9 八卦 水無月水角みなづきみずの


 海岸をかこむように、何枚もの防波堤用プレートが設置されている。
 宗盛たちがコントロールルームに駆けつけた時には、すでに水角の手によってプレートの操作が行われた後だった。
 まばらに下がっているプレートを全て引き上げたため、そこから巨大な影はプレートの内部まで入りこんでいた。

 遥か遠く、ダフロマがこちらへ向かってくる。
「侵入を、許してしまった……」
 晴湘ハイウェイの上で想夜たちは、ただジッと見つめていた。
 御殿はバイクのスタンドを立てて停止。走っていった水角のバイクのタイヤ跡を目で追いながら彩乃たちに歩みよってくる。
「水無月先生、説明してください。あのバイクの少年は誰なのですか?」
 彩乃は一瞬だけ口を閉ざした。
「すでにプレートは引き上げられました! ダフロマが上陸するんです!」
 強く迫る御殿。無理やりにでも聞きだそうとする決意がある。
 つり上がった御殿の目。ジッと見つめた彩乃は、たじろぎながらも打ち明けた。
「御殿さん、実は貴方に話しておかなければならないことがあるの」
 彩乃は後から生まれてくるはずだった命の名を御殿に話す。
「あの子の名前は水角。私の卵子で作られた子供――そして御殿さん、アナタの弟よ」
「御殿センパイの弟!?」
 それっきり想夜たちが黙った。なんとなく想像はできていた。少年は御殿とよく似ていたからだ。
 御殿が顔をしかめた。
「わたしの……弟? つまり……わたしに、家族がいたということでしょうか?」
「ええ……それだけじゃない。あの子はディルファーのデータを受け継いだ、『水』を司る八卦よ」
「水の……八卦?」
 御殿の動きが硬直した。少年の真実を知ったのだ、驚かないわけがない。
 御殿の心境を知るものはいないだろう。本人ですら分かっていないのだから。
 彩乃はロナルドから伝えられた事情を説明する。淡々と口を開く彩乃だったが、いちばん精神を揺さぶられているのは母親である本人だ。
 生まれる予定のなかった子供だった――それが突然、八卦の子供が目の前に現れ、「この子は、アナタの子」とか言われてみれば分かること。喜べばいいのか、悲しめばいいのか、親ならば混乱するに決まっている。
 力を持った者にはそれだけの責任が課せられる。水角は力を持った責任を背負っている。
 彩乃は母親だ。御殿と水角の母親だ。好き好んで自分の子供に余計な責任を背負わせたくない。可愛い我が子を危険な目に合わせたくないのは母として当然のこと。
 けれど不運なことに、子供のひとりが母親である彩乃を消しにくる。それを護衛するために姉の御殿は身を挺して動く。結果、姉弟は対立することとなった。
「私は、貴方たち姉弟に争ってほしくないの。この気持ち、分かるでしょ? 自分の子供たちが命を奪い合うなんて、正気の世界じゃないわ」
 正気の世界じゃない――狂気の世界で生き延びてきた女が、そう言った。
 彩乃の言うとおり、姉弟ゲンカにしては出来すぎたシナリオだ。八卦同士の対決、それはケンカではなく殺し合いである。戦い方しだいでは、島が一瞬で吹き飛ぶ。
 彩乃の悲痛な叫びを耳にするたび、御殿の胸がピリピリと締め付ける。母の思いが痛いほど伝わってくるのだ。
 御殿は少し考え、彩乃に言う。
「水角のことは、任せてください――」
「お願い御殿ちゃん、あの子を――」
 あの子を殺さないで。すがるように近づく彩乃は、きっとそう言いたかったのだろう。ましてや「御殿さん」ではなく「御殿ちゃん」と呼んでいる。本当はそう呼びたいのだ。本音を隠せないほどに、彩乃は切羽詰まっていた。
 御殿は彩乃の言葉の途中で返事をする。
「あの子を生かして連れ戻します――相手の出方次第だけれど」
 御殿は武装を再度確認しながら話しを続ける。
「相手も八卦。強い力同士がぶつかれば被害がでます。被害者は相手かもしれないし、わたしかもしれない」
 たとえ肉親であったとしても、刀の矛先を向けてくるようならば、迷わず頭を打ちぬかなければならない。それが戦場だ。
「けれど、今は命を優先させる方向で進めたいと思います。なるべく無駄な血を流さずに済むよう、努力します」
「御殿ちゃん……」
 また『ちゃん』づけ。子供がそこまで考えてくれていることは母親名利につきる。優しい子に育ったものだと誇りに思う。
「母親ならば、あの子が悪いことをしているのなら、叱ってやってください……行ってきます」
 御殿はバイクにまたがり、その場を去った。
 

暴撃妖精ダフロマ


 高速道路中央に残された狐姫が両手をあげ、「う~ん」と伸びをする。
「さーて、親子の対談が済んだことだし。俺たちはここでダフロマを待つとするか」
 その後、トレーラーの上によじ登り、水平線手前の物体に目を向ける。
「あの距離だと……あと2~3分でこっちにくるな」
 周囲にトレーラーの無線が響く。声の主はロナルドだ。
『本当に娘の命は保障できるんだろうな!?』
 何の問題もありません――だなんて無責任なセリフ、彩乃には言えなかった。
 やれることは全力でやりたい。でも限界だってある。
 すると、口ごもる彩乃のインカムに向かって想夜が叫んだ。
「ロナルドさん、もしものことがあったら、あたしの心臓をリンちゃんにあげます! 使ってください」
 いつもながら、想夜はとんでもないことを言う。
 さらに狐姫がコンテナの上から顔を覗かせてきた。
「じゃあ、俺の心臓もやるわ。2つあれば文句ないだろ?」
 想夜に負けじと言ってやった。
「狐姫ちゃん、2つも心臓あったら抜作先生みたいでおかしいよっ」
「バッカおまえ、抜作先生の心臓は7つだろ? ……あれ? 8つだっけ? まあいいか」
 「いや、そんなに心臓あったら他の臓器を圧迫すっから」――沙々良がダフロマを睨みつけながらツッコミを入れる。
 2つの心臓、かなり頼もしい。けど、そんな単純な問題じゃない。もうじきここへやってくる大型物体を始末しなければ、想夜達だけではなく、大勢の犠牲者が出ることになる。
 頃合を見た沙々良がインカムごしに呟く。
「ダフロマ接近。カウント入るよー。鹿山ちゃん、リンちゃんを起動させてくれる?」
『わかりました』
「水無月主任もコンテナに向かってください」
「わかったわ」
 指令を出しまくる沙々良。ピンチに強い性格のように見えるが、内心ビクビクしている。それが人の本音というもの。けれど誰だって腹をくくる覚悟を持たなければならない時がくる。それは誰にでもやってくるのだ。
 
 未開通の高速道路。上空のヘリはすべて避難させた。というより、情報漏洩があってはならないので、近辺のレンタルヘリをすべて借り切り、格テレビ局への圧力もかけた。おかげで上空は静かなもの――これが金の力、そして権力だ。
 彩乃がコンテナの中へ入ると詩織がスタンバっている。互いにうなずき、ふたたびスリープケースに手をかけた。
「八卦 リン・ルー。起動スタンバイ――」
「脈拍正常、心拍数正常――」
 冷却システムは常温に戻されている。いつケースを開いてもリンの体では温度差は感じられないハズだ。
 蒸気のような煙を吐き出し、ケースが自動でゆっくり開く。と同時に小さな戦士が目を覚ます――。
「おはよう、リンちゃん」
「おはよう、彩乃先生、詩織先生」
 リンがニッコリと笑う。
 
 暴撃妖精ダフロマを打ち砕くための核弾頭、ここに目覚める――。
 
 インカムからロナルドの怒鳴り声が聞こえてきては、彩乃を責め立てる。
『いいか、もしものことがあったら――』
 リンが彩乃のインカムを元気よく掴んだ。
「パパ、リンは大丈夫。信じて」
 とても楽しそうに話すリン。本当はこんな時を待っていた。父と本音で話せるこの時を。背水の陣であるが故、人は本当の気持ちを打ち明けることができるのだ。死ぬ前に、消える前に、伝えたいことが、人間にはたくさんある。
 けれども、これは死ぬための戦いではない。生き残るための戦いだ。それをリンは確信している。その胸に、これからの未来予想図を描いては、心躍らせるのだ。
「リンね、治療が終わったら行きたい所があるの。食べたいものがあるの。もちろんパパも一緒。たまにはお仕事休んでも、いいでしょ?」
 インカムの向こうのロナルドが黙った。返答に困っているようだ。
「パパの食べてたプリン、今度一緒に食べたい。パパの話していたねり飴も、一緒に食べたいの。パパが子供の時に行った屋台にも行ってみたいの!」
『……わかった……わかったよ、リン。約束だ。けれど、屋台は昔のことだから、もうないかもな――』
 ハハハ、と弱った感じで苦笑するロナルド。その後、通信から声は聞こえなかった。
 彩乃には分かる。ロナルドは娘に支えられているのだ、と。

 押し寄せる波が次第に大きくなる。
 小さな点だったダフロマは大きな点となり、やがてその巨体をはっきりと確認できるまでになった。
 双眼鏡を手にした沙々良が叫んだ。
「ダフロマ、半径1キロ圏内に侵入! 上陸まで30秒切りました!」
 それを聞き、総員が海を睨みつけた。
 彩乃の声がトレーラー周辺に響く。
「お願いみんな、何としても上陸を阻止して!」
 彩乃の脳裏にも晴湘市での災害が蘇る――もう二度と、誰にも、御殿の歩んだ道を歩ませるつもりはない。
 時間は待ってくれない、沙々良の声が現実を突きつける!
「カウント入りやーす! 上陸10秒前――」
「うっひゃー、間近で見るとデカいな~アリャ。 ……さてと、俺たちも参りますか」
 狐姫が指をボキボキならす。
「5秒前――」
 華生に支えられ、リンはハシゴをのぼる。
 トレーラーの上に立つ叶子がリンの手を取り、リンはコンテナの上に這い上がった。
 続いて彩乃と詩織もハシゴをのぼってくる。
「3……2……1――」
 あたり一面が黒い影で覆われ太陽を隠した。瞬間――
 トレーラーのすぐ目の前に鉄の甲羅をまとった巨大なアルマジロが出現した!
「ダフロマ上陸! 総員戦闘体勢に入っちゃってー!」
 呑気な雄たけびをあげる沙々良もコンテナにのぼってきた。
 皆、一緒になってリンを支える。
 リンのスプライトマインは一発が限界。それ以上はリンの命を奪う可能性大だ。

 

るか!?
 られるか!?
 未来の答えは、いかずちに聞いてくれ!!



「おい、あれを見ろ!」
 狐姫が指差す方向、ダフロマのまわりに何かがまとわりついている。ねばり気のあるオーロラのような液体、シャボン玉の表面のような色をしている何かだ。
「おい想夜、あのシャボン玉の服みたいなの、何だ?」
「あれはエーテルフィールド……初めて見た」
 狐姫の問いに想夜が見上げながら答えた。
 エーテルフィールド――エーテル仕様の防御服。物理攻撃や魔術から身を守る柔らかいバリアのようなもの。身を守る習性を持つのアルマジロにふさわしいコーディネートだ。
 沙々良が身を乗り出した。
「のっけから緊急事態じゃん! 2人とも若いんでしょ? なんとかならんものかねー!?」
 執拗に想夜と狐姫を急かす。
「んなこと言ったってさあ……あれじゃあ俺のデコピン効かないじゃん」
「……うん。防御力ゴイスーだから。そのためにブラスターが必要なんだけどね。 ……てか狐姫ちゃん、デコピンなの?」
 想夜は自信無さげにリンに目をやる。ハイブリッドハイヤースペクターは、妖精や通常のハイヤースペクターよりも大量の体力とエーテルを消費する。御殿が使う八卦の力で分かったことだ。それを思うとリンの体力が心配である。衰弱したリンが立っていること事態、奇跡に等しいのだから。
 ブラスターには距離という束縛がないのは周知だ。しかも破壊力も抜群に優れている。が、いかんせん発動までに時間がかかる。発動後もチャージまでにどれだけかかるか知れたもんじゃない。
 シュベスタで暴走した御殿は、一瞬で戦車を吹き飛ばした。ただ、その攻撃を打ち込むまでのタイムロスは説明するまでもないだろう。弾幕や大砲を顔面に打ち込まれたほどだ。
 
 人は考える――人の力はどこまで耐えられるのだろう? と。
 
「アロウサル!」
 リンが八卦を発動させた。瞳が紫色に染まり、周囲に風圧を巻き起こす。
「ハイヤースペック! 雷門ゲート・オブ・サンダー!」
 リンは眉を中央に寄せ、何か一点に集中するように念じた。
 とたん、周囲の者たちに強烈な耳鳴りが発生。あわてて耳を塞いだ。
 カッと目を開けたリンが叫ぶ!!
「スプライトマイン……砕破!!!!!」
 トレーラーとともに、あたり一面がグラリと大きく揺れる。

 ドオオオオオオオオオオンッ

 突如、ダフロマの顔面で大爆発が起こり、その巨体が大きく仰け反った!
「やった!」
 顔面半分の肉片と甲羅が吹き飛び、戦闘ができる状態ではくなった――はずだ。
 狐姫が見上げながら絶叫する。
「すげえ……あのデカ物をたった一撃で仕留めたぜ!」
 喜んだのもつかの間、想夜が前方を指差した。
「いや、まだ来る!」
 仰け反った姿勢を元に戻したダフロマは、甲羅の剥げた表情筋むき出しの顔でトレーラーを睨みつけ、幽霊のようにユラユラと不気味な動きで軌道修正をした。ターゲットをリンに絞ったのだ。
 それだけじゃない。ブラスターを放った瞬間、リンの体が大きく後ろに吹き飛んでしまった。それだけ威力が大きいということ。自分の力でも押さえつけることができない、大勢の力でも支えることができない、そんな大きな反動が、リンの小さな身に襲い掛かるのだ。
「ヤバイぜ、ダフロマがこっちに来る!」
 八卦のブラスター、貴重な一発は命中した。エーテルフィールドも消えた。致命傷も与えた。が、それだけだった。ダフロマを仕留めるまでには至らなかったのだ。
「げほっ……がほっ……」
 咳き込むリン。様子がおかしい。
「心拍数上昇、これ以上は危険です彩乃先輩!」
 鬼気迫る声で詩織が叫ぶ。
 想夜はコンテナから飛び降りて砂浜へ向かう。ワイズナーを取り出して構え、砂場で踏ん張った。
「どうするよ想夜!?」
 後ろから着いて来た狐姫が想夜の背中に叫ぶ。
「ダフロマのエーテルフィールドが無くなったから、物理攻撃が有効なはず」
「やるのか!? かなり硬そうだぜ?」
「どこまで持つかわからないけど……やる! アロウサル」
 想夜は6枚の羽を広げ、両手で抱えたワイズナーを横倒して、前に突き出した。

藍ー鬼おーにさーん、こーちら!!」

 想夜が可愛らしく、それでいて殺気立つリズムで叫び、誰も聞いたことがない詠唱を称えはじめた。
 想夜の瞳が真っ赤に染まり、全身の血液に藍色の力が駆け巡る!

 闇を抱きしダークブルー、ふたたび目を覚ます!

 想夜は藍い鬼へと進化した!
 ピクシーブースターが唸り声を上げて飛び立つ!
「想夜、俺も連れてけ!」
 藍鬼化を発動させた想夜にしがみ付く狐姫。
 現在の想夜の力だと、藍鬼化は10秒持たない。
 そうこうしている間に、砂浜へダフロマが上陸してしまう。
「ここで降りるぜ!」
 ダフロマの遥か頭上、狐姫は飛行中の藍鬼想夜から飛び降りた。
 マグマの塊と化した隕石のごとく、狐姫がダフロマ目がけて突っ込んでゆく。
「デッドエンド・フレイムダウン!!!!!」

 ドオオオオオオオオオオンッ。

 ダフロマがマグマのシャワーを浴びたように、蒸気を発する。
 狐姫のデッドエンドフレイムダウンがダフロマの脳天の甲羅にヒットするも、巨体が小さく仰け反るだけ。狐姫が思っていたよりも重量が大きく、甲羅が厚いのだ。
「クッソ~。足止めにもなんねーじゃん! 一日一発なのによお……」
 狐姫ガッカリ。
 海に落下した狐姫は素早くダフロマの背中を駆け上がり、ダフロマの後頭部にしがみつきながらドンドンドンッと何発もの重いパンチを叩き込む。
 あまりにも甲羅が堅すぎるため、狐姫の拳の皮が剥がれて血が滲み出てきた。ダメージを与えているのかもわからない。それでも殴り続ける。
 ドンドンドンドン!!!!
 殴り続ける狐姫――やがて、めくれた皮膚から骨の一部が顔を出す。それでも甲羅を殴り続ける。顔に自分の血が飛び散るも気にしない。拳を真っ赤に染めながらも、ひたすら殴り続けた。
「俺のパワーはこんなもんじゃねえ! ナメんじゃねーよ、クソったれ!!」
 マグマを背負いしソルジャー。灼熱のプライドを抱きしめたまま、引き下がるわけにはいかない。
 狐姫の攻撃が効いたのか、一瞬だけダフロマが静止し、狐姫を一瞥。そのまま構わず前進を続ける。
 真正面から突っ込んでくる想夜が、ダフロマの懐に入り、ワイズナーを突き刺した。

「Pixy Teanndáileog limitter Scaoileadh!!」

 ピクシーブースター、リミッター解除!! ――藍色の流星の如く、想夜が大きな羽を広げてダフロマの腹にワイズナーを押し込んでゆく!
 血のような赤い瞳で車のテールランプのような残像を作り、ダフロマの巨体をピクシーブースターで押し切る。押して、押して、押しまくった!
 ズズズ……と若干ではあるがダフロマの進行を食い止め、1キロほど押し戻した。
 10秒経過した頃、想夜の藍鬼化が解けてしまった。
 狐姫も力尽き、想夜と2人して海に落ちていった。
 
 上陸までの時間は稼げたはずだ。けれど……ダフロマを阻止できなかった。

 いま、暴撃妖精が岸に上陸した。
 想夜と狐姫が水面下で巨体に踏み潰される瞬間だった。
 と、その時――その場にいた全員に向けて、ふたたび強烈な耳鳴りが起こった。
「スプライトマイン…………砕破!!!!!!!!!」

 ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ

 激しい地響きとともに、ダフロマの顔面で再び大爆発が起こった。それも先ほどとは比べられない巨大なものだった。
 想夜がトレーラーを見ると、荷台にはリンの姿。その後ろでは叶子、華生、彩乃、詩織、沙々良に支えられている。
 リンは皆に支えられ、力を振り絞り、自分の体の何百倍もある巨大な敵に会心の一撃をお見舞いしたのだ。
「チャージしたのか!? あんな短時間で!?」
「やったね狐姫ちゃん!」
 たった数秒の時間稼ぎ、想夜と狐姫のガンバリがリンに力を注ぎこんだのだ。
 咳をするたび、真っ赤なヨダレを垂れ流すリン。それを手で拭き取りながら、小さな八卦は命の焔を燃やし続けた。
 最大出力のブラスターを連発できるほどのハイブリッドハイヤースペクター――それが八卦! 雷を司る八卦、リン・ルーだ!!
 体内爆発を起こしたダフロマが真後ろに崩れてゆく――馬車の女に導かれた先は、死への入り口だった。
「パパ……リン、頑張ったよ――」
 皆の腕の中で眠るリンは、英雄そのものだ。
 形勢逆転。リンは見事、ダフロマの暴走を阻止した。日本を救ったのだ。
「すげぇ、あれが最大出力のブラスターかよ」
 海水まみれ、昆布まみれの狐姫が呆気にとられている。パワー負けしたのはちょっと悔しいが、命拾いしてよかった。
「えへへ。やったね!」
 海水まみれの想夜は親指を自慢げに立てては、髪を束ねたリボンをギュッとしめた。と思ったら昆布だった。
 海からあがってくる想夜と狐姫。
「想夜、ブラ透けてるぜ?」
「狐姫ちゃんだってスッケスケじゃん」
「お前なんか、パンツ膝まで落ちてるじゃん」
「もう、先に言ってよ! 狐姫ちゃんだって袴脱げてるじゃん。パンツ丸見えじゃん」
「マジかっ!? 先に言えよな!」
 狐姫は海水を含んだ提灯ブルマのような袴を引き上げた。

 いつまでもふざけていられない。これからリンを病院まで搬送する。
 急がねばならない。日本を救ってもリンが救われなければ、ここにいる全員が報われない。
 彩乃が人工呼吸器をリンにつないで動作確認する。ふと、スリープケースの横で放心状態の双葉を見ては歩み寄った。
「ほら、腕見せて――」
 彩乃は双葉の両腕をそっと手に取り、確認する――筋肉に多大な負荷がかかり、骨にもヒビが入っているようだ。それでも悲鳴ひとつ上げない双葉のことを、彩乃は気の毒に思うのだ。双葉の全身全霊は、病室で眠っている弟に向けられているのだから。
 結局、あーしの空白を埋めてくれるものはなんだったんだろう? ――双葉の心が欲していたものは今の双葉には分からないだろう。
「ひとりで決めて、ひとりで頑張って、ひとりで朽ち果てる。貴方は孤高の戦士じゃないんだから、そんなの寂しすぎるでしょう? もっと周りの人たちに打ち明けてごらんなさい。団結力を求め続けなさい。たとえ、その場所になかったとしても、必ず出会うことができるから」
 彩乃は多くの人達のおかげで今の場所にいる。それは団結力という名の支えがあったからこそ。
 10代の双葉がたどり着けなかった答えを、彩乃はいとも簡単に言ってのけた。それが大人が刻んできた時間の証。
 団結力――多くの人間をまとめることなど簡単な作業ではない。ひとりひとり好き勝手に行動する世界で、それは滅多に目に出来るものではない。けれど、彩乃は知っている。それは確かに存在していることを。
 それに出会うまでには、より多くの人たちに自分の気持ちを打ち明けることだ。それこそが「ひとりぼっちじゃない」という証明への近道なのだから。
 願わくば、双葉の弟の未来があらんことを。彩乃は双葉の頭をそっと抱き寄せ、何度も撫でた。
 しばらくしてから、彩乃が運転席に向かって叫んだ。
「沙々良ちゃん、出発してちょうだい」
「ほいほーい!」
 沙々良がキーを捻ると再出発のエンジン音が鳴り響く。
 全員がトレーラーに乗りこんだのを確認すると、彩乃は運転席に戻りシートベルトを閉めようとする。
 それを阻止したのは詩織だ。
「彩乃先輩、リンさんは私たちが八神先生のところまで運びます。あとのことは任せてください」
「詩織ちゃん」
 いつになく、真剣な眼差しの詩織が彩乃を見つめた。
「彩乃先輩にはまだ、やるべきことがあるでしょう? あの子たちのところへ行ってあげてください」
「で、でも……」
「あの子たちのお母さんなら……そうすべきです」
 そう詩織に言われ、彩乃は何も言えないままだ。
 そこへ沙々良が助け舟を出してくる。
「まあ、後はウチらでやるんで、泥舟に乗った気持ちでいてくださいな」
「古賀先輩、それじゃ沈んでしまいますよ」
「ありゃりゃん」
 詩織が浜辺の隅を指差した。
「貯水エリアに行ったみたいですよ、あの子たち――」
「古い建物なんで、バルブを滑りやすくするものがあったほうがいいっすね。ダフロマの体液は汚染されてますから、世界に流れ出さないように、全てのプレートを下げてください。時間経過と共に、海水に漏れだしたエーテルも浄化されるはずです」
 沙々良が彩乃のルージュを投げてよこした。それを両手で不器用にキャッチする彩乃。
 沙々良も、詩織も、一緒になって彩乃の後押しをしてくれた。
「ありがとう2人とも……あとのこと、お願いね――」
 彩乃は遠慮なく部下に甘えることにした。その目には一種の覚悟がある。八卦同士の戦いに巻き込まれても、あの子たちは私の子。きょうだい喧嘩の行く末に、笑顔の未来があらん事を――。


フェアリーテイル・ウォーターリーパー


 砂浜に面した古い施設が見える。その手前にバイクが1台止まっている。水角のものだ。
 浜辺から少し歩いた場所に、コンクリートの外壁で作られた巨大な建物がただ一つ。パルテノン神殿に似せて造られた石造建築物。幾本もの太い石柱に囲まれた現代のアートだ。防波堤プレートを操作するコントロールルームの他に、地下にも下りることができ、そこは広い空間をえぐりぬいた貯水場が建設されている。
「ここにいるのは間違いなさそうね」
 御殿は施設内へと足を踏み入れ、そのまま地下へ下りてゆく。

 貯水場――。
 貯水するための空間だろう。コンクリートの打ちっぱなしで作られた部屋はとても広く、硬そうな天井を幾本もの石柱で支えている。東京にも同じような造りをした外郭放水路なるものがある。
 天井に設置された無数のスポットライトが、床に溜まった膨大な貯水に光りをあてている。
「かなり深いわね――」
 水底が見えない。そうとう深いらしく、ほの暗く、黒光りした水溜りから何が飛び出してくるのかを想像してしまうと、少々不安になる。
 貯水広場の中央には、鉄板で組み立てた一本橋の通路が奥まで続いている。通路の左右には落下防止用の鉄柵。下の水溜りに落ちることはないだろうが、用心は必要だ。
 御殿は腰のホルダーに手を回し、銃を抜き、構えながら前進してゆく。
 ゆっくりと進んでゆく御殿のつま先に何かが引っかかり、つまづきそうになった。
 足元を見ると、作業員が忘れていったであろう工具や使い古した太いワイヤーなどが落ちている。ちょっとやそっとの刃物では切れそうもない複雑に編みこまれたワイヤーだ。
 ふと、御殿のはるか目の先に誰かの気配を感じた。
 御殿は銃を構え、再び歩き出す。
 ほどなくして、ひとりの少年が作業用通路の到達地点に立っていた。
 少年は御殿を不思議そうに、まっすぐに見つめながら、こう言った。
「妖精の姿が見えないけれど妖精反応がある。お姉さん、ひょっとして……八卦?」
 御殿は少年と向かい合い、静かに呟いた。
「……ええ。『沢』を司る八卦。NO.01なんて呼ばれているみたいだけれど、咲羅真御殿という立派な名前があるわ」
「ボクは水角。苗字はないけれど、今まで生きてこれたよ」
 無邪気に笑う少年。善悪の判断がないようにも思えるが、最悪、笑顔でアリを踏み潰す本性を持っているかもしれない。
 ハイウェイ戦の時から気にはなってはいたが、少年の目は正気を保っている人間のソレとは違うものだ。エクソシストの御殿には分かる。少年自身の意思が感じられないのだ。「ボクはこうしたい」という欲がない。何かに憑依されている可能性もある。ひょっとしたら、試験管から生まれた時点で、そういうロボットとして生まれてきたのかもしれない。
「どうしてボクの邪魔をするの? 水無月彩乃っていう人を消さないと、怒られちゃう」
「誰に怒られるの? あなたの雇い主? 水無月先生を消す理由を答えなさい」
「理由なんか知らない。そうしろと言われたから、そうする」
 人形以外の何者でもない。考えるという力を奪われているみたいだ。
 少年が御殿から目をそらし、つまらなさそうに呟いた。
「まさか、ボクが追い詰められるなんて。こんなこと初めて。これが敗北への一歩ってやつなの?」
 御殿は銃口を水角に向ける。積極的に撃つつもりはなくとも、相手がヘタなことをすればトリガーの指に力を入れるつもりだ。
「もう疲れたでしょう、はやく自分の家に帰って寝なさい。そして、もうこの件に関わるのをやめなさい」
「お姉さんも八卦なんでしょう? シュベスタが生んだ悪者なんでしょう? どうしてボクらの邪魔をするの?」
 ハイウェイでの戦闘で著しく体力を消耗しているのだろう、水角は息絶え絶えに御殿に食って掛かる。
「ええ。わたしも八卦。貴方と同じ。だからこそ、八卦である以上、こちらも引き下がるワケにはいかないの。ディルファーのデータを取り込んで生まれた、同じ生命体。身内を好き勝手にのさばらせておくわけにはいかないの。これ以上、深入りするとヤケドではすまされなくなる。だから……大人しくしてちょうだい」
 水角が力なく息を漏らし、肩をすくませる。
「深入りとかヤケドの意味って、取り返しがつかなくなるってことだよね? それ、よく理解できないんだ。取り返しがつかなくなると、今と何が変わるの? どうせ、ここでどちらかが死ぬんでしょ? 神様って残酷だもん。そんなシナリオしか書けないんだ」
 と、たちまちムスッと膨れっ面を作る。コミュニケーションから何かを学ぶということに慣れていない、生まれたばかりの赤子のようだ。
 水角が姿勢を低くして構え、さやから刀を抜いた。エメラルドブルーの刀が水面の光りを反射し、水角の頬を照らし出す。
 
 御殿は銃を取り出すと半身になる。両腕を大きく広げ、ゆっくりと中央によせながら交差させる。水角に銃口を向けるわけではなく、ボニーとクライドをX字にさせ、低い姿勢を保ったまま構えに入った。
 それを見た水角が目を輝かせて御殿に聞く。
「おもしろい格闘術を使うんだね。どこの格闘技?」
「お互い生き残ったら教えてあげる」
「あー。それは無理かも。八卦同士なんだから、どっちかが……死ぬんでしょ?」
 水角は残念そうに顔をしかめた。命の重さを軽んじている言動だ。その後、御殿の生き写しのように半身の構えで矛先を御殿に向けた。
「ボクの邪魔をした人がいたという証拠を持って帰らなきゃならないんだ。その首……ボクにちょうだい?」
「一生かかっても無理だと思うわ……今のアナタの弱さではね」
「ボク、弱いなんて言われたの、生まれてはじめてだよ」
「なら、何度でも言ってあげる。水角、わたしの知っている戦士たちの中では、アナタが一番弱いわ。すべてにおいて、ね――」
「なら……その証明をしなきゃね?」
「「この場所で!!」」
 御殿と水角が踏み出した!

 八卦の姉弟喧嘩、ここに始まる!

「「いざ、尋常に勝負!!!!!!」」

 音速に近い速度で水角が御殿の懐に潜り込んできた!
 ガッ、ガッ!
 水角が刀の柄を御殿のミゾオチに叩き込んでくる――1発、時計回りに回転してさらにもう1発。
 その攻撃を2丁拳銃でカッカッと捌いては防御する御殿。
 横から殴りつけるように水角の太刀が飛んでくるも、御殿は銃のハンドガードで受け流し、刀を弾き返した。
 カッカッ!
 キン、キン!
 刀と銃がぶつかり合う音が貯水路中に響き渡る。
 刀と銃の攻撃の合間に、タイミングよく蹴りをつかって応戦してくる格闘センスがとても良く似ている。
 距離ができると不利になると考えた御殿は、水角との間合いを徐々に狭めてゆく。銃で刀を受け流しながら、この上ないほどの接近戦に持ち込んだ。
「スゴイやお姉さん! 銃を撃たないのに格闘術として成り立っている!」
「よそ見をするとこうなる!」
 ガッ!
 御殿は銃のグリップを水角の後ろ首に叩きつけると、すぐさま入れ替わるように相手の後ろに回りこんだ。瞬間、
 バン!
 トリガーを引いて発砲。水角から刀を弾き飛ばす作戦にでるが、たったコンマ1秒のうちに、なんと弾を真っ二つにされてしまった。
 後ろを取られた水角が大きくしゃがみ込み、御殿の足首を斬りつける。
 御殿は大きく飛び退き、空中で側転しながら、ふたたび距離をとった。
 すぐさま水角が距離をつめ、刀と銃の受け流し、打ち合いの連鎖をはじめる。
 カッカッ! キンキンッ! バンバンッ!
 鉄同士の硬い部分が叩きつけられるような音。銃声。それが何度も何度も続いた。
 何十回、何百回。そんな攻撃を繰り出しているうちに、御殿は体のあちこちを斬られ、水角は体のあちこちに打撲を食らう。
 「殺してしまうかもしれない」――ダメージが蓄積されてゆくさなかで、御殿はそんな不安を抱えていた。さっさと殺してしまわなければ、厄介なことになると思ったのだ。それは八卦を覚醒させた御殿を見たときのメイヴの考えとも同じであった。
(いや。このままだと……逆に殺されるかもしれない)
 八卦の力をあなどるな。それは八卦である御殿が良く知っているはず。八卦は脅威、ナメてかかると……死ぬ!
 御殿は肌に違和感を覚える。ビリビリとした、あの反応――。
(かるい痺れ? これは……妖精反応!?)
 御殿の血の気が引いた。
「まさか、ハイヤースペックを発動したの!?」
「ご名答、これがボクのハイヤースペック。ソニックウォーター。八卦の『水』を司る力だよ――」
 御殿の目の前で水角が信じられない芸当を見せてきた。なんと真横の石壁へ頭からダイヴし、コンクリートの中へと滑り込んでいったのだ。水角が飛び込んだ壁の一面に、水面の波紋ができあがり、それが高速移動を始めた。
「どういうこと!? 壁の中に入って移動できるだなんて!」
 水の中へ滑り込んでゆくように。水のように浸透してゆくように。そうやって水角は水の申し子となる。
 御殿が仰天しているすぐ後ろに太い石柱が立っている。そこに背中を預けて寄りかかった瞬間、その表面に波紋が現れ、水角が飛び出してきた。
「斬る!」
 ザシュッ!
 水角が御殿の背中を斬りつけた!
 とたんに御殿がよろめき、バックリと裂けたジャケットの隙間から大量の血液を撒き散らす。
 御殿は斬られた反動で地面に突っ伏した。
「せめて一発だけでも当たって!」
 バンバンバンバン!
 寝転んだ姿勢から水角に対して連続発砲するも、相手はふたたび柱の表面に飛び込み、今度は天上から降ってきては御殿のところへ刀を向けて落下してくる。
 ガッ!
 御殿は水角が突き立てた刀を転がってかわし、痛む体にムチを打って起き上がる。
「水無月先生との約束、守れそうにないかもね」
 水角を連れて帰る――その約束、無理かもしれない。御殿自身、生きて帰れる可能性があるかも分からない状況に陥っているのだから。
(なにか戦略を考えなければ……)
 尻餅をつく御殿の手に硬い紐状の何かが触れた。
「これは……よし、その手でいくか」
 御殿は呼吸を整え、水角が出現する方向を感じ取る。
 ただ立ち尽くす御殿へ向けられる殺気。
 真後ろから迫るショートヘアの影!
 御殿が完全に後ろをとられた!
 ザシュッ!
 一閃! 水角の太刀が御殿の首を真後ろから捕らえた。それはまるで、ギロチンにかけられた晒し首の格好のようだった。
 御殿の長い髪が数本切れ、地面に散らばる。

 ――勝負あった。
 
 ……かのように見えた。
 血の気が引いていたのは……水角のほう。ただポカンと口を開いては、目の前の光景を見ていた。
「どうして……? なんで首を落せないの!?」
 御殿の首筋にキラリと光る金具が見えた。
「髪は女の命、だそうよ。友達の受け売りだけどね」
 御殿が長い髪をかきあげると、そこには髪に忍ばせておいた太いワイヤー。
 なんと御殿は水角の刀をワイヤーで受け止めたのだ!
「お姉さん流、真剣白刃取り……的な?」
 肉を切らせて骨を斬る。素早い敵なら動きを封じれば、あとは勝ちだ。
 御殿は水角の手首をつかむと大きく捻り、体ごと地面に叩きつけた。
 ドスッ!
 仰向けになった水角に、続けて追い討ち。
 ドドドドド!!
 胸や腹。地面で横たわる水角の急所目がけ、すかさず正拳突きを数回叩き込む。
「う、ぐ……」
 寝そべる水角の体を中心に、地面がベコリとへこんで、くもの巣状のクレーターができあがった。
 致命傷には及ばないものの、仙人譲りの正拳である。簡単に起き上がることはできないだろう。
 ふたたび髪をかき上げる御殿。
「ふう……さて、大人しく一緒に帰るのよ。しばらくは動けないでしょうけど」
 これからどうやって帰ろうか? 御殿が水の八卦に背を向けた時だった。
 ゆらり……御殿の後ろで起き上がる水角が亡霊のように立ち尽くしていた。
 御殿がギョッとした目を作る。
(あれだけの攻撃を叩き込んだのに、まだ起き上がれるというの!?)
 水角は八卦だ。ちょっとやそっとではへし折れたりしない。
 御殿の心がざわついた。
 やはり、ここで始末しておいたほうがいいのではないか?
 連れて帰るだなんて、そんな甘い考えは捨てるべきだったのではないか?
 彩乃と交わした約束が、御殿の中でだんだん遠のいてゆく。
 女王メイヴですら厄介視している存在、ハイブリッドハイヤースペクター。
 それが八卦。
 
 今、ここに、その眠りし力、目覚めん――。

「ねえ知っている? 八卦もフェアリーテイルが使えるんだって。それも好きな時に発動できるみたい――」
 水面に反射する光が水角の顔を下から照らし、魂の抜けた人間のような冷たい表情を映し出す。
「もっとも、発動しちゃったら最後、それでおしまい。今のボクには自分では止めることはできないみたいだからね――」
 命を軽んじている発言。彩乃が聞いたら嘆くだろう。なぜなら、御殿自身が悲しいからだ。血のつながった弟がひねくれ根性で後ろ向きに生きているなんて、考えたくもない。姉も大概だが。
 御殿が引き止める腕が宙を泳ぐ。それを知ってか知らずか、水角はゆっくりと体を水中へと沈めてゆく。
「これがボクの真の力――」
「水角、馬鹿なマネはよしなさい!」
 御殿の制止を無視し、水角がハイヤースペックのオーバークロック化を起こした!

「フェアリーテイル・ウォーターリーパー」

 水角の体が完全に沈んだ。
 水面が波紋を打ち、広がり、やがて静まる――。
「――?」
 シンと静まり返った空間。水面にはひとつの波紋すら残っていない。
 水角は御殿の目の前から完全に姿を消した。
 御殿はしばらく様子を見ていたが、水面に飲まれていった水角の気配は、すでに感じられなかった。
 まさか溺死したの? 御殿は目を見張り、水面から目を離さなかった。
 なにもできないでいる姉。ただ水面をジッと見つめる姉。
 時折、小さな泡が水底から浮かび上がってくるたびに、神経過敏になった御殿は銃を構える。
「本当に……消えた、の?」
 御殿は消えた水角を追うのを諦め、いったん引き返す。が、異変が起ったのは御殿が銃を下ろした時だった。
「――ん?」
 少し離れた場所で巨大な水しぶきが巻き上がり、何か巨大な物体が水面から飛び出してきたのだ。
 舞い上げられた貯水が大量のスコールとなって御殿の全身を濡らしてゆく。土砂降りで身動きが取れない中、目の前に現れたそれに目を奪われずにはいられなかった。
「こ、これは――!?」
 見上げた御殿は大げさに頭を捻り、断念する。
 だってそうだろう? 目の前に現れた巨大な水龍を相手に、小さな御殿に打つ手などあるのか?
 アクアマリン色の、青くて透明な固い鱗に覆われた生物。口はサメのように鋭い牙が無数にむき出し、手足は退化してヒレと化しているが、少しの原型をとどめているために人間のように起用に動かすことがでる。背びれは4本。妖精のような羽を携え、トビウオのように水上を低空飛行することができる水龍の姿をした妖精。どう見てもMAMIYAのトレーラー2台分の丈はある。
 いつ食らいついてやろうか? どこから噛み千切ってやろうか? そう言っているかのように、水龍は御殿の頭上をグルグルとゆっくり旋回しながら様子を伺っている。
「あれが……水角……なの?」
 御殿は上空に警戒していた。
「水、陸、空中対応のフェアリーテイルか。 ……分が悪すぎるわね、いったん引くか」
 出口に向かって猛ダッシュをした御殿だったが、巨大な体で足止めを食らうハメに。行動の先を読んだ水角が水面にダイブし、ふたたび水面に姿を現しては、出口手前までつづく鉄の足場を破壊してしまった。
 さらに御殿の逃げ場をなくすため、尻尾を水面に叩きつけて足場の土台を完全に弾き飛ばした。
 慌てて奥へと引き返す御殿。
「やるしかないようね」
 覚悟を決め、鉄橋の上でバックステップしながらウォーターリーパーの角に連続発砲。当然のごとく全弾弾き返されるが、それは想定内。叶子の魔人化の時もそうだった。
「外殻が剥がれれば防御力も落ちると思ったんだけど……」
 御殿の目論見は失敗に終わる。相手の体は予想よりも強靭だ。水角は八卦。叶子の時のようにはいかなかった。
 中洲へと続く一本橋を端から破壊してゆくウォーターリーパー。そうやって逃げる御殿をひたすら追い詰めてゆく。
 御殿は通路を突っ切り、全力疾走で中州に逃げこんだ。
 御殿を追うように鉄板を食いちぎっては投げ捨て、食いちぎっては投げ捨て、そうやって徐々に鉄橋を破壊しながらウォーターリーパーが迫ってくる。
 足元の鉄板がえぐられると同時に、御殿の体がグラリと揺れて体勢を崩す。手を橋については体勢を立て直し、なおも走り続ける。もたもたしてたら水龍に食い殺されてしまう。
「くっ、あれだけ巨大なのに……なんなの? この身のこなしは!?」
 予想を遥かに上回る速さで御殿に追いついてくるウォーターリーパー。やがて御殿の片足に食らい付き、頭をもたげて飲み込む。
 御殿の足首、膝、下半身が大口に飲まれ、あっけなく水の中に引きずり込まれてしまった。
 息の出来ない世界で、御殿は必死に脱出を試みる。両手を水龍の口に押し付け、自分の体を引きずり出そうにも、てんで力が及ばない。空泉地星をウォーターリーパーの口に捻り込み、力任せにこじ開けようとする。それでもダメだった。
 御殿の体が水の底へと引きずり込まれてゆく。
 人間の呼吸がそんなに止められるはずもなく、御殿の口の中に水が流れ込んできた。
「ゴボッ、ガボボゴッ……」
 肺の中の空気を一気に噴出した御殿の全身から力が抜ける。
(息が……もう……だ、め……)
 御殿の全身から力が抜けきった時――手放した空泉地星がウォーターリーパーの瞼をかすめた。
 ビクン!
 一瞬だけ巨大生物の体が反応し、口元がゆるんで御殿の体を解放した。
 御殿は「しめた!」とばかりにウォーターリーパーとの距離をとって、必死になって泳いで逃げきった。
 水中から飛び出した御殿は中洲にたどり着き、四つん這いになりながら水を吐き捨て、肺いっぱいに空気を食べる。
「ゲホッ……ゲホッ……ふう。空気がこんなに美味しいものだったなんてね――」
 生き絶え絶え。酸素のありがたみを知る。
「ハイヤースペックの暴走は本当に厄介ね……ふふ、わたしも大概ね」
 鴨原よろしく、御殿が毒づく。
 御殿に立ちふさがる水角のフェアリーテイル、ウォーターリーパー。
 叶子の鋼鉄の魔人以上か。
 メイヴ以上か。
 それとも暴走した御殿以上か。
 相手は水の八卦――そのスペックは計り知れない。
 湿った銃は役に立たない。威嚇発砲すらできない。せいぜい銃ごと敵に向かって投げつけるだけ。当然、そんな無謀なことはしない。
 御殿は足元に流れ着いた空泉地星を拾い上げる。
「使える武器はこれくらいか」
 どちらにせよ、正攻法では歯が立たないと悟り、苦肉の策を思いつく。
「これが失敗したら、ドザエモンかな」
 シュベスタでは炎に包まれ、今回は水攻め――御殿さん、本当に大忙し。
 御殿は空中から飛んできたウォーターリーパーの巨体をかがんで避けると、尻尾の鱗に空泉地星を引っ掛けて、そのまま上空へと一緒に飛翔した。
 振り落とされないよう、御殿はしっかりとウォーターリーパーの鱗にしがみ付く。
 御殿の行動に気づいたウォーターリーパーが下降をしはじめ、水面へと向かってゆく。
 水中に入る手前で御殿は大きく息を吸い込んで肺を酸素で満タンにした。鱗の鱗の間に空泉地星を捻りこみ、ふたたび巨大な水龍と一緒に水の中へと潜ってゆく。
 暗い水の底、御殿は巨大な深海魚のように泳ぐウォーターリーパーの鱗に手をかけながら、ロッククライミングのように胸部まで少しずつ移動してゆく。
(そろそろ頃合か……)
 やがてウォーターリーパーの胸部付近に差し掛かったころ、御殿は残りの酸素を八卦の発動させるために使いきる。
「ハイヤースペック・レゾナンス――」
 一瞬の隙をつき、手刀を水角の胸に滑り込ませる。
(水角……お姉ちゃん、こんなことしかできないけれど――)
 スルリ。
 御殿の手刀がゆっくりとクリスタルの鱗と鱗の隙間に入ってゆく。力を入れることなどなく、難なく手刀を滑り込ませていった。
「許可のない相手と融合するのは難しいけれど、でも――」
 御殿はえぐり込ませた手刀に、今までの思いを託した。
「これがお姉ちゃんの大切な思い出。水角、あなたには見て欲しい。どうか受け取って――」
 水角に自分の存在を知ってほしかったのだ。自分がどこで生まれ、どこで生活をし、どういうことに思いを馳せているのかを、知ってほしかった。分かってもらいたいとは思わない。ただ、知って欲しかった。

「だってアナタは、たった一人の……わたしの弟なのだから――」

 御殿の手刀から水角の体内へと何かが流れてゆく。それはデータをコピーしているようだけど、ちょっと違う。御殿が見聞きしてきた過去の映像を水角に見せているのだ。
 ギュオオオオオオア!!
 悲鳴を上げ、手刀を引き抜こうと暴れるウォーターリーパー。
 それでも御殿はしがみついて離れない。肺の酸素などとっくに切らしているというのに、ただただ、平然とレゾナンスを発動し続けた。
 しだいにゆっくり、ゆっくり。ウォーターリーパーの動きが鈍くなってゆく。

『イヤだ! やめて! 人の過去なんか見たくない!』

 他人の痛みを経験することは、自分が痛みを経験すること。
 他人の喜びを経験することは、自分が喜びを経験すること。
(水角、アナタが歩んできた道は、わたしには分からない。だから――)
 アナタの思い出を、わたしにも聞かせてほしいの――。
 水中で暴れ狂うウォーターリーパー。
 苦しいのか?
 悲しいのか?
 嬉しいのか?
 寂しいのか?
 今の気持ちを、世界中の人々に教えてくれないか?
 孤独として生まれ、八卦として生まれ、ひとり歩いてきた孤高の少年。
 水角よ――。
 突然、水面から飛び出したしたウォーターリーパーは中州へと着地し、暴れ、無数の振動を起こし、やがてピクリとも動かなくなった。
 しだいに巨大な水龍の形が失われ、徐々に少年の骨格へと縮んでいった。
 水角の傍らには、御殿がしっかりと寄り添っている。
 添い寝するように水角の体に張り付いている御殿が濡れた髪をかき上げて、ゆっくりと身を起こす。
「今は、これが精一杯。わたしがアナタにしてあげられる精一杯よ、水角――」
 御殿が水角の胸から手刀を引き抜くとき、一緒に黒い物体が引きずれれるように出てきた。
「これは……ワーム!?」
 無数の手足をワシャワシャと動かしながら悶える甲殻型の黒い生き物。
 御殿は腕にまとわりつく蟲を地面に叩きつけて踏み潰し、聖水をぶっかけた。
 ジュウウウウ……。
 蟲がキィキィとわめき散らし、音を立てて蒸発してゆく。
「生まれて間もない水角に蟲を植え付けて正常な思考を絶っていたのね……一体誰が? 卑劣極まりない」
 御殿は姿を消した蟲から視線を外し、水角のほうを見る。
 人間の姿に戻った水角は、這いつくばって刀を拾い上げた。
「驚いちゃった。”お姉さん”って、本当にボクの”お姉ちゃん”だったんだね……」
 飢え死にしそうな子犬の表情で、フラリ、フラリとよろめいては、2足歩行を保ち、人間の誇りを持ち続けた。
 水角の中には、しっかりと御殿の想い出が焼きついている。それは何もできない姉からのプレゼントでもある。
「ボクにも……家族が、いたんだね……」
 足が使えるなら歩きたい。そうすることで八卦というバケモノではなく、人間であるという確信が欲しかったのだ。
 名ばかりの人権が欲しいわけじゃない。自分が良しとするのなら、自分が満足いくのなら、そこに人が人であるという答えが待っている気がしたのだ。
 ボクはバケモノなんかじゃない。笑い、悲しみ、怒り、そして、あと……なんだろう?
 そのあとの言葉は思い浮かばなかった。それだけ見てきたものが少ないのである。それだけ水角は人間の生活からかけ離れていたのだ。
 それでも人として終えられるのなら、人間の仲間になれるのなら、ボクはボクの中の『人』を捨てたくない――それが水角の答えだった。蟲にコントロールされていない、1人の男の子が打ち出した本当の気持ち。
 ポツリ、水角が口を開いた。
「――たくさんの人に囲まれて、悠々自適な生活を送っていて……」
 御殿のほうを見ては、ニコリと儚げな笑みを作った。
「お姉ちゃんがうらやましいな。神様はズルイよね、ボクにはお姉ちゃんが味わっている楽しみをくれないんだから。動物実験の材料として生まれて、暴魔の始末に追われて、毎日毎日データの収集だけで……人殺しの手伝いまでさせられて、それで、それで……命が終わっちゃうんだから――」
 水角の頬を雫が伝う。水龍となって水面を漂っていたための濡れ髪がそれを生んだのか、それとも潤んだ瞳から生み出されるそれか――答えは明白だろう。水角はこんなにも哀しい表情をしているのだから。
 水角は神様に毒づき、呪った。
「ボクに友達を作る時間もくれない。親の顔も……見せてくれないんだから――」
 御殿は改めて驚愕した。
 水角は彩乃が母親であることを知らされていない。知らずに母の命を奪うよう仕向けられ、姉の御殿と殺し合いにまで発展させられている。
 なぜだ? なぜ彩乃の想い出だけは水角に流れ込まなかった? ――御殿の答えは瞬時に出た。
 御殿は彩乃が母親であることをどこかで否定している。そして水角も母という存在の意味がわからないのだ。
 母のぬくもりを知らない子供、八卦・水角。
 御殿の胸の痛み。先ほどの痛みがようやく理解できた――多くの出会いに恵まれた自分。ひとりシュベスタで育った水角。2つの命を天秤にかけた時、自分を乗せた皿だけ大きく傾く気がする。なんだか自分がズルい人間に思えてきて罪悪感に包まれるのだ。その理由は、水角の歩んでいる道は本来なら自分が歩く道だったはず。それを水角は自分の代わりに独りで歩き続けてきたというのに、自分だけ多くの仲間たちの輪の中にいる。嫌な代役を弟に押し付けて逃げてきた感じがして、それが卑怯に思えてならないのだ。
 水角の存在が、御殿に自責の念を植え付けるのだ。「お前ばかりズルイじゃないか、ボクはこんなに荷物を背負っているのに。これ、お前の荷物だろう? 自分で持てよ。ボクの言っている事は間違っているか?」と。

 御殿の手前で水角は両ひざをつき、矛先が自分に向かうように刀の柄を地面に立てて両手で固定した。
「ボクに与えられた任務は失敗、八卦のデータ収集はこれで終了。でもボクは……ボクはもう、『あの女の人』に協力なんてしない。データの報告なんか、しないんだ」
 御殿が不審に思う――『あの女の人』とは誰だ? 水角に蟲を仕込んで、非道な任務をさせてきた存在なのか? と。たちまち御殿の頭の中に『馬車の女』が浮かび上がった。
 なんにせよ、生まれ故郷に帰る気はないようだ。
 水角は矛先を首に突きつけては御殿の方を見た。
「自分の力が戦争のために使われるなんてイヤだもん――体が嫌がるんだ。魂が……嫌がるんだ」
 自由意志を取り戻した言葉を最後に、水角は己の首の中央に矛先をスッと差し込んでいった。
 顔色ひとつ変えない少年の心は、もう死んでいるのか?
 眉ひとつ動かさないのは、生きることの諦めか?
 死ぬ瞬間に笑っていられるのは、未来の放棄か?
 刀全体を深紅の体液が覆う。矛先から柄まで、クリスタルブルーの刀が細長いルビーみたいに染まってゆく。

 水角は瞼を閉じ、ゆっくりと、自分の首を矛先に沈めていった。

「……」
 半開きの瞼の先――水角は広がる光景を見ていた。
「……どうして?」
 水角は御殿に問う――両手を真っ赤に染めた姉に問う。
 姉は――御殿は、刃が水角の首に刺さる寸でのところで、矛先を握って喉への侵入を止めたのだ。その後、水角の手からゆっくりと日本刀を引き剥がし、それを地面に置く。
 姉はジッと弟の目を直視した――怒りに満ちた眼差し。怖い眼差し。目が釣りあがっているけれど、悲しげに眉を八の字にしては薄っすらと涙を浮かべている。そんな目線をまっすぐに向けていた。
 そして口を開く。
「今度こんなマネをしたら……お姉ちゃん、水角のこと、本気で許さないんだからね」
 御殿はそう言って、水角の頭を赤く染まった両手で包み込み、胸に引き寄せた。
「お姉、ちゃん……」
 御殿の胸のなか、水角は見開いた目から力を解いてゆく。
 水角を抱きしめながら、御殿が言った。
「八卦はね、戦争のために作られたわけじゃないの。人類が進歩するための産物、平和を呼ぶための産物――それを指揮していたのが水無月先生よ」
「ドクター、水無月が?」
「ええ」
 御殿は水角をそっと引き剥がし、まっすぐ見つめた。
 水角も姉を見つめる。
「――そして水無月先生、あの人が、わたし達の…………お母さん」
「――え?」
 水角は言葉を疑った。
「似てるでしょ? わたしと水無月先生」
 御殿は水角に顔を見せ付ける。
「……うん」
 言われなくても水角には分かっていた。初めて高速道路で姉と出会った時、最初は彩乃かと思って襲ったのだから。下調べとして渡された写真は彩乃が写っていたのであり、御殿ではないことも。
「そして水角、アナタと水無月先生も似てる。わたしとアナタも似ている。言っている意味が分かる?」
 顔を近づける御殿をじっと見ては、水角は難しい顔を作った。
「そ、そうかなあ?」
 感情を表に出す母と自分は似てるかもしれない。が、無表情な姉とはあまり似てない。そんなことを弟は考えている。
 姉は表情筋が固まってる感じでクールだし、寡黙で何を考えてるか分からないし。なんてゆーか、昼ドラで例えるならば、ある日突然、夫に離婚届を突きつけてくる嫁みたいな。「え、オレが何したの? まさか5年前の浮気を根に持ってるの? そうなの? ねえ、そうなの?」、みたいな……そんな感じ。つまりあれだ。『表情からなにも読み取れない人・聖色市代表』といったところだ。
 心と表情筋の問題。心は人の姿を作り出すものだから、柔軟さに欠ける心が御殿の表情を固めているのは確かだ。
 けれど、御殿だって生まれた時から堅いわけじゃない。
 いぶかしげな表情の水角に御殿が言う。
「昔のわたしにソックリよ。アナタは」
 ウォーターリーパーとなった水角には、御殿の過去のビジョンが見えていた――笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだり。かつては御殿も心を形にしていた。晴湘市での、あの日の姿。
 水角はさらに難しい顔になって眉をよせる。
「ボク……これからお姉ちゃんみたいなオッパイになるの?」
 目の前の2個の爆弾を凝視する弟。イヤじゃないけど、走ると揺れるし、痛そうだし、管理がめんどくさそう。ブラとかめんどくさそう。夏とか蒸れそうだし。なんて思う。
 水角の手前、御殿が苦笑する。
「そ、それは未来に聞いてほしいかな」――御殿が目をそらして黙る。八卦の力は不安定、妖精の力は未知の力、性別ばかりはなんとも言えません。
 なんにせよ、未来に目を向けることはいいことだ。おっぱい魔人だろうと、ナイチチだろうと、ね。

 水角は顔を上げ始めている。それが0を1に変えるということ。一番大変な作業であり、一番重要なこと。1を100に変えるのは容易いが、最初の一歩は誰でも躊躇するものだ。不安であり、困惑し、恐怖する。けれど、それを乗り越えれば、あとは楽なもんだ。面白いくらい簡単に前へ前へと進む。
 だから、一歩を踏み出そう。
 ほんの一瞬の勇気があればできる。
 難しく考えることはない、気楽にいけばいい。
 失敗したら体勢を立て直し、「またやっちゃった。けど、ボクってなかなかやるじゃん」と自分を誉めてやれ。
 八卦として生を受け、親きょうだいの正体も知らず、雇い主のためだけに生きてきた少年――八卦・水角。
 水角は今、0を1に変えた――魂の成長と進化。その果てにある人々との出逢い。2つの線が空へ空へと伸びてゆき、曲線となって宇宙でひとつに交じり合う。それこそが、人が『人』と呼ばれる所以なんだよ、水角。


約束を守る


 彩乃がコントロールルームで奮闘していた。
 バルブにこびりついた錆を爪や堕ちていた金具などを使って引っかいて落とした後、隙間に口紅の先端を押し込んで左右にひっかくように捻りこんだ。口紅の油分がバルブの回転のスベリを良くさせる。
 彩乃は細い腕に懇親の力を込めてバルブを一気に捻った。
 ギギ……ギギギギギィ。
 長い間、使用されていなかったバルブの回転は酷いものだったが、口紅の原材料が役に立った。少し動いたのをキッカケに勢いよく回りだして装置を起動させて水門を閉鎖した。
「……ふう」
 間一髪だった。
 ダフロマから漏れ出した汚染されたエーテルが世界の海水へと逆流する瞬間、防波堤プレートを下げたことにより遮断され、スペックハザードの拡大を阻止したのだ。
 基本、サイエンスエンジニアはインドア派なので運動不足がお約束。
 きっと明日は筋肉痛、日頃の私生活を改めなければならない。少しは子供たちを見習って体を動かそうと思う彩乃ママ。
 白衣はドロまみれ、もはや白衣ではない。ストッキングは伝線しまくり、こんなことなら沙々良からジャージを借りときゃよかったと思う。
 どこのサバイバルから帰ってきたのん? と言われてしまうような酷い姿で施設を出る直前、彩乃は通路の奥から1つの影が出てくるのを見て胸を撫で下ろした。影がハッキリと確認できる頃には、すでに自分の汚れた姿などどうでもよくなっていた。
「約束、守ってくれたのね――」
 母の声は子供たちには聞こえただろうか?
 いや、聞こえなくてもいい。だって子供たちは、こうして無事に帰ってきてくれたのだから。
 御殿の背中には水角の姿。極度の疲労からか、スヤスヤと眠っている。
「お帰りなさい。御殿……水角――」
 姉は約束を守ったのだ。『弟を連れて帰る』という母との約束を――。