10 想夜咆哮


 シュベスタ最上階。

 真っ白――。
 かつ、何もない空間。
 天上に並べられた照明が等間隔に明かりを落し、部屋を眩い白に変えている。

 想夜は広がるスペースの中央へ歩いてゆき、そこで足を止める。

 遂にたどり着いた。

 ――想夜とメイヴが向かい合う。

 遠巻きに何百ものフェアリーフォースが取り囲み、視線を向けて来る。雪車町想夜をいつでも射殺できるよう、みなガトリングザッパーを構えている。

 最初に口を開いたのは想夜だった。笑うでもなく、怒るでもなく、丁寧に手を差し出し、メイヴの体を陳腐な商品の紹介みたく煽るのだ。
「――素敵なお顔ですね。体もなんだか小さくなったみたい」
「お褒めに預かり光栄だ、ランクDのエーテルバランサー。 ……この体はダイエットした結果だ。どうだ? 可愛かろう?」
 メイヴはそう言って、10代前半の幼児体型を自慢げに見せ付けてくる。右のこめかみから目にかけて、相変わらず陶器のように砕けている。空洞となった顔面の一部の奥は闇が広がっていた。

 想夜がプッと吹き出した後、鋭い目をメイヴに向けて胸元を指差した。

「御殿センパイから聞きました。残念でしたね、魔水晶――」
 粉々に破壊された胸元の魔水晶はもうない。

 それを指摘され、メイヴの左こめかみがピクリとする。プライドを揺さぶられたことが癪に障ったのだ。
「……お気に入りだったんだがな。まあよい、貴様の友人が壊した礼は体でキッチリ払ってもらったぞ。咲羅真御殿、なかなかよい胸をしておった。今頃はシュベスタの地下通路で息絶えていることだろう」
 メイヴが掌を眺めてニヤリとする。「揉みごたえのある胸をしていた。死んだがな――」と。

 メイヴにならい、想夜もニヤリと返した。

「御殿センパイならピンピンしてますよ」
 想夜の挑発的な態度を目にした途端、メイヴは訝しげな表情をつくり眉を上げた。
「――ほう。興味深い話だ、聞いてやろう。教えろ」

 あれだけダメージを与えたというのに生きているのが不思議でならない。殺したはずだ、この手で、水無月彩乃と同様に――メイヴに焦りの色が見え隠れする。

 想夜は床を覗いては、「お目当ての咲羅真御殿は真下にいる。その目で確認してこい」と促し、メイヴを挑発する。
 メイヴは肩をすくめた。八卦の力が発動したと察したのだ。
「しぶといゴキブリだ。まあよい、咲羅真御殿もあとで殺しにゆく。所詮は安定性なき力。使いこなすまでには時間がかかるというもの。それまでには殺しておくよ」
 メイヴは平然をつらぬく。虫を踏みつぶす作業が一つ増えただけだ。

 キッと想夜が睨みを利かせた。
「御殿センパイには神様がついているもん」
 メイヴはため息をもらし、想夜を見据えた。
「人間が言うには、完全無欠の神はいないそうだぞ」
「え?」
「貴様は『ゲーテルの不完全性定理』を知っているか?」

 ゲーテルの不完全性定理――数学者ゲーテルが生み出した定理。この世で起ることには全て乱数が施されているという証明。数学者グレゴリー・チャイティンがプログラミングを用いて証明している。すなわち、起こる事すべてにランダム要素があるため、神ですら答えがわからない。答えが分からない者を完全無欠と呼べるのか? 否、それは完全ではない。すなわち、神がいたとしても、それは完全無欠ではない。という証明。いたとしても欠陥だらけの神というわけだ。

 これにより崩れるものはまだある。それが三段論法だ。

 ①人間は死ぬ。
 ②咲羅真御殿は人間である。
 ③よって咲羅真御殿は死ぬ。

 もしも先のことが決定されていないのだとしたら、最初の段階で「人間は死ぬかもしれないし、死なないかもしれない」という例えが成立する。
 これにより三段論法自体が成立しなくなるのだ。

「ゲーテルの証明が正しければ、これから起ること全てにおいて答えは確定していない。咲羅真御殿も死んでいないのかもしれない。が……おまえの肉体はどうかのう?」
 にやつくメイヴの手前、想夜が首をかしげた。
「肉、体?」

「そろそろ時間ではないのか? といっているのだよ、雪車町想夜――」

 今度は想夜が眉をひそめた。
「……どういう意味?」
 メイヴが奥の壁中央を陣取り、先ほどの揺れで横倒しになった柱の上に腰を下ろす。
「ゲーテルは定理をもって不確定要素を証明したが、世の中には確定していることもあるのではないか、とワタシは思うのだよ」
 頬杖をつき、終始たのしそうに想夜のことをジッと眺めはじめた。

「雪車町想夜。胸、痛むだろう? これは確定している事実だ」

 想夜に悪寒が走る――。

 メイヴは想夜の血の気が引いた顔を見ては、目論見が順調に進んでいるという合図を笑みに込めた。
「図星か。さて、ワタシはここで高みの見物とさせてもらうよ。ぜいぜい楽しませてくれ、可愛い小リスよ」
「……?」
 想夜がさらに首を傾げた。瞬間だった。

 ――「ぐうっ!?」

 想夜の胸に激痛が走る!
 先日メイヴに貫かれた胸のあたり。いままでのチクチクとは比べ物にならないほどに。心臓に獣が牙を立てて食らいついているようだ。
 その後、異様な出来事が起り始めた。

 グンッ!

 想夜の体が大きく仰け反る。

 「いったい何が起ってるんだ?」「いや、分からない」――周囲に散らばったフェアリーフォースは互いを見ては、その答えを求め続けた。しかし誰も返答することができないでいる。

「あ……ああっ……」

 ドクンッ……

 地震のような鼓動のあと、想夜の視界がぶれる! 2重に、3重に、景色の描かれた透明な板をすり合わせるように。
 続けて酷い耳鳴りが脳全体に揺さぶりをかけた。
「目が、視界が! ま、まさか……これって――」
 答えを求める想夜に、メイヴが即答した。

「ああそうだ。それこそが妖精界に伝わる禁じられた呪い『ゲッシュ』だ」

 メイヴは続ける。
「ピクシーとはいえ、クーフーリンの血をひく貴様には効果テキメンだろう? これが確定している未来だ。妖精界からすれば人間の打ち出した不完全性定理とやらも不完全なのだ。今さらながら遅いのだが、データをとっておきたいのでな。せいぜい呪いの感覚を味わえ、ごみバイト」
「今さら? 遅い? いったい何を言ってる……ゲッシュ……あの、ゲッシュ?」

 いくつもの意味不明な発言を整理している余裕もなく、想夜は呪いの名前だけを何度も繰り返す。しまいには恐怖で震えて泣き出しそうになった。

 愛宮邸で想夜の胸を手刀で貫いたとき、メイヴは呪いを埋め込んでいた。
 
 ――ゲッシュという呪いを知っているだろうか?
 ゲッシュは禁忌。してはならない行為。

 神話においてクーフーリンは犬の肉を食してはいけない、自分よりも身分の低い者からの食事の誘いを断らないとされるが、神話ではどちらの例もメイヴの策略により命を落とすとされている。

 ゲッシュを破れば呪われ、苦しみ、そして死ぬ。

 メイヴによって与えられた呪い、想夜はどのような禁忌を破ったのか?
 ――禁忌などない。
 禁忌なくして呪いを発動させるくらい、メイヴの手によれば造作もないこと。伊達にシュベスタで名を轟かせた女ではない。科学は常に先端を欲している。
 クーフーリンの血を引く想夜にとっては効果絶大の呪い。幻覚や幻聴に苛まれ、狂人となり、廃人となり、地面を這いつくばりながら、やがて命を終える。メイヴはその研究のほとんどを終えていた。

 禁忌を乗り越えた者には恩恵が待つとされるが、フェアリーフォースはどんな恩恵をくれたのだろう?
 それは『首輪』というご褒美に他ならない。

 そんな褒美はいらない。
 とはいえ、ゲッシュの呪いは容赦なく想夜を蝕んでゆくのだ。

 ――やがて想夜の全身を蝕み、少女は少女でなくなる。

 ――狂人か。
 はたまた廃人か――。

 どちらに転んでも、地獄の苦痛からは免れない。そんな博打が、これから始まる

 想夜はカチッカチッと音を立てては、決められた場所でしか関節を止められない人形のような動きを見せ、一歩、また一歩と、どこへ向かうでもなく、その場で身悶えはじめた。
 謎の動きを見せる想夜を周囲の者が目を見開いて観察していると、やがて人形の動きがピタリと止まった。

 沈黙。そして――

「ああ……」
 そして、ゲッシュの呪いは発動する。

「あ……あ……うああああああああああああああああああああああ!!」

 想夜の叫び声で、フェアリーフォース全員がビクリッと肩をふるわせ銃を構えた。

「あああああああああっ……あああああああああああああああああああ!!」

 想夜の体が床の上でひん曲がり、ついには釣られた魚のように跳ね上がって、その場に倒れこんだ。

「うっぐうっ、あああああああ!!」

 肋骨を一本一本引き抜かれるような激痛。脊髄を通る末梢神経を引き抜かれるような激痛、そこへ高圧電流を流されたような強烈なシビレがビリビリと想夜の全身を駆け抜けた。

 激痛を耐え抜くために息を止めてこらえた結果、血圧が急上昇し、今度は心臓が締め付けられる痛みに襲われる。
 血圧を鎮めるための呼吸法を使用すれば、今度は肺の中に電線を突っ込まれたような激痛が想夜の中に入ってくる。

「うああああああああああああああああああああああああああああああっ」

 開いた瞼から眼球が飛び出るような錯覚に襲われ、慌てて瞼の上に手を置こうとしたが、脊髄に走る電圧が想夜の体の自由を奪い、腕を上げるのも許してくれない。そのまま大きく後ろに仰け反っては、背骨がへし折られる感覚に襲われる。

 耳鳴り――。
 耳から大量の血液が溢れ出す錯覚に見舞われ、それが食道や鼻腔を詰まらせては、苦痛を肥大させてゆく。

 想夜の瞳が見る見るうちに深紅に染まる。

 開きっぱなしの口からヨダレを垂れ流して悶えた。
 歯茎に痛みが走る。
 歯を引き抜かれたようでもあり、逆にねじり込まれたようでもある。とにかく口の中が痛くて痛くて耐えれらない。
 口の中、硬いトゲの生えた巨大な毛虫が暴れているようで、それを懸命に吐き出そうと口に手を突っ込んでは、床に両膝をついてうずくまる。

 ――けれど、口の中には何もいない。

「あがっ、あがっ、がああああああああああああああああ!!」

 四つん這いになるも、全身の激痛が休むことを許さない。

 想夜はその場でのた打ち回った。

 肉が、骨が、少しずつ千切られてゆくようだ。

 目をカッと見開き、ヨダレを拭うこともできず、得体の知れない何者かに心臓を取られないために、両手で胸を死守するも、心臓が両手めがけて針を突き刺してくるような苦痛を与えてくるので慌てて手を引っ込める。

 手足が床に触れるだけで皮膚に痛みが走り、少しでも痛む部分を少なくするため、想夜は再び立ち上がる――立ち上がることを強要されているかのようだ。「倒れるな、ちゃんと両足で立て、その足で立って世界を見据えろ」――と。

 メイヴはにやにやと楽しそうに想夜を観察し、フェアリーフォースは状況がつかめないまま開口、微動だにしない。

「セン、パイ……御、殿、セン……痛い、よ……苦し、いよ……」

 泣きっ面で助けを呼ぶが誰も助けに来てくれない。この状況下、誰にも想夜を助けることなど出来ないのだ。
 やがて、泣き顔すら許さないほどに呻き声を上げて発狂し始めた。

「ああああああああああああああああああああああああああっっっ!!」

 火の色、
 血の色、
 視界が真っ赤に染まって見え、想夜はこの世の断末魔を見せられているように思えた。


 走馬灯――昔のことを思い出す。
 想夜が人間界に配属されたときのことだ。

 想夜の年齢で配属が決定するのは、珍しいことではない。まだ10代にも満たない妖精ですら、エリートならばエーテルバランサーとして配属されることがある。

 しかし、想夜は異例だった。

『ランクDの子が人間界に配属だって――』
『大丈夫なの?』
『いやいや、ダメでしょっ』
『うまく取り入ったんじゃない?』
『ロリコンうけする顔だもんね~』

 嫉妬とやっかみに晒されながら、想夜は聖色市にやってきた。「自分にやれるだけのことをやる、少しずつでいい、ちょっとずつでいい。そんな積み重ねが目的に到達する」。それが想夜の胸にかかげた信念だったから。

 当初、低ランカーのバランサーにも配属を行う制度が見当されていた。想夜はその一例だと囁かれていた。

 ――だが、真実は違う。

 低ランクへの嫉妬、やっかみ、妬み、嫉み――そんなものは真実の前に、いとも容易くひれふすものだ。

 今、真実を語ろう。

 想夜は……雪車町想夜は――ノーランク。つまりランクを所持していない妖精。低レベルどころか無免許のバランサーだ。

 人間界へ配属するためには、ランクの所持が義務づけられている。フェアリーフォースは想夜を人間界に配属させるためだけにランクDという称号を与え、エーテルバランサーとして教育し、人間界に送った。
 その理由は想夜の能力にある――入隊試験当日、想夜の力は数値が不安定で、政府にはそれがどういう力なのか分析できなかった。

 ひとつだけ、分かっていたことがある。

 クーフーリンの血を受け継ぐ想夜とゲッシュを融合させることで、未知なる力を一瞬だけ発動させることができるということ。それもたった一瞬だけ、だ。
 その中の一つに何者をも超越した能力強化がある。
 一瞬だけ驚異的な力を発動させることができる未知なる力。発動後、どのような結果になるのか。その詳細は誰も知らない。

 ――メイヴはそれが知りたいのだ。

 フェアリーフォースのねらいは、想夜を妖精兵器ディルファーにぶつけて相殺そうさいさせること。
 そのためだけの配属。

 想夜は言わば、ゲッシュを試すためのモルモット。
 一発の核弾頭。
 使い捨て。
 使えばそこでお役御免。
 ゴミとして捨てられ、忘れ去られる。

 それがどういうわけだろう。想夜は人間界で異常なまでの成長を遂げた。今ではランクDどころではない、おそらくそれ以上の戦士としてここにいる。

 強きものは簡単に消すことなどできない。返り討ちにあうことが約束されているからだ。

 想定外の成長――それがフェアリーフォースの誤算だった。

 想夜がなぜ強くなったのか?
 それは想夜の大好きな人たちを見ればわかること。
 友のために命をかける戦い。
 それは確かに存在しており、語るまでもない。

 先日の想夜の帰界で状況は一変した。

 人間界で力をつけた想夜を見て、お目付け役のメイヴは目的を決行する。
 そうして人間界に降臨し、想夜の体でゲッシュを試すことにした。
 待ちきれなかった。

 女王の心すら揺さぶりをかけるほど、想夜は成長していた。
 だがメイヴからしてみれば、これはデータ収集に必要なこと。

 この状況は、ただの遊びに過ぎない。
 なぜなら、想夜とゲッシュを融合させる計画を打ち出したのもメイヴなのだから。
 それはちょっとだけ時期が早まっただけのこと。

 政府に迷い込んだ子リス。
 想定外の力の持ち主の肉体で実験を試みることに、躊躇いはない。

 フェアリーフォースの数値分析は、メイヴと反対の答えを持っていた。
 「現在の想夜にはゲッシュに耐えることができない。強くなったとはいえ限度がある」――とのこと。

 メイヴは思う――だったら、それまでのこと。想定以下の数値を持ったゴミはいらない。

 先日、想夜をぶつけるはずのディルファーが存在していないことが知らされた。
 フェアリーフォースは人間界に調査部隊を送り込み、ディルファーの所在を調べた。
 ――けれど、なにも確認できなかった。
 
 地球上に、ディルファーはいなかったのだ。

 想夜の体にゲッシュを埋め込んだメイヴは、ひどく落胆した。が、データだけは欲しかった。それ以外は不要だ。

 相殺価値もなくなった。
 つまり想夜は……ここで呪われ、死ぬ。
 ここで政府に切り捨てられる。

 ノーランクバランサーがなぜ聖色市に配属されたのか?

 ただのバイト公務員が何故、ディルファーの研究施設があった街に配属されたのか?

 人間界の平和のために配属させた――なんてのも、ただの口実だ。

 フェアリーフォースの本来の目的は、人間界の平和じゃない。妖精界のさらなる進化のためなら、人間界は公園の砂場でしかない。適当に遊び、グチャグチャに引っかき回し、遊び飽きたらそこを去る――。

 人間のため。
 世界のため。
 想夜はそう聞かされながら訓練を受けてきた。
 けれどもそれは、人間界を制圧するためのエッセンスに過ぎない。

 妖精界の暴挙のための口実。
 たばかりの序曲――。

 妖精兵器はどこへいったのか?
 それを考えることは時間の無駄。
 ディルファーがいない以上、それに対抗する駒はもういらないのだから。
 
 だからもう、核弾頭の雪車町想夜は……不要なのだ。
 
 不要なゴミは処分される。
 フェアリーフォースにとって雪車町想夜は……ただの廃棄物となった。

 はじめから期待などされていない。
 ただのモルモット。
 データを収集されるだけのモルモット。

「ああああああああああああああああああああああああっ!!」
 想夜はもがき苦しむ。

 体が痛いのか?
 心が痛いのか?
 流す涙を以ってして、何を訴えたいのだ?

 ――答えは誰にもわからない。

 答えはいつだって想夜の中にある――。

「うぅ、うっ、ぐ……」
 薄れゆく意識のなか、一筋の光が見えた……気がした。
 以前、御殿に聞かされたバケツのネズミの話が脳裏をよぎる。

 楽しかった日常は、誰がために用意されたものなのだろう?

 みんなで美味しいものを食べた。
 みんなに街を、校内を案内した。
 みんなで戦った。

 それらが全て無意味だというのなら、生まれた意味も無意味じゃないか。

 無意味に意味などあるのだろうか?

 この苦痛も無意味なものならば、苦痛から開放されてもいいではないか。
 だって意味の無いものなのだから。
 捨て駒バランサーと同じく、意味の無いものなのだから。

 ――想夜は思う。どうして苦痛は存在するのだろう?

 あたしに存在理由が無いならば、苦痛など無くてもいいではないか。
 あたしの存在理由と同じように、もう、無くてもいいではないか。

 ――あたしは、世界に必要なの?

 自分の代わりはいくらでもいて、その人たちで穴埋めができるというのなら、あたしはいなくてもいいだろう。
 あたしじゃなくても……いいだろう。
 想夜の心を灰色の世界が支配してゆく――。


 心臓の鼓動に終わりを告げよう――嗚咽をあげた想夜が静かに目を閉じた、その時だ。

 ――ひかり。

 小さいけれど、それは確かにそこにある。小さいけれど、想夜に語りかけてくる――。
 
 生きているか?

 ――まだ、生きている。

 聞こえるか?

 ――まだ、聞こえる。
 
 声が次第に、はっきりと聞き取れるようになる。
 想夜は声の主に気づく。

 誰もがつながっている偉大なる魂――ハイヤーセルフだ。

 想夜は己の中の『想夜』に耳を傾けた。心の奥底で響きあう、もう一つの本当のあたし。
 
 人の痛みが知りたいだなんて、傲慢な考えだ。
 手足を引き千切られ、五感をすべて絶たれ、心臓をえぐり取られても尚、君は笑っていられるか?

 人の痛みが知りたいならば、それ以上の痛みを受け入れる覚悟が必要だ。
 それが人の痛みというもの。

 経験したものにしか分からない苦痛。
 経験なき者が語る答えは全て、偽善からくる虚言だ。

 耳を傾けるべきものは虚言ではない。己自身のなかに宿る苦痛と至福。

 それを分かち合いたいというのなら、より多くの痛みを経験することだ。より多くの喜びを経験することだ。
 それが相手の心に近づくということ。
 近づくことは、相手の闇の部分を許せるということ。

 生まれてきた理由を思い出せ。
 思い出せなくとも探求をやめるな。

 自分の役割りを思い出せ。
 君の代役などいるわけがない。

 命を生み出す存在は、意味無き存在を作るような非効率的なものなど作成しない。

 無意味の意味を考えるのは時間の無駄だ。それこそが無意味だ。

 意味無き苦痛は存在しない。
 例えば今、君が困難な状況にあったとしても、それは必ず意味を持する。

 意味無き苦痛は存在しない。
 例えば今、君が死にたいほどの苦痛に晒されていようとも、それはやがて実を結ぶ肥しとなるだろう。やがて未来の力となるだろう。

 苦痛に耐える君よ――今はその痛みの意味がわからないだろう。けれど、やがて痛みは君の味方となる。

 君よ――力に抗う君よ。
 痛みに抗う君よ。

 どうか痛みを恐れないでほしい。石を投げられることを恐れないでほしい。
 君は何者よりも気高き存在とし、女神がこの地に芽生えさせた子なのだから。

 女神が君に痛みを与えた。
 苦痛を与えた。
 肥しを与えた。

 今を乗り越えろ。

 そうやって君は、他の何かへと生まれ変わる。蛹が蝶に生まれ変わるように、いとも容易く、目の前の壁を越える力を手にするだろう。壁を壊す力を手にするだろう。

 『不可能』は君が決めるところの、もっとも誤った答えだ。

 『できない』は君が決めるところの、もっとも誤った答えだ。

 君の前では全ての『不可能』が『可能』となる。
 『不可能』という思い込みは、ゴミ箱にでも捨てておけ。

 君の前に超えられない壁は存在しない。破壊できない壁は存在しない。
 女神がそれを保障する。君はゆける、と。
 なぜなら壁の向こうに君を待つものがいるからだ。

 君は『それ』を求めている。
 『それ』も君を求めている。
 『それ』に名前をつけよう。『未来』という名前を。

 君は未来に愛されている。
 君も未来を愛している。

 過去は未来を束縛できない。
 過去は未来に打ち勝てない。

 過去は君を束縛できない。
 過去は今の君に打ち勝てない。

 過ぎ去りし過去に力はない。
 君を縛る力はない。

 手を伸ばす価値があるもの、それはいつだって未来に用意されている。

 未来が手招きするほうへ――君よ、その歩みを止めること無かれ。

 光のさすほうへ――
 ただただ、光のさすほうへ――。

 想夜は盲目の戦士のよう、千鳥足で弱々しく、両手でまさぐるように歩みはじめ、光のほうへと体を傾けながら進んでいった。
 そうして呟くのだ。

「過去は……未来を束縛できない――」と。
「痛みは……未来を束縛できない――」と。

 抱えた痛みは過去であり、未来の肥しとなる。

 モルモットだから何だと言うのか?
 用済みだから何だというのか?

 答えは君が決めればいい。
 気に入った答えを作ればいい。
 決定権は、いつだって君にある。


 ――さあ、もう立てるでしょう?

 立ちなさい。
 立つの。
 立って歩くの、自分の足で。付いているのでしょう?

 不安ならば、祈りの言葉を捧げなさい。ひとりじゃないことが分かるから。
 いつも、どこででも、私たちが見守っていることを感じられるから。

 大丈夫。君はもう、立てるのだから――。
 
 いくつもの魂が語りかけてくる。
 いくつもの魂が君のことを想っている。
 何も恐れるな。

 ハイヤーセルフは、いつだって君の味方だから――。


藍鬼あおおに 想夜


 突然の光。

 藍色の光。

 スパークした空間に目をやられないよう、その場にいた全員が目を伏せた。

 なにかの唸り声が聞こえる。狂犬のような、野獣のような、そんな唸り声――。

 粘りつくような黒に染まりし青いオーロラに包まれ、その中から1人の少女が現れた。

 少女はオーロラを背に、ゆっくりと立ち上がり瞼を開く――。

 空色の瞳は野獣のように鋭く、ゆらゆらと不気味に揺れるテールランプのよう。
 ギリリと歯を噛みしめた口元は片方に引きあがり、表情は敵を威嚇する獣。まるで悪魔だ。
 アゴを引き上げ、周囲の敵をクソでも見下すように睨み付けてくる姿は、地獄の青鬼と何ら違いはなかった。

 豆を投げつけても、石を投げつけても、一歩として退くことのない脅威が迫り来る。
 純粋無垢な青に終わりを告げる。

 黒き青。
 闇を抱きしダークブルー――それこそが藍色。

 藍色の鬼、藍鬼あおおに

 妖精は――雪車町想夜は……鬼になった。
 
 
 一瞬の地獄が始まる――血の宴。たった数秒間の地獄の宴。

 藍色の悪魔を前に、フェアリーフォース全員がポカンと口を開き、一歩、二歩と後ずさる。
 後退する場所がなくなると、他の隊員を押しのけ、さらに後ずさる。

 刹那瞬――。

 かつては妖精だった藍鬼が羽を広げ、フェアリーフォースの何人かに飛び掛り、問答無用でその首筋に喰らいついた!

「ギャルルルルルルッ!!!!!」

 藍鬼はフライドチキンをむさぼるように牙を立て、首筋の肉を引きちぎっては、食べ飽きたかのように別の妖精の首筋に飛び掛り、そしてまた別の妖精の首筋へと喰らいつく。

「ひいいいいいいいいいっ」
「きゃあああああああああああ!!!!」

 ブシャアアアアア!!!!!

 首筋を食いちぎられた隊員が血しぶきを手で押さえながら2歩3歩、大きく後退した。自分の動脈からリズムを奏でる噴水のように飛び散る血を見ては死を予感し、恐怖で体が震え、その場に倒れてのた打ち回る。

 あたりに無数の悲鳴が響き渡ると、四方八方、蜘蛛の子を散らしたかのようにフェアリーフォースの群れが逃げ惑う。

 動脈を食いちぎられても尚、息がある妖精たち――彼女たちの体がピクリ、またピクリと床の上で痙攣している。

 さぞや痛いだろう。
 エーテル豊富な妖精界に戻れば助かるかもしれない。が、生きてここを出られるのだろうか?

 その場にいた全員が恐怖し、悲鳴をあげ、失禁するものさえ出る状況下。

 その終始が藍鬼の瞳にはスローモーションのかかった映画のように見えていた。
 どんなに素早い妖精であったとしても、今の藍鬼には芋虫にしか見えない。
 藍鬼が一歩動くだけで、遠く離れた芋虫たちに容易く追いつく。
 藍鬼は隊員たちの背後に忍びより、伸ばした手で後ろ髪を掴んでは手繰り寄せ、牙の餌食にした。

 『妖精は美しく、心優しい――』

 くだらない妄想――最初に言った人は誰だろう?

 溢れ出る本能に身をまかせ、我を忘れたその姿は、地獄の悪魔よりもずっと残忍で極まりない。

 とくに酷い怒りを見せる時がある――それは謀られた時だ。

 妖精も同種を騙し、利用する。

 ああ、分かっている。悪いのは妖精だ。いつだってそうだ。力は戦争を生み出すものだから。兵器を生み出すものだから。
 悪事利用されたと知った時の妖精の狂いっぷり。それは正気の沙汰ではない。

 同種であっても首筋を噛み千切り、はらわたを引きずり出し、それらをむしゃぶりつくす――妖精の逆鱗にふれると、そんな宴がひらかれる。それを目の当たりにした者たちは、今、知ったのだ。

 皆、理解したのだ――地獄絵図を描くか描かないか。それは自分たち次第であるということを。

 ただひとつ。惨状が起こってしまった今だから言えることがある。
 それは……


雪車町想夜を怒らせなければ……
こんな地獄は生まれなかったんだ――



 メイヴは仰け反り、歓喜の声を上げる。
「雪車町想夜! 実に素晴らしい! 実に見事だ!」
 大げさに両手を広げて天を仰ぐ――想夜の魅惑の変貌、それを祝福している。全知全能の神を崇めるかのように。

 周囲にはフェアリーフォースの残骸が無数に転がっている。
 皆、息はある。
 助かるかもしれないが、確率は……今のところ無い。

「ハレルヤ! 女神に感謝しようぞ! この時を! この瞬間を! 雪車町想夜! 美しい! 実に美しいぞ! そして誰よりも、何よりも不気味だ! 群れを成すことしかできない無能な暴魔よりも! ハイエナのようなMAMIYAのクズ達よりも! 蛆虫以下のシュベスタよりも! そしてなにより、出来損ないの廃棄物――咲羅真御殿より……」

 ズドンッ!!

「……っも、な!!」

 メイヴが喋り終える前に、その体に重い衝撃がはしる。
「…………」
 ――女王と呼ばれる女の体が、大きく、グラリと揺れた。

「……」
「……」
「……」
「……」
「……」

 ――沈黙。あたりがシンと静まり返り、皆の動きが止まった。

 たった一撃。
 たった一瞬の出来事だった――藍鬼のワイズナーがメイヴの胸を貫いたのは。
 背筋を伸ばし、半身の姿勢で構えた藍鬼が、重量のあるワイズナーを片手で軽々と使いこなしてた。

 先日の愛宮邸での出来事を覚えているだろうか。
 ――そう、パーティーの夜の出来事だ。
 あの時、メイヴの手刀により想夜はゲッシュを埋め込まれ、呪いを受けた。その光景が真逆の結果を生むかのように、こうして現状を築いている。

 メイヴは視線を下げた。
 胸に刺さった鬼の刃を、つまらなさそうに見つめ続け、ふたたび鬼の形相を拝むがために顔をゆっくりと上げた。

 ――そこには、醜くひしゃげた鬼の顔。

「ふふ、期待以上……いや、期待などしていなかった。想定外といったところか。ワタシはここまで変われとは言っていないが? 雪車町……想、夜――」

 雪車町想夜? ――いや、今は藍鬼と呼ぼう。藍鬼は道端に転がっている犬のクソを見るように女王を見下し、吐き捨てるようゆっくりと口を開いた。

 重低音――ドス黒く、こもった若い女の声が建物全体に響きわたり、周囲の鼓膜に揺さぶりをかけては、ふたたび恐怖のどん底に突き落とす。
 
「Hug,bean lag……bhuail ar ais, díoltas. Déan teagmháil iascaireachta-Ná fháil anois. Teagasc an focal ar. Is é seo an teagasc. pá san uair……Plus Með tímanum――」
 ――おい、そこのゴミ……お返しだ、先日のな。釣りはいらない……時給にでも上乗せしておけ――。

「Is é mo ainm souya sorimachi. mo ainm, ná déan dearmad――」
 ――我の名は雪車町想夜。この名を、その魂に刻んでおけ――。
 
 そう言い残すと、藍鬼はメイヴの胸に刺さったワイズナーを乱暴に引き抜く。同時にメイヴの体をその辺に放り投げた。空き缶を捨てるように、ただ、ポイッと――。

 ブシャアアアアアアアアアアアッ……

 メイヴの胸元、噴水のように舞い上がる飛沫しぶき
 綺麗な赤。
 タールのように黒く醜く染まった赤。
 矛盾した色合いの返り血を、藍鬼は無表情のまま全身に浴び続けた。

 藍鬼はワイズナーにこびり付いたメイヴの血を、ヘドロを払うよう横に振りかざして拭いきる。

 ビチャッ。

 床を、壁を、メイヴの血液が彩ると同時に、藍鬼はワイズナーを背中のホルダーに収めた。
「不完全性定理、か。これは確定していたことなのか? 確定していなかったことなのか――これが、核弾頭の正体、か。ふふ、ふふふふふ……」

 感無量といったところか。メイヴの力なき笑い声。振り絞るような笑い声。片膝をつき、力を込め、足の裏を床につけ、両膝を伸ばし、やっとの思いで直立。

「立つことがこんなにも大変な作業とはな。苦痛を経験した者こそが、その至福を知ることが、できる……」

 立ったまではいいが、足元がおぼつかない――よろめき、滝のように吹き上がる血を少しでも止めようと、胸に手を当て、メイヴは後ずさる。

「血か……なかなかよいものだ、嗚呼……暖かいではないか。これはこれで、心地よい――」

 己の鮮血を手で拭いとり、真っ赤に染まった掌をまじまじと見入る。思ったよりも鮮やかに輝いていたのだろう、メイヴは血の温もりにまどろみを覚えている。

「ここで死ぬ――それもよかろう。我がブドウ酒は極上品。人間界で酔いつぶれて消える。それもまた美」

 酔っ払いの女は品が無い?
 ならば品のある酔いどれ女を演じようではないか。
 世界の常識を塗り替えるのだ。このブドウ酒で。

 酔う女、じっと手を見る。
 ただじっと、手を見る――。
 赤い手。
 ブドウ酒で穢れた綺麗な手。
 矛盾な言葉も酒のあて、おつな物だ。
 神もなかなか味なことをしてくれるではないか。

 メイヴの意識が薄れ、やがてガクンと膝を着いた。その時だ。
(ん? ――なんだ?)
 異変を感じたメイヴが耳を澄ます。

 ――遥か上空に大きな力を感じる。

(フェアリーフォースめ。余計なマネを)
 どいつもこいつも、邪魔者ばかり。だが、障害物は叩き潰すとスッキリするもの。メイヴはそれが大好きだ。

 今回は引き下がることとする――メイヴがニヤリと笑う。

「ふふふ……。雪車町想夜、いいことを教えてやろう」
「……」
 亡霊のように突っ立ったまま、藍鬼は黙って聞き入る。

 メイヴは遥か頭上を指差した。

「もうすぐ、ここへフェアリーフォースの戦艦がやってくる。この街の上空だ。戦艦には我が軍が乗り込んでいる。咲羅真御殿……水無月彩乃……MAMIYA……シュベスタ、それらに関係ある全ての者を消しに来る。危険因子を排除するのが我々の役目だからな。それはエーテルバランサーの貴様が一番理解しているだろう? 雪車町想夜」
「……」
 微動だにしない藍鬼を前に、メイヴは人差し指を立てる。
「一つだけ忠告しておいてやろう」
「……」

 無言の藍鬼。

 メイヴは構わず、動かぬ人形に語りかける少女のよう、一方的に言葉を発する。
「貴様のゲッシュは終わらない。たった今、始まったばかりだ。呪いは貴様の体を徐々に蝕んでゆく。副作用というやつだ。どこまで耐えられるか、見せておくれ……」

 聞こえているのか?
 理解できているのか?
 藍鬼は寡黙を貫いた。

「楽しかったよ雪車町想夜。いい土産話ができた……ディアナにも伝えておいてやろう。『雪車町想夜は、それはそれは醜い鬼になりましたとさ、めでたしめでたし――』とな。ありがたく思え醜女しこめよ」

 突如、上空から1人のエーテルバランサーが降ってきた。京極麗蘭だ。
 麗蘭は無言のまま藍鬼を一瞥したのち、メイヴの体を両手で包み込む。
 ――と同時に、2人の姿が黒いカーテンに覆われ、闇に溶け込んでゆく。
「本日のお遊戯はこれで終いだ。やることは、まだあるからな……これから忙しくなる」
 メイヴはそういい残し、麗蘭とともに姿を消した。


 殺し損ねたのか。生かされたのか。そこにメイヴの姿はもうない。

 藍鬼は思う――この衝動、この怒り、この叫び……どこかにぶつけなければいいの? と。でなければ、藍鬼自身、想夜自身が壊れてしまう。力を解放しなければ、有り余る力で自分が破壊されてしまう。そのことを藍鬼は分かっていた。想夜には分かっていた。

 想夜は少しずつ正気を取り戻しつつある。
 それでも想夜の中の藍鬼は狂ったように暴れ続けている。想夜はそれを抑えるのに必死だった。

 どこまで抵抗できるだろうか?
 ここからは想夜と藍鬼との戦いだ。
 想夜は藍鬼を、ゲッシュの暴走を止めなければならない。

 周囲には残されたフェアリーフォースがまばらにいる。皆、想夜のことを頭のイカれた殺人鬼でも見るかのように怯えては遠ざかってゆく。

 白い目の弾幕。
 汚物に向けられる嫌悪のまなざし。
 関りたくない者に向られる拒絶のまなざし。
 気が狂った者に向けられる軽蔑のまなざし。
 ――藍鬼想夜はひとり、それらを全身に浴びていた。

 藍鬼想夜の目の前に1人のバランサーがいる。
 新米のバランサー。
 どこかで会ったことがあるバランサーだ。
「ご、ごめごめ、ごめ――」
 ごめんなさい! 許して!
 足がすくみ、涙を流し、鼻水を、ヨダレを垂らしながら、何かを喋ろうとしているが恐怖でロレツが回っていない。それも当然、これから殺される予定なのだから。

 藍鬼想夜の精神ではこんなことが起っていた――暴れる藍鬼にへばりつく想夜。
 藍鬼は、足元にまとわりつく想夜の髪の毛を鷲づかみにして放り投げた。
 それでも想夜は這いつくばって、藍鬼の足にしがみ付いては動きを封じた。

(あたしの体……返せ!)

 藍鬼の中で想夜がしがみ付くたび、その体が重くなる。
 藍鬼想夜は重い体を引きずり、目の前のバランサーの首を片手で握ると、グググ……と容易く持ち上げ、遠くの壁に叩きつけた。

 ドンッ!

「グェ!」
 壁にめり込んだバランサーは肩の骨が砕け、一瞬で気絶してしまった。

(なんてことを!)

 想夜の精神が藍鬼のワイズナーを抱えて押さえ込んだ。
 一瞬だけ藍鬼の動きが止まる。

(みんなが逃げる時間を稼げそうだわ!)
 藍鬼の中、想夜の意思がそう言った。

 残忍な光景を目にした途端、フェアリーフォースの隊員は我先に逃げ出し、バラバラに散ってゆく。

 新人、新米バランサーなどお構いなし、助けることなく取り残してゆく。下っ端バランサーなど、歯車の潤滑油のようなもの。使いきって、それでおしまい。あとは用済み。それが組織だ。

 取り残された若きバランサーは、想夜の見たことある顔ばかりだった。目の前で土下座して命乞いをしている奴なんて、先日、想夜の弁当を台無しにした連中の1人じゃないか。

 『あたしのために作ってくれたお弁当だったのに』――今の想夜にそんな思考が働いているのかは不明だ。なぜなら、想夜は藍鬼になっているのだから。鬼に思考が存在するかどうかなんて、知っている奴はここにいるのだろうか?

 ――それがいるのだ。ここに。
 藍鬼の中に、雪車町想夜という心優しき少女が――。

「すみませんごめんなさい! お弁当は弁償しますから――」
(許す! 許すよ! 許すから! 早くココから逃げて!)
 想夜の意思に反し、藍鬼想夜は土下座している少女の横っ腹を思い切り蹴り上げた!

 ドゥ!

 土下座していた少女の体がサッカーボールのように吹っ飛んでいった。悲鳴をあげる間もない一瞬の出来事。
(なんてことを――)
 想夜の精神は、見るに耐え難い光景を前にして顔を覆った。

 ――すすり泣く声が聞こえる。

 まだ誰か残っていたのか。
 藍鬼想夜はゾンビのようにユラリと振り返ると、逃げ遅れたバランサーをボ~っと見つめる。

「……! ……!!」

 バランサーの少女が泣きながら何かを叫んでいる。藍鬼想夜に向かって何かを叫んでいる。

 藍鬼想夜には上手く聞き取れなかったが、耳を澄まして聞いてみると、いろんな言葉が耳に飛び込んでくる。
 次第に焦点が定まってゆき、かつての同僚だということが理解できた。

 ランクDのエーテルバランサー。想夜と同期に入隊をした、ざんばらの髪の少女。現在は麗蘭のチームに所属していたはずだ。

 ざんばらが想夜に向かって叫んでくる。
「想夜! あんたは強いからわからないんだ! 人の気持ちなんてわからないんだ!」

 この子は何を言っているのだろう? そう感じたとき、想夜自身に思考が戻ってきた。それを想夜はハッキリと自覚する。

 最後に少女は一気に声を振り絞った。
「アンタ昔から言ってたよね!? 人の痛みが分かりたいとか偉そうなこと言っちゃってさ! そんなのただの傲慢な考えでしょう!? だって本人にしか痛みも喜びもわからないもの!」

 本人でなければ味わえない苦悩と喜び。世界中の一人一人がそれを抱えている。

 その人にしか味わえない感情。
 たった一つの宝物。
 誰にもあげられない。
 代わりはいない。
 あげたくても与えることが出来ず、捨てたくても捨てられない。
 分け合いたくても受け取ってもらえない。

 けれどもね、今の想夜なら痛感できる。

 ゲッシュが発動した瞬間、想夜は無数の痛みに襲われた。が、それらは世界中の痛みに比べたらほんの些細な痛み。

 人の物語は、本人しか歩むことができないのだ。それこそが物語の主人公たる所以。
 世界中、ひとりひとりの役どころ。ひとりひとりが主人公。代役など必要ない。演じられるのは……本人だけだ。

 想夜には巨大な力に抗う気持ちがあるだろう。
 だが多くの戦士には、それがない。皆バイオパワーに取り込まれている。

 バイオパワーとは、「自分は監視されている」という思い込みから、勝手に振舞うことができない心理状態を作り上げる。妄想的監視思考――人間界の哲学者、ミシェル・フーコーは、それをバイオパワーと名づけた。

 先ほどの牢獄の妖精たちが、まさにそれである。

 常に監視されていると思い込ませ、任務のために忠実に行動を起こすための洗脳兵士を作り出す。
 暗黙の了解のもと、右へならえを構築し、それ以外を排除するという思考が動くように洗脳する。
 そうやってフェアリーフォースは絶対的な立場を構築してきた。

 誰から見ても、想夜は強い子だった。
 ひとりで立ち向かう勇気を持った子。

 まわりはそれが気に入らない。
 「自分たちはガマンしているのに何でお前だけ――」という気持ちから淘汰が生まれる。

 周囲の妖精たちにとって、想夜の行動ひとつひとつは刺激が強すぎたのだ。恐くて着いて行けないのだ。
 それは戦う準備ができていない状態で、戦場に放り出されるようなものだ。即ち、一緒に村八分にされる意味合いを持つ。死の意味合いを持つ。想夜に出来ることが周りの戦士にできると思ったら大間違いだ。

 ――だからなんだと言うのだ?
 大勢で声を張り上げればいいじゃないか。力を合わせて立ち向かえば、大きな力をねじ伏せることだって容易だろう?
 オマエらの得意技じゃないか。

 群れをなさなきゃ何もできないクセに、権力には屈するその貧弱さは、見ていてヘドがでる――藍鬼の思考が叫んでいる。

 それに答えるように、ざんばらが言う。

「みんな分かってるけど怖いんだよ! 失いたくないんだよ! 戦いたくても力がないんだよ! 仲間はずれは怖いんだよ! 逆らえないんだよ! 得体の知れない変な力に押さえつけられているみたいに心が言うことを聞いてくれないんだ! アンタとは違うんだよ!」

 その言葉が想夜の心を呼び戻してくれる。

 鬼に逆らいながら、必死にすがりつく無力なエーテルバランサー。

 怖くは無いのか?
 鬼に立ち向かうことに恐怖しないのか?

 ざんばらのやっていることは、藍鬼の中の想夜と同じ行動だ。
 命をかえりみずに立ち向かう想夜が具現化した者。それが目の前にいる。

 人有りき――人は人を通して己を見ることができる。それが投影、他者という名の鏡。

 藍鬼の動きがピタリと止まる。

 藍鬼は思考する――なんだ、ただの臆病者の言い訳じゃないか。そんな連中はバイオパワーに食い殺されればいい。

 ――けれど、と鬼の中の少女は思う。

 政府に立ち向かう準備ができているのは、洗脳が解除されている者のみ。
 フェアリーフォースのほとんどの戦士は自分で考えて行動する意思が欠落しており、洗脳から解除される準備すらできていない。飼いならされた日常に甘んじている。
 言われた通りに行動するほうが楽だから。大きな勢力に異見する力もないのだから。
 そしてなにより、……とどまる事が安全なのだ。

 安全から切り離される覚悟がある者以外には刺激が強すぎる世界。孤独感、孤立感、疎外感、罪悪感。やがて訪れる思考停止の閉塞感――想夜はいろんな気持ちを想像してみた。

(あたしがもっと臆病者だったら、みんなの気持ちに寄り添えたのかな? もっと仲良くできたのかな?)

 他者の痛みなど完全に理解できるわけがない。喜びも同様だ。
 けれど、想いを馳せれば見えてくるものがある。
 ちょっとした想像力が作り出す他者の世界。それが『想う』という世界。

 心を一つに、なんて言葉はただの欺瞞ぎまんであり、偽善者のたわごとだ。
 心と心は同じにはならない。

 けれど、相手の心に少しでも近づきたいという気持ちや行動は偽善のそれとは全く違う。どこかで必ず『相手を想う』というかたちとなり、世界に芽吹くはずだ。
 相手の弱い部分を、暖かい眼差しで許せるはずだ。

 皆が皆、孤高の戦士のように強いわけじゃない。
 皆が皆、孤独を愛せるわけじゃない。
 けれど、歩み寄ることを忘れてはならない。

 己と他者との溝を埋める最高の魔法――それこそが想像力。

 けれど、けれど、けれど……。
 そうやって己の意思を否定しては肯定する作業の連鎖。
 考え、悩み、結論を見出す作業。

 想像の連続こそが、己の中に『他者』を見出す鍵となる――。

 目の前の人たちが歩いてきた道のりを想像してごらん――きっと素敵な上映会になるだろう。閉幕後、君の力の放ち方を決めればいい。その力を誰のために使うかを決めればいい。


 ――時間だ。
 己を拘束するいろんなものを解除する時がきた。
 たとえ独りきりでも、それをするべきだ。

 想夜の体に血が戻ってくる――指先に、手に、足に、表情に、体全体に感覚が戻ってくる。

 血まみれの体から鉄の匂いが充満してくる。鉄分を含んだ液体はこんなにも臭うものなのか、と月一のごとくゲンナリする。

 想夜は思う――鉄臭い。嗚呼、なんて気味が悪くて心地がよいのだろう、と。
 それが自由を得た体ということなのだ。

 自由とは幸せであり不幸せなもの。なぜなら、自由を手にした者には責任という鉄枷を与えられるからだ。

 政府がくれた首輪をつけていれば楽なのに。
 命じられるまま動いていれば、考えることをしなくて楽なのに。

 ――馬鹿のままでいられたら、楽なのに。

 利口になれば、見たくないものまで見えてくる。知らなくてもいいことまで知るようになる。

 いま立っている場所から離れるのは卒業を意味する。
 小利口ものが気づく卒業の挽歌。

 想夜はフェアリーフォースの首輪を引きちぎり、自由の異名を持つ鉄枷を手足にはめる。

 ――これが自由だ。そして不自由だ。

 身軽を望んだはずなのに、重い。それが鉄枷。それが責任。
 想夜はこれから、重大な責務を果たすことになる。そこに躊躇いは微塵もないといえばウソになる。

 けれど、やらなければならない。

 恐くないのかって? そりゃ怖いよ。だって足が震えてるもん。けど、いつか必ず、誰にでもやってくるスターターピストルの音。その瞬間を受け入れる覚悟があるのなら、迷いはないよ――。

 想夜は大きく息を吸った。

 妖精は家畜か?
 ――No。

 エーテルバランサーは奴隷か?
 ――No。

 あたしは……捨て駒か?
 ――No。

 村八分は死を意味する?
 ――No。

 幼い時から分かっていた。フェアリーフォースがバイオパワー戦略を採用していたことを。
 村八分を武器に心理的脅迫をかけ、多くの戦士を洗脳し、奴隷化し、妖精たちから思考を奪い取り、自由意志を奪い取り、すべての力を手中に収めようとしていたことも。

 バイオパワーにとりこまれた戦士たちは、監視システムの一部となってフェアリーフォースの名のもと、世界を手中に収めるためのボットとなる。
 そうなることで、政府が監視しなくとも、戦士は”馬鹿いいこ”でいてくれる。

 想夜は物心ついた時からそのシステムに気づき、違和感を抱いていた。
 その正体を気づかせてくれた名前も知らない女の子。
 訓練校で一緒だった女の子。
 今はどこにいるかも分からない女の子。

 ――想夜の『本当』を気づかせてくれた女の子。

『たとえひとりになったとしても、それを貫きなさい――』

 その言葉を胸に秘め、歩き続ける。

 すべては、あの子から始まった――。

 本当の答え――おかしなことに「おかしい」と言えること。それを命をかけて修正すること。

 あの子はもういないけれど、ずっと想夜の心に寄り添っている。

 想夜は争いを嫌う子。周囲との争いを避けるあまり、極度の閉塞感に囚われて本気の自分を出せなかった。

 けれど踏み出さなければはじまらない。だからエーテルバランサーとしてフェアリーフォースを改めて観察することにした。人間界の平和を願うというフェアリーフォースの真偽を確かめたかったのだ。

 人間界への任務が下された時も内心、ニヤリと笑っていた。外界から妖精界を再認識できるからだ。
 そうすることで妖精界の立ち位置がさらによく分かる。自分の置かれていた状況もわかる。

 離れてみて、はじめて見えてくるものがある。

 富士山を見ればいい――。
 遠くから見ると絶景だが、近づけばただのゴミ山だ。
 それを皆がありがたがって拝んでいる。
 ゴミに埋もれる膨らみを、皆、ありがたがっているのだ。

 無論、それらをゴミ化させているのは人間たちである。自分たちの出した糞尿に手を合わせているのだ。お通じに感謝しているわけでもないのに、滑稽な話である。

 想夜は確信した――人間界から見たフェアリーフォースは、正義の張りぼてをまとった偽善に過ぎなかったのだ、と。それを作り上げたのは妖精たちなのだ、と。

 偽善のメッキが剥がれ落ちるのを目の当たりにした想夜は、フェアリーフォースのとなえる『正義』の意味を解読した。『洗脳支配』という答えについにたどり着いたのだ。死闘の末に証明することができたのだ。

 シュベスタが妖精界を利用したのではない。フェアリーフォースがシュベスタを謀ったのだ。妖精のほうが一枚上手だった。

 難解な数式を解くように、少し時間がかかっちゃったけれど、想夜はその解答欄を埋めることができたのだ。その解答に花丸がつくのは言うまでもない。

 とはいえ、フェアリーフォースのすべてを否定するのも愚者の考えだ。戦士の中には志高き者たちがいるのもまたしん

 本当のことに気づいた者が挽回できる未来が、ここから始まる――。


 想夜が天を仰ぐ。

 天井に隙間が見える。この場所からなら、天上近くの通路まで上がれば外に出られるだろう。

 想夜とざんばらの少女は、負傷した他のバランサー達を通路まで抱えて飛んだ。
「天井から逃げて」
「想夜は?」
「大切な人たちがまだ……中にいるから」
「助けに行くの?」
「……」
 返答しない想夜の腰にざんばらの少女がしがみつく。

「無茶だよ! もうすぐ戦艦からバランサーがウジャウジャやってくる! 人間たちを殺しにやってくる! ウチらも戻らないと――」

「――戦艦には戻らないで」
 想夜はざんばらの言葉を遮った。

「え? どうして――」
「いいから! 戦艦には戻らないで!!」
 声を荒げる想夜。
 さきほどの藍鬼が脳裏によぎり、ざんばらはビクリと肩を震わせた。
「わ、わかったから。戦艦には戻らないから……だからもう、痛いの、やめて。ウチらも、想夜も、みんな、みんな、壊れちゃうから……だから、やめて」

 すすり泣く声が鼓膜を通り、胸に刺さって……痛い――想夜は心に痛覚が戻ってきたのだと安堵する。他者の心に寄り添いたいと願えるから安堵できる。

 もちろん他者の痛みは想像の範囲での感覚だ。
 他者の感覚など心が分離している者同士では完全に分かり合えない。それを想夜にはもう理解できている。
 けれど、想像力を無くしてしまえばただの鬼。それはもう、人でも妖精でもないサイコパスだ。

 きっと嬉しいんだろうな、きっと痛いんだろうな、という想像力こそが、人を人と呼ぶ所以であり、妖精を妖精と呼ぶ所以なのだ。

 世界に想いを馳せるのは妖精と人間の十八番、人として、妖精として、素直に想いを貫いてゆけばいい。

「……急いで」
 ぶっきらぼうに想夜はつぶやいた。また藍鬼が出てきたら、今度こそ皆殺しにしてしまうだろう。想夜にはもう、それを止める力が残っていない。

 想夜の体中に奇妙な文字列が浮かび上がり、わた菓子で首を締め上げるよう、少しずつ、少しずつ神経を蝕んでゆく。

 ざんばらがしゃくりあげ、涙を乱暴に拭う。
「うん、想夜も気をつけて――」

 突如、想夜がざんばらを引き止めた。

「お、お願いがあるんだけど――」

 ポツリ。
 想夜は少し恥ずかしそうに口をひらく。ケンカした友達との仲直りの一歩のような、そんな感じで。
 それは想夜という女の子が戻ってきた証。

 想夜は解放運動の手始めとして、フェアリーフォースの狂ったシステムの詳細を目の前の友人に打ち明けた。
 それを耳にした少女はショックで体が硬直するも、すぐさま我に返る。彼女も薄々気づいていたという事だ。

 ざんばらは伝書鳩となり、このことを京極麗蘭に伝えると誓う。それはざんばら自身が決めたこと。決定権は自分にある。自由意志を誇らしくかかげては、エーテルバランサーとしてのしんを貫くのだ。

「わかった。想夜も無事で帰ってきて……」
 想夜は返事をしなかった。
 ただ一言、
「――後のこと、お願い」
 最後に願いを託し、ざんばらに背を向けた。


 想夜は入り口付近で立ち止まる。
 鴨原から渡されたカードキーで認証をおこない、全システムの停止コマンドを入力した。
 
『緊急システム作動。全システムの動力を停止します。研究員は速やかに避難してください。繰り返します――』
 
 アラートが鳴り響く中、想夜はワイズナーを背負い、その場を去った。
 
 想夜が最上階のホールから廊下に出た。
 大規模な爆発が起ったのはその時だ。

 ドオオオオオン……!

 建物全体がグラリと大きく揺れた。

 派手に暴れたから、どこかで機器に引火したのか。
 それとも証拠隠蔽のために建物ごと爆破させるつもりなのか。

 ――考えるかぎりでは後者だ。

 緊急システムを作動させたくらいで爆発は起きない。
 必然的に鴨原以外の犯人が浮上してくるが、ここで犯人を追跡できないもどかしさに腹が立った。

 想夜は部屋を出ると羽を広げ、助走をつけて飛び立ち、長い通路を突き進んでいった。
「今行くから……みんな、どうか無事でいて――」
 願わくば、それが叶うことを信じて。


フレイムチェイス


 あちこちで爆発音が連鎖する。
 通路に煙が立ち込める。終わりの時は近い。

(――なにが終わるのだろう? 任務? 今日一日? それとも……)

 御殿は愛妃家女学園の廊下を歩いているまぼろしを見ていた。
 すぐ手前を先陣切って誰かが歩いている。
 リボンを揺らしながら笑って振り返る少女が、ポニーテールをフリフリ揺らしながらはしゃいでいる。

 想夜は無事だろうか?

 また美味しいのを作ってあげたい。自信作はまだまだあるのだ。
 みんなのほっぺが落ちそうなくらいの自信作。

 御殿は胸元で寝息を立てている寝顔を見つめた。
「ちょっと遅い夜食だけど、帰ったら仕度しなきゃ。今日は狐姫が当番だからね。美味しいのを期待してるわ……」

 乱れたブロンドの髪を拭うと、いつものふっくらとした白い頬が露になる。

「狐姫、起きて……尻尾、握っちゃうぞ。おーい」
 ほっぺをプニプニと指で押す。弾力ある頬はマシュマロで出来た風船のように柔らかくってハリがある。
 御殿はニッコリと微笑んだ。

「わたし、思い出せた。過去の記憶、あの日々の記憶――」

 御殿は、これから過去の記憶と向かい合わなければならない。そうすることで、自分が存在していることの答えを構築してゆくのだ。そうすることで他者との距離を縮めてゆくのだ。

 パーティー会場で彩乃に向けてしまった嫉妬も、子供のわがままから出た感情。かまってくれない母親に向けてのわがまま。自分を守ってくれなかったことに対するわがまま。子供を育てることができなかったクセに歓声を浴びている母親。それが癪に障ったのだ。

 御殿はかまって欲しかった。
 母を独り占めにしたかった。

 御殿の中で、彩乃は母親として認識され始めている。
 離れることがないと分かっているから、相手に対して酷い態度をとる。
 酷い態度をとっても嫌われることがないと分かっている。
 親子なんてそんなもの。

 彩乃はその身を投げ出してメイヴに立ち向かった。世界のため、子供のために。

「ずっと独りだと思ってたのに――独りじゃなかった」
 そこに心壁のエクソシストは、もういない。

「あなた達のおかげね、狐姫」
 御殿は胸元に狐姫の頭をたぐりよせ、頭を撫でた。
「ここを出たら何をしようか?」
 御殿は思いを巡らせる。

 ――最初に浮かんだのはあの場所。今は無き、あの町。

「そうね……まずは行きたい場所があるの。海も山も綺麗な場所。みんなが行きたいというのなら、一緒に連れて行くつもり。その後は山奥に行きたい、お世話になった人たちがいる場所よ。そうして、手作りのお弁当をみんなで囲んで賑やかにやりましょう」

 狐姫は黙ったままだ。

「狐姫、寒くない? もっとそばにいらっしゃい。寄り添うと……暖かいから――」
 御殿は狐姫の体をさらにギュッと抱き寄せた。
 思った以上に細い肩幅だったんだと再認識する。

 右の方角からおびただしい熱を感じる。
 狐姫の放つマグマのような灼熱だけれど、狐姫のマグマじゃない。
 狐姫はここにいる。
 眠っている。

 そうして御殿は察する。すぐそばまで爆発が迫っていることを。


 この城は、もうじき沈む――。


「狐姫、起きて……」
 狐姫はマグマに耐えられるのだから、これくらいの爆発も大丈夫だろう。いや、先日、味噌汁が熱くて舌をヤケドしていた。いくら狐姫でも熱に万能ではない。

 ドドドドドドド!
 ドオオオオオオオオオオオオオオオンッ――

 連続する爆発音。
 防火シャッターが突き破られ、中から大量の爆炎が雪崩れ込んできた!

 やがて炎の津波が迫る頃、御殿は狐姫に覆いかぶさった。相方の、その綺麗な顔をシュベスタの炎で穢したくなかったのだ。
 御殿は力尽きる寸前まで腕に力を込め、狐姫の体を抱きしめていた。

 笑顔で静かに息をもらして、御殿は呟く。

「想夜、あとは……お願いね――」

 狐姫にならい、御殿はゆっくりと、眠るように瞼を閉じた――。


 右か!? 左か!?

 あの人たちの声が聞こえる――。
 風に乗って、はっきりと鼓膜まで伝わってくる。

 想夜にはみんなが笑っている声が聞こえる。
 こんな地獄と化した場所で、誰かが笑っているはずもないのに。

 ――きっと幻聴だ。

 否、聴覚以外の力が想夜を大切な人たちの元へと導いてくれる。
 風の妖精が教えてくれる。「そこを右だよ、次は左だよ」と。

 想夜を追いかけてくる炎は、スピードを緩めることなく向かってくる。

 死のレースに負ける必要はない、絶対に認めるものか――想夜はゲッシュで弱っている己の体をギュッと抱きしめて応援した。
 やや高度が下り、廊下に足が着くも、2、3歩スキップする要領でふたたび飛行形態に戻る。

「もう少しだから……がんばって」
 自分の体にエールを贈る。

 やがて長い通路に差し掛かると、遠くのほうに人影があるのに気づく。

 うずくまり、何かを必死に庇っている人がいる――御殿と狐姫だ。

「見つけた!」

 だというのに、すぐ手前で防火シャッターが閉まり、そこへ炎の濁流が叩きつけられた!

 道をふさがれてしまったが、想夜は構わずに炎の壁に突っ込んでゆく!
「女神さま、お願い!」
 手前で起こる爆発で運良く防火シャッターが吹き飛び、そこへ便乗するようにリボンの妖精が割り込んでゆく!
 まるで女神が先へ先へと導いてくれているようだった。


 通路の奥から、溢れんばかりの爆炎が御殿と狐姫に襲い掛かる瞬間、炎の濁流からリボンの妖精は現れた!

 妖精は横一直線に2人をかっさらい、そのまま非常口まで一気に加速する!

 妖精は――想夜は御殿を小脇に抱え、もう片方の腕で狐姫の手を取る。

 両手が塞がってもスピードは落さない。
 2人を抱えていても、スピードは決して落さない。
 ここからが死のレースのスタートだった。想夜と爆炎との命をかけたフレイムチェイスが始まる――。

 灼熱の波がすぐ後ろまで迫っている。少しでもスピードダウンすれば、その身は一瞬で灰と化す。御殿と狐姫も、だ。

 右へ、
 左へ、
 炎の隙間をかいくぐり、
 下りてくるシャッターの隙間に体を捻りこみ、
 前へ前へと突き進む。

 想夜はふたたび、御殿から聞かされた『バケツのねずみ』の話を思い出す。

 光のさすほうへ、
 ただただ、光のさすほうへ――

 ちょっとずつでも前へ、
 少しずつでも前へ――

 そうやって希望の光に手を伸ばした者こそ、歩み続ける者こそ、望む未来を手にすることが出来るのだ。
 ここを出るまでは、御殿の腰に伸ばした手を、狐姫の手に伸ばした手を離すものか。

 たとえ羽が千切れても、たとえ体が千切れても、明日へと進む信念が千切れることはないのだから。


 ピクシーブースターが唸る!
 はるか前方に出口が見えた。

 炎が想夜の背中を煽ってくる!

「風を紡ぐ!!」

 ボシュウウウウウウ!!!!!

 想夜が張り裂けるように悲鳴を上げる!

「もっと! もっと!! もっと!!! 風の妖精よ、応えて!!!!」

 ボシュウ!
 ボシュウ!!
 ボシュウウウウ!!!

 ピクシーブースターがジェットのような唸り声をあげ、貧弱な想夜の羽を天使の翼のように彩った。

 ゲッシュが想夜の全神経まで入り込む。
 途端に全身の神経に激痛が走る。が、ハイヤースペックの躍動を止めることはなかった。

 想夜の血潮が叫んでいる。
 もっと、もっとと、風を欲した!

 想夜は全身で叫んでいる。
 もっと、もっとと、光を欲した!

 想夜が、魂が、叫んでいる!
 もっと、もっとと、一歩先を、未来の自分を欲した!

 あふれ出る濁流災が、想夜たちを追いかけてくる。
 「逃がすものか、貴様たちも道連れだ!」
 と、叫び、その手を伸ばしてくるようだった。

 爆炎が非常口から一直線に吹き出した!

 ――その時。

 ボシュウウウウ!!!!

 間一髪。
 想夜は炎をまといながら、上空に漂う黒煙をナナメに貫いた。

 妖精は御殿と狐姫を救い出した。
 想夜は見事、死のフレイムチェイスに打ち勝ったのだ!


客席に降る星


 夜空にひとつ。ゆっくりと流星が飛んでゆく。

 その手を離さぬよう飛躍するも、しだいに腕がしびれてくる。
 腕力がないからではない、徐々に呪いの力が全身を蝕んできているのだ。

 想夜は小脇に抱えた御殿を落しそうになり、慌てて手を掴んで引っ張り上げる。
 薄れゆく意識の中、想夜は残りの力をその手にこめて御殿を運ぶ。

 狐姫の救出には成功した。が、シュベスタを脱出するときの爆風に巻き込まれ、狐姫の体は遠くへと吹き飛ばされてしまった。

 大丈夫、あの子は狐姫、焔衣狐姫だ。きっと無事でいてくれる。狐姫ちゃんサマは強いんだ、今からスーパー狐姫ちゃんタイムが始まるんだ――想夜はそう信じることにした。

 想夜は御殿を見る。
 うな垂れ、顔すらロクに見ることができないけれど、その手にしっかりと温もりを感じることができる。
「御殿センパイ、ごめんね、戦いに巻き込んじゃって……」
 爆発の中、御殿は狐姫をかばい、力尽きて意識を失った。

 八卦の力は想像以上だった。
 ハイヤースペックの発動は体に大きな負担をかける。それも原因なのかもしれない。
 それも、今となっては誰も教えてはくれない。

 想夜の視線の先、御殿の横顔がチラリと見えた。
 いつもはクールなくせに、今は子供の寝顔みたい。
 その横顔が愛おしい。

 想夜は無邪気に眠る顔を見て、クスリと笑う。
「御殿センパイ、今どんな夢をみているの?」
 無言の御殿に想夜は言う。
「夢の中にあたしも登場して、いいですか……?」

 あたしも御殿センパイの夢の中に入りたい、そうして楽しかった日常を取り戻すんだ――ささやかな野望。たとえそれが叶わぬ願いであったとしても、想夜には特別なご馳走だった。

 脱出の途中に落下していった狐姫を想い、涙が頬を伝った。
「狐姫ちゃん……あたし、うらやましかった。だって狐姫ちゃんは、いつも御殿センパイのそばにいられるんだもの……」

 うらやましかった。嫉妬、やきもち、なんと言われてもいい――狐姫の立ち位置と自分の立ち位置を摩り替えた瞬間が日常にあったのだから。

 ――だけど、もうそんな日常はやってこないと思った。

 それでもいいと思った。
 なぜなら、みんなの笑顔があればいいのだから。
 それが最高の調味料なのだから。
 ごはんが美味しい理由なのだから。

 御殿のハイヤースペックで融合した狐姫をうらやましいと思ったけれど、決して恨んだりしない。狐姫も大切な人だから。
 そこに想夜も混ぜてもらえたから。
 大好きな人達とつながる事ができたのだから。

 想夜はバランサーとして人間界にやってきて、日常を戦い抜いた。
 当初から今まで、決して平和とは言えなかった。
 今となっては宝物に等しい日々と言える。

 かけがえのない出会いを作ってくれた戦いの日々に、想夜は笑顔でありがとうと言える。

 狐姫、叶子、華生、たくさんの人間たち――
 みんなはどうしているだろうか?
 無事だろうか?
 研究所の大爆発に巻き込まれてないだろうか?

 この先、呪いにかかった想夜に出来ることは限られている。
 どのみち、いま想夜がとっている行動が精一杯の愛情表現だった。

 涙を拭う手はふさがっている。ベソをかく姿を晒してしまうけれど、妖精の泣きっ面は月しか見ていないのでちょっと安心する。

 頬に伝うそれが零れ落ちぬよう上を向いてごまかしたが、よけいに零れ落ちてきた。
「上を向いても下を向いても涙……こぼれちゃう」
 涙で視界がぼやけ、月が水面に映るみたくグニャリと歪む。

 しだいに体の感覚がなくなってゆき、透明感あふれる羽がうっすらと消えかけてきた頃、全身の力が抜けてゆくのを確信した。

 ジェットのように羽ばたいて、御殿と狐姫を救出した想夜だったが、そろそろ限界が近づいてきている事を認めざるをえない。

 想夜は上空から下界を見下ろす。
 なにかクッションのような家はないだろうか?
 御殿がぐっすり休めるような、ベッドの形をした家――そんな優しい造りの建物はないだろうか? できたら冷暖房完備がいい。メイド完備ならなおさらだ。そこで愛しい人を癒して欲しい。傷ついた人を癒してほしい。

 低空飛行で建物の屋根に注意を払っていると、ビルの屋上にビニールに包まれた柔らかい素材がつまれているのを見つけた。イベントで使用するのだろう――想夜はそこに決めた。

 想夜は反逆者。完全に包囲された。上空すぎても地上に近すぎても敵陣がある。
 フェアリーフォースに砲撃されない距離まで落下して、ビルの屋上の真上を通る。

「ここが限界……これ以上高度を下げると2人とも撃ち殺されちゃうから」
 デパートの屋上まで20mほどの距離がある。

「御殿センパイ……いっぱい、いっぱい、ありがとう」

 最後に御殿の体をギュッてしたかった。

「いっぱい、いっぱい、美味しい調味料を教えてくれて、ありがとう――」

 この手を離すのが名残惜しい。
 けれど離さなければならない。
 そうすることで大切な人の命を守れるのならば。

 大好きだから離れなければならない。
 大好きだから、この手を離さなければならない。
 想夜は握った手の力を徐々に緩めていった。

 スルリ――。
 抜け落ちる白い手。

 落下してゆく御殿は飛べないカラスのようだけど、パレオが舞って天女のような華やかさがあった。

 やがて距離が離れては、小鳥のように小さくなってゆく。

 想夜は小さくなってゆく黒い小鳥を見つめながら、涙でクシャリと歪んだ笑顔を作った。

「さようなら、あたしの大切な人たち……さようなら――」
 どうか無事でいて。生きて、生きて、生き抜いて――そうつぶやき、遠くの空を睨みつけた。

 遥か頭上に戦艦が浮遊している。
 その中から、想夜を消さんがためにフェアリーフォースが群れをなして襲いかかってくる。蜂の巣からワラワラ溢れ出てくるように。

 皆、想夜の所有するワイズナーと同じ形状の武器を携えている。
 雪車町想夜は危険因子と見なされたのだ。

 目の前にいるのは、かつての味方。かつての同僚――すべて想夜の敵、敵、敵。

 想夜は呼吸を整えた。

 ゲッシュが全身を覆いつくすまでに片付けなければならない!

 ゲッシュが全身を覆いつくすまでに終わらせなければならない!

 妖精界といえど、政府にケンカを売った罪は重い。反逆罪は即死刑だろう。

 ――だが、タダでこの身を捧げるつもりは……毛頭ない!

「アロウサル!!」

 月に向かい叫ぶ!
 まばゆい光のベールに包まれた想夜が背中からワイズナーを引き抜いた。

 ボシュウッ!!!

 ピクシーブースターで速度をあげて一気に急上昇する。
「あたしは……要請実行委員は……」
 みんなの顔が脳裏に浮かぶなか、敵陣に矛先を向け、睨みつける。

「己のルールに従うのみ!! 政府の作った戒律システムを……斬る!!!!!!」

 想夜の目が血のように赤く光る!
 残りの力、ありったけの力をワイズナーに注ぎ込んでザッパーをスタンバイ、大きく振りかぶった!

「フェイトン・ザッパアアアアアアアアアーーーーーー!!!!!!!」

 惑星ごとぶった切るかの如く、想夜の咆哮がこだました。

 矛先から巨大なブーメラン状のカマイタチが放出され、光の刃となって戦艦に真っ向から突っ込んでゆく!
 フェイトンザッパーと名づけられた風の刃が戦艦を正面から捕らえ、先頭から司令室を、司令室から尻尾までを貫き、幼きメダカが妖精ひと食い鮫を頭から食い殺す!

 突然の雷のように、夜空一面が白くフラッシュした。
 瞬間、

 ズウウウウウウウウウウウウウウウウン……

 豪華客船のごとき巨体が沈んでゆく。
 大マグロを卸すように、巨大な戦艦が上下真っ二つに引き裂かれ、地に落ちてゆく。

 戦艦が人間界の上空を独占していることを許さない妖精の姿が、今ここにある。

 たった1人の妖精相手に、あれほどまでに巨大だった戦艦が、たった一撃で朽ち果てた瞬間だった。

 緊急転送システムが作動した瞬間、時空がグニャリと歪み、戦艦は人間界から姿を消す。
 戦艦の残骸が地上に落ちる時の被害は避けられたものの、消えゆく戦艦の中から、さらにフェアリーフォースの妖精たちがあふれ出し、想夜に向かって襲い掛かってくる。蜂の巣を突いたかのように軍政を率いてやってくる。

 13歳の妖精に向けて、フェアリーフォースの一斉射撃がはじまった!

 想夜は幾千発ものレーザービームのホーミング弾を避けることなく、真正面から立ち向かってゆく。

 肩に、腹に、顔面に――レーザーを食らってよろめくが、それでも想夜はスピードを落とすことはしなかった。

 妖精実行委員会はたった独り、リボンをなびかせ、無数に飛んでくる光槍と敵陣に突っ込んでいった。
「はああああああああああああああああああ!!」


 どこかの家の、どこかの子供が空を指差す。
「ねえママ、キレイだね」
「本当ね。お星さま、いっぱいね」
 どこかの家の、どこかの母子が空を見ていた。

 寝付けない子供を抱いてあやす。
 大丈夫、きっと眠れるよ。きっと夢のなかで綺麗な星たちが踊ってくれる。

 夜空に無数の流星が舞っていた。
 小さい流星、それがたくさん。花火の滝流れみたいに、たくさん、たくさん、舞い落ちる。

 流星たちは散ってゆく。こうべを垂れる柳のように、たくさん、たくさん、散ってゆく。
 そうやって流星たちは、黒い夜空を彩った。

 人間たちは皆、それを見ながら想うのだ――綺麗だね、と。

 散り散りになった星々は、今頃どうしているのだろう?
 どこかで、この夜空を見ているのだろうか。

 きっと、どこかで見ていることだろう。そう願うことにする――どこかの誰かがそれを願った。




 手を伸ばすのだ。光のさすほうへ――

 たとえ君がネズミのように弱い存在だとしても、光の先では未来が君を待っているのだから。

 君よ。
 その歩みを止めることなかれ。

 君は未来に愛されている。
 ちょっとずつでもいい。
 少しずつでもいいんだよ。
 その手を伸ばそう。未来へ向けて。
 
 やがて夜空に静けさが戻る。
 流星はひとつもなかった。

 月のスポットライトが夜空の舞台を照らし続けた。
 役者のいない舞台を照らし続けた。

 やがて閉幕――空に残ったのは黒いベールとお月様。まばらに散った星々は無表情なる傍観者。

 拍手はない。
 おひねりもない。
 ヤジひとつ飛ばない観客席。
 誰もいない観客席。


 この戦いの直後、
 人間界で雪車町想夜の姿を見たものは……誰もいない――。
 
 
第2話
『Final Fire Flame Chase』