14 揺りかごを揺らす手よ、安らかに――


 静寂がフェアリーフォース本部を包み込む。
「……」
 チラッ。
 継紗つかさは額から流れる血を拭い、恐る恐る片瞼を開けた。
 狂うように奇声を発する者もいなければ、声高々に心経を論じる者もいない。
 つかの間の平和が訪れたのは確かだ。

「マ、マデロム隊長?」
 継紗が横たわる巨体の頬をペチペチと叩く。死んでるのではないかとヒヤヒヤしながら、顔色を伺うように覗き込むと……
「う、ううん。うるせーなあ、擦り潰すぞこの野郎……」
 開口一番の恫喝。二日酔いの朝のように、イラついた顔を見せては瞼を開ける。
 ホッとしたとたん、継紗は瞳いっぱいに涙をためた。
「マ、マデロム隊長……」
「お~痛え。ボコボコと人の頭を殴りやがって。おかげでよく眠れちまったじゃねーか」
 むくりと上体を起こし、殴られた後頭部に手を当てている。あれだけ殴られても平然としている。頑丈なことこの上ない。
「もう! 死んじゃったかと思いましたよ! この巨漢! 大酒飲み! 猪ヅラ!」

 バシッ。

 上司の背中を思い切り引っぱたく継紗。&暴言。その後、安堵の涙を拭いつつ、クシャクシャに歪めた顔を両手でおおい、その場に泣き崩れた。


 継紗とマデロムを囲むように、大勢の隊員が横たわっていた。
「人間界の京極がケリをつけたらしいな」
「ウチらの京極隊長ですよ? 絶対解決してくれると信じてましたもん」
 フフンと鼻高々に言う。
「ケッ、本当かあ? さっきまでビビってたじゃねーかよ」
「ビ、ビビッてなんかないですよ。それにウチ、想夜に謝るまでは死ねないんですからね」
「ガキ同士のゴタゴタなんか知るかよ」
 マデロムはワイズナーを手にすると、横たわる隊員たちをまたいで廊下に出た。
 巨漢の後を追うように継紗も続く。


「想夜、無事かな」
 かげりを見せる継紗に横目をやるマデロム。少しだけ吐き捨てるように言葉を発する。

「笑わせるぜ。あの鬼娘がちょっとやそっとでくたばるかってんだ」
 包帯グルグル巻きの腕を見つめ、今度こそはと闘志を奮い立たせる男の姿がそこにはあった。
「今度会った時は、遠慮なくぶっ潰してやっからよ」
 藍鬼と一戦交えながらも生還した男。勝敗はどうであれ、鬼を相手に生き残ったことは強さを誇る証。

「――さて、俺は外の様子でも見てくるか。おまえは本部の中を調べろ」
「わかりました」
 そうやって2人は血なまぐさい場所から出て行く。

 皆の意識がもどる頃、フェアリーフォースはどうなっているのだろうか?
 姿を消した天上人を探す者。
 姿を消した天上人を忘れる者。
 妖精ひと、それぞれである。


聖女の不意打ち


 麗蘭が夢から目覚めた。
 ベッドの上。そこは覚えのある部屋。女子寮内、想夜の部屋だ。
 小さな妖精たちが懸命に看病してくれている。

 傷に響かないよう、老人よろしくゆっくりと起き上がる。
「いつつ……」
 切り傷、打撲、羽の損傷――。顔面からつま先まで、酷い激痛に見舞われた。

「すまんな、感謝する」
 妖精たちに手を添えると、妖精たちはニコリと笑顔を作って麗蘭のうなじ辺りに消えていった。

 黒い巨塔の中、触れ合うくちびる――瞳栖の事を思い出しては、ひとり顔を真っ赤にする麗蘭。
「あ、あれは不可抗力だ! 私は別にっ、何とも思ってないんだからな!」
 布団を乱暴に掴んでは顔を覆い隠した。
「い、いきなりあんなことされたら、誰だってビックリするだろうっ。だ、だって……は、初めてだし」
 握った布団の角で口元を隠しながらの独り言。
「……天上人、か」
 脳裏に浮かぶ白い翼。天から舞い降りし末裔――瞳栖の姿を思い描いては、彼女のことを胸のどこかで欲した。

 するととつぜん扉が開き、ひとりの少女が部屋に入ってきた。

「何をそんなに慌てているの?」
 後ろ手に扉を閉める瞳栖。いたずらっぽい笑みからして麗蘭をからかいに来たようにも取れる。
「ノ、ノックくらいしろ。お前はいつも突然だなっ」

 いきなり現れ、いきなりさらわれ、いきなりの口づけ――聖女はいつだって不意打ちが好き。

 瞳栖は平然と話を始める。
「羽は復元しておいたわ、安心して」
「復元?」
 そう言われた麗蘭が羽を広げて確認してみる。

(羽が、治っている)
 ポカンと口を開く麗蘭。エクレアに握りつぶされた羽が元に戻っているではないか。これが驚かずにいられるだろうか?
「これは一体?」
 狐に摘ままれた感覚でいると、瞳栖が口を開く。
「地の能力はね、対象物の体に触れることでデータのバックアップをとることもできるのよ。八卦には、そういう力もあるの」

 フェアリーフォースのプリズンルーム、瞳栖が執拗にベタベタ触っていた時のことを思い出す。

「あの時か――」
「あなたの体に触れることでデータをとり、それをリポジトリに保存していたの」
「リポジトリ? 霊界のことか」
「ええ。復元データを取っておけば、何かあった時に肉体の修正ができるでしょ?」
「肉体のバックアップか。便利な能力だな」
「ええ。けれど……」

 瞳栖がゆっくりとベッドに腰をおろす。

「けれど、麗蘭も分かっているでしょう? 便利とは諸刃の剣。それは堕落の一歩。便利さに甘んじていれば、いつかは己に返り、痛い目にあう。羽を修正したあなたは、また心のどこかで復元を望むかもしれない。体を大切にせず、戦場を走り抜けるかもしれない。復元機能があるからと甘えるかもしれない。身勝手へと堕落してゆくかもしれないわ」
 遠い目をつくる瞳栖。
 彼女の発した言葉によって、エクレアの残した言葉が蘇る。

 ――おまえらは勝手すぎやしないか?

 多くのものに感謝もせず、ただ娯楽と利便性だけを求め続ける傲慢さを人々は持っている。
 エクレアの正論さが終始、麗蘭の心をしめつける。

 レールガン・レーザーユニットにより、エクレアの頭を吹き飛ばした。
 多くの火薬、核のような兵器を用いて天上人を葬った。
 そうやって多くの自然を傷つけた――。

 麗蘭は窓の外に目を向けると、広がる空を見つめて言った。
「我々は、なんとも身勝手な生き物だな。やりたい放題やっている……」
 瞳栖が麗蘭の髪をそっと撫でた。
「ええ。私たちは好き勝手ばかりする、とても傲慢な生き物よ。だからこそ、そのぶん多くの命に思いを馳せて戦いづつける義務があると思うの。だってそうでしょう? そうでなければ犠牲になった命たちに失礼だもの」

 世界に生きる草木よ、動物たちよ、聞こえるか?
 我々は君たちを傷つけても尚、こうして生きながらえている。
 これはエゴかもしれない。
 これは勝手な言葉かもしれない。
 けれども聞いてほしい。

 約束しよう。世界から戦争を無くし、平和に導くために全身全霊を捧げると――。

 ――そう、麗蘭は誓うのだ。

 瞳栖が腰をあげた。
「今はあまり深く考えなくてもいいと思うの。天上人と戦った後ですもの。しばらくは安静にしてなくちゃ、ね? これから忙しくなるんですもの」
 聖女は振り向き、麗蘭に笑顔を向ける。
 それは参戦への近いでもあった。


 瞳栖は食事を運びおえると、手にしたレンゲでお粥をすくう。
「なにジッと見ているの? フーフーしてあげるわ」
「な⁉ い、いらん世話だ、自分で食える!」
 顔を真っ赤に染める麗蘭。
 それを面白がってか、瞳栖はお粥に優しく息を吹きかけて熱をとると、それを麗蘭の口元へと運んだ。
「いいからいいから。病人は無理しないの。はい、お口開けてぇ、あ~ん……」
「あ~……、はっ⁉ そんな恥ずかしいマネできるか!」
 開いた口をとっさに閉じる麗蘭。
「早く口開けて、腕が疲れちゃう。はい、あ~ん……」
「う、ぐ……」
 麗蘭はしぶしぶ口を開けた。
「あ、あ~~~ん……」
 そこへ――

 コンコン!

 ノックの音。間髪入れず、うるさい集団が入ってきた。
「京極隊長、プリン買ってきました!」
「バナナも束で買ってきてやったぞ~、グローブじゃねーからな」
「お花を持ってきたわ。華生が育てたのよ。花瓶はあるかし、ら……」
 想夜、狐姫、御殿、叶子、華生の手前、バカップルがイチャイチャと見せつけている。

 麗蘭、口を開けたまま硬直。
 うるさい集団、硬直。

「「……」」
「「「「「ご、ごゆっくり~」」」」」
 一同は申し訳なさそうに口を閉じると、後ろ足で出て行った。

 ……ガチャ。

 扉を閉めたとたん、さっそく廊下でキャーキャー盛り上がる。
『見た狐姫ちゃん!? 京極隊長、今「あ~ん」てやってた!』
『ちょ、おまっ、恋路の邪魔しちゃヤベーべ! 馬に殴られて死ねっていうっ』
『なに、あの2人できてるの? これは人肌脱がなきゃだわねっ』
『お嬢様、腕をまくるのはおやめください。人の恋路を邪魔する者は馬に――』

 麗蘭がポカンと口を開けて硬直する。
「……これは、何かの罰ゲームか?」
 人間界にはこういうゲームがある。そんな間違った知識を覚える麗蘭だった。


 孤島で死刑執行人をしていたエクレアは使徒を引き連れ、ピコット村を襲った。その後、フェアリーフォースを窮地に追い込む。
 なぜエクレアはそのような凶行に出たのか?
 後日、それは明らかとなる。
 
 捜査班から届いた報告書によれば、エクレアはピコット村の職人を探していたらしく、それは必然とバッジの行方へとたどり着く。

 エクレアとバッジの共通点はバッジ職人だ。

 何者かが職人の口封じのために、抹殺任務をエクレアに与えた。
 上層部の誰かが鈴道殺害の際に落としたバッジ。犯人は新しいバッジを入手するため、職人にバッジ作成依頼をしているはずだ。ともなれば、職人は依頼者の名前を知っているはず。それは犯人を追い詰めるジョーカーにもなりうる存在。
 成瀬に問うも、職人の所在はつかめず、ただ生きていてくれることを願うだけだった。

 もうひとつ問題がある。
 フェアリーフォースの混乱を招いたのも、エクレアに任務を与えた人物なのかという点だ。
 瞳栖が八卦であることを知っており、エクレアに地の能力を奪取させている。
 八卦プロジェクトにも詳しい人物のようだ。

 今回、エクレアひとりだけでフェアリーフォースの脆弱性を突くことに成功しており、フェアリーフォースの内部事情に詳しい者がエクレアに入れ知恵をした可能性が高い。
 軍隊をひと捻りできるだけの人物が内部にいるとすれば、やがて世界の崩壊がフェアリーフォースから始まるのは確かだ。

 天上人の存在、ピコット村の惨劇――これは犯人からの警告だ。
 深追いすれば、世界は闇に覆われる。
 深追いせずとも、世界は闇に覆われる。
 麗蘭に焦りの色が見え始める。

「世界を手中に収めるための序曲――黒幕がフェアリーフォース上層部にいるというのか?」
 部隊に所属している麗蘭は、今も闇の中をさまよい続けている。


ディアナ・ジェラート



 天上人の騒動から一夜明けたフェアリーフォース エントランス――。

 報告を終えたマデロムがひとり悪態をつきながら部屋から出てきた。
「いちいち報告か。めんどくせえったらありゃしねえ」
 想夜に折られた右腕に包帯を巻き、それを首からぶら下げている。折られた骨は、分厚い筋肉ギブスですぐに完治するので問題はなかった。が、報告書作成はチマチマしていて性に合わない。

 天上人の惨事から脱却したフェアリーフォース。
 問題行動のあった隊員たちは懲戒免職、もしくは厳重な処分を受けることとなった。それにより、いくつかのチームが解体してしまう。その中にリーノの所属していたチームも含まれていた。
 マデロムは過去に犯した後ろめたさもあり、リーノをチームに招くことも考えた。しかし既にチームは満員。それが叶うことはなかった。

 リーノはどのチームにも拾われることがなく、また孤独な戦士となった――。

 散乱した内部の片づけ。マデロムはそこでも骨が折れる作業を強いられた。
「天上人様よお、せめて片付けくらいしてけってんだ、ったく……」
 隊員の言いぶんは様々で、記憶の無いものがほとんどだった。それだけエクレアの能力はすさまじい効果を放っていたのだ。
 けれどもエクレアは言ったはず。隊員たちの本音を引き出したにすぎない、と。
 エクレア信仰に走った者たちは皆、心の奥底で戦争のにおいを嗅ぎ取っている。フェアリーフォースの黒い部分を嗅ぎ取っている。それはマデロムとて例外ではない。
「政府の闇か。関わりたくないねえ」
 猪ヅラがうんざり顔で悪態をついた。のんびりとグラスをかたむける日々が一番だ。


 マデロムが暗く長い通路を歩いていると、巨漢の背中に声がかかった。

「――マデロム隊長」

「あん?」
 マデロムがかったるそうに振り向くと、長身の女性が立っていた。

 白雪のように透き通った肌。鋭く尖った目もとは決して攻撃的ではなく、頼もしさを象徴している。
 シルクのように流れる髪は多くのものを魅了する。
 丈の短いジャケットにベルトを引っかけてワイズナーを背負う姿。チャイナドレスのスリットから艶のある太ももが伸び、二―ソックスとブーツを着用している。

 一国の姫であり、一隊長でもある女――名はディアナ・ジェラート。

「これはディアナ中将。お久しゅうございます。本日の任務はもうお済みですか?」
 ディアナが指先で長い髪を流す。

「ええ。ピコット村の後処理が落ち着いたので帰還したところですの」
 血塗られた臓物まみれの村は綺麗に消毒され、建物にこびりついた害虫も除去された。
 瞳栖のディメンション・エクスプローラーによって安全な場所に避難していた村人たちも戻り、生き延びた者たちの再建が始まったところである。
 されどバッジを製造した職人の生存はつかめず、成瀬もそこに戻ることはなかった。
 それらの経緯もあり、フェアリーフォースの備品製造は他の職人が請け負うこととなった。

 ディアナが顔色をうかがうようにマデロムをチラ見する。

「――ところで、想夜は元気にしてるのかしら?」
 その名を聞いたマデロムはウンザリした感じで答える。
「ええ、元気でしたよ。これを見れば分かるでしょう?」
 包帯まみれの腕を見せられ、ディアナは両手で口を押えて息を呑む。大木のようなご自慢の腕がご覧のありさまだから当然のこと。
「まあ、痛々しいですね、どうされたのですか?」
「人間界でちょっとしたゴタゴタがございましてね。ご安心ください、折れた骨はすぐにくっつきますよ」
 と余裕を見せた。
「うふふ。頼もしいことで」
 ディアナが口に手を添え、クスクスと笑う。

「――そういえば、人間界でバッジの回収はできまして?」
 その言葉でマデロムは一瞬かたまり、ふたたび会話に戻る。
「――いえ、バッジは見つかりませんでした」

 藍鬼との戦いに負けたのだ。叶子にバッジを返す約束は果たしている。

「そうですか。マデロム隊長なら任務を遂行できると思っていたのですが」
「買いかぶりすぎですよ。俺あ、ただの平凡な軍人です」
「謙虚ですのね。けれど人間界も広いですからね。きっと誰かが持っているでしょう」
「は、はあ」
 ディアナに生返事のマデロム。
 そこにディアナのお誘い。
「マデロム隊長、よろしければ一杯いかがです? ご馳走させてくださいな。あなたもお酒、お好きでしょう?」
「い、いえ、せっかくですが。俺はまだ仕事がありますので」

 早くここから立ち去りたい。そんな気持ちが溢れ出しそうだ。

 ションボリするディアナ。ちょっと茶目っ気があるところが子供っぽい。
「そうですか、残念。ゆっくり療養してくださいね」
 気づかう態度には嫌味のかけらもなく、純粋なねぎらいの気持ちがうかがえた。
 マデロムはあることを思い出し、すかさず質問を返した。

「――ところで、たしかディアナ様は以前、人間界に行かれましたよね?」

 今度はディアナが一瞬だけ固まった。

「――ええ。真菓龍まかろん社でおきた騒動のころ、ちょうど調査に向かっておりましたが……それが何か?」
「いえね。人間界も危なっかしい連中がおりますので、くれぐれもご用心ください。とはいえ、ディアナ様ほど腕の立つお方でしたら心配には及びませんがね」
「うふふ、こう見えてもか弱い女なんです。少しは気を使ってくださいな」
 少女のようにニッコリとほほ笑むディアナ。
「おっと、これは失礼しました」
 そんな感じで談笑は終わった。

 マデロムの去り際のこと。
「ご無理はなさらないで下さいね、マデロム隊長」
 ニコリとほほ笑む顔は、相変わらず女神のような温かさを秘めている。
 マデロムはぶっきらぼうに左腕を上げて敬礼する。
「はっ。お気づかいありがとうございます。俺はこれで――」
 一礼して踵を返し、ディアナに背中を見せる。が、内心、冷や汗をかいていた。

(振り向くな、振り向くんじゃねえ。今はまだ……振り向く時じゃねえ――)

 そうやって自分自身に言葉をかけ続け、足早に去ってゆく。得体の知れない闇に食い殺されそうな恐怖がそこにはあった。

 響くマデロムの足音はやがて無音へ。
 静まり返る通路。
 突き刺さるようなディアナの眼光が、いつまでもマデロムの背中をとらえていた――。


証拠隠滅


 麗蘭はフェアリーフォースの経過報告をメイヴから受け取った。
 状況は相変わらず芳しくない。軌道修正できたことと言えば天上人の一件だけ。

『――ひとつの問題だけでこれほど骨が折れるものなのか。やれやれだ』
 と落胆するメイヴの声が耳に残る。
 麗蘭が窓の外を睨みつけた。
(八卦はMAMIYA側に5人ついた。残るは3人。さて酔酔会すいようかいよ、どう動く?)

 ミネルヴァ重工を脱出した1体のサイボーグは、エクレア・マキアートと名乗り、妖精界をさまよい、孤島にたどり着いた。

 リコール対象の逃亡――ミネルヴァ重工からしてみれば、これは不祥事に他ならない。

 バグの出たサイボーグを生かしてはおけない。メタル装甲に包まれたそれを処理するには、核弾頭のような兵器が必要となり、それを扱う軍人を探さなければならない。
 そこで麗蘭に白羽の矢が立った。

 外部に漏れた兵器の隠蔽――それを始末するよう計画が進められる。ミネルヴァ重工は麗蘭用にレールガン・レーザーユニットを開発。計画はみごと収束し、不祥事を表沙汰にせずに済ませた。人間とは実に身勝手なものである。

「ミネルヴァ重工は失態をうまく隠し通せたというわけか。とんだ茶番に付き合わされたものだ」
 駒としてえ利用された麗蘭が悪態をつくのも無理はない。
 ババロアが亡き後も、ミネルヴァ重工の闇は深い。

 天上人破壊計画のさなか、エクレア本人に近づいた人物がいる。
 ただの死刑執行人を天上人に祭り上げた人物。何者かはわからないが、フェアリーフォースを混乱に陥れ、政府の機能をマヒさせる狙い。今回の出来事は、その予備訓練のようにも思えるのだ。

 麗蘭は思う――本当の混乱がこれから始まる気がしてならない、と。


 人間界 人気ひとけのない倉庫――。

 麗蘭のすぐ後ろに瞳栖が立つ。
 向かってミネルヴァの営業担当がメガネを光らせ不敵な笑みを浮かべた。
「さすが京極様、素晴らしい狙撃だったそうじゃないですか」
 両手を揉みながら、ゴマすりよろしくご機嫌うかがい。
「それで、いかがでしたでしょう? 我が社のレールガン・レーザーユニットは。お気に召してくれたでしょうか?」
「ふん、もう使わん。それは回収してくれ」
 床に放置されたユニットはボロボロになり、発射口は電磁波で黒く焼き焦げていた。

 けれども結果として、あれほど毛嫌いしていた人間の兵器に救われたのだ。それは事実として受け止めなければならない。

 表情を強張らせた麗蘭の手前、営業マンは引き下がろうとしない。
「またまたご冗談を。あなたたち妖精は、これからも人間の作った兵器に頼ることになるでしょう。でなければ、この先の戦いに勝利はない」
「なんだと?」
「違いますかねえ? どうですかねえ?」
 にやつく営業マンを睨みつける麗蘭だったが、正論を前に口を噤んだ。やがて諦めたように表情筋から力を抜く。
「ふん、勝手にすればいい」
 ハイヤースペックに便乗してくる人間の執念とも言える叡智。麗蘭はそれに対して恐怖を覚えるのだ。

 飲み込まれてゆく。人間の策略に――。

(妖精にとって人間は味方か、それとも……)
 人間が得体の知れぬ魔物に思えてならない。

 そこへ瞳栖が手を握ってくる。

「大丈夫よ――」
「瞳栖……」
 瞳栖はいつもの笑顔で答える。
「大丈夫よ麗蘭、何も心配はいらない。私が保証する。妖精界と人間界、2つの世界はあなたの力を望んでいる。私もあなたとなら、歩いてゆけるわ」

 麗蘭はその瞳を見つめては覚悟を決め、腹をくくるのだ。

「――ふふ、そうだな。使えるものは使わせてもらおう。人間のカラクリだって使いこなせれば、何ということはない」
 手にした包丁、肉も野菜も腕次第で思うがままだ。
 麗蘭は営業マンを前に挑発的に出た。
「ユニットのエーテルチャージに時間がかかり過ぎる。来週までに改良しておいてくれ」
 そう言い残し、ユニットを一旦返却すると瞳栖ともとに倉庫を後にした。


新たなる隊員


 街が見渡せる丘に麗蘭は来ていた。

 フェアリーフォースから受けた諸々の報告を想夜とリーノに告げる。
 想夜にはまだ帰界許可が下りなかった。藍鬼と化した隊員への対策が整っていないとのことだ。
 リーノはしばらくのあいだ自宅待機となる。チームが解体されたばかりだと雑用すら仕事を与えてもらえない。場合によってはお役御免、つまりフェアリーフォースから追い出される。大人の世界は理不尽かつ厳しさがつきもの。


 麗蘭がリーノの肩に手をそえる。
「そんなに落ち込むな高瀬。キミのおかげで天上人に引導を渡すことができたのだ。礼を言うよ、ありがとう――」
 麗蘭に続き、想夜も頭を下げる。
「リーノちゃん。本当にありがとう」
 リーノは静かに瞼を閉じ、ゆっくりと首を左右させた。
「ううん、いーの。リーノ、こんなことくらいしかできないし、もともとフェアリーフォースのお荷物なの。だから最後に役に立てて嬉しかったの」
 そうやって空を見上げる。

 言葉につまる麗蘭。
 不安そうな顔の想夜が何かをねだるように麗蘭の袖を引っ張る。

「――ま、まあアレだ。その……」
 麗蘭の声が上ずったかと思えば、意味なく指先で頬をポリポリとやる。
「その、我々のチームも人手が足りんというか解体寸前でだな。その……隊員が必要というか、必要じゃないというか……」
「もうっ、京極隊長!」
 煮え切らない麗蘭に、想夜がフグのように頬を膨らませた。
 麗蘭は一呼吸入れると、リーノをまっすぐに見つめた。
「高瀬。もしキミさえよければ私のチームに来ないか?」
「――え?」
 そしてもう一度、その意思を伝える。
「高瀬、キミの戦力が欲しい。キミが必要なんだ。我々と共に戦ってくれ」
 と、リーノの両肩に手を置いた。

 リーノはしばしの沈黙のあとに口を開く。

「リーノ、足手まといじゃない?」
 その言葉を麗蘭は強く否定し、目の前の小さな軍人を肯定する。
「キミは立派な戦士だ。誇り高きフェアリーフォースの隊員だ」
「でもねリーノ、足、引っ張っちゃうかもなの」
「その時は容赦なくケツを蹴り上げる。小動こゆるぎにも雪車町にもそうしてきた。私の部下になる以上は、高瀬も平等に扱うさ」
「ブラックなの」
「ふん、バカめ。今さら気づいたか」
 勝ち誇った顔の麗蘭を前にリーノが吹き出す。つられて麗蘭も。
「京極隊長おっかないの。ガクブルなの」
「当然だ。私のチームに入る以上、ともに戦い、ともに任務をまっとうする。そして、ともに生き残る。いいな?」
 リーノの瞳に熱いものがこみ上げる。自分を必要としてくれる人たちは必ずいる。それが確信に変わることによって、覚悟は決まるのだ。

高瀬梨飴乃たかせ りいの、京極チームへの入隊を希望します、なの!」
 背筋をととのえて敬礼。その意を麗蘭に告げる。

 麗蘭と想夜が手を差し出した。

『ようこそ、我がチームへ――』

 リーノは指先で瞳を拭うと、2人の手をとった。
「よろしくなのっ」

 この日、京極チームに新たな仲間が加わった。
 名は高瀬梨飴乃――これからの波乱万丈な活躍が楽しみである。
 たった4人のチームだが、彼女たちが歩みを止めることはない。

「よろしくね、リーノちゃんっ」
「うん、よろしくなの想夜ちゃんっ」
 子供みたいにキャッキャとはしゃぐ。
「一緒にがんばろうね。ディアナ様も腰を抜かすくらいのチームにしちゃうんだからっ」
「リーノもディアナ様の腰がビクンビクンするようがんばるのっ」
 それは何か違う。

 しょうがないヤツだなと言わんばかりに麗蘭が肩をすくめた。
「雪車町は本当にディアナ様を尊敬しているのだな。まあ無理もないか。ディアナ様の功績は輝かしいものだからな」
 魔軍も慄くフェアリーフォースのディアナ。彼女によって救われた国や村は数知れず、その名によって妖精界の治安が保たれている部分は否めない。

 麗蘭は想夜の頭に手を添えると、クシャクシャと乱暴に髪の毛を撫でた。
「えへへ、だってディアナ様はフェアリーフォースの誇りだもん。京極隊長もディアナ様も大好きっ」
 想夜はいつだって上司に尊敬を抱くのだ。

 想夜をフェアリーフォースへと駆り立てた人物。
 生まれながらにして王女という恵まれた境遇にありながら、人々のためにその身を戦地へ墜とす人物。

 若年にして軍を率いて国家を守る女――そんなつわものが妖精界には実在している。


さようなら、成瀬夫人


 天上人の一件が終わり、想夜たちは成瀬家を訪れていた。
「今さらこんな場所に連れ出して何を考えているんだ?」
 短気な成瀬がイラつきをぶつけてくるも、想夜は笑顔で成瀬を引きずり込んだ。
「いいから入って入って! 成瀬のおばあちゃん、きっと驚くわ。嬉しくって腰抜かしちゃうんだから!」
 消息を絶っていた成瀬を見つけ出したのだ。夫人だって喜ぶだろうし、想夜だって鼻が高い。

 庭を抜け、日が差し込むガーデンルームにたどり着く。
 
「おばあちゃん、いますか? 成瀬さんを見つけたのよ!」

 ――返事がない。

「おばあちゃん? ……お、お邪魔します」
 不信に思った想夜が遠慮がちに家に上がり込む。

 家の中は異様な空気に包まれていた。
 薄暗い廊下のすみには蜘蛛の巣がはり、もう何年も掃除をしていないようにも思えた。
 スイッチを入れても電気はつかず、まるで幽霊屋敷のよう。

「おばあちゃん? どこなの?」
 足早にあちこちを移動する。
「おばあちゃん? 成瀬のおばあちゃんっ」
 リビングに差し掛かったころ、成瀬が想夜を引きとめた。
「ちょ、ちょっと待て。君はなにを言っているんだ?」
 成瀬に問われた想夜がすごんで答える。
「成瀬さんを、あなたのことを探して欲しいって、おばあちゃんに頼まれてたんです。今もきっとあなたに会いたがっているわ」
 すると突然、成瀬が声を張り上げた。
「バカなことを言わないでくれ。妻はとっくに亡くなっている。俺を探す依頼を受けただって? そんな話があるわけがないだろう?」

 その言葉で想夜が固まった。
 
「亡くなってる? そ、そんな……ウソよ、そんなのウソ」
 半ベソを見せながら、それでも想夜は家中を走り回った。
「おばあちゃん、どこなの!? どこにいるの!?」

 暗い階段でつまづき、静まり返ったキッチンを、埃のかぶったソファのある客室を探しまわるが、成瀬夫人の姿はなかった。

「ウソよ! だってあたし、おばあちゃんと何度もお話したんだから! 美味しいお菓子だってご馳走になったんだから! 楽しいお話だって聞かせてもらったんだからね! 藍鬼さんのことだって、笑わないで真剣に聞いてくれたんだからね! おばあちゃん! 出てきてよ! おばあちゃん!」
 家の中を走り回る想夜だったが、結果が変わる事はなかった。

 この家は成瀬が消息を絶ってから、もう誰も住んでいない――。

 叶子が成瀬に問う。
「ハッピータウンでご夫人の話をしたとき、あなたは首を傾げた。それはこれを意味していたのね?」
「ああ。家内は心臓が弱くてね、よくMAMIYAの医療機器に助けてもらっていたのだが、機械だけでは命を制御しきれなくてね」

 成瀬夫人は何年も前にこの世を去っていた。
 では、想夜と話していたのは誰だったんだろう?

 ガーデンルームの死角。ロッキングチェアが揺りかごのように揺れている。
 そこにひとりの夫人が埃をかぶっていた。

 成瀬がそれに近づく。
「人工知能ロボットか。家内に代わってこの家を任せていたんだが、姿形まで家内そっくりじゃないか」
 成瀬夫人のデータを収取しているうちに、ロボットは夫人の姿をまねるようになり、やがて寿命を迎えていた。
 成瀬は呆れながらも、ロボットの埃を丁寧に手で拭った。
「よくできてはいるがバッテリー切れを起こしているし、データも死んでいるな」
 埃の量からして、もう何年も動いていない。

 夫人そっくりのロボットは、うつろな瞳を部屋の隅に向けたまま、ピクリとも動かなかった。

 想夜がロボットの膝にすがる。
「ウ、ウソよ! だってあたし、おばあちゃんと一緒にお茶したんだから! 美味しいお菓子も食べたの、駅前のオシャレなお店の……御殿センパイだって知ってるでしょ!? あのお店のケーキよ? すっごく美味しかったの!」
 想夜の言葉を聞くが、壊れたロボットを前に誰も笑顔を作ることができなかった。

 ――そこで、かくれんぼは終わった。

 そうこうしていると、一台のトラックが成瀬家の前に停車した。引っ越し業者のようだ。
 作業員が入り込んできては、家財道具を運び出してゆく。
 この家は売りに出され、すでに成瀬のものではなくなっていたのだ。

 業者の男が声を張り上げた。
「おーい、ここにあるヤツ、ぜんぶ処分してくれ。ガーデンルームのテーブルとイスもだ」
 なだれ込んでくる業者が家財道具を運んでゆく。

 想夜が引っ越し業者にすがりついた。
「なにをするんですか! この家にはまだ人が住んでいるんです!」
「はあ? 邪魔だよ、こっちは忙しいんだ。どいたどいた!」
 業者に突き飛ばされた想夜が尻餅をついて床にへたり込む。
「いたっ」
 すぐさま起きあがる想夜、今度は夫人型ロボットに助けを求めた。
「おばあちゃんも何か言ってよ! ここはまだ、おばあちゃん家でしょう!? あたしまた遊びにくるもん! 約束したもん!」
 涙目で訴えるも、夫人型ロボットは何も答えてくれない。

 やがて誰も言葉を発しなくなり、想夜だけがブツブツと壊れた人形のように独り言を続けていた。

「ウソじゃないもん。あたし、おばあちゃんとの楽しい時間を作ったんだもん。色んなこと、勉強したんだもん……」
 スネた子供のように唇を尖らせるも、結局は黙り込んでしまった。

 キッチンの隅に干されたティーカップがある。御殿がそれに手を伸ばした。
「……ん? このカップとソーサー、まだ洗ったばかりね。水滴がついてるわ」
 そう言って成瀬に手渡した。

 カップをまじまじと見つめる成瀬。険しい表情を緩めると想夜に向き直った。

「お嬢さん。お嬢さんの言うことは、正しいのかも知れないよ」
 成瀬が手にしたティーカップを想夜に手渡した。
「これは家内が大切にしていたティーカップだ。ひょっとしたら、大切なお客さんのために、楽しいお茶の時間を過ごしていたのかも知れないね」
 想夜が赤い鼻をすする。
「楽しい、お茶の時間……?」
 首を傾げる想夜の瞳に、だんだんと光が差し込んできた。

 夫人型ロボットの足もと、想夜が整理したガラクタたちがこっちを向いている。
 鳩時計や犬型ロボット。心なしか、皆、笑顔を向けてくれている。ボクたちに思いを馳せてくれてありがとうと伝えている。
 それが現実という者もいるだろう。
 それが錯覚という者もいるだろう。
 けれども、モノに思いを馳せることは無駄なんかじゃない。
 モノに魂が宿るというのなら、分解され、処分され、天に召される。そして輪廻転生を繰り返し、ふたたびこの世界に戻ってくるのさ。
 人や妖精と同じように――。

 成瀬は言う。
「エンジニアの俺が言うのもなんだけどね、この世の全てが科学で解明できるわけじゃない。たとえ科学で解明できたとしても、家内がお嬢さんと紡いだ時間は実在していたのだろう。それは誰にも知られないけれど、確かに存在した時間だったんだよ」
 成瀬が想夜の両手にカップを握らせる。
「だから、これは君と家内との時間の結晶なんだ。実在したデータなんだ。ずっとずっと、君にそれを覚えておいて欲しい。その方が家内も喜ぶはずさ。いいね?」

 想夜はティーカップを両手で包み込んだ。

「おばあちゃんとの、大切な記録おもいで……」
 そう言ってティーカップを額にあてた。
「――はい。ありがとう、成瀬のおばあちゃん――」
 頬に一筋の涙が流れ、ひとりの夫人が存在していたことを胸に刻み込んだ。

 華生が成瀬に問う。
「奥様に何度か手紙を送ったことがございましたよね?」
「ああ。家内がなくなる以前に何度かね。メールだと味気ないし、手紙だと気持ちが伝えられそうな気がしてね」
 少し照れながら言う。
「妖精界でも幾度か手紙を書いていたものさ。届くわけがないと知っていながらね。けれども手紙は、不思議なことにいつもどこかに消えていた。
「手紙が消える?」
 想夜が首を傾げる。
「ああ。きっと妖精がイタズラがてら持ち去ったのだろうとばかり思っていたのだが、まさかちゃんと届いていたとは驚きだ」
 原因不明の現象は、そうやっていつも成瀬を困らせていた。
「じゃあ警告文みたいなのも成瀬さんが?」
「警告文? ああ、傀儡街のことか。あれは数年前のハッピータウン災害時に政府に宛てたものだ」
「数年前の手紙? どうして今さら……」
 叶子が首をひねる。

 ガーデンハウスの窓枠に一羽の鳩が舞い降りた。
「あ、どん兵衛!」
 リーノが指を差し出す。
 するとどん兵衛は遠慮なく屋内に入ってきてはリーノの指先にとまった。
「どうしたの? こんなところまでやってきて」
 リーノがどん兵衛に話しかけるが、どん兵衛といったら首を右へ左へと忙しなく動かすばかり。指先から戸棚に飛び移り、ふたたび戻ってくる。それを何度も繰り返した。
 華生はその異変に気づく。
「手紙を運んでいたのは、どん兵衛だったのですね」
「え!?」
 一同が驚きの表情を作った。

 妖精界から人間界へ――次元を超えてやってきた伝書鳩は、夫人に対し成瀬の綴った想いを伝え続けていたのだ。

 狐姫が口を開く。
「どん兵衛は手紙を送るタイミングを計算していたんじゃね? 何通もある手紙の中から適切な文章を選んで人間界に届けていたんだろ」
「たしかに狐姫さんのいう事は理にかなっているわね。どん兵衛なら互いの世界を往復してるから人間界の状況に詳しいもの」
 と、叶子が肩をすくめた。
 リーノが目の前のどん兵衛に笑顔を作る。
「ふふ、おまえは優秀な郵便屋さんなの。ありがとうね、どん兵衛」
 どん兵衛はリーノの指先から窓枠に飛び移ると何事もなかったように、ふたたび飛び去っていった。

 華生が戸棚に近づく。
「――奥様はずっと、あなたの帰りを待っていたんですね」
 と戸棚の奥に手を伸ばすと、紐で束ねられた手紙の束を差し出した。
 成瀬はそれを見つめると、ゆっくりと両手を伸ばして受け取った。
「ああ……、ダメだね、人間も機械も。ちょっと中身が揺さぶられるとすぐこれだ」
 成瀬の瞳に熱いものがこみ上げ、その場で嗚咽を上げて泣き崩れる。


「おかえりなさいアナタ。やっと戻ってこられましたのね――」



 物静かで、おっとりとした口調。
 一同の目の前。動かない夫人がほほ笑んでいた。そんな気がした。

 モノに宿りし夫人の魂が今、深い眠りにつく。


 この世界には科学で解明できない事がある。
 ひょっとしたらグレムリンであるエクレアだって、残したい言葉があったがために、機械に憑依したのかも知れない。

 伝えたい言葉があるのは、人間だけではないのだから。


揺りかごを揺らす手


 ――なぜだろう?

 あの方はなぜ、わたしに痛みを教えて下さらなかったのかしら?
 あの方はなぜ、わたしを都へといざなったのかしら?

 フェアリーフォースの台座に君臨する妖精は、その姿を見せてはくれなかった。

 あのシルクのような長い髪が脳裏ををよぎる。
 そうしてようやく気づくのだ。
 あの方はわたしを戦略の駒、モノとして扱っていた。そんな真実に――。


 頭部を失ったわたし。動かせるのは左足のみ。他の部分は京極麗蘭の放った光により失われた。

 あの光は神罰か?
 それとも悪魔の一手か?
 どちらにせよ、答えを導き出すまでの時間はない。

 死にゆく害虫のよう、ブザマに体を動かし続ける。
 何をしているのかって? ただ仰向けになりたいだけなの。手足を失った者は寝返りさえまともにできないことを学習している。


 3時間ほどかけ、やっとのことで仰向けになる。
 頭部がない状態。地面に仰向けになって這いつくばり、左足だけで地面を蹴飛ばしながら、背中で這うように上へ上へと移動する。

 目指すはシュウの倒れているあの場所。首をポッキリとへし折られて微動だにせず――彼女はもういない。脳天から脊髄を貫いた鉄骨により、モジュールのいくつかが破壊されプログラムが死んでいる。もう自ら動くことはない。

 電波の届く距離まで近づき、シュウの回路にハッキングを仕掛け、リモート接続でシュウの手を動かすことに成功。そちらへ向かう事が困難なため、そうせざるを得なかった。
 わたしはシュウの体を操作し、自分の体に右腕を装着させた。
 右腕は生きているが、それ以外は使用不可。けれども腕一本あることに感謝している。


 数時間後――。
 やっとのことで数メートル離れたクリムのもとにたどり着く。
 クリムの全身は爆弾によって焼け焦げていたが、幸いにも左腕だけは利用可能だった。

 乗っ取ったクリムの体から左腕を切り離し、それも自分の体に装着。これで両腕がそろった。動く腕が2本もある。わたしはなんて贅沢なのだろう。

 両腕で地面に這いつくばり、あの子のもとへ向かう。
 愛しい愛しい、あの子のもとへ――。


 MAMIYA研究所で開発された新型トロイメライ。命を吹き込まれていないそれを入手することで、世界統一への効率化を図った。
 研究所であの子を見た時、沸き起こる感情に己の精神プログラムを疑う。
 モノの一つであるトロイメライに愛しさを感じたのだ。
 わたしはこれから、この子に命を吹き込む。
 生まれてくる魂が世界一大切に思えた瞬間だった。

 本当のことを言うとね、この時すでに世界統一など、どうでもよかったの――。


 巨大なドームの中央、わたしは小さな揺りかごに手をかけた。

 覗くと、揺りかごは鮮血でなみなみ満たされ、やがて眠る赤子がそれを吸収していった。
 わたしの中には血が流れていない。あたたかな血が流れる八卦の女に対し、少し嫉妬した。

 わたしもあたたかい血が欲しい。この身に血液が流れることを想像するだけで、それがどれだけ素晴らしいことかを理解する。
 血がかよっていないからこそ、そのありがたみが誰よりも分かるのだ。

 両手で揺りかごを揺らし、そっと見守る。
 例えばコップに並々そそがれた水がこぼれぬよう、そっと、そっと、揺らすように、そんな感じで揺りかごを揺らす。
 今も安らかに眠り続ける赤子を見て、わたしの胸は嬉しさでいっぱいになる。

 嬉しさに満ちた、この思い。
 嬉しさに満ちた、子への想い。
 嬉しいのは、出逢った時の感情。
 生まれて来てくれて、ありがとう。
 ありがとうね――。

 揺りかごの中、キラキラと光る水晶。それには既に興味がなかった。
 赤子を取り出し、ともに鮮血にまみれながら、生まれたばかりの命をこの身に抱く――。


ねむれねむれ 母の胸に
ねむれねむれ 母の手に
こころよき 歌声に
むすばずや 楽しゆめ

ねむれねむれ 母の胸に
ねむれねむれ 母の手に――。


 なぜだろう? わたしは子守唄が歌える。
 誰に教わった記憶もないはずなのに、この子のために子守唄が歌える。

 今も安らかに眠り続ける赤子を見て、わたしの胸は苦しさでいっぱいになる。

 苦しさに満ちた、この思い。
 苦しさに満ちた、子への想い。
 苦しいのは、もうお別れの時間がきてしまったから。

 ぽん、ぽん、ぽん……と、そっと赤子の胸に手をそえ、子守唄のハミングを刻む。

 わたしは幸せ者だ。
 シュウとクリムと共にあり、この子を胸に抱いているのだから。

 わたしはミネルヴァ重工で生まれた。
 研究所という檻のなか、いつも感じていた。
 例えば人が何かを残したいと感じた時、それは何を対象とするのだろう?
 創作か。
 偉業か。
 はたまた子孫か。

 わたしは長く、長く、とても長い月日をその考えにあてていた。
 人知れぬ孤島で空を見上げながら、いつもそれを考えていた。

 そうして、その答えにようやくたどり着いたのだ。
 今なら、わたしが何を欲していたのががわかる。

 頭上に現れた光の輪から天使の子供たちが舞い降りてくる。
 光のカーテンがわたしをそっとつつみ、どこかへといざなう。
 手を伸ばし、それを受け入れよう。
 向かう先がどこだろうと、そこに後悔はなかった。
 最後になって幸せという情報を得られたのだ。そこに恐れや後悔は微塵もない。

 シュウとクリムの幻は終始無言のまま、ささやかな笑顔をこちらに向けた。

 彼女たちの表情が作り出す心の声を察し、差し出された手を見つめて静かにうなずいた。

「――そう、あなたたちはここに残るのね。もう、一緒に来てはくれないのね」

 右手をシュウの手に、
 左手をクリムの手に、
 タンポポの綿毛に触れるよう、そっと、そっと、指先でそっと触れて立ち上がる。
 大切なたちに出逢えた喜びを胸に秘めて。

 今、旅立ちの時がきたのだ。

 わたしは多くの命を奪ってしまった。
 わたしは多くの幸せを壊してしまった。
 そんなわたしでも、神は両手を広げて迎えてくれるというのか?

 わたしはモノに憑依した存在。いわば亡霊。
 人はわたしを化物と呼び、悪霊と呼び、機械と呼んだ。
 けれどもね、ほら、そんなわたしにだって、ちゃんと心はそなわっている。

 サイボーグが涙を流すのは、変かしら?
 モノが涙を流すのは、変かしら?

 頬を拭うことなく、わたしは今、幸福に対しての罪悪と感謝を抱いている。

 神が全てをお許しになられる時、わたしは悟る。
 この世界には地獄など存在せず、それは己が作りあげた虚像にすぎないことを。
 心に地獄を作り上げる行為は愚かなことであり、おこがましい行為であることを。
 全身全霊で光をあびる。
 この身に降り注ぐ光が眩しすぎて、ただただ眩しすぎて……

 いいのかしら?
 わたし、こんなにも笑顔のままで――。


 エクレアは真っ白い翼を広げると、天使の子供たちに導かれ、暗い地下から天に召されていった。
 モノに魂宿るとき、それは者へと変化する。エクレア・マキアートはそれを理解する。

 モノに宿りし者、魂を眠らせて――。


名の無き傀儡に天の名を――


 吾輩は傀儡である。
 名前はまだない――。

 どこで生れたかとんと見当がつかぬ、と言えばウソになるが、何でも薄暗いじめじめした所で泣きもせず、誰かに抱かれながら子守唄を聞かされていた事だけは記憶している。
 
 揺りかごを揺らす手は鉄のようにとても固いが、それとて温もりがあった。
 聞こえてくるであろう子守唄は、吾輩の聴覚がひろえるものではなく、おそらくは揺りかごを揺らす手が抱いている脳波だと推測できた。
 脳で描いた子守唄は波となり、吾輩の心にとどいた。

 とても、とても、心地よい歌声だった。


 ――妖精界。

 白装束をマフラーみたいに首に巻きなおす。
 所々が血で汚れたそれは、鉄臭さがなく、ほんのりといい香りがする。
 それは錯覚かもしれないし、現実かもしれない。
 頬にまとわりついた黒髪を指ではらいのけ、ふたたび歩み始める。

 見渡せば荒野。
 ずっとここまで歩いてきた。
 誰かに褒めてほしい。
 誰の手も借りず、自分の足で、這うように、這うように、歩いてきた。

 広がる砂漠。
 永遠とも思われる荒野のなか、吾輩は終始、あたりを見回した。

 嗚呼、この星の果て、吾輩はどこにいるのだろう?
 吾輩は、どこへ向かうのだろう?

 一瞬だけ浮上した他者の意識に支配される。誰かが吾輩の中に住んでいる。
 ひとつの人形である吾輩は静かに首を左右させ、その言動を恥じた。
「否、吾輩の手も足も、頭脳も顔も……」
 胸元で両腕を交差させて己を抱く。
「皆、皆、おまえたちに支えられてきたのだ」
 そう言って己の中に宿る魂たちをギュッと抱いた。

「シュウ、クリム……そして名もなき傀儡よ――わたしたちは、ずっと一緒に歩き続け、果てしない荒野を彷徨う。やがて訪れる光を見出すために」

 やがて虚無が思考を支配する。データの更新が始まったのだ。今までの学習は消去され、新たなOSとして生まれ変わる。
「嗚呼、消えないで……怖いの。不安なの。一人ではないと分かったの……、多くの支えは蜜の味。それ知ってしまった今となっては、もう、感謝の道を引き返すことなどできはしない」
 ひとりではないと知った今だからこそ、余計な支えは不要となり、生きることへの執着が生まれる。
 誰かがそれを自立と呼んだ。

 吾輩のなかで古いバージョンは上書きされ、不要なデータは削除された。
 ひとつの魂が眠りについた瞬間だった。
 きれいな黒髪から色素が抜け落ち、徐々に銀色に染まってゆく。
 ほんのり赤みを帯びた黒髪、お気に入りだったのに。

 吾輩は白装束のマフラーを巻きなおし、ふたたび荒野を歩き出す――。


 古びた木造の家がある。拾ってきた板を釘で打ち付けたような、隙間風が入るような雑なつくり。誰も寄り付かない古びた民家だ。
 小屋につながれた牛がのんびりとした目でこちらを見ている。やがてそれに飽きると目をそらして昼寝を始めた。
 その脇には乾草。牛の主食となる草を乾燥させたもの。

 ここは妖精界。
 吾輩はここで始めて妖精というものを目にした。

「……」
 吾輩は唾を飲み込むと、そこへ無言で近づき、おもむろに草を掴んでは口の中へ放り込んだ。
「んぐ、んぐ……」
 誰にも取られぬよう、
 ムシャムシャと草を咀嚼する。
「ん、ぐ……ぐぇっ、ゲホッ……」
 慌ててポンプ式の井戸へと走ってゆく。

 乱暴に取っ手を上下させると内部のシリンダーが激しく連動。地下からくみ上げられた水が勢いよく蛇口から溢れ出した。
 滝のような流水に、がっつくように喉を潤す。
「んぐ、んぐ、んぐ……」
 一呼吸いれ、ふたたび水に縋りついた。

 ……ミズ、お、石、おいし、イ――

 自然言語がスムーズに進まない。喋れるということの大切さを実感する。
 水はこんなにもおいしいものなのか。初めてそう思う。
 喉を潤し、ふたたび枯れ草に手を伸ばそうとした時だった。

「ちょっと、そんなところで何やってるんだい!」

 民家から飛び出してきた中年の女に声をかけられた。白髪交じりで少しやせ老いた、されど気丈に振る舞う女。ポンプの音に気付いて外を見れば、みすぼらしい子供の姿――どうやらそれに驚いたらしい。
 牛の食事を奪ったので激怒しているのかと思ったが、続く言葉は違うものだった。
「そんなもんを食べるんじゃないよ、それは牛の餌だろ!?」
 女は吾輩から乾草を取り上げると地面に放り投げた。
 こういう場合は謝罪をすればよいのだろうか?
「う、あぁ……」
 言葉にならない呻き声。発音がわからない。
 ごめんなさいのひとつも言えやしない。もどかしい事、この上ない。
 けれども女はニコリと頬を緩ませた。
「なんだ、あんた喋れないのかい。まあいいさ。さぁ、家にお入り」
 吾輩の背中にそっと手を回すと、家の中へと招き入れてくれた。


「う、うう……う、うぁああ、ああああ……あああああああ‼」
 悲鳴に近い声を上げては、言葉を発せられない己を嘆いた。
「おやまあ、どうしたんだい?」
 女は吾輩をそっと抱き、ポンポンと優しく背中を叩いて諭した。
「なにか悲しいことがあったんだねえ、よしよし……」
「うあっ、うぁあうっ、うわあう!」
 違う! 違うの! 吾輩は必死に首を左右させて女に訴えた。

 ――多くの人たちを殺めました、罰を与えて下さい!

 見知らぬ孤島が脳裏をよぎり、削除しきれなかったデータが吾輩を苦しめる。
 否、この記録は必要だからこそ、この身に残ったのだと理解する。
 偶然なんてこの世に無い。起こることはいつだって必要なこと。

 ――多くの命を殺めました、罰を与えて下さい!

 その一言すら喋れない。
 吾輩は前世で過ちを犯したのだろうか?
 言葉にできない感情を胸に、ただただ正体不明の罪悪に全身が支配されるのだ。
 苦痛を吐き出せばいくらか楽になる。罪人だって喋れば楽になる。それは本当だ。が、それすらできない存在となった者は楽になれるのだろうか?
 ――それは耐えがたい苦痛でしかない。
 罪を認めても思考で構築できず、口にできず、罪悪という痛みがつきまとう。
 ましてやこれ以上優しくされるのは拷問である。真実を打ち明ければ、目の前の女に憎悪が沸き上がるかも知れない。

 ……嫌われるのが怖いのだ。

 翼をなくした天上人が羽ばたくことができるのか。
 心の奥底、吾輩は知っている。
 データの隅に眠っている単語をかき集め、言葉を構築する――一滴、一滴、純粋な水をコップにため込むように、大事に、大事に、コップ一杯の水を作るように。
 そうやってできた言葉を構築する。されど発音には至らず。

 ありがとう、ごめんなさい――。
 
 そんな簡単な言葉さえ口に出来ないもどかしさから、吾輩は困惑を極めた。

 食卓にならぶ食器。女とその夫が忙しなく動き、そこにささやかな食事を用意してくれた。
「さあ、熱いうちに召し上がれ。熱いからね、舌、やけどしないようにするんだよ。うちの自慢のシチューさ、ちゃんといただきますって言うんだよ?」

 板、抱キマス? ――なぜ板を抱く? これは違う、多分。
 板田、来マス? ――誰それ?
 いただきま、す――うまく構築できた。何かを成し遂げることができて、ちょっと嬉しかった。

 吾輩は両手で包み込むようにシチューの皿を抱える。

 暖かい。

 かがむように姿勢を倒し、がっつくように口を皿に近づける。まるで犬と同じだ。
 スープが舌に触れると熱さのあまり皿との距離をとる。痛覚が芽生えたことを自覚する間もなく、ふたたび皿を口元へ。
「そんな食べ方するんじゃないよ、いい女が台無しじゃないか」
 女は吾輩を制止するとスプーンを握らせた。
「ほら、これはスプーンていうんだ。これをこうして、こうやって使って飲むのさ」
 指を絡ませ、丁寧に食べ方を教えてくれた。
 吾輩はスプーンですくったシチューをひとくち、またひとくちと口に運ぶ。

 吾輩はもう何物でもない。
 仮に名前があるのなら、なんと呼ばれるのだろう?

 存在しうるかそうでないか。たとえ曖昧な存在であるとしても、吾輩はここにいる。生きている。
 だからね、怖くはない。
 誰かが残した吾輩は、魂のかけら。生きることを許されるのなら、この広い世界を歩いてみたい。見て、聞いて、お話もしたい。そう思うのだ。

 吾輩のそばにそっと寄り添う、何物でもない曖昧な存在。何者かは知らないけれど、いつも見守っていてくれる。
 それが分かるだけでも、歩いてゆくことができる。
 赤子となりて、すべてをやり直す。
 新たな魂となりて産声を上げ、ふたたびび歩み始めるのだ。

「ほらほら、こんなに汚しちゃって……」
 ほころぶ女は、まるで子供でもできたかのよう。吾輩の汚れた口元をフキンでぬぐいながら食事を楽しんでいる。ポッカリ開いた心の隙間を必死に埋めているようにも思えた。

 女はここに住むまでの経緯を話してくれた。なんでも遥か遠くの孤島で労働を強いられていたとのこと。
「――そこにいた若い男がね、いつも仕事を抜け出して姿を消すのさ。病気で死んじまったけどね」
 と、寂しそうにつぶやく。
「けれどもね、息を引き取る直前に教えてくれたんだ。使われてない下水管があることをね」

 強制収容所で命を落とした男はよく仕事を抜け出し、長い年月をかけて穴を掘っていた。それは下水管へと繋がる希望だった。
 下水管を抜けると内陸へとつながる地下道がある。疫病から逃れた数人は、そこからうまく逃げだすことに成功した。
 はたから見ると野鳥に餌をやっていたかに見えた男だったが、実は一羽の鳩に餌付けをおこない、遠く離れた者たちと連絡を取り合ってもいた。地獄の日々が終わることを夢見て。

『気をつけろ! 死刑執行人がピコット村に向かう』

 その手紙が誰に託されたのかは分からないが、その手紙によってピコット村の人たちが生き残ったのは確かだ。
 それを聞き、吾輩はホッと胸を撫でおろす。

 結果、怠け者と忌み嫌われていた男は多くの命を救い、死して英雄となった――。


 差し出されたパンもふわふわでとっても美味しかった。口の中に放り込むと、甘い感じや絶妙な塩加減が広がって、たくさんの単語が吾輩の頭に浮かんでは処理しきれなくなる。

「――あんた、行くところがないんだろ? だったらしばらくうちにいなさい」
「……」
「なあに、遠慮することはないよ。私たちにも娘がいてね、今はわけあって離れ離れだけど、いつかきっと出会えると思うの。それは今日かもしれないし50年後かもしれない。けれどね、歩いていれば、いつか目的地にたどり着く。そう信じてる。だからそれまでの間、退屈しのぎに付き合ってはくれないかい? 人助けだと思って」

(ひと、だすけ……人、助け、る?)

 吾輩は言葉の意味も分からぬまま、困惑するばかり。
 女はまんべんの笑みを浮かべた。
「せっかく出逢えた記念だ、なにか好きな食べ物はないかい? なんでも作ってあげるよ。と言っても、ここじゃ限られたものしか出せないけどね」
 台所に立つ女性が野菜に包丁を入れようとした時だ。
「――そう言えば、あんたの名前を聞いてなかった。名前は言えるかい?」

 名前なんて、ない――。

 けれども諦めない。頭の中を必死になってさがす。散らかった部屋から小さな鍵をみつけるように、両手でかきわけて探し続ける。
「う、あ、ああ、う……」
 結局わからずじまい。ろれつの回らぬ口調で発する言葉は、意味のないものだった。
「困ったね。それじゃあお母さんの名前は?」

 驚いたことに、答えは一瞬で浮かんだ。吾輩の脳裏にあの甘いお菓子の名前が浮かんだのだ。食べたこともないお菓子だというのに。

 単語を手繰り寄せ、記憶を手繰り寄せ、やっと、その名を口にできた。

「――エ、エク、レア……エクレア、ママ、マキア、ート、ママ……お、お母さ、ん」

「エクレア、いい名前じゃないか。その水晶もお母さんが持たせてくれたのかい?」
 
 吾輩は胸元で光を放つ水晶をみつめると、なぜか無性に切なくなった。
 気づいたときには胸に光っていた水晶。誰かが首にかけてくれたもの。

 吾輩という存在は多くの人々の記憶の断片が集まったもの。それはガラクタの山でもあり、叡智の宝庫でもある。
 吾輩が多くの他人の寄せ集めだとするのなら、吾輩を構築しているのはこの星のそのもの。星は多くの叡智を与え続けてくれる。
 吾輩は、この星から許可をもらってここにいる。存在することを許されている。

「ここにいてもいい」と言われている。とても安心する。

「おいしいかい?」
 コクリ。
「ふふ、もっとゆっくりお食べ」
 女と主人と吾輩。小さなテーブルを囲んで暖をとる。
 シチューの温もりは心まで作用することを知った。
 暖かくて、温かくて――それを言葉で表現するには、あまりにも多い情報量。

 けど何故だろう? 何も知らないはずなのに、熱いものがこみ上げてくる。
 もどかしくて、もどかしくて。ただただ、もどかしくて……
 言葉で表現できない悔しさのあまり、ふと眼球が熱を帯びる。
 そして――

「うう、うう……うわあああああああああん!」

 ついには天井を仰ぎ、大きな口を開けながら泣き叫んでしまう。

 それを見た女は驚き、慌てて吾輩をなだめてくれた。
「あらあら、きっと悲しいことがあったのね。いいわ、ここで泣いてスッキリしなさい」

 違う、違うの――。

 吾輩は知っている。それが悲しさだけではなく、他の感情も入り混じっていることを。

 暖かい感情――『好き』とか『嬉しい』とか、そういった類の感情。それを『幸せ』という言葉でひとまとめにしているだなんて、あまりにも勿体なさすぎる。
 『幸せ』という言葉はオブジェクトだ。そこに多くの『嬉しい』が詰まった宝箱だ。開けたとたん、たくさんの喜びに満ちたワードが飛び出してくる。そんなものを目にすれば、誰だってビックリするよ。今の吾輩のように。

「うわあああん! うわああああああああああん!」

 叱られた子供のように、はたまた悲しいことがあった時の子供のように、ただ上を向いては泣き叫び、言葉に出来ない感情に溺れてゆくのだ。
 
 悲しい時も、
 嬉しい時も、
 涙はこぼれるもの。

 それを知った今だからこそ、旅に出向くのだ。
 涙のその理由わけを知るために――。


再会


 夫婦が用意してくれた服を着て、その上から白装束のマフラーを巻く傀儡。持たせてくれたパンをバッグに詰め込んで民家を出る。

 身支度を済ませた傀儡は、夫婦に見送られていた。
「本当に行ってしまうのかい? ずっとここにいてもいいんだよ?」
 女の言葉に傀儡は静かにほほ笑み、ゆっくりと首を横に振った。
「そうかい。ま、そう言うんだったら止めはしないさ。気をつけて行きなさい」
「あ、あり、ああり、あり……」
「ふふ、『ありがとう』ね」
 女がマフラーを整えてくれた。

 呼吸をととのえ、今度はゆっくりとその言葉を口にする。まるで宝物のように、大切に。


「ありが、とう――」



「ふふ、どういたしまして」
 少し頬を染める傀儡の手前、女は笑顔を作った。

 夫婦に深々と頭を下げ、名も無き傀儡は旅立っていった。


 地平線に消えてゆく傀儡の背中。
 それをいつでも見つめる夫婦。
「――行ってしまったわ」
「ああ、僕たちも家に入ろう」
 主人が妻である女の肩に手を添え、家の中へと促す。

 女は振り向き、傀儡の消えた地平線に目を向けるが、消えた背中はそこにはない。
 寂し気に背中を丸めてドアノブに手をかけ、家の中に入ろうとする。

 もう一度だけ、地平線に目をやる女。

 しばらく視線をそのままにしていた頃――。

「……あんた」
 視線を地平線から逸らさぬまま、女は家に入ろうとする夫の背中を叩いて飛びとめた。
「ああ、あんた! あんた!」
「どうしたんだい?」
 夫婦が一緒になって地平線に目を向けると、そこには――

「……! ……!」

 ずっと遠く。傀儡の背中が消えたあたりから、誰かが手を振ってやってくるではないか。

 小さな影。耳を澄ますと聞こえてくる。懐かしい、とても懐かしい声――。

「パパー! ママー!」

 忘れもしない。あの子の声――。

「リーノ!」

 夫婦に向かって、手を振りながら走ってくる。

「リーノ! リーノ!」
 何度も何度も、愛する子の名を呼ぶ高瀬夫妻。
 
 やがて親子3人の抱擁――そこには言葉では表せない時間が芽生えていた。

「パパ! ママ!」
「リーノ! リーノ!」
 もう二度と離れることのないように、しっかりと、愛する家族を両手で包む。


 パンは愛する者のため。
 シチューは愛する者のため。
 食卓は愛する者との至福の時間。

 何年もの時間をかけて、そこに暖かい食卓は戻ってきた。

 信じていれば夢は叶う。
 信じていれば、いつか出会える。
 それは本当か?

 それを確かめたいのなら、とりあえず信じてみることから始めようよ。
 踏み出すことが怖いなら、強く願うことからはじめようよ。

 パンはおいしいかい?
 シチューはおいしいかい?

 長い年月ときをかけて傷ついた魂は、今、深い眠りについた。
 長い年月ときをかけて再会を望んだ親子は、今、こうして温かい食卓を囲んでいる。

 地獄をくぐり抜けた後はお腹がすくでしょう?
 あわてず、ゆっくり、お腹いっぱい食べなさい。
 目の前にあるシチューは、あなたのために用意されたものだから。

 そこには笑顔いっぱいで幸せな親子。
 そこにあたたかな食卓が戻る。

 これは、そんな日の出来事でした――。


第5話
『魂を眠らせて』