2 あなたのMAMIYA
MAMIYAとは、医療機器開発を中心としたエレクトロニクスメーカーである。
他にも新薬の研究、私立校経営、飲食店経営と幅広く手がけているモンスター企業でもあり、それらを取り仕切っているのが日本きっての財閥・
おもに医療研究、機器開発に力を注いでおり、病院に設置されている医療機器は国内シェアの大半を占めるほどに成長を遂げている。
『MAMIYAは
そんな謳い文句が横行するほど、最先端技術に特化した研究や医療サポートを世に広めているため、MAMIYAに向けられる世界の注目は篤かった。
会長の名は
長年連れ添った内妻にも先立たれており、葬儀は財閥に似合わないほどにひっそりと、身内だけで済まされた。
残された財は海外在住の息子夫婦、その長女の叶子。そして格親族が相続した。
――鈴道が死んだ今も、MAMIYAは健在である。
愛宮の孫娘・叶子――愛宮邸に在住。現在、愛宮グループが経営する
愛宮グループは表の顔も然ることながら、アンダーグラウンドでもその名を轟かせていた。
アングラ住人たちとの交流。企業の裏の顔。巨大企業として発展するからには、影で支える者の泥仕事が必然とされる――いわば影の協力者のことだ。
アンダーグラウンドの世界において、愛宮が特に目立った動きを見せているのは他の業者も周知。
だが、その詳細は不明。よけいな首をつっこめば、無事じゃ済まされない。それがこの世の鉄則。
事業について語るなら、規模の大きさと黒き策略の濃さは比例する。綺麗ごとの数だけ寿命を縮めかねない世界がそこにはある。
人体実験まがいの噂も囁かれているMAMIYA。
研究という名目で、裏では派手な臨床実験をしているとの噂だ。それだけ多くのデータが収集され、多くの血と涙が流れている。が、確証はない。あくまで噂の
派手な臨床実験――それが死んだ愛宮頭首の独断によるものなのか、または暴走した社内派閥の一人歩きによるものなのかは、一般人には答えに行き着くのが難しい。
愛宮が手がける企業の中にはMAMIYAという顔がある。主に医療、薬品、サイバー技術等の研究で活躍している。
世間に対するMAMIYAのキャッチフレーズは『あなたの医療のお手伝い』。
企業にとって、イメージとは立派なライフラインだ。
裏社会の人間の中にもMAMIYAと関わったものが多々いるものの、多弁の量だけ心臓に穴が空きかねない。
裏社会にとって、MAMIYAの内部情報はレアだったが、所持すれば危険が伴うのでワリにあわない。
それ故、MAMIYAの裏仕事を嫌がる者さえいる。
それを無難という者もいれば軟弱者という者もいる。考えは人によりけりだ。
無論、情報を入手したところで使い方を誤れば先が見えている。
アングラ住人はMAMIYAに神経を尖らせていた。
どこにデッドラインが引いてあるのか把握できない――それがMAMIYAグループなのだ。
60歳が子供扱いされる世界がある。政界、財界などは特にそうだ。80歳などまだ現役の戦士。そういう世界。
今回の頭首の死亡に首を傾げる者も多々いたが、世間だと81歳という年齢は高齢に映る。それを前に死因については誰も深く追求しなかった。
皆、MAMIYAが機能していればそれでよいのである。
それは社員に限ったことではなく、裏社会に生きる者も同じ意見だった。
裏社会に薄情という言葉は似合わない――鈴道の死はそれを証明した。
愛宮邸
わたし咲羅真御殿は、相方の焔衣狐姫をつれて愛宮邸に来ていた。
愛宮邸――おもにMAMIYAグループの血縁者、ならびに従業員が出入りする愛宮所有の屋敷。広大な敷地面積をほこる屋敷は緑で覆われており、芝生には無造作に並べられた飛び石が来客の美意識を芽生えさせてくれる。巨大な黒鉄格子の正門。そこから建物に到達するまでは目の保養にもなって、悪態の強いアングラ住人でさえ好印象を受けると聞かされている。
実際、わたしも愛宮邸の華やかさには胸を打たれる部分があった。
『MAMIYAの秘密だと? よし、教えろ』
狐姫とふたりきりの応接室――狐姫が「MAMIYAってなんだ?」と聞いてくるので親切丁寧に解説した。
「事情を話せ」とせがむから説明したのに、聞き終えた途端「うわ~興味ねぇ~」とつまらなさそうな態度を見せる。狐姫は応接室にわたしだけを残し、ひとり出て行ってしまった。やれやれ、すぐこれだから。
「ふぅ、興味のない話は10秒と持たないんだから。
もう少ししっかりしてもらいたい。と、苦笑いで肩をすくめた。
ここで日本の歴史を振り返る。
2020年――東京オリンピックの年、とある事件が引き金となり大規模なサイバー戦争が勃発した。
NSA(米国国家安全保障局)はこれを『サイバーストライク』と命名、全世界に向けて対策案を打ち出し戦争に参加する。目的はサイバーテロの撲滅だった。
世界中のエンジニアが強制的に戦争に借り出され、死亡者の数は惨い数値を記録。
過酷な対応に追われた人類だったが、その結果、このサイバー戦争は短期間で幕を下ろした。
だが、このサイバーストライクが原因で、企業のほとんどのデータベースならびに技術情報が致命的打撃を受け消滅してしまう。
サイバーストライクの傷跡は深く、もちろん日本も例外ではなかった。
サイバーストライクにより、世界は10年ほどネットワーク技術の進行に遅れを生じさせたが、この14年で遅れを取り戻し、荒れた都市もすでに復興が終了している。
IoT(モノのインターネット)――自家発電や無線を駆使した家電操作といったスマート時代は利便性もあり、人々にすんなりと受け入れられた。楽することを覚えると堕落してゆく。が、急ぎ足ばかりじゃ疲れる。ゆるい時間も必要だ。
時代の進化を妨げた戦争 サイバーストライク――今となっては昔話。皆、ちゃっかりスマート生活を満喫している。
ネットワーク技術がメインとなった現在でも、草木が作り出す光景は人々の心を和ませてくれる。生物は自然と離れては生きられない証なのだと思わずにはいられない。
戦争でコンピュータが眠っていた時間、人々は手を取り合い、命をつないでいった。
町はドラム缶で焚き火をする人達で溢れていたが、戦争が静まるにつれ、徐々に復興を遂げてゆく。食べ物を分け合い、住む場所を提供し合い、そうやって笑顔の数を取り戻していった。
コンピュータに頼らずとも人は生きてゆける。電子の力はサプリ代わりでいい。人類の主食じゃない。
インフラが死んだ世界で、自然に抗わない気持ちが大いに役に立ったのだ。
サイバー事情も結構だが、自然の力なくしては全ては成り立たない。それを教えてくれた戦争でもあった。
「――自然に関して言えば、愛宮邸は問題なさそうね。豊富な緑に覆われているのだから」
いく本もの丈夫な石柱でささえられた屋敷は、ローマのボルゲーゼ美術館を横に引き伸ばしたような造りをしており、見るものを飲み込む威圧感がある。
広大な敷地内には青々とした芝生がたくさん茂っていて見るものを和ませるものの、これからの季節は手入れが大変だろう。夏になる前は植木職人で賑やかになりそうだ。
某国貴族の自宅のような優雅さも兼ね備えていて、ちょっとしたセレブ気分に浸れるけれど、もっぱら一般人より”ワケあり人間”のほうが足を踏み入れるケースが多いらしい。
以上が報告書に記載された愛宮邸の情報である。
赤いカーペットが続く廊下、等間隔に設置された大きな窓から日が差し込み、照明をつけたかのように建物内を照らしてくれる。
分厚い扉の向こうでは緊急会議中だ。
「わたしが取り付けたアポイントの直前に開かれた会議。それが長引いているために、狐姫と一緒に応接室で待たされるハメになったんだっけ。会議終了までもう少し時間があるわね」
わたしは自社と連絡を取るため、携帯端末を片手に応接室から出た。
広くて長い廊下の片隅。周囲に気を使い、小声で通話をする。
「――わかりました。後ほど折り返します」
必要最低限の連絡だけを済ませて電話を切った。会議室から出てきた集団と鉢合わせたのはその時だった。
屋敷内に設けてある会議室は、もっぱら役員が使用する場所。各企業の重役をメインとした全社総会が頻繁に行われており、それぞれの管轄に所属する人物が顔を連ねていた。みな紳士のように振舞って入るが、サイボーグのように冷たい瞳の者、ソファの上で偉そうにふんぞり返る者、腹の中が全く読めない者までおり、重役も多種多様である。重役の中に、その筋の著名人まで出席していたのは驚きだ。
会議室の前を横切る際、著名人の何人かとすれ違った。
中年男性が群れを成してこちらを一瞥する。
「こんなガキに宗盛さんはお使いを頼んだのか? MAMIYAも落ちたものだな。ハハハッ」
開口一番がこれだ。まあ、いつものことだけれど。
せせら笑うもの、軽い暴言を吐くものはおろか、こちらの体を舐め回すような視線を送り、「最近の子供はいい体してるじゃないか。よかったら今夜、どう?」と、でっぷりと腹の出た男が卑猥なセリフを吐いくる。おまけに名刺を差し出してきたりもした。
それに対して無言で会釈すると、背筋をのばしてそのまま歩き出した。こちらも暇ではない。冗談に付き合ってなどいられない。
わたしの態度を前に、お偉たちは自分の取った行動に羞恥をおぼえたのだろう。
「ガキのくせに……!」
と舌打ち、奥歯をギリリとかみ締めた。歳は違えど精神的にわたしのほうが大人だ。
狐姫がいなくてホッとする。『今夜どう? だと? なにがどうなんだ!? 夜まで待てねえな! ここでフルボッコにしてやんよ!』といった声が脳裏に浮かぶ。クライアントに殴りかからないか心配だ。
お子様な狐姫のこと。卑猥な意味を理解できずとも、会議室でたちまち大乱闘を始めてしまうだろう。意味を知ったらどうなることやら。セクハラオヤジの尻に、蹴りの5~6発は入れるはずだ。わたしにも突っかかってくるほどの威勢の良さだもの。
わたしは柱の影に隠れると、会議室から出てくる人物を一人一人、高性能監視カメラのように遠目でチェックする。
MAMIYAに直接関係のない人物も紛れているが、ほとんどが大手メーカーの代表ばかりだ。
『先生』と呼ばれる方々。つまりは政界人まで出席していたことに少々驚きを覚える。
「あれは確か厚生省の重役……すごい面子ね」
会議室から出てきては空を睨みつけるように立つ初老の男、鴨原稔。白髪交じりの中肉中背、無表情でいかつく、なにを考えているかまるで見当もつかない。
「鴨原氏もMAMIYAの関係者? 報告書には彼の名前は無かったはず」
遠くからの監視だったが、気づけば鴨原がこちらを睨みつけてた。まるで情報が筒抜けのよう、ピンポイントで視線を送ってきたような気がして背筋が凍った。
わたしは慌てて目をそらし、通路の柱に身を隠した。
多くの年配者が出入りする中にひとり、ヘアバンドをしたロングヘアの少女はいた――愛宮のご令嬢、叶子。まわりが中高年ということもあり、10代の若さがいっそう初々しさを際立たせていた。
先日から愛宮邸に出入りしていたわたしも、何度か愛宮叶子と接触している。
すれ違いざま、お互いに会釈をする程度ではあったが、彼女に対する印象は2つあった――ひとつは物静かな文学少女のように儚げで清楚なイメージ。ふたつめは澄ました顔で他者との距離を置く孤高のイメージ。
他者との距離をおくのはわたしも同じだ。暴力祈祷師という仕事柄、周囲の無関係な者たちを巻き込んでしまう危険性。そして気を許すと死をまねく危険性――この2つは、危険な場所に身をおく者なら誰しも勝手に備わるもの。おのずと周囲のものを遠ざけてゆく。
もっともご令嬢の気持ちなど、傭兵まがいのわたしには理解できそうもなかった。お嬢様の私生活とやらを想像してみればいい――危険な場所では常に警護がつき、朝昼晩とテーブルに豪華な料理が用意されている。カップが空になればメイドが紅茶をそそぎにくるのだろう。銃撃戦に怯えることもなく、相手の返り血を浴びることもないのだからお気楽である。
別に嫉妬しているわけではない。叶子の生活は、かごの中の鳥を意味している。自由がないのも考え物だ。
姿勢を正して歩く令嬢――わたしはしばらくの間、それを遠くから見つめていた。
(あの年齢で重役相手にミーティングをしていたの? それとも、ただ重役たちの話に耳を傾けていただけ? どちらにせよ大した器ね――)
愛宮叶子の貫禄を前に警戒心が生まれ、瞳に映る彼女の姿に身を引き締めざるをえない。気のせいだろうか、彼女からは血生臭さを感じた。
広大な敷地内。緑の庭に目を向ける。
手入れの行き届いた草木は、見るもの心を穏やかにしてくれる。
緊張感をほぐしてくれる光景は誰が作り出しているのだろう。人か、自然か。なんにせよ視界に入る緑が美味しく感じる。
「絶景ね……」
たたずむわたしの背中に声がかかった。
「あら? お客様かしら?」
「――!?」
ボケッとしていたから気づかなかったのか、振り返るとひとりの女性が立っていた。軽作業用の汚れた軍手で麦藁帽子をつまんで取り、ゆっくり近づいてくる。
やや病弱そうに見えるボディライン、だが肌ツヤはよい。小川が流れるようにウェーブがかった長い髪。糸のように細い目が少しとぼけた印象を与えてくる。それが前髪で見え隠れして、いったいどこに視線を送っているのか分からない。肌の質からすると20代半ばから後半。白いブラウスには縦中央にフリルがあしらわれており、上品さを醸し出している。足首よりやや上まで伸びたロングスカート。とてもじゃないが軽作業の服装とは思えなかった。
(まったく気配を感じなかった。一体何者なの?)
庭師だろうか? 従業員リストには登録されてない顔。報告書にもなかったはずだ。
「ふふ。はじめまして」
先に挨拶してきたのは麦わらの女性からだ。子供のような屈託のない笑みに、警戒心も薄れてしまう。
「はじめまして」
わたしは姿勢を正した。
脇に置かれた大きなビニール袋に刈草が詰め込まれている。どうやら草むしりをしていたようだ。
麦わらの女はわたしの横に並ぶと、一緒になって庭の緑に目を向けた。
「どう? このお庭。綺麗でしょう」
「ええ、とても。手入れされている方の心が映し出されているようです」
笑顔の相手に笑顔で返す。すると相手は少し驚いたように顔を上げた。
「ほお、若いのにそこまで分かりますか。なかなかの洞察力をお持ちのようですな」
照れながら後頭部をかいている。誉められた子供みたいだ。「自分がやりました、もっと誉めて」的なアピールだろう。
適当に話を合わせただけ、とは口が裂けても言えなかった。けれども温かみある庭というのは本当だ。
少しの雑談の後、麦わらはこちらに目を向けこんなことを言ってきた。
「人当たりも良し、人格も伴っている。それに美人よね。男は放っておかないでしょうに」
「いえ、そんな」
「ウソだあ~。男に誘われても気づかないタイプでしょ? 絶対そうよ、だって背が高くてオッパイ大きくて美人だもの」
わたしは照れ隠しに頬を染めた。色恋沙汰には興味がない。が、ほめ殺しに慣れてない。「美人」という言葉より「邪魔だ」「死ね」「殺す」といった類の言葉をよく受けるので、どういう対応をしたらよいものやら。あと、胸は重くて邪魔なだけです。夏は蒸れるし、とても必須部品には感じません。
突如、会議室のほうが騒がしくなり、そちらに目を向けた。
「――ふむ。全社総会が終わったみたいね」
会議室のあたりを遠目に見る麦わらに質問をぶつけてみた。
「あの、失礼ですが愛宮の関係者の方でしょうか?」
すると相手は、照れながらドロのついた軍手で鼻をポリポリとかいた。とたんに鼻が茶色くなる。
わたしはハンカチを取り出した。
「鼻に泥、つきましたよ?」
「あ~、あんがとあんがとっ」
プランターで麦わらの両手がふさがっていたので、茶色くなった鼻を拭いてあげた。
鼻を差し出す仕草がますます子供みたい。幼稚性を感じさせて微笑ましい。
甘え上手。おそらくは年上だろうけど、母性本能をくすぐるタイプのようだ。だが不法侵入ならつまみ出さなければならない。こちらも仕事ですので。
庭いじりしているワリには、キメの整った質感。聞けば「園芸はただの趣味」とのこと。趣味も手伝ってか、こうして定期的に愛宮邸を訪れては手入れに没頭しているらしい。
麦わらが両手に抱えたプランターを差し出す。
「会議に出るよりこっちのほうが大切だから……サボっちゃった」
てへへ。無邪気に微笑んではプランターを見つめて大事そうに抱え込む。まるで宝石を持って歩くかのように。
よほど植物が好きなのだろう――麦わらの行動に尊敬の眼差しを送った。植物を大切に想う気持ち、嫌いではない。そんな思いもあり、まずはこちらから名乗ることにした。
「はじめまして、わたくしは――」
「知ってる。咲羅真御殿さんでしょ? 2階にいるブロンドの子は焔衣狐姫さん」
よくご存知で。。どうやら関係者のようね。それもかなりの重役レベル。というか、狐姫は2階で何しているのかしら。あまりチョロチョロ動かないでほしい。
「私は愛宮
少し鼻を高くした言いっぷり。愛宮の偉大さを自覚している態度だ。茶目っ気感があるのが説得力に欠けて、それもまた可愛げがある。とはいえ、愛宮の血を受け継ぐ者であることに違いはない。その血に野獣を秘めている可能性のある人物だ。
若年の叶子に代わって議会に出席したりしているようだが、根が子供っぽいので議会に興味がないらしい。
そんな楽天的なところにも愛嬌があり、周囲には敵対するものもいないようだ。もっとも舐められてるだけのようにも思えるけど。
菫さんの専攻は分子生物学。海外の大学院を経て日本に戻ってきたらしい。その後、日本で職に就いたようだ。
今回、愛宮鈴道の一件でちょっとした騒動に見舞われたようだけど、愛宮では番狂わせがよくあるらしい。今週も多忙な生活を送っているとのこと。
わたしは菫さんの抱えるプランターを見つめた。中から淡い緑色の茎が伸び、可愛らしい笹型の葉っぱを携えている。うつむいた緑の蕾が実っているが、アーモンドほどの小ささ。なんの蕾だろうか?
土もただの茶色ではなかった。肥料が入っているのだろう。ちなみに栄養のある土には蟻がたくさん住むそうだ。虫は正直者である。
自然は奥が深いなあ、などと小難しい考えを巡らせる。けれど、理科には一切興味がない。
蕾を見ながら難しい顔をしていると、それを察した菫さんが口を開いた。
「カサブランカ――白百合。配合種」
「……白百合? 全然白くない蕾ですね」
緑の蕾。これが純白になるというの? 首を傾げると、菫さんが答える。
「これから花が咲くの。7月くらいかなぁ。でも今年は暖かいからもっと早く咲くかも。きっと立派に育ってゆくはずよ」
「楽しみですね」
土の中央に芽生えた小さな命。開花。きっと綺麗な花を咲かせることだろう。白百合なので、きっと全身真っ白で穢れの無い姿を見せてくれるはずだ。
わたしは菫さんと笑顔を返しあった。
菫さんは白百合のタンプラーを地面に置くと、わたしの手を取った。軍手の下は透き通るような白くて細い指。質感もやわらかく、人間性がにじみ出ていた。
「どれどれ――」
「あ、あの……」
突然の行動に焦りの色だって顔に出てしまう。反応に困り、目が泳いでしまう。
菫さんは困惑するわたしを気にもせず、掴んだ手を離さない。指先一本一本をつまんだり、しまいには摩ってくるではないか。
一般人にはわたしの姿は女性に見えるはず。つまり――
(そっちの性癖の人だろうか?)
隅々まで確認されているような感じがして少し引いてしまう。同性愛には寛容なほうだと自覚している。が、いくらなんでも触りすぎ。とはいえ、やらしさを感じないのは菫さんの真剣な眼差しを目にしたからだ。
まるで宝石を扱うように、白百合と同じように丁寧に、この手を観察しているのだ。魔族相手に引き金ばかり引いてきたこの手を――。
「うん、白くて綺麗な手をしている。お母さんに感謝しないとね」
「――はい」
わたしの顔から笑顔が消え、菫さんから目をそらした。
わたしには親はいない。生みの親など知らない。ずっと、独りだ――。
その後の雑談もほどほどで終わらせ、わたしは踵を返して応接室に戻る。
振り返らない、わたしの背中――笑顔の菫さんが遠慮がちに挙げた片手を振り続けていた。そんなことも知らずに。
レースのカーテン
応接室に御殿を残してきた狐姫は、後頭部で手を組みながら愛宮邸をうろついていた。
「つまらない話は聞かないに限るぜえ~。そんな時間があんなら昼寝していたほうがよっぽど健康にいいよなあ」
へらへら笑いながら2階へ続く階段をあがる。
「ここが2階か。どこまでもカーペットが続いているな。本当に広い屋敷だぜ」
長い廊下の片隅にテラスへと続く大窓を見つけた。
探検がてら屋敷内をウロチョロしてたが、時間潰しにも飽きていた。カーテンロールの片隅に手ごろな場所を陣取り、両腕を組んで窓際にもたれかかった。
「ふむ……」
全身の力を抜いて静かに瞼を閉じる。
窓からそそぐ日の光のなか、木々のささやきに耳を傾ける。
人間離れした狐姫の姿。そこには獣人のおぞましさなど微塵も感じさせない。毛穴一つ見当たらない透明感あふれる肌は、シルクをまとった穢れ無き天使のよう。ただのブロンド美少女で終わらないあたりが、やはり人間とはかけ離れてる存在なのだ。
サワワ……
サワワ……
庭で揺れる緑が唄うたび、キュートな耳がピコピコ動く。
騒がしさを忘れた空間。静かに流れる時間。ご満悦。
「このまま鼻ちょうちんでもかまして眠ってやろうか。いや、立ち寝姿でヨダレを垂らすのもハズいよな。近所の屋根瓦で寝転がろうもんならオス猫が体に乗ってくるし、俺の部屋にまで入ってきて安眠の邪魔をしやがる。俺の安眠はもっぱら御殿の寝室に限るぜ」
人の寝室で昼寝。それを見かねた御殿がうるさい時期もあった。男がどうとか女がどうとか渋っていたが、ゴチャゴチャうるさいので無視してゲームしていたんだっけ。以来、御殿は何も言ってこなくなった。どうやら諦めたらしい。
廊下には等間隔に窓が設置されており、バルコニーに出られる。
(ん? 誰かいるのか?)
狐姫の場所からバルコニー2つ分離れた窓枠に人の気配を感じた。興味があるわけじゃない。ただチラリと見たいだけだった。
狐姫の目に飛び込んできたのは2人の少女。ひとりは愛妃家の制服、もうひとりはメイド服に身を包んでいた。互いに見つめあい、指を絡めている。そんなシルエットがレースのカーテン越しに見えたのだ。
(あんなところで何してんだ?)
先ほどまで気にも止めない狐姫だったが、少女ふたりの寄り添う姿が気になり、しばらく目を離せないでいた。
指と指をからませているのに、触れているのに、それ以上近づかないでいる。互いを求めているのに相手にたどり着けないもどかしさ。叶わぬ想い。ふたりの人魚姫――狐姫の目にはそう映った。
ふたりの少女が放つ悲しい雰囲気が痛々しく見え、狐姫の胸をキュンと締めつける。が、「俺らしくない」と頑なにそれを否定する。
自分がセンチメンタルに浸るキャラじゃないことはわかっている。つーか、我ながら覗き見なんてキモい。そうは思っても、なぜだろう? 狐姫の視線はふたりの少女へと向いてしまうのだ。ふたりの行く末が気になって仕方がないのだ。いやしい野次馬な自分に嫌気がさしながらも、体は正直だねと苦笑する。
チラリ。
ふたたび狐姫が横目を作った時だ。ふわりと目の前のカーテンが揺れ、視界を遮った。それを合図にハッとして頬を染めて目線を落とす。
(いつまで覗き魔しんだ俺、アホか……)
視界を邪魔したカーテンは、まるで映画のカチンコのよう。撮影を終えた女優ふたりは、既に狐姫の視界から消えていた。
何故だか、ふと御殿の姿が頭に浮かんだ。心の底で誰かのぬくもりを求めていることに気づく。
「アホか、俺……」
目覚ましがわりに両手でわしゃわしゃと顔をこすった――。
執事とメイド
わたし咲羅真御殿は、紅茶の香り漂う応接室にいる。狐姫はどこをほっつき歩いていることやら。
広さ20畳ほどの空間に英国製のインテリアが並ぶ。つつましいシャンデリアが部屋を申し訳ないていどに照らし、暖かみある照明が緊迫する空間を和ませてくれる。部屋の明かりが安らぎを生み出し、訪れる客人をもてなす心意気が感じられた。
老眼鏡の白髪執事とテーブルを挟み、向かい合うようにソファに腰をおろす。
「咲羅真さま、こちらからお呼び立てしたのにお待たせしてしまい申し訳ございません」
「お気になさらないでください。きれいなお庭も拝見できましたし、美味しい紅茶も堪能させていただきましたので。会議の話はなかったことに――」
「そうおっしゃっていただけると幸いに存じます」
会議が長引いたことを謝罪してきたが、屋敷に出入りする人物の顔が拝めたので収穫はあった。会議出席者に関する情報提供にも協力的であり、なんの問題もない。
わたしは目の前にいる白髪のクライアントに視線を移した。
(格闘術をかじっている?)
九条様の肉厚の胸板を見逃せなかった。脇が膨らんでいるので銃を所持しているとも考えたけど、そんな不自然な膨らみではない。明らかに筋肉だ。
執事たるもの、用心に備えて鍛えていても不思議はない。ちなみに狐姫は九条様のことをセバスチャンと呼んでいる。本当に失礼だからやめてほしい。
そろそろ本題に入る。
数日前、屋敷の従業員が突然意識を失った――いっこうに目覚める気配もなく、途方に暮れていた九条様は、近ごろ頻発している意識不明事件に着目。不可思議な現象ということで警察はおろか、誰も真剣に取り組まないであろう今回の事件。アンダーグラウンド内で有能な人材を探していたところ、わたしが所属する会社にたどり着き、藁にもすがる思いで連絡をとったと社長から聞かされている。
今回調査を担当するのは、わたしと狐姫。
愛宮邸曰く、もっと腕っ節のよい男が欲しいとのことだったが、事前に用意していた愛宮邸ボディーガードの関節をきめてしまう姿に惚れこんでくれたようだ。後ろ手に押さえ込んで倒したボディーガードの後頭部に銃口を突きつけなかった態度も、クライアントに対する礼儀が感じられて好感が持てたらしい。わたしが人間相手に銃口を向けることはほとんどない。無論、悪魔には容赦しない。
――こうしてわたしと狐姫は調査を任されることになった。
「先日のご無礼をお許しください」
と、九条様から謝罪のお言葉をちょうだいする。わたしはさらりと控えめな笑顔で返した。
「お気になさらないでください。この業界ではよくあることです」
傭兵相手の面接試験などめずらしくもない。暴力沙汰には慣れっこ。
工場跡から帰還したわたしと狐姫は、九条様から「従業員が目を覚ましたので来てほしい」との報告を受けた。今日はその件で駆けつけたってわけ。
「エクソシストですか。まだお若いのに心強い……」
九条様が笑みをこぼした。
それに対し恥ずかしそうにうつむく。わたし、まるで子供のようだ。誉められるのは悪くない。役に立ってるようでまんざらでもない気分だから。
わたしはカップの紅茶をすすめられ、それを口にする。
シャンパンのようなさわやかな風味が鼻腔を抜けていく。それが何とも心地よい。
(ダージリン、セカンドフラッシュか。うまくブレンドされてるなぁ)
と、瞬時に悟った。ほのかな甘みやバランスのとれた渋み、淡い瑠璃色、ウンチクを並べればきりがない。状況が状況だけにゆっくり味わってもいられないのが残念でならない。
緊張に身をおいてしまうと、食事を味わう楽しみすら感じられないのが生物だ。
(せっかくの高級茶葉なのに勿体無い)
しぶしぶカップをソーサーに戻す。
(事件がひと段落したら、ゆっくり美味しい紅茶でも飲もう)
げんなり感は表情に出さない。いろんな感情が入り混じるが、ポーカーフェイスには慣れていた。表情筋が乏しい、と狐姫からよく言われている。
わたしは用意しておいたA4の封筒を取り出した。
「――これは、ある廃墟で撮影した写真と報告書です。目を通して頂けますでしょうか――」
紐を解いて中から取り出したのは、昨夜工場内で撮影したばかりの写真と現場の状態をまとめた報告書。
「ほお、廃墟ですか――」
それらを九条様はテーブルいっぱいに広げて見入った。老眼鏡を上下させ、写真を手に取り一枚一枚をジッと見比べる。時折、眉をしかめたりもした。
こちらが経緯を説明すると、おだやかな紳士の表情が曇った。
「この陣のようなものは、なにかの儀式でしょうか?」
「お怪我はございませんでしたか?」との気づかいが、執事長たる所以なのだろう。相手を包み込むような瞳の温かさから察するに、本心であることには違いない。本来、アングラ要員なんて捨て駒である。わたしの代わりはいくらでもいる。けれど、そんな何気ない気づかいをする九条様の人柄が、わたしの中に好感を生むのだ。
「お心づい感謝いたします。わたくし共は無事なのでご心配なく」
淑女のように胸に手を当てゆっくり頭を下げる。『わたし』ではなく『わたくし』と言っちゃうあたりが立派な大人の対応。常日頃からクライアントに対して無礼のないよう、社長から言い聞かされている。
陣を破壊した際にプリズムが舞った。それがきっかけで意識を取り戻した人がいるのでは? との推測を九条様に告げた。
九条様はさらに写真に食い入る。
「何のためにこんな儀式をしているのでしょう?」
「まだ詳しい事はわかりませんが、悪魔崇拝の類が関係しているかもしれません。宗教が絡むと公安も動きにくいでしょうから、わたくし共で宗教関係も当たってみます」
「ふむ……」
九条様はため息混じりで髭をまさぐり、天井を見つめていた。なにやら考え中のご様子。
そう察したわたしは、余計な口を開かなかった。
「……」
「……」
「ふむ……」
九条様は無言を破り、ふたたび視線を写真に戻した。老眼鏡を上下に揺らす仕草にこの上ない真剣さがある。
それをしばらく見つめていたわたしだけど、ひとつ気になっている事がある。
「意識不明の従業員がお目覚めになられたとお聞きしましたが、その方はもう歩けるのでしょうか?」
「はい。アレはまだ若いですからね。昨日の今日だというのに、もうピンピンしてますよ。今こちらに向かわせましょう」
わたしは慌てて引きとめた。
「あ、ご無理はなさらずに」
「山を越えてくるわけではないから、大丈夫ですよ。あの子はもう業務に戻っておりますので」
ふぉっふぉ、と笑顔をつくって受話器を手に取る。
九条様の笑顔を見て、ひとまず胸をなでおろした。本当のところ被害者本人からも当時の事情を聞きたい。とはいえ、病み上がりでもあるから事情聴取は控えたほうがよさそう。愛宮邸に訪れたのは、『彼女』の容態を見に来たという理由もあるが、無理をさせては本末転倒。後日、改めて事情を聞かせてもらおうと思っていた。その旨を伝えようとした、その時だった。
――コン、コン、コン。
扉をノックする音が部屋に響いた。静かに、少し弱々しい、そして間隔が広いノック。物静かで繊細な心の持ち主のようね。
「どうぞ」
九条様の一言の後、
「失礼いたします……」
ひとりのメイド姿が入ってきた。
わたしは彼女の姿を見て息をのんだ。一言でいえば聖女だ。
「お呼びでしょうか、執事長」
入ってきたメイドと目が合い、わたしは軽く会釈を交わした。その真っ赤は瞳は宝石のようでもあった。
扉の前に立つ少女――まだ10代だろう。サラリとした質感を持つクリーム色の髪。長い髪をシニヨンにまとめている。異常に整った顔立ち。人間離れした透明感ある肌に、絵画から飛び出してきたかのような違和感を覚えた。恐らくはすれ違う誰もがこの聖女に目を奪われ、振り返るはずだ。病み上がりだろう、色白の肌は健康というより病弱のそれに近い。なにより、やはり真っ赤な瞳は印象的だ。充血のそれとは違う、生まれ持った深紅の瞳。おっとりとした口調からは育ちの良さが感じられた。
あれこれ考えていると、九条様が少女の体を気づいながら自分の隣へ座らせる。
「さあ華生、とりあえずここに座りなさい」
「はい、失礼いたします」
と、こちらに一礼。わたしも軽く会釈を返す。着席する聖女の礼儀正しさに好感を覚えた。
「咲羅真さま、ご紹介します。この子の名は
愛宮邸に引き取られて以来、愛宮叶子とは時同じくして育った幼馴染でもある。とはいえ、四六時中行動を共にすることはない。叶子の世話役としての業務にのみ準じており、敷地内であっても挨拶程度に留まっているので、特別に親しいわけではないようだ。
愛宮家からの薦めで進学するよう華生に話してみたものの、本人は従業員として働くことを強く希望したため、愛宮家は華生の意思を尊重した。
勤務態度は至って真面目で、気づかいも行き届いている。温厚な性格もあってか、周囲の人間とも上手くやっているようだ。決して活発ではないものの、持病もなく健康状態は良好とのこと。
過労が原因で意識を失ったかのように思われていたが、眠り続ける華生は尋常ではない速度で日に日に衰弱していった。それが宗盛に行動を起こさせたのだ。
だが事態は一変。昨夜、華生は公園のベンチで倒れていた。発見したのは愛宮邸の警備員。華生は保護された後、何事もなかったかのように目を覚ました。
――それが数時間前のことだ。
(不可思議なことが重なっている。王子様に口づけされた白雪姫は、あっさり目を覚ましたとさ。めでたしめでたし……とはいかないかもね)
小さな地震が大きな地震を誘発させることがある――わたしは疑惑を抱いて目を細めた。不安を煽ってくる直感、それを振り払うような険しい表情をしていたと思う。九条華生は目を覚ました。いい方向に向かっているはずなのに、わたしにはそう思えなかったのだ。
九条様が華生さんの顔を心配そうに覗き込んだ。
「意識を失う前に何か変わったことは無かったか?」
「変わったこと、でございますか? そうですね……」
義父に問われた華生さんは、当時の記憶を辿るように天井を見ながらポツリ、またポツリと呟く。
わたしははそれを無言で見つめている。
「そういえば仕事中、日に日に体力が無くなっていく感じがしました。まるで少しずつ、筋肉を削り取られていくみたいに、そうしているうちに立っていられなくなって、それでわたくし――」
途切れ、途切れ、説明を続ける。
「それで、意識を失ったのか?」
「――はい」
なるほど。時間をかけて衰弱していき、ついには意識を失ったようだ。
申し訳なさそうな華生の態度が、温厚な性格を醸し出していた。周囲に迷惑をかけたのだと反省し、自責の思いが周囲にも伝わってくる。
そこでわたしが口を挟む。
「目が覚めたのは深夜だったとお聞きしましたが?」
「はい。門の前……、正確には公園のベンチで保護された後、寝室に運ばれたとお聞きしております」
「愛宮邸前の公園?」
「はい。屋敷内、宿舎にある自室のベッドで目が覚めて、そこでは誰かがベッドの脇で泣いていた気が……」
そう口にしたとたん、華生さんはハッと口を噤んだ。が、わたしはその奇行を見逃さなかった。
ベンチに寝かされていたのは腑に落ちない。なぜベンチで倒れていたのだろう? 夢遊病というわけでもなさそうだ。
「誰かが泣いていた」――誰かとは誰だろう? 九条様ではなさそうね。他に親しい人間でもいるのかしら?
言いたくないこともあるでしょうし、あえて突っ込まずに別の質問をする。
「深夜の何時位に目が覚めましたか?」
「確か……、午前2時前くらい、だったと思います」
「午前2時前か……」
わたしはうつむき、考える――午前2時前といえば、狐姫と廃墟にいた時間だ。でもって、崩れた天井に煎餅みたく潰されそうになったのを思い出した。
しかし、問題はそこじゃない。
(廃墟からの退避直前にやった事があったはず――)
足で陣を消す行為――それを思い出した後、ゆっくり立ち上がり華生さんに視線をうつす。
「事情はわかりました。今日のところは失礼いたします。日を改めてお話を聞かせていただけますか?」
「え、はい……、わたくしでお力になれればよいのですが……」
華生さんは胸を撫で下ろすように言葉を吐ききった。
それを見て、やはり華生さんは何かを隠している、と改めて思った。
「九条様、それでよろしいでしょうか?」
「我々は構いません、この子がそれでよいと言うのなら……」
そう言って九条様はソファから立ち上がる華生さんの手を握った。両者とも愛宮邸に来てから時間が経つ。養子縁組とはいえ、目の前のふたりには血よりも濃いものがかよっていると感じた。
「華生さん、お大事にね」
「お心づかい感謝いたします」
向けられる華生の笑顔――力ない笑顔ではあるが、少しずつ元気が戻ってきているようで安心した。
学び舎
華生さんが退室した後、わたしもドアノブに手をかけ部屋を出ようとする。
「ああ、お待ちください咲羅真さま」
そこで九条様に引き止められた。
「はい」
振り返ると、九条様が戸棚からA4サイズの封筒を取り出すではないか。
「これをあなた様に――」
差し出された封筒には『愛妃家女学園』と明記されている。
学園指定の専用封筒――MAMIYAグループは学校経営もしている。
分厚い封筒には何が入っているのだろう。前金は口座に振り込まれているし、残りの支払いはタスク完了後だ。となると……?
九条様から手渡された封筒の中身を覗き込んで硬直してしまった。何枚かの書類と手帳らしきものが2冊づつ入っている。学園案内のしおり、契約書、それに生徒手帳――嫌な予感しかしない。
「生徒手帳と入学手続き……?」
口にした途端、ハッとした。まさか――!
「せ、生徒に成りすまして潜入警備……のご依頼、でございましょうか?」
九条様の顔色を伺うように見上げた。内心、予想が外れて欲しいと願っている。
「お察しがよろしいですね、左様でございます」
「左様、でございますか」
その『まさか――』だった。
「咲羅真さま、今回の依頼内容はお分かりですね?」
「現在、聖色市で起きている意識不明事件の原因究明です」
「――左様。今回の件、華生は目を覚ましましたが、まだ問題解決には至っておりませんし、解決までには時間がかかるやもしれません。叶子様は勿論のことですが、学校経営者のひとりとしましては生徒たちの身の安全も考慮しなければなりません。生徒たちの護衛役として誰かを配置につかせたいと考えております」
「お察しします」
額に冷や汗がにじむ感覚を覚えた。
(狐姫には荷が重いかもしれないが、愛妃家は女子校である。男性のわたしが入学した場合、正体がバレれば混乱をまねく。潜入捜査の件は相方に全てお任せするとしよう)
――そう決めていたが、風向きは予期せぬ方向へ。
「承知しました。学園警備は焔衣に向かわせます」
「いえ、ひとりよりふたり。咲羅真さまも含めての依頼です」
「おふたりにお任せしたい」とのカウンターを食らってしまう。わたしと狐姫、セットでのご指名。なぜ?
わたしはすぐさま切り出した。
「ほ、焔衣は我が社が自信を持ってオススメできる人材です。彼女は獣人コミュニティからの人望もあつく――」
「我々MAMIYAも敵が多いのです。戦力もそれなりに増しておかねばなりません。味方は多いに越したことはないのです」
チラッ。九条様の視線。
ビクッ。わたしは肩を震わせた。
なんとかならないかな~。困ってるんだけどな~――その視線が痛い。
指名料を見る限り、なかなかの金額だ。が、やはり躊躇してしまう。
「ま、愛宮邸内で腕の立つ方を学園に配置してみてはいかがでしょう? かなりの逸材を揃えてらっしゃるとお聞きしましたが?」
愛宮邸ボディーガード――警察から退いたシークレットサービスから軍人あがりの傭兵まで席を置いている。そんなドーベルマンたちを庭で飼い慣らすことができ、それだけの人数を揃えられるのは愛宮の成せる技だ。覆面警備員を学園に潜入させるなど造作もなこと。
潜入捜査以外にも護衛手段はある――そう伝えるも、九条様の意見はこうだ。
「いろいろと考えてみたのですが、咲羅真さまはそちらの業界ではなかなかの芸達者とお聞きしております」
「そちら」とは退魔業のこと。「芸達者」とは暴魔相手にランチキ騒ぎをする者として有名だと言っているのだ。不本意ながら暴力沙汰に愛されているのは否めない。信頼されてるのはよいことだが、どこでどんなウワサが流れていることやら――わたしは肩をすくめた。
「制服や備品はこちらでそろえておきましたので後日お送りいたします。なにとぞ前向きにご検討くださいませんか? 御社の了解はとっておりますので……」
「……え?」
半笑いの額からダラダラと冷や汗が出てしまう。回避は失敗に終わった。
すでに社長の了承を得ているらしい。そう言えばさっき電話で社長が何か言いかけてたっけ? 折り返し連絡入れると告げて切ったんだっけ。
用意周到、紳士の笑みの裏にある腹黒さ。外堀から埋めてゆく策士っぷり。前世は孔明かしら?
(生徒たちの護衛か。最初からこれが目的だったの?)
悪魔から生徒を守る任務? 物騒な世の中になったものである。それと同時に「九条宗盛、喰えない男」――そう理解した。
愛宮の庭を彩ろう
愛宮邸庭園。
想夜が両手いっぱいに植物を抱え込んで歩いてくる。
いつものお手伝い。土で汚れた軍手。それで汗を拭っては、顔に茶色いメイクをして頑張るのだ。
「菫さん、このお花どこに植えましょうか?」
「あー、それはね~」
果てしなく続く芝生を見渡しては、いい植え場所を探す。デザインはガーデニングの命だ。
「ふふん。デザインは大切よね――」
町いっぱいに花を咲かせよう。世界を花で彩ろう――それが菫の夢だ。
世界に思いを馳せる者に妖精は寄ってくる。優しい心の持ち主のもとへ妖精はやってくる。嬉しいときも、哀しいときも。妖精はすぐ隣にいる。人間を見守っている。
心優しき人間の波長と妖精の波長は相性がいい。
なので、今日も想夜は菫のところへやってきては、お手伝いに精を出す。
作業の傍ら、雑談も交えて世間話。
「想夜は好きな人とかいないの?」
「ううん、いません」
想夜は静かに首を左右させた。初恋の味すら知らない子。
「若いんだから、さっさと好きな人作ればいいのに。相手の部屋でお楽しみしちゃえ」
「お楽しみって、どういう意味です?」
「え、意味分からないんだ? 13歳だからまだいいけど、このままだとヤバイ。重い女って言われそうだわ、カワイソ……プッ」
「重くないもん、あたし軽いもん」
「そう? 最近お尻のお肉が……お菓子食べ好きじゃない?」
プニプニ――菫が想夜の尻をつまむ。
「重くないもん、あたしお尻も軽いもん」
「その言い方だと尻軽女の異名が付きそうで危険だわよね」
若いうちは言葉を選ぶことも覚えなければなりません。
菫が思い出したように笑顔をつくる。
「あ、そういえば想夜」
「はい」
「明日いいことあるかも」
「え? なんのことです?」
「ひみつうううううううううっ」
もったいぶっている。というより子供のように意地悪っぽく言ってくる。
「えーなになにー? なんですかあ? 菫さん教えてくださいよお~」
愛宮邸の片隅で賑やかな声が響いていた。