んだ。

 牢屋の奥に……何かがいる――。

 四肢を鎖につながれ、ただ首をうな垂れ、床にペタンと尻をついて座っている。
 ――いや、座っているというよりは力尽き、崩れた姿勢でナナメに横たわっているようにも見える。

 御殿が目を凝らして見ると、ピンクのリボンで髪を後ろで結びあげた華奢な少女の姿が――。
 決して綺麗に結っているわけではない。くしゃくしゃによじれたリボンからこぼれた数本のこぼれ毛が無造作に小顔を覆い隠し、四谷怪談に出てくる醜女のようでもあった。衣服もボロボロ。全身血まみれ、傷だらけ。

 ぎぃ……。

 御殿は建付けの悪い檻を開けて牢屋の中に入り、目の前の少女をよく見てみる。
 少女は御殿のよく知る顔だった。

「想夜!!」

 想夜に駆け寄ろうとした御殿の後ろから突如、男の声が近づいてきた。
「はいはい、ごめんよ~。よっと――」

 バシャアアアアアッ。

 フード姿のドワーフの男が面倒くさそうに後ろから割り込んできては、横たわる想夜めがけて木造りバケツの中の水をぶちまけた。
「いきなり何を――!?」

 男の行為に驚いた御殿たちが監守を止めようとしたが、彼は穏やかに言った。

「いやあ、この娘にね、『定期的に水をかけて起こしてほしい』って頼まれちゃってさぁ。オレっちもさぁ、あまり関りたくないのよねぇ。手がつけられないのよねぇ、こういうトチ狂った凶暴なの――」

 「オレッちも本当はこんなことやりたくないんだよ? 本当だよ?」――と、ブツクサ言いながら牢獄を出てゆく。嫌々バケツを持ってきたことから察するに、監守は本音を語っているようだ。

 見かねた華生が監守に声をかけた。
「もし、殿方さま――。想夜さまはどうやってここに運ばれたのでしょうか?」
 ここはゲッシュ界に位置する牢獄。華生の場違いな丁寧口調に驚いた監守だが、そこに育ちの良さを感じたのだろう。ちゃんと礼儀にそって答えてくれた。
「自分で這って来たのよさ。ほれ、これ見てみい――」
 と、階段まで続く床の血痕を指さし、目で追う。

 血痕が遠くまで続いている――。

 シュベスタの一件後、想夜は制御不能の体を引きずって、ここまでやってきた。

 時折、暴れる想夜を何人ものドワーフ達で押さえ込み、頃合を見計らって鎖につないで牢にブチ込んだ。想夜がそれを望んだからだ。

「――オレっちにサイフ預けて『これで泊めさせてほしい』っていうのよね。3642円。これしか入ってなかったけどね。あとドーナツ屋のスタンプカードとかいろいろ。断るわけにはいかないじゃん? ボロボロの体引きずってここまで来たみたいだけど、もうダメかもな~。最初は可愛らしかったよ? 礼儀正しくて優しい娘さんだったけどなぁ~。昨日くらいからかなぁ~? ジャンキーみたいに豹変しちまってさあ、ああやって、ずっと独りでブツブツ言ってらあな」

 想夜は放心状態。目を白黒させ、焦点はどこを見るでもなく宙をさまよっている。ガクガクと唇を震わせては何かを呟いているようだ。
 もう何日も眠っていない様子。

 人間界での不眠ギネス記録は11日だが、不眠が人体にあたえる影響は惨いものである。それは妖精とて変わりはしない。

 いったい想夜は何日くらいこんな状態を続けているのだろう?

 それを想像するだけで、御殿は感染するような苦痛によって眉をしかめてしまう。

 とても正気には見えない想夜。
「なにか言っているわね、どこの言葉? 華生、想夜がなんて言っているかわかる?」
「きっと女神の祝福でしょう。妖精界に伝わる祈りの賛歌です」
 邪悪なものに魂を奪われないよう、愛するものが悪魔にさらわれないよう、祈りを捧げて愛を謳うのだ。地獄の深淵から女神の存在を肯定する儀式である。

 監守が気の毒そうに顔をしかめた。
「あの子さぁ、エーテルバランサーだっしょ? 実はねぇ、フェアリーフォースを恨んでる妖精も多いのよね。人間だって政府や警察を恨んでいるの多いっしょ? よくここまで無事だったのよね。よかったのよね。若い娘さんだったから心配だったのよさ。けっこう美人でしょ? ここ危ない場所だからさ、外でくたばってたら目も当てられない姿になってたなのさー。女の子だからねー、牢屋の中が一番安全なのさー。うんそうだよね、牢獄が一番安全なのよさね」

 牢獄が一番安全――ムチャクチャな理論に息をのむ一行。

 だが、監守の言葉が誰よりも正論だった。この世界の敵の強さはバケモノじみている。目に写る妖精たちは皆、暴徒化した血の気が多い連中ばかり。いちいち相手にしていたら今日、全員死ぬかもしれない。

 御殿が髪を耳にかけて声を研ぎ澄ます。
「……想夜が何かを喋っているようだけど?」
 女神の祝福以外の内容が聞こえる。想夜が何かを伝えたがっているようだ。
「まだ意識が残っているのね。早く助けなきゃ!」
 御殿は居ても立ってもいられなかった。

 去って行く監守をよそに、叶子が想夜と御殿の間に割り込む。
「よく聞き取れないわね。そばによってみる――」
「気をつけて」
 叶子は水浸しで横たわる想夜の口元に耳を近づけ、声を拾おうとした。が、そのとき突然事態は急変した。

 ガチャン!

「グワルルルルルッ!」
「きゃっ!?」
「叶子様!?」
 身構える一同。いきなり想夜が飛び掛ってきたのだ!

 鎖につながれた狂犬が飛び掛ってくるように、手足の拘束具をジャラジャラとさせては、引き千切らんとばかりに向かってくる。牙をむき出し、目は赤く、鬼のように眉を吊り上げた形相。

 ゲームなどで襲い掛かってくるゾンビのよう。死体だと思っていたのに、いざ近づいてみると生きている者よりも威勢がいい。

 想夜は鎖を力いっぱい引き伸ばして飛び掛ってきたものの、伸びきった鎖の反動で後ろに倒れてしまった。それでも再び牙をむき出しては狂ったように襲い掛かってくる。

 ――子犬のようにつぶらだった瞳はもう、そこにはない。

「想夜――」
 驚きのあまりに後ろに飛びのいた叶子が尻餅をついている。予想はしていたが、あまりにも残酷な光景を前に呆気にとられていた。

 御殿が叶子に手を差し伸べて起こし上げる。
「タダでは連れ戻せそうにないわね、いったい想夜になにが起っているの?」
 起き上がる叶子が想夜を睨んでは、声を絞り出して答える。
「想夜の中で鬼が暴れているそうよ」

 情報屋さんの話――想夜の中で鬼が暴れている。鬼が逃げたら、もう誰にも止められない。あとは全員、喰われるだけ。

 手の鳴るほうへ鬼はやってくる。
 心臓の鼓動が鳴るほうへ鬼はやってくる。
 藍鬼想夜はやってくる。

 助けて。
 助けて。
 みんな食い殺される――。

 シュベスタ戦のとき――あのメイヴを一撃でしとめた藍鬼。フェアリーフォースをたった1人で蹴散らした藍鬼。

 それが想夜の能力、『藍鬼化あおおにか』だ――。
 藍鬼化はゲッシュという呪いを乗り越えることで発動を開始する。

 想夜の持つ『ゲッシュを超越した精神』は、藍鬼化への起爆剤だ。

 メイヴの手により、想夜はゲッシュの呪いにかかった。その後、鬼化がはじまった――その現実を御殿は、今知った。

 妖精界では『鬼化おにか』がもっとも恐れられている。
 『鬼』とはすなわち悪魔、死、死体などを意味するものだ。
 ほとんどの妖精は邪悪な力を好まない。なかでも想夜は友愛だ。邪悪からはほど遠い存在。

 「イヤだイヤだ」と嫌っていた存在に、想夜は成り果てていた――。

 鬼化する妖精。鬼になった妖精――そうなるのは悪魔に魂を売り渡したか、もしくはその強靭なパワーを自在にコントロールできる選ばれし存在のみ。そんなヤツは今の妖精界にはいない――はずだ。

 けれども今、鬼になった妖精がここに君臨している。

 いつの世も常識は覆されるものだ。
 青鬼は村を荒らして友達である赤鬼のために悪役を演じ、自己犠牲を担うものだが、今回はそんな話ではない。
 今ここに、ふたたび藍鬼が目覚めようとしている。

 想夜の強い意志が心の鎖となりて鬼を縛り付けているが、鎖が切られるのも、もはや時間の問題だ。

 藍鬼が解き放たれた時……街も友も、すべて破壊される!

 藍鬼を黙らせるため、1人の少女が戦っている。少女は妖精。負ければ、この場所を起点に暗黒が広がる。

「――どうしてこんなことに?」

 御殿が想夜の右腕に目を向ける。噛み千切られたような、えぐられたような傷――。

「手首の腱が……」
 右手首の腱が噛み千切られているのが御殿には分かった。もうワイズナーを握る腕力はないだろう。
「自分で手首を噛み千切って動きを封じたのね、なんて無茶なことを」

 鬼に金棒を持たせれば惨事を招く――想夜にはそれが分かっていたようだ。

 想夜の右手首より先はぶらりと垂れ、ピクリとも動かない。その部分だけ死体のように静かだ。
 御殿は想夜の姿が痛々しくて目を背けた。

「――御殿、あれ見て」
 御殿は叶子の指差すほう、想夜の後ろあたりに目を向けた。
「薄っすらとだけど、何かが見えるわ」
 叶子の言うとおり。想夜の後ろに何かが見える。

 黒くて、青くて、影のような何か――。

「あれは……鬼!?」
 想夜の後ろから、薄暗い影が御殿たちを睨みつけてくる。
 藍鬼が存在しているのは確かなようだ。

 御殿は意を決し、両袖をまくって想夜に近づいた。

「どうするの、御殿?」
「想夜の心に入ってみる」
「八卦の力を発動させる気? 大丈夫?」

 レゾナンスの真骨頂は肉体と精神の融合。そして共鳴――精神のみなら、体への負担も少ないだろう。無論、多少なりとも心身への負荷は否めないが。

「2人とも、よかったら一緒に来る?」
 御殿はニンマリと返した。力ない笑み。本音は怖いのだ。
 凶暴な藍鬼を相手に一人で太刀打ちできないことくらい、誰でも分かること。

 叶子が呆れた顔で返す。
「ついてきて欲しいなら、素直にそう言えばいいのに」と。
 もちろん御殿はそうするつもりだ。
「お願い、わたし1人じゃ……藍鬼に殺されるかもしれない」
 叶子はクスリと笑い、華生を手繰り寄せ、心臓をあわせるように抱き合った。
「御殿を死なせはしない。その代わり、痛くしないでね。私も華生も初めてだから」
「優しくするわ」

 御殿が腕をまくり、一呼吸――。

「アロウサル――」
 御殿は腕を真横に振りかざした。
「ハイヤースペック・レゾナンス――」
 八卦の力、『沢』を発動させる。

 御殿は右腕を叶子の背中からゆっくりと挿入させ、その後、2人の胸を一気に貫いた!

 叶子と華生が甘い吐息を漏らす。
「あっ……!」
「へ、ヘタクソね。もっと、優しく……できないの?」
 御殿の顔のすぐそば。紅潮した叶子の顔がまどろみを帯びている。まんざらでもなさそう。
「ごめんなさい、慣れてないのよ。想夜と狐姫にしか入れたことないから」
「女の子を食い散らかしていると、また痛い目にあうわよ?」
「努力しているつもりなんだけど……ね」

 御殿、叶子、華生。3人、吐息が交わるくらいに体を密着させた。

 八卦のテクニックが身につく本が売ってたら是非買っておきたいものだ。今度ネットで調べてみよう。生きて帰れたら、ね。
 御殿は続けざまに想夜のほうを向いて叫んだ。
「いくわよ想夜――」
「ギャルルルルルッッ」
「想夜の心がわたしを受け入れてくれるのなら、きっとレゾナンスは成功するはず……共鳴してみせて、この想いを――」

 想夜が威勢よく御殿の首筋に噛みつく寸でのところ――御殿は身をかわし、その小さな胸に向かって手刀を一気に捻り込んだ。

 瞬間、藍色の狂犬が硬直する!

 共鳴――肉体の共鳴。精神の共鳴。魂の共鳴。

「ふふ、楽しいピクニックと洒落込もうかしら」
 叶子の挑戦的な口調を最後に、3人は想夜の精神に溶け込んでいった――。


想夜奪還


 御殿は瞼を開いた。

「ここは……」
 見渡すかぎりの石壁と牢獄。場所は変わらない。けど、ここは想夜の心の中。
 異なる部分があるとすれば、想夜が鎖につながれてないということだけ。

 御殿が想夜の肩に手をおいて揺さぶる。
「想夜? 想夜? わたしがわかる?」
 寝ぼけ眼の想夜が目の前の人物を認識しはじめた。

 想夜の焦点がしだいに定まり、ピントが合いはじめると、目の前の影がはっきりと見えてくる。

(御殿……、センパイ……)

 想夜は想うのだ――嗚呼、あの人の声だ。大好きな、愛しい愛しい、あの人の声だ。と。

 想夜の頬を一筋の雫が伝う。
 逢いたかった。だけど、迎えに来てくれることは望まなかった。人間との距離を保つことで傷つけることを避けられるのなら、こんなに嬉しいことはない。
 皮肉にも想夜の目論見は失敗に終わる。だって、こうして距離を縮めて来てくれた人達がいるのだから。

(抱きしめたい……抱きしめられたい――)

 そんな抱擁を望んだのも束の間、想夜は飛び起き、御殿の背中を押して牢屋の外にしめ出してしまった。

 それに巻き込まれた叶子と華生も蚊帳の外へと押し出されてしまう。

 牢獄から3人を出した想夜はひとり牢獄に残り、扉を閉め、鍵穴にささっていた鍵を捻って引き抜いた。右手が動かないので左手だけの作業。右手首を垂らし、鍵を左手で大事そうに握った。

「何をするの想夜!? ここを開けなさい! 早く!」

 ガシャン、ガシャン!

 御殿は鉄格子に手をかけ、へばりついて叫んだ。建付けの悪い鉄格子が鈍い金属音を立てて揺れるが、開く気配がまったくない。

 鉄格子の向こうに想夜がいる。笑顔。とても弱くて、今にも壊れてしまいそうな笑顔の――。

 想夜が反対側の鉄格子に手をかけ、かすれた声で涙ながらに呟いた。

「――御殿センパイ、また逢えましたね。嬉しいです。叶ちゃんと華生さんも。また逢えて……嬉しい」
「想夜、分かったから早くここを開けなさい!」
 叶子が両手で鉄格子を握り、言い聞かせるように叫んだ。

 想夜はつぶやく。

「あたしなら……大丈夫です」
 柵の向こうで、弱々しくもニコリと微笑んだ顔が遠のいてゆく。
 精一杯の強がり。今の想夜にはそれしかできない。

 目の前の光景を見た一行は、想夜の後ろのそれに目をやる。

 藍色にユラリと揺らめく、薄気味悪い何か――炎でもない。水蒸気でもない。蜃気楼のようでもあり、幽霊のようでもある。

「あれが……藍鬼!?」
 背格好は想夜と瓜二つ。全身を藍色のオーラでまとった鬼が、そこにいた。

 深紅の瞳を光らせ、想夜とは似つかない鬼の形相で御殿達を睨みつけてくる。

 エクソシストとして悪魔と対峙してきたが、これほどまでに狂気を向けられたことはあっただろうか?
 御殿は恐怖のあまり息を呑んだ。

 後ろから迫ってきた藍鬼に襟首をつかまれた想夜が、牢屋の奥へと引き戻されてゆく。

『――面会の時間は終いだ』

 想夜の背中から不気味な藍鬼が顔を覗かせる。
 想夜は後ろ目にそれを見ては震え上がり、涙を浮かべては、ガクガクと足を震わせた。

 怖い……怖いよ、御殿センパイ――恐怖し、震えで声すら出せない。

 藍鬼は力いっぱい、乱暴に想夜の体を扱う。石壁に打ち付けられた想夜はとっくに衰弱しており、抵抗する力すらなかった。

 その光景を見た叶子が不可思議に思う。
「なぜ藍鬼は私たちを殺しに来ないのかしら?」
「藍鬼は想夜の肉体と精神を媒体としているようね。想夜の持っている鍵は牢獄に留まることへの覚悟。つまり――」

 想夜が牢獄にいると決めた以上、藍鬼も牢獄からは出られないのだ。
 想夜が鍵を持っている限り、藍鬼は檻の中。それが藍鬼の脱出を阻止しているらしい。

『カギ ヲ ヨコセ――』

 藍鬼は想夜の左手から鍵を奪おうとするが、想夜は無言をつらぬき、頑なに鍵の譲渡をこばんだ。
 藍鬼は想夜の右手首の傷に親指の爪をねじりこむと、グリグリと引っ掻き回す。
「出たいんだ! ここから出たいんだ!! この臭い牢獄から出たいんだああああああ!!!!」
「うあああああああああ!」
 あまりの激痛にヨダレを垂らし、のた打ち回り、もがき苦しむ想夜。
 それでも藍鬼は惨い仕打ちをやめない。

『カギ ヲ ヨコセ――』

 藍鬼は怯むことを知らない。今度は想夜の左手の指一本一本を握りつぶしてゆく。

 メキ、メキメキメキ……ポキ!

「う! ぐうううう……っ」
 藍鬼の手の中で、想夜の指がおかしな方向に折れ曲がる。
 本当の激痛を通り越すと、もはや悲鳴すら出なくなる。脳が反応しなくなるのだ。そうやって精神は崩壊してゆく。

『知っているか? 指先には神経が詰まっている。これからキサマの爪を一枚ずつ剥がしてゆく――』

 藍鬼が信じられないことを言ってくる。
 痛みで想夜の意識が揺らいでくる。

 もうイヤだ。こんな苦痛耐えられない――想夜がそう感じた瞬間、

 ……ベリッ。

 想夜の指先にビリビリとした焼けるような痛みが駆け抜けた。
「う、あああああ!」
 藍鬼が想夜の人差し指の爪をはがし始めた。

 あまりの痛さで想夜の意識がさらに朦朧とする。が、肉体的苦痛に終わりはない。ここは精神の世界なのだから。

 剥された爪を手で押さえ、のた打ち回る想夜。それでも鍵は放さない。

「やめなさい藍鬼!」
 御殿がガチャガチャと鉄格子を引き剥がそうとするが、ビクともしない。
 そんな光景を見ては不気味な笑みを浮かべる藍鬼。

『ほお、一枚剥がしたくらいでは満足できないか。では……2枚目、いくか』

 藍鬼が想夜の薬指に手をかけた瞬間、藍鬼の頬を何かがかすめた。
 飛んできた鉛玉の方向に目をやると、御殿が銃を構えている。

 ――ギロリ、藍鬼が御殿を睨みつけた。

『そんなオモチャが通用するとでも――』

 藍鬼が想夜から目をそらした、そんな時だ。

 想夜の意識が次第にはっきりとしてくる。はじめは「あたし、頭がおかしくなった」と思っていた想夜だったが、それが安堵という快楽物質に全身が包まれた時の心地よさだと知る。

 痛みから滲み出してくる快楽ホルモンの類なんかじゃない。この感じ。この衝動――ひとりの戦士として、なにを怯えているのだろう? 想夜の瞳にだんだんと光が差し込んでくる。

 藍鬼の後ろで想夜が耳を澄ます。
「この声は……」
 想夜に向かって、誰かの声が聞こえてくるのだ――。
 
『雪車町想夜、はやく目を覚ませ! ここで終わるつもりはないのだろう? キミにはまだ、やるべきことがあるだろう?』
 
 その声は小さな風にのってやってきた。ムチのようでもあり、アメのようでもある。小さな妖精が想夜の目の前に現れ、そして消えた。

 一瞬の幻のあと、想夜は意を決し、手にした物を口に放り込んだ!

 足元に転がる想夜が何かを飲み込んだ――そのことに気づく藍鬼。途端、想夜の腹に蹴りをかます!

 ドウッ!

「うえぇぇっ」
 鈍い音を立てて、横たわる想夜がくの字に折れ曲がる。途端に嗚咽をあげて悶えた。

「キサマ、いま何を飲んだ?」
 ――藍鬼が問う。

 一瞬の隙をつき、想夜は牢屋の鍵を飲み込んでいたのだ。

 藍鬼はもう……ここから外には出られない。
 想夜はここで、藍鬼と心中するつもりだ。

『我はキサマと心中するつもりは……ない』

 ビリリリッ!

 藍鬼は想夜の制服を両手で乱暴に引き千切り、続けてブラを剥ぎ取った。
「想夜!」
 御殿の手前、想夜の慎みある胸が露になる。

 それを隠そうともせず、ただ藍鬼とにらみ合う想夜。

 藍鬼がニヤリと口角を吊り上げた。
『ちょうどいい。大好きな御殿センパイとお仲間達に貧相な胸を見せてやったらどうだ?』

 藍鬼はリボンで結った馬の尻尾を鷲づかんで想夜を立たせ、その体を鉄格子にへばりつかせた。
 檻の隙間、うまい具合に2つのふくらみが食い込む。
『どうだ? 恥ずかしいか?」
「うぐぅ……」
 想夜は何も言わない。ただ唇をかみ締め、うつろな目でジッと耐えている。
「恥ずかしいわけがないよなあ? 本当は嬉しいんだろう? ずっと御殿センパイに見てもらいたかったんだろう? 露出狂の淫乱娘。処女でも考えることは一端の娼婦か? んん?」
 藍鬼が三日月のような形の赤い瞳で想夜を罵り、牢獄に罵声が響く。

「想夜!」
 目の前の想夜を呼ぶ御殿――目の前の鉄格子が邪魔でしょうがない。何も出来ないでいる己の無力さにイラつきさが増す。

 続けて藍鬼は想夜のスカートの中へ手をすべりこませ、下着を下ろして剥ぎ取った。両手で想夜の頬をつまみ上げ、無理やり口をこじ開けさせる。
「や、やめ……うぐぅ!?」
『街角に佇んで、花でも売っていれば誰かが可愛がってくれるぞ? この売女が』
 藍鬼は剥ぎ取った下着を想夜の口に突っ込んで、ギラつく赤い目を近づけてくる。
『どうだ? 自分のシミつきパンツの味は? 感想を言ってみろ。いつも食後に言っている感想だよ、評論化気どりのふざけた感想だよ』

 いつも食後に言っている感想――ヘタクソなグルメリポーターみたく、「おいひー!」とほころんだ笑顔を作る。それが想夜だ。とんでもない方向へ暴投するコメントで周囲を苦笑させ、場をなごませる愉快な娘。

 想夜の中でいくつもの思い出が蘇る――そうして悟るのだ。ああそうか、と。

 突如、想夜の表情がやんわりとする。硬直していた全身の筋肉が緩んで、緊張という拘束具が外れた瞬間だった。
『気でもフレたか……』

 余裕の笑みを浮かべる想夜の姿が癪にさわったのだろう、藍鬼は想夜の太股の間に体を滑り込ませてきた。

「――さて、ここで開幕式とするか。観客に血なまぐさい鮮血を見てもらえ。激痛で小便垂れるところを見てもらえ。そういうプレイもアリだろう? 違うか? 何とか言ってみろ」
 藍鬼が想夜の両ふとももを手で広げ、腰をグイッと想夜の股の間に落してきた時だ。

「――違う」

 想夜は藍鬼の言葉を否定すると、相手の瞳をまっすぐに見つめて言う。
「あたしを奪いたいなら奪えばいい。鍵が欲しいなら、自由が欲しいなら、あたしの腹を切り裂いて取り出せばいい」

 想夜と藍鬼が睨みあう――。
 瞬きひとつしない想夜の意思は鉄壁。何人なんぴとたりともその信念を捻じ曲げることなどできやしない。

 たとえ相手が、冷酷で残忍な鬼であったとしても――。

「あたしの胃袋にはみんなとの思い出がたっぷり詰まっている。楽しい夕食や学校でのランチタイム。美味しくって楽しい時間が凝縮されている。それが見たいなら、羨ましいのなら、あたしの腹を切ればいい。ウソだと思うなら……腹を切って、覗いて見ればいい。あたしの臓物をぶちまけて、その手で探り出せばいい」

 ――不思議。想夜は笑顔だった。どこまでも屈託のない、無垢な笑顔。
 肉体的苦痛など、どこ吹く風。

 だってそうでしょ? 想夜のお腹も胸も、楽しかった思い出でいっぱいなのだから。

 お腹いっぱい。
 胸いっぱい。

 内臓の中身を全部見られたって平気。だって恥ずかしい思い出なんかないもん――友達との思い出は、宝石よりも輝いている。想夜は胸を張って、そう言えるのだ。

 胸を張る。想夜の行為が、どれだけ藍鬼を怯ませたのだろう。
 とたんに藍鬼の心が孤独感に包まれた。ひとりぼっちを認めざるをえない状況に追い込まれてゆく。

 藍鬼には頼る者がいない。甘える人がいない。独りぼっち……だから想夜とひとつになりたかったのだ。想夜を独り占めにしたかったのだ。
 その体を、その心を――。

 藍鬼は、寂しん坊で甘えん坊。わがままで、いつも寄り添う者を求めている。甘えたがっている――それが鬼の本音だ。

 けれども藍鬼は、想夜の中に眠る灰色の世界に向けられる絶望をエサに、悲惨な胎児のように成長し続けた。

 日常の中、誰もが抱く感情――絶望。

 絶望を抱きながら、藍鬼はすべてを破壊するつもりだった。

 想夜は今一度、考えを改める。戦士としての誇りを取り戻すために絶望を切り捨てなければならない。それが藍鬼の保護者としての役割りだ。

 ――親の背中を見ながら子供は育つ。

 絶望なんかを子供の口に入れるな。それが分かれば、あとは容易い――母親が子供を迎えるように、想夜の顔がほころんだ。

「おいで。ひとつになろ? ね?」
 想夜は両手で藍鬼を向かえ、抱き寄せる。

 想夜は紡ぐ。藍鬼を――。
 想夜は紡ぐ。己の中に宿りし、偉大なる力を――。

 藍鬼は遊び疲れた子供のように目を閉じ、ゆっくりと想夜の胸に体を預けて眠りについた。
「いい子ね……」
 想夜が藍鬼の背中をポンポン、と優しく撫でる。

 周囲に変化が起こったのはその時だ。

「見て!」
 叶子が周囲を指さす。
 鉄格子がチョコプレッツェルのようにポキリと折れ、石壁がマシュマロのようにふわりと御殿たちの足を包み込んだ。

 雲のように広がるマシュマロに、一同がゆっくりと沈んでゆく。

 絵もいえぬ不思議な感覚に身をまかせ、互いの顔を見合わせては苦笑した。
 マシュマロの地面が綿菓子でできた雲となって、想夜さえをも包み込み、ゆっくり、ただただゆっくりと落下してゆく。

「終わったのでしょうか?」
 と首を傾げる華生に、
「始まったのよ、想夜の一歩がね」
 と叶子が返した。

 一同はお菓子の行方に身を任せ、少しずつ想夜の精神世界から遠のいていった。


 御殿が瞼を開ける。
 レゾナンスが解けたであろう頃、一同の意識は物質世界の牢獄に戻っていた。

 ――物理世界。
 先ほどと変わらず、牢獄の中で想夜が鎖につながれ横たわっている。

 息をしているのだろうか?

 想夜の口元から息を聞き取ろうと、御殿は顔を近づけた。
 瞬間――
「ヴアアアアアアアアウッ!」
 想夜は再び狂犬のように唸り声をあげ、御殿の首筋に食らいついた。

 ブシャッ。

「――!」
「御殿!」
「咲羅真さま!」
 御殿の首筋に一瞬の激痛。流血。それでも耐えることができた。

 御殿は暴れる藍鬼の頭を両手でかかえ、それを首元へさらに引き付けては、耳元でささやいた。
「想夜からの伝言――もう、怖がらなくてもいい。甘えていいよ、藍鬼さん――だってさ」

 甘えられる人ができて、よかったね――藍鬼。

 吸血鬼のよう首筋に食らいついていた藍鬼想夜の動きがピタリと止まり、しだいに呼吸が整い、瞳の色が澄んだ空色に戻ってゆく。

 御殿は静かに諭した。
「みんなで一緒にゴハン食べよう、だってさ」
「うゥ……」
 牙をむき出していた藍鬼想夜の表情、鬼の表情からだんだん狂気が消え、和らいでゆく。しまいには子犬のようにシュン、となって大人しくなった。

 ――ペロリ。

 藍鬼想夜は瞳いっぱいに涙をため、無言で御殿の首筋から流れる血を舐めとってゆく。
 やがて鬼の形相が無垢な少女の顔へと戻っていった。

 地獄の試練をくぐり抜け、想夜が帰ってきたのだ。

 ペロ……ペロ……

「よしよし、よく頑張ったね」
 御殿は想夜を抱きしめ、ポンポンと背中を叩いて諭した。想夜が藍鬼にしたみたいに。
「うう……うわあああああああん!」
 とたん、想夜が大声で泣き出した。これでもかというくらいに大粒の涙が頬を伝う。
 それは想夜の体を浄化してゆく雫。

 想夜の中でひとつの戦いが終わった――。

 恐怖から逃げれば、奴らはキミを追ってくる。地獄の底まで追ってくる。
 けれど、恐怖に挑めば奴らはキミに恐れ慄くだろう。

 恐怖を手なずけたその時、恐怖はキミの武器となり、味方となる。
 恐怖はやがてキミのもとへ跪き、キミを主と認めるだろう。

 恐怖を消し去る方法はとても簡単だ。それは避けないこと。
 ただまっすぐに恐怖を見つめ、決して微動だにするな。それだけだ。

 想夜はきっと、藍鬼を手なずけるのに時間を有することだろう。
 けれど、想夜は笑顔でこう言える日がくることを確信している。

 藍鬼と友達になれたよ――と。


 想夜をおんぶした御殿が牢獄を出るさい、監守に引き止められた。

「――ん」
 監守が手を差し出してくる。何かを欲しているようだ。
「お金、少ないのよね……お金、足りないのよね……」
 ちゃっかりしている。が、それも商売なので仕方が無い。ドワーフだって低賃金で働かされている。むしろ想夜の逃げ込む場所を確保してくれたのだから感謝すべきだ。

 御殿はポケットから無造作に金を取り出し、何枚かの万札をマネークリップごと手渡した。

「これで足りるでしょ? この子のサイフはわたしが預かるわ。ドーナツのポイントもたまっているし」
 監守は御殿から金を受け取ると、満足そうに笑みを浮かべながら何度も頷いた。
 御殿は監守から手渡された想夜のサイフを懐にしまい、牢獄を後にした。


 監守が牢獄の出口まで案内してくれた。チップを弾んだから機嫌がいい。現金なことで。

 叶子が振り返り、監守にかるく頭を下げる。
「友人がお世話になったわね。私からもお礼を言うわ」
 叶子が背を向けた途端、監守がドモリながら口をモゴモゴさせた。
「一匹さ……向こうへ行ったのさ」
「――え?」
 再度、監守が言った。

「デカいのが一匹ね、そっちの世界に、行ったのよね……」
「デカいの?」
 御殿と叶子が顔を見合わせ、首を傾げる。
 監守は言葉を続ける。

「ダフロマがね、行ったのよね……」

「ダフ……ロマ?」
 監守がブツブツ言いながら収容施設へ戻ってゆく。

「みんな死んじゃうのよね。デカいのが、暴れるとね、みんなみんな、死んじゃうのよね……」

 その後、監守の言葉を御殿は聞き逃がさなかった。

「――馬車の女に導かれて……ダフロマがね、そっちに行ったのよね――」

「馬車の女!?」
 御殿が問いかけたが、監守の姿はすでに声の届かない場所まで遠のいていた。

 馬車の女――。
 首の無い女――。

 監守の背中から悲しみが漂ってくる感じがして不気味に思えた。
 悪寒――。
 いったい何がはじまるというのだろう?

 しばらく硬直していた御殿だったが、
「行きましょう」
 ふたたび歩き始めた。


 歩いて間もなく、御殿の背中から弱々しい声が聞こえてる。
「御殿センパイ、お腹すいた……」
 想夜がぐずった子供のように甘えてくる。
「ガマン」
 ピシャリと言う御殿ママ。

 帰ったらさっそくごはんの仕度といこう――腕によりをかけてやろうと御殿は思った。

 その前に、想夜の右腕を何とかしなければならない。
 想夜の右手首を見ながら、御殿はこれからの行動を考えていた。

「御殿センパイ……胸、擦れて痛い」
「ガマン」
 少しふて腐れたように言う想夜を微笑みながらなだめる御殿。にしても、こんな時くらいは甘えさせてあげたいものだ。と、罪悪感を覚える。

 精神世界の影響が物理世界にも繁栄されることがあるのは周知だ。脳の情報は現実世界を支配する。
 御殿は藍鬼に引き千切られたBブラを思い出す。ブラの調達はご本人に任せよう。無論、下着のほうも。
 それより想夜の爪が気になって目をやったが、幸いにも剥がれていなかった。指も折れてない。やはり精神力が強いほうが物理世界を支配するらしい。

 藍鬼の精神力を上回った想夜。そんな少女に御殿は尊敬の意を感じた。

 想夜を背負う御殿を横目に、叶子が口を開いた。
「彩乃さんにも報告しなきゃ。だわね」
「水無月先生、無事だったの!?」
 御殿がハッと顔を上げる。

 叶子が笑みをうかべ、御殿の胸を小突いてウインクを送った。「水無月彩乃は心配ない、無事だ」という合図に御殿の表情が少し和んだ。

「それはともかく、監守はダフロマがどうのって言ってたみたいだけど。御殿、何か知ってる?」
「さあ、検討もつかない。想夜、何か知って――」

 聞こうと思って背中の少女を覗いたが、すでに眠っていた。

 ぐっすりと眠る想夜を見て、他の3人が笑顔で肩をすくめた。
 そこへ華生が口をはさんだ。
「ひょっとしたら暴撃妖精のことかもしれません」
「暴撃妖精?」
 叶子の眉が傾く。
 御殿は黙って華生の話を聞き入った。

 暴撃妖精――力のコントロールができなくなった妖精は力に振り回されて破壊行動にでる。その名称だ。要は凧を上げすぎたあまり、風に引っ張られて必死でもがくのと同じ。最初は力いっぱい抵抗するが、最後には力尽き、体ごと遠くに飛ばされて終わる。力尽きる前に凧を手元に手繰り寄せ、コントロールできる場所まで持ってくることがミソである。そうすれば凧は操作者の意思のまま自由に空を泳ぎ続ける。つまり空を制するということだ。

「暴撃妖精は凧と一緒に空に飛ばされた操縦者そのもの。己の力に飲み込まれた存在なのです」

 鎖につながれた暴撃妖精は想夜だけじゃない。
 牢獄を見たから分かるだろう。スペックハザードで豹変した妖精やスペクターは何人もおり、手がつけられない連中はゲッシュ界で管理されている。外界に放ったらヤバい連中ばかりだから、そこで管理するしかないのだ。ゲッシュ界にブチ込んだら、あとは野放し。フェアリーフォースは荒くれ者に時間を割いているほど暇じゃない。

 叶子が用いたレベル2で倒した砂の巨人。あれも暴撃妖精の中のひとりだ。
 そう、ここは妖精界から切り離された世界、ゲッシュ界。妖精界から切り捨てられた呪われた地。
 そんな辺境の地から、鎖を断ち切って一匹の暴撃妖精が人間界に向かった。

 ――その名はダフロマ。

 華生が険しい顔を作る。
「ゲッシュ界で管理されている暴君が簡単に外に出られるわけがございません。手引きしている者がいるはずです」

 『馬車の女に導かれて』――御殿の中で監守の声が響いた。

(なにか知っているのね、御殿……)
 うつむく御殿を見た叶子はそう察した。

「一旦ここを離れましょう」
 叶子はどこまでも続く黄土色の雲を睨みつける――腐った果実のような色合いが不気味でしかたない。一刻も早くここを去りたかった。帰ってみんなでティータイムと洒落込みたい。

 その前に、最後の役者をそろえなければならない。
 叶子は一瞬ためらい、御殿の横で口をつぐむが、やはりここで話すことにした。
「御殿……狐姫さんのことなのだけど――」

 その名を聞いて御殿は顔を上げた。

「狐姫!? 狐姫の居場所を知ってるの!? あの子はどうしたの? 無事なの!?」
 少々取り乱しぎみの御殿を叶子がなだめる。
「落ち着いて御殿。狐姫さんは無事よ。でも、ちょっとマズイことになっててね」
「マズイこと?」

 眉をしかめる御殿に、叶子は気まずい表情を見せて答えた

「ええ。今、うちの病院に入院している」
「狐姫が……入院!?」
 どうやら狐姫は、御殿の想像しえぬ事態に陥っているようだ。

 一同は愛宮総合病院へ向かうため、ゲッシュ界を後にした。


右手が掴む未来


 愛宮総合病院。

 想夜は泥んこまみれの子犬のように全身が汚れていたため、かるくシャワーを浴びる。

 シャワーヘッドすら握るのに一苦労。ましてや蛇口を捻る動作ですら必死の思い。右手首が使えないのがこんなにも不憫だとは思わなかった。華生に手伝ってもらってようやく頭が洗える有り様。

 右手が徐々に死んでゆくのが怖い。一刻もはやく治療にありつきたかった。それが想夜の本心だ。
 想夜は冷たくなった右手を、暖かい左手で包み込んでは不安に立ち向かった。

 事情が事情なだけに精密検査は後回し。すぐに想夜の緊急オペの準備がはじまる。
 手術着を着させられ、自慢のポニーテールも解かれ、肩まで伸びた髪は全て帽子の中に収められた。


 手術室の前で、詩織と沙々良がスタンバッていた。
「想夜タン、話は聞いてるよー。腱を切ったんだって?」
「……はい」
 沙々良の手前、うつむきながら虫の鳴き声で答える想夜。

 ブラリと垂れ下がる想夜の右手首を見て、思わず口に手を添える詩織。見ているものが痛々しく思える姿。

「……まあ、話は後だね。今は治療が先決」
 何が起こったのかまでは追求しない沙々良。彩乃から妖精界の諸々の事情を聞かされた今も、想夜の立場を察しているつもりだ。

 藁にもすがる思いの想夜――ふだんは酒乱の沙々良が頼もしい。ぐうたらな人が、いざともなれば周囲を驚かせるほどに賢明な行動を起こす。やることはキッチリやる人なのだと、沙々良の偉大さを理解した。

 完全抗菌状態、虫一匹侵入することすら許されない。それが手術室。

 何重にも閉ざされた手術室の通路から詩織が出てきた。
「古賀先輩、オペの準備が整いました」
「んじゃまぁ、執刀医もそろったことだし、ちゃっちゃと済ませちゃいましょうかね~」

 付添い人の御殿が深々とお辞儀する。

「想夜のこと、よろしくお願いします」
「あいよー。んな心配することないって!」
 縮こまる御殿の背中をポンポン叩いては元気を取り戻すように促す沙々良。
「詩織さんも、想夜のこと、よろしくお願いします」
「まかせて。私たちはトロイメライの専門だから。いきましょう、古賀先輩」
 想夜が手術室に消えてゆく。

 御殿は小さな背中を見守り、おとなしく待合室で待機。


 想夜の症状は神経切断、血管切断、皮膚と筋肉の損傷。靱帯切断。

 よく生きていたものである。それもゲッシュ界に留まったおかげといえよう。ゲッシュ界は忌まわしきエリアたが、妖精界でもある。エーテルの力が妖精である想夜の体を少しずつ、瀕死から逃してくれていた。空腹すらも凌ぐ事ができ、餓死からも免れた。不幸中の幸いだった。

 冷たい手術台の上に背中をつけるとヒヤッとして、想夜の不安が増した。

「ちょっとチクッとするけど部分麻酔でいこうか。全身麻酔だと回復に時間がかかるし」
 マスクの向こうに響く女医のこもった声がいっそうの緊張感を引き立てた。
「はい……よろしくお願いします」
 しおらしく、礼儀正しい想夜。

 台に寝かされた想夜の腕がチクリとした。とたんに右腕の感覚が鈍くなり、次第に感覚そのものが無くなった。

 薬品は使わない。鍼灸師が想夜の体に鍼を打ち込んでインパルスを遮断、神経を麻痺させた。

 神経の感覚がなくなり、腕が千切れたのかと思ってドキッとする想夜。痛い思いからは少しだけでも距離を置いておきたい。それだけ激痛の日々だった。

 スポットライトのように眩しい手術台照明の下、想夜の意識が朦朧としてきて、やがては眠りについた。部分麻酔で痛みから救われた安心感から、どっと疲労が出てきたのだ。

 想夜はしばしの眠りにつく。

 あとは医師に任せておけばいい。他者を信じて身を委ねるのも立派な戦士の生き方だ。

 まずは全身の消毒と止血。続いて、失われた右腕の神経を人工神経で補う。噛み千切った皮膚を人工皮膚で接着し、なじませて完了。

 神経を切断すればほぼ治らないというのは昔の話。
 2034年。細胞のリプログラム医療は進化を遂げ、どの細胞も完全修復が可能だ。人工神経は時間が経つにつれ、残っていた神経に馴染み、やがて想夜の神経と一体化する。想夜の遺伝子を取り込んで融合する人工組織。それがMAMIYAが特許を取得したトロイメライの真骨頂だ。

 けれど、一度切断している神経をスムーズに動かすための電気信号を作り出すためには、多少の時間がかかる。なまった体を正常に戻すためのリハビリが必要となる。


 ――30分後。

 想夜が目覚めるころには手術は終わっていた。それが文明の力というもの。

 薬品を想夜に嗅がせて目覚めさせる。

「……ん――」

 どのくらい眠ったのだろう、想夜は瞼をゆっくりと開ける。
「――雪車町さん、起きられますか? それじゃあ、手をグーパーで動かしてみましょうか」
 執刀医の言われるまま、手術台の想夜はそれに従った。

 グー。
 パー。

 信じられない光景に、思わずチョキまで作る。
「元に……戻っている」
 想夜は瞳を輝かせては、すごんで訴えた。
「右手、動かせます! 手首から先はまったく動かなかったのに!」
 枯れた声で意気込んでは周囲の人達に嬉しさを告げる。

 動かなかったのも無理ない。そりゃあ腱が切れてたからね。しかもご自分でおやりになった。

 普通に腕を動かせることのありがたみ、それがどんなに感動的か。手が動かなくなったものにしか味わえない喜びが、そこにはある。

 片目の視力回復ですらレーザー治療で10秒かからない。レーシック医療ですら30年前から行われている。
 2034年現在、30分で神経を元に戻すなどMAMIYAからしてみれば容易い芸当だ。命までは取り戻せないけれど。

 とはいえ、元の握力に戻すためにはリハビリが必須。若干のパワーダウンも日々の努力で乗り切るしかない。

 グーパー、グーパー。
 想夜が喜びの儀式を繰り返す。

「ありがとうございます! 本当にありがとうございます!」
 身を起こした想夜は、そうやって何度も頭をさげるのだ。
 これで元の暮らしができる。

 ――そう、戦場がある元の暮らし。

 子供だからといって甘えは許されない。想夜は再びワイズナー片手に戦場に赴く。なぜなら任を解かれたとはいえ、想夜はエーテルバランサーなのだから。

 フェアリーフォースが放った捨て駒であり、フェアリーフォースの首輪を千切った野良妖精。
 手首にはめ込まれた認証チップも腱と一緒に噛みちぎった。もう堂々とフェアリーフォースに入ることはできない。
 けれども、己が魂に誓った使命が解除されたわけじゃない。人間界に想いを馳せる役割りは続いている。

 穏やかな日常を送りたいがために与えられた右手。戦うために与えられた右手だということを、想夜は胆に銘じた。


 待合室でひとり、御殿は時計の針をカウントしながら考え事――牢獄の中、ひとりで戦い続けた想夜のことを思うと、せめて手術中だけでも付き添いたかったのだ。

 想夜を背負った時、信じられないくらい軽かった。そんな小さな体でフェアリーフォースの戦艦を落した妖精に脅威を感じながらも、それと同時に愛おしさを覚える御殿。

 秒針が一秒、二秒と刻む中で、この時間が永遠に終わらないのではないかという不安が出てくる。ましてや手術が万能ではないともなれば、想夜の右手は元に戻らないかもしれない。悪いほうへ考えると、いてもたってもいられなくなる。

 そんなところへ手術が無事終わったとの吉報を医師から知らされ、御殿はホッとしては胸をなでおろすのだった。

 術後の想夜はかなり衰弱している。歩くのも困難だ。意識があるのかないのか、夢うつつ。
 焦点の定まらない想夜を、ひとまずベッドで休ませる。

(少し休ませましょう――)
 御殿は想夜の無事を確認後、ひとり別病棟へと足を運んだ。


 ナースステーションの手前、叶子と華生がソファに腰を下ろしていた。

 叶子は近づいてくる御殿の姿に気づくと、立ち上がって歩み寄る。
「想夜の容態は?」
「大丈夫。手術は無事に終わった」

 叶子と華生も、先ほどの御殿と同様に安堵の顔を作る。

 それも束の間、叶子が御殿に言う。
「ゲッシュ界で狐姫さんの事情を伝えたと思うけど、心の準備はいい?」
 御殿はコクリとうなずき、ある病室の扉をノックした。

 病室の名札には、『焔衣狐姫』と書かれていた――。