1 スペックハザード


 想夜たちが消息を絶ってから、一体どれくらいの時間が経過しただろう――指折り数えるのも虚しくなってきていた頃。

 あの日――シュベスタの大惨事が起こった日の朝。叶子たち愛宮の人間はシュベスタを尋ねたが、戒厳令が布かれた隣街は人や車の出入りが規制されており、自由に出入りすることができなかった。

 車を降りて街に侵入した叶子と華生は、シュベスタ付近で暴魔の群れと鉢合わせ、思わぬ足止めを喰らってしまう。
 斬っても斬っても溢れ出てくる異常さに止むを得ず撤退してきたのだが、不思議なことに数時間後には暴魔の姿はきれいさっぱり片付いていた。正体不明の始末屋が動いていたようだ。おかげで暴魔の件に関しては大事にならずに済んでいる。

 銃撃された宗盛の容態も回復し、今では仕事に復帰している。

 MAMIYAはことの重大性を知り、各研究施設にシュベスタの失脚通達を発信。シュベスタはもちろんのこと、関連する各研究施設の株価にも大きな影響をあたえた。

 株価変動の煽りを受けたのはMAMIYAも投資家も例外ではなかった。

 シュベスタ研究所のエーテルポットから漏れ出したエーテルは、風に流され日本各地に散らばった。
 厄介なことに、漏れ出したエーテルは何者かの手により汚染されており、妖精や人間が摂取すればタダ事では済まされない。

 そんなさなか、謎の巨大な球体が日本各地に出現する。

 謎の巨大球体は『ゲッシュ界』と呼ばれていた――。

 元々はひとつの巨大な球体をしていたゲッシュ界だったが、エーテルの揺らぎによって衝撃が起こり、いくつかの球体に分裂して飛び散ったのだ。

 日本各地でゲッシュ界は確認されたが、それを目にすることができるのは妖精とハイヤースペクターのみだった。

 エーテルの乱れで力を失ってゆく妖精たちは、風に乗ってくるそれを求めた。補充が整うと、妖精たちは人格が変わったように凶暴さを増し、人間とコンタクトするためにむさぼるようにターゲット探索へと乗り出す。
 ――結果、日本各地でハイヤースペクターが増加。

 汚染されたエーテルを摂取した妖精たち。人間との接続に成功した妖精は暴徒化するものが多く、能力共有した人間たちもハイヤースペックの乱用をはじめる。

 表沙汰にはなっていないが、裏では力を用いた氾濫――混沌の世界が広がっていた。暴徒化する妖精とスペクターがはびこる惨事である。

 事態を重く見たのはMAMIYAグループだけではない。人間界でハイヤースペクターが急増したことは、妖精界にとっても頭を抱える問題となった。
 フェアリーフォースも聖色市に戒厳令を発令。これにより、妖精たちの行動規制を決定した。


 妖精界が打ち出したハイヤースペック緊急非常事態警報
 『スペックハザード』の始まりである。



雛、帰る


 都心から海沿いにならい、線路はどこまでも続いてゆく。

 傷だらけの御殿は誰もいない車両の中、ひとり座席に腰を下ろしていた。
 つり革と一緒に揺れる御殿の体は、まるで命を帯びていない人形のようだった。

 自分と一緒に揺れるつり革を見るたび、つり革にも命があるのだろうか――などと、一端の哲学者になっていたりする。

 考えるということ。思考が命の証ならば、御殿はまだ命を帯びた生命である。ただ己が人間か、はたまた別の何かまでは分からないでいた。八卦の力がそうさせるのだ。

 窓の外に目をむけると太陽の光――鏡のように反射する海が見える。きらきら光って聖水みたい。見ているだけで御殿に癒しを与えてくれた。

 反対側には青々とした山がある。
 窓を開けたら、きっと心地よい風が入ってくるだろう――そう思い、痛む体でゆっくり窓を開けると、思っていた通りの結果に心が落ち着く。

 潮風が御殿の長い髪を揺らす。

 夏になると日差しはさらに強くなり、同時に水面のきらめきも増す。山はさらに緑を深め、大自然を独り占めできる時間がそこにはある――御殿はその景色が大好きだ。

 そんな演出も妖精たちが用意してくれていたのだろう。
 御殿は目を閉じ、しばらくその身で風を感じていた。

 あれから、どのくらい時間が経過しただろう?


 数時間前――

 真夜中のこと。
 研究所の爆発に巻き込まれた御殿は、ビルの屋上に置いてあった素材置き場で目を覚ました。

 ビニールの中にはイベントで使うのだろう、大量の柔軟素材が入っており、御殿の体を羽毛のように保護してくれていた。
 体を動かすと電圧を流されたようなビリビリとした激痛に襲われる。体中アザだらけなのは爆発に巻き込まれた時のものだが、麻痺をともなう激痛と発熱、吐き気などの症状から察するに、おそらく骨の数本は逝っているようだ。

 ――性器のあたりに違和感もあった。
 ハイヤースペックを発動したことで、想夜と同じような両性具有の存在となったのだと確信した。そう思うだび、自分の力が脅威であるという事実からは避けられなかった。

 時間の経過とともに子宮へ続く経路が閉ざされ、元の体へと戻っていった。
 
 誰かと連絡が取りたい。ボロボロの体を起こしポケットをまさぐり、携帯端末を探す。
 慌てて周囲を見回す。
「……ふう」

 どこにも見当たらない――落としてしまったようだ。

 しかたなく公衆電話から東京の会社に連絡を入れようと受話器をとったところへ、ワイズナーを手にしたフェアリーフォースの群れに襲われる破目に。
 重力無視の相手に体術のみでさばけるはずもなく、御殿は敵の攻撃を受け流し続けた。
 敵を投げ飛ばそうものなら、空中でヒラリとひるがえり、体勢を立て直しては再び攻撃をしかけてくるしつこさ。打撃が有効と判断した御殿は、敵に2~3発のナックルをブチかまし、そばにあったゴミバケツを蹴り当てて逃走。早朝だったので人気もないのが幸いだった。

 目立つことなく列車に乗り込み、そうやって追っ手から逃げてきた。


 命をかけてまで逃走したのには理由がある――会っておかなくてはならない人物がいるからだ。

 数時間電ものあいだ列車に揺られ、都心からずいぶん離れた駅にたどり着いた。
 そこからさらに登山鉄道に乗る。


 終点の山岳からバスに揺られること1時間。終点で降りる。
 今のバスで今日の分は終わり。田舎なもんだから、その日のバスはもう来ない。
 当然タクシーもなく、代わりに野菜を積んだ農家の軽トラックをひろい、目的地の近くまで運んでもらった。

 ヒッチハイクなんて何ヶ月ぶりだろう。海外での生活ではよくやっていた。

 ボロボロの体を初老の運転手に何度も指摘されたが、「転びました」としか返答のしようがない。
 車から降りた御殿は運転手に深々と頭をさげ、ふたたび長い道のりを歩き出した。


 たどり着いた先――そこには小山がある。どこまでも続く石段の先には、工事着手もされていない山道がまた続く。その道を進み、のぼり、くだり、そしてまた登る。

 誰がつくったのだろう、崖には手作りの吊橋がかけられており、風が吹くたびに大きく揺れる。まるで「死ぬ覚悟の無き者は去れ」と言わんばかりに訪問者を威嚇していた。

 御殿はためらいなく吊橋を渡る。


 小腹が減った御殿は山菜を取り、川で洗って食べる。食用と毒草の見分けくらいはできる。
 ついでに手で川の水をすくう。輝く水面、元気に跳ねる鮎が何かを伝えているのを感じ、御殿は力なく微笑んだ。

「……ただいま」

 とたんに肩の力が抜ける。

 手中で揺れる透明な雪解け水が冷たくて気持ちがいい。一流レストランで出されるどんな水よりも美味しかった。

 御殿は喉を潤し終えると水が滴る口のまわりを手で拭い、腹を空かせた野良犬のように、ふたたび歩き出した。

 人里離れた目的地にたどり着く頃には、陽もすっかり沈んでいた。


 山の一角に木造の大門がある。

 御殿は観音開きの中央に立ち、一礼すると中へ足を踏み入れた。

 どこまでも広がる砂利がアートのような波を描いている。御殿は波をくずさぬよう、飛び石を静かに進んでゆく。

 たどり着いた場所は開放感ある道場だった。庭から見える戸はすべて開いており、屋内は風通しがよい。
 古い木造にもかかわらず、清掃がいきとどいており新築にも見える。

 裏手にまわると、真新しい道場とは正反対の古家がある。
 外から室内が見え、江戸時代にいろりを囲んで食事をしている風景を思わせるような、まるで世捨て人が住んでいるような家。

 チャイムを鳴らそうにも、そんなものはなく、声を張り上げるしかない。
 大声を出すのは好きじゃないが、御殿は痛む肺にいっぱいの空気を入れた。
「ごめ――」

「御殿ちゃん!」

ごめんください。と言いかけた御殿の背中に少女の声がかかるもんだから、肺いっぱいの空気の行き場所を失い、むせるハメに。肋骨に響く響く。

「御殿ちゃん! 御殿ちゃんではございませんか!?」
「……げほっ。あ、あなたは……」

 麻歌部 蒼唯まかべ あおい――御殿のようなロングヘアの子。目鼻の主張がおとなしく清楚な顔つき、控えめな言葉遣いと態度から想像できるのは絶滅種である大和撫子。麦わら帽子と白いワンピースが似合いそうな清潔感。やや紫がかった髪は外国の血筋を引いているためだろう。先祖が外国人らしく、医師の家系で育った子だ。西洋医学、東洋医学、両面からの治療に長けている麻歌部家の存在は、アンダーグラウンドでも有名だった。家系の何人かは、医師免許を持たず、御殿の主治医も無免許医師、つまり闇医者である。闇医者のほうがなにかと都合がいいのがアンダーグラウンドだ。あえて免許をとらない医師など、この世界にはごまんといる。


 ――3年前、御殿は瀕死の重傷を追って晴湘市からこの場所へ運ばれてきた。
 瀕死といっても心臓は止まっていた。分かりやすく言えば……死体だ。

 『少年の死体が運ばれた。蘇生術は可能か?』

 その問いに誰もが首を横に振った。

 そこへ名乗りをあげたのが麻歌部 徹まかべ とおるという医師だった。
 彼からすれば、死んだ御殿はただのモルモットだったのかもしれない。けれど、宿命に突き動かされたかのように、徹は御殿の体をスケートリンクに見立ててメスを遊ばせた。

 蘇生術はみごと成功し、御殿は息を吹き返す――。


 その徹の甥にあたるのが蒼唯である。
 甥とはいっても、見た目が女の子。周囲を困惑させること多し。

 蒼唯が女の子の容姿をする影響は御殿にあった。

 当初、はじめて御殿の姿を見た蒼唯は、血まみれの死体を前に足がすくんだ。シートに包まれた死体が目も当てられない姿だったからだ。最初は真っ赤な人形だと思った。

 蒼唯は御殿の全身にまとわりつく血を拭き取り、蘇生術を終え、ベッドに寝かせた日の出来事を思い出す。

 御殿の心臓が動き出し、血の巡りがよくなるにつれ顔色も次第によくなってゆく。回復傾向にあるのは一目瞭然だった。

 御殿の顔色が改善するたび、蒼唯はその魅力に目を奪われていった。シルクのようなキメ細やかな肌がまるで妖精のようだ、と心踊らせる。御殿の中に妖精を見たのだ。

 ――それ以来、蒼唯は御殿のマネをするようになる。肌の手入れ、髪の手入れ、次第には洋服まで女の子が着るようなヒラヒラしたものを身に着けるようになった。
 妖精に近づけるよう、日々の努力を惜しまなかった。

 目覚める、とは恐ろしいものである。瞬時に人の未来を変えてしまうものだから。

 蒼唯は御殿の魅力に取りつかれた。妖精はそうやって知らず知らずのうちに人間を魅了してしまうのかもしれない。

 療養中の御殿の世話は蒼唯が担当していた。それは将来、医師を目指す蒼唯にとっては造作も無いこと。食事の世話から下の世話まで、なんでもこなす。そこには患者への献身的介護というよりは、別の感情が芽生えているようだった。

 御殿の体を手ぬぐいで拭くたび、口についたご飯粒を取るたび、息があがる蒼唯のことを、病み上がりの御殿は不思議がって見ていたものだ。

 やがて、死体だったはずの御殿の体力が元に戻る。
 奇跡の生還だった。

 けれど、皆あたまを抱えた。この先どうしよう? と。

 その理由は御殿の記憶障害にあった。

 ここへ運ばれてくる前、御殿は晴湘市で災害に襲われていた。その時の過度なストレスにより海馬の一部が萎縮。短期記憶に障害がでていたのだ。

 しばらくの間、御殿は記憶喪失になっていた。記憶の混乱も見られた。

 記憶が戻るまでの間、御殿はこの場所でゆっくりとした時間をすごしたが、記憶は完全に復元しなかった。晴湘市での記憶を脳の奥底まで押し込めてしまったのだ。

 先日のシュベスタでの一件のこと。八卦の力を発動させた際、マグマのカーテンに包まれながら多くの友に助けられた事をきっかけに、御殿の記憶が一気に蘇った。

 記憶の回復が、晴湘市の惨事を呼び覚ましたのである――。


 崩壊するシュベスタから、どうやって脱出できたのかは気を失っていた御殿には分からない。けど、大体の予想はつく。

 リボンの妖精は今、どこで何をしているのだろう?

 己を助けてくれた友に想いを馳せながら、御殿はここへやってきた。
 ボロボロの体だが、生き延び、ここへやってきた。

 母川回帰――鮭が大きくなって戻ってきたのだ。産卵すら危うい、傷だらけの体で。


草壁 幻龍偲くさかべ げんりゅうさい


 草壁幻龍偲という人物がいる。

 運命とは奇妙なもの。御殿は蘇生後、その人物と出会うことになる。

 草壁幻龍偲――この古家兼道場の主。世捨て人のように山奥に住居を構え、自給自足に近い生活を送っている。見た目も白髪、長髪、白ヒゲ……と、見た目は仙人そのもの。その実態は、世界に名を轟かすほどの古武術の達人である。多くの門下生を世に送り出しているが、皆ワケありの問題児。一般的な職業に殉ずる者など1人としていない。

 御殿もまた、幻龍偲の弟子にあたる。時折、戦闘時に繰り出す古武術は、幻龍偲直伝の体術である。

 武術の正式名称は『虎頭舞式ことぶしき・草壁流古武術』。通称、龍虎捕縛。天を舞う龍を引きずり下ろし、地を駆ける虎に喰らい突いては動きを封じる、長き伝統を持つ古武術である。打つ、さばく、投げるといった基本攻撃をはじめとする、あらゆる戦闘に特化した体術。呼吸法で感情や睡眠などのコントロールも可能――まさに龍虎を凌駕する古武術である。

 門下生には数える程度であるが、免許皆伝者もいるものの、御殿はまだまだお子様の領域。暴魔や妖精を何体ブン投げようとも、免許皆伝にはほど遠い。

 ――話を戻そう。

 蘇生術後。歩けるようになった御殿は幻龍偲のもと、山奥での生活がはじまった。

 御殿は学校へ行くこともできないので、外出といったら山を散歩することくらいだ。

 時折、幻龍偲が道案内をしてくれた。

 山菜に詳しくなった。
 川でアユを捕ったりした。
 捕れなければ晩飯にありつけない……ということはなく、山のふもとの魚屋でも売ってる。飢えることはないのだけど、自分で獲った魚はまた格別なものだ。

 『味の違いは味覚だけじゃない』ということを御殿は知っている。

 獲った魚を師範や蒼唯に食べさせたい一心で朝から夕暮れまで魚捕りに明け暮れた日もある。調理した魚を笑顔で食べてくれた時は本当に嬉しかった。

 日中。御殿はよく広い草むらに手足を投げ出してゴロンと寝そべり、空を眺めていた。普通の子供なら学校で勉強をしている時間である。

 教養を身につけない時間だけ、御殿の知力にも悪影響が出てくる。それを心配してか、幻龍偲も蒼唯もいろんなことを教えてくれた。

 麻歌部家にはたくさんの書物があり、御殿は麻歌部図書館と呼んでいた。

 興味のある本を借りてきては古家でひとり読みふける。小難しい本はわからないので、応急処置や簡単な人体の解説本、生きてゆくうえでの最低限の知識を学んだ。

 分からない文字は幻龍偲と蒼唯に聞いた。
 2人とも多忙ということを御殿は知っていた。
 師範は選りすぐりの門下生を指導しなければならない。
 蒼唯は学校と医学の勉強がある。
 そんな理由で、2人の空いている時間を狙っては勉強を教えてもらった。
 なかなかアポイントがとれない人から得られる貴重な勉強時間、大切に大切に過ごした。

 いつの間にか御殿は、『相手の立場になって考える』という術を身に着けていた。


 孤独じゃない。けど、御殿はいつも1人だった――。

 1人で散歩し、1人で物思いにふける毎日。

 本はたくさん読んだ。専門書や自己啓発。小説。
 小説の中では「アルジャーノンに花束を」、「若草物語」が好きだった。

 アルジャーノンに花束を――先天性の障害によりIQが低い主人公チャーリーゴードンは、ある実験手術により飛躍的にIQが上がる。だがIQがあがるにつれ、他者が自分に向ける感情に大きな変化が起きていることに違和感を覚える。今まで自分を見下していた者たちが劣等感から距離を置くようになる。IQが高くなるにつれ、壊れてゆく人間関係があることを知る。IQが高くなるにつれ、見えてくるものにも変化が生まれる。けれど、知識が高まっても他者への配慮は子供のままだった。それでも共に実験に参加してきたアルジャーノンというネズミのことを、ずっと気にかけていた青年の話。

 無情にもチャーリーの手術は失敗に終わり、次第にIQも下がってゆく。そうして再び、人間関係の崩壊がはじまり、やがて知的障害者へと戻ってゆくのだが、たった一つ手に入れたものがある。それが『他者に想いを馳せる』という術だった。
 自分を捨てた母に想いを馳せ、いじわるをした妹に想いを馳せ、そうやって許すことを覚え、チャーリーは心の成長を証明した。

 アルジャーノンの死後、チャーリーはお墓を作った。
 その墓の前で、チャーリーは一匹のネズミにさえも想いを馳せることができる人となった。

 御殿は心のどこかで思うのだ。もっと自分が強ければ守れたものがあったはずなのに。頭がよければ守れるものがあったはずなのに、と。

 若草物語――仲良し四姉妹の日常を描いた作品だ。貧しいけれど、そこにはいつも笑顔があふれている。贅沢はできないけれど、食卓はいつも楽しそうで、食事も美味しそうだった。四姉妹は味覚意外の場所で食事を楽しみ、資金意外の物でその場を彩っていた。笑顔をみんなで分けると幸せも倍増する。それが御殿にはうらやましく思えた。いつか四姉妹の仲間に入れてもらいたいと思った。

 ――今となっては、晴湘市での楽しい食卓は、もう戻ってこない。


 御殿の山篭りは続いた。

 斧で牧を割ったり、幻龍偲といろりを囲んで食事をした。

 心臓にダメージを受け、思うように動かなかった御殿の体は、蒼唯の献身的介護のおかげで回復をしてゆく。鍼灸というものをはじめて見た御殿は、体に鍼が刺さることや灸の火などを極端に恐れた。晴湘市での出来事が脳のどこかで暴れていたのだ。

 ――けど、次第に脳内の暴れ牛も収まってゆく。

 はじめは嫌がっていた鍼灸だったが、それらの治療が御殿を癒してくれることを理解し、安心を得たのだ。

 上半身が裸になるたび、後ろから蒼唯の鼓動が吐息となって御殿に伝わってくる。御殿はそれを耳を通じて全身で感じるたび、どうすることもできず、もじもじと頬を赤らめるばかりだった。人との距離感、どう振舞えばいいのかまでは学習していない。それは本だけでなく、日々の人間関係で学んでゆくことだから。

 なにかにつけて幻龍偲は御殿を気にかけていた。顔には出さないものの、御殿の安否を気にかけていた。この時、すでに草壁幻龍偲は、御殿の戦闘能力の素質を見抜いていた。

 山菜取りや魚捕りでの体の動きが、風に乗って流れるように軽やかに揺れる。それを見逃すほど、師範の目は曇っていない。

 幻龍偲は御殿に古武術を伝える決意をする。

 こうして師範と弟子の関係がはじまった――今から2年ほど前の出来事だった。


急がば回れ


「草壁先生なら夜までお帰りになりませんよ?」
「そ、そう……」
 蒼唯の言葉を聞き、御殿は肩をすくめた。

 分かりきっていたことだ。世界各地で猛威を振るっている輩はあとを絶たない。御殿レベルのエクソシストでは歯が立たないような脅威は無数にいる。幻龍偲は、そういった場に借り出される。彼ほどのツワモノでなければ倒せない敵がいるのが現状だ。

 御殿は開けっぱなしの窓をスライドさせながら言う。
「相変わらず、家の窓は開けっ放しなんですね」
 御殿の言葉に蒼唯は口に手を添え、くすりと笑う。
「鍵を閉める意味がないですからね……と言ってしまうのも失礼なのかも」

 蒼唯の言っていることが正論である。近所に泥棒などいない。そもそも持っていかれて困る物がない。誰でも寝泊り自由。ただし縁側で昼寝していると熊が横を通り過ぎてゆく――開放された家でもサバイバルである。

 御殿は幻龍偲が戻るまでの間、しばらく待たせてもらおうと思った。

「御殿ちゃん、そのお体でずっと待つおつもりですか?」
 玄関をくぐる御殿に声をかける蒼唯。
 ボロ雑巾を羽織った格好で足を引きずっていれば、誰にでも体の不具合は見通せる。ましてや蒼唯は医者の卵だ。御殿が体のどの部分をどのように怪我したのかまでをも、先ほどからお見通しだった。
「ウチにいらしてください。治療しましょう? ……ね?」

 蒼唯は不安な表情を作っては御殿の肩にそっと手を貸し、麻歌部医院へと連れて帰った。


麻歌部医院


 麻歌部家。

 数百年にわたる医者の名家。先祖代々医師の道を歩んでいるが、分家である蒼唯の家だけは東洋医学を取り入れたり、闇医者との関係性を指摘され、親族達から異端児扱いされていた。

 麻歌部の面汚しとして忌み嫌われながらも、凛としてそこに君臨する医師たちがいることを誰が知るのだろうか。
 異端児医師たちに命を救われた戦士が山のようにいることを誰が知るだろうか――。


 御殿が縁側に腰を下ろしている。

 藻草のほどよい香りが白い煙となって御殿を落ち着かせてくれる。上半身は包帯まみれ。蒼唯いわく、骨にヒビは入っているようだが、骨折までにはいたってない。安静にしていれば治りは早いだろう、とのこと。

 繰り返すが、安静にしていれば、の話だ。それが今の御殿に出来るだろうか? 先のことは誰にも分からない。

 包帯を避けて打たれた鍼灸が御殿をサボテンのようにした。それだけダメージが酷かった。
「打撃、かなり受けてますね。火傷も少しあります」
「……うん」
「――変ですね、おかしな打撃数です。抜き手でしょうか。全身に浴びたみたいな感じ……気のせい、ではないですね?」

 抜き手とは指で突く攻撃のこと。手刀の指幅をやや広げた構え。目などを攻撃するときに使う空手の技。

 御殿は思い出す――蜂の巣にされた時のこと。当然、傷は完治していなかった。徐々に消えてはいるようだが、驚異的な治癒力を目にする度、自分は普通の人間ではないのだと思い知らされ気が沈む。

 医者の卵は言う。
「これは全て……弾痕、ですね」
 蒼唯はそれを一発で見抜いた。将来、立派な名医になるだろう。
 御殿は力ない笑みでごまかした。それでも生きている。なぜなら、自分は八卦とかいうバケモノなのだから。

 蒼唯は話を続ける。

「昨日、シュベスタのニュース、拝見しました」
「……そう」
「やはり、御殿ちゃんが関っていた事件なのですね」
「……うん」

 御殿は遠くの空を見上げた。すっかり暗くなり、たくさんの星が空を彩っていた。
 蒼唯も一緒になって、無数に広がる星々を見上げた。

 ――ある都市で大規模な研究所の火災が起こった。

 その後、ボロ雑巾のような知り合いが帰ってきたのだから、蒼唯は勘ぐらずにはいられないのだ。それだけ御殿を気にかけている。でも追求はしない。今はそっと御殿に寄り添うだけでいい。今は、焦らなくてもいい。

 MAMIYAからの依頼が終わり、魔水晶のカケラは御殿の手により破壊された。
 脱出できたのはリボンの妖精のおかげだろう。それしか考えられなかった。

 ――そしてシュベスタの崩壊。

 崩壊した、のか?
 本当に?
 ただ建物が倒壊しただけじゃないのか?
 存在そのものは生きているのではないか?

 こうしている今にも、妖精実験の断末魔が世界を覆うかもしれない。そんな悪い予感に襲われる御殿。

 想夜、狐姫、叶子、華生、彩乃、詩織、沙々良、宗盛、小安――みんなはどうしているのだろうか?

 フェアリーフォースはどうなった?
 メイヴは?

 御殿は池の鯉が跳ねるのをうらやんだ。元気な姿に嫉妬した。

 早く回復しなきゃ。けれど急いでも何も始まらない――そんな感情が御殿をいっそう急かす。

 もがいても前に進まない状況。目の前の扉をノックしても開かない。ただ黙って時が来るのを待つのは、焦りという名の拷問だ。呼吸法を用いても御殿の気持ちは変わらない。そこがお子様レベル。免許皆伝にはほど遠い。


 藻草が煙を終える頃、蒼唯は御殿に刺した鍼灸を全て抜き取った。

 ありがとう――御殿が振り向こうとしたとき、その背中に蒼唯が静かに覆いかぶさってきた。

「ああ、御殿ちゃん――」
「蒼唯ちゃん?」
 今にも泣き出しそうな蒼唯を見て御殿は驚いた。
「わたくしは不安なのです。貴方様のこの体が引き千切られようものなら、わたくしの心も千切れてしまうことでしょう。そのくらい、お慕い申し上げてございます」
「……蒼唯ちゃん」

 御殿は肩に置かれた手の上に、そっと手をかぶせた。周囲に心配を押し付けたことを悔やんだ。自分の体が傷つくことで、知らず知らずのうちに他人の心にもダメージが飛び火する感覚を覚えては、己の不甲斐なさを呪うのだ。

「御殿ちゃん」
「ん?」
「はじめてお会いした時のこと、覚えていますか?」
「……うん」
「わたくしは貴方様に惹かれました。同性であったとしても、わたくしにはこの衝動をどうすることもできません。抑えきれないのです」
「蒼唯ちゃん、ありがとう。でも――」
 蒼唯が御殿の言葉を制止する。
「返事は…・・・今は言わないでください」

 御殿は静かに肩を落し、蒼唯の言葉に耳を傾ける。

「――このままの関係でいいですから。わたくしの心の中に、貴方様を住まわせておいて欲しいのです」

 フワリと揺れる長い髪から、ほんのりとシャンプーと薬品の匂い。努力を怠らない。医療という立場を常に心がけている子。そうやってたくさんの人々のことを考えている。

 御殿も蒼唯に救われたひとりだ。
「OK。わたしを預かっておいて。自分を忘れた時にいつでも思い出せるように。蒼唯ちゃんの、心の中で――」

 命の恩人をあまり心配させるもんじゃない――御殿は反省するばかりだった。


師と弟子


 御殿は道場に足を運んでいた。

 広い道場の中央に御殿と仙人はいた。互いに背筋を伸ばして正座し、向かい合っている。

 幻龍偲に諸々の事情を話す御殿。

 問題は山積み。妖精界、魔界、人間界――どこから解決すればいいのか分からない。ましてや解決したところで、平和な日常は戻るのか? 若年の御殿には何も分からない。解決への知恵が足りない。

 幻龍偲は笑みを浮かべて聞き入っていた。師範レベルになれば、シュベスタでの騒動など可愛いイベントだ。
 それでも、御殿からすれば難題な宿命を背負っている。前に進むのが不可能にも感じられた。絶望、というやつだ。

「――妖精実験とは、またケッタイな話ですねえ……」
 アゴ髭に手をそえ、興味深そうに何やら天井を見上げて考えているご様子。御殿自身が実験に大きく関与していると知ると、驚くことはなかったものの、あまり面白そうな表情は作らなかった。それだけ傷ついた御殿の心情を察していた。

 物腰の柔らかい口調が印象的。昔とちっとも変わってない師匠の姿を見て、御殿は安心した。強力な楯に守られているようで、安心した。生まれたての子猫のように、親猫の懐に潜り込んでいないと恐くてしょうがないのだ。

「草壁先生、わたくしの何がいけなかったのでしょうか?」
 御殿は歯を食いしばり、俯き、拳をつくる。それを膝の上に叩きつけたい衝動に駆られていた。

 常に平常心。水面に波紋作るべからず――道場の掟を忘れるくらい、御殿は切羽詰まっていた。

 幻龍偲がすぐさま問題点を指摘する。
「まず、はじめに……動きがぎこちない。昔の動きから遠ざかっている。無論、病人だからという意味ではない」
「……はい」

 御殿が装備している防弾コルセッットに目をやると、幻龍偲は静かにうなずいた。

「つまるところ、全身の筋肉に極度の硬直が見られる。武装も結構ですが、恐怖がにじみ出ているようにも思える」

 エクソシストを生業としてから、重装備になった。ボニー&クライド、ハートプレート、防弾コルセット、空泉地星、聖水、リロード用マガジン。狙撃の時は大きなライフルケースを背負うことになる。数えたらキリが無い。

「脳のパフォーマンスが極端に落ちている感じがするのですが……おそらく過去や未来に感情が捕われているのが原因でしょう」

 御殿は脳の奥底に眠っていた晴湘市のトラウマに気付いている――けれど、師範が指摘しているのはそこではなかった。

「お友達ができたのかな?」
「――え?」
 御殿は沈んだ顔を上げる。
 ふと、いろんな顔が頭に浮かんだ。ハッとする御殿の表情を見るなり、師範は2、3回うなずいた。
「御殿さんの話を聞いた限りだと、周囲のお友達は皆お強い。恐らく貴方と同等かそれ以上――」
「……はい。みんな強い、です」
「共に戦う仲間も武器となる。だがしかし、時として重荷にもなるものですよ。仲間を信頼していても、そこには必ず不安が付きまとう。なぜなら、お友達は無敵ではない。命あるものには必ず死が訪れる。とくに戦場では、その確率が倍増する。もしものことがあったら、と気になって仕方がない。気を揉まずにはいられない。そうやって臆病になっては、体にブレーキをかけるようになる。そうやって自分が楯にならねば、と肩に余計な力が入る。相手を信用してない気持ちがチラリチラリと顔を見せ、全身を作り上げる」
 その言葉に、御殿は何も言い返すことができなかった。

 確かに1人で行動するほうが動きやすい。周囲が敵だらけなら蹴散らせばいいだけのことだ。弾が味方に当たることはない。

 ――だが、隣に味方がいたらどうだろう?

 いくら友が強いとはいえ、仲間を認識している時点で敵への気がそれる。目で追ってしまう。
 守るべきものがあるということは、無茶ができないということでもある。
 おまけに負傷させてはなるまいと意気込む。

「他人は貴方と違う生き物。思うように行動はしてくれないし、考え方だって違う。ましてや相手の考えを変えることもできない。信用することも確かに大事だが、過信しすぎたら逆に重荷となる」
「……はい。友に甘えすぎていたのかもしれません」

 師範はフォッフォと笑い、何度もうなずく。

「甘えていた。たしかに間違ってはいない。それよりなにより、あなたはお友達の命の代役を務め続けている……と、私は思うのだが。いかがかな?」

 自分一人が犠牲になればそれで済むこと。自分がいなくなっても、守るべきものが無事ならそれでいい。ひとり我武者羅に行動を起こすが故、まわりの気持ちも見えていない。自己満足から生まれる無茶な戦闘は、戦略すらも狂わせるものだ。

 貴方は何に怯えているのでしょう? ――師からの質問。

 ずっと認めなかった自分の気持ち。御殿はとっくに知っている。それを口に出すのが怖いのだ。自分が酷く弱い人間に思えてならないから。
 目に見えないもの。まだ確定していないもの。あらゆる恐怖を勝手に作り上げては勝手に恐怖し、過去の絶望から逃れるために、死ぬことを優先させるために突っ走る。それでいて「自分はたくさんのモノを守ったのだ」と心の底では自画自賛。友が泣いているとも気づかない。

 消えることで楽になる。カッコいい死に方が免罪符だと思っている――御殿の本当の気持ち。

 御殿は……、
 この世界から消えてしまいたかったのだ。

 早く、早く。狂った戦いの日々を終わらせるために死に急ぐ。
 心のどこかで死へのパスポートを欲していた。
 戦争なんかまっぴらだ。

 けれども運命とは皮肉である。戦争を嫌う御殿は戦争を切り抜ける力に長けている。
 現に多くの人々が御殿の活躍によって救われている。
 それは八卦として生まれ持った素質でもあり、晴湘市での出来事やエクソシストとして戦場を駆け抜けてきたこと。
 それらが御殿のなかに屈強な戦闘力を育んできた。

 それと同時に、心に陰りを作り上げたのは言うまでもない。

 御殿の本当の気持ち――幻龍偲はそれを一瞬で見切る師である。

 ひとりで背負いすぎたものがある。おまけに心の中では友の力を信じていない。近づこうともしない。戦場を生き延びたものが持ってしまう驕りだ。

 潜在意識では自分しか信用できない。多くの戦場が御殿をそういうふうに作り上げた。

 なんということだろう。相方の狐姫はおろか、想夜、叶子までをも御殿は目を背けていたのだ。彼女たちが強いにも関らず、その力を認めようともせず、ただただ「わたしは地獄を見て来たのだから強い。守ってやる、協力してやる」と肩に力をいれては番犬気取り。うまくいかなければ「自分の責任だ」と悲劇のヒロイン気取り。自分しか地獄を見てないと思っている。

 なんでもひとりでできると思い込み、己が力を過信し、心の奥では「わたしが守ってやるからアナタ達は後ろで待機していなさい」と、誰にも心を開いていなかったのだ。

 やがて戦いから解放され、死ぬ時に潜在意識で自慢気にこう言うのだ――わたしは全力で戦った、スゴイでしょ? と。

 結局のところ、自分しか見ていない。そうやって他者の力を認めず、他者の力も借りないまま、肩に余計な力を入れ、自滅してゆく。それがシュベスタでの結果だった。犠牲者が出なかったからよいものの、想夜たちがいなければ全員犬死だった。

 そんな現実を突きつけられた御殿は、頭をガツンとハンマーで殴られたようなショックに陥る。

 傲慢。
 自信過剰。
 悲劇の戦士。
 驕り。
 戦うことからの逃走――。

 御殿は己の心に目を向けるたび、恥ずかしさや不甲斐なさで苦やし涙をこらえ切れなかった。

 滝のようにボロボロと流れ落ちる涙を、御殿は乱暴に腕で拭う。それでも滝は止まらない。
 次第に悔しくなって歯を食いしばっては、鼻を真っ赤にした。

 ――答えは出ていた。

 御殿は戦いながら、いつでも心臓の躍動から逃げ出せる瞬間を狙っていたのだ。

 八卦が覚醒した御殿をさらなる恐怖が襲う。巨大な力ゆえ、周囲を巻き込んでしまうという恐れ。

 かつて叶子と華生がとった行動を思い出す――自分がいなくなれば、誰も戦いに巻き込まれずに済む。叶子の気持ちが痛いほど伝わってくる。

 八卦の力を目にした御殿の逃走理由に拍車がかかる――自分がいなくなれば、誰も傷つくことはない。危険に巻き込まずに済む。

 自分は……爆弾をかかえた疫病神だ――。

「わたくし、わたくしのせいで、みんなは酷い目に――」
 幻龍偲はすぐさま指摘し、首を左右させて静かに笑う。
「ほら、それは傲慢というもの。御殿さん一人の行動でこの世のすべてが負の螺旋を描くほど、アナタの力は世界にとって脅威ではない。八卦とはいえ、まだまだ小さな木枯らしなんですよ」
「でも、わたくしは……進むことも戻ることもできません。どうすればいいのか、もう……わからないのです――」

 なんだそんなことか――と、幻龍偲は肩をすくめた。

「ならば、しばらくゆっくりしていきなさい。急がば回れ。目の前の扉が閉まっていて前に進むことができないのは、誰しもあること。そんな時こそ、次の戦いのために叡智を養うべきとき。努力のゴリ押しだけでは解決しないことも多い。次の戦いに備えて、ただ、いま出来ることだけをやってみたらどうです?」
「今、できること、ですか?」

 幻龍偲は何かを思い出したかのように、御殿を指差した。

「ほら、山を散歩するのが好きだったでしょう? また山菜をとってきて、ごちそうしてください。私はあれが好きなんですよ。また作ってください」

 ぐすり。御殿は真っ赤な鼻をすすっては涙を拭った。

「……かしこまりました」
「他人行儀は無しにしましょうか。社会に揉まれて礼儀正しくなったのは分かりましたから」
「はい、わかりました」

 足止め、足踏み、行き止まり――神様からのプレゼント。焦っても何も解決しない。とりあえず休む。
 一歩も進まないのなら、今、出来ることをやる。それだけだ。

 はじめてここを訪れた頃の御殿に戻りつつあった。
 傷だらけで飛び立つことが出来ない鳥のようだった――。


妖精のささやき


 次の日。
 御殿の朝は早かった。

 道場の掃除から始まり、庭の掃除、食事の仕度――やることは多い。

 それらが済むと、少し離れたご近所へお使いに出向く。多忙な幻龍偲から請け負った仕事、しっかりこなさなければ師範の顔に泥を塗る。
 それだけじゃない。ボロボロになった気持ちを整理するためには、多忙な時間で目を背けたかった。幻龍偲が与えてくれた仕事に御殿は感謝の念でいっぱいだ。

 とにかく今は、何かに打ち込んでいたかった。そうでなければ御殿の心がシュベスタに押しつぶされてしまいそうだったから。


 昼食を終えた御殿は、さっそく川原で釣りをしていた。

 眼光だけで魚が死んでしまうくらいに、水面を睨みつける御殿。
「……」
 ――30分経過。

「…………」
 ――40分経過。

「………………」
 ――全っ然釣れない。
 あれ? こんなにヘタクソだったっけ?

 先ほどから小一時間、こうして構えてはいるものの、いっこうに獲物にありつけず。
「……もっと上流のほうがいいかな」
 御殿が立ち上がろうとした時――

 ツルッ、どっぼーん。

 そうやって焦って動いては、足を滑らせて川に落下してしまう。
 魚がみんな逃げていった。

 『急がば回れ』――幻龍偲の言葉が痛いほど身にしみる。

 川の中、全身ビショ濡れ。胸がモゾモゾするので、練乳プリンの谷間に手を突っ込んでみたら一匹捕れてた。思わぬ方向から思わぬ収穫。思ってもみなかったことが起こったりする世界。


 夕方は学校から帰宅した蒼唯が治療をしてくれた。相も変わらずサボテン御殿――藻草まみれ、鍼まみれ。

 捕った山菜を濃い味付けで佃煮にしたり、野菜鍋などを作っては師範と蒼唯に振舞った。

 いろりを囲んでの食事――。
「さっき全身びしょ濡れだったみたいですが、どうかしましたか?」
 幻龍偲に魚の話を突かれ、事情を話したら皆に笑われる。
 それにつられて御殿も苦笑。

 静かだけど、笑いのある食事の時間。そんなひと時が容易されていた。

 幻龍偲は山菜の佃煮を白米の上にこれでもかというくらいの量を乗せてほお張る。塩っ辛いものはゴハンがよくすすむ。
 御殿もマネてそれをする。少しでも師匠に甘えていたかった。

「御殿ちゃん、ごはん、ついてますよ?」
 頬を指摘された御殿が照れながらご飯粒を拭う。まるで子供みたい。とてもじゃないが想夜と狐姫には見せられない姿。心なしか、庭を横切る狸の親子に笑われている気がした。
 そんな光景も食事を美味しくしてくれた。

 みんなはちゃんと食事を取っているだろうか? ――いや、心配はやめよう。皆、ちゃんと食べている。自分のことくらい自分でできる人たちだ。

 ――信じよう。

 御殿は箸をにぎった。
 体が資本。話はそれからだ。

 食べなさい御殿。今はそれでいい。たらふく食べて体力を取り戻すのだ。いずれやってくる再戦に向けて――。


 数日経過した日、御殿は森にいた。

 道場の仕事は他のお弟子さんがやってくれるので、午後は時間に恵まれていた。

 なんとなく、ただブラブラと森林を歩いて行く。

 透き通る空気が肺を浄化してくれるようで気持ちいい。御殿はご馳走にありついたように空気をいっぱいに体内に取り込んだ。

 見渡すかぎりの緑を目にするたび、ここにも妖精たちがいるのだ、と御殿は実感する。
「そこにいるのでしょう? いつも美味しい空気を、ありがとう――」
 目に見えない妖精たちに御殿は一礼した。
 それに答えるように、「どういたしまして」と、柔らかい風が御殿の頬を撫でてくれた。

 そうやって時間が過ぎてゆく。

 ふと、御殿の足が止まる。
「わたし、どうして生き残ったんだろう?」
 自分に問う。よくもまあふてぶてしく生き残り続けているものだ、と。
 偶然か? 必然か? どちらにせよ生き残っているのは事実だ。
 木漏れ日からそそぐ日の光から声が聞こえてくる。そんな気がする。

 御殿は瞼を細め、風の流れを聞き入る――。

 死とは神聖なるもの。選ばれしものの辿る道。
 その道を己で選ぶのは、成すべき努めを果たした者のみ。
 御殿はまだ、成すべきことを成し遂げていない。
 まだ『死』に選ばれるのには早すぎる。資格がない。
 成すべきことを終えた者だけが、『死』から手を差し伸べてもらえるのだ。
 『死』とは高嶺の花であり、凡人が気安く手に出来る花ではない。

 ――御殿、おまえはまだ凡人以下だ。
 そうやって御殿は『死』にフラれてしまうのだ。

 死への告白――凡人が成就するにはまだ早い。


 御殿はゆっくり瞼を開ける。

 配役が決定したその時から、終演に向けて役目が与えられる。御殿は客の前で台本のセリフすべてを読み上げたのだろうか?

 これから出逢う人々に対し、出来事に対し、それらと直面したときのセリフを御殿は言ったのだろうか?

 ――御殿はまだ、役割りを終えていない。

「そうか。わたし……やるべきことを終わらせていない。やるべきことが山積みなんだ」

 解決すべきこと、山積みでしょ? 御殿――。

 宿題、山積みでしょ? 御殿――声が光の中へと消えていった。

 御殿は森を抜け、頭上いっぱいに広がる空を見据えた。
「ありがとう。妖精たち。わたし……もう一度、やってみる!」


師と


 朝日の逆光が師と弟子を照らす。

 2人のシルエットを黒く染め上げ、体のラインに沿って白く浮かび上げた。

 道場の中央、御殿と幻龍偲が向かい合う。
 立会人の蒼唯は離れた場所に正座して見守っている。

「――さて。なにか得られるものがあったかな?」
 静かな笑みを浮かべながら、幻龍偲が御殿に問う。

 聞くまでも無い。御殿はすでに得ている。
 先へと進む、その術を――。

「――はい、草壁先生。妖精たちに、また助けてもらいました」
「ほお、妖精ですか。興味深い話ですね。後で聞かせてもらいましょう」
 御殿に笑顔はない。あるのは決意。引き締まった眉から醸し出される構えは、一滴の迷いも無い悟りの境地。

「では、御殿さん……」
 幻龍偲の笑顔の向こう。目がギラリと光った。

「――はじめましょうか?」

 ゾッとするような冷たい声のあと、幻龍偲が一歩踏み出し御殿との間合いをつめてきた。
 と同時に抜き手を繰り出す!

 バシュ!

 手刀が御殿の頬スレスレを日本刀のように切り裂く!
 御殿は顔のすぐ横を通りすぎる幻龍偲の手刀を右手で払いのけると、左手で幻龍偲の骨盤を押して体勢を崩そうと試みる。

 幻龍偲にとって御殿の手の内は簡単に予測できた。腰に伸びる御殿の手首を捻り上げ、御殿を宙へ投げ飛ばす。

 ブン!

 分度器のように空中で弧を描く御殿は、体を捻って着地。すかさず幻龍偲の足元を右足で払う。が、側頭部を幻龍偲の手によって固定され体勢を崩しながらヨロヨロと後退。危険を察してそのまま距離をとる。

 ――御殿の額に汗が滲む。

 御殿、拳を手前にかかげて威嚇。1歩、2歩、3歩と踏み出す!
 それにあわせ、幻龍偲が1歩、2歩、3歩と後退。御殿との距離感をうまくつかんでくる。可愛い弟子の攻撃、すべてお見通しだ。
「――参ります」

 御殿の眼光がギラリと光る――スタスタと足早に間合いを詰め、幻龍偲に打ち込む。それら全てを掌でさばかれようとも諦めずに幻龍偲の手首に手を伸ばす。

 伸びてくる御殿の手を逆につかんでは捻り上げ、関節を固める幻龍偲。前のめりで”くの字”に曲がった御殿の背中に重心をかけて覆いかぶさり、畳に跪かせた。
「筋はいい。が……後ろを取られることがどういうことか、覚えてますね?」

 むかし幻龍偲から習ったことを御殿は答える。

「――それ即ち、死を意味する」

「――結構」

 くいっ、……ドン!

 幻龍偲は御殿の体を起こし、3メートル離れた場所に思い切り叩きつけた!
「うっぐう……!」
 細い背中に幻龍偲がズシリと跨って乗ってくる。容赦がない。
 蒼唯の治療もあってか御殿の体は見違えるように回復した。とはいえ肋骨に響く響く。

 幻龍偲は起き上がりざま、御殿の背中に拳を叩きつけようとする。
 それを瞬時にかわす御殿。幻龍偲を突きで追い払った。

 ――空振る拳。
 御殿はすぐさま体勢を立てなおすために畳に手をかける。

 一歩、二歩。幻龍偲は狂気に満ちた御殿と距離をとった。
 御殿は背中に走る痛みを食いしばって堪え、すぐさま畳の上で横に回転して起き上がる。

 ドスドス!

 起き上がったまではいいものの、すぐに壁まで追いやられ、腹や腰に拳の雨を浴びせられてしまう。

 ドスッ、ドスッ、ガンガンガン!!

 幻龍偲の拳はブロックで殴られたように重い。御殿はそれを両手で防ぐので精一杯。
 師の隙をついて後ろに回りこもうものなら、逆に後ろ回し蹴りが御殿の腹ど真ん中に炸裂。御殿は吐き気を堪え、腹をおさえながら後ろによろめく。

(師範に勝つなんて無理。そんなのわかっている。わかっているけど……ここで負けたくないの!)

 御殿の雑念が踏み込む足に迷いを作る。
 格闘家にとって、一歩は覚悟の一歩だ。迷いは死を招く。

 幻龍偲は御殿の手首を捻り上げる。分度器の狐を描きながら空中を舞う御殿の体。地面に叩きつけられ、さらに追い討ちの突きが飛び込んでくる。

 御殿は2転3転とバク転を繰り出し、幻龍偲の突きをギリギリのラインでかわし続けた。
 
 この先、目に見えないものばかりだ。きっと不安と恐怖が、旅人をせせら笑うことだろう。

 でも――御殿はそう思うのだ。

(でも、もう大丈夫でしょ、御殿? わたしは……妖精に見守られているのだから――)

 御殿の腹は決まった――だってそうでしょう? 御殿は妖精に愛されているのだから。御殿は……死にフラた女なのだから。

 今度は幻龍偲が足早に御殿との間合いを詰めてきた。
 五月雨のような幻龍偲の突きを、御殿は何度も何度も受け流す。力で押さえつけるのではなく、突きの軌道を曲げる要領で流すのだ。小川のせせらぎのように。鮎が川の中を滑るように。

 魚は食べるだけじゃない。御殿に色んなことを教えてくれた――時には逆らわず、時には身を預ける。川の流れに甘えるのも生き抜くうえで重要なエッセンス。

 幻龍偲のすべての突きを受け流し、御殿が反撃に打って出る。そこには険しい表情はない。表情筋に無駄な力は必要ない。口角があがり、目元は笑っている。ただただ安らかな表情の御殿が君臨している。

 右、左、右、左――御殿のハイキックが炸裂する。それに習って幻龍偲も同じ動きで応戦しながら受け止める。

 幻龍偲から繰り出される下からすくい上げるようなケリを御殿は両手で受け止め、飛んで衝撃を回避。師範のケリをそのまま押さえつけたら手首が骨折してしまうと見越しての行動だ。

 押す。
 引く。
 投げる。
 打つ。
 流す。
 蹴る。
 殴る。
 避ける。
 そして、さばく――。
 
 師、雛に問う――。
「筋肉の硬直は解けているはず。体の流れを作っているものは何か?」

 ――心である。

「心の硬直も解けているはず。では、心とは何か?」

 ――心理学では脳波。

「御殿さん、電気信号で肉体の躍動全てを語ることなどを教えたつもりはありませんよ?」

 そう、心とは即ち……


『――覚悟の連続』



 人は「こうだ!」と決めては行動を繰り返す。それは己が魂に責任を持つことでもある。
 長い髪を静かになびかせ、御殿は迷いなき突きを繰り出す。

 思い、想い、一つ一つが重い――それだけ、心で描く情報は価値のあるもの。力あるもの。尊いもの。

 己の心に描くヴィジョンを甘く見るな!
 己の心に描くヴィジョンを尊敬しろ!
 己が心に描きしヴィジョンは具現化する!
 心で、明確に、覚悟を叫べ!
 半端な覚悟は己が魂に対する冒涜だ!
 その体が描く覚悟と行動、存在。それは女神が認めし聖なる証。
 己が存在に敬意を示せ!

 生まれたことは、誇り以外の何者でもないのだから――。

 ふと、御殿の脳裏に白衣の女性――培養カプセルの外側で、ガラスケースに両手をついては見上げ、無邪気な少女のように瞳を輝かせては、液体の中で眠る御殿をずっと見ていてくれる。ずっと見守っていてくれる。

 そうして、カプセルから取り出した生まれたばかりの赤子を胸に抱き、こう言うのだ。

『コトノ、生まれてきてくれて、ありがとう――。
 お母さんのところに来てくれて、ありがとう』――と。



 永遠に続くかと思われた稽古にも、そろそろ終わりが来ていた。

 幻龍偲の足払いをジャンプしてかわした御殿は、そのまま幻龍偲の後ろに回りこんで背後を取った。

(失礼します!)

 御殿が幻龍偲の背中を捉えた!

 幻龍偲の背中に御殿の掌底打ちが決まった……はずだった。

「……」
「……御殿ちゃん」

 ――どうしたことだろう? 御殿の掌底は幻龍偲の背中に触れるかどうかの位置でピタリと止まった。
 打ち込んだはずの幻龍偲の姿は御殿の視覚にはない。
 御殿は緊迫した表情のあと、諦め混じりで表情筋が緩んだ。

 御殿がニヤリと笑い振り返る。そのまま後ろに佇む幻龍偲から一歩二歩と離れ、深々と一礼――。

「――参りました」
「結構――」
 幻龍偲のにこやかな顔。

 後ろをとったはずの御殿だったが……すでに後ろをとられていた。

 勝負あり。御殿の完敗だった――。


 幻龍偲が御殿に問う。
「なにか学べましたか?」
「はい。また、勉強させていただきました」
 何を学んだかって?
 それは「セリフを出し切っていない」ということだ。

 参りました――今の御殿にはこのセリフが用意されている。そして次のセリフもちゃんと用意されている。

「わたし、友達とちゃんと向き合いたい。次は、死に急ぐ感情を捨てて、ちゃんと接したい。それが友に対する敬意の表しだから」

 友を尊敬し、友からも尊敬される――それが本当の友達。

「MAMIYAのいくつかの問題やフェアリーフォースの件も未解決のまま。こんな中途半端な結果、わたしのやり方にふさわしくない。咲羅真御殿は、きっちり仕事をこなすのがモットーなんです。やるべきこと、山積み。だから……行ってきます」

 幻龍偲が成長した御殿の姿を逸らさずに見る。

「御殿さんがまた、ここに来てくれて嬉しく思います。きっと聖色市での出来事が、ふたたび貴方をここに導いてくれたのでしょう。そう考えると、惨事もまた必要なことだったのだと思うのですが……どうでしょう?」
 幻龍偲が御殿の顔を覗き込んでくる。
「はい、わたしに用意された試練だったのだと思います。そして――」

 その後、御殿ははにかみ、万遍の笑みを師に返した。

「そして、またこうして……草壁先生と出会うことができてよかった――」


聖色市へ――。


 陽が昇る。
 忘れていたことが蘇る。

 御殿の顔を朝日が照らす。

 そこには一皮向けた彼女の姿――御殿は気づいたのだ。自分がひとりではなく、皆の一部であること。心をさらけ出すということは恥ずべきことじゃない。弱いことは恥ずべきことじゃない。それを認めることが強さへの近道だ。

 言葉だけじゃ伝わらないこともあるけれど、本音を言わなければもっと伝わらない。
 本音でぶつかれば分かり合えるわけじゃないけれど、ぶつかりあう価値がある友ならば、やがて摩擦は温もりへと変わる。

 決して傲慢にならず、かた意地張らず。友に身を委ねることの大切さ。

 重かったら言ってね、貴方に少し寄りかかりたかっただけなんだ――照れながらも、そう言える人の大切さ。

 甘えなんかじゃない。相手のことが好きだからそうする。身を委ねることが出来る相手は宝石より尊い存在。

 嫌われるのは怖いかい? 大丈夫、胸を張って歩いてゆけば誰かが後ろをついてくる。君を見てくれる誰かがついてくる。

 ――だから進めよ。
 そして見つけろ、その存在の在り方を――。

 日々の不安は取り越し苦労。起こりもしない厄介事に思考を奪われて時間を割くな。心で描くほど、何から何まで悪いようには進まないものさ。

 肩の力を抜け。
 もっとリラックスしろ。
 もっと気楽に行け。
 とてもシンプルに。
 とてもとてもシンプルに。

 考えすぎれば答えにたどり着けない、寄り添うことの迷路。
 巨大迷路に迷い込み右往左往。空からみれば到着はたやすい。俯瞰視すればなんてことはない。

 心をゆったりさせ、すべてと一体となるのだ。己が周囲をとりまくものと一体となる。
 目の前に映るのが真の友であると称えるならば、あなたはわたしであり、わたしはあなたである。あなたの苦痛はわたしの苦痛であり、あなたの喜びはわたしの喜び――友の前ではそう謳え。

 余計な思考を捨てよ。まっさらな気持ちになれ。
 一度トリガーを忘れろ。肩の力を抜くのだ。
 防具を脱ぎ捨て、裸の自分を演じて見せろ。
 全身で風を感じろ。戦いの中、その身を委ねるのだ。

 裸は怖いか?
 手ぶらは怖いか?
 ――問題ない、もっと自分を信じてやれよ。

 ふりだしに戻る――それは進んでいる証。

 歩けないなら休めばいい。
 頃合を見て、ふたたび立ち上がれ。
 そうしてまた、歩き出せばいい。

 時として、誰しも経験する出来事がある。
 目の前の扉が閉ざされたとき、押しても引いても扉は開かない。
 前に進むこともできず、引き下がることも許されない。
 あがいても状況は悪化するばかり。やがて疲れ果て、崩れてゆく。

 にっちもさっちもいかない。そんな時こそ、両手を広げてゴロンと寝転んでしまえばいい。一度すべてを放り出すのだ。

 立ち止まり、すべてを忘れ、何をするでもなく、ただただ流れに身を任せればいい。

 神様だって馬鹿じゃない。我々人間が動けなくなった時に作動する臨時機能くらいはつけてくれている。
 そうやって次のターンに備えて遊んでいればいい。

 誰の声も気にすることはない。最善を尽くしたのなら、しばし待て。
 やがて、風は吹く。
 向かい風じゃない。君を前へと運んでゆく追い風だ。君の味方だ。

 その風に乗って足を動かせ。
 前へ、前へ。

 羽を広げて飛び立つのさ。
 前へ、前へ――。


 ――朝。
 幻龍偲はいなかった。御殿をおいていったということは、「もう大丈夫」というサインだ。

 大門を前に、身支度を済ませた御殿はお礼の書置きを残し、一礼をして山を下りた。

 気のせいだろうか? 遠くのほうから御殿を呼ぶ声が聞こえてくる。

「御殿ちゃーん!」

 声の主は蒼唯だった。走る勢いで麦わら帽子を飛ばされないように手でおさえ、両手で重そうな重箱を抱えて走ってくるではないか。
 駅に到着するころ、勢いあまって御殿の胸元に突っ込んでくる。蒼唯の細い肩を御殿は両手でささえた。

「――蒼唯ちゃん」

 息を切らせた蒼唯が嬉しそうにしている。
「わたくし、また御殿ちゃんに会いたい!」
「え?」
「もっともっと勉強して、貴方様の傷ついた体を治すの! この戦を見届けたいの、一緒に――」

 訴えてくる瞳には覚悟が感じられる。この先、戦いに参加すれば無事でいられる保障などどこにもないことを承知しているようだ。

「ボディメンテナンスができる人がいるのは心強いけど、学校だってあるでしょう?」
 御殿の心配を見越してか蒼唯は拳を握り締め、こう言った。
「御殿ちゃんの体をもっと隅々まで知り尽くしたいの!」

 さいですか。

 いざとなったら、ほわいとはうすの1階に御殿ちゃん専用治療院まで開業するかもしれない。麻歌部はそれを可能にできるお家柄。不思議では無い。
 もはや何も言い返せない御殿は肩をすくめた。


 列車がやってくる。
 これを乗り継ぎ、御殿はこれから聖色市に戻るのだ。

 蒼唯が持たせてくれた重箱にはたくさんのおにぎりとおかずがつまっていた。どれも御殿が教えたもの。これ食って元気だせってことさ。
 でも……食べきれないよね、これだけの愛情。

 数時間後には聖色駅に到着することだろう。そして新たな試練が御殿を待ち受けるのだ。

 さて、腕試しといこうか――御殿は拳に力を入れて空を見上げた。

「ifの世界は必要ない。ただ目の前に広がる世界を進むのみ」
 どこまでも広がる空に戦闘再開の眼差しで語りかける。

 もしもあの時、もっと強ければ、頭が良ければ、という幻想はもう捨てよう。人間はその時その時、ベストなやり方を選んで進んでいるのだから。今ここにいるということは、常にベストを尽くして来たという証。

 過去を悔やみ続けるのは怠惰だ、なにも得られない。だからこそ、今と未来から目を背けるな。

 こうしている今も、未来の時間は自分自身を迎えている。歩みを止めても、未来はこちらに向かって歩いてくる。だからこそ進むのだ。己の意思で。その時にできるであろうベストの選択をしながら。自由意志は人間の誇りなのだから。

 格好悪くても、這いつくばってでも、その時に選ぶ道はすべてベストだ。なんの後悔も入る余地はない。

 ――だから恐怖よ、不安よ。これ以上、人々の魂を冒涜するな。人々の覚悟を、そこで黙って見ていろ。

「待っていてね、みんな――」
 フワリ、パレオが揺れる。

 黒き天女――御殿は衣をなびかせ、前へと踏み出した。

 地に落ちた鳥、再び羽ばたく――。
 ハイヤースペックを巡る新たなる戦い、ここに幕をあける――。