8 妖精裁判


 海岸線沿いにある街、晴湘せいしょう市。

 肌に感じる潮風が心地よい。目の前には青い海が広がり、振り向けば山の大自然もある。
 そんな場所に俺、咲羅真 調太郎さくらま ちょうたろうの勤める店はあった。

 ダイニングで住み込みのバイトを始めてから3年ほど経過した。

 小銭も貯まったし、料理の腕もあがったのでバックパッカーと洒落込みたい。多くの世界を旅したいんだ。この体で世界の料理を味わい、吸収し、より多くの料理を、より多くの奴らに食わせたい。それが俺の夢だ。
 俺の作ったメシを口にふくみ、ほころぶ顔は見ていてグッとくる。
 うめえだろ? どんなもんよ! と胸を張る日々を想像したりする。
 うん、悪くないね。


 ――夜、日付も変わる頃。

 最後の客もいなくなり、駐車場の掃除を終えた俺は店内に戻った。

「駐車場の掃除終わりゃした~」
 頭を覆うバンダナをむしり取ると、派手に染めた金髪の隙間から汗が流れた。
 顔まで落ちて来た汗を拭う。
「ふう……おわ!?」
 ビビッた。
 いるはずのない客が1人だけ、カウンターにちょこんと座っている。
 なにをするでもない、注文もせず、目の前に置かれた食器カゴからナイフやフォークを取り出して、不思議そうに見つめている。
 スプーンに映るグニャリと歪んだ自分の顔に驚いたり、時折、あたりをキョロキョロ見渡しては、口をポカ~ンとあけて何かを考えている……のか考えていないのか、正直なところ分からん。

(……な、なんだコイツ?)

 変な奴。
 すぐ後ろを通りすぎる時、マジでそう思った。心の底から、魂からそう思った。
 だってそうだろ? 目の前の奴の異様っぷりが半端ないんだから。

 患者が着る検査着に身を包み、裸足。全身ドロだらけの姿は薄汚く、誰がどう見ても頭のイカレタ奴としか思えない。

(関らないほうが身のためだ……)
 と、本能が俺に訴えてくる。

 しばらくの間、客……ではない変な奴を観察していると、そいつが俺の存在に気づいたらしく、振り返ってはこちらを見ているではないか。まるで観察しているかのように、ただじーっと見てくるのだ。

 ――目と目が合ってしまった。

 俺はさらに驚く。

 イカレタ客は女の子だった――年齢は10代前半だろう、黒いショートヘアに雪のような透き通る白い肌がとても可愛らしい。テレビに出てくるヘタレアイドルなんか比べ物にならないほどの美少女だった。

 計算のない純真無垢な童顔は、誰が見ても利用価値がありすぎるだろ。やべえ、金儲けの臭いがプンプンするぜ。

 冗談はさておき、ここに来る途中でよく誘拐されなかったと内心ホッとしている。まあ、挙動不審な態度と小汚い格好が身を助けたのかもしれない。よかったな、汚い不審者で。

 俺はマジマジと少女を見つめた。いや、別に見とれてるわけじゃないよ。ほ、本当だよっ。
(しかし、ホントに綺麗な顔をしてやがる)
 もちろんタイプじゃないし、ロリスキーでもない。なぜなら俺は、お子ちゃまよりもお姉さんのほうが好きだからだ。

 ――綺麗なお姉さんは好きですか?

 そう聞かれて、「大好物です、お茶碗何杯でもイケます!」と答えられるのが咲羅真調太郎たる所以だ。

 さらに俺を驚かせたことがある。それはコイツの瞳だ。瞳の中にキラキラとお星様が漂う無邪気さ、それが俺をじっと見つめて離さないのだ。

 なんつーの? 無邪気な子供にジッと見られると、自分が犯罪者に思えてくるんだよ。人生経験が多いほど、人は汚れてしまうものなのです。ごめんね、こんな俺で。

 なにも考えてないようでいて、思考力はあるらしい。そう認識した俺は、ふたたび胸をなでおろしたのだ。

 うん、大丈夫、おかしい奴じゃない……おかしい奴じゃない……。お経のように自分に言い聞かせた。
「い、ぃらっしゃぃませぇ~」

 チラ、チラ。

 店内を掃除するふりして、裸足の少女の後ろを通り過ぎる。本音を言えば、声をかけた瞬間、噛み付かれたらどうしようってビビッているのよね、俺。

 そんな心配をよそに、誰かが俺の肩をペシリと叩いた。

「おい金髪! 掃除おわったの?」

 彼女は如月ひとみ。近くの高校に通う女の子。元気なのがウリで人当たりが良いことから客ウケもよいのだが、いささか元気すぎる。逆説を唱えれば、元気だけが売りで、人当たりより体当たりのほうがウマイ。そりゃあもうオリンピック選手なみにな。

「――如月、ちょっと来い」
「あん? なになに?」
 しぶる如月の手を引き、キッチンの奥へ連れて入る。が、すでに他の従業員も頓挫していた。主婦、大学生、夢見るフリーター、顔は色々だ。
 俺は静かに、だが心の叫びは大きく聞き出した。

『なんなのアレ? 頭おかしい奴?』

 ヒソヒソ。そこにいた奴ら全員、俺と同時に同じことを言う。

『え? こっちが聞きたいんだけど?』

 またハモった。もうイヤだ、コイツら使えねえな。

 カウンター越しに敵の様子をうかがう従業員。
 目標確認、敵は1人――今度は手にしたフォークの隙間にナイフをさして遊んでいる、みたいだ。あれを武器にして攻撃をしかけてくるんだな? きっとラスボスかもしれない。

 耳をすますと小汚い娘は独り言を発した。それも片言で。

「ナンダ、コレ、ワ……ハジメテ、見ル、よ?」

 はい、やっぱり変な人でしたー。
 少女の細くて可愛らしい声に、キッチンの奥は大騒ぎ。
 コック長の源さんはタバコに火をつけ、他人事のように苦笑して見物中。

「迷子でしょ? 警察呼ばなくていいの?」
 うん、それがいいよね。
「児童相談所だろ?」
 いや、まずは警察だろ。
「漢ならオーダー行くだろ、フツー!」
 まずは警察だっつってんだろ! 意味わからん、おまえが行け。

 あげくに役割りを押し付け合う。

「よし、おまえがオーダーとれ!」
「いや、おまえが行け!」
「じゃあアタシが行くよ」
「いやオレが行くよ」
「いやいや俺が行くよ!」

「「「どうぞどうぞ!」」」

「おい!」
 周囲がオーダーを押し付けてくる。ホント、何なのコイツら。
「よし、ジャンケンで決めよう。ジャーン、ケーン……」


 俺は勇気の一歩を踏み出した。ジャンケンに敗北したからではない。敵の声が、もとい少女の声が可愛かったので、襲い掛かってきても力では負けない自信があったのだ。ホ、ホントだよ?
 ……チキンで結構。

 メニューを手にした俺が近づいてくることに気づいたのだろうか、少女は遊び道具の食器を持った手を止め、不思議そうに首を捻って、ポカンと口をあけて見上げてきた。
「……そ、そんな瞳で見つめても、なにも出んぞ。あ、こちらメヌーになります」
 噛んだ。

 プークスクスッ。キッチンの奥で爆笑が起きる。
 え、なに? これ何の罰ゲーム?

 オーダーを聞こうと思ったが、言葉が通じるのだろうか? それが不安だった、が、救世主というものはどこにでも現れるものだ。

 ――少女の前にメシが差し出された。

 俺たちが食っている賄い食の残り。客に出すメニューも絶品だが、賄い食だって負けてない。
「ヘイお待ち。ほら、食いなよ。腹減ってんだろ?」
 野太いバリトンボイスのご登場。ガッチリとした筋肉の持ち主がくわえタバコで少女に対し、「食いな」とアゴでうながした。

 コック長の源次さん――俺たちは源さんと呼んでいる。細マッチョで髭をはやし、頭にタオルを巻いた30後半の兄ちゃんは、どこぞの家系ラーメン店によくいるような厳ついお方だ。昔、ヤンチャしてたらしく、職にあぶれたニート時代、この店の味にひかれてバイトを始めたらしい。若い俺たちを取り仕切る、頼れるアニキ分。

 少女の隣に座る女性が笑顔を送ってきた。
「――あ、メニュー持ってきてくれたのね、ありがとう咲羅真クン」
 包み込むような母性特有の雰囲気を醸し出すのはみどりさん。お腹の中に源さんの子供がいらっしゃる。2人は店で知り合ったと聞かされている。碧さんがお客としてこの店にやってきたとのこと。以来、碧さんもこの店のメンバーの一員となった。身ごもっているけど働き者だ。


 碧さんが少女の汚れた顔を拭く。
「ほかにも何か食べたいものある? ヒゲマッチョのおじさんが何でも作ってくれるわよ、たくさん頼んでね」
 ヒゲマッチョのおじさんが作ってくれるわよ~、とか言ってみたい。俺の場合、100パーお玉で殴られる。
「ヒゲマッチョのおじさんが作ってくれるわよ~、痛てっ」
 ほらな。

 俺は少女に聞かれぬよう、碧さんに囁いた。
「大丈夫なんすかコイツ? なんかヤバそうな雰囲気かもし出してるんスけど?」
「ああ、だいじょぶだいじょぶ。この子スゴイのよ、さっきまで言葉わからなかったんだから。ね~!」
 と、裸足の少女に微笑んだ。
 ね~! じゃねえ! 言葉理解できないとか完全に終わってるレベルだろーが!!

 はい終了~。

 カンカンカーン、ゴングが鳴り響く。リングの隅、俺は真っ白に燃えつきていた。


 警察に連絡して引き取ってもらおう。諦めた俺だった――が、そのあと事態は一変する。
 少女の横。Uターンして引き返す俺のことを引き止めたのは、そのあとに続く言葉だった。

「コレ……これ、ス、き――」

 少女は不器用にスプーンを握り、口元をよごしながら、賄い食の中の一品を口にしている。

 俺の作った料理。
 源さんの作った料理。
 みんなの作った料理を口に運ぶたび、少女はぎこちない笑顔を俺たちに見せてくれた。そうやって、使っていなかった表情筋を鍛えているようでもあった。

 さらに驚いたことがある。
 先ほどまでスプーンとフォークの使い方すら知らなかった少女は、スプーンを器用に使いこなし、最初はグーで握り締めていた持ち方も、人差し指と親指の間に滑り込ませるように変わり、さらには箸の使い方を、言葉を、ありえないスピードで学習していったのだ。源さんがタバコを使って浪人回しをしているのをジッと見ては、それをスプーンでマネてみせる。
「すげえ……スポンジのような脳みそだな。ぐんぐん吸収していきやがる」

 少女の学習能力は俺たちを驚愕させた。教えることをなんでも一瞬で覚えやがる。クソ、うらやましー!

 源さんの話によると、俺が駐車場の掃除をしている間に裏口から侵入してきたらしい。おぼつかない足取りでカウンターに向かい、イスに座りこんで、キョロキョロとあたりを見回し、なにをするでもなく、テーブルの上に置かれた食器類や調味料を手にとって遊び始めたとのこと。

 食材のにおいに誘われてやってきた捨て猫のようだと思った。

 『ここは遊び場じゃねーよ』と、源さんの厳つい声にさえたじろぐ事もなかったようだ。いい度胸してやがる、と関心したが、単に言葉が理解できないだけだった。
「どこの子かしら? 警察に届ける前にご飯食べていったらどう?」
 碧さんの心優しいお言葉で、捨て猫は運よくメシにありつけたのである。

 はじめて店に来たときは、「あー」とか「うー」とか、まるで赤ん坊のような受け応えしかできなかった。けれど、俺たちの会話はちゃんと耳に届いているようで、他人の言葉を耳にするたびに、それをどんな時に使うのか、その使用方法や目的などを学習しているのがわかった。

「ほら。これも食え、たくさん食いな」
 源さんは次々に料理を差し出す。頭からはずしたタオルを使い、少女の汚れた頬や口周りを少し乱暴にふき取ったりする。もうすぐ子供が生まれるから、育児の練習でもしているのだろう。

 少女は源さんのことをしばらく見つめていた。しまいには初恋を覚えた思春期ように顔を赤く染める。
「なんだコイツ、赤くなってんぞ? 源さんに惚れたんじゃね? ……イテー!」
 からかおうもんなら、怒りまかせに俺の足を踏みつけてきやがる。フォークで刺されなかっただけマシってもんか。とんでもないじゃじゃ馬だが、言葉の理解を始めているようでホッとした。

 少女が喜怒哀楽を持っててよかったと思う――表情筋、笑顔は全国共通言語。人間の誇り。


 名のない少女に自己紹介をする。
「俺は調太郎ちょうたろう。23歳、わかる? 年齢のことだよ。生まれてから何年経過したかのカウントだ。おまえいくつなの? 何歳?」

 少女は考える素振りを見せたあと、こう答える。

「……ごめんクだ歳。コれ次のカタに回してくだ歳。これハク歳、よかったらアサヅケに使ってみな歳、おやすみな歳、おほほほ……ほ?」

 ポカーン。開口、頭が真っ白になった俺。
 後ろの方でドッと笑いが起こった。
 俺以外の奴らが爆笑しているじゃねえか。

「それはさっき回覧板を持ってきた隣のおばちゃんの年齢だ」
「違うでしょ」
 如月のツッコミ。
「自分の名前も知らない子が、自分の年齢知ってるわけないっしょ」
 はいはい、そうですね。


 テレビから流れるコント。コンビの太ったほうをその相方が「デブ」だの「らいざっぶ」だのといじっている。
 それを見た少女が碧さんのお腹をジっと見つめて指差した。
「み、ドりさん……デ、ぶ?」
「あ、言ったなー」
 迫力のないグーで殴るマネ。そのあと少女の汚れた髪をワシャワシャと撫でては周囲をなごませた。

 こんな感じで小一時間、俺たちは少女のおもりに付き合わされた。

 店を閉めるころには、少女に3歳児ほどの学習能力が備わっていた。


 店の裏にアパートがある。それが俺たちの寮だ。

 アパートの風呂をこの子に貸してあげて。女の子同士だから一緒に入ろ――碧さんと如月が少女を風呂に入れてくれた。元がいいのか、少女は見違えるほどピッカピカに仕上がり、周囲の野郎どものハートを打ち抜いた。が、俺たちの儚い想いも虚しく終わる。

「咲羅真クン。この子、男の子よ?」
「うん、チンコついてた」
 風呂からあがった碧さんと如月がおかしなことを言う。

 心と体のダブル攻撃で頭が真っ白になった俺は、少女がパジャマ代わりに着ているTシャツをめくりあげた。

「……うむ。たしかにツイてる。気持ち程度だがな」
 こんなに可愛い子が女の子のわけがないよな、うん。
 嫌がる少女、じゃなくて少年にケリとばされ、ふたたび頭が真っ白になった。


晴湘市の日常


 ――翌朝。
 すずめがチュンチュン鳴いている。

 目覚まし代わりの携帯端末が鳴り響く中、俺の顔から血の気が引いた。
 布団をまくりあげると、俺の胸の中で少女、じゃなくて少年が寝息をかいている。俺が眠っている間にもぐりこんできたらしい。別の布団を用意したのだが。精神はまだ幼稚そのものだ。
 寝顔は悪人すらも可愛いというが、コイツの場合、さらに美少女レベルが増しているからコワイ……俺様が道を踏み外しそうで。

 ――そんな朝チュンはイヤだ。

 以前、合コンのお持ち帰り、女と一晩明かしたあとのこと。
 俺の横で眠る女の寝顔にドギモを抜かされたことがあった。
 以来、俺はメイクした女を信用できない。
 でも今回は逆バージョンだ。ノーメイクで美少女、なのに男とか。神様、俺にあまり罰を与えないでくださいよ。


 変テコな検査服はボロボロで泥汚れが酷かったので捨てた。でも新しい服を買ってやったからよしとする。

 以前、パーカーを着ている如月をじっと見つめて、どうして服に帽子がついているの? としきりに聞いてきたので、防御力がアップするからだろ、と適当に答えてやった。正しい答えがわからなかったのが人生の先輩として悔しい。後で調べたら、もともと風除けとして使用されていたらしく、今となっては飾りにすぎない。まるで学歴だ……高卒の俺が言うのもなんだが。

 ここ数日の出来事に思いを馳せながら、俺はぐっすり眠っているガキンチョの頭を撫でた。
「成長すれば、もっと男らしくなるから心配すんな」
 ベッドに少年を残してタバコを吸いに行く。煙を嫌がるあたり、普通の子供だった。


 少年の名前が知りたかった。

 検査着のプレートには、『ト』、『NO.』などの文字が記されていた。雨に打たれていたためか、プレート内の紙はグチャグチャで読み取れなかった。

 キッチンのみんなで名前を推測する。ヒントはネームプレートに隠されている! じっちゃんの名にかけて!!
 『ト、NO.……トノ子じゃないの?』
 『男でその名前はおかしいだろ』
 『じゃあトノ夫』
 『うん、土嚢どのうみたいで変ですよね?』
 全国のトノ夫さんに謝れ。
 『じゃあ……コトノ?』
 『お、それでいい! 男でも女でも通用しそうだし』
 名前は『コトノ』。
 漢字は『御殿』。
 みんなでそう決めた。


 御殿が来てから、ちょうど3ヶ月が経過した。

 警察に相談したが、捜索願も出されていない。迷子でもない。ただ俺たちの前に現れた御殿。

 児童福祉施設もいっぱいで御殿の行く場所はどこにもなかった。なので御殿は俺が預かり、面倒をみることにした。

 苗字も俺の姓を名乗らせ、遠い親戚ということにした。弟と言ってしまうと顔が似てないのでバレるからだ。


 御殿はもうすっかり家族の一員だ。

 俺のことはアニキ、もしくはクロードと呼んでくれ――と言ったら「イラァ」と変な顔をされたのでショックだった。それ以来、チョータローと呼ばれている。呼び捨てかよ。礼儀作法も教えておくか。

 タバコも女漁りもやめた。吐き出す煙は子供の前では拷問に等しい。コンパスのように忙しなく動く下半身は子供には見せられない。保護者代行として、子供に見てもらうための背中を作りたいのだ。養う者ができたことで、俺の生活も変わっていった。


 スゴイスゴイと周囲を驚かせた人並みはずれた御殿の学習能力は、やはり本物だった。

 言葉を教えなくとも、見たり聞いたりしているだけで、脳内で会話を構築していった。本来、それがあたり前なのだ。

 俺たち日本人は日本語を覚えるのに教科書を使わない。御殿は俺たちと同じことをしているだけだ。ちょっと頭がいいだけの、ごく普通の子供なのだ。

 「この子はやれば出来る子なんです!」。昔、俺が赤点を取ったとき、担任に呼び出されたお袋が泣きながら言った言葉を思い出す……すみませんね、その後も期待に応えることは出来ませんでした。応える気もありませんでした。まあ、俺的に頑張ってはいたんですけどねえ、ははは。

 ――でも御殿は違う。

 自転車の乗り方は10分で覚えた。その10分間の時に転んでできた傷だって残ってるけど、そのうち消える。でも学習した内容は残るだろう。


 バイクの乗り方も教えた。クラッチとギアチェンジを一瞬で覚えた御殿には正直イラついた。
 一度、検定で落ちている俺としましては、正直言って悔しい。あまりにも悔しいので「転ぶのも勉強だ!」とバイクごと転ばせてやろうかと思ったが、死んじゃったら大変なのでやめた。


 ゲームを覚えさせたら、器用にコントローラーを動かしやがる。これがなかなか上手い。いい対戦相手ができたので俺サマ大喜び。徹夜でゲームに付き合ってもらい、ボッコボコにコンボを決め続けたらヘソを曲げてスネてしまった。

 1350勝1負――いじめるのはもうやめよう。


 ちょっとエッチな本を見せると顔を真っ赤にして投げつけてきた。あら、この子ったらウブなのね。そのうちコンビニへ行って、少年雑誌とゲーム雑誌の間に挟んでレジに持ってゆく日が来るだろう。そして、そそくさとコンビニから出てくればいいさ。俺は昔、そうした。

 御殿がとくに懐いていたのは源さんだ。
 出会って間もない頃、親のように包んでくれたのが心に残っているのだろう。
 源さんのそばでは少女のように慎みある態度に戻る。小中学生の女子が少し大人の男にあこがれるあんな感じだろうか。それとも、動物は最初に見た動く物体を親とみなすってやつ――インプリンティングだっけ? わかんね。そんなやつ?

 源さんと碧さんを親だと思っているのかね。それとも餌付けされたとか?

 源さんに恋心を抱くのもよかろう。愛に性別なんて関係ない……だたし片思いだけにしとけ。保護者として不倫は認めん。


 俺たちが料理を教えると、作業工程をジッとみつめたあとにマネをして料理を作り出す。

 自分で作った食材がマズかったらしく、悲しい顔をする。それも修行のうち、誰だって最初はそんなもの。俺たち人間ってのは、そうやって目の前の壁を壊したり乗り越えたりしながら成長してゆくのだから。


 半年が経過した頃、忘れていた事件を思い出した。御殿と出逢う前の出来事だ。

「家宅捜査?」

 近所の住人が警察の家宅捜査を受けた。なんでも児童誘拐事件として容疑がかかったらしい。容疑者の家から誘拐された子供の衣類が発見されたことにより発覚したのだが、結局のところ、事件とは無関係に終わった。散々騒ぎやがってクソポリどもめ。迷惑な話である。

 その後、元容疑者は姿を消した。消息不明になった人物を大して気にかけるものはいなかった。

 ――そういえばあの時、不可解な出来事が頻発していたんだっけ?。

 意識不明や失踪、神隠しとでもいえる現象。
 ましてや日本各地から子供たちが集団で押し寄せてきたこともあった。
 失踪ならまだしも、団体様でいらっしゃるのは微笑ましいにもほどがある。

 俺たちは『逆ハーメルン事件』と呼んでいた。

 その後、子供たちは無事に親元へと返された。

 気がかりなことがもう一つ。
 御殿が店で働きだしてからしばらく経った日、東京から探偵業の女性が来店した。

 黒服の取り巻きを引きつれた『マダム』と呼ばれる長身の女性。彼女にしつこく御殿のことを聞かれたが、のらりくらりと質問をかわした。親心からか、今はそっとしておいてやりたかったのだ。


 みんなで遊びに行く。

 海や山に近いこともあり、とりあえず近所の海へ――御殿を海へ頬リ投げて遊ぼうとしたら、俺が後ろから別の奴に突き落とされた。死ぬかと思ったので、御殿だけではなく、別の人にもやらないと決めた。

 海につれてゆくとはしゃぐので、海が好きなんだと思ったのだが、胸が少し膨らんできたのが気になるらしく、御殿を海に連れて行っても上着を脱がなくなった。そのうち、誘っても泳がなくなった。

 夜、ひとりでコッソリ泳いでいた、なんてオチもない。よほどハト胸が気になるようだ。
 思春期にはよくある体の変化だ、と御殿に言い聞かせた。


 御殿が現れてから一年が経過しようとした頃、さらに驚く出来事が起こる。

 子供だと思っていた御殿は、たった1年で10年分の成長をとげていた。
 身長はそれなりに伸び、中学生の平均くらいになっていた。が、やはり子供。決して男らしいとはいえない華奢な体格のままだ。
 顔立ちは中性的というよりも、やはり少女にしか見えない。相変わらずのハト胸だったが、10代前半の少女くらいのささやかな膨らみはあった。それを気にしてか、一緒に住んでいる俺の前ですら服を脱がなくなった。声変わりもしないのが奇妙に思えたが、人の成長はそれぞれ違う。

「たった1年でここまで成長するのかよ――」

 10年後は老人になってるんじゃないのか? いらん心配をする俺。
 それに関しては問題がなさそう。
 成長は最初の数ヶ月で一気に伸び、ここ数ヶ月は緩やかな成長に変化している。
 どうやら、最初だけ急成長する体質のようだ。


 学校に通わせてやりたいが金がない。市役所とかに申請すれば学費免除とか出来た気がする。でも御殿は戸籍を持っていないので無理か。
 日本では数千人もの子供が無戸籍だ。
 御殿もその中のひとりだった。

 御殿は保険にも入れない。免許も取れない。部屋も借りられない。打つ手なし。

「人権すらねぇのかよ……」

 それが気の毒だった。御殿だけ世界から切り捨てられてる気がしたからだ。
 それが悔しくて悔しくて、涙したことがある。家族が人として認めてもらえないのは納得がいかない。
 たとえ政府が認めなくとも、俺たちは御殿を人として認める。俺が「先生」と呼ばれる立場なら、すぐにでも御殿に戸籍を与える。

 御殿の教育において、独学しかないと決めた俺たちは、みんなで御殿の家庭教師になった。
 ちなみに俺の授業は『夜の秘奥義』だったが、徹夜がかりで作成した攻略本を如月にビリビリに破られた。ションボリ。


地獄絵図


 街に雪が降る。
 その日はとても寒かった。

 街はネオンで彩られ、季節のイベントまっさかり。

 御殿が来てからちょうど一年が経過したので、その日を御殿の誕生日にしたかった。
 ケーキを作り、チキンも作る。そうだ、クラッカーも忘れずに買いに行こう。そう決めていた。


「……みんな遅せーな」
 秒針が時を刻むなか、ひとりカウンターに突っ伏してみんなの帰りを待つ。
 いつまでたっても誰一人として帰らない。しばらくの間、秒針の音だけが俺の相手をしてくれた。
「生きて帰ってきたら、その場で全員死刑だな」

 御殿にはとっておきの技をプレゼントしてやろう。最高の誕生日プレゼントになるぞ――俺は指をボキボキ鳴らして胸おどらせた。


 ――何時間も経過した。

 電話もつながらない。メールも返ってこない。それでも待った。
 でも、みんなは……帰って来なかった。みんな、どこへ行ったんだろう。

 ――どこへ行ったのだろう?
 俺は待ちきれなくなり、御殿たちを探すために店を出た。


 街を目指す。
 雪――気持ちていどの、ささやかな。

 街に近づくにつれ、異変に気づく。あたり一面が黒い煙に包まれていた。
 山火事でも起きたのだろうと思ったが、そうではなかった。ちょうど夕食時、住宅の台所から出火した炎が街中に燃え広がったのだ。

 俺は目の前に広がる地獄絵図を見ながらつぶやいた。
「一体、なにが、どうなってるんだ……」

 異様な光景――そこかしこに死体が転がっていた。

 通り魔に刃物で襲われたように血まみれに横たわる者、車にはねられたように体を折り曲げて地面に転がる者、倒壊した建物につぶされてピクリとも動かぬ者。

 ふと遠くに動く人影。誰かが倒れた人の心臓に耳を当てている。
 よかった。まだ生き残りがいたんだ。胸をなでおろし、その人物に駆け足で近づいた。

「すみませーん、何が起こったんすか!?」
 近づくたびに、それが人ではないことを確信する。
「う、げ……」

 ――かき出していたのだ、倒れた人間のハラワタを。
 目の前のそれ・・は、チキンをむさぼるように喰らいついては食いちぎっていた。

 クチャクチャと音を立てて人肉を噛みながら、俺の声に振り返ったソイツは、いびつな顔形をしていた。
 人間ではない、羽がある。なにか別の生き物だった。

 餓鬼と呼ばれる悪魔を思い出す――昔話やゲームなどに登場する、チビで貧相で下っ腹がプックリとつき出た、灰色の肌をした、あのザコキャラっぽいやつ。

 でも、目の前にいるそれは、ザコなんかじゃない。正真正銘、関ってはいけない獣の類。

「クケッ、クケッ、クケッ!」

 こちらに牙を向け、歯ぐきをむき出しにしながらニヤついている。
 俺は尻餅をつき、慌ててその場を逃げ出した。


 走りながら街を見渡す。

 横っ腹が痛む。
 それでも走らなきゃ。走らなきゃ、ヤツらに捕まる! 食われる!

 生き残りを探す。
 目に付いた建物に土足で上がりこんでは、人の安否を確認する。が、それが裏目となって俺の胃袋を逆流させた。民家の中は無残なもので、人は皆、ヤツらに食い散らかされていた。

 見渡すかぎり化け物、化け物、化け物――化け物だらけのこの街は、地獄の業火に包まれた。


 死体に群がるオニヤンマが牙を立てて人肉を食いちぎっている。よく目を凝らしてみると、トンボではなかった。
 羽の生えた人型の虫。
 そうして現実を突きつけられた。

「こいつら、化け物なんかじゃない……妖精じゃないのか?」

 妖精――キラキラと輝く、可愛らしい羽の生えたフェアリーランドの使い。人間たちを魅惑の世界へ誘ってくれる。

 けれど、それが俺の妄想だということを、このとき理解したのだ。

 俺はみんなを探した――。


 バイトの仲間は店の裏で呆気なく見つかった。
 パーティーで使うコスプレ用の赤い絵の具を全身に浴びながら、誰ひとり、ピクリとも動かなかった。
 それらに群がる羽、羽、羽。

 ――死んだ。みんな死んだ。

 そして、ここにいたらいずれ俺も食い殺されるだろう。

 ――この街を出よう。
 逃げるのだ。生き延びるのだ。なんとしても。


 失敗したと思ったことが一つある。御殿に戦争の仕方を教えていなかった。戦うことを教えていなかった。そんな術を俺は持っていない。知らないことなど教えることは出来ない。

 俺たちから教わることが出来ない以上、御殿自身が身につけてゆくしかない。生きてゆくため、自らが動くことで未来をつくることができるのだ。

 俺はその場に跪いた。
「御殿、生きていてほしい……たとえ戦いに巻き込まれたとしても、生きていてくれ。お願いだ――」

 俺は業火に包まれながら、煙に隠れてゆく星空を見上げた。


街を出る


 持って行くものは何もない。
 たった一年だったけれど、新しい家族がいたことも忘れよう。
 バッグ一つをかつぎ、家族との思い出を残し、俺はこの街を後にする。


 いい年して鼻水を垂らしながらベソをかく。
 何歩か歩いて、立ち止まった。

「できるわけないだろ……大切な人を、忘れることなんか……出来るわけないじゃないか……うわああああああああああん」

 空に叫ぶ――眼球の表面を大量の涙が覆い、見上げた空が滲んだ。

 新しく出来た家族。弟のようであり、妹のようであり、子供のようであり――そんな存在を、忘れることができようか?

 泣き続け、やがて疲れ果て、泣くのをやめる。
 涙が枯れたかと思った。二度と涙を流さないロボットになったんじゃないかと不安になった。涙が枯れたとき、人は人では無くなる。

 俺は頼りない足取りで夜の街を歩いてゆく。


 割れたアフファルトを登山のように乗り越る。そんなことを繰り返していた時だ。
「……?」

 如月が地面に座り込んでいた。まるで魂が抜けたように、ただボケ~っと座っているだけ。

「如月!」
 俺はバッグを放り出し、如月の肩に手をかけて揺すった。
「おい如月、なにがあったんだ!?」
「調、太郎?」
 如月はポツリ、ポツリと話し始めた。

 話によると、数日前、源さんと碧さんのもとへ見知らぬ婦人がやってきたらしい。このご時勢に馬車に乗り、30くらいの物静かな、それでいて腹の中に威圧的な攻撃性を持っているような婦人とのこと。

 『御殿を引き取りたい。希望する金額を言ってほしい――』。

 そう言われた源さんは、婦人を激しく叱責し、追い払った。碧さんの体にも負担がかかるため、早く話を切り上げ、事を穏便に済ませたかったのだ。

 そして、つい先ほど、その婦人が源さん夫婦の前に姿を現した。誇らしげに街の状況を語り始め、恐怖に逃げ惑う人々を見てはこう言い残す。

「妖精の子供を怒らせると、こんな感じになるのです」――ごらんあそばせ、と。愉快に、軽快に。

 妖精の子供とは誰のことだ?
 俺の脳裏に浮かんだのは逆ハーメルン事件だ。

 子供たちはなぜ、この街に引き寄せられたのだろう?
 原因は誘拐事件にあった。
 失踪した元容疑者の遺体が見つかったのは誰にも知られていない。なぜなら、遺体はヤツらの胃袋の中にあったから。そう、犯人が誘拐したのはまぎれもなく妖精の子供。誘拐し、陵辱しようとした。妖精を怒らせたが故、食われた。

 何故そんなことを知っているのかって?
 以前、店に来ていた探偵から聞いたからだ。当初は冗談かと思っていたが、この状況から考えれば納得がいく。

 言葉巧みに妖精を騙し、連れ去る行為。悪行を目にした妖精の子供が発した叫び。それは風にのり、世界各地に届けられた。
 そのことを如月は婦人から聞かされていた。

 婦人はそのことをよく知っていた。妖精の事情にやたら詳しい人物だった。
 そうして時代に似つかわしくない馬車に乗り込み、この街を出た。

 妖精の悲痛、怒りの叫び、謀りの悪臭が妖精の子供たちをこの地に呼び寄せた。恐らくは、御殿も本能でその匂いを嗅ぎ分けていたのだろう。そうやってこの地に舞い降り、俺たちと出逢った。

 御殿が妖精の子だとしたら、俺が戸籍を用意するまでもない。妖精に人権はない。人間ではないからだ。

 ――けれども、と思う。

 けれども御殿は人間だ。俺たちと同じく喜怒哀楽を兼ね備えた人間。そこに種族は関係ないはず。

 人間が人間と呼ばれる所以はどこにある? そう問われれば、答えはひとつ――血に温もりがあるかどうかだ。

 他者に想いを馳せないヤツは人間から遠ざかってゆく。故に残忍なこともいとわずに行う。

 御殿が妖精の子供だとしたら、晴湘市を地獄に変えているコイツらは、御殿の匂いに誘われてきたのか?

 なにを戸惑う?
 保護者として、御殿を信じるのが俺の務めじゃないのか?
 たとえ御殿が原因だとしても、御殿は悪ではないはずだ。
 だってそうだろう?
 あんな素直な子が悪人として背負うべき罰などないのだ。その証明はこの一年で成り立つことを俺は知っている。御殿と紡いだ時間を、俺たちは知っている。


 俺と如月は何をするでもなく、ただトボトボと歩いて行く。

 ガレキの下から真っ黒に焦げた足が見えた。近づくと、見覚えのあるマタニティウェア。
 俺は涙を拭い、それに近づいた。

 なにかを必死にかばうような姿勢でうずくまる死体。
 ガレキをどけると、そこには無残に焼け焦げた妊婦の姿。

 ――碧さんだった。

「うわあああああ、うわああああああああああああああああ!!」
 俺は発狂した。
 叫び声を上げながら、半分狂ってしまった頭をグシャグシャかきむしっては現実逃避を試みる。が、無意味だった。突きつけられる現実からは逃げることができない。
 ガレキにつぶされたのか、炎で消失したのかわからない。原型を留めていない碧さんの顔を直視することができない俺は自分のことを、家族の一員として薄情に思えた。
 血や体液で滑る手に力をこめて、ガレキの山から碧さんの体を引きずり出した。
「碧さん! 碧さん! ああ……あああああああああ!」

 悲鳴と嗚咽。

 優しかった碧さん。いつも励ましてくれた碧さん。きっと俺の声は聞こえてないだろう。

 ――だって、口から上がグチャリと潰れて、無くなっているのだから。

 俺は糸が切れた操り人形のように、その場に座り込んだ。


地獄の宴


「え、地震?」
 彩りを見せるイルミネーションに誘われて、ショッピングモールを探索していた御殿。みんなへのプレゼントを選ぶためにショーケースに目を奪われていたが、建物が大きく揺れたことに酷く怯える。
 あわてる店員達とともに建物から出てみると、あれほど晴天だった空が真っ黒に染まっていた。

 あれほどまでにキラキラと輝いていたイルミネーションは全て消え、まるで真夜中のようだ。
 ましてやいくつかの建物が倒壊しており、火災が広がり黒い煙があがっていた。


 御殿が源次たちの元へ戻ってみると、何やら様子がおかしい。

「碧さん! どうしたの!?」
 同行していたはずの源次と如月の姿がなく、足をくじいた碧だけがアスファルトに寝そべっていた。
「御殿、はやく店に戻りなさい!」
 碧が遠くから御殿に叫んだ。

 理由がわからないまま、御殿は碧に状況の経緯を聞く。

「いきなり気味の悪いヤツらが現れて街の人たちを襲いだしたの!」
「気味の悪い……ヤツ、ら?」
「馬車に乗った女がヤツらをつれてやってきたの! このあいだ源ちゃんが大声あげて追い出した女! さっき見たときはタールを被ったように真っ黒だった!」
「く、黒い? タールの女? ……なに、それ?」

 碧が御殿に話す――女の馬車に群がる悪魔と妖精。ハーメルンの行進のように、魑魅魍魎を引き連れていたとのこと。

 困惑する御殿は、そこにいるはずの源次たちを目で探す。
「源さんと如月さんは!?」
 端末の回線がつながらないと困惑した源次と如月は、ケガ人を救助するために近くの病院に救助を求めて走り出した。
 碧はその足で店に戻るところを、倒壊したビルに巻き込まれてしまったのだ。

「碧さん、今助けに行くから!」
 御殿が碧に近づいてゆく途中、その視線が遠くでうごめく『何か』を捕らえた。

 無数に群れをなして人々を食らう生き物がいる――鉤爪をたて、羽を生やし、ケケケと笑いながら人々のはらわたを引きずりだして遊んでいる。クチャクチャと音を立てながらそれらを食し、ワインの一気飲みのように生き血をすすり、ドンチャン騒ぎ。

 御殿は信じられないものを見たときのように口が開いたまま直立していた。
「――妖精? 悪魔?」
 御殿が困惑するのも無理はない。魑魅魍魎の正体は悪魔。腹がでっぷりした灰色の肌の小人たち。牙をむき出しながら街の人たちを襲い続けていた。そこに似た形状の妖精も混ざっていたのだ。

 御殿は周囲を見わたす――横たわる死体に群がる人食いトンボを見ては、それらも妖精のような生き物だと理解する。

 ――御殿が目にした光景は、妖精と悪魔の……地獄の宴だった。

 けれども、御殿の脳裏には残虐な妖精のデータはない。みんなを夢の世界にいざなってくれる生命のはず。そんな思い込みが必然と「ここにいるのは妖精なんかじゃない、全て悪魔だ」という結論に変換されるのだ。

 一歩二歩と、御殿は後ろによろめいて尻餅をつく。それでも手足を這わせて碧に近づいてゆく。
「碧さん! 今助けるから!」
 碧は御殿の助けを制止する。
「馬鹿なこと言わないで早く逃げなさい!」
「いやだ! 碧さんを置いてなんかいけないよ!」

 ぐずる子を諭すよう、碧は御殿の髪をなでた。

「いい子だから、困っている人たちを助けてあげて」
「でも!」
「私は大丈夫。けど、この街は大丈夫なんかじゃない。だから、おなかを空かせている人達に、炊き出しを振舞ってあげて――」
 美味しいの、もう作れるでしょ? ――碧が御殿の頬に手を当てた瞬間、
「碧さん!」


――「いきなさい!」



 目の前のビルで、巨大なノコギリを手にした悪魔が、ぎぃぃぃぃこ、ぎぃぃぃぃこ、と壁に切り込みを入れて倒壊させてゆくのが見えた。人類の造ったものをことごとく否定する行為。
 のこぎりの動きは電気ノコギリよりずっと早かった。
 瞬く間にビルの一角が倒壊し、碧を下敷きにし、その顔の上半分をグシャリと潰した――。

「碧さん!」
 土砂のようなガレキに流された御殿は、陥没した道路に投げ出されて落下する。

 落下した場所には無数の悪魔が満員電車内のようにごったがえしていた。
「碧さん! 碧さん!」
 何度も叫ぶ御殿の髪や服を悪魔がつかんで離さない。まるで地獄に引きずり込むように御殿を飲み込んでゆく。
 御殿は泣き叫びながら、命からがら脱出する。


 御殿が生き延びても地獄絵図は続いた。
 源次と如月をさがし歩いてやってきた道のりで、御殿は大量の死体を目にしなければならなかった。

 炊き出しどころの騒ぎではない。生きている人がいるのかさえ疑わしい。

 途中、なんども悪魔に襲われかけた。
 体じゅう、打撲と切り傷だらけの御殿が目指すのは生きている人の安否確認。見渡すかぎり、食い散らかされた人、人、人。そこから目を背けなくてはならなかった。

 藁にもすがる思いで泣き叫び、街中にちらばった恐怖達に命乞いをする――そんな絶望のロードを、御殿は泣きっ面のまま裸足で歩き続けた。


 バスターミナルの地下通路に御殿はいた。うつろな瞳。猫背で、ゾンビのようにゆっくりと、一歩ずつ歩いてゆく。
「死んじゃった……みんな死んじゃった……死んじゃった……死んじゃった……」
 ブツブツと独り言をつぶやきながら、ここまで歩いてきた。

 調太郎は助けにきてくれないの? 僕のこと嫌いになったの?

 助けてよ。
 ねえ、お願い。

 助けてよ――絶望の中、御殿の目の前に1人の男が現れた。

 御殿の表情がパッと明るくなった。かと思えば溢れる涙で顔がクシャリとゆがんだ。そうして男に駆け寄った。
「源さん!」

 希望の光、御殿を導く光――源次は両手を広げて涙を流して笑ってくれた。迎えにきてくれた父親のように振舞う源次を前に、御殿はその胸に飛び込んでゆく。

「聞いて、源さん! あのね、僕ね、さっき……それで、碧さんが……」
 混乱していて言葉がまとまらない。

 とにかく伝えなくては――御殿は心の中の言葉を叫んだ。が、胸に走る激痛に違和感を覚えて目線を下げた。

「あ……」
 胸には長く伸びた鉤爪が刺さっていた。割り込んできた悪魔に襲われたのだ。

 御殿がふたたび見上げると、そこには今にも壊れそうな源次の顔。
「ケケケケケケケケッ!!!」
 御殿を刺した悪魔は腹を抱えて笑い、あちこちの死体を蹴飛ばしながら走り去っていった。

 御殿は右ヒザ、左ヒザ、最後に全身を床につけ、その場に崩れた――。

 一足遅れ、源次が駆け寄る。
「……御殿、おい、しっかりしろ御殿!」
「い、いい、痛い……痛いよ源さん……」
 胸の傷口を塞げば治ると思った御殿は、皮膚と皮膚を両手で合わせる。無論、流れる血は止まらない。鉤爪は御殿の心臓を見事に捕らえているのだから。
「待ってろ、いま救急――」
 救急車を呼んでやる。と言いかけ、そんなものは来ないのだと源次は閉口した。
 そのすぐ横、大きな亀裂がはしった壁が崩れ、源次は御殿の目の前でコンクリートに潰された。
「源、さん……」
 冷たくなった地面が御殿の体温を奪ってゆく。

 ――絶望の時間。

「……神様……こんなのって……こんなのってないよ……こんなエンディング、僕は望んでないよ……こんなの、いやだ……こんなの、やだ、よ――」

 御殿の体が涙と血で出来た海に沈んでゆく。

「……調太郎、逃げ……て」
 はやく、この街から……逃げて――。

 タールをかぶったような黒い女が妖精と悪魔をつれてやってきた――この街を、人々を、血の絵の具に変換し、地獄絵図を描いた。

 やがて御殿の視界がぼやけ、瞳から正気が消えてゆく。
 御殿の呼吸が、完全に止まった瞬間だった。


さよなら、御殿


 車から長身の女が降りた。
 マダムと呼ばれる女。都心にかまえた事務所に多くのエクソシストを登録している調査会社社長である。

 とあるダイニング。そこでは元気に働く御殿の姿はあった。マダムがほっとしたのもつかの間、この有り様だ。

 逆ハーメルン事件――本当はあの日に、この状態に陥るはずだった。それがどういうわけか、悪魔や妖精の子供たちをつれてやってきた女は途中で引き返す。それもそのはず、この上ない力の匂いを嗅ぎ取ったが故の逃亡だった。

 妖精の力を持った御殿の脅威が、馬車を引き返させた。結果、悪魔は去り、妖精の子供たちは我にかえり、親元へと帰っていった。いわば御殿は虫除けの役割りを担っていたのだ。

 今回、馬車がやってきた理由は御殿を迎えにきたのが一つ。もう一つは、妖精の居住区確保のためだった。人間を排除し、そこに妖精の新天地を築く。その後の企みは不明。

 誰に頼まれたのか、自分がそうしたいのか――それは馬車の女だけが知るところだ。が、悪魔と妖精の子供たちを言葉巧みに操っていたのは事実である。人間の街を襲うよう、そうやって妖精たちを憤慨させたのだ。

 馬車女が何者なのか。マダムには検討もつかなかった。


 マダムはタバコをくわえなおし、顔まで埋まりそうな白い毛皮の襟を直す。

 聖色市のクライアントから人探しの依頼を受けてきた。あれからどれほどの月日が経過しただろう――捜索依頼の対象者、『八卦NO.01』。その居場所をつきとめたマダムは、側近とともに晴湘市を訪れた。

 いくつかの誘拐事件。その中に妖精が誘拐されたという話があった。

 マダムの調査の結果、ここ晴湘市に住む住人が犯人だと突き止めたが、すでに遅かった。犯人の男は誘拐した妖精の子供に食い殺されていた。

 人外が関与している事件。マダムは子供の両親からの願望もあり、事件の真相が公になることを防ぐために全ての証拠を消した。

 誰にも知られてはならない事件だったが、調太郎にはうちあけた。
 知っていてほしかったのだ、妖精に関与するとどういうことになるかを。そして、それを知ったうえで、今後どのように生きてゆくかを決めて欲しかった。

 生きていて欲しいのだ。御殿を育てた、せめてもの報酬として――。

 無論、報酬なんか受け取る青年でないことは分かっている。それでもこの先、調太郎の存在が必要となってくる。いつかこの街が復興に向けて動き出すとき、きっと調太郎も戻ってくるだろう。そして、御殿の正体を知るのだ。だからそれまでは生きるべきだ――マダムはそう思う。


 バスターミナル。
 地下通路は血と汚物の匂いが充満していた。

 異変に気づいたマダムが部下とともに周囲を探索する。

 見つけたのは血の海に溺れる1人の少年――。

「いい子だったのに……血の海に堕ちてしまったのね」
 開いたまま閉じることのない御殿の瞳は、死人らしく、ただ無意味に一点を見つめていた。何を捉えることもなく、ただ一点を見つめていた。死人の役目はそれだけだ。

 赤く濡れた髪を、マダムはそっと撫でた。
 御殿はじっとしていて大人しい。店で出会った時と変わらず、狂犬のように噛み付くこともない。もう無邪気な笑顔はないけれど、悲しむことも、もうしない。

「いい子ね……」
 微笑むマダムは、御殿の瞼を閉じさせる。

 ――今、御殿はとても気持ちよさそうに眠りについた。


 マダムは御殿の寝顔を見ながら、ゆっくりと立ち上がる。
「地獄に堕ちたのなら、また戻ってきなさい……そしてその足で、ふたたび地上を目指しなさい――」
 マダムの指示で側近たちが御殿の死体をシートに包む。

 ジッパーの向こうに、安らかに眠る御殿の顔が消えていった。


生まれくる命を抱くもの


 ――何かが聞こえる。
 俺は碧さんの膨れた腹に目線を落とした。
 信じられない光景を前に、俺は硬直していた首をゆっくり左右に振った。

「…………ウソだ」

 ウソじゃない。

「こんなこと……あるわけない」

 それでも現実は俺に語りかけてくる。「お腹の子は……まだ生きている!!」と。

「――どうしよう?」
 如月が俺の横顔を伺う。
 とりあえず、赤ちゃんを取り出さなければ。

 俺は落ちていたガラスの破片を握りしめた。

「なにしてるの?」
 如月が這って近づいてきた。
「お腹の子供を取り出す。どのへんを切ればいいんだ!?」
「わかんないよ! アタシ子供生んだことないもん!」
 泣き叫ぶのも無理はない。こんな状況でも俺に付き合ってくれる如月が愛おしく見えた。

 このあたりを切ろう、そのあたりを切ろう――まるでイカれた生物学者が人体実験をしている気分になってくる。

 女神が舞い降りたのは、そんな時だった――。

「どうされましたか!?」
 白衣に身を包んだ女性が俺たちに話しかけてきた。走って逃げてきたのだろう、長身で黒髪ロングの女性が息を荒げている。

「こ、この人……知り合いで……碧さんという人で……」

 頭の中が完全に混乱している。俺が片言の日本語を振り絞るようお腹の赤ん坊のことを説明すると、白衣の女性は的確に指示を出してくる。ペンを取り出し、碧さんの遺体のお腹に綺麗に線を引いてくれた。

「――よし、これでいいわ。赤ちゃんを取り出したら、すぐに私の車で隣町の病院へ向かいなさい! 駅の駐車場に止めてあるから――」
 白衣が車のキーを投げてよこし、振り向きざま、
「呼吸がない時は羊水が鼻に詰まっている可能性があるから吸い出してあげて!」
 と急いで走り出し、炎の中へと消えていった。


 名前も知らない女性に知識を託された俺は、碧さんの腹に引かれた線にそってガラス片を動かし、肉を器用にさばく。まるで魚を卸すように、キレイに、お腹の子を傷つけないように、スッ、スッと人肉をさばくのだ。

 ガラスを直接握ってしまったもんだから、自分の手を切ってしまい、血が滲み出した。その血でさらに手元が滑るが、俺はそんなに不器用じゃない。コツさえ覚えれば、何だって切れることを碧さんが教えてくれた。

 やがて頭が逆さになった子供が見えてきた。
「見えた、子供だ!」
「そっとよ、そっと……」

 俺たちは、まるで核ミサイルでも扱うかのように、腹の中の赤ん坊に触れる。

 さらに母体の肉を裂き、へその緒を切り取る。

 取り出した赤ん坊は掌に収まるほどに小さい。しばらく待った俺は、愕然とする。

「駄目だ、声をあげない……、呼吸をしていない」
「かして!」

 俺の手から赤ん坊を取り上げると、如月は赤ん坊の鼻に口をつけ、詰まった羊水を直接吸いだした。意地でも呼吸させる気でいる。呼吸しなきゃ許さないと言わんばかりに。

 こんな時、女の子は本当に強いのだと関心してしまう。
 それでも赤ん坊はピクリとも動かなかった。

 けれど、諦めない。如月は何度も同じ動作を繰り返す。

 ――赤ん坊は動かない。

 ――如月は同じ動作を繰り返す。

 それを何時間も繰り返した気がする。正確には数分なのかも知れない。時間などわからかった。


 俺はなかば諦めていた。
「いつまでやってんだよ如月……赤ちゃん、もう死んでるよ」
 ……如月も、おかしくなってしまったのか。
 そう思いかけた時だった。
 
 赤ん坊が……産声を上げて泣き出した。

 肺いっぱいに取り込まれる酸素にビックリしたのだろう、手を、足を、からだ全体を使って俺たちに何かを訴えてきた。

 俺と如月は、元気な子を見てホッと胸を撫で下ろした。と同時に、救える命を諦めようとした己を恥じた。

 立ち止まっている時間はない。俺たちは駅の駐車場に止めてある車を使い、隣町を目指す。


 途中、海岸沿いを歩いていた源さんを拾い、俺たちは地獄絵図から脱出した。

 源さんは崩れた壁から命からがら脱出してきた。

 御殿が殺された――車の中、魂が抜けたような表情の源さんがブツブツと詠唱する。

 なにかの間違いだろうと思ったが、源さんの手にまとわりついた血痕を見ては、俺は込み上げる気持ちを押し殺し、泣き崩れる源さんの肩を抱き、こう言うのだ。

「大丈夫。きっといい方向に向かっている」――と。

 なぜなら、俺たちはこうして生き延びたのだから。病院で治療を受けた赤ちゃんも、こうして元気なのだから。


 捜査の結果、案の定、御殿の死体も血痕も見つからなかった。
 死体がないとすれば、御殿に関する事件は無くなる。
 源さんの供述は与太話として見られ、警察からも相手にされなかった。

 ――そんなやりとりを聞かされては、御殿の存在が抹消されてしまったようで、とても悔しかった。

 けれど、御殿が存在していたという事実を俺たちは知っている。誰が否定しようとも、この胸に刻まれた時間にウソ偽りはないのだから。

 空を見上げ、思う――大丈夫、きっとまた、どこかで出逢える、と。

 だから御殿――それまでに料理の腕を磨いておけ。おまえの腕で、俺たちの舌を唸らせて見せろ。

 如月が赤ちゃんを源さんに見せた。
「源さんの赤ちゃんよ。碧さんが託してくれたの。もうパパなんだから、しっかりしてよね。アタシらも手伝うからさ――」

 如月の腕の中の子が、俺たちに希望の光を照らし出す。その輝きが俺たちに訴えてくるのだ――この先も、諦めずに歩いてゆきなさい――と。
 もうこの世にはいない碧さんが、一つの魂をこの世に生み出した瞬間だった。

 死に逝く者が残す奇跡。
 生き行く者が紡ぐ軌跡。
 涙でクシャクシャになった顔だとしても、何も問題はない。
 胸を張って進んでゆけ。

 俺たちは、キセキに愛されているのだから――。


政府の発表


 後日、内閣府からの発表があった。

『晴湘市における土砂災害、火災、およびガス爆発事故においては、現在復旧作業が滞っており、復興の兆しは遠い。死亡者は3万人強。全員災害に巻き込まれた模様。火災による遺体の損傷が激しく、身元の特定は困難とする』

 つけ加え、次の発表があった。

『また、有毒ガスが発生しており、晴湘市全域を立ち入り禁止区域に指定する――』