5 本当のこと


 MAMIYAには調査委員会というチームが用意されている。不審な動きをするものや、問題がある社員からの事情聴取を行い、懲罰を与えるチームである。

 今回発足した調査委員会は、詩織の件についてである。
 詩織の件でいくつかの質問を提示しても、鴨原はノラリクラリとかわして逃げ切るだろう。コーヒー一杯の差し入れで犯人呼ばわりされたのでは、本人としてはたまったものではない。
 シュベスタへの出入りが目撃されているが、厚生省の人間としてはなんら不思議なことではない。
 調査委員会が用意した証拠をかわしきるだけの頭脳が彼にはあった。

 結局のところ、進展がないまま堂々巡りをするのだ。

 今回の事件は、犯人が分からないまま終息していくと誰もが思っていた――。


 叶子の部屋。

 御殿が扉をあけると、すでに他の3人が集まっていた。
「御殿センパイ……」
 俯きながら座っていた想夜が、ゆっくりと顔を上げた。

 叶子、華生。みんな浮かない顔をしている。

「大まかな事情は学校で想夜から聞いたわ。詳細を説明してくれる?」

 叶子は昨晩の出来事を包み隠さず、すべて打ち明けた。滅多打ちにされたことも、辱めを受けたことも、すべて。すべて。

 御殿は耳をふさぎたかった。どれも聞くに堪えがたいものばかりだからだ。自分がいれば、あるいは狐姫がいれば惨事は防げたのだろうか? いや、話を聞く限りだとメイヴは相当の力の持ち主だ。一瞬で心臓をえぐられるかも知れない――御殿はハートプレートの上にそっと手を置いた。頑丈なそれは、今も御殿の心臓を守ってくれている。

 そんな話の中、とくに気になることに焦点を絞った。
「水無月先生とメイヴが知り合いって話……本当?」
 御殿の問いに叶子が答える。
「ええ、どうやら妖精実験のチームに所属していたらしいわね。それも古株。メイヴは当初からのメンバーだそうよ」

 幼き日、鈴道が妖精実験で揉めていたあの日、華生とはじめて出逢った日――叶子はメイヴと顔を合わせていたのかもしれない。叶子はそれを考えると身の毛がよだつのだ。大切な思い出に割り込んでくるウイルスみたいな感じがして不快感を覚えるのだ。

 御殿が質問をぶつける。
「妖精界の女王がMAMIYAとシュベスタに潜り込んでいたってこと?」
 こくり。想夜が無言でうなずいた。

「それだけじゃなくて――」

 想夜は口ごもり、言葉の途中でつぐんだ。チラリチラリと叶子のほうを伺うが、叶子は瞼を閉じたままだ。
 御殿はそれを不思議そうに見つめている。
「他にも……なにかあったの?」
 御殿の問いに想夜は首を大きく左右に振った。
「いえ……報告は以上、です」

 言えるわけがない。なんて伝えたらいいのかも分からない。御殿と彩乃の関係を――。

 叶子も押し黙ったままだった。難しい問題に安易に立ち入るべきではない。

 御殿が提案を出してきた。
「一度、水無月先生と話がしたいわね。彼女と合流できるかしら?」
 叶子はしばらく小難しそうにしていたものの、やがてもたれた壁から背を離す。
「わかったわ。彩乃さんに連絡を入れてみる。ちょっと待ってて――」
 そう御殿に告げ、叶子は部屋を出て行った。


 彩乃に何を言ったらこういう状況になるのだろう? 多忙な彼女がMAMIYA研究所を抜け出し、車を飛ばして愛宮邸までやってきたのだ。
 そのことに一番驚愕していたのは御殿だった。

「ごめんなさい、仕事が立て込んでいて――」
 部屋に入るなり、御殿を一瞥しては口をつぐむ彩乃。よほど急いでいたのだろう、額には汗、息を切らせては呼吸を整えている。
「いえ、こちらこそ。急なお呼び出しに応じていただけて、感謝いたします」
 とても他人行儀にふるまう御殿。その態度を前に彩乃は少し寂しい表情を見せるも、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「いいのよ、緊急事態みたいだから。知りたいんでしょ? 湖南鳩冥舞のこと」
 一同が同時にうなずいた。


 彩乃とメイヴは同期で入社した。
 趣味が合うわけでもなければ考えも違っていた。けれど、メイヴの類まれな頭脳は彩乃に匹敵するどころか、超越していたといえよう。人間の頭脳とは思えないほどに優秀だったことを彩乃は覚えているが、まさか妖精だとは思わなかった。

 やがてトロイメライプロジェクトがはじまり、スタッフが集められたのだが、なんとプロジェクト始動の発端はメイヴ、そしてそのメイヴのご指名により彩乃はチームに参加することとなった。
 彩乃の頭脳がメイヴの理想を現実のものとしたのだ。

「――人手が欲しくて、結果的に詩織ちゃんと沙々良ちゃんに手を貸してもらった。結果、今回の騒動に巻き込んでしまった。それは深く反省している」
 そのことを誰ひとりとして責めるものなどいなかった。彩乃たちは人類に大きな貢献をしたのだから。しかし、プロジェクトの発端がメイヴとなると、冷徹な彼女も人類に大きく貢献したことになるわけだが、なにかウラでもあるのだろうか?

「メイヴはトロイメライの開発と実験成功を予期していたのでしょう。どこまでも先を読むことができる女だったわ」
 詩織たちがトロイメライの開発に成功する手前、メイヴはシュベスタに移っている。なにを隠そう、トロイメライは軍事訓練のテスト道具に過ぎなかった。よくできた人形を武器や能力の殺傷実験として作ろうとしていたのである。そうすることで、人手を募ることなくサンドバングが入手できる。シュベスタにて、MAMIYAで開発した技術を遂行しようとしていたのだ。

 メイヴにとってみれば、MAMIYAとシュベスタの垣根など無いに等しい。つまり、データがとれればどこでもいいのだ。

 もちろん、人類を救う技術がただのサンドバッグだなんてあり得ない話だと彩乃は胸を痛めた。

 現在のところトロイメライに悪い話はなく、世界の生物たちの治療に貢献できている。
 エーテルポット開発の進捗状況は周知だ。これも世界に貢献するために彩乃が開発したものだった。それを妖精実験を用いて、軍事利用するなどあってはならない。完成間近になって彩乃はエーテルポットの作成を断念した。それがどういうわけか、シュベスタで未完成品が起動しているのだ。これは特許の問題ではなく、妖精たちのため。放っておくわけにはいかない。なんとしてでも起動を停止しなければならない。


 話の途中で彩乃の顔色が冴えない状態に。少し息切れもあるようだ。
 察した叶子が話に割ってはいる。
「トロイメライは最初のディルファープロジェクト。もうひとつのディルファープロジェクトがあったんだけど、こちらはコンピューターシミュレーションでの結果が芳しくなくてね。で、凍結……そうでしょ、彩乃さん?」
「え、ええ……そうね。そう――」
 叶子なりの気遣い。今はまだ、話す時ではないのだ。急がずとも、ゆっくり隙間を埋めてゆけばよい。

「プロジェクト凍結後、メイヴは私たちの前から姿を消した、はずだったわ」
 それがどういうわけか、昨日、彩乃たちの前に戻ってきた。

 彩乃がメイヴが妖精界の住人だと知ったのは昨晩のこと。これにはさすがの彩乃も驚きを隠せなかった。とはいえ、メイヴは人智を超えた頭脳の持ち主、「人間ではなかった」と言われれば納得がいった。

「なぜメイヴはこちらの世界にやってきたの?」
 御殿の問いに想夜が首を振る。
「わかりません。あたし達を殺しにきたわけではなさそうです」
 そう言って想夜は胸のあたりをさすった。

 メイヴに貫かれた場所。傷はない、けど少し焼ける感じがする。異物を埋め込まれたのかもしれないけど、とくに異常はない。口の中に指を突っ込まれたのも気持ちが悪かった。もうあんな目にあうのはゴメンだ。想夜は吐き気を覚えた。

「メイヴってヤツは何者なんだ?」
 狐姫の問いに想夜が答えた。昨晩の重複だったが、御殿と狐姫には説明しておくべきだろうと思ってのことだ。ひょっとしたら解決策を編み出してくれるかもしれない。力と頭脳は多いほうがいい。
「――女王メイヴ、か。いちど手合わせしてみたいもんだぜ」
 狐姫は指をボキボキ鳴らしている。
 頼もしい発言だが、命知らずとはこの事。想夜の判断だと、メイヴの力量は狐姫をはるかに上回っている。一瞬とはいわないまでも、メイヴが本気を出せば、狐姫といえど打撃3発すら持たないだろう。女王の力は人智を超越している。

 妖精界には何人かの女王が存在し、各々が自分の国を守っている。女王に君臨するということは、その国において無敵を意味する。メイヴはコナハトという国を守っている。

 意気込む狐姫の後ろから、御殿が口を挟んできた。
「傷が治ってからにしなさい。悪化するでしょ?」
「大したことねーよ、見る?」
 狐姫がフフンと誇らしげに鼻を鳴らして服を捲り上げる。
「いいから、おヘソしまいなさい」
 ヘソが出たところで御殿が狐姫の服を戻す。まるで母親みたい。
 昨日の今日だというのに、背中の傷はふさがりかけている。妖精界の薬が効いたのか、本人の治癒力がズバ抜けているのか。どちらにせよ一安心。安静にしていれば2~3日中には完治するだろう。


渡すモノ 受け取るモノ


 御殿は扉の向こうで彩乃を引き止めた。
「水無月先生、少しお話が――」
「ん? なぁに、御殿さん」

 御殿は自分の胸元をまさぐった。

「一応、これを渡しておきます。胸のポケットにでも入れておいてください」
 御殿が手にしたものを彩乃は難しい顔でしばらく見つめ、何やら考えていた。が、やがて大きくうなずいて笑顔に戻った。
「わかったわ。ありがとう、お借りするわね」

 彩乃は御殿の手元のそれを受け取って白衣のポケットにしまう。と同時に別のポケットから取り出したものを御殿に渡す。

「――これ、狐姫さんから預かったわ」
 御殿は真珠大ほどの水晶をつまんで、のぞきこんだ。
「これは?」
「エーテルリバティ、というそうよ。妖精界の技術の結晶ね。」

 エーテルリバティ――魔水晶の堅い表面を溶かし、侵入後にプログラムが発動する。発動したプログラムは、魔水晶に蓄積されたエーテルを主の元へ返し、魔水晶は破壊される。一粒で絶大な効果を発揮するシロモノだ。

 ラテリアから狐姫へ。
 狐姫から華生へ。
 華生から彩乃へ。
 そうして真菓龍社の意思は、彩乃から御殿の手に託された。

 彩乃は一枚のカードキーを御殿に手渡す。
「あと、これは以前私がシュベスタに出入りしていた時のカードキー」
「水無月先生の?」
「ええ。赤帽子から奪ったものと合わせて2枚。2枚あればシュベスタ研究所にあるエーテルポットルームのセキュリティ認証を突破できるわ」
「わかりました。これはお預かりします」

 御殿はしばらくの間、彩乃と話しこんだ。
 その後、愛宮邸を後にする彩乃の背中を、御殿はいつまでも見つめていた。


 御殿が部屋に戻ると、なにやら騒がしい。

 シャワーあびたい、あたしもそうしたい! いつのまにやらお風呂の話で盛り上がっているではないか。

「それじゃあ、親睦を深めるために、みんなでひとっ風呂いきますか」
 と、叶子が腕まくり。このお嬢様、いきなりとんでもないことを言いだす。
「みみみみ、みんなって……御殿センパイも!?」
「当たり前でしょ? 大浴場。みんな行くでしょ?」
 叶子は呑気に大浴場の方角を指差した。

 そこへ顔を真っ赤にした想夜がツッコんでくる。
「だって、御殿センパイ男の子――」
 言いかけて止めた。が、時すでに遅し。
「あ、あの、御殿センパイ、ご、ごめんなさい……」
 秘密をバラしてしまった。とんでもないことをしてしまったのだと、想夜はションボリ肩を落す。

 そこへ叶子が救いの手を差し伸べてくる。
「知っているわよ。昨日、狐姫さんから聞いたし」

 ギロリ。御殿は狐姫を睨みつけた。

「いや、まあ、その。あ、あはは……」
 頭の後ろで腕を組んで冷や汗、八重歯を見せて笑っている。まったく関係ない方角に目を泳がせながら口笛でごまかす――嵐がすぎるのを待つのが得策だぜ。そもそも叶子のやつ誘導尋問うめーんだよな。

「さあさあ、レッツゴーよ」
 叶子は何事もなかったようにタオルを肩にさげ、部屋をあとにする。
 想夜には心なしか、叶子の姿が空元気に見えた。


 想夜たちが部屋をでると、ちょうど菫と出くわした。
「あら、こんにちは」
 菫は叶子のタオルを目にすると、うらやましそうに突いてきた。
「なぁに? みんなでお風呂? い~な~」
「菫さんもどうですか?」
「いやあ、いろいろ雑務が忙しくってね」
 叶子の誘いを断った。
「ほら、昨晩の一件もあるでしょ? 市の治安委員会をまとめるのに朝から大忙し」
 菫は自分の肩をモミモミ。

「菫さんって何の仕事してんの?」
 狐姫の直球が飛ぶ。
「ああ、言ってなかったっけ? 私、聖色市の市長やってんの。仮名、顔出しNGで」

 それを耳にした一同の感情がぶっ飛んだ。

「納税、期待してるわねー。しっかり稼ぐのよ皆の衆。バッハハーイ!」
 投げキッス。なお、諸々のご意見は良夫から聞いていた模様。後ろ向きで大手を振りながら、市長殿は去っていった。

「あ、あいつがドーナツをせびっていたのか」
 狐姫、沈黙。

 御殿が横目で叶子に問う。
「叶子さんも知らなかったのですか? 菫さんが市長だってこと」
「街のことを隅々まで知るわけないでしょう、百科事典じゃあるまいし。そういうのはお父様の仕事」
 しかも仮名? 顔出しNG? 叶子に透視能力はない。

 そこへ想夜が割って入った。

「えー、あたし知ってたよ? 庭の手伝いしてる時に聞いたもん。駅前を案内した時にも言ったぢゃん」
 御殿、叶子、華生が黙る中、狐姫が想夜の後ろに移動して、その腰に手を回した。

「聞いてねえよ! 1話を読み返せ、このハゲ妖精!!」


 ズドオオオオオン。
 狐姫、懇親のジャーマンスープレックスが炸裂。想夜の上半身が廊下にめり込んだ。


ななめ45度


 カポ~ン。
 奥まで伸びた檜風呂に桶が響く。

 中央に置かれた獅子の口から温泉が湧き出している。それを見てははしゃぐ女子。
「あ、あたしこれ知ってる。シンガポールにあるやつ。モーライオンだよ」
「なんだよソレ。牛と虎のキメラかよ」
 口から水が出れば、すべてマーライオンだと思っている。
僭越せんえつながら狐姫さま、ライオンは獅子です。虎はタイガーでございます」
 その通りでございます。

「御殿さーん、入んないの? いいお湯加減よ?」
 大浴場に叶子の声が響くと、スライド式のドアがゆっくりと開き、借りてきた猫のように御殿が入ってきた。
 はじめは全身をタオルで覆っていたが、慣れてくると前だけ隠すようになった。御殿はなるべく皆の肌を見ないように気をつかっていた。

「いいか御殿! ゼッテーこっち見んなよな! 見たらコロスぞ! すっげーコロスからな!」
 狐姫がキャンキャン吠えている。
 あーもーうるさいな、見ないってば。横目で訴える御殿、シャワーが並ぶ一角の席に、静かに腰を下ろした。ここなら湯煙で周囲が見えづらい。安心して体が洗えそう。女の中に男がひとり。うらやましくあろう状況でも肩身は狭い。

「こ、御殿センパイ! こっち見てもいいですけど、アレを合わせるのだけはやめてくださいよね!」
 ほわいとはうすでの一件を持ち出す。
「アレを合わせるって、何のことです?」
 体を洗っている華生が興味津々に聞いてきた。
「あのね華生さん、御殿センパイがこの前――」

 学園で暴魔に襲われた夜の出来事を耳打ちする想夜。
 それを聞いた華生がたちまち赤面。

「――合わせてきたのはお互い様でしょ?」
 一方的に悪者にされるのは納得がいきませんね。御殿は弁解する。
「あと数センチずれてたら、あたし達、取り返しのつかない関係になってたんですよ!?」

 想夜と御殿の言い合いがはじまる。まあ確かに、いろんな意味で血を見たかもしれない。

「なぁに? 取り返しのつかない関係って?」
 叶子が想夜に聞く。
「だ、だから……赤ちゃん、できちゃったり、とか……」
 抱き合うだけで妊娠すると思っている妖精。
「は? 赤ちゃん?」
 ゴニョゴニョ……想夜が口ごもるので叶子には聞き取れなかった。
 が、御殿の耳にはしっかり届いていた。最近、赤ちゃんという言葉をとてもよく聞く。ベビーブーム到来か?

 御殿が湯煙の向こうに語りかけた。
「狐姫、ちゃんと肩まで浸かるのよ」
「あー御殿、今のセェークゥーハァーラアアアア!」
 狐姫が御殿に向かって吠えてくる。まるでチカン扱いだ。
「狐姫さま、『せくはら』とは、何でございましょう?」
「ダッセー、華生知らないの? アレだ。セクシー……ハーゲンダッツ???」
 『ラ』は何処いづこへ?
「わあ、美味しそう! 今度みんなで食べに行こうよ。セクハラ!」
「おう、そうしろそうしろ♪」
 湯煙の向こうで想夜と狐姫の声が飛び交っている。御殿はそれを遠くから聞いていた。
 長い足を伸ばし、ゆっくりと湯船に浸かる。
「ふう~。セクハラ食べたい」
 御殿から色っぽい吐息が上がった。そういう名のアイスがあると思っている。


 先ほどから叶子のことが気になっていた想夜がチラリチラリと様子を伺う。
 やはり叶子の表情が曇っている。体を洗う手に力が入り、心なしかその背中が泣いているようだ。
(ひょっとして……)
 想夜は叶子に近づいた。
「叶ちゃん、ひょっとして昨日の――」
「言わないでちょうだい」

 ピクン。何事か、と一同が肩を震わせた。

 うつむく叶子が泡まみれで肩を震わせていた。シャワーに打たれ、前髪からチラリと見える瞳から雫が滴る。それがシャワーのお湯なのか、それとも別のものなのか。想夜にはそれがわかっていた。
「叶ちゃん……」
「汚らわしいの! 汚くて汚くてたまらないの! あんな女に、この身をなぶられたのが……悔しくて悔しくて」

 空元気の正体はこれだった。皆の前で、それも親族の仇に、体を弄ばれて嬉しい奴はいない。叶子にはそれが悔しくて、惨めで、耐えられなかったのだ。
 その身を晒すのは華生だけだと誓ったのに、華生への罪悪感と陵辱されたブザマな醜態を晒したことで、己を恥じているのだ。誰のせいでもない。すべては己の無力さが原因だ。叶子は一晩中、己を責め続けてきた。

 無力さを自覚したときの絶望は想夜にも経験がある。エーテルバランサーとして、幾度と無く痛めつけられた。

 いても立ってもいられなかったのか、想夜は叶子の背中にピタリと胸元をつけ、後ろから優しく抱きしめた。
「想夜……」
 想夜は叶子の全身に手をすべらせ、シャボン玉に触れるよう、壊さぬよう、そっと、清め続けた。
「叶ちゃん、あたしが洗い流してあげる。触られたところ、あたしでよければ、キレイにしてあげるから……」
「想夜……んっ」
 妖精の手が叶子の肌表面を伝う。
 清めの儀式、叶子の体がピクッ、ピクッと波打つ。

 叶子にこびり付いた穢れを取り除き、聖女の肌を取り戻す。何をどうしたらよいのかは分からないけど、ただ不器用に、ただ我武者羅に、肌を密着させては一生懸命に体を動かす想夜。
 想夜はなおも、その行為を続けた。こんなことだけでは何の解決にもならない、元気づけてあげられないかもだけど、いまはこれが精一杯。

 湯船の華生は、その光景を微笑ましく感じていた。もっと自分が強ければ、もっとしっかりしていれば叶子を苦しませずに済んだのに、守ることができたのにと後悔の念。正直なところ、メイヴに対してはハラワタが煮えくり返りそうな心境である。だが、恨んだところで己の弱さは変わらない。
「ああ、想夜様のように強くなれたら、咲羅真様のように強くなれたら」と、華生はそうやって強さへの執着を増してゆくのだ。

 華生の考えていることくらい御殿にはわかっていた。無力を自覚したとき、人も妖精も弱さを認めざるを得ない。そこから次へのステージが始まる。強くなるためのエッセンスは、己を奮い立たせる感情が所有しているものだ。心に目をむけるため、自分が弱いという認識を以ってして進む覚悟を得るのだ。
 想夜と叶子の吐息を耳に、御殿、ちょっぴり恥ずかしい。けど、いい方向に向かっていると安心できる時間でもあった。

 叶子は大丈夫。次のステージに進める。


 御殿は天井を見上げながら目を閉じる――先ほど、彩乃が愛宮邸を出る時に言っていたことを思い出していた。

『エーテルリバティ?』
『あなたに託すわ。それを魔水晶に叩き込んでほしいの』
『これと魔水晶にはどういう関係性が?』
『冥舞の胸元にある黒い宝石――あれは小型されたエーテルポット』
『エーテルポット? 先日聞いたエーテルバッテリーのことですか?』
『ええ。冥舞の頭脳なら小型化など容易いこと。だとすると、冥舞の力の源はアレね』

 本来、ハイブリッド生命体の脳に埋め込まれるはずだった技術。何年かの研究の末、小型化に成功したと思われる。万人に使用できるように改良したのだろう。けれど精密装置でもあるが故、粉砕してしまえば効果は無くなる。

『御殿さん、破壊できる?』
『……やってみます』
『くれぐれも、無理はしないでね――』

 なぜだろう? 彩乃の寂しい背中が目に焼きついてはなれない。

 御殿の胸の中、刃のようにギラつく感情がわきあがっていた。
(女王メイヴか。どんなヤツかは知らないけれど友を泣かせた罪、その身を持って償うがいい)
 御殿の瞳に鋭い光りがさした。


 ひと足先に湯船から上がった狐姫がフルーツ牛乳をあおっている。肘をナナメ45度に傾けて腰に手をあてている格好は、まるで銭湯から出て来たオヤジそのものだ。

「ぐびっぐびっぐびっ。ぷはーっ♪ かあああああ、うんんんめええええええ!」
 喉をならしながら、瓶の中身を一気に飲み干した。オレンジ色のヒゲをはやしてご満悦。
「狐姫、それどこから持ってきたの?」
「これか? 叶子が飲んでいいって。そこの冷蔵庫に入ってるぜ。おまえも飲むか?」
 脱衣所の脇に透明のガラスケース型冷蔵庫が設置されている。見栄えはもはや銭湯と変わらない。

 瓶ジュースに缶ジュース。プリンやビールまで入っている。行き過ぎたサービスだ、それだけ来客が多いのだろう。まるで銭湯か温泉。

 もしやと思った想夜があたりを見渡すと、やはりマッサージチェアが置いてあった。が、すでに浴衣に着がえた狐姫に先を越されていた。

「ヤヴエ~、ぎも゛ぢい゛い゛い゛い゛ぃ゛~」  マッサージチェアの上でまったりとする狐姫。その横でチェアに備え付けられたリモコンを想夜が珍しそうに眺めている。
「なんだろう? このボタン。押したらどうなるのかな……?」
「や、やめろよ想夜。変なところいじるなよな」
「えい」
 ポチッとな。

 ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ……

「はあああああん!」
 甘い吐息を漏らしながら、ものすごい勢いで狐姫の体が揺れた。超バイブ機能。まるで狂った携帯端末のように震えている。
「あはっ、おもしろーい! 狐姫ちゃん、あたしも混ぜて!」

 想夜は無理やり狐姫の横に割り込んだ。

「ば、ばかぁ。ひ、1人用、だろぉ」
 涙目の狐姫が訴えるも、想夜は気にしない。空気が読めないというよりは、もはや空気を読んでの嫌がらせにも思えてくる。狐姫いじりが病みつきになっているようだ。
「えー、2人一緒のほうが効率がいいよー」
「よくねーよ! だいたい俺の体におまえの変なモノが当たってるだろ!?」
 狐姫、目のやり場に困る。
 想夜の手にフサフサした物体が当たった。
「あれ? なんか柔らかいものが挟まったような……」

 ぎゅううううう。

「ら、らめええええ! しょこ尻尾! 尻尾!」
 椅子に挟まった尻尾にバイブ機能が効いているようだ。実に気持ち良さそうに悶えている。

 狐姫も気持ちよさそうにしてるし、しばらくそっとしておいてあげよう――想夜と狐姫の仲むつまじい光景を見た御殿は脱衣所を後にする。

 叶子は先に部屋に戻ると言っていた。
 御殿は叶子の様子が気になったので後を追った。


コイと妖精


 脱衣所から外へでられる。砂利が敷き詰められている小さい庭。池には数匹の鯉が彩りを見せている。一匹だけで数千万はする。柵に囲われているので外から誰かに見られることもないし、鯉を狙う猫も来ない。

 マッサージチェアで遊んだ想夜は、縁側に腰を下ろした。
 ほてった体をウチワで扇ぐと、やさしい風が頬を冷ましてくれる。
 夕暮れ時の入浴もオツなものだ。風鈴の音が聞こえる。

 ちりり~ん……じつに雅である。

 決してチリンチリンとは聞こえない。チンチンと聞こえる人は手の施しようが無い。心理状態によるものなのか、チリンチリンとやかましく聞こえる人もいれば、それとは逆に妖精のささやきのように聞こえる人もいる。想夜は後者だ。

 背中に華生の声がかかった。
「想夜さま。お隣、よろしいでしょか?」
「ん、いーよー」
 断る理由などない。想夜はニッコリ顔を返して縁側に置いた腰を少しズラした。
「失礼しますね」
「華生さん、メイド服も似合ってるけど、浴衣姿もかわいいね」
「想夜さんも。よくお似合いですよ」
 決して女同士の馴れ合いなどではない。類は友を呼ぶ。心が清いもの同士は引かれ合うもの。

 少しだけ沈黙――。
 互いに叶子のことを考えている。
 そのことについて、最初に触れたのは華生のほうからだった。

「お嬢様、喜んでおられましたよ」
「え?」
 想夜は浴場でのことを指摘され、顔がゆでダコのように真っ赤になった。勢いでやったこととはいえ、よくもまあ恥ずかしいことができたものだと思う。だって友達と行き過ぎた肌と肌のスキンシップをしたのだから。
「あ、あれは……その……」
 言葉につまる想夜。
 まあ、女の子同士だし、そういうこともあっていいんだけどね。
 華生はオレンジ色の空を見ながらこう言った。
「わたくしではダメなんです。余計にお嬢様を傷つけることになってしまいそうで」

 確かに。敵に弄ばれた箇所を愛する人に愛でてもらえば、その反動がくる。穢れた聖剣など愛する人に触ってほしくはない。その手を汚して欲しくはない。ミジメな思いに襲われてやりきれないから。
 でも、叶子から見る想夜の立ち位置は特別なもの。友達以上、恋人未満といってしまえば誤解をまねくが、想夜はすんなりと叶子の傷ついた領域に入っていった。それは傷つくことを恐れないことを覚えた想夜だからできること。友達の心の傷を少しでも和らげたかったのだ。

「ご、ごめんね。出すぎたマネしちゃって。あはは……」
 おちゃらける想夜に、華生は首を左右に振った。
「いいえ。お嬢様は想夜様に清められたようなものです。ああでもしていただかないと、お嬢様にこびり付いたメイヴの感触は拭えなかったことでしょう。あなたには感謝しております」
「そ、そうかな……ははっ」

 メイヴの名を聞いてたじろいだ。想夜の笑顔に元気がないのは、舌をつままれた時の感覚がまだ残っているからだ。冷徹なメイヴのことだ、あの時に本気を出せば舌を引き抜かれていたかもしれない。そう思うとゾッとしてしまう。

 想夜はくちびるを指先でなぞる。
 この舌を清めてくれる人がいるのだろうか? もしも清めてくれるのならば、どんな方法で穢れを取り除いてくれるのだろう?
 想夜は、まだ叶わぬ誰かさんとの口づけを想像しつつ、ひとり悶々とした。

 振り向くと、脱衣所に御殿の姿がない。
「あれ、御殿センパイがいないわ。叶ちゃんもいないな……2人とも部屋に戻ったのかな?」
 ヴヴヴヴヴヴヴ……
 隅のほうでは狐姫がマッサージチェアの上で昇天していた。


女として男に負けてる件


 叶子は自室で髪を乾かしていた。
 ドライヤーは御殿にかけてもらっている。

 ロング同士、手入れの要領がわかっているのだろう、なかなかの手つきだ。微熱でゆっくりと、けっしてダメージを与えないように、そっと、乙女の聖域に触れるような手つきで優しく扱う御殿。

 流れるような指どおり。華生の手入れが行き届いているのだと実感する。叶子は幸せ者だ、毛先まで愛されているのだから。

「――御殿さん上手、手慣れたものね」
「わたしもロングだし、それに狐姫が髪を乾かさないで部屋をうろつくから、いつも手入れを手伝っているんです。放っておくと風邪をひいてしまいますから」

 とたん、叶子がふて腐れた表情を作った。

「任務じゃないときに敬語はやめてよ。私たち、そんな仲じゃないでしょう?」
 叶子が鏡越しに言う。友達でしょ? というのもヤボなもの。友達はいちいちそんな言葉は口にしない。

 御殿は少しだけ黙り、そして返答する。

「――わかったわ。そうする」
「よろしい」
 世は満足じゃ。とでもいわんばかりに腕を組み、目を閉じて何度もうなずいている。

「傷のほうは大丈夫なの?」
 御殿の言葉を聞いたとたん、叶子が振り返り、すごんできた。
「大丈夫じゃないわよっ。この間からずっと、朝から晩までレバーとブルーンばっかり」
「あれだけ出血したのだから無理もないでしょう? 我慢しなきゃ。貧血には鉄分鉄分♪」
「華生と同じことをいうのね」

 ワガママなお姫様を相手にしているみたい。任務から逸脱するとこんな目にあう。けれど御殿はまんざらでもない。
 華生とそろって病食生活を送っているのは痛々しいが、体は資本、健康一番である。

 御殿がブラシで叶子の髪をとかしていると、胸元に心地よい感触が走ってくる。

 モミモミモミ……

「……あの、叶子さん?」
「叶子」
 誰もいない時は友達モード推奨、らしい。
「か、叶子、なにを?」

 モミモミモミモミモミモミ……

「本当におっきいわね。私……負けてるわ。女として男の子に負けるなんて、なんかショックだわ……」
 あろうことか御殿のふくよかな胸を鷲づかみにしながら、叶子は深刻そうに顔を青ざめさせた。うっすら縦線まで入っている。

 女の嫉妬だろうか、少しずつ力が入ってくるのは気のせいか。いつも狐姫にも同じことをやられてる気がする。両者ともに搾乳のごとく力を入れてくる。

「やっぱり男の子でも胸揉まれると気持ちいいのかしら?」
「ええ!?」
 御殿の声が引っくり返る――叶子様、それは返答に困ります。
「それだけ美人なんだから揉まれまくってるでしょ? 海外は進んでいるものね」
「揉まれてません」
「挨拶代わりにチュッチュチュッチュするんでしょ? 舌入れたり色んなもの入れたり――」
「入れません」
「あっちこっちに出したりするんでしょ?」
「出しません」
「経験ないの?」
「知りません」
 本当に知りません。

 少しムスッとする御殿。そっちのネタにはもちろん疎い。

 メス同士はオスを奪うために同性をケリ落とす習性がある。女の世界ではマウンティングなんてデフォルトだ。胸は女のセックスアピール、ナメてかかるとヤケドするぜ(時にはナメたり吸ったりするものですが)。

 知らず知らずのうちに女性陣を敵に回し、女同士の熾烈な戦いに巻き込まれている。
 御殿はそんなキャラだった。


物的証拠


 宗盛に呼び出された御殿は、皆よりも一足早く応接室にいた。

「九条様、本当は何かご存知なのではないですか?」
「ほほう。と、申しますと?」
 宗盛は相変わらずの笑顔。

 御殿は気にせず続ける。

「MAMIYAとシュベスタのつながりが見えた今、出入りしている人間も割り出されました」
 御殿は呼吸を整えた。
「ひょっとして今回の事件、はじめから鴨原氏をマークしていたのではないかと思いまして……」
「ふむ……」

 宗盛は髭を弄んで難しそうな顔をしながら考え込んだ。

「わたくし達が鴨原氏を誘い出すための囮ならば、それでもかまいません。ただ、あまりにも非効率的なやり方で物事が進んでゆくのを考えますと、解決すべきは意識不明事件以外にあるではないかと思いまして」
 宗盛は目を閉じ、しばらくだんまり。その後、静かに口を開いた。

「もし……、意識不明事件のすべてが解決したのなら、その時は咲羅真さまにお話したいと思います」

 おあずけ状態。苛立ちを隠すも、それを宗盛が見抜かないことはない。

「もどかしい気持ち、お察しいたします。ですが、こればかりはわたくしの独断でお話できる問題ではないのです。なにとぞご了承くださいませんか?」
 クライアントにそこまで言われたら、どうすることもできない。
「――わかりました。では、シュベスタから戻ったら、その時に教えてください」
 御殿が一礼すると、扉をノックする音。その後に多くの顔が入ってきた。


 一同が応接室に集合した。

 宗盛から呼び出しを受けたのは、つい先ほどのこと。鴨原サイドで何やら動きがあったらしい。

 宗盛はテープで元の形に戻されたツギハギだらけの書類を御殿に手渡した。
「これは、MAMIYAの研究報告書!?」
「左様でございます」
「エーテルポットの仕様書が何故ここに?」
「シュベスタのゴミ捨て場から愛宮の調査員が調達したものです。それはMAMIYAが特許をとったもの。本来、シュベスタにあること事態があってはならないのです」

 一度シュレッダーにかけられた用紙はバラバラに切断されていたものの、それら一枚一枚を一晩で修正したらしい。付着した指紋も鴨原のものと一致した。事件が明るみになる前に証拠処分したのが裏目に出たのだ。

 MAMIYAの研究がシュベスタに流れている物的証拠がここにある――。

「鴨原稔はこの報告書に目を通している。これで言い逃れはできないわね」
 睨みつけるように叶子は報告書を見つめ、それをテーブルに放り投げた。

 MAMIYAに出入りしているスパイがいることは揺ぎ無い事実だった。

「ですがお嬢様、鴨原稔は頭脳派。いくらでも言い逃れをしてくるでしょう」
「なら、もっと強い証拠があればいいのでしょう?」
「え、ええ。ですが――」

 強引な叶子の押しにひるんだ宗盛。いつの間にか、叶子は積極的な行動をとるようになっていた。子供の成長を目の当たりにしては、時間の流れを見直すのだ。俺も歳をとったのだ、と。

「叶ちゃん、強い証拠って何?」
「現行犯なら文句ないでしょ?」
「現場を押さえるってことか? シュベスタに殴りこみでもすんのか?」

 想夜と狐姫に問われた叶子がニヒルに微笑む。

「シュベスタにエーテル用バッテリーがあることは先の報告書で明白。あとは鴨原氏に証拠を突きつけるだけ」
 で、私たちの役目は終わり――叶子は御殿の前で手を広げて「お役御免」と促した。

 簡単に言ってのける叶子に御殿が反論。
「たしかに想夜からもらったカードキーを使えば、シュベスタに潜入することができる。もしもその作戦を実行するのなら、時間は限られている」

 彩乃が割って入る。
「たしかに御殿さんの言うとおりよ。こうしている今も、証拠は消されてゆく。計画を実行するのなら、すぐにでも準備しないと間に合わない」
 かつてはシュベスタにいた彩乃でさえ、簡単に出入りできる場所ではない。けれど、こんなときこそシュベスタ研究所の造りを知っている者の知識が必要なのだ。
「なるほど! 水無月先生ならシュベスタに詳しいな」
 狐姫がパチンと指をならした。

「シュベスタの実験施設は地下4階。そこから各フロアに社内ネットワークが伸びている。実験フロアには物理的な研究成果が設置されている。上の階からリモート操作できる仕組みよ。ただエーテルポットを停止するだけなら地下に行かなくてもいいけれど、破壊するなら地下まで下りないといけない。それと――」

 彩乃は躊躇したのち、話をすすめた。

「それと地下には他にも、研究員の宿泊施設や他のプロジェクトが進行している可能性もある。ヘタに入ってゆけば危険な生物と遭遇するかもしれないわ」
 狐姫がヘラヘラ笑った。
「危険な生物ならここにいるぜ?」

 そう言って想夜の脇腹を突っつく。

「やめてよ狐姫ちゃん、突っつかないでよぉ~」
 想夜、身をよじってイヤイヤをする。
「は? おまえ俺に変なことばっかしてくるじゃん。危険な生物まっさかりだろ!」
「危険じゃないよ。フツーだよ」
「おまえがフツーなら、世の中の人間はぜんいん聖人君子だぜ」

 想夜が苦笑する彩乃にすがりつく。

「彩乃さーん、聞きました? 狐姫ちゃんあんなこと言う子なんですよ? 狐姫ちゃんの金髪! 狐! 袴! 鮭の皮!」
「何だよ『金髪、狐、袴』って? それ悪口じゃねーだろ。あと、鮭の皮って食べ物だから」

 深刻な空気にドッと笑いが起こる。

 プンスカピーと激怒する想夜を、宗盛が「まあまあ」となだめた。
 若干、一同の肩の力が抜けて表情が和らいだ。

 宗盛が静かに口を開く。
「鴨原のことを知らないわけではありません。彼とは長年MAMIYAに貢献してきました」
 かつてはグラスを傾けたこともある仲だ。悪い結果には進ませたくはないと宗盛だって思う。
「後で個人的に話を聞く予定ですが、なにか分かり次第、皆さまにご連絡をさしあげます」

 作戦決行は今日明日にでも行いたいのが正直なところだが、いかんせん準備に時間がかかる。各方面から一気に折り畳みをかけないと鴨原に証拠をすべて持っていかれてしまう。

 慎重に。それでいて迅速に行動開始だ――。


御殿と叶子


 叶子に誘われた御殿は、叶子の寝室にきていた。

「魔水晶か……、厄介な物が存在していたものね」
 叶子が御殿と向き合う。いつになく真剣な眼差しを向けてくる。
「御殿、アナタにはたくさん助けてもらったわ」
「……仕事だから」
 御殿が目をそらす。

「うそ」と叶子に本音を指摘され、苦笑する御殿。任務の逸脱は友の証。
 けれども、和気藹々としている余裕はない。

「御殿、彩乃さんの依頼を受ける気?」
「ええ」
 御殿がうなずく。

 彩乃の依頼――魔水晶の破壊。

「なら、私も行く。メイヴは必ずシュベスタに現れるはず。彼女の持っている魔水晶を破壊しましょう」
「メイヴはわたし1人で――」

 反論しようとする御殿の唇に、叶子が人指し指を添えた。

「来るなって言っても着いて行くからね。私も、華生も」
 やる気満々の表情。ご令嬢は言い出したら聞かない。
「……わかった」
 叶子の望むような返事で返す。叶子の眼差しがそうさせた。
「魔水晶を破壊したら、すぐに撤退しましょう」
「もちろんそのつもり。そのあとは――」
「「みんなで楽しい食事」」

 ふふふっ。2人して顔を寄せ合い、笑った。

「私からもお願いする。クライアントとしてではなく友達としてのお願い。これが最後の依頼になることを願うわ。御殿、魔水晶を破壊してちょうだい」
「わかったわ」
「そして必ず、皆で無事に帰りましょう。じゃなきゃ、この愛宮叶子が許さないんだから――」

 MAMIYAの番犬、瞳の奥で焔が沸き起こる。
 次の任務は魔水晶をこの世から消し去ること。これがMAMIYAでの最後の任務となるだろう。魔水晶を破壊しMAMIYAの一件に終止符を打つのだ。

 御殿よ、人々の笑顔の数を増やせ!


本当のこと


 シュベスタ潜入の日時が決まった。
 明日の深夜22時。そこですべてが終わる。叶子はそう信じている。

 思えば華生が愛宮に来てからどのくらい経っただろう。叶子は妖精界のことを華生から聞かされ、興味がわいていたのも事実。
(大切なアナタが生まれ育った世界だもの。気にならないはずがないじゃない)

 華生は妖精界に戻りたいのだろうか――。

 華生の本当の気持ちが知りたい。いつも遠慮がちで自己主張も少ない華生のことをもっと知りたいと思うのは、叶子の本当のところだ。
 今回の事件が解決したら、妖精界は安全な場所に生まれ変わるのだろうか?
 フェアリーフォースは、平和のために生まれ変わるのだろうか?

 ――どちらも遠い世界に思えてならない。

 とはいえ、希望を胸に抱き続けることは忘れない。
 妖精界。いつか平和を取り戻した時に行ってみたいと叶子は思っている。華生が笑顔で元の世界に戻れる日が来ることを願っている。離れ離れになったとしても、やはり妖精は妖精界が似合うものだから。

 叶子はありったけの笑顔で華生と向き合う。
「華生、私にどこまでできるか分からないけれど、あなたが妖精界に戻れる日がくるように願っている」
 華生が叶子の胸に飛び込んだのはその時だ。
「華生?」

 ふわりと香る髪が揺れ、叶子の鼻腔を癒してくれる。

「離れるのは嫌です。わがままをお許しください」
「華生……」

 叶子は華生の肩に手を回し、いっそう近くに抱き寄せる――小刻みに震えるその体からは、叶子と同じように怒りと罪悪感が感じ取れた。

 華生が顔を上げる。涙でくしゃくしゃになりながら、叶子にしがみついてくる。
「わたくしは悔しいのです! 惨めで、無力で、お嬢様をお守りすることもできなくて――」
「なにを言っているの? 私はあなたと力を共有している。いつもあなたに守られているじゃない。ネイキッドブレイドは、私のお守りよ」
「叶子様――」

 叶子と華生は唇を合わせる。
 互いのやわらかな唇をむさぼるよう、互いの気持ちを、
 己の気持ちを確かめ合う――。

 華生は思うのだ。相手の優しさを独占したい。もっと、もっとと、欲に溺れることを拒絶しながらも、流れに逆らうことができない。それが罪なことと知っていても、やはり好きな人を求めてしまうもの。

 愛を持つ者は苦しみを持つもの。愛するという行為でさえ、なんらかの罪がついて回る。

 恋は盲目――。
 愛は背徳――。

「わたくしは独り占めしたい。あなたを、独り占めしたいのです……きっと、こういう感情は強欲なのでしょう。それでも、あなたのことが愛おしくて愛おしくてたまらない。あなたをビスケットのように小さくしてポケットに入れて持ち歩きたい、いつでも一緒にいたい」
「華生……」
「なんなら、わたくしが小さくなって、あなたのそばに寄り添っていたい。いつでも、どこにでも、連れて行って欲しい。ポケットに入れて、どこぞとなりへ……連れ出して欲しいと、そう、願うのです――」

 独り占めしたい。
 独り占めされたい――。

 特別でありたい。
 特別でいたい――。

 独占欲――。

 本音を抑えることは罪?
 本音をぶちまけることは罪?

 ガマンは正義?
 欲望は傲慢?

 喜怒哀楽を伴う生物だからこそ、神様にお願いしたいことがある――少しくらい欲を持っていてもいいでしょ? と。

 華生だって1人の女の子。聖人君子じゃないんだ。
 後ろから叶子にすがりつき、細い肩からブラウスをずらしながら、そこに唇をかよわせたい。シルクのような肌の上、己の唇で調べを演じたい。

 ずっとそばにいたい――それが華生の”本当”だ。

「華生、落ち着いて」
 華生の肩に手をかけて、いったん引き剥がす。少し呼吸が必要よと、華生の頬をつたう涙を指先で拭きとる。

「たしかに妖精界の問題で人間たちに影響がでている。けれど、それはあなたが背負うべき罰じゃないでしょう?」
「ぐすっ。申し訳ございません」
「謝らないで。あなたは私のそばから離れない。ずっと私を守っていて。安らぎを与えていて」
「はい、お嬢様」

 ずっと離れないで。
 ずっとそばにいて。
 妖精界に戻る、その時まで――それが叶子の”本当”だ。


本当のこと2


「実は……」
 想夜はフェアリーフォースに出向いた際、弁当をぶちまけてしまったことを御殿に打ち明けた。
 それを拾っては元に戻し、人間界に帰ってからほお張ったことも。
 ウソをついているのが辛かった。
 友達には本当のことを打ち明けたい。まっさらな心で向き合いたい。それが友に対する最高の礼儀だと思ったから。

 御殿の顔が一瞬に曇る。それらの事実を聞かされた途端、まるで雨が降り出しそうなくらいに曇った表情を作るのだ。

 それから想夜の頭を撫でては、胸元に手繰り寄せた。
「馬鹿ね。そういう時は無理しなくてもいいの」
「……御殿センパイ」
「そんなことがあったんじゃ、お弁当だって美味しくなかったでしょう?」
「……うん、ごめんなさい」
「別にあなたが悪いわけじゃないでしょう?」
 想夜は御殿の肩の上で泣き崩れ、そしてふたたび、
「うん……うん……」
 何度もうなずき、嗚咽をあげて泣きじゃくる。

 コンビニでは売ってないお弁当。
 一流シェフでも作れないお弁当。
 世界中、どこにも売ってないお弁当。
 そんな高級料理を前にしたら、食べたくないわけないじゃないか。

 また作ってあげる――言葉だけでは傷を埋められないと悟った御殿は、想夜の髪の毛をこれでもかと撫で始めた。あまりにも過剰に撫で続けるため、想夜の小さな頭がグリグリと揺れる。

 恥ずかしさのあまり、リボンをフリフリさせてはぎこちない笑みを作る。
「ふふっ、御殿センパイくすぐったい、やーめーてーっ」
「もっと?」
「……うん、もっと」
「えいっ」
 わしゃわしゃ。御殿は少々乱暴な美容師みたく妖精の髪で遊ぶ。
「セーンーパーイ、やーりーすーぎ~っ」
 けっこう楽しそう。言葉とは裏腹、想夜は過剰なスキンシップを望むのだ。

 じゃれ合う2人。
 けれど楽しい時間の中に一抹の思い。想夜の中で彩乃から聞かされた話が大きくなってゆく。

「御殿センパイ、あの……」

 いっそ打ち明けてスッキリしてしまおう。御殿センパイだって本当のことを知りたいはずだ――けれどそれは己の苦痛から逃げるための口実でもある。心に蓄えておくのが苦しいがため、他者へ苦痛を開放することで荷物を減らそうとしている気がしてならない。

 ハイブリッドハイヤースペクターという事実を知ったら、御殿はどんな感情を抱くのだろう? ディルファーの一部が体に宿っていると知ったら、どんな感情を抱くのだろう?

 伝えたいこと。けど伝えられないこと。胸の中で渦を巻く。このモヤモヤをどこへ放てばいいのか、若い想夜はうまく開放する術を知らない。

 結局のところ、そうやって言葉を胸にしまい込んでは閉塞感に浸るのだ。

「――いえ、なんでもありません」

「気になるでしょう? 教えなさい」
 御殿はうつむく想夜の頬を両手で包んで引き上げると、答えを促した。
「ひ、ひみふれふ(秘密です)」
 ぷにぷに。言いにくい。物理的に。よせられたほっぺが邪魔で。

「――そう」
 ならいいや。御殿は諦めて想夜の頬から両手の力を抜くも、スベスベの頬の感触が手に染み付いて、手放すのが惜しく思えた。

 互いに息がかかる距離。目と目が合う。

「……」
「……」

 2人見つめ合い、沈黙。
 息をのむ想夜。大好きな人の顔がすぐ目の前にある――それからのことは、どうすればいいのか分からない。行動に余裕がなくなっては頬を染め、目を泳がせ、そうしてまた、御殿の視線に合わせたくなって戻ってくる。

 雌雄同体の妖精はどちらもイケるクチだ。が、咲羅真御殿がオスならば、想夜は必然と孕む側に位置する。メスであるという自覚。そんなことを悟ってはお腹に手を添えた。


子宮おなかがね、痛むのよ――』



 彩乃の言葉が聞こえる。

 想夜の子宮おんなが咲羅真御殿を求めている。

 一つになりたい。この人と、一つに――。

 この人になら、身を委ねてもいい。すがりつくように魅了するヘタなあざとさが、おぼこの花魁のように初々しくもあり、みっともないメス犬のように、はしたなくもある。そうやって主人に尻尾を振っては媚びる姿だが、内心、そんな自分もいじらしいと想夜は思った。

 オスとメス。
ロクに交わる方法すら知らないクセに、いっぱしの濡れ場女優を演じたがるおませさん。
ただ一糸まとわぬ姿で抱き合えば子供が出来ると思い込んでいる、妖精の女の子。

 これから始まる地獄さえも、想像できない分際で――。


シュベスタの男


 はじめてエクソシストを招いた日――宗盛は御殿との待ち合わせに遅れをとったのを覚えているだろうか。そう、全社総会が長引いたという理由からだ。

 だが、本当の理由が目の前の男にある。

 この男が怪しいと判断した宗盛は、誰もいなくなった会議室でいくつかの質問を吹っかけたのだが、まんまとかわされてしまった。 あの時の直感は当たっていた。

 あれからいくつかの事件がキッカケで、宗盛はここにいる。

 ようやくここまでたどり着いた、と宗盛は日頃の温厚な顔を捨てて険しくさせる。

「――わざと吸集の儀式を作り、そこにお嬢様を向かわせたな? そうすることで”心優しい匿名者”としての信頼を得たわけか」

 鴨原が口元を歪ませた。

「叶子お嬢様のことか。ハハハッ、面白いように動いてくれたよ」
「華生の誘拐も自作自演だったというわけか?」
「言ってる意味がよくわからないが……まあ、恋する乙女は盲目だ、使えるものは何でも使うさ」
「しらばっくれても無駄だぞ」

 鴨原は叶子と華生の関係を知っていた。頻繁に屋敷に出入りする者として、偶然、裏庭で手を取り合う2人の姿を見たときに、「あの駒は使えるな」と勝機を確信したのだ。

 叶子と華生。同時に2つの駒を入手できたような優越感が鴨原を調子づかせた。愛宮のご令嬢が男を好きだろうが女を好きだろうが知ったことはない。使える駒には変わりないのだから。

「なぜ俺が吸集の儀式の場に居合わせたとわかった?」
 鴨原の質問を聞いた宗盛がニヤリと笑う。
「こちらも鼻の聞く番犬を飼っていてな。少々口は悪いが元気な子でね、これがまたよく動いてくれるんだ」

 狐姫は、叶子が破壊した吸集の儀式の場所で鴨原の体臭を嗅ぎ分けていた。けれど想夜が各地で破壊した場所からは鴨原の臭いがしなかったのだ。そんな理由から、叶子は誰かに誘導されているのではないかという結論に至った。

「あの小ギツネか」
 舌打ち。鴨原の脳裏、愛宮邸に出入りしていたエクソシストのかたわらを思い浮かべる。

「若い娘だから加齢臭には敏感なのだろう。お互い様だがな」
 お互い歳はとりたくないもんだ、宗盛は挑発めいた笑いのあとに、続けてこう言う。
「そのエクソシストさんの会社からメールの解析内容が届いた。IPやメールヘッダをうまく偽造したようだが、リークしたのは貴様の端末からだということも分かったよ」
「ご名答。メールの経路を追跡したのか。さすがMAMIYAだ。咲羅真御殿を消したがっている奴らが多いのでね。この辺で一掃しておこうと思ったのだが……ペットがおまけとしてついてくるとは、我ながらサービスのいい会社に依頼したもんだ」

 ミイラ取りがミイラになる。墓穴を掘った行動だ。

 研究所跡で、叶子が御殿を消そうとしたことは調査済みだ。
 叶子様に咲羅真御殿を消させるつもりだったのか。どこまでも自分の手を汚さない野郎だ――宗盛は腹の怒りを静めて表情に余裕を持たせて話を進める。

「鴨原稔とあろう者が、なぜ咲羅真御殿1人に躍起になるんだ?」
「それだけ奴の首に賞金がかかっているということだ。金は誰だって欲しいだろう?」

 ――鴨原の言葉はウソだ。宗盛は一瞬で見破る。

 咲羅真御殿はただのエクソシスト。いくらアングラを賑わせていようとも、多額の賞金がかけられている話など出回っていない。稀なくらいにまともな人種、だからこそ宗盛は今回の依頼を御殿に任せた。
 指名料も破格だった。なぜなら御殿は人を殺せない。御殿はヒットマンじゃない、退魔師だ。

 人を傷つけぬよう、殺めぬよう、宗盛は細かい配慮を考慮し、人選したつもりだ。結果、御殿は叶子に銃を向けるのを躊躇い、命を奪うことなどしなかった。
 それに安いからとか信頼ができそうだからとか、そういう理由だけで指名したのではない。宗盛の直感が御殿を呼び寄せた。成功者は直感を大事に扱うものだ。すべての直感には理由があることを鈴道から学んでいる。

「なあ鴨原、おまえとは長い付き合いだ。一緒にここまでMAMIYAを支えてきてくれたじゃないか」
「一緒に、だと? 九条、おまえ達は狂気の世界に生きている者たちを遠目に見ていただけじゃないのか?」

 鴨原は続ける。

「研究に研究を重ねて生み出した俺たちの産物を、おまえらは我が物顔で運用している。それどころか、足元が崩れ始めた途端に駒を切り捨てて高みの見物とは……、いいご身分になったものだな」
「鴨原、それは誤解だ。MAMIYAはおまえ達を弄んだりはしない」
「いや、それはおまえらMAMIYAの御託にすぎない。いい歳にもなって自分を正当化するのはやめたらどうだ?」
「正当化などしていない。俺も泥水を舐めてきた、そのことはおまえだって知っているだろう? どうだ鴨原、シュベスタが何を隠しているのか、ここでゲロしてくれないか?」

 宗盛は少々あつくなるも、構わずに続ける。

「なあ鴨原。スーツとネクタイの話を覚えているか?」

 昔の話だ――鴨原は青年時代に一つの疑問を抱いていた時期があった。学生時代にプログラマーのバイトをしていた彼は、なぜプログラムを書くのにスーツとネクタイを着用しなければいけないのかと疑問視していた。プログラムを書くだけなのだから、当然ジャージや私服でもいいではないか。
 それでも、会社はそれを認めなかった。
 周囲に聞いても「世の中、それが常識だから」と、てんで話しにならない。

 1+1がなぜ2なのか。その疑問に取り組む戦士こそ、自由意志を持った魂である。

 1+1は2、それがが当たり前。
 そんな答えしか打ち出せないヤツは、考えることを放棄しただだのボットである。それ即ち、人にあらず。決められたことしか答えられないマニュアル化された人形。エンジニアはそれを「ただのプログラム」と呼ぶ。

 スーツとネクタイで仕事する意味がわからん――。

 鴨原はいつも答えを求めていた。否定したいのではなく、納得のいく答えで論破されたかったのだ。
 納得のいく理由が欲しかった。

 そんな考えを面白がった鈴道が、鴨原に惹かれないわけがない。
 「アイツは面白い!」と、子供のようにはしゃぐ鈴道の姿を宗盛はよく覚えている。なにせ鴨原はMAMIYAに来た当初、アロハシャツに短パンで研究室にこもる社員だったのだから。すね毛丸出しの男を見ては、女性職員が「キモイ」だの「そこがいい」だのと言われ放題だった。

 妖精実験が明るみになった際、鴨原はシュベスタに身をおくことにした。
 そして出馬。
 当選の末、各研究機関へ顔を広めた。


「昔のことさ、忘れたさ。すべて――」
 宗盛の説得にも応じず、鴨原はそう吐き捨てる。懐に手を忍ばせた頃、今回の事件が大きく動き始める。

「九条、残念だと思うだろうが、お前の願いは聞き入れられない。人間如きの考えでは到底答えにはたどり着けない。進化が足りんのだよ、人間は」
 俺たちが取引しているのは妖精界であり魔界である。人間に恐れをなすほど、ぬるい世界にいた覚えはない。

「――!?」

 宗盛がカッと目を見開き咄嗟に身構えるが、一歩遅かった。

 パンッ!

 一発の銃声が響き、宗盛はその場に崩れ落ちた。

 火薬の匂いが充満した。それは強烈に宗盛の脳に浸透している。

「――鴨、原……無茶なマネを……お嬢様は番犬を引き連れて、必ず、おまえの元へ向かうだろう、鴨、原……もう、逃げられない、ぞ――」

 血の海に体を沈める宗盛の横に立つと、鴨原は意を決して端末を握る。暴走列車のよう、受話器越しに指令を送った。
「動かせるだけのフェアリーフォースをシュベスタに集結させろ。至急だ――」

 ここ数日の間に、妖精界はフェアリーフォースを人間界に送り込んでおり、戦闘準備に取りかかっていた。

 通信を切った後――
「おいぼれが、余計なマネを――!」

 ガッ!

 横たわる宗盛の体に怒り任せの蹴りを入れた。
「黙って、年金生活を、送っていれば、よかったものを――!」

 ガッ、ガッ!

「『ハイブリッド企画』を打ち出したのはシュベスタだ。いうなれば、俺たちはアイツ・・・の親ということになる」

 宗盛の横っ面を踏みつけ、ぐりぐりとつま先に力を入れた。

「娘ってのはパパの言うことを何でも聞くもんだろ? 世間ではそういうもんだ。もっとも、あの不良娘に分かるのかね? 言うことを聞かない娘。そもそもあの時、アイツには理解力すらなかった。いや、息子だったか? この際どっちでもいい。性別すら曖昧、『不良品』であることに変わりないんだからな」

 吸集の儀式を破壊するよう魔族にも金を握らせた。結果、研究所跡の儀式は破壊され、証拠は隠蔽されたハズだ。

 いつからだ? いつからズレが生じた?

 妖精界か?
 魔界か?
 どこで計算を間違えた?

 宗盛に銃口を向けた行動、妖精界をナメてかかった行動、金を渡した魔族すらも狐姫に逃がされた。それらが鴨原の計画にズレを生じさせた原因だった。少しのズレが積み重なった結果だった。

 一抹の思い。鴨原の視界の内側に答えはある。
 なにより、スーツとネクタイに身を委ねた時点で、鴨原は得体の知れぬ力に取り込まれていたのだ。

 そうやって鴨原は思い出すのだ。MAMIYAに入った頃は私服で勤務していたことを。力に視線が向いた頃にスーツに身を包んだことを。

 鴨原は天上を見上げる――俺はあの時、私服でプログラムを書きたかったのだ。スーツとネクタイは不要だったのだ、と。

 1+1のその先を、考えることを放棄した時点で答えは決まっていた。得体の知れない力に流されている時点で、そいつは意思のないボットだ。

 シュベスタの目論見に、異変が起き始めていた――。