15 芽吹く鼓動に贈る愛の賛歌


 晴湘市での一連の戦いの後、メイヴのもとへ小さな妖精が舞い降りた。妖精界からの伝書鳩、京極麗蘭きょうごくれいらの使いだ。
「来たか、随分と早かったな」
 メイヴのこめかみに妖精が両手を添えて通信を開始――脳内で麗蘭とのやり取りが始まる。

『フェアリーフォースは何とも言えない状態です。緩やかにですが上層部で分裂が始まっております。組織の内部崩壊も時間の問題かと。人間界の状況は?』
「安心せい、歌姫の声は取り戻した。 ……で、他には何かあるか?」

 メイヴからの質問に淡々と答える麗蘭。緊迫した状況が続いているらしい。

「なに? ほお……できそこないの玩具どもが性懲りもなく頑張ってるみたいだな。それで?」
 麗蘭の声を耳にした途端、メイヴの表情が曇る。
「そんなにかんばしくないのか……フム――」
 メイヴは顎に手を添え、難しい顔で考え中。しばらくして、意を決したように顔を上げた。
「承知した。ワタシも一旦そちらに戻ろう。それまでは何としても持ちこたえろ――」
 ほどなくして小さな妖精は空に舞い上がり姿を消した。

 メイヴは振り返り、歌姫と目を合わせた。
「先日はご苦労じゃった。声の方は順調かの?」
 静かに目を閉じ、己の喉に返りしさえずりを確認する。
「はいメイヴ様、問題ございません。ご尽力、感謝しております」
 講演後のようにスカートの裾をつまみ、静かに頭を下げた。
「うむうむ。結構毛だらけ、猫灰だらけ、アキバの街はヲタだらけ」

 よきかなよきかな――頷くメイヴ、ご満悦。

「晴湘市の住人の魂を解放してくれた事、皆を代表して感謝するぞ」
 ロシアンハットを取ると、歌姫の声をたたえ、深々と頭を下げる。
「おやめくださいメイヴ様。お礼を言うのはこちらなのですから。 ……ところで、メイヴ様はこれからどちらへ?」
「ワタシはひとまず妖精界に戻る。おまえさんの役割はその声で世界を救うこと。これからも妖精たちの鼓膜を潤しておくれ」
 妖精界の揉め事に巻き込まれたことにより、仕方なしに人間界に連れてきた歌姫――護衛役のメイヴもこれでお役御免。声帯を狙う者がいなくなった今、歌姫の身の安全が保障されたのも同然。
 けれども、一難去ってまた一難。問題は妖精界に移行する。
 メイヴは綿菓子を食いちぎり、空高く見据えた。
「『天からの使い』か……。ふざけおって。彼奴きゃつらめ、政府を怒らせるとどうなるか、目にもの見せてくれる」
 メイヴちゃん、内心激おこなんだからね! 小さき女王が口角を吊り上げ、闇霧のカーテンに包まれる。
「なかなか楽しい余興だったよ」
 ニヤリと笑い、人間界を後にした――。


御殿の朝


 ババロア戦から一夜明け、御殿はベッドで目を覚ました。
 晴湘市の人々が夢に出てきては御殿に笑顔を残してゆく。それが御殿の心から過去の暗闇を拭う。血の宴によって命を落とした人たちは、もう帰ってこない。けれど遠くから御殿たちを笑顔で見守り続ける。
 こんなにも気持ちのいい朝を迎えたのはいつ以来だろうか? ひょっとしたら生まれて初めて味わった感覚かもしれない。
 スヤスヤと眠りについた御殿の寝顔を、想夜と狐姫が安堵の笑みで見守っていた事実を本人は知らない。そのくらい安らぎの時間に身を委ねていたのだから。

 ニュースでは早速、晴湘市の特集が組まれていた。立ち入り禁止区域の解除に向けて政府が重い腰を上げたのだ。朽ち果てた街の復活、それは決して夢などではないことを意味していた。

 かつて海と山に囲まれた街があった。
 夏の浜辺は賑わい、冬になればイルミネーションで彩られる。
 その街は幾重もの暗黒の時間をくぐり抜け、やがて復活を遂げる。

 街の名は晴湘市――御殿が育った街。そして、これからたくさんの人々が生活する街。

 晴湘市から距離をおいていた人々が、少しずつ街へとやってくる。そうやって、ふたたび街に多くの笑顔を生む。
 大丈夫かって?
 大丈夫さ。晴湘市は、すでに息を吹き返しているのだから。ここからは住人たちの力の見せどころ。ちょっとだけ長い道のりになるだろう……けど、大丈夫さ。人は意外とタフにできている。


 ミネルヴァ重工の相談役が空席となり、やがてそこには別の役員が座る。その人物は妖精や酔酔会とは何の関係もない人物かもしれない。あるいは……?
 前相談役の存在は忘れ去れらたかのように、企業は呼吸をし続ける。
 別番組では柏木の逮捕が報道されていた。
 朱鷺に悪魔としての存在を切り捨てられた男。無力な存在となった彼は、もう魔界に帰る術を持たない。居場所はこの人間界しかない。人の姿をした悪魔は多くの子供たちの叫びをどうやって償うのだろう? それは人間たちが決めた法律というルールによって処分される。
 高い塀の中、柏木は何十年もの間、人間たちの抱える痛みを学習するのだ――羽をもがれた悪魔にはそれがお似合いだ。もっとも、死刑を免れたら……の話だが。

 失踪した子供たちは無事に保護され、家族の元へと戻っていった。
 犯罪に関与していた人物たちは皆、一斉摘発された。中には人間以外の種族も含まれていたが、魂の奥底まで黒く染まった輩に種族など関係ない。それらは皆、人の姿をした何か・・なのだから。

 妖精界への臓器密売ルートを叩き潰した今、逆ハーメルン事件が二度と起きないと願いたい。
 日本でまた、子供たちが元気に走り回る日が来ることを願いたい。

 リンとロナルドを援護した双葉は自宅で目を覚ました。フェアリーテイルを使ったというのに廃人にはならず、体はピンピンしている。
 何が起こったのか検討もつかない双葉にリンが説明する――黒いカーテンの中から突然ロシアンハットをかぶった子が現れ、双葉と一緒に黒いカーテンに消えていった。その後、消えた双葉をソナーで追跡した結果、晴湘市から双葉の自宅に移動していることがわかった。そう告げる。
 リボンの妖精が双葉とアインセルを一度分離させ、ふたたび繋ぎ合わせたのだ。まさに間一髪のところだった。

 朱鷺の探し物も終わった。が、旅は続く。
 彼の性格上、気に入らないものを根絶するまで戦いはやめない。用心棒としての生活はこれからも続けていく。
 MAMIYA側に対して協力的な姿勢を見せていることから、想夜たちが風の八卦を味方につけたといっても過言ではない。
 八卦のカードが4枚そろった――これでディルファーの半身を得たわけだが、残り半分はどこで何をしているのだろう? 八卦をそろえることでしか未来がないというのなら、想夜は何としてもカードをそろえなければならない。



幾世界きせかいが指す先へ


 愛妃家まなびや女学院――の中にある掘っ立て小屋。

 天井高く積まれた生徒からの要請書、その仕分け作業に追われる想夜の姿があった。
 見かねた御殿も手伝いに参加するが、先日の戦闘でボロボロ。若いクセに足腰が……あ痛たたた。
 そんな傷だらけの助っ人を心配してか、狐姫と叶子も顔を出す。

 想夜がモジモジしながら頬を染め、御殿のもとへと近づいてゆく。
「こ、御殿センパイ……」
「ん? なあに?」
 御殿はチラリと横目で想夜を見ただけで、手を休めることはしない。早く片付けないと日が暮れてしまう。
「あの……、先日……、あたしが言ったこと……き、気にしないでくださいねっ。ちょっと頭ん中パニクっちゃってて……」

 モジモジ……。さらに顔を真っ赤にしながらクネクネと体をひねる想夜。しまいにはゆでダコのような頬を両手で包んで「キャッ」とか恥じらいまで見せている。

 いっぽう御殿はというと……?
「想夜の言ったこと? …………なんだっけ?」
 はて? 首を傾げて考え込む始末。鈍感さ、ここまで極まれり。
 想夜が素っ頓狂な奇声を上げる。
「ふぇあ!? なんにも覚えてないんですか!?」
「う……うん、ほとんど」
「な、なによなによっ」
 しまいにはプイッとそっぽを向いてふて腐れてしまった。
「……もう! 御殿センパイのばか! 知らない! あんなに痛くしたクセに!」
 そう言われ、ようやく思い出す暴力エクソシストのダメッぷり。
「ああ、レゾナンスの事ね。 ……想夜が痛がるからゆっくり入れたのに」
「だって御殿センパイ乱暴なんだもん!」
 女の子は優しく扱いましょう。
「し、仕方ないでしょう、まだ慣れてないんだから」
 悪かったわよ、あとでドーナツ買ってあげるから――と想夜の機嫌を取りながら、小さな背中に訴えた。
「ド、ドーナツであたしが釣れるとでも……、まあいいですけど……」
 ドーナツで釣れるリボンの妖精。
「今度は痛くしないでくださいね……約束――」
 頬を染めて俯きながら上目づかい、小指を差し出すリボンの妖精。
 御殿は自分の小指を想夜の小指にからめてつながった。女の子には優しく、痛くしないように、痛くしないように。と、心で呟きながら。

 隣で見ていた叶子が横やりを入れてくる。

「御殿、想夜とも……した・・のね?」
 その言い方だと第三者の誤解を招きそう。
「御殿、おまえ……本当に節操ねえな。これで何人目だよ?」
 呆れる狐姫。やれやれ、何股もかける相方を持つと疲れるぜ。


 要請書の整理もひと段落。想夜が急須でお茶を煎れてまわる。
「お疲れ様です。はい御殿センパイ、お茶」
「ありがとう。ところで、フェアリーフォースの状況はどうなっているの?」
「クリスタルサーバーが復旧したみたいでデータベースを閲覧することができました」
「おお、やったじゃん!」
 狐姫が指をパチンと鳴らして喜んだ。

 フェアリーフォースが所有するデータは想夜の水晶端末からアクセスできる状態にある。想夜のエーテルバランサー権限も戻っていた。
 けれども手首の術式を噛み千切ったこともあり、本部への通行許可は簡単には下りない。ましてや反逆罪により、いきなり連行されることだってありうる。かといって永遠に人間界にいることも困難。

「あたし、妖精界に戻れるのかな……」
 不安いっぱいの13歳。政府に喧嘩を売った罪は重い。自分の置かれている状況がどこにあるのか、それを妖精界に確認すべきだ――想夜はそんなことを考えていた。
 メイヴからは『役職継続』としか伝えられていない想夜。仕事が続行している限り、フェアリーフォースからの支持を待つのもエーテルバランサーの務め。
「フェアリーフォースとの通信は生きているんでしょう?」
 御殿の質問に想夜が頷く。
「はい、でもおかしいんです。連絡をしても誰からの返事もなくって……」
「データベースが復旧したのに? 変ね」
 叶子の言葉を聞いた想夜が力なく頷くと、狐姫がいたずらっぽく八重歯を見せてくる。
「想夜、あいつらフルボッコにしたじゃん? きっと向こうもビビッてんだろ。シカトされて当然じゃね?」
「えーっ、そんなあ……」
 真に受ける想夜がションボリと肩を落とした。たしかに藍鬼あおおにとなって部隊をフルボッコにした。バランサー権限が戻っても、誰からも相手にされないとなれば想夜の立場は何処へ?

 とはいえ、もうじきフェアリーフォースから返信がくる。それを前に、想夜は再びワイズナーを握るのだ。
 そして知る。妖精界が危機的状況に晒されている事実を。
 ハイヤースペックをめぐる戦場は人間界に限ったことではない。
 幾世界――幾つもの世界が関係していることなのだ。


春夏の日常


 春夏の母に、妖精界から転居手続きの許可が下りた。
 牢獄迷路で想夜に解放してもらった春夏の母は、妖精界から再び人間界に戻ってきた。もうシュベスタに捕らわれることもなく、昔のように自由の身だ。

 シルキーホーム。
 母と2人、肩を並べて縁側に座る春夏。こんな時間はシュベスタで別れた時以来。これからもスベックハザード以前のように、仲良く暮らす日々を送ることだろう。
 子ども食堂のやりくりは苦しいけれど、母と子、力を合わせてやっていけるはずだ。

 空を見上げる。
 春夏のひざ元で眠る猫の茶太郎。ババロアの奇襲を受けた時に春夏を庇うべく負傷してしまった。しばらく安静が必要だ。でも命までは失っていない。特別な力なんてなくても強さはアピールできるもの。
 吾輩は猫である。慈愛に満ちた世界を構築するために生まれてきた。
 吾輩こそが猫である。吾輩は地獄の妖精などに決して屈しない。死んでなんかやるものか――茶太郎のたくましい声を耳にしては、勇気をもらう春夏。
 茶太郎の毛並みにそって撫でながら、声をかける。
「茶太郎さん、ありがとね。ゆっくりやすんでね」
「な゛あああぁ~」
 大アクビ。ふてぶてしく眠りながら療養は続く。今も八つ当たりの矛先として狐姫を狙っている。

 あれほどの戦いの後だというのに子供たちが元気に走り回っている。酷い目にあったというのに、みな笑顔を絶やさないでいる。その心に傷は残らなかったのだろうか? 否、胸の奥にしかと傷は残っている。
 だけどね、と子供たちは言う。
 過去の傷をふさぐために強くなるべきだ。
 過去の痛みを乗り越えるために強くなるべきだ。
 最初の脅威に対し、誰もが激痛を感じるもの。
 次の脅威に対し、カウンターくらいはブチ込める。
 三度みたびの脅威は余裕を感じるもの。即ち、楽勝。
 人はふてぶてしくも脅威に慣れる能力を持っている。子供たちはそれを本能で理解している。誰もが強くなれると理解している。
 小さな勇気の数々に支えられ、シルキーホームは成り立っている。

 春夏は時折、胸の奥底から囁いてくる声に耳を傾ける。
 心臓の鼓動が放つ周波数は、いつだって春夏を想っている。

 心臓の持ち主――どこの誰かも知らない。だけど味方になってくれる。目には見えなくとも、いつも春夏を見守っていてくれる。そんな存在。

「誰かは知らない。名前も知らない。けれど……いつも守ってくれて、ありがとう――」
 そっと、胸に手を当ててみる。

 トクン……トクン……。

 心音以外に返事はなく、今も静かに、それでいて元気よく、鼓動は鳴り続ける。
 春夏は己に宿る臓器に話しかけた。
「私ね、あなたと一つになってから食べ物の好き嫌いがなくなったんだよ? シイタケが食べられるようになったでしょ? あとね、ニンジンも食べられるようになったでしょ? あとね、因数分解の難しいのが少し分かるようになったでしょ? あとね――」

 指折り数え、心臓とともにあることを噛みしめる。そうやって孤独じゃないことを悟るのだ。

 シルキーホームを支えることで、夢にまで見た母との再会も果たせた。
 デュラハンに立ち向かうことで、夢にまで見た勇気の欠片を手にする事ができた。
 不安もいっぱいあるけれど、背筋を伸ばし、この人間界で胸を張って生きてゆく。

 ステルス妖精――目立つ技術は持ち合わせてないけれど、ちゃんとこの世界に存在している。少しずつ少しずつ、小さな積み重ねを繰り返せば、やがて大きなものが構築される。それを証明した。

「今度、朱鷺さんに何か作ってあげようっと」
 春夏は腰を上げ、畑の野菜に手を伸ばした。
 太陽の下、今日もおいしい収穫が期待できそう。

 電池もバッテリーもない不思議な存在、心臓。
 信念ならここにある。それは邪悪なるものに臆することなく己を貫く力。
 真実ならここにある。それは己が存在しているという確固たる証。

 神が許可した鼓動と躍動、ここにあり――しんの臓を以ってして、世界中にその心音を打ち鳴らすのだ。私はここにいる。ここに生きていると打ち鳴らすのだ。

「♪~」
 曽我さんが小さなジョウロを使って畑に水を撒いている。
 そこへ子供たちが集まってきた。みんなで小さな芽を興味深くみつめて瞳を輝かせている。大地に命が芽生える瞬間だ。
「見て! このあいだ撒いた種、芽が出てきたよ!」

 どうして芽が出たの? ――子供たちが頭を悩ませている。

「水を撒いたから?」
「肥料あげたから?」
「虫を駆除したから?」
「野良犬や野良猫から守ったから?」

 命ある場所は奇跡の聖地――その命。どこかで誰かに支えられ、どこかで誰かが気にかけていてくれている。曽我さん、茶太郎、GJ!

 畑に芽生えた小さな命――小さくとも、聞こえなくとも、しかと鼓動を打ち鳴らしている。

 土を握り、手を広げる。
 指の隙間からこぼれ落ちる躍動たちは、君の指から伝わるぬくもりを抱きながら、大地に吸収されて星と一体となる。命が星の所有物ならば、いつしか我らの肉体も星に返す日がこよう。それまでの間、好きなように羽を伸ばして羽ばたいてみせろ。

 この星の名を背負いし君よ。小さくとも、星を支えている大きな力よ――地球という名は、君の別名なのだから。

 言葉、行動、食物――荒れ狂う日々の中、人は小さな鼓動たちに元気づけられ、勇気づけられ、助けられる。たとえ小さくとも、命の躍動は大きな活力を教えてくれる。そうやって人を、自然を、愛し続ける。

 人も妖精もそう。研ぎ澄まさなければ聞こえないほどに小さな鼓動の数々。それらは小さくとも、そこにある。
 だからこそ、芽吹く命に言葉を贈りたい。支えてくれる存在たちに言葉を贈りたい。

 小さな鼓動よ、愛している。
 小さな命よ、愛している。
 ジュテーム――君よ、ずっと愛している。


風の八卦 始動――。


 地獄の妖精からブラスターを食らっても尚、平然としている一匹の侍――皆、その強靭な肉体を見ては、「ああ、この人は死なない人だから大丈夫だな」とばかりに肩をすくめて苦笑していた。案の定、それは的中した。

 港で乱闘事件があったことなど、世間はとっくに忘れていた。すでに無かったことになっている。誰しも興味のないことは記憶の奥底にすら置かないものだから。
 けれどもね、それは確かにあった出来事。誰も覚えていないことでも確かに存在していた出来事。
 
 ダムに沈んだ村、神威人かむいと村――後日、朱鷺は生まれ故郷を訪れた。
 
 ダムの外れ。ポツンと残った古びた家屋が連なる。
 朱鷺は整備されていない砂利道を歩いてゆく。
 道端には雑草が生い茂り、その中にひっそりと、主人の帰りを待っていた白き一輪の花。
 小さな、小さな、とても小さな命。踏まれたとしても誰も気づくことはないであろう、その命。
 小さいけれど、風で吹き飛んでしまいそうだけれど、その花は朱鷺の帰りを待っていた。
 絶念刀を地面に置き、花びらに手を添えて微笑む。
「おまえは美人だな……。いつからそこで待っていた?」
 女の頬に手を添え、まるで口づけの合図のように、ただ優しく。そっと囁く。

 花は咲き、やがて朽ちる――四季というサイクルの中、風に揺れ、種を宿し、小さな意思を風に乗せ、新たなる大地へと旅立ってゆく。

 叢雲朱鷺――。
 流離さすらう侍と呼ばれ、
 親無しと呼ばれ、
 用心棒と呼ばれ、
 悪魔斬りと呼ばれ、
 兄と呼ばれ、
 八卦と呼ばれた。

 呼び名は出会う人と場所によって変わりゆくもの。
 それを思う度、名前もまた旅をする存在なのだと朱鷺は悟る。
 今、朱鷺は御殿たちに何と呼ばれているだろう?

 朱鷺さん――侍には、そんな列記とした名前がある。

 神威人の村人は皆、旅立っていった。もう帰ってはこない。されど、残りし者の心に意思は宿るもの。
 死しても誰かに何かを残してゆく。バトンのように、思いは想いとなって生き続ける。
 それ故、風の八卦がここにいる。

 ディアボロスと対峙した際、春夏の胸に手を当てた時、そこには確かに妹の声があった。
 もう耳を澄ましても聞こえない、今は亡き存在――心を澄ませば、誰かの声が聞こえてくるのだろうか?

 朱鷺はそっと瞼を閉じる――。

「夢……」
 妹の名を口にする。
 遠く、遠く、遥か遠くの空を見つめた。
 雲の流れが秒針を意味するのなら、誰かに想いを馳せているこの瞬間も時間は流れ続ける。過去に囚われた悪しき思いも、いつかその者から離れてゆく。

 夢は今も見守っていてくれる――夢が心から消えぬよう、そう思うことにする。

「夢。おまえが言うように、今頃おまえの体は春夏以外にも……どこかの子供に宿っているのだろうな」

 瞼に映るもの――命を落としそうな子供たちが、妹の一部によって笑顔を取り戻す光景を想像する。それは勝手な思い込みかもしれないが、都合のよい思い込みかもしれないが――。

「――ただ願わくば、その子供たちがこの世に想いを馳せ、元気な体で日々を謳歌してくれることを望む。そしていつの日か、お前の面影をどこかで目にすることができたのなら……拙者は嬉しいよ」
 瞼を閉じた頬を、風がそっと撫でてくれた。
「だからそれまでは、戦い続けるさ」

 雲が流れてゆく。
 雲が朱鷺から遠ざかってゆく。
 出逢い、寄り添い、そして離れてゆく。

 歩み出そう――たどり着く場所が地獄の妖精たちの宴の場であろうが、今の朱鷺は歩幅を縮めることなどしない。

 たとえこの身が朽ち果てようとも、どこかの誰かが、この胸に宿る意思を受け継いでゆくだろう。それまでは歩み続けるのさ――そう、朱鷺は思うのだ。

「だから、拙者は絶念刀とともに歩み続ける」
 身の丈以上もある絶念刀を手にして立ち上がる。
 ふわり。コートが風に揺れた。

 野花に背を向ける朱鷺を見送るように、一人の少女が幻となりて佇んでいる――その笑顔、今は亡きその笑顔。肉体が消えても尚、そこにある笑顔。かつては一族を支えていた力。
 これからも、兄と共に――。

 大人たち、子供たち――今は亡き村人たちが笑顔で手を振っている。『我々はもう一緒にいることができないけれど、いつまでもお前のことを想っている』。そうやって朱鷺の背中にエールを贈る。

 一匹の侍よ、お前はこれからどこへ向かう?
 答えは風の八卦が知っている。
「行き先なんか知らねえよ……そんなもんは――」
 朱鷺はダムに沈んだ村に背を向けた。
「そんなもんは……風に聞いてくれ――」

 村は沈めど、神威人の意思は残る。
 朱鷺は絶念刀を腰に掲げた。
「酔酔会……残るは4人か。少しは楽しめそうだ。そうだろう? 夢、それに村の衆よ――」
 流離う一匹の侍。旅立ちの言葉を残し、いざ参る――。


市長の品格


 聖色市せいろんし
 市長室の机に突っ伏していたすみれが顔を上げた。

 秘書の良夫は残業続き。不機嫌なツラで、ただ黙々と仕事をこなしている。
「ねえ、古賀さん?」
 菫は夜のお姉さんよろしく、ねだるように良夫に擦り寄ってゆく。
 良夫は面白くなさそうに邪険にしながら目をそらした。
「なんですか? 晴湘市には行かせませんよ? ボランティアなら他の方たちに任せておけばいいでしょう、まったく。あなたはただでさえ仕事がおろそかなんです、今月は休憩ありませんからね。黙って仕事を続けてください」
 菫はそれを聞くや否や、駄々をこねる子供のようにプゥ~ッと頬を膨らませる。
「なんでよ! ちょっと手伝いに行くだけ! いいでしょう? ……ね? お願い」
「とかいってサボる気満々じゃないですか。駄目です。通りません」
 メガネをクイッとあげて見向きもしない。
 不機嫌な良夫の肩をモミモミ。ゴマすり市長。
「顔だけ出したら帰るから! ね?」
「通りません」
「晴湘駅の手前で引き返すから! ね?」
「通りません」
「想夜に電話かけるだけ! ね?」
「通りません」
「晴しょ……」
「通りません」
「せ……」
「通りません」
「まだ何も言ってないじゃない!」
「通りません。 ……それと、あなたが休憩室に隠しておいたドーナツ、すべて職員に分け与えましたから」
「ひぎい!」

 涙目の菫市長。日常が祟ってか、仕事をおろそかにしていたツケに襲われる。しばらくの間は愛宮邸の植物たちとも会えない。そう、市長って大変なの。

「市民の税金を何だと思ってるんですか? あとこれ。今日中にハンコを押しておいて下さい。ちゃんと目を通しておくように――」

 ずどおおおおん☆

 市役所に軽い地響き。良夫の持ってきた書類の束が天井高く積み上げられ、菫の逃げ場を塞いだ。
「うわああああ!」
 菫の目の前、良夫が巨人のようにデカい態度で威圧してきた。
「ったく! 仕事抜け出して愛宮邸に行くわ、会議中にゲームやるわ。これ終わるまで部屋から一歩も出ないこと! それが終わったら部屋の掃除! 分かったらさっさと作業しろよ、このブス!」

 良夫、激おこなんだからね! ――苛立ちをぶつけながらドアを乱暴に閉めて出て行った。

 ガチャン! カン! カン! カン!

 ドアの向こうから鍵をかける鈍い音。その後はトンカチで釘を打ち付ける音。
「ま、待って! これって監禁罪でしょ!? ここから出してよおおおおお!」

 ガチャガチャガチャ、ドンドンドン!

 ノブを捻るがびくともせず。ドアにすがり付く涙目の菫。どんなに叩いても、閉ざされたドアが開くことはなかった。
「トイレはどうするのよおおお!?」
 振り返ると部屋の片隅に簡易用トイレ。簡単なダンボールとガムテープで作ってある。まるで小学生の図工作品だ。
「……」
 それを見た途端、一気に血の気が引く。
「いやあああー! 人権侵害ー! ドーナツ返してよおおおおおお!」

 血税という名の牢獄に閉じ込められた菫――その日から数日間、聖色市役所に若い女の悲鳴が絶えなかったそうな。
 めでたしめでたし?


塩分はひかえめに。


 愛宮総合病院――。

 鴨原が目を覚ました。
 ただぼんやりと、飾り気のない天井が見える。
(ここは病院? 俺は、死んだのか……?)
 そう思っては、
(そんなワケないか……痛っ)
 寝返りと打とうとした途端、腰に走る激痛で頭が冴えた。鼻や手足に絡まるスパゲッティにウンザリしながら布団の胸元へと視線がいく。体にかかる重みに違和感を感じたからだ。

(咲羅真、御殿――)
 イスに腰掛けた御殿が布団の上に突っ伏しながら眠っていた。

 鴨原の視線の先――あどけない寝顔、まるで子供のよう。暴力エクソシストの名を欲しいままにしている戦士とは到底思えなかった。寝顔は誰でも愛らしいとは言うが、御殿も例外ではない。

 コン、コン――。

 病室のドアからノックの音。女性看護師が笑顔で入ってきた。
「目が覚めましたね。そのお嬢さん、鴨原さんが眠っている間、ずっと隣に座っていたんですよ? 『ボディーガードだからここにいる』ってダダをこねて言うことを聞かなかったんです。面会時間をとっくに過ぎているのに帰らないし、まわりが何を言っても聞かないんだから……まるで子供――」

 まったく、と肩をすくめる看護師。苦笑しながら鴨原の点滴を操作し、それが終わると病室から出て行った。

「ん……」
 御殿が目を覚ました。寝ぼけ眼をこすりながら鴨原の姿を見ては、表情をやわらげた。かと思いきや、頬を膨らませてムスッとする。忙しい表情筋をお持ちだ。
「鴨原先生を刺した犯人は薬物乱用者ということで処理されました。先生、ニュースでもすっかり有名人ですよ?」
 その薬物乱用者の脳天は、御殿が晴湘市でブチ抜いている。
「有名人、か……なんだ、そんな顔をして? サインでもしてほしいのか?」
「いい加減にして!」

 声を張り上げる御殿を前に、鴨原が押し黙った。冗談交じりでからかったら、いきなり怒られてしまった。

「もうこれ以上、無茶なことしないでよ……」
 御殿は瞳いっぱいに涙を溜めて鴨原を睨みつけた。まるで口喧嘩に負けた女の子よろしく、ふて腐れたような、それでいて精一杯気持ちを訴えてくるような、そんな目をしていた。
「……」
 鴨原の中に罪悪感。声にならない声で唸り、目をそらし、己の失言を誤魔化した。
「暴力エクソシストでも……涙、こぼすのか?」
「当たり前でしょう?」
「八卦でも……涙をこぼすのか?」
「当たり前でしょう……ばか。身近な人が傷ついても平常心でいられるほど、わたしの心は強くはないんです」
「……」

 ふたたび鴨原が黙る。面と向かって「ばか」と言われたのは何十年ぶりだろうか。政治家になってからはゴマすりと陰口しか聞こえない。殺されかけたことだってある。脅迫なんて毎日だ。「馬鹿」はよく耳にするが、「ばか」を耳にするのは久しい。愚弄と敬愛。同じ単語なのに意味が真逆にとれた。
 御殿のそれは相手を否定する言葉や罵声などではなく、軽蔑以外の感情が作り出す単語。鴨原には罵声よりも傷口にしみた。

 しばらく御殿の顔色をうかがう鴨原。人の顔色をうかがうのはいつ以来だろうか。いくつかの過去を思い描いていると、御殿から現状を伝えられた。

「晴湘市の復興はもう始まってます。わたしもこれから向かうところです」
「……そうか」
「政府が重い腰を上げました。裏で鴨原さんが動いてくれてたんですね」
 政府を動かすには何事も時間がかかる。事前に誰かが尻を叩けなければ鈍い牛は歩かない。
「……何人かの政治家の弱みを握っている。ちょっと脅してやったら、この有様さ」
 政治家の中にはババロアの息のかかった人物がいる。それ故、街中で刺されて当然だ。
 御殿がめくれた布団を直しながら鴨原を寝かしつける。
「みんな、あの街に帰ってくるんですよ」
「……そうか」
 不器用な男。気の利いた言葉ひとつ思いつかない。

 話は御殿が聖色市を訪れた日に変わる。
「九条様から話は聞きました。鴨原さんがわたしを聖色市に呼んだんですね」
「……」
「あなたはあらゆる手段を用いてわたしを消そうとした」
 否定しない鴨原だったが、御殿の次の言葉で表情がこわばった。

「わたしが酔酔会の手に渡るまえに――」

「……何のことだか分からないな」
「とぼけたって遅いです。あなたは、わたしや水無月先生の身をずっと気にかけてくれていた。そのことに嘘偽りはないのですから」

 鴨原は窓の外に目を向け、青い空を見つめては過去を呼び覚ます。深く、静かにため息をつき、胸のうちを伝える。

「あの日――シュベスタ研究所で幼かったキミを破棄した日、水無月主任は研究員たちの前で泣き崩れた」
 鴨原の脳裏に当時の出来事が鮮明に蘇る。

『返して! 返してぇ! お願いよおぉ……、私の赤ちゃん……返してよおお!!』

 何人もの研究員にすがりつく彩乃は嗚咽を上げて泣き崩れ、叫び、絶望した。
 天才と呼ばれた女が子供を取り上げられることで、これほどまでにあっけなく壊れてしまう――それを見た途端、いち研究員だった頃の鴨原は、『天才・水無月彩乃』は幻であり、ただの人間であると悟ったのだ。

「水無月主任が涙を流した日、俺は内心、ホッとした」
「……え?」
 首を傾げる御殿に鴨原は言った。
「俺は水無月主任を『人間ではない、どこか遠い宇宙から来た知的生命体だ』、そう思っていたのかもしれない。それだけ彼女の頭脳はズバ抜けて高かったんだ。だが、彼女がひとりの平凡な母親であると確信した瞬間、とんでもない過ちを犯していることに気付いた。扱っている研究対象、すなわちキミが人であることに気づいたんだ。何を今さら、と思うだろう? だが、それが俺の本心だった」

 八卦は兵器ではなく人である――驚異的な力を前に、誰しもそれを忘れてしまう。鴨原も例外ではなかった。

「キミが兵器として利用されれば、人間界も妖精界も地獄と化すだろう。キミが存在している以上、必ずその力を戦争に利用する輩が出てくる」
「鴨原先生は、わたしを他の企業に売ろうとしてましたよね? だけどそんな企業は存在しない。あなたは戦争を止めるための組織を探していたところだった。わたしは、戦争を止めるために作られた存在――違いますか?」

 そう御殿に問われ、俯く。

「水無月主任には兵器と化したキミの姿を見せたくなかった。酔酔会のような連中に利用されないためにも、先にキミを消すこと。それが俺にできる唯一の償いだった――不安定な八卦の力が安定を取り戻せなかった時、その存在は脅威となる。脅威をコントロールできるハイヤースペックがC&C。世界のどこかにその能力を所有する妖精がいるのは知っていたが、まさかババロアだったとはね」

 鴨原は窓の外に目をやる。雲の向こう、八卦をめぐっての争いが見える。

「八卦の争奪戦はもう始まっている。所詮、人間は自分の利益が優先だ。誰だって自分が可愛いからな。どこの組織や国が八卦を手にするかは知らんが……絶大な力を所有して、勝手に世界を手中に収めればいいさ」

 流れる白い雲が通行人に見える。さまざまな感情で埋め尽くされた気持ちなんて通りすがりに分かるはずもないのだ。と、ひとり勝手にすねる鴨原。そんな感情でさえ、勝手に決めた妄想でしかないというのに。
 宗盛を撃った時もこれ以上ないほどに焦っていた。邪魔なものを消しておかなければ、八卦の暴走は阻止できない。トリガーを一回引いただけで戦争を阻止できるならば、正直、そこで終わってもいいと覚悟を決めていた。

 後ろ向きの中年に向ける御殿の視線は切なさ、悲しみ。
 「そんな過去は忘れて、八卦の話などどうでもいい」といわんばかりに、御殿は話題を変えた。

「またお部屋、掃除しにいきますからね」
 鴨原は顔を背け、視線を逸らした。
「……もう来なくていい」
「ダメ! 絶対に……ダメ」

 感情むき出しの御殿に驚いた鴨原が口を噤んだ。目の前のエクソシストが無邪気な子供に見えたのだ。研究所で育てていた、あの頃のNo.01ナンバーゼロイチ――兵器ではない、ひとりの人間。

「わたしを破棄した罰です。作ったものもちゃんと食べてもらいますからね。コンビニ弁当ばかり食べてるのは分かってるんですから」
「言われた通り自炊は心がけているよ。嘘だと思うならメイヴ大先生に聞けばいい」
「病み上がりの体で食事の支度なんてできるものですか。作りにいきます、はい決定――」

 だだをこねる八卦。それを見た鴨原が苦笑する。

「来てくれても構わないが……掃除機をかける時くらいは部屋の隅に追いやらないでくれよ? これでも怪我人なんだ――」

 体が覚えた痛みは自分の所有物であり、他者の痛みを教えてくれる声でもある。
 痛みを、苦痛を、知った者こそが勝者だ。それを勝ち取った者が世界を引っ張ってくれる事を誰もが願ってやまない。痛みを知らない奴に世界は任せられないのだから。

 鴨原の胸の奥に一冊の本がある――どんなに巨大な本棚でさえ、その書籍を飾る事などできはしない。その本のタイトルは……鴨原だけが知っている。

 鴨原が口をもごもごさせて言う。
「あと、それから……この前の健康診断で医者から言われた。その……、塩分はひかえめにしてくれると、助かる――」
 血圧高めの男はそう告げると、そっぽを向いて顔を隠した。意味もなく窓の外を見ては視線を合わせることを拒むのだ。
 御殿は呆けた顔をした後、くすりと笑い肩をすくめた。

 鴨原稔――不器用な男。照れ屋な男。八卦プロジェクトを始動させた男。されど血圧が気になる、どこにでもいる普通の男――。


晴湘市へようこそ!


 ほわいとはうすに戻った御殿は荷物を準備すると、ふたたび想夜たちと一緒に晴湘市を訪れた。

 多くのボランティア団体が顔をそろえる中、そこには要請実行委員も活躍中。復興支援者たちに炊き出しを振舞うため、御殿と一緒に大釜を運ぶ。

 腕まくりの叶子がメイドを引き連れてやってくる。
 ヘリの救援物資が到着すると、叶子がメイドたちに支持を出しながら運搬作業に移る。

「ラテリアはそっちの食器を運んでちょうだい。華生は御殿の調理を手伝ってくれるかしら?」
「「かしこまりました、お嬢様――」」

 御殿は調理班のテントでジャガイモの皮むき。想夜に教えながら作業開始。

「想夜、菫さんと連絡取れた?」
 叶子が問うと、想夜がゆっくり首を左右させた。
「ううん。それがちっとも電話に出てくれないの。忙しいのね、きっと」
「菫さん、あれだけ復興支援に張り切っていたのに……残念ね」

 「晴湘市の復興支援には私も混ぜてよね! 俄然張り切っちゃうんだから!」――愛宮邸で意気奮闘する菫の姿を思い返しながら、叶子は肩をすくめた。
 ※ちなみに菫が自由を獲得する日は、とうぶん先の話である。

 想夜がドヤ顔を向けてくる。
「あっ、見て見て御殿センパイ、あたし千切り上手くなったんですよ? 他にもたくさん出来ちゃうんだからっ」
 エッヘンと胸を張る。
「本当? 指切らないように気をつけてね」
「任せてっ。美味しいの、たくさん作っちゃうんだからっ。頑張っちゃうんだからっ♪」
 想夜につられて御殿も腕まくり。
「ふふ、期待している。今日は忙しくなりそう。気合入れなくちゃね」

 駅前中央広場に並べられたテントは各地から集まった人々で混雑していた。皆、晴湘市の復興を望んでいる。

 コンロに調理器具をセットする想夜たち。
「御殿センパイ、こっちは準備OKでーす!」
 食材を切り終えた想夜が元気いっぱいに手を振る。
 御殿は笑顔で「ありがとう」と手をあげて返事をすると、腕をまくって包丁に手を伸ばす。
「さてと、わたしも残りの食材を片付けますか」
 まな板に食材をセットして包丁を握りなおす。
 ズババババババ!
 怒涛の速さで野菜を切り分け、カタカタと包丁とまな板のリズムを奏でた。

 大量の食材は隣町からの支援。御殿がそれらを一気にさばいてゆく。常日頃から料理していることもあり、手馴れたもの。見る見るうちに下ごしらえが出来上がってゆく。

「あたしも御殿センパイに負けてられないんだからっ」
 想夜も見よう見まねで奮闘するも……
「あイター、指切ったー」
 こんな感じ。言わんこっちゃない。
「無理しない。手を見せなさい」
「えへへ……」
 御殿は想夜を手当てしつつ、食材の切り方を指導。晴れた空の下で家庭科の課外授業。
 狐姫が近づいてきては、想夜を指さしケタケタと笑う。
「いやあ、さっすが想夜さん家庭科2! パネェっす! まじパネェっすわ!」
 馬鹿にしながらのつまみ食い。
「もう、笑ってないで狐姫ちゃんも手伝ってよねっ」
 先ほどから広場と山のふもとを行ったり来たりしている狐姫。
「狐姫、さっきからどこに行ってるの?」

 御殿の問いに、狐姫は山林に視線を向けた。

「山が散らかっているからアイツらと一緒に片付けているんだ」
「アイツら?」
 御殿が首を傾げる。

 狐姫の話によると、ババロアのウイルスから解放されたトロルたちが、倒れた鉄柱や大木の撤去作業に勤しんでいるとのこと。普段の大人しい性格に戻り、人々との共存を願う妖精の心を取り戻したのだ。作業が終われば、人知れず森に帰ってゆく。平穏な日々を送るために。

「――で、狐姫も大木を運んでいたのね、偉いわ」
 頭を撫でてくる御殿の手をパシッと払う狐姫。鼻高々にドヤ顔。
「フン、あたぼーよ。散らかったままだと運搬作業に支障が出るからな。俺のマグマで山ごと綺麗に焼き払ってやるぜ。今夜は狐火が拝めるぜえええ~」
「……是非ともやめてね」
 ゲヘヘと下品な笑い方をする狐姫に御殿が引いた。
 部屋を片付けなさい、と言われて部屋ごとキレイに消し飛ばす――そんな考えはやめましょう。

 暴力エクソシストの会話を笑いながら聞き入る調太郎。御殿の手さばきを見ながら自分も包丁を動かす。
「御殿、ずいぶん包丁の使い方がうまくなったな」
「まあ、うん……」

 返答に困る御殿。調太郎の作ったお菓子によって救われた子供たちの笑顔を思い出す度、料理で人々を笑顔にできる能力に尻尾を巻いてしまう。八卦にも敵わないものだってある。

「でもお前、なんかスカした感じになったよな。昔はもっと可愛げがあったよ、うん」

 冷酷なエクソシストである御殿を見慣れていないためか、調太郎の目に映る御殿はすっかり別人。変わってしまった御殿を見ては、変わらなければ乗り越えられない壁があるのだと理解する。

「うんしょ、うんしょ……」
 水角がダンボールいっぱいのキャベツを両手で抱えてやってきた。
「お姉ちゃん、このキャベツ、どこに置けばいいの?」
「ああ、それは……」
 テキパキと弟に支持を出す姉。

 調太郎は水角の背中を目で追いながら包丁を動かす。

「あれ本当にお前の弟? 昔のお前とウリ二つじゃん。どう見ても女の子だろ?」
 それを横で聞いていた源次が不自由な片足を投げ出して椅子に腰かけ、ジャガイモの皮を剥きながらが苦笑している。
「先日、あの子がウチの店に来た時は本当に驚いたよ。もうすぐ御殿に会えるんじゃないかって、調太郎と話していたんだ。いい知らせを持ってくる伝書鳩のようだった。調太郎は『そんなはずない』と疑っていたんだが……現実、こうして皆が再会できる日が来るなんて思わなかった」
 そう言いかけ、前言撤回。
「――いや、心のどこかで願っていたから現実になったのかもしれないな」

 源次はそうやって、晴湘市の出来事を一つずつ思い出す。

「ババロアが初めて晴湘市に来た日、俺はあの女を追い返した。碧が面白くなさそうな顔をしていたんだ。碧の出産が伸びたはその頃だ。コイツはきっと、迫る脅威に怯えて腹から出てこなかったんだろう」
 と、幼い娘の頭を撫でる。不自由な片足の位置を直し、娘と一緒に下ごしらえを続けた。子供には碧の面影がちゃんと備わっており、数年後には店の手伝いもすることだろう。

 御殿は険しい顔を作り、一端のエクソシストとして答えた。
「想夜から聞いた話だけれど、インスピレーションは計り知れない、直感にしたがう姿は何にも勝る計測器にもなる――だそうよ」

 それを調太郎がクネクネと変顔を交えてマネする。
「『インスピレーションは計り知れない』、キリッ。おまえ生意気になったよな。喋ってないで手を動かせよ。ったく、胸とケツばっかりデカくなりやがって……」
 頭にタオルを巻いた調太郎、包丁片手に御殿を再指導。鬼軍曹ふたたび。
「ちゃんと手、動かしているでしょう? あと胸とお尻は関係ないでしょう?」
 御殿は赤面しながら両手で胸を覆う。ジロジロ見ないでよ、この変態! と言わんばかりに調太郎を睨み返した。

 狐姫がダンボールに敷き詰められた大量の野菜を両手で抱え込み、テントに近づいてきた。
「なあ調太郎?」
「あん? ……呼び捨てかよ。飼い主に似やがって」
 調太郎が深くため息をつくと、狐姫が声を荒げた。
「飼い主とか言ってんじゃねーよ。俺は御殿のペットか?」
 調太郎は野菜を切りながら狐姫の体を指摘する。
「似たようなもんだろ。耳と尻尾なんか生やしやがって。それ本物か? ちょっ、触らせてみ?」
 と、痴漢のごとく手を伸ばす。
「そっちこそ御殿にソックリじゃねーか! どいつもこいつも俺の体を弄びやがって!」
 狐姫が顔を真っ赤にして調太郎を指差す。その言い方だと周囲に誤解を招くぞ。
「ほら2人とも、遊んでないで作業する」
 隣の台所から御殿の声。狐姫と調太郎をピシャリと叱る。
 それを聞いた調太郎がふて腐れ、ブツブツと物言いをはじめた。
「ヘイヘイ、分かってますよ~、ちゃんとやってますよ~。あ~あ、御殿も偉くなったよな~、言うようになったよな~、あの御殿がさあ~」

 チラ。調太郎が御殿を一瞥。

「な、なに? わたし変なこと言った?」
 御殿、不満な態度でちょっと引き気味。

 そこへ想夜が瞳を輝かせながら割り込んできた。

「調太郎さん! 子供の頃の御殿センパイってどんな感じだったんですか?」
 ワクワクテカテカ、教えて教えてー。要請実行委員会は興味津々のご様子。
「昔の御殿? そりゃあアレだよ……な?」
 調太郎が御殿に目配せ。
 御殿は冷たい眼差しを育ての親に送る。「余計なことを言ったらタダじゃおかない」と言わんばかりの氷の眼差し。

 少々尻ごみしながらも調太郎は語る――「おまえらの知っている御殿だよ」と。泣いたり笑ったり。時にはふて腐れ、いつでも世界に想いを馳せている存在だ、と――。

 それを聞いた狐姫がつまらなさそうに頭の後ろで腕を組んだ。
「な~んだ、昔はまともだったんだな。今は間食しただけで銃で頭を打ち抜きにくるぜ?」
 それは言い過ぎ(笑)。

 調太郎が話を続ける。
「でも源さんを見ていた時の御殿の瞳は、こう、なんつーか……恋する乙女ってやつ? 頬を真っ赤にしたりして……」
「こここ、御殿センパイの初恋!?」

 えらいこっちゃえらいこっちゃ、恋のライバル出現か!? ――想夜が慌てふためく。誰かに取られまいと御殿の腕に自分の腕を絡ませて密着し、不安な表情を見せた。

 御殿が想夜の頭を撫でて宥めた。
「勘違いしないの。物心ついた頃だったから人見知りしてただけ。そのことで調太郎にはよくからかわれたけどね」

 セーフ! 御殿と源次に脈無し。想夜が胸を撫でおろす。
 いっぽう御殿は、次から次へと調太郎から受けた仕打ちを思い出してはドンヨリと表情を曇らせた。

「調太郎からの仕打ちは本当に酷かった。対戦ゲームで徹底的にいびられたり、調太郎が酔っ払って汚したテーブルの後片づけもさせられた。無理やりお酒を買いに行かされて、レジで『未成年だからダメ』って断られて、それから――」
 おタマを手にした狐姫が味見をしながら御殿をつついた。
「そういえばお前、けっこう根に持つタイプだったよな。昔からちっとも変わってねーのな。マジきめえ……」
「そうそう、御殿ってすっげぇ根に持つだろ? こいつマジきめえよな」
 調太郎。すかさず狐姫に便乗したまではいいが……、
「……あ、なんでもないですスミマセン、黙って料理します……」
 御殿のギロリとした眼光を前に身を小さくした。
 暴力エクソシスト。今では育ての親よりしっかり者だ。

 黙々と包丁を動かしていた調太郎が何かを思い出す。
「あ、そうだ。ところで御殿……?」
「ん?」
 鍋を見ている御殿が返事をすると、調太郎がとんでもないことを暴露した。

「……もうオネショは治ったのか?」

「……」
「……」
 想夜と狐姫、絶句。
 その後、耳まで真っ赤にした暴力祈祷師が顔を伏せて俯いてしまった。
「あ、これ言っちゃいけなかったんですか? こりゃ失礼」
 調太郎が白々しく御殿をおちょくった。
 狐姫は既に堪えきれず、
「うわっ、やっべぇ! 超やべぇ!! いいこと聞いちったぜえええ! おーいお前らー!」

 ドドドドドドッ!!

 狐姫が叶子たちのほうに走ってゆく。そりゃあもう全速力で土煙を立てながら。
 愛宮メイド達が顔を寄せ合うところで狐姫が全員に耳打ち。
「おい聞けよ、御殿が昔さあっ」
「えー、なになに~?」
「何事でございますの?」
 さっそくメイド達がキャーキャー騒ぎだしている。狐姫から話を聞いた後、
 チラッ。
「「「「「「プッ」」」」」」
 御殿の方を見て狐姫と一緒に吹き出した。
「……」
 それを遠目に、無言で見つめる御殿。普段のクールっぷりが一瞬で崩壊。かわいそうな御殿。くだんのネタで、しばらく狐姫からいじられそう。

 はしゃぐ連中を遠目に、調太郎が口を開いた。
「……水無月先生から今までの事を聞いたぜ」
「……そう」

 災害から2年以上を振り返るも、御殿はどう返したらよいのか分からず、ただ俯いて食材を切る。

「この前、水無月先生にお礼言っといたぞ」
「……うん」

 息絶えた碧から赤ん坊を取り出す作業を調太郎に指示したのは彩乃だ。炎の海の中、帝王切開は行われ、一つの生命が救われた。

 楽しそうに話している想夜と狐姫を見ながら、調太郎は手と口を動かす。
「いい仲間、見つけたんだな」
「……うん」

 御殿は頬を染めて俯く――仲間たちはかけがえのない誇り。その者を取り巻く人間関係によって、その者の人間性も作られてゆく。こころざし高き者の周りには、同じような志高き者が集うもの。仲間を見られているという事は、心を覗かれているという事。ちょっと恥ずかしく、ちょっと鼻が高い。

 御殿の成長を確認した調太郎がポツリと口を開いた。
「俺の役目は……もう終わったんだな」
 そう言って、黙々と包丁を動かす。少しだけ声のトーンが落ちた感じ。寂し気な感じ。子供が親の手を離れ、遠くへ行ってしまう時の空虚。

 御殿は顔を上げると、しみったれた空気を吹き飛ばすように笑顔を作った。
「あなたはずっと家族よ。離れていても、もう忘れることはしない。だからね、悪魔に襲われたら呼んでちょうだい、すぐに駆け付けるから」

 成長したエクソシストを前に、調太郎は角膜を潤ませた。あの頼りなかった御殿が、今では悪魔が恐れる存在にまで成長を遂げた。それが嬉しくないわけがないじゃないか。頭に巻いたタオルを乱暴にむしり取ると、顔の汗を拭いながら、一緒に目のまわりも拭く。

「バッカだな、お前。悪魔になんて襲われねーよ。俺は料理人、戦う舞台が違うだろうが」
「襲われたじゃない」
「うっせ。次襲ってきたら、またフランパンでボコってやんよ」
 と御殿の髪をわしゃわしゃとかき乱す。料理人は台所が戦場だ。たとえ悪魔だろうが厨房に入ることは許さねえ。全身でそう叫んでいる。
「そうね。わたしはエクシスト、調太郎は料理人。お互い役割りがあるものね」
 育った環境が同じでも、歩む道は違う。されど、
「……御殿」
「ん?」
 御殿が不思議そうに顔を傾けた。
「いや、その……」

 煮え切らない態度の調太郎。一度は口を噤んだものの、やはり打ち明けることにした。

「この前、碧さんが夢に出てきて言ったんだ。『おなかの赤ちゃんをありがとう』って。笑顔だった。こういうのって、ただの夢なのかな? なんていうの? こういうのって、夢で終わらせたくないんだよな」
 御殿がクスリと笑って困り眉を作った。
「奇遇ね。わたしも想夜たちも同じ幻を見た。だから、ただの夢で終わらせると碧さんに怒られるかも」

 調太郎がはにかんで鼻をすすった。

「だな! キレるとおっかねーからな碧さん」
 晴湘市の生き残り。ふたりで晴れ渡った空を見上げる。

 『おいしいの、作れるでしょ? みんなに炊き出しを振舞ってあげて――』。

 晴湘市が闇に堕ちたあの日、碧と交わした約束――御殿は今日、仲間とともにそれを果たした。



 復讐は正義か?

 ――否、復讐の連鎖は地獄。戦争を繰り返すだけだ。
 けれども生かしてはおけない存在がいるのなら、その牙を以って立ち向かわねばならない。
 己のため。皆のため。
 多くの悲痛を食い止めるために立ち向かう行動は、より多くの笑顔を築く道へと続くのだから。

 復讐はひとつの美しい正義か?

 そうかもしれない。
 違うかもしれない。

 正義の真偽なんて人間に分かるものか。だからこそ、盲目の戦士と成りて手探りで進むことが真とされる。不器用に生きることしかできない我々を、女神はどんな顔で見守っているのだろう。それを想像する事は、決して容易くはない。
 だからこそ、歩み続けることが真とされる。
 故に、歩み続ける。
 その場に答えがないのなら、きっと別の場所に答えがあるのだと、そう信じて……。


 ひとつの戦争が終わった――。


 晴湘市に賑やかな声が響く。
 大人も、子供も。動物、植物――みんな、みんな、笑顔。
 笑顔たちが増えるたび、この世から戦争は消えてゆく。

 戦争にとって勝ち目なき存在。それが笑顔たち。
 分かっている。戦いは始まったばかりだ。些細な笑顔では我々に勝ち目はない。
 けれども戦争よ、お前たちに次の言葉を贈ろう。


 戦争たちに告ぐ――
 我々妖精は、我々人類は、お前たちに屈することなく挑み続ける。
 そうしていつの日か、世界からその姿を跡形もなく消してやる。
 自然界における全ての笑顔を以ってして、いつの日か、そのしんの臓を貫くだろう。
 その時まで、首を洗って待っていろ。

 戦争たちよ、覚悟しておけ――。



 旅立った者達は、今頃どうしているだろう?  ――想いを馳せるたび、向こうも同じことを考えている。
 彼らがこちらの状況を確認してくる。もう肉体はないけれど、あの日の元気な声のままで――。


 そちらの世界はどうですか?
 おなかは空いていませんか?
 暖かい布団で眠れていますか?
 あの時の笑顔のままですか?

 私たちは……あの時の笑顔のままです――。



 青空の下、みんなが笑顔で箸を口に運ぶ。
 そこは大きな食卓となり、たのしい食事の時間となって聖域を作り上げてゆく。
 たくさんの魂が笑顔で集う場所――今、晴湘市の復興が始まる。
 
 食べなさい。
 たくさん食べなさい。

 眠りなさい。
 ゆっくり眠りなさい。

 幾つもの地獄を越えてきた魂たちには、それが用意されているのだから。
 
 笑顔。笑顔。
 この星に笑顔の食卓がまた増えた。
 これは、そんな日の出来事でした――。


第4話
『魂たちの還る場所』