6 シュベスタ


 地獄と化したパーティー会場から命からがら逃げ出した良夫は、沙々良とともに自宅に戻っていた。生きて家庭に戻れたことに感謝している。

「おとうちゃんがドーナツとかいってるから、危うく死ぬところだったんだよ?」
「いやね、パパもお腹すいてたんだよ」
「いやいや、ふつう死ぬ瞬間ってのは食欲より性欲のほうが高くなるでしょ」

 野生のオスは死ぬ瞬間に勃起することがある。子孫繁栄のため等々、理由はそれぞれ。

「あのね、自分の父親を野生の動物に見立てるってのは、娘としてどうかと思うよ?」
「あーはいはい、説教乙」

 ソファにあぐらをかいて座る沙々良が耳をホジホジ。まったく話を聞いていない。

 沙々良は衰弱した詩織を家まで送り届けた。しばらく付き添っておこうかと思ったのだが、詩織曰く、「水無月先生をお願いします」とのこと。あえてお言葉に甘えた。

 どうやら見えない敵の矛先は彩乃に向けられたらしい。それもそのはず、彩乃はシュベスタの詳細を知っている唯一の味方。敵からすれば目の上のコブ。
 とはいえ、今こうして彩乃がいるのには理由があった。

 沙々良はお茶をすすり、彩乃に話しかけた。
「主任がウチにくるなんて珍しいこともあるんですねえ」
「お父さまから先日のお話の続きを聞かせてもらえるらしくて、それでお邪魔させてもらったの」

 ごめんなさいね、急に――彩乃は眉をハの字にして沙々良にすがった。

「いや、まあ、いいんスけどね。どうせ暇だし」
 チラリ。沙々良が隣に座るパパを見る。
「失礼な娘だね。パパ、これでも多忙なんだよ?」
「ウソつけ、さっきまでテレビ見て爆笑してたじゃん」
「あれはアレ。これは――」
「――コレ。なわけあるかい。屁理屈もそこまでくると小学生だわ」
 研究所でも実家でも、相変わらず仲のよい親子だ。彩乃は古賀親子の会話が好きだった。


「ところで主任、今度『丼物は人間を救う』っていう論文を発表しようと思うんでスけど、どうです?」

 彩乃は思わず吹き出しそうになり、ひとまずカップを口から離す。

「なにそれ、面白そうね。どんな論文?」
「早くて安くてうまい。これって人類をストレスから解放させる能力だと思うんですよね」
「能力ねえ」
 主任、苦笑。ついでだからウンチク――
「たしかに、カツ丼の論文は日本人が発表しているわよね。千葉県と東京都のカツ丼の栄養値と塩分濃度、味付けの違いとか……読んだことあるわよ」


 ※『東京都におけるかつ丼の栄養学的実態(千葉県との比較)』
 ※Nutrients Content of KATSUDON in 5 Areas of Tokyo Metropolitan (Comparison with Chiba Prefecture)。


「――え、マジっすか? おのれ、先人がおったか」
 丼物を愛し続けて26年。これから丼に熱い風が吹き荒れようとしていることは間違いはない。沙々良の戦いは続く。
「世の中には誰にも見向きもされない論文もあるくらいだから、丼物に目をつけるあたり、沙々良ちゃんいいセンスしてると思うわよ。応援するわね」
「そーすかあ? いやー、主任に誉められると俄然やる気が出てきますなあ~」
 がーはっはっはー。沙々良、頭をかいて高笑い。
「沙々良、もういいよ。その話」
 おとん、話をぶった切る。


 さて、想夜たちが初めてMAMIYA研究所を訪れた際、彩乃と良夫が難しい話をしていたのを覚えているだろうか?

 むずかしい話の続きといこう――。

 先日、良夫が彩乃の元へ訪れたのは、ある報告書を渡すためだった。
 報告書の内容は海沿いにある街の消滅についてである。

 今から2年半前、晴湘せいしょう市という街が炎に包まれた。海と山に囲まれたのどかな街だった。彩乃も一度だけ訪れたことがある。

 その街にひとりの子供が住んでいた。生きていたら、歳はおそらく10代。名前、住所は不明。あろうことか性別すら不明だった。『いちおう男の子』として生活していた。

 そんな謎だらけの子供の捜索を彩乃は連日おこなっていた。

 むかし探偵業をしていた良夫には幅広い人脈がある。それを知った彩乃は良夫に調査依頼を出していた。
 街が消失してから時間が経過してはいるものの、なにごとも根気よく続けることは意味を成すもの。子供の消息までは分からなかったが、どこでどのような生活を送っていたのかを調べることに成功した。

 数日前、その子供が所有する車両が聖色市のNシステムに登録されていた。

 ――そう、御殿のバイクだ。

 MAMIYA研究所で逢ったあの時、あの出会いは再会だったのだ。誰の計らいなのか、彩乃と御殿は再会を果たした。

 ――とはいえ、御殿には記憶がなかった。

 打つ手がないと分かった彩乃は落胆したものの、こうして目の前に子供が現れてくれただけで幸せだった。

 御殿は自分の親を知らない。
 それが彩乃にとってどんなに苦痛か想像できるだろうか?
 自分の子供の記憶から存在を消された母親の気持ちが。

 御殿の苦痛を想像できるか?
 母親の顔が分からない子供の気持ちが。

 それらは決して過去のものではなく、今もこうして悪夢として続いている。

 けれど、と彩乃は思う。
 けれど、御殿が元気ならそれでいい、と。
 母親なんてものはそんなものだ。いつだって子供のことばかり考えている。寝ても、覚めても、子供のことばかり。そうやって不器用さながら、ひとり子供との時間を築いてゆくのだ。
 たとえ子供がそばにいなくとも、永遠の恋人のよう、いつまでも忘れることができない存在なのだから。

 シュベスタに彩乃が移ったのは沙々良もよく知っている。だが、そこでどんな研究が行われていたのかまでは知らない。ましてや八卦プロジェクトなるものが進行していたなど、想像すらできなかった。

 なぜ彩乃は沙々良に打ち明けたのだろう?

 その答えは明白。沙々良たちなら力になってくれると信じているからだ。もうひとりで考え込むのは無し。妖精界の暴挙を前にするなら、ひたすら前進するのみ。

 立ち止まっていても解決はしない――これは彩乃の戦いでもある。戦力は、多いほうがいい。


 彩乃が帰った後のこと、沙々良がカップを片付けている時だ。

「さてと、お片づけお片づ……おや?」
 ソファから立ち上がろうとする良夫の目にA4の封筒が止まる。
「水無月主任としたことが、研究所の資料を忘れているじゃないか」
「ありゃ。まだ近くにいると思うし、ちょっと届けてくるわ」
 沙々良は資料を持って家から飛び出した。

 近くの駐車場付近。
 足元に何かが落ちていることに気づいた沙々良が、それを摘み上げた。
「これは……車のキー?」
 彩乃のものだった。
「まさか――!?」
 突き刺さるよう、電灯の灯りがメガネに反射する。
 えも言われぬ不安に襲われ、沙々良は血の気が一気に引いた。


2人の科学者


 駐車場でメイヴと出会ってすぐ、黒い霧に覆われた瞬間、彩乃は見覚えのある研究施設にいた。

「水無月主任、また貴方と研究ができることを光栄に思うよ」
 メイヴが後ろを歩く彩乃に語りかけてくる。

 ここはシュベスタ研究所。彩乃の古巣だ。

 さぞや不満があるのだろう、彩乃は小学生のように、ふてくされながらメイヴの後ろを歩き続けた。

「――想夜さんから聞いたわ、あなたの正体。人間ばなれした知力を持っていたけれど、本当に人間じゃなかったのね」
「天使かと思ったか?」
「奢りすぎだわ。悪魔の間違いでしょ?」

 想夜、叶子、華生けいきへの冒涜、忘れたとは言わせない。サディスト根性まるだしのマッドサイエンティストと肩を並べること自体が彩乃のプライドを濁してゆくのだ。

 弱肉強食。自分より弱い者を容赦なく踏みつけてゆくことが自然の摂理だとしても、高貴な理性をつかさどる前頭前野を得た人間がそれにならう道理はない。

 想像力の欠落は愚か者の証。他人の痛みを己の喜び、糧として生きる者をサイコパスという。サイコパスは決して猟奇殺人者だけに与えられた称号ではない。ごく身近にも存在している。勿論、その称号を与えられた者は偉くもなければ称えられるものでもない。

 メイヴはサイコパスか? それとも?
 どちらにせよ、彩乃はメイヴに対する警戒心を解くことはない。

「その怖い顔をやめたらどうだ水無月主任。美容に気を使っているのだろう?」
「ええ。あなたのようにいつまでも透明感を保てる肌ではない。人は老いてゆくものだから」
 淡々と答える彩乃をメイヴは失笑した。
「多くのモルモットを犠牲にしておきながら、自分は正義を名乗っているのか。モルモットには痛みがないとでもいうのか? とんだ偽善者だな」
「……」

 言い返せない。研究者にはこの言葉が痛い。
 もっとも研究者の多くはモルモットに感情など抱かないものだ。モルモットに想いを馳せていたら精神が崩壊するやもしれない。そんなことを言ってたらキリがないのも現状だ。
 狂気の世界に生きる者たちは皆、必要悪をかって出なければならない。
 そうすることで、世界に貢献し続けているのだから、難儀な役回りだ。

 それでも彩乃は邁進まいしんすると決めている。誰かがやらなければならない事が多く存在しているのだから。

「――そんな顔をしないでくれ。君が身銭を切って研究を続けてきた苦悩くらい、同じ研究者として理解しているつもりだ。研究職についた者は誰しも、研究が認められるまでは食べることすらままならないのだからな」
「理解してくれるの? 光栄ね」

 研究が認められなければ、永遠に腹を鳴らさなければならない。それが研究者という生き物だ。

 しかしながら妖精界の女王に、人間の苦悩がわかるのか? 彩乃は疑問に思う。

 先ほどから彩乃の視線はメイヴの胸元にそそがれていた。
(やはり、あれは魔水晶)
 大きく平たい卵形の、ブラックオニキスのようなブローチ。エーテルポットを小型化したもの。


 エレベーターのドアが開いた。
 その一瞬をねらい、彩乃はメイヴの胸元に手を伸ばし、魔水晶を奪い取ろうとした。
「おっと」

 ガシッ。

 が、寸でのところでメイヴに手首をつかまれてしまった。
「研究者が盗人に転職か? 見ない間に手癖が悪くなったな。落ちたものだ」
 メイヴは彩乃の手を捻り上げ、苦痛に耐える姿を見ては顔を近づけてくる。
「水無月主任、ワタシを誰だと思っている? 貴方の考えなどお見通しだ」
 そう言って、彩乃の体を壁に叩きつけた。
「うっ」

 鈍い音が通路に響き、彩乃の体が崩れた。
 その白衣を掴んで無理やり立たせるメイヴ。

「ここで寝てもらっても構わないが、もう少し頑張ってほしいものだな」
「そんなものを作り出して、いったい何が目的なの?」
「妖精には妖精の事情があるのだよ。いくら天才とはいえ、人間の水無月主任には分からないだろうがな」
「それが存在するということは、街の妖精たちから栄養を奪っていることになる」
「そのとおり。かつてその研究をしていた貴方が一番知っていることだ」
「エーテルポットを開発したのは、健康な人間から少しずつ栄養をもらうこと、問題のないレベルでね。抽出した栄養を衰弱した患者に投与することを目的として作ったのよ。悪行のために知恵を貸したわけではないわ」

 人間もエーテルをまとっている。健康を損なうとエーテルに支障をきたすが、エーテルポットに蓄積された栄養を補給することで、健康な体を取り戻すことができる。いわば彩乃が生み出した万能薬だ。風邪、怪我、鎮痛作用、病気にも効果があることから、これを発表すれば世界は間違いなく引っくり返るだろう。

 医療現場で働く人材不足も相まって、患者の数も増す。ベッドの数にも余裕はないご時勢。
 彩乃はこの研究を世界中の生物に無償で適用できないか考えていた時期があった。そうすることで医療の流れがスムーズに動く。病院が患者で溢れることはなくなるのだ。苦しみを軽減させることができるのだ。

 ――けど、研究を断念せざるをえなかった。理由は悪意による使用をするものが出てくることが明白だったからだ。世のため人のためとは言えど、戦争に流れてゆくのでは本末転倒というもの。

「華生さんのことにしったってそう。彼女を拉致していると知っていたなら、こんな鬼畜じみた実験には手を貸さなかった!」
 人間は偉大な研究を軍事産業に利用する。彩乃は心底、それを嫌った。結果、研究を断念せざるをえなくなった。

 戦争がなければエーテルポットの開発をすすめることができたのに、打つ手のない患者の数を減らすことができたのに――彩乃が抱える悔いの一つである。

 メイヴは彩乃をエレベーターに乗せた。


 上へ向かうエレベーターの中、研究者同士が肩を並べる。
 そこでメイヴが妙な事を口にした。

「――NO.01ナンバーゼロイチは元気そうじゃないか」


 とたん、彩乃の表情が強張る。
「その呼び方はやめなさい、さもないと――」
「さもないと? どうする?」
 彩乃は無言でメイヴを睨みつけた。
 挑発している。彩乃の反応を面白がっている。そうやって多くの感情に目を向けては研究のデータに蓄積させてゆく。メイヴはそういう女だ。

 メイヴは憤慨する彩乃を横目でチラリと一瞥すると、エレベーターのランプに目を移し、肩をすくめた。
「ムキになるな水無月主任。アドレナリンの上昇はIQを著しく下げる。冷静な判断を奪ってゆくことは貴方もよくご存知だろう?」

 外国の議員が怒りまかせにイスを投げたり、我を忘れた者が突拍子もない行動にでるのは、頭に血が上り、知力が低下していることから起こす行動だ。知能が低いものはケンカっ早く、知能が高いものは論理的に物事を収束させる。

「少し会話をするだけで、その者の知能の良し悪しが分かるのは知ってのこと。だが今の貴方はどうかな、水無月主任?」
「私の前頭前野に不満があるなら、今すぐ開放してちょうだい」
「不満はない。ワタシはむしろ期待しているのだよ、貴方は天才だからな。もっとも、マフラーの編み方はもう少し勉強したほうがいいかもな」
「ヘタな挑発はやめてちょうだい」
「これは失礼。 ――着いたぞ」


 エレベーターのドアが開く。
 彩乃とメイヴは広い空間へ足を踏み入れた。

「高い場所まで来てくれたことに感謝する。下の階は逃亡中の妖精たちを匿っていて、ゆっくり話をする場所はここしか提供できなくてな」
「逃亡中の妖精? どうせシュベスタが言葉巧みに騙して連れ出したのでしょう? 華生さんの時のように」
 彩乃がメイヴを睨む。
「人間界の世話になっているのだから、妖精たちには人類に貢献してもらいわないとな」

 メイヴは天井の向こうを見るように、視線を上に向けた。

「この上は最上階だ。研究用に暴魔も飼っている」
「人間や妖精だけじゃ飽き足らず、魔族にまで手を出したのね」
 彩乃がゲンナリした表情をつくる。性懲りも無い女ね、といった感じで。
「こっちも遊びでやっているのではないのだよ」
「貴方が言うと遊びに思えるわね」
「誉め言葉として受け取っておこう」
 広い空間の中央へとメイヴは歩いてゆく。


「――ここは、かつて吸集の儀式の実験場だった」
「知っているわ。貴方とワタシの作業場でもあった」
 と、彩乃はため息交じりで言葉を吐いた。
「はじめての共同作業だったかな?」
「冗談はやめて。ゾッとするわ」
「ずいぶん嫌われたものだな」

 聖色市の妖精たちから少しだけエーテルをもらい、ポットに蓄積する作業を行っていた。無論、妖精たちの許可あっての実験だった。

 メイヴはあたりを見渡しながら、慎みある無邪気な笑みを浮かべる。
「貴方と話していると昔を思い出すよ、水無月主任」
「忘れたい過去ね」
「そう言うな。高貴な頭脳を持った者として、貴方を高く評価しているのだよ」
「光栄ね。一緒にされることが気に入らないけれど」
「ずいぶんと嫌われたものだな」
「あの子たちにした仕打ち、謝ってもらいたいものね」

 相手は子供。いくらなんでも大人気ない。いつ如何なる時でも弱肉強食。彩乃はメイヴのそんなところも好きになれない。

「殺さなかっただけでも感謝してほしいものだ」
 メイヴの目がカッと開く。その気になればパーティーの後の愛宮邸は死体の山となっていただろう。けど、それをしなかったのは、力を持った者の計らいだ。

 生き延びたことに感謝すべきだろう。彩乃はそれを認めざるをえない。

「長話も疲れるだろう。本題に入るとしよう」


 メイヴは彩乃と向き合い、こう言った。

「水無月主任、妖精界に知恵を貸す気はないか?」

 彩乃は訝しげな顔をしたあと失笑。
「フェアリーフォースに協力しろと? 断るわ」
「ほお、理由は?」
「貴方のことが嫌いだからよ」

 そして、私自身のことも嫌いだから――ポツリと呟き、彩乃は顔を背けた。

「これはまた、直球が飛んできたな」
 メイヴがせせら笑う手前、彩乃は続けて言った。
「貴方が何を考えているのかは分からないけれど、私にも自分の時間があるの、必要な時間がね」
「お仲間たちと仲良く研究ゴッコの日々を送るつもりか? ずいぶん腑抜けになったものだ。昔の貴方は狂気に満ちていた。ワタシの目を奪うほどに狂おしく、魅力的だった。ワタシに似ていた。同類の匂いがしたのだよ、それでも貴方は人間のままだった。そこに惹かれた」
「狂気の世界でがむしゃらに踊っているピエロがそんなにお気に入りかしら?」

 メイヴへの言葉。自分への言葉――彩乃には過去の自分に嫌悪感がある。研究で多くのものを犠牲にしてきた罪悪感だ。研究が最悪の終わりを告げたことにより、彩乃の中で忌まわしき過去となって構築されている。

 メイヴもまた、多くの犠牲のもとに君臨してきた存在だ。ディルファープロジェクト、エーテルポットはメイヴが打ち出した計画である。彩乃の頭脳により人間界にて、それらは実現された。つまるところ、彩乃の人格をも捻りつぶしてきたわけだ。そうしなければ進歩などありえなかった。

 進歩なき世界で進化を望まぬは愚か者のすること。進化こそが次世代を担うにふさわしい栄養といえる。メイヴは未来をこの手で構築したいのだ。たとえ、それが他人からは理解しがたい未来であっても、メイヴはその歩みを止めない。

 飽くなき探究心を携え、彩乃と二人三脚の末にたどり着いた新天地。それがどういうわけか、1人は喜び、1人は表情に陰を落している。あげく、プロジェクトは凍結する有り様。

 メイヴは手を見る。じっと手を見る。彩乃のしなやかな手がスルリと抜けてゆく感覚に襲われ、つかみ損ね、胸にぽっかりと空洞ができた。そんな気がした。

 長い旅路、人も妖精も水なくして喉は潤せない。

 水無月彩乃、ワタシは長い研究で喉が渇いた。カラカラに乾いた喉を潤したいのだよ――メイヴは水を欲している。ともに歩んでいける水を欲している。探究心をそそられない研究は、まるで灼熱の砂漠を歩いているようなものだ。砂漠の中で見つけた井戸、桶を手繰り寄せても水はない。空の桶を覗いては肩を落とし、ただ呆然と空を仰ぐ。

 ――だが、そんな時間はもうやめにする。

「水無月主任、地下にあるエーテルポットは不完全なものだ。不完全であるが故、それは子供のおもちゃにすらならない」

 メイヴは胸元の魔水晶をそっと指でなぞる。

「――だが、この魔水晶は実によくできている。貴方のアイディアだった。こうして具現化することに時間をかけずに済んだ。エーテルを蓄積できるだけではなく、余ったエーテルを自動で開放できる技術。それ故、精神への負担も少なくて済む」

 その仕組みを細胞化し、御殿の体に取り入れることで『八卦』は完成した。御殿が世界のために羽ばたいていけるよう、願いを込めて――。

「私がエーテルの研究を続けたのは、人類の未来のため。戦争のためではないわ」
「結構。誰かの力になりたいのだな。ならばその技術、妖精界のために生かしてみる気はないか?」
「断るわ」
「ワタシが嫌いだからか?」
「魔界に堕ちた妖精界? 笑わせるわね。世界中のヒーラーが絶望のため息をつくでしょうね」
「魔界に堕ちたのではない。我ら妖精界の手に堕ちたのだよ、魔界がな。水無月彩乃とあろう者が上下関係を間違えるな」
「同じことよ。ガン細胞は別の組織に転移する。悪しきものを取り込んだ妖精界に、未来はないわ」
「言ってくれるじゃないか。人間のクセに」
「妖精のクセに悪魔の手をとる貴方に幻滅してるのよ。悪魔を浄化できるとでも言うの? NK細胞にでもなったつもり?」
「妬いているのか? らしくない」
「冗談はやめて。自ら堕ちたものに嫉妬する価値は見出せないわ」

 メイヴは彩乃の目をじっと見つめ、手を差し出した。

「だったら助けてはくれまいか? その手で、この手をとって、引き上げておくれ。地に堕ちたというのなら、引き上げておくれ――貴方の魂を以ってして」


妖精同士


 華生から自室に招待された想夜は、2人してテーブルをはさんでのティータイム。
 こうして2人きりで部屋にこもって話すのは、部室のとき以来だ。

 どうして妖精同士なのに、こんな時間を作らなかったのだろう。その理由は2人ともよく分かっていた。戦場が妖精たちの安らかな時間を蝕んでいたからだ。

 研究所跡で赤帽子と合間見えた時もそうだった。この人間界で妖精同士なのに、ゆっくり話すこともできやしない。

 思えばずっと、戦い続けてきた。
 戦いに明け暮れ、平穏な日常すら迎えることができないことが、どんなに狂っている事かを、いま改めて忌まわしく感じる。

 けれど、今、この瞬間は妖精同士の穏やかな時間が流れている。
 なんのご褒美なのか、2人は神様があたえてくれた貴重な時間を堪能することにした。

「華生さんの部屋も、叶ちゃんの部屋くらい広いのかと思った」
「ふふ、従業員にあの広さは必要ありませんよ。誰が来るわけでもないですし、掃除するにも時間がかかります。それに愛宮邸には多くの従業員がいらっしゃいますから、ひとりに割り当てられた部屋の広さは限られておりますよ」

 いいなあ、あたしも1人暮らししたい、とは言わない。先日、叶子に社会の厳しさを植え付けられたばかりだ。雨風しのげる場所があるだけでも感謝せねば。

「わたくし1人でしたら、この広さだけでも豪華に思えます。想夜さまのお部屋は広いのでしょうか?」
「まあ、寮は2人部屋だからね。今はひとりだから広く感じる」
 贅沢な使い方ができるのはいいが、パートナーがいないのも寂しいものである。

「華生さんは妖精界って危険だと思う?」
 唐突な質問。
「ええ、とても」
「フェアリーフォースがいるから?」
「それもあります。けれど、問題はもっと根が深いんです」

 強いていうならハイヤースペックの存在?
 いや違う。
 もっと、ずっとずっと深刻な場所のことを指している。

 力あるところに争いが起こる。力に着目した政府がより強力なものを求め続けるのは不思議じゃない。

 問題はここからだ。

 一番厄介なのは、政府のやり方に異を唱える者が出てこないところにある。
 政府に反すれば、それなりの罰が待っている。

 反逆罪なんて中世の話だと思っている人間もいるのではないだろうか?

 実際のところ、妖精界でも数年前まで反逆罪が存在していた。
 政府に反する者、その家族、友人、知人、恋人。あらゆる関係者の首が晒されていたのだ。
 それを恐怖し、いつの間にか妖精たちは権力を前に口を噤むようになった。

 ――それだけじゃない。

 つねに監視されているという思い込みから心理的に規制をかけられ、身動きがとれないように教育されているのが問題なのだ。

 フェアリーフォースは、国民の自由意志までも管理している。


「想夜さまは、フェアリーフォースを続けるおつもりですか?」
 おつもり。だった。最近まで。
 この数日の間で、想夜の中でいろんな思想が壊れていった。それは今回の事件が発端だった。

 MAMIYA、シュベスタ、フェアリーフォースへの一時帰還。
 いろんな出来事が13の胸に、痛いくらいの現実の矛を突きつけてきた。
 想夜の中では、フェアリーフォースは絶対ではなくなっている。

 それ以前に、想夜には小さいときから気づいていたことがある。
 その正体に気づく時はもう、すぐそこまで来ている。

「でも驚いた。まさか華生さんが真菓龍まかろん社のお姫様だったなんて」
 華生がくすりと笑う。
「お姫様じゃありませんよ。普通の妖精です。可動変形兵器の仕組みすら分からないくらいですから」

 フェアリーフェイスワイズナーの修理には、エンジニアレベルの知識が必要とのこと。

「現在の真菓龍社は少しずつ持ち直しているみたいで安心しました」
 ラテリアの両親はエンジニアであり、真菓龍社に勤めている。ラテリアから諸々の事情を聞いた華生が故郷に想いを馳せるのは当然のこと。誰だってふるさとは恋しいものだ。

「華生さんはこれからどうするの? 妖精界に帰りたいよね?」
 想夜に言われ、華生は肯定も否定もしなかった。人間界において、すでに居場所があるのだ。無理に帰界する必要もない。それにフェアリーフォースの行く末も分からない。今、今後を決めるには早すぎるだろう。

「帰界したら、叶ちゃんと離れ離れになっちゃうもんね。やっぱり人間界がいいよね?」

 想夜の言葉に華生がこんなことを言う。
「想夜さまは、人間界の住人を愛したことはありますか?」

 想夜が慌てふためく。

「ななな、ないよ! うん……ない」
 うそばっかり。
 キョドる想夜を見ては華生が遠慮がちに笑う。
「まさか他の世界の住人を愛する日がくるだなんて思いませんでした。先のことは分からないものですね。だからこそ、いつ、どこから幸せがやってくるか、ドキドキできるんです」

 たしかに、思いがけないところから幸せはやってくる。

「深い森の中を彷徨っていたわたくしに、叶子様は手を伸ばしてくれました。手をつないで歩いているだけで、暗い森でさえも、楽しいお散歩気分に変わるものなのです」
「ふーん」
 想夜はベッドの上に腰かけ、クマのぬいぐるみを抱き寄せ遊び始めた。

 森のクマさん。

 お嬢さん、お逃げなさい。

「逃げろお、早く逃げなきゃ食べちゃうぜー」

 なぜお嬢さんは逃げたのだろう?
 理由は明白だ。クマに捕まれば殺される。はらわたをかき出され、無残に食い殺される。

 ――けれど女の子の予想に反して、クマはイヤリングを落した女の子のために必死になって追いかけてきた。

 その後、お嬢さんとクマさんは仲良く踊りましたとさ。

 クマさんはお嬢さんを食べるつもりじゃなかったのか?

 そもそも「お嬢さんお逃げなさい」という言葉は、『お嬢さん』の思い込みだったのか。
 見聞きする者、ひとりひとりで答えが変わってくる唄。
 物語りに振り回される観客。
 とんだ茶番だ。

 たとえば、誰かが誰かの耳元で囁く――危険だよ、と。

 誰かが耳元で囁くだけで、お嬢さんは簡単にコントロールされてしまったのか?
 それとも、お嬢さんは最初からクマに恐怖を抱いていたが故に逃げたのか。

 ――なにが言いたいのかって?

 つまりアレだ。想夜は叶子の話に登場する『あの人』について考えている。

 もし叶子の耳元で『あの人』が囁かなかったら、叶子は日常を送っていたのだろうか。否、叶子はハイヤースペクターだ。結果として血で血を洗う日常がらは逃れられないだろう。

 だとしたら、『あの人』の囁きが意味するものとはなんだろう?

 賢い叶子のことだ。放っておいても想夜がフェアリーフォースだということを嗅ぎつけるだろう。そうした時、想夜を消しにかかるだろうか?

 もし『あの人』の囁きがなかった場合、叶子は無関係なエクソシストの2人を消しにかかっただろうか?

 ――どちらも可能性が低い。

 叶子を動かした一言は、「バランサーは華生を消すためのシステム。エクソシストも同様だ」と吹き込まれたことにある。

 『あの人』の目的は、叶子をバランサーとエクソシストにぶつけて相殺させるつもりでいる。だとしたら、相殺させる前に華生を誘拐するのは不自然ではないか? 華生を妖精界に引き渡せば、周波数の関係上、ハイヤースペックの接続が解ける。華生を引き剥がせば、叶子はスペクターとしての力が発揮できないのだ。そうなると、バランサーとエクソシストを始末できなくなる。

 華生を人質にとって叶子の行動をコントロールするつもりでいたのか?

 それも可能性が低い。スペクター相手に面と向かって交渉などするのは自殺行為だ。

 そこで想夜は考える。
 もしも『あの人』が詩織以外にいるとしたら、今回の事件は想夜たちが思っている以上に根が深いかもしれない。

 そこでもう一人の『あの人』が望む優先順位が浮上する。

 叶子をエクソシストにぶつけて相殺。
 華生を引き渡す。
 叶子の接続が解け、スペクターではなくなる。よって用済み。

 ――そう、『あの人』の真の狙いは叶子ではなくエクソシスト、つまり御殿なのだ。叶子と華生はついでといってもいい。

 ――それが想夜の編み出した答えだった。

「華生さん」
「なんでございましょう?」
「ひょっとしたら、今回の事件のターゲットって御殿センパ――」

 パンッ!

 屋敷に乾いた音が鳴り響いた――。

 何事かと、想夜と華生は互いを見つめ、顔面蒼白になった。


 会議室で発砲事件があったことが屋敷内で噂になっていた。
 その後、2人は宗盛が負傷したことを知らされた。

 銃で撃たれた宗盛は病院に担ぎ込まれた。
 緊急オペで一命は取り留めたものの安静必須、そばで華生が看病することとなった。

 生き絶え絶えの宗盛の口から出た名前――鴨原稔。

 想夜たちは、その名を聞き漏らさなかった。


 想夜はひとり寮に戻った。
 突然の事件で考えをまとめることが出来ず、ただベッドに突っ伏すだけだった。
「ふう」
 ひと呼吸。気持ちを切り替え、今すべきことを考える。

 華生との会話の途中で宗盛が大変なことになってしまったが、想夜はすでに今回の事件の裏に指先を触れていた。
「御殿センパイを聖色市に呼んだのは、きっと鴨原さんだ」
 廃棄に失敗した御殿を、ふたたび聖色市で始末するつもりだったのだ。
「こうしちゃいられないわ、御殿センパイに知らせなきゃ」

 想夜は端末に手を伸ばしたものの、何もしないでその場に置いた。

「あーもー、なんて言えばいいの?」
 枕をむんずとつかんでは手繰り寄せ、顔を押し付けた。

 あなたは実験体であり、彩乃さんの子供です――そんな無神経なこと、言えない。

 けれど、できることはあるはずだ。ひとり膝をかかえて夜を明かすのは誤った選択。
 想夜はふたたび端末に手を伸ばし、狐姫と連絡をとった。


やきもち


 先ほど愛宮邸から連絡を受けた御殿は、緊急事態にそなえて静かに待機していた。

 宗盛が病院に担ぎ込まれたとのこと。命には別状がないが、かなり無茶なことをしたらしい。現在は愛宮総合病院にて華生が付き添っている。
 おかげで鴨原稔の尻尾を掴むことができた。

 体を張った宗盛の行動は、御殿へのアドバイスも含まれていたのかもしれない。番犬は獲物を見つけたら、首筋にくらいついてでも仕留めるよう教えてくれた気がした。

 シャワーを浴びた御殿が浴室から出てきた。ふと狐姫に目を向けると、誰かと連絡をとっている。
「――わかった。じゃあ、うん、おやすみ」
 端末を切った狐姫に御殿が近づく。
 
 
「電話?」
「ああ、想夜から。シュベスタに行く前に相談があるんだと」
「へえ、狐姫に? 珍しいカップリングね」
「なに、ヤキモチ? 想夜に俺を取られて妬いてんの?」
 狐姫がニヤニヤしながら片目を吊り上げ、御殿をいじってくる。
「ふふ……かもね。おやすみ」
 JC同士、語りたい話もあるのだろう。御殿は濡れた髪をタオルで拭きながら寝室に戻った。


シュベスタ侵入


 シュベスタ研究所は茂みに囲まれている。
 そこへ身を潜め、建物の様子を遠巻きに監視する想夜たち。

「――叶ちゃん、ネイキッドブレイドは問題ない?」
「ええ。こっちは大丈夫よ。華生は?」
「わたくしも問題はございません、お嬢様」
 そういってハイヤースペックを発動させては、ネイキッドブレイドを想夜に手渡す。

 想夜は受け取ったブレイドを一本ずつ丁寧に確認する。高々と振り上げて歯こぼれがないか、傷がないかと目を光らせているが、なにも問題なさそう。

 想夜はネイキッドブレイドを片手で軽々と扱う。ワイズナーに比べたらかなり軽くてスピーディに動かせる。
「わあ、ワイズナーと違って軽くて使いやすい。あたしもこっちがいいな~」
「だ~め。それは私たちの」

 叶子が想夜からブレイドを取り上げた。「私たちの」と言っちゃうあたり、華生を独占したい感でいっぱいのようだ。

「ワイズナーの調子はどう?」
 叶子に促された想夜は、ハイヤースペックを発動させてワイズナーを取り出す。グリップから矛先、リボンまで――そうやって細部を確認してゆく。
「こっちも問題ないかな。羽のブースターも異常ないみたいだし」
 後ろの羽に目をやり、上下左右に器用に動かす。とくにダメージを受けたり千切られたりはしていない。

 御殿は狐姫の背中の傷が気になっていた。
 視線に気づいた狐姫が、御殿の肩をかるくグーで小突く。
「んなに気にするなよな。過保護じゃあるまいし」
「そう? ならいいんだけど……」
 御殿はボニー&クライドと多段式木刀の空泉地星くうせんちせいを隅々まで確認する。


 ――準備は整った。
 エーテルポットを破壊し、この戦いから無事に生還することが何よりの成功だ。それ以外に成功などありえない。

 叶子がため息まじりでクスリと笑う。
「愛宮のお嬢様がシュベスタに侵入したと報道されれば世界中の笑いものでしょうね」
「心配いらないわ。シュベスタはもっとすごいネタを持っているのだから。エーテルを蓄積させる技術を妖精界に委託している。妖精界の存在を信じる人がいるか分からないけど、表沙汰になったら困るのは誰しらね」
 御殿の言葉は心強い。決して慰めなんかじゃない。それを聞くたび、叶子の闘志を奮い立たせるのだ。

 総員が壁に張り付き、監視カメラをくぐり抜けた。
(御殿センパイ、準備OK?)
 ――想夜が御殿に目配せする。
(OK。扉を開けて頂戴)
 ――御殿がうなずく。
 想夜がカードキーを挿入すると、裏口の扉が開く。
 ひとりづつ、外の敵に警戒しながら建物中へと入っていった。


 シュベスタ研究所内。
 深夜ということもあり、MAMIYA研究所同様、シンと静まり返っていた。

 従業員の姿は無い。ときおり警備員が行き交うも、隙をついて想夜たちは奥へと進んで行く。

 エーテルポットはリモート接続で操作されている。暴走を防ぐため、本体を叩く前に起動を止めなければならない。その後、本体を破壊すれば、各地に吸集の儀式を作成しても意味の無いものとなる。

「作戦通り、二手に分かれましょう」
 叶子の指示で、叶子と華生はコントロールルームに。想夜、御殿、狐姫は地下のエーテルポット本体を攻撃する予定だ。
 無線は使えない。盗聴されたら行動が丸分かりになってしまう。無線は使えないが、お互いを信じるしかない。

「一旦ここでお別れね。エーテルポットは頼んだわよ」
「任せとけって。行くぞ2人とも」
 エレベーターを避け、階段を使う。階段を下ってゆく狐姫の後を想夜と御殿が続く。

 固く閉ざされた鉄戸に狐姫が手をかけ、力をこめる。
「ふぬぬぬぬ……」

 メキメキメキメキ……パキンッ。

 蝶番ちょうつがいから耳障りな音が聞こえた後、狐姫は扉を全開させた。

「開いたぜー」
 扉から半身を乗り出し、先の通路に警戒する狐姫。誰もいないことを確認すると、想夜と御殿を手招きで呼んだ。


 太いパイプが何本も設置されている部屋。
 フェンスで厳重に囲われたボイラーエリアをくぐり抜け、通路の奥までたどり着くと、一際大きな自動ドアが想夜たちの目の前に立ちはだかった。

「――ここね、エーテルポットのある部屋は」

 御殿は彩乃から預かったカードキーを取り出し、想夜に目配せをする。
 それに答えるように想夜がうなずき、赤帽子から奪ったカードキーを取り出した。

 想夜と御殿がドアの左右に1人づつ立って距離を置く。
 離れた2つのセキュリティシステム。1人では開かない厳重なつくり。

「いくよ御殿センパイ」
「OK」
「「3……2……1……0!」」

 2人が同時にカードをセキュリティにくぐらせると、ロックが解除されて分厚いゲートが左右にゆっくりと開いた。


 広い部屋の中央奥、幾本ものハーネスが接続された巨大な卵型ポットが設置されていた。
「あれがエーテルポット……」

 想夜たちが室内に入ろうとした時、前方にうごめく無数の人影があった。

 狐姫が睨みつけるように口を開いた。
「厄介なことになったぜ」
 エーテルポットに群がる連中がいる。

「……フェアリーフォース」

 想夜がおののく。
「なんですって?」
 御殿が想夜に目を向け、その後フェアリーフォースを睨みつけた。

 たしかに想夜と似た羽を持っている。
 武器はフェアリーフェイスワイズナー、そして長い形状のマシンガン。
 各々が銃器を武装している。

 後ろで扉が閉まる――。

 御殿が閉鎖された扉を後ろ目に見た。
「逃げ道は無くなった。こちらの行動は想定済み、か」
 そう呟くと、想夜と狐姫に対してイタズラッぽく微笑んだ。
 御殿の合図とともに、想夜と狐姫が大きくうなずく。

 ――戦闘開始だ!

 御殿がホルダーから素早く銃を抜き取ると、フェアリーフォースに連続発砲。

 ズガガガガガガ!

   ボニー&クライドが火を吹く中、妖精たちはスルリスルリと弾の軌道をすり抜けて向かってきた!
 ワイズナーを装備した妖精は、武器を楯代わりに御殿の銃弾をはじいて突進してくる!

「さずが軍隊、戦闘慣れしている。聖水も効かない、となると――」
 御殿は空泉地星を取り出し、束になって向かってくるフェアリーフォースの足を払った。

 ドドッ!

 2人の妖精の足にヒットし、宙に弾き飛ばした。
 それまではいいが、なんせ相手は羽つき妖精。クルリと飛翔しては御殿の頭上で回転し、武器をかまえ御殿めがけて急降下!

 雨のように落下してくるワイズナーを、御殿は肩を捻って人混みを縫うようにすり抜けてゆく。

 そこへ別の妖精が銃を乱射してきた!
 弾道が作り出す空気の振動から察するに、明らかに人間界の銃ではない。おそらくは妖精界の銃だ。

 と、そこへ想夜が叫んでくる。
「御殿センパイ気をつけて! あれはガトリングザッパーです! 狙撃手のエーテルをザッパーに変換して連射できる銃です!」
「へえ。実弾いらず、か」
 御殿はガトリングザッパーの銃口の向きから弾丸の軌道を計測し、飛んできたザッパーを見切り、ふたたび体を捻ってかわす。

 隙をついては二丁拳銃を取り出し、打ち合いをはじめる。

 バンバンバン!

 薬莢が飛びまくり、とたんに火薬の匂いが充満。
 御殿は発砲しながら物陰に隠れ、狙撃手の様子をうかがった。

 その傍らで想夜とバランサーAが、お互いのワイズナーで攻撃を繰り返している。ぶつかりあう金属と金属がけたたましい音を奏で、妖精たちの禍々しいハーモニーを作り上げていた。


 ずっと隠れていても進展がない。御殿は両手でトリガーを引きまくり、ひとり突き進んでゆく。

 バンバンバンバン!

 ゆっくり、歩みを止めることなく、発砲しながら、ザッパーをすり抜けて狙撃手に近づく。撃つ時間を与えない作戦、相手はどう出る?

「黒いのが来る! ザッパーの軌道を完全に読まれた! 退避する!」
 だんだんと近づいてくる黒いエクソシストに焦りを覚えたのか、狙撃手が移動を開始。

(羽がない。どうやら飛べない妖精らしいわね)
 御殿は獲物を狙う黒豹のように姿勢をかがめ、狙撃手との間合いを詰めてゆく。

 御殿と狙撃手がエーテルポットの物陰に潜り込み、互いの出方をうかがう。
 ――と、御殿の手の先に消火器が設置されていた。

「これを使うか」
 咲羅真御殿。つくづく消火器に愛されている。
 御殿は消火器に手を伸ばすと、それを数メートル先に隠れている狙撃手の脇にブン投げた!
 ――と同時に身を乗り出し、消火器に向けて連続発砲!

 バンバンバンッ!
 ボオオオオンッ!

 消火器めがけて御殿が発砲。弾がヒットした消火器が狙撃手の真横で爆発する!
 狙撃手の体が大きく吹き飛び、床に転がった。
「ふう、まず1人目……」
 汗を拭いながら、御殿は狐姫の行方を目で追った。


 妖精2人相手に狐姫が応戦していた。

 狐姫は斬りつけてくるワイズナーを半身でかわすと、すぐにバランサーBに裏拳を叩き込む!
「ホワチャアアア!」
 狐姫の殴打で仰け反った妖精が大きく後ろに跳んでバク転回避。
 それを狐姫が追いかけ、相手の着地ポイントにすかさず追い討ちのスライディングをかますが、足がスルリと空振る。
「クソ、速えぇ! はずしたぜ!」

 体勢を崩した狐姫の肩めがけ、バランサーCがワイズナーを振り下ろした。

 狐姫が床でゴロンと転がってかわすと、逃げた方向へCの蹴りが炸裂! 狐姫の横っ面を見事に捕らえた。
「痛ってえ!」
 クリティカルを喰らった狐姫の体が横に揺れて体勢を崩す! 壁に叩きつけられても尚、攻撃は止まない。

 ガッガッ、ドカッ!

 Cは狐姫の腹、胸、顔面に蹴りを入れ、ジワリジワリと追い込み、トドメとばかりにワイズナーの斬撃を振り下ろす!

 ワイズナーが落ちてくる瞬間、狐姫はCの手首を掴むと、かるく捻って斬撃の軌道をずらした。
「よいっしょ♪」
 今度はCの体勢が崩れる。
 その隙をつき、狐姫がCの脇腹にボディーブローを何発か叩き込む! その後、後ろに回りこみ、Cの肩に足を絡ませ、関節を決め、体ごと大きく捻って床に叩きつけた。

 ボキ……。

 鈍い音があたりに響いた後、Cは肩を抑えて転がる。
「ギャア!」
「肩を折った。しばらく右腕は使えねーぜ?」

 蹴られた時にくちびるを切ったらしく、垂れる血をペロリと舐めては「マズ……」と、唾と一緒に吐き捨てた。

 狐姫の隙をつき、その背中に蹴りをかますB。
「うをっ!?」
 狐姫が大きく前につんのめり、エーテルポットの外壁に叩きつけられた。
「やりやがったな!」
 狐姫の振り向きざま、Bはそのミゾオチにワイズナーの柄を叩きつける!
「うげえっ!?」
 胃袋から込み上げてくる胃液をこらえ、狐姫はくの字の姿勢でよろめく。

 Bは狐姫の腕を捻り上げ、関節を決めるとエーテルポットに投げつけ、ダウンする狐姫の袴に手をかけて壁に放り投げた。
 壁に叩きつけられた狐姫の脳天へ踵を落し、ケモミミの意識を飛ばす。

(くそぉ、焦点が合わねえ、派手に食らっちまったぜ……)

 酔っ払いのようによろめく狐姫が攻撃できないとわかると、Bはチャンスとばかりにツカツカと近づき、狐姫の横っ面にパンチを叩きつける!

 狐姫の横っ面にパンチを叩きつける!
 狐姫の横っ面にパンチを叩きつける!
 狐姫の横っ面にパンチを叩きつける!
 狐姫の横っ面にパンチを叩きつける!
 狐姫の横っ面にパンチを叩きつける!
 狐姫の横っ面にパンチを叩きつける!
 狐姫の横っ面にパンチを叩きつける!
 狐姫の横っ面にパンチを叩きつける!
 狐姫の横っ面にパンチを叩きつける!
 
 ブチッ!!!!!!!!!!!!!!
 
 狐姫のアタマの中で何かがキレた。
 よろめき、めまいの中で、狐姫は体勢を立て直し、鋭い目のまま、殴りつけるようにBに向かって声を張り上げた。

「やってくれたな、この野朗!!!!」


 ギロリ。下から見上げるように睨みつけ、真正面からズカズカと近づいてくる狐姫。
 良い子のみんなー! スーパー狐姫ちゃんタイム、はっじまーるよー!

 Bは目の前の恐怖にたじろぐ。冷静さが欠落し、ワイズナーを突き出し突っ込んできた。それが敗因だった。
 狐姫は闘牛をかわす要領で体を捻り、Bの通りすぎざま横っ面にビンタを入れると、2発3発と続けて腹に蹴りを叩き込んだ。続けて髪をつかんで体を固定、飛ぶことを却下されたBの腹に膝をガンガン入れる!

 Bの腹に膝をガンガン入れる!
 Bの腹に膝をガンガン入れる!
 Bの腹に膝をガンガン入れる!
 Bの腹に膝をガンガン入れる!
 Bの腹に膝をガンガン入れる!
 Bの腹に膝をガンガン入れる!
 Bの腹に膝をガンガン入れる!
 Bの腹に膝をガンガン入れる!
 Bの腹に膝をガンガン入れる!

 腹に膝を食らった反動で、Bの体がくの字に折れる。
 さらに狐姫はBの腕を捻りあげて胸倉をつかみ、一本背負いで床に叩きつける。

 バチーーーーン!!

 Bの体が床の上で大音量を立てた。

 狐姫の攻撃は続く。
 倒れたBの襟首をつかんで立たせ、細い肘を使って横っ面を何発も殴りつける。最後に後頭部めがけて、大きく宙で回転し、ローリングソバットを決めた後、バク宙、顎にサマーソルトを叩き込んだ。

 遠くの壁まで吹き飛ぶBからダウンを奪った。しばらくは動けないだろう。

「――痛ってえ。また背中の傷が開いちまった」
 体を捻り、背中に目をやる狐姫。
「いつになったらこの傷ふさがるのん?」
 とことんツイてないスーパー狐姫ちゃんタイム様だったのでした。


 想夜と対峙しているAは一味違った。ランク持ちと呼ばれるエーテルバランサー。おそらくはランクB、想夜より2ランク上。
 互いにワイズナーを装備している。
 「「いざ!」」

 矛先と矛先が正面衝突――車同時がぶつかるみたいに激しくスパークする。それが2回3回と続く。

 想夜飛翔、忍者のように壁を蹴り上げてAの後ろに回り込むが、Aの放った裏拳が想夜の側頭部をとらえた。

 ガッ!
「うぐ!?」

 よろめく想夜の隙をつき、今度はAが飛翔し、壁を蹴り上げて想夜の後ろに回りこんだ。
 防御がガラ空きになった想夜の足元を蹴り上げて転ばせる。

 想夜は床に倒れる瞬間、片手を床につき、ピクシーブースターで逆方向に側転回避。人間界の重力の一切を無視して飛び立った。その後、天井に張り付いてAの出方をうかがう。

 天井に張り付いた想夜めがけ、Aも天井に逆さまに張り付く。

 想夜とバランサーA。天井で逆さまに立ったまま、ワイズナーの連弾で応戦する。

 ジワリジワリと追い込まれた想夜は天井から壁へ、壁から床へと追い込まれる。さらには床から壁へ、壁から天井へと押され、あげくにサスペンダーをつかまれて床に引きずり下ろされた。
「ぐえっ!?」
 ビターンと床に張りつく想夜。
 そこへAがワイズナーの矛先を突き出して落下。
 想夜は体を捻り、横に転がって回避。ワイズナーを杖代わりに体勢を立て直す。
 互いに遠距離戦に持ち込むと、アローモードで射撃準備。

『光の刃よ――』
 矢を引いた瞬間、無数のレーザービームが室内に入り乱れた。

 床、壁、天井。串刺しにされた障害物の上をバランサーたちは飛翔し、空中でワイズナー同士を叩きつけ合う。

 ガッ! ガッ! キンッ! キンッ!

 照明の影に隠れた想夜めがけ、Aがワイズナーをぶっ刺す!
 想夜の肩をかすめた刃が横にスライドし、照明ごと切り落とした。
 想夜は落下する照明を楯代わりに、自分もゆっくりと下へ移動する。

 Aはしつこいくらいに想夜に張り付き、ふたたび矛先をアイスピックのように突き刺してくる。
 それをワイズナーで弾いて応戦する想夜。そうやって、ふたたび地上戦に戻ってゆく。

 想夜がワイズナーの一撃の後にバックナックルをAのこめかみに叩き込む!
 と同時に、Aはグルリと時計回りで想夜にバックナックルのお返し!
 こひめみに一発食らった想夜はふらつきながらも体勢を保ち、Aに向かって一直線にワイズナーを差し込んだ。
 Aも想夜の動きに習う。

 想夜の頬、腕、ふとももに、カッターで切られたような赤い線が入る。
 Aの頬、脇腹、こめかみに、カッターで切られたような赤い線が入る。

 互いに斬って斬って斬って殴る。殴りつけては蹴って蹴って斬って殴る。

 想夜がワイズナーを変形させようとすると、Aは器用に矛先を差し込んできて、変形を阻止。
 Aがワイズナーを変形させようとすると、今度は想夜がリボンを使って敵の変形を阻止。

 永遠に続くかと思われたバランサー同士の戦い――想夜に勝機が見えたのはAがワイズナーを変形させる、その一瞬だった。

 想夜はAのワイズナーの隙間に自分のワイズナーを絡ませ、中途半端な変形のまま固定させた。
 そう、ワイズナーを捨て、Aのワイズナーの使用を妨げたのだ。

 皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を斬る!
 ……と見せかけ武器も捨てる!

(狐姫ちゃんから盗んだ技。やるなら今だ!)
 すかさず想夜は、ピクシーブースターで後ろに回りこみ、Aの腕と腰に手を回す。細い腕でガッシリと捕らえて動きを封じ、ブースターの力を使って数メートル後ろに仰け反って空中ダイブ!

「どおおおおおっこいそうやああおおおああ!」

 白目に血管が浮き上がり、想夜、怒りのジャーマンスープレックス!

 ちゅどおおおおおおおんっ☆

 Aの上半身が床に叩きつけられ、その後、痙攣して動かなくなった。


 想夜に近づいてきた狐姫がしゃがみ込み、倒れるAをツンツンしながら想夜に言う。
「おまえなあ、デカい武器持ってるんだからちゃんと使えよな。たとえばさ、魔法少女が魔法を使わないでプロレス技でフィニッシュっておかしいだろ、フツー」
「えー、あたし足払いだけで相手を牽制けんせいできるよ?」
「あー、それスゲー嫌なプレイするヤツう~。連打ばっかでウゼーヤツう~」
 狐姫が想夜を指差してディスった。

「狐姫ちゃんだって足払い連打するじゃん」
 想夜のホッペがプ~ッと膨らむ。
「俺はちゃんと足払いの最後に大からコンボにつなげますう~」
「あたしだって大からコンボできるもん!」
「ウソつけ! おまえヤバくなったらゲーム中でもトイレいくだろ! ゲームに集中しろよな!」
「あたしだって小も大もするもん!」
「ゲームの話だろ! 小とか大とか下ネタにつなげんじゃねーよ!」

 ちょっと何言ってるの、この人たち――御殿は肩をすくめた。

 ともあれ、待機していたフェアリーフォースは片付けた。が、どうしたのか? 未だにエーテルポットの起動が止まらない。

「叶ちゃんたち、どうしたのかな?」
「俺、ちょっと上の様子見てくる。おまえらはそこで待機な」
 狐姫は想夜と御殿を残し、ひとり上の階へと向かった。

 にぎやかなムードメーカーが去った後だと、静けさがいっそう想夜と御殿の不安を煽った。

 ――狐姫が去ってから数分後、エーテルポットが停止した。


 御殿は機械のメーターに目を配らせた。
「圧力異常なし。パワーオフ確認。想夜、解体しましょう」
「ウィっさー」
 プラグやハーネスを引き抜き、基盤を割る。二度と起動できないところまでバラバラに解体する。多少乱暴なことをやってでも、この装置は破壊しておくべきなのだ。

 解体にはそれほど時間はかからなかったが、終わる頃になっても狐姫は帰ってこなかった。
「遅いわね狐姫」
「あたしたちも戻りましょう」


 想夜が部屋を出ようとしたとき、御殿が通路の奥にあるエレベーターに気づいた。
「あんなエレベーターは地図に載ってなかったはず」

 近づくと、ここで誰かが争った形跡。さらに足元にはネームプレートが転がっていた。
 それに気づいた御殿は手を伸ばして拾った。
「これは、メイヴのネームプレート!?」

 御殿の手にあるそれを想夜が覗いてくる。

「メイヴ。女王……メイヴ」
 震える想夜の手前、御殿は「この女がメイヴか」と察した。
 友を痛めつけ、辱め、あげくにシュベスタを通して狂った研究を続けてきた輩。ましてや魔水晶を所有してる危険人物。人間界にのさばらせておくわけにはいかない。

 ランプは上の階を照らしている。この先にメイヴがいる。そして、おそらく彩乃も一緒だ。

 いったい上の階で何が起っているのだろう――御殿は躊躇するも、エレベーターのボタンを押した。
 と、想夜が御殿の服をつまんで引き止める。
「御殿センパイ、やめましょう? メイヴと戦うなんて無茶ですよ!」

 御殿は力む想夜の肩にそっと手をおくと、優しい口調で言い聞かせるように言った。

「想夜、わたしにはやらなければならないことがある。魔水晶を破壊しなければならない」
 懐に忍ばせたエーテルリバティに手を添えると、彩乃の言葉がこだまする。

 『魔水晶を破壊してちょうだい――』

 御殿自身、魔水晶がどのような悪夢を呼び寄せるのか想像できない。けれど、彩乃の口調から察するに、今はあってはならないモノなのだと思えてならない。ここで破壊しなければ、人間界は取り返しのつかないことになるかもしれない。
 御殿は想夜の両肩に手を置いた。
「いい、想夜、よく聞いて」
「御殿、センパイ」

 まだ13歳なのに。まだ子供なのに。こんなにも細い肩で気丈に戦ってきたのか。聖色市はこの妖精に守られていたのか。と、御殿は一種の感動すらおぼえた。

「想夜、あなたは上の階にいる人たちの様子を見てきて。もしも避難の必要があったら、ひとりでも多くの人たちを助けてあげて。お願い」
「御殿センパイ、あたし無理です! 御殿センパイがいないと無理です!」

 先のフェアリーフォースとの戦いが想夜の恐怖心をかきたてた。本部にはまだまだ、あれ以上の猛者がいる。想夜はそれを知っている。

 御殿は想夜の頬を両手で包み込んだ。
「わたしには想夜の力が必要なの。なぜなら、わたし1人ではこの戦いを有利に導くことはできないから。ひとりじゃ無理だから――」

 無理なのは想夜だけじゃない。みんな、ひとりで戦うことの無謀さを理解している。だからこそ手を取り合い、互いの弱点を補うことが重要視されるのだ。そうすることで、より強靭な陣営を組める。

「想夜、わたしは今回の事件であなたにたくさん助けてもらった。だから、ね。あなたはできると確信している」
「む、無理です。あたし1人で戦うのは、無理です」
「ひとりじゃない。わたし達もいる。だから、わたし達を助けてほしい。今の想夜になら出来るはずよ?」
「……」

 助けてほしい――そう言われて引き下がるほど、雪車町想夜は弱くない。

「できる。想夜なら、できる。言ってみて」
「で、できる……」

 最初は弱々しかった。

「もう1度」
「できる。あたしなら、できる」

 けれどしだいに力をおび、

「もっと」
「できる! あたしなら、できる! あたしならできる!!」
 やがては列記とした言霊へと進化を遂げる。

 言霊――言ったことは現実となり、やがて想夜を前へと駆り立てる。大丈夫。言霊の力を見くびるな!

 御殿は迎えのエレベーターに乗り込み、上へのボタンを押した。
「メイヴの顔を拝んでくる。すぐに戻るから――」

 「頼んだわよ」――閉まるドアの向こうは笑顔のままの御殿センパイだった。

「御殿センパイ……」
 上へあがってゆくランプを見つめながら、想夜は息を思い切り吐ききった。
「大丈夫! 想夜にまかせて!」
 ドン。想夜は胸を叩く。
「御殿センパイのお墨付きなんだもん。あたし、大丈夫です」
 想夜は上へとつづく非常階段を飛翔した。


凍結されたプロジェクト


 コントロールルーム。

 叶子が制御装置の前に座る。
「ここからリモート接続で操作できるわけか」

 電源をOFFにすればエーテルポットは停止する。まだ未完成のものをいつまでも運用しておくのは危険極まりない。

 地下では想夜たちがスタンバっているはずだ。運転を停止した時点でエーテルポットの解体を始めるように言ってある。

「さて、サービス終了させますか」
 組んだ指先を手前でひっくり返してポキポキと音を立て、端末画面にコマンドを打ち込む。パスワードは彩乃から聞いている。権限もそのままなので問題はないはずだ。

 操作手順を思い出す。
 まず彩乃の権限で端末を立ち上げログイン。
 セキュアシェルでリモート接続開始。
 証明書の確認。
 次に彩乃の権限でログイン。
 サービス名 エーテルポット 停止。
 サービス停止のためのIDとパスワード入力。
 チェック後、メニュー選択。
 エーテルポット パワーオフ。
 以上だ。よし、急げ叶子!
 
 [ayano_minazuki@schwester-localhost -]# ssh -p 65535 ayano_minazuki@schwester-network
 members check......done.
 members_id check......done.
 access_authority check......done.
 証明書を確認しました。
 password? ****************
 password check......ok.
 シュベスタネットワークに接続します。
 
 Welcome to Schwester-Network!
 Please input command line.
 [ayano_minazuki@schwester-network -]# service ether_pot stop
 login_id ayano_minazuki
 password? ****************
 password check......ok.
 
 +---------------------------+
 | ETHER POT PROGRAM MENU |
 +---------------------------+
 
 Select menu :-)
 0 password change
 1 ether_pot power
 2 ether_pot silent mode
 3 ether_pot reboot
 4 ether_pot users
 5 quit

 Please select number [0-5] 1
 1 ether_pot power oN / Off? Off
 Please waiting.......Can not power off
 
 実行権限がありません。
 
 エーテルポットは機能停止できませんでした。
 エーテルポットメニューを強制終了します。
 シュベスタネットワークへの接続権限がありません。
 シュベスタネットワークから切断します。
 Please input command line.
 
 [ayano_minazuki@schwester-localhost -]# |

 
 叶子の顔が凍りついた。
「どういうこと? エーテルポットが停止しないわ……」
 それだけじゃない。権限がないため、シュベスタのメインサーバーからも追い出されてしまった。つまるところ、彩乃のIDでは何もできない。

 彩乃に言われた通りに入力したはずだ。むろん、彩乃に騙されただなんて思わない。なにか想定外の事態に陥っているのだ。


 再入力を試みた叶子だったが、やはり結果は同じだった。
「やはりダメみたいね。華生、地下に向かいましょう」
 返事がない。
「華生――」
 不審に思った叶子が振り向いた、その時だ。

「――そこまでだ」

 叶子のこめかみに銃口が突きつけられた。
 叶子が横目で男を見る。
「鴨原さん」
「こんなこともあろうかと思ってな、さっき水無月主任の権限を外しておいた。一足遅かったな」

 鴨原は華生の腕を後ろで捻り上げ、人質として捕獲していた。

「お嬢様……」
 不甲斐なさから、華生は申し訳なさそうに叶子を見ている。
「ハイヤースペックは発動してないな。よし、両手を頭の後ろで組め」

 叶子は鴨原を睨みつけたまま、ゆっくりと言われたままに動く。

「端末から離れろ。そこに膝をついて伏せるんだ」
 叶子はイスから立ち上がり、右ひざ、左ひざ、胴体を床につけてうつ伏せになった。
「おまえはあっちにいってろ」
 鴨原は華生を突き放すと倒れた叶子の服をまさぐり、武装状態を確認する。
「鴨原さん、こんなことをしてタダで済むとでも思っているの?」
「黙っていてくれ。あいにくお喋りは嫌いなんだ」
 と、そこに小さな影は現れた。

「――そうかよ。だったらすぐにおまえの権限でエーテルポットの可動を止めろ」

 鴨原のすぐ後ろに狐姫が立っていた。
「狐姫さん!」
「狐姫さま!」
 鴨原が横目を狐姫に向ける。
「断る、と言ったら?」
「指先から灰にする。早くしろ」
 狐姫は鴨原の袖をつまみ、チリチリと焼き始めた。
「フン、このスーツがいくらしたと思ってるんだ?」
「また買えよ。生きていれば、また買えるだろ?」

 鴨原がしぶしぶと端末操作をはじめた。

 しばらくすると、地下からの振動音が止む。

「――止まった、の?」
 叶子が耳を澄まして確認する。
 エーテルポットの機能が停止した。
「よし、あとは御殿と想夜に――」
 狐姫が言いかけたときだ。

「忘れてたが――」

 鴨原が席を立ち、壁へと移動する。
 狐姫たちはその一部始終を黙って見ている。
「このガラスの向こうは広いホールになっていてな。そうだ、面白いものを見せてやろう」
 そう言うと、鴨原は無表情のまま曇りガラスをクリアにした。

 窓ガラスの向こうの光景を見た華生が口を両手で押さえ、驚きのあまり息をのむ。

「なんだ……あいつら」
 狐姫の目に飛び込んできたもの、ガトリングザッパーを武装した数百にもおよぶ軍隊がグルリとホールの外側に整列していた。
「フェアリー、フォース!」
 叶子が言葉を発した直後、鴨原はそばにあった銃に手を伸ばし、ふたたび叶子の後頭部に銃口を突きつけた。
「この部屋から出ろ。お前も……、そしてお前もだ」

 叶子を人質にとり、狐姫、華生を先頭に追いやっては制御室を後にする鴨原。広いホールの中央に叶子たち3人を集め、背中合わせに立たせた。

「まるで見世物ね」
 叶子がうそぶく。
「おまえ元々有名人じゃん」
 狐姫がニヤニヤとからかう。
「ふう。学園の人達に見られても、こんなに不快にはならないわ」

 フェアリーフォースの視線が3人に集中する。みな銃器を装備し、厳戒態勢だ。

「下手なことをすれば、この場で蜂の巣にする。地下に別の部隊を向かわせた。残りのハイエナどもも一緒に始末する。それまでそこで大人しくしていろ」
「たった3人に大げさね。手加減ってものを知らないのかしら、人件費も大変でしょう?」
「ハイヤースペクターのお嬢様に手加減はいらないだろう。ヘタをすればここにいる全員八つ裂きにされ兼ねないからな。これでも少ないほうだろう?」
「買いかぶり過ぎよ、鴨原さん」
 いたって冷静な叶子。

 いっぽう華生の心情は真逆だった。フェアリーフォースの群れを睨みつけ、憤慨するあまり、下くちびるをかみ締めている。あろうことか、想夜が帰界させたはずの赤帽子までも混じっているではないか。魔界を通ってきた赤帽子たち。そしてこの状況、魔界との癒着は決定的だった。

(この者たちが罪も無い妖精ひとたちを、頭首様を――)
 妖精界で逃走中、どれほどの犠牲者を出したことだろう。真菓龍華生と関ることで、心優しい人々が次々に惨い仕打ちを受けたのだ。今になっても、華生はそれを水に流せないでいる。簡単に忘れるものですか、と瞳が訴えている。

「頭首様を手にかけた者もご存知なのですね?」
 華生が直球を投げた。
「会長? もう長く生きただろう? 充分じゃないか」
「答えているようで答えてないわね。おじいさまを殺したのはアナタかと聞いているのよ」
 叶子が鴨原を睨みつけた。
 鴨原は肩をすくめ、こう言った。
「MAMIYAという牙城を築いたのだ。会長は殺されても、なんら不思議はない」

 なぜだ? なぜ「殺した」と言わない。殺害関与すらほのめかさない――そんな疑問を経て、叶子たちはようやく答えにたどり着く。この男は叶子を襲撃してもいないし、鈴道殺害にも関与していないのだと。

 では鈴道を殺した犯人は、ここにいるフェアリーフォースの中にいるのか?
 その答えもNOだ。おそらくここにもいない。
 鴨原も、ここにいるフェアリーフォースも、鈴道とはなんら関係のない者たちだ。
 理由は明白。ここまで来て隠しておく意味がないからだ。
 鴨原は、鈴道を殺した犯人すら知らない。ただ、シュベスタでの実験のみに執着してきた、まさに狂気の世界を貫いただけの男だったのだ!

「ここまで追い込んだのに、ふりだしかよ」
 狐姫が落胆した。
 犯人探しは依頼に含まれていない。御殿と同様、狐姫も依頼内容から逸脱するのが大好きらしい。
 鴨原が狐姫に銃を向けて言う。
「ふりだしだと? 人の家に侵入しておいて、元の生活に戻れるとでも思っているのか?」

 ここが墓場になるというのに。鴨原の言葉を聞くまでもなく、狐姫にはそれが分かっていた。けれど、100%の負けはまだ先だ。巻き返しのチャンスを狙い、狐姫は周囲の状況確認をする。

(想夜のヤツ、こんなすげぇ軍隊に所属してんのかよ、マジかよ)
 ぐるりとフェアリーフォースを一瞥する狐姫。エーテルポットでの戦闘ですら手こずったのに、ここにいる妖精1人の戦闘力を計算すると、終わりなき戦いが待っているのは間違いなさそう。そのことを考えるだけでも気が遠くなりそうだ。


 叶子は幼き日の出来事を思い出していた。華生と出逢った日の出来事だ。
「あの日、おじいさまに連れられた私は、元MAMIYA研究所でアナタと合っているわね、鴨原さん」
「覚えていないな」
「しらばっくれてもダメ。華生をスパゲッティーにして妖精実験の糧としたことは万死に値するわ」
「ほお、この状況でまだそんなことが言えるとは。愛宮のご令嬢も、とんだじゃじゃ馬に育ったものだな」

 叶子と鴨原のにらみ合いが続き、最初に折れたのは鴨原だった。ギラリと光る叶子の目に何を思ったのだろう、それは鴨原だけが知っている。

「ふむ。あの日は会長がお見えになるというので、地下に九条華生を隠していた。それがどういうわけか、地下へと続くシャッターが開いていてな、そこへ叶子様が入っていったというわけだ。今後は戸締りに気をつけるよ」

 シャッターには確かに鍵をかけていた。用心深い鴨原のこと、決して勘違いなどではない。シャッターは固く閉ざされていたはずだったのに。誰にも華生の存在、強引に進めた妖精実験を白日の下に晒すこともなかったのに。

「どうしてあの扉が開いていたのか、俺にもわからないがね――」
 分からない以上は責任放棄するしかない。管理不足といわれても仕方の無いこと。ただ、起ってしまった出来事を修正するのは不可能な所まで来ていた。

「ディルファーのデータと九条華生を同時に入手した我々は、妖精の世界を受け入れるしかなかった。目の前に妖精が現れたのだから、疑う余地すらない。しょうじき足が震えたよ。アメリカどころか、世界中を敵にまわしても勝利という釣銭がくるのだから」

 鴨原たちは言葉巧みに華生を騙し、華生から細胞を抽出。妖精のゲノムを解析した結果、ハイヤースペックの存在にたどり着いた。しかも強力なハイヤースペックを数値化したデータまで入手したとあっては、鴨が葱をしょってきたとしか言いようがない。

 華生にハイヤースペックを発動されて暴れられるのは厄介と考えた鴨原たちは、監禁した華生を活かさず殺さずの状態で、数日もの間、ベッドに縛り付けた。

「我々は世界の頂点に君臨するため、ハイヤースペックの研究に乗り出した。ハイヤー技術を持ってすれば、人間界のサイバー技術など子供だましに過ぎないからな」

 華生の存在を鈴道も彩乃も知らなかった。一部の研究員で極秘にしていた。

「チームの中で一際高い頭脳を持った人物がいてな、それが湖南鳩冥舞という女だった」
「女王メイヴ――」

 叶子たちが固まった。

「湖南鳩の脅威的な頭脳を以ってして、ゲノムの分析が容易に進んだのは覚えている。正真正銘、彼女は天才だった。水無月主任に匹敵するほどに、いや、水無月主任以上にな。妖精界で解析したゲノムを人間界で使用するためには臨床者が必要だった。そこへ九条華生がディルファーのデータを持って現れたのだ、湖南鳩にしてみればこの上ない喜びだっただろう。まさに鴨が葱をしょってきたのだから言うことはない」

 自分たちのやっている技術が妖精界に近づいていることに、一種の喜びを得る。鴨原は人間の存在の小ささにウンザリしていた。

「人間は弱すぎる。雪が降れば電車は止まり、都心に残されたビジネスパーソン達はホームに立ち往生。あれを見るたび、社蓄という言葉が脳裏を過ぎる」

 羽があれば電車はいらない。飛んで我が家に帰れるのに。

「ちょっと転倒しただけで大怪我。後遺症も残り、生涯寝たきりの人生を送るものさえいる」

 ちょっとした惨事で、人間の体は大変な状態に陥る。

「災害にも勝てない。政府は陳腐なプライドから出した多くの被災者の数を無かったことにしようとする」

 政府の対応が遅れたことにより、被災者の数が増加する現状は、今も繰り返されている。

「……そこで我々は考える。強靭な肉体を持った生物の作成――」
「ハイブリッド生命体、ね」
 叶子の言葉で鴨原がニヤリと笑う。
「さすが愛宮令嬢、よくご存知だ。お喋り好きの水無月主任にでも吹き込まれたのかな? 妖精なくして妖精の力を所有する人間の存在……」
 鴨原は一呼吸し、次の言葉を吐き出した。


 

「――それが『八卦』だ」



 叶子が顔を歪ませた。
「八卦、ですって!?」
「左様、ディルファーのデータを元に作成された特殊な細胞を、生まれてくる子供に与える妖精実験。軍事兵器の誕生。八卦プロジェクトの提案があがったのさ」

 プロジェクトの進行には優秀な頭脳が必要だ。

「――とはいえ、水無月主任はMAMIYAに戻ったあとでね。しかたなしに彼女の細胞から、新しく培養した生命体を作った。それをエサに、水無月主任にはシュベスタに戻ってきてもらった」
「まだ生まれていない子供を人質にとったというの!? 卑劣な!」

 叶子の拳が怒りまかせに固くなる。

「水無月主任は喜んでくれたさ。シュベスタは、どうしても水無月主任の頭脳が欲しかったものでね。もっとも、事情を知る研究員はほとんど湖南鳩の手で消された。問題なく生き残っているのは俺くらいのものだ。あとは死体か、もしくは日の光すら浴びることができない暗い場所を彷徨っているだろう。九条華生のことを知らなかった水無月主任は悪運が強いともいえるがな」
 そこまで言いかけた鴨原は、ゆっくりと首を振る。

「八卦プロジェクトと名づけられた研究だったが、とんでもないゴミが生まれてしまってな――」

 それを聞いた狐姫の顔が一気に紅潮し、脳みそが沸騰した。
「ゴミ、だと?」
「そうだ、ゴミだ。おまえらもよく知っているだろう。八卦プロジェクトが生み出した、最初のハイブリッドハイヤースペクター」

それが、咲羅真御殿だ――。




牢獄迷路プリズンメイズ


 御殿と分かれた想夜が2階のコントロールルームに向かう。
 階段の踊り場を抜け、2階通路に入ったときだ。

「……誰かの声が聞こえる――」

 耳を澄ますと聞こえてくる。妖精たちのすすり泣く声。
「上からだ!」
 想夜は階段へと引き返し、3階へ向かう。


 3階通路に立つと、想夜は声の聞こえてくる方向へ羽を広げた。
 とある一室。そこだけ厳重にロックされている。
(どこかに隙間がないかな)

 見渡すと、天井のダクトからの侵入が可能のようだ。

 想夜は廊下天井に張り付き、ダクトのフタを開けて中へと侵入。天井裏の細くて暗い通路を匍匐前進しながら近くの部屋へと近づいてゆく。
「うんしょ、うんしょ……」

 想夜の細い体でもギリギリの隙間。埃まみれで顔じゅう黒く染めながら、光の差すほうへ芋虫よろしく身をよじらせ、前へ前へ。

「うん……しょ、この辺かなあ?」
 行き止まり。想夜がダクトの隙間から室内を覗き込むと、異様な光景が広がっていた。

 じめっとした湿気ある暗い部屋。部屋というよりは倉庫だ。幾本にも広がる鉄格子。正方形の巨大な檻が無数に並べられている。倉庫内は、牢屋そのものだった。

 並べられた檻で作られた迷路の部屋。
 想夜はダクトを蹴飛ばし、そこに下りる。


 床に落下したダクトカバーが音を立てるのと同時に、檻の中にいる生物たちが一斉に想夜に目をむけた。

 想夜の左右に正方形の牢獄がビッシリと並べられ、2重3重と天井高く積まれている。移動空間は細長い通路となってあちこち迷路のような形状を作り上げていた。

「まるで迷路ね。シュベスタはなぜこんなものを作ったんだろう?」

 妖精実験――想夜の脳裏にそれが浮かんだ。かつて華生の肉体で行われていた忌まわしい実験が、今も尚、続いていたのだ。

「待っててね。今開けるから――」
 想夜が檻を開けようとするも、捕われの妖精は中から手を伸ばして阻止する。どうやら出たくないようだ。
「どうして? 外のほうが安全でしょ?」

 妖精たちは上目づかいで想夜を睨み、首を左右させる。
 理解に苦しむ想夜。

 ふと迷路の角を誰かが横切った気がした。

「誰かいるの?」
 檻の外。自由に歩き回っている者がいる。想夜はその後を追いかけた。
「待って!」
 追いかける想夜を誘うように、影は想夜の前から遠くなる。
 追いかけ続け、行き止まりにさしかかったところで、影を見失った。
「あれ? おっかしいな……」
 あたりを見回していると、天井から何かが落下してきた。

 ドオオオオオオオオン!

 埃と振動を立てて現れた物体を前に、想夜の体が硬直する。
「これは……暴魔?」

 全身、顔からつま先まで魚の鱗をまとった巨大な犬。無数の牙を立て、うなり声を想夜に発してくる姿は、まるで暴魔となんら違いがない。けれど、想夜は理解する。

「この人、暴魔じゃない……妖精だ」
 そう、妖精。想夜と同じ妖精だ。姿形は暴魔のように威圧的で、巨大で、攻撃性が見られる。だけど妖精だ。
「どうしてこんな姿になってるの?」

 想夜の疑問に檻のなかの妖精が答える――人間に謀られた末路だよ、と。

 惨い仕打ち。謀られたあげく、我を忘れて人間と同種を襲い続けているのだ。シュベスタは、この妖精を牢獄に解き放つことで、囚人たちが逃げるのを阻止するための番犬としたのだ。

 想夜が檻を開けても誰も出てこない理由がここにあった。檻から出れば食われる。それを避けてのことだった。

 ましてや牢獄の作りは独特だ。檻の上半分に目隠し用の平たいプレートがかぶせてあり、上から監視している番犬の姿が見えない。しかも番犬からは囚人の足が見える。これがどういう意味かわかるだろうか?

 ――つまり、番犬がいるかいないかわからない状態をつくっているのだ。

 囚人は「いつも監視されている」という錯覚から、自分自身の動きを規制してしまっている。たとえ番犬が見ていなくとも、板が邪魔で、「常に見られている」という束縛から逃れられない。

 人間界にはパノプティコンという監獄設計がある――監視塔を中心に、少し離れた場所に塔を囲むようにグルリと監獄をつくる。檻の中からは上空の監視室が見えないが、監視室からは檻の中が見える設計。これにより、囚人は「ずっと見られている」という錯覚から逃走する気力を奪われる。いつも誰かが見ている、お天道てんとう様が見ている、という脅迫観念を植え付けるシステムだ。

「いったいいつからこんなことに……」
 とまどう想夜に囚人の1人が言う。
「一週間ほど前、ここにいる全員監禁された。それから数日後に、あの子はあんな姿になっちまったのさ……」

 一週間。妖精が姿を変えたまま数日が過ぎると、元の姿には戻れなくなる。

「ち、治療を! あの子を帰界させなきゃ。まだ間に合うかも」

 フェアリーフォースには救護班が所属する部隊もある。優秀なヒーラーたちが集いし部隊。そこに送り返せば応急処置をしてもらえるはず。今の姿では惨たらしくて目も当てられない。想夜は背中のワイズナーを引き抜いてかまえた。

 倉庫の隅から隅へと飛び移る巨体に翻弄されながらも、想夜は対策を立てる。

 ワイズナーを構える想夜のすぐ横、小柄な男が言ってくる。
「あの子も同じさ。謀られ、大量のエーテルを奪われて容態が悪化した。病院にやってきたところを『人間のために協力してほしい』と促され、騙され、捕獲されたのさ。まだ子供だというのに、かわいそうに」
「あの子もって、やっぱり――」
 想夜がすべての牢獄に目を向けた。

「ああそうさ。ここにいる妖精は皆、人間たちに騙された妖精。人間たちの力になりたいと常日頃から願っている、妖精界ならどこにでもいる妖精たちなのさ。それがどういうわけか、あの子以外は鎮静剤を投与されて暴徒化もできず、こんなザマさ――」

 小柄な妖精の男が吐き捨てるように言う。
 想夜はそれを聞いては唇をかんでうつむく。

 人間たちのため――妖精がもっとも心引かれる言葉。

 人間はそれを利用する。言葉巧みに妖精に近づき、利用し、謀る。
 妖精は自分たちが悪事利用されることをもっとも嫌う。心が八つ裂きにされる感じがするのだ。人間はそんな妖精の痛みを理解しない。包丁を作った人は刺殺を考えただろうか? ダイナマイトとノーベル然り、である。

 番犬妖精は真っ赤な目を想夜に向け、うなり声を上げながら威嚇してくる。そうとう頭に血がのぼっているらしく、とても手がつけられる状態ではない。ジリジリと弧を描くように、想夜との距離を保ちながら移動している。

 想夜が番犬を帰界させるためにワイズナーを抜くと、あちらこちらの牢獄がざわつき出した。

 想夜がよそ見をしたところへ、番犬妖精が飛び掛ってきた!
「いけない!」
 想夜はあわてて横に広がる細い通路へ飛び込むと、姿勢を低く保ってやり過ごす。

(なんとかしなきゃ。でも……どうしよう?)
 考えている暇などない。
 想夜が牢獄の角から顔を出すのと同時に、目の前にヌウッと番犬妖精が現れた。
「しまった!」
 目と目が合った瞬間、想夜は後ろに飛びのいて一目散に逃げ出す。

 右へ、左へ。どこまでも続く長い通路を走り続ける想夜。息を切らしながら物陰にかくれ、高いところへ移動した番犬妖精を覗き込んで様子をうかがう。

 床に座り込んでいると、小さな手袋が落ちていることに気づく。
(これは……手袋?)
 寄りかかる牢獄。檻の隙間から想夜の耳に声がとどく。
「あの子が後生大事に持っていた手袋さ。ここに来る途中で別れた母親にもらったんだとさ」
(お母さんの、手袋……)

 想夜も母に手袋を編んでもらったことがある。
 寒い日。雪の降る日だった。それが嬉しくて嬉しくて、せっかくあったかくしてもらった部屋から飛び出して、庭で雪だるまを作ったことがあった。

 ――目の前の番犬妖精にも、その思い出があるはずだ。

「いつまでも逃げていたんじゃ埒があかないわ」
 うまくいくかどうかと心配するのは後回し。ひょっとしたら望みの欠片に触れられるかもしれないと思った想夜は、番犬妖精に語りかけるために、隠れるのをやめた。
「これ、手袋……あなたのでしょう?」
 想夜が目の前の脅威に近づき、手袋を差し出した。
 番犬妖精がゆっくりと想夜に近づいてくる。そして……
「いい子ね、すぐに助け――」

 ――ガブリ。

 近づく想夜の首筋に食らいついた。
 瞬間、想夜は左腕を差し出して、番犬の牙と牙の間に挟ませた。
 牙は皮膚をつらぬいて骨まで到達し、想夜の神経をギリギリとかき回す。
「う、ぐう……っ」
 激痛に悶えながらも想夜は歯を食いしばり、その場から1ミリたりとも後退しなかった。
 それだけじゃない。あろうことか、ワイズナーを捨てて番犬の大きな頭を胸元へ手繰り寄せ、右腕で包み込んだ。
「恐くない。恐くないよ。いい子だから、ね――」

 刹那、番犬の動きがピタリと止む。

「あたしもね、お母さんに手袋もらったこと、あるんだ……」
 そう言って番犬の頭を優しく、何度も撫でる。ちょっとおませなお姉さんになった時の眼差しで。

 その後、番犬は噛み付いた想夜の腕からゆっくりと離れ、シュンと大人しくなった。

 尖った耳が柔らかく垂れ下がり、出血した想夜の腕をペロリ、ペロリと舐め始める。
「ふふ、くすぐったい……いい子ね」
 妖精同士。胸の痛みを理解してくれる者に包まれる、ひと時の安心。

 それでも時間は無情だ。想夜にはやることがある。

 想夜は落したワイズナーを拾うと、番犬妖精の首筋に矛先を突きつけた。

「ちょっとチクッとするかもだけど、すぐ終わるから――」
 想夜は番犬妖精の頬をなで、鱗と鱗の隙間にゆっくりと、ワイズナーを刷り込ませた。

 ピクンッ。痛みで巨体が動く。ワクチンを注入される時のように一瞬の痛み。

 痛みを散らすよう、想夜は撫でた左手で、さらに大げさに撫でた。
「痛いよね? ごめんね。こんなことしかできなくて」
 想夜の顔に頬をすりつける番犬妖精。
 想夜はくすぐったがり。それでも巨体から醸し出される癒しは、想夜の役目を遂行させる。

 あれほど巨大だった番犬妖精は跡形もなくなり、無事に妖精界へと帰っていった。

 静まり返った空間にひとり、エーテルバランサーが立ちつくした。

 そこへゾロゾロと、捕われていた妖精たちが牢獄からでてきて群れをなす。
「アイツは一体何者だ!?」
「番犬を消したぞ!?」
 口々に発せられる言葉。皆、想夜を珍しそうに見入っている。

 想夜ははじめ、皆に応援されていると思っていた。けど……違った。

 ひとりの妖精が言った一言がきっかけだった。
「もうちょっとでエーテルバランサーの死体を拝めたのに――」
「そうだそうだ! エーテルバランサーなんか死んじまえ!」

 その声を聞いて、想夜は酷くショックを受ける。

「なんで? どうしてみんな、そんな酷いことをいうの!? ……痛っ!」
 想夜の顔面に食器が投げつけられた。
 想夜は何が起ったのかわからないまま、呆然と妖精たちを見回していた。
 想夜に向けられる眼差しは、皆、どれもキツイものばかり。それを見ては驚きの表情を作る想夜。
「どうして? あたし助けただけじゃん!」

 ――違う。

「あたしはみんなの味方でしょ!?」

 ――違う。

「あたしは正義の味方でしょ!?」

 ――違う。おまえは偽善者、善人気取りの偽者だ。いい子を演じたいだけの点取り屋。ポイントを稼ぐことでフェアリーフォースに尻尾を振り続ける売女ばいただ。

 雪車町想夜は人形だ。フェアリーフォースの肩をもつ奴隷だ。この場所で、その事実を知らないのは想夜だけ。他の妖精たちは、目の前の小さな戦士の正体を知っている。想夜が政府に言われるままに動いている奴隷だという、その事実を。

 フェアリーフォースへの不信感は、すでに妖精たちの心を支配していたのだ。そして彼、彼女らは、往々にして正しい。なぜなら、ここの囚人たちをシュベスタに売ったのは、フェアリーフォースなのだから。捕らわれの身になった彼らの存在を知りながら、政府は目をつぶっていたのだ。

 「信じてたのに! 政府を信じてたのに!」――囚人たちの怒りの矛先は想夜に集中した。

 番犬妖精――謀られた妖精。
 変わり果てた妖精。

 想夜は無実の妖精を斬り捨てた。
 そういうことになっている。

 想夜は無実の妖精を帰界させた。
 そういうことになっている。

 妖精たちが次々に騒ぎ始めた。
「アイツは誰だ!?」
「フェアリーフォースだ!」
「聖色市のエーテルバランサーだ!」
「雪車町想夜だ!」
「裏切り者!」
「妖精界の面汚し!」
「死んじまえ!」
「フェアリーフォースの妖精ひと殺し!」
「エーテルバランサーの妖精ひと殺し!」
「雪車町想夜の妖精ひと殺し!」

 妖精ひと殺し! 妖精ひと殺し!

「な、なによ……みんなして、酷いこと言わないでよ……帰界させただけじゃない」
 たじろぐ想夜。一歩、また一歩と、ジリジリ詰められては後退してゆく。
 しまいにはその場にいられなくなって、逃げ出すために出口へと向かった。もたもたと不器用にドアの鍵をはずしている間にも、その背中に食器が投げつけられ、罵声が飛び交った。

「雪車町想夜の妖精ひと殺し!」
「雪車町想夜の妖精ひと殺し!」
「雪車町想夜の妖精ひと殺し!」

 想夜が叫ぶ。
「なによ! 自分たちじゃ何もできないクセに! 他力本願のクセに!」
 想夜は涙をためて訴えるも、妖精たちの罵声は続き、想夜に物を投げつけてくる。飛んでくる物から顔を守るために手で庇い、相手に届かない主張を続けるも、結局のところ無意味なのだと理解する。

 妖精たちにとってフェアリーフォースの信頼など、すでに崩壊していた――。

「ばか、みんなのばか……」
 もういやだ! はやくここから逃げたい! 想夜は耳をふさいでその場にうずくまった。泣き出したい気持ちを抑え、足早にその場から去ろうとするが、足が動かない。想夜自身が逃げることを拒んでいるのだ。

 いま部屋を出て行くことが正解なのだろうか?
 やるべきことがあるんじゃないのか?

 フェアリーフォースの名前を背負っているということを、誇りを背負っているということを、ここにいる妖精ひとたちに伝えるべきなのだ。

 ――大好きな人の声が聞こえる。


『大丈夫。想夜ならできる――』



 直立不動の想夜が拳に力を入れる――大丈夫、ひとりでもできる!
 罵声のなかで、ひとり振り向き、妖精たちを一瞥する。

 するとどうだろう、妖精たちの罵声がピタリとやんだ。

「……」
「……」
 ――皆、想夜の力強い眼差しを前に静まり返っていた。

 想夜はおもむろにポケットからチョークを取り出し、床に帰界の陣を描く。
 一心不乱で、カツカツと無言でチョークを走らせていると、檻が邪魔をしてうまく描くことができない。それでも想夜は、ひとりで檻を押し始める。檻を動かす途中で足をすべらせ、目の前の鉄格子に顔面をぶつけてしまう。それでも諦めずに押し続け、やがて、こじんまりではあるものの、小さな床のキャンバスができあがる。

 想夜は次の牢獄へ手をかけ、再びひとりで移動させる。
 妖精たちは、ただ黙って想夜の行動を見ていた。

 次の牢獄も想夜が1人で動かした。
 少しだけ解放された床に、想夜がチョークで陣の続きを描く。
 次の、その次の牢獄も想夜が1人で動かし、ひとりチョークを握った。

 そんなことを幾度と繰り返しているうちに、どういうわけか、ひとり、またひとりと想夜にならって檻を動かし始めるではないか。
「おい、俺達も手伝おうぜ」
「ええ、早く妖精界に帰りたいわ」
「エーテルバランサー、手伝うよ」
「みんな……」

 アトラクションの法則――道端でタイヤを取られて止まっているトラックをひとりの旅人が押している。困っている運転手に手をかしているらしい。黙々と腕に力を入れ、たったひとりで押している。周囲の者はただの見物客、高みの見物と洒落込んでいる。ところがどういうことか、見物人がひとり、またひとりとトラックを押し始めるではないか。理由は旅人の力あふれる瞳にあった。凜として輝く瞳。一点の迷いもない瞳。ひとりトラックを押すその姿を、ひとり巨大な難解に挑むその姿を、周囲の人々が黙って見ているはずもない。皆、旅人に惹かれては、目の前の難問に挑む勇気を手に入れるのだ。時同じくして、同じ志を持つ者同士が惹かれあう。そうやって一つの力が完成する。想いの共有。魂の共有。それがアトラクションの法則。

 目の前の難問に立ち向かうために選ばれた魂の集合体。それが今、ここに君臨している――。

 想夜が細い腕で巨大な檻を動かす。
 それを見ていた妖精たちも次から次へ、檻に手をかけ押してゆく。
 そうやって出来た広いキャンパスは、この場にいる旅人たちの描いた合作ともいえよう。

 ――そうやって帰界の陣は完成するのだ!

「みんな、ここから妖精界に帰れるから。きっとここより安全なはずよ。さ、早く! 見つかる前に逃げて!」
 想夜の声に導かれ、囚われの妖精たちは自分たちの本来ある場所へと帰ってゆくのだ。
 ひとりひとり、想夜へ向けた謝罪とお礼。
 それに対して笑顔で返す想夜。

 最後のひとりが旅立つ時、袖を破いて想夜に手渡す。
「これ……使って」
 成人した女の妖精が照れ隠しで差し出してくる。
 垢や血痕がついたボロボロの布切れ。顔を拭いても逆に汚れるかもしれない。
 それでも想夜は思うのだ。涙はぬぐえる、と。
「ありがとう――」
 宝物を手に入れたかのように喜び、もらった布で顔を拭いては、見られないように涙まで拭う泣き虫想夜。
 そんな泣き虫妖精に伝えたいことが彼女にはある。
「フェアリーフォースの中にも、勇敢な戦士がいるということを皆に伝えておきます――」
 そういい残し、彼女は笑顔のまま姿を消した。

 想夜の後ろで、黒髪ことのの幻が肩にそっと手を置いてくれた――「ほらね。想夜は大丈夫なんだから、もっと胸を張る!」、と。

 牢獄の迷路。そこにはもう誰もいない
 想夜の小さな解放運動は、無事に終わった。
「あたしもみんなのところへ――」
 想夜が部屋を出ようとした時、雷鳴がシュベスタに響き渡り、

 ドン! ドン! ドン! ドン! ドン!

 上の階から大きな振動が連発して起こった。

「――な、なに!?」
 嵐の中の小動物みたく不安そうに、身を縮めては天井の向こうへ気を配る。
 建物が揺さぶられ、やがて何かが落下してゆく音が響いてきた。

 ――振動が止み、落下音が止み、静けさを取り戻す空間。

 心なしか、誰かの叫び声が聞こえた気がした。
「なに? なんなの? この胸騒ぎは――」
 妖精の直感。
 胸をえぐるような、ざわつき。この上ない嫌な予感が想夜をひどく怯えさせた。
 想夜は1階ホールの様子が気になって戻ることにした。