6 暴魔襲来
♪要請実行委員会のテーマ♪
作詞・作曲 雪車町想夜
唄 あなた
困った時には駆けつける~ あなたの強ぉい味方ですぅ~
(味方ですぅ~)
時には泣く日もあるけれど~ 心はいつでもニッコニコ~
(2ッ525~)
報酬なんかはいらないぜ~ あなたの笑顔で充分さ~
(充分さ~)
お願い上手はおねだり上手 要請書だけは忘れず書こう
愛妃家よいとこ食事はンマイ
われら~ 要請実行委員会~
Ah~♪(キーちょい高め 声が裏返るくらい)
想夜の案内で学園内を探索することになった御殿。想夜の横顔を見ては心配をしていた。
(寝不足?)
想夜の目が赤い。
気になりながらも御殿は親切な添乗員の後についてゆく。
ジッと見られていることに気づいたのだろう、想夜は昨晩の出来事を隠すように笑顔をMAXにして取りつくろった。
「御殿センパイ、制服似合ってますよ」
「そう? ありがとう」
届いたばかりの制服に身を包んだ御殿が笑顔で返す。
登校時、ほわいとはうすを出る前のこと。
御殿は制服に身を包んだ自分の姿を何度も鏡の前で見ていた。こんな格好する自分に違和感があった。新鮮とでもいうべきか、つまり、その……「こういうのもいいかなー」とか思っていたのである。
でもバレると恥ずかしいので心の隅にしまっておく。けっこうシャイである。
ブレザーから真新しい香りが漂い、新入生みたい。
ネクタイはいつも通りピチッと締めており、決して緩めず、遊びがない。
ファッションの流行に流されないところは、性格が堅いのかしっかりしているのか微妙なところだ。
ハートプレートやホルスター、防弾コルセットすら装備していないので余計な着太りがなく、ボディラインがいかに細いかが良く分かる。
学校指定のソックスにするか、普段から履きなれている黒タイツにするか迷ったが、まだ肌寒いという理由から後者に決めた。
膝上15センチのスカートから伸びる黒タイツは、いつもの黒装束のものを使用。スラリとしていてモデルのようだ。今朝も狐姫と登校中に何人もの男性から色目をおくられた。
学校のエンブレムをつけている限り、愛妃家女子としての誇りを持たねばならない。恥ずかしいマネもできなかろうて。
そんな緊張感もあり、正門をくぐる前からいつも以上に背筋が伸びていた。狐姫にもシャキッとするよう言ってある。
愛妃家女学園 初日
学校というものは初体験だ。これ見よがしに御殿は興味深そうに周囲を吟味している。
目に飛び込んでくるもの、どれもこれも新鮮で目が離せない。
いたる所で御殿が立ち止まると、想夜が近よってきて丁寧に説明してくれる。想夜は高性能ナビゲーション。バイクに装備したいほどだ。
数時間まえ、授業が終わってすぐのこと――学校案内を名乗り出てきたクラスメイト達が目をハートにしながら御殿に張り付いてきた。想夜との約束があった御殿は丁重にそれを断ると女子の群れを引き剥がし、やっとのことで要請実行委員会の部室までたどり着いた。
もみくちゃにされた時にタイツが伝線してしまったのだが、ふともも部分なのでスカートで隠せる、問題ない。
問題ないのだが、転入早々あたらしいのを買わなきゃならない。毎日こんな感じだとタイツ代だけで破産しちゃいそう。はたして必要経費で落ちるだろうか?
息を切らした御殿がヨロヨロと部室に入ってきたのを見て、想夜がぶったまげたのは言うまでもない。まるで強姦に襲われたかのようだった。
廊下の掲示板には部活や委員会の勧誘やらポスターが貼られていて賑やかだ。ところどころにガビョウの抜き差しした穴が開いており、生徒たちの活発さをうかがわせる。
「御殿センパイはもう部活決めたんですか?」
学園のために要請実行委員会に入るわ、と言ってくれると嬉しい。
「ううん。部活には入らない。いろいろと忙しいから。狐姫も入らないと思う」
「で、ですよね~」
想夜ションボリ。何事もうまくは進まないものだ。
当然のことながら、御殿と狐姫には『警備と調査』という部活が待っている。
想夜と御殿がなかよく歩く。
食堂、視聴覚室、部活棟、体育館――天井を支える鉄骨の隙間にバレーボールが挟まっているのが目に付いた御殿が質問する。
「あれ、誰が取るの?」
「う! ご、ごめんなさい。わからないです」
案内役の想夜にもわからないらしい。ちょい学習不足が見うけられた。
調理室――料理スキーの御殿にはまぶしい光景だった。家庭科という教科は是非とも挑戦してみたい。
顔に出さないまでも、ピッカピカに光るステンレスの流しを指でなぞる姿からして、心躍っているのが想夜にも伝わる。
2人は階段を上がり校舎の屋上に出た。
「――ここが屋上ですよ、御殿センパイ」
前を歩いていた想夜が振り返り、両手をいっぱいに広げてアピールする。
「けっこう広いのね」
青空が終わりをつげる頃、広々とした空間に風が吹き抜けた。
季節的にまだ肌寒いけれど、開放感があって気持ちがいい。
フェンス以外に目立ったものは何もないが、唯一あるものといえば、雨水をろ過して生活水に変えるための貯水タンクが設置されている。他にはなにもない。
「ずいぶん大きいのね……」
たっぷり仕様のタンクを見上げる御殿。中に飛び込めばひと泳ぎできる大きさはある。もちろん飛び込む気はない。
「格校舎の屋上に一台ずつあるんです。なんてったって校舎全体で使用できますから。資源は有限なんです」
「ふう。食費と一緒ね」
「そうです。食費と一緒です…………は?」
「エンゲル係数で頭を抱えるのは、どこも一緒ね」
「わ、わかりますわかります。やっぱ時代はエンジェル係数ですよね、エンジェルは大切ですよね~、あたし銀3枚持ってます! 死ぬまでに一度は金を当てて見せます!」
金なら1枚、銀なら5枚――と、何やら集めているらしい。そんなに金のエンジェルが大切なのかよ。命がけかよ。
「エンゲルね、エンゲル」
エンゲル係数――家計の消費支出内の飲食代の割合を%で表したもの。ドイツの社会統計学者、エルンスト・エンゲルっていう偉い人が1857年に論文にて発表。
御殿先生の社会科授業により、一般家庭の食費と家庭事情について学んだ想夜だった。
人間のエコ精神は大好きだ。自然を愛する妖精はそう思っている。もちろん想夜も。
エネルギーは有限。給料日前の生活費のよう、大事に大事に、ちょっとずつ、ちまちま使う精神はグッジョブである。ご利用は計画的に――。
想夜の学校案内はつづく。
売店や本屋、文房具類――理科準備室に立てかけてある人体模型が倒れてきた時には2人でビビッて抱き合った。
御殿は学園生活というものを味わった記憶がない。あるいは過去にそういう経験があったのかもしれないが、本人の脳裏には思い浮かばなかった。けれど不快には感じていない。
なかば強引に取りつけられた警備の仕事だったが、かつてない新鮮な経験ができ、制服を身にまとう今となっては引き受けてよかったと御殿は思う。宗盛に感謝だ。
校内を偵察した感じだと、特にあやしいところは無かった。不審者もいない――今の所は。
狐姫には分担作業を命じたため、中等部に通うことになった。
ここに狐姫がいない。理由は「調べたいことがある」とかで先に帰ったから。
明日、想夜に代わって御殿が案内役をすることになるだろう。そのためにも覚えておくことが多い。もっとも、親切な添乗員が明日も名乗りを上げてくれるだろうけど。
案内を一通り済ませた想夜は、御殿をホールに送り届けた。
「それじゃセンパイ、あたし委員会の仕事が残ってるので――」
御殿センパイも引越しやら手続きやらで疲れているだろう――そう察して、早めに切り上げようとした想夜だったが、そんな働き者に対し「案内してくれたお礼に」と御殿から仕事を手伝うと言われ、目を輝かせて歓喜する。
「本当ですか!?」
「もちろん、手伝うわよ」
こうして2人、ひと気の少ない放課後の校舎に残った。
放課後の夕暮れ時。
書類の整理やら依頼内容の実行やらで、すっかり時間がかかってしまった。
「ふう、やっと片付いた」
ひと段落した想夜。ポケットからお菓子の箱を取り出した。
「センパイ、キャラメル伝説食べます? おいしいですよ」
「キャラメル伝説? ……ああ、アレね」
キャラメル伝説とは――口どけのよいクリーミーな味わいが楽しめる、世のスイ~ツ女子(笑)から愛されてる一品。くちびるを嘗め回すシーン、ちょっとエロいCMには賛否両論の声もあるが、エロかろうがエロくなかろうが、全国の甘党にはお構いなしだ!
「おいしいですよ、覚悟はいいですか?」
「いいわよ、ちょうだい」
御殿は手を差し出した。登校初日、すっかり学園生活がなじんでいるみたい。
「センパイのおかげです。作業、3倍の速さで終わっちゃった」
そう言って首をコキコキ鳴らして額ににじんだ汗を拭う。
「ふぅ。要請実行完了♪」
小動物みたく可愛らしい安堵のため息だ。
「ふふ。お疲れ様」
「御殿センパイの助けがなかったら、明日も1人で部室にこもって同じ作業をしていたところですよ」
「あの量じゃあ、ね」
チラ。
机には整理された書類の山がある。
椅子に腰かけ、キャラメルを口にふくみ、糖分補給でHP回復。
うむ、んまい。
お互い見合わせた顔がほころんだ。
茜色の戦場
部室を出た想夜の頬を赤い空が照らす。
遠くに浮かぶ眩しい夕焼けは、ドロドロとした血の滴りを感じさせて不気味だった。
子宮の中に眠る卵子からこぼれる、ねっとりとした血液みたいにまとわりつく深紅の夕日――想夜はそんなことを想像しては月のものを連想し、もぞもぞと太腿をすり合わせた。今月は……まだ先だ。
ここ数日続いている群発地震の影響もあり、危険をうながした学園側は対策のため、生徒達をいつもより早めに帰宅させていた。
そんな理由で部活が開かれることもなく、生徒は一人として残っていない。
叶子もとっくに下校していた。
省エネ週間なのか、数ある蛍光灯の中の少ない明かりだけが職員室を頼りなく照らす。その場に数人だけ、帰り支度を済ませた職員が残っている。
「お前らも早く下校しろよ~」
そういい残して教員たちが去ってゆく――本日は閉店らしい。
普段は賑わいを見せているホールでさえも食堂や売店のシャッターが下ろされ、シンと静まり返った空間はいつもの校内ではない。そんな違和感が、いつにもない不気味さで想夜の不安を煽ってくる。
「遅くなっちゃいましたね……」
「ええ」
先ほどの職員室もホールも、想夜の記憶にない寂しい光景だった。
「誰もいませんね――」
ポツリとつぶやいては、会話の隙間を埋めるよう静かな口調で話し始める。
「いつもはこんなに静かじゃないんですよ。売店の店員さんとかいますし、部活の子とかも多いんです」
「……でしょうね」
帰宅命令が出たとはいえ、学校の放課後とはこんなにも静かなものなのか? と、御殿は疑問を抱いた。
「あたし達も帰りましょ?」
「そうしましょう。カバンを取ってくるわ」
お互い相槌を交わし、荷物を取りにそれぞれの教室へと向かった。
◆
中等部校舎――。
教室には誰もいない。窓から差し込む夕日は相変わらず真っ赤で不気味だ。
想夜がカバンをかかえて教室を出ようとした時だ。誰かの手が肩にかかる――
「下校時刻は……とっくに過ぎてるぞ」
「ひっ!?」
おどろきのあまり、想夜は壁際まで飛びのいた。
震える想夜が顔を上げると、自分よりも頭2個ほど突き出た大柄な男が立っていた。やせこげた頬、土色をした顔には生気がなく、そばにいるだけでも目をそむけたくなる。
(おかしいな、こんな先生……見たことない)
想夜とは関連性もない名前すらわからない人物――高等部の教師だろうか?
大柄な男が放つ威圧感。抱えたカバンで防御しながら、想夜はビクビクと肩を振るわせて縮んだ。
「す、すみません。すぐ帰宅しますっ」
想夜は一礼し、そそくさと男の横と通りすぎて教室を出て行く。
教諭らしき男は、逃げるように走ってゆく想夜の後ろ姿を、亡霊のように、いつまでも無表情で見ていた。
◆
高等部2階。
カバンを手にした御殿が夕日を睨み付けていた。死者の血を飲みほしたような赤々とした存在感が暴魔のようで腹立たしい。
ちょうど教室から出た時、それは起こった――。
ゴオオオオオオオン!!
「――!?」
凄まじい横揺れで校舎がグラついた。建物自体が横から重機で殴られたような振動。
(地震!?)
御殿は揺れる体を支えるために身をかがめ、廊下に手をついて体を固定。頃合を見てゆっくり立ち上がり、窓から外の様子を見た。
とたん、目の前に現れた巨大な影を見上げて眉を尖らせた。
「大型暴魔!? こんなところに!?」
窓ガラス全体に覆いかぶさるように、黒い影があたりを包んだ。
窓のそと、御殿の目の前を一匹の大型暴魔が通りすぎてゆく。
(想夜はまだ中等部の校舎にいる――)
外の暴魔に警戒しながら、想夜を迎えに行こうと階段を下りた直後、廊下の奥から男のうめき声が聞こえた。
御殿が警戒しながら駆けよってみると、そこには長身の男が倒れていた。左肩から右腰あたりをナナメにスパッと、綺麗な切り傷を残して真っ二つにされて転がっている。
「教師!?」
否、黒い煙とともに白骨化してゆく屍骸。その一部始終を見ていて平常心を持ち直した。
「この男、人間じゃない――」
屍骸は魔族のものだった。
(なぜこんな場所に魔族が出入りしているの?)
と疑問に思えたが、結論はあっさり出た。
御殿は屍骸の手から零れ落ちた小さな笛を手にする。
「地獄笛……」
地獄笛とは――細長いホイッスルのような形をしている道具。魔族にだけ聞こえる周波数を奏で、これを耳にした悪魔に収集をかけることができる。人には聞こえない、犬笛みたいなもの。
「この男が暴魔に収集をかけたのね。面倒なことをしてくれる――」
御殿はため息をついた。地獄笛を手にしながら首をかしげる。
「誰に殺されたのかしら?」
暴魔にやられたワケではない。さきほどの巨体では校舎に入ってこれないからだ。いったい誰に斬られたのだろうか?
御殿は地獄笛を懐にしまい、その場を離れた。
◆
御殿が暴魔の動きに注意を払っているさなか、中等部3階の廊下にいた想夜は教室の扉から頭を出して廊下を見渡した。
木の巣穴から顔を覗かせるリスみたくキョロキョロと。大きな揺れに右往左往する小動物。
「な、なに!? 地震!? ……ぐェ!」
蛙を踏み潰したような奇声をあげてバランスを崩し、掃除用具入れに腰を打ち付けてしまう――しかも角の痛い部分。
強烈な揺れだったが、地震にしてはドンッという一発だけの揺れ。不自然さを感じた想夜は、夕日の差し込むオレンジ色の廊下を走り抜けて階段へ向かう。
合流
想夜が突き当たりを曲がり、階段を下りようとしたところへ声がかかる。
「想夜!」
ちょうど下の階から御殿が駆け上がってくるところだった。
「御殿センパイ! 今の揺れは……!?」
「こっちへ――!!」
「え!?」
グイッ。
御殿は想夜の手をとり走り出した。
血相をかえた御殿に焦りの色が見える。尖った目が緊急事態ということを訴えていた。カバンを取りに行くまでは穏やかな目をしていたのに、まるで人が変わったかのよう。
普段は冷静な表情を崩さない御殿。その緊迫感が想夜の不安を煽ってくる――ちょっぴり怖かった。
想夜は何も分からないまま手を取られ、今きた道を引き返す。のんびり話をしている暇はないようだ。
2人は誰もいない廊下を走り抜けて3階へ移動、隣設された校舎へ続く渡り廊下から身を乗り出して下を覗き込んだ。
2つの影がみえた。大型1体は校舎のすぐそば。もう1体も確認がとれた。
「2体か!!」
御殿が遠くを見つめてギリリと食いしばった。
「く、やられた!」
「え? なにがですか? なんのことですか?」
御殿の背後から「なになに!?」と想夜がのぞき込んだ先――すぐそこに巨大な影はあった。
「あ、あれは……暴魔!?」
見上げた想夜が息を呑んだ。
ノソリ、ノソリ……巨大な体を揺らしながらコチラに向かってくるのが見える。
その光景を前に、想夜の顔色が見る見る青ざめてゆき、足が震えはじめた。
鳥型にも似たずっしりとした胴体から長めの首が伸び、シャチのようにヌメっとした灰色の皮膚にコーティングされた口元。そこから突き出している無数の牙。耳や鼻腔、眼球はどこにも見当たらず、皮膚体感で物音や気配を察知して状況を把握するタイプのようだ。羽もなく、巨大な手足を持つ体形は肥えたトカゲのそれにも似ていた。
バックリと割れた口から牙をむき出して雄たけびを上げている。口を開けるたびに生暖かい風が大気をくすぐり、カバのようにバクリと音を立てて閉じる。
暴魔が校舎に近づいてくるだけでも、妖精の想夜にとっては充分な威嚇だった。
大型は校舎と校舎をつなぐ渡り廊下のすぐ真下を抜けて校内を練り歩いている。3階に頭がつくほどの大きさ。
もう一匹は閉ざされた裏門を軽々とまたいで入ってくる小型、校舎の中まで入りこめる大きさだ。小型でも2メートルはある。
奇襲にいち早く気づいた御殿が自分の元へ駆けつけてくれたと察する想夜。
「こ、御殿センパイ!!」
よほど怖いのだろう。想夜は眉をよせ、今にも泣き出しそうだ。それでも渡り廊下から身を乗り出して様子をうかがう。敵の行動が気になるのだ。
「早く校舎の中へ!!」
いち早く高等部の校舎に退避した御殿が想夜にむかって叫ぶ。
想夜は暴魔から視線をはずし、御殿のほうへと駆け出した。
2人は慌てて建物の中に飛び込み、力を合わせて非常用の鉄扉を閉めた。
「扉を閉める! そっちをお願い!」
「わかりました!」
ギイイイイイイイ。
観音開きの扉が音を立てて閉ざされた。
「鍵を閉めるには職員室にあるキーが必要です!」
「職員室まで取りに行ってる時間はない、敵は扉の向こうまで迫ってきてる!」
御殿は近くにあった水道のホースを持ち出し、2つ戸のドアノブにグルグル巻いて固定した。
緩みがないかを確認するため、ドアを前後に乱暴に揺らす。
ガチャガチャ! ガンガン!
扉を固定した。それでも大型暴魔の体当たり一発すら耐えられないのは分かっている。けど、小型暴魔の侵入を遅らせるくらいはできるだろう。
「よし。ちょっと頼りないけど何もしないよりはマシでしょう」
大丈夫、扉は鍵がかかったようにびくともしない。
「小さい暴魔が別の場所から入ってくるかも知れません」
「ええ。でも時間稼ぎくらいにはなる。ここは危険よ。急いで離れましょう」
「はい!」
ズドン!
ドアの向こうから揺れる音。
間一髪、小型の侵入を阻止できた。が、それも時間の問題だ。
御殿は再び想夜の手をとって校舎の中を突きすすむ。
想夜は不思議に感じていた。
(御殿センパイ、暴魔を見ても驚かないのかしら?)
御殿もまた、想夜に対して同じ思いだった。普通の女の子なら、「あの生き物はなんですか?」とか暢気に聞いてきたり失禁したりするものだ。それがどういうわけか淡々とした態度。
「御殿センパイ、これからどこへ!?」
「職員室にまだ先生が残ってたはずだから、まずは職員室。そのあとは隙をついて先生たちと一緒にアナタも逃げなさい!」
御殿は思う。
(正直、思いがけない奇襲で先手を打たれたのは痛い。まさか学園に暴魔が乗り込んでくるとは)
一歩出おくれる失態が己の平常心を煽り、一言一言に力が入ってしまう。それでも想夜を犠牲者にするわけにはいかない。
依頼内容は『生徒たちの護衛』。想夜を特別視する気持ちは任務から逸脱してる。想夜の存在がいち生徒に向ける対応と違ってきていると自分でもわかっていたが、友達を持つという感覚に不慣れな性分、うまく表現できずにいるのが御殿にはもどかしかった。
御殿は「友達が大切です」と素直に言えば解決することを知らないでいる。ましてや友達なんか持ったところで失ったときのショックは計り知れない。なので、退魔業に身をおいて以来、友を持たずに1人で戦場を駆け抜けてきた。ずっとそうしてきた。他者と必要以上に近づかなければ、誰を失おうと必要以上に傷つくこともないのだから。
「叶子さんや他の生徒が下校していたのは運がよかった。けれど……」
個人的に調べたいことがあるとはいえ、戦力になる狐姫まで帰らせたのは失敗だった――と御殿は少し悔やんだ。
(狐姫と連絡をとろうにも、校舎のジャマーが作動していて電波が届かない。学園内では許可のおりた時間以外は端末類の使用が禁止されている。緊急時に使用する有線、それと特定の無線以外は使用不能か。学校というのは厄介なものね)
学校のジャミング装置の基本設定はオートタイマーで作動するが、今日のような特別な日は手動で解除する場合がある。とくに教師が解除し忘れると厄介なことになるのは言うまでもない。今回がその悪い例だ。
「御殿センパイ、これからどうしますか!?」
想夜の手を引きながら御殿はニヤリと振り向いた。
「連中を野放しにしてたらキリなく襲ってくる。だから……戦う」
「え!?」
「ここで魔界の尻を2~3発蹴り上げておけば、学園には手出しできないでしょう」
という魂胆らしい。
想夜は御殿のことをジッと見つめる。
「戦うって……御殿センパイ、あなたは一体――?」
想夜の中で御殿に対する不思議さが増す。
咲羅真御殿。謎だらけの人物――おかしな時期に転入してきたから妙だとは思っていた。しかも妖精が最も苦手とする暴魔戦に慣れているときたもんだ。こんな特殊な人間は初めて見た。人間界でたった1人で戦ってきた想夜にとって、この上なく心強い味方なのは確かである。
味方――その言葉が脳裏に浮かんだとたん、常に気を張っていた心が舌の上のキャラメルのように解けてゆく。そんな甘くて優しい感覚が、想夜の中のあらゆる不安をかき消してくれた。
誰の手もかりず、ひとり戦い続けるということは言わば危険な綱渡りのようなもの。ささえてくれる者もなく、一本の綱からスベリ落ちたらタダでは済まない。
想夜はいつでも危険な綱を渡っている。
目をまん丸にして御殿を凝視していた想夜だったが、急にうつむき、ほころんだ。
「……」
安心。胸の高鳴り。小さなくちびるから吐息がもれる。
その手を引くナイトに気づかれぬよう、チラリチラリと上目でうかがう小動物。
走るたび、階段の踊り場で回り込むたび、目の前で揺れるロングヘアの隙間から見える横顔に目を奪われた。
頬が紅潮し…………想夜はふたたびうつむく。
トクン……トクン……
鼓動のスピードが上がっていく……
走ってるからじゃない……
襲撃されたからじゃない……
(こんな気持ち…………はじめて――)
灰色の世界――その単色の世界が彩り始めた瞬間だった。
想夜は一瞬、自分の頭が変になったのではないかと疑った。
(だってそうでしょ? 命をかけた緊急事態だというのに世界の色が違って見えるんだもん。灰色じゃないんだもん。まるで、まるで花柄のフィルターを通して世界を見ているような、そんな気持ち――)
灰色に染まってゆく世界が幾億色ものパステルで描かれたような彩を見せてくれる。
まだネンネだというのに、御殿に握られた想夜の指先は微かなエクスタシーを感じるほどに立派な性感帯へと育っていた。
耳まで伝わるほてりを感じ、
(ああ……あたし、きっと真っ赤なんだろうな。顔、熱い……)
瞳が潤む。想夜は顔を伏せた。夕焼けに照らされた顔は、うまく火照りをごまかせているだろうか?
(御殿センパイ、今はこっち見ないでください。は、恥ずかしい――)
その瞬間――
ドン!!
「ぶへっ!?」
急に立ち止まった御殿の背中へ、想夜の顔面がモロに突っ込んだ。
後ろからタックルされてつんのめる御殿。
「なに!? 大丈夫!?」
「だ、だひじょうぶ、でふ……」
心配されながらも、想夜はぶつけた鼻っ柱を涙目で抑えていた。突然の急ブレーキ、目玉が飛び出そうなほどビビった。
顔のほてりなどすっかり吹き飛んでいる。つかの間の甘い時間でした。
◆
ふたりは職員室に到着した。
入り口の前で呆然とたたずむ御殿、その後ろから想夜がヒョッコリと頭を出す。
「教員達を退避させましょう」
御殿が職員室のドアを開けて中に入る。が、先ほどまでいたはずの教員達の姿はどこにもなく、たよりない蛍光灯だけが点いているだけだった。
「誰もいないわね……、どこへいったのかしら?」
御殿が職員室の中を見渡す。
「先生たち、きっと別館に行ってるんですよ」
「別館?」
「はい。用事がある時は他の建物に移動することがあるんです」
エヘヘ~、と呑気に頭の後ろで腕を組む。先ほどまでのトキメキはどこへいったのやら。
「先生たちはいつ戻る?」
「え~と……うぅ、ごめんなさい、わかんないです」
しゅん、として鼻っ柱をポリポリかく想夜。先生のスケジュールまで知っていたら生徒としては脅威である。将来は優秀なストーカーか迷探偵になれるだろう。けれども想夜は要請実行委員会であって、けっして公務員のジャーマネではない。
厄介ね――御殿は夕日を睨みつけた。
「騒ぎに気づいて外へ出たりすれば暴魔に見つかる。全員エサになるわよ?」
「ほへ?」
危機感がないのか、「暴魔のエサ」と聞いた想夜の頭の中には、スナック菓子のように摘んでお口にポイッ! といった発想しかでてこない。正確に言えば、頭や四肢を引きちぎられ、苦痛に悶え泣き叫びながら、舌で舐め転がされ、飲み込まれ、胃液でじっくり溶かされていく――といった感じだ。
悪魔は人間の苦痛をたまらなく好む。大型暴魔なら100人くらいはペロリとたいらげる。
そんないらん説明を御殿から聞くと、みるみる顔から血の気が引いて青くなる。
「夜中、しばらく1人でトイレに行けなくなりそう」
いや、むしろ今チビりそう!!
火照ったり青ざめたり、チビりそうになったり――今日はなにかと忙しい要請実行委員会。
「学園の構造は特徴的なんです。建築家のエゴかどうかまで知らないけど、丸い柱状のホールを中心として長方形の校舎が米字状に建ってます。2つ離れた校舎にいる人には隣の校舎が死角になります!」
「つまり隣の校舎が邪魔で、その一つ向こう側にある校舎が見えないってこと?」
「はい。なのでこの校舎に群がる暴魔の存在にすら気づいていないはずです!」
「となると――」
御殿は考えたのち、制服をまさぐり小瓶を2つ取り出した。
「これだけか……」
「わあ、聖水だ! ……綺麗ですね」
想夜は瞳を輝かせた。
「よくわかったわね」
「それ見たとき、心がフワッと軽くなる感じがしたんです」
「へえ、大したものね」
そうとう感受性が高い子なのだろう、聖水だと即答したのには驚いた。想夜は清い心の持ち主のようだと御殿は思った。
「聖水が入った小瓶が2つ」
それだけ。御殿から落胆のため息が出た。
ボニー&クライドは自室に置いてきた。いくらなんでも校内での発砲許可は宗盛からは下りていない。宗盛でも学園に暴魔が現れるとは考えていなかったらしい。
想夜が「どうしよう」と御殿に訴えてくる。
「他の人達にはなんて声をかけるんです? 暴魔の存在なんて誰も信じてくれないよ!」
「あなたは信じたじゃない」
「それはいつも暴魔と戦っ――」
暴魔と戦っているからです――と、言えるはずもなく口をつぐんだ。
「そ、それより御殿センパイだって! ……あんな大きいの見て、なんで驚かないんですか!?」
慌ててはぐらかした。
「あなただって驚かないじゃない」
「驚きましたよ!」
「わたしも驚いたわ、まさか学校に奇襲をかけてくるなんて……」
「ですよね~、奇襲ですもんね~……そーゆー意味じゃなくて! あたしが言いたいのはですね――」
低姿勢を保ち、窓の隙間から様子をうかがう御殿。後ろから想夜がキャッキャとうるさい。
進展なしの押し問答、終止符を打ったのは御殿だった。
「それにしても誰の気配もないのが気になるわね」
教師、生徒、誰一人いない。まさか全員、暴魔の餌食になったりしてないだろうか――最悪の事態を頭から拭う御殿。
「みんなどこかに隠れているのかも知れません。あんな大きなバケモノ見たら誰だって足がすくんで動けなくなりますよ」
「ならオシリ叩いてでも逃がしなさい」
「まるで馬ですね」
いたって冷静な御殿の態度を見習いたい。想夜は呼吸を整えた。
「御殿センパイはどうしますか?」
「そうね――」
戦うと言ったものの、どう出るか? どこから切り込む? 戦略は?
問われた御殿が目線を落として黙る――先ほどの魔族が地獄笛で呼び寄せた刺客。
(死体になった男が暴魔をここに呼び寄せた。となれば敵の行動範囲はおそらく学校に限定されている。校外へ皆を避難させればひとまず安心ね。では、これからどうする?)
御殿の対策はこうだ――暴魔は御殿が引き付け、追ってくる暴魔めがけて聖水をなげつつ誘導、その隙に皆を安全な場所に逃がす……そう考えている。
「ここはわたしに任せて。暴魔の注意を引き付けるから、あなたは早くみんなを学園の外へ……」
静かに、ゆっくりと。言い聞かせるよう想夜をさとし、御殿は下ってきた階段を引き返した。
「あ、センパイ!」
その場に残された想夜は呆然と立ち尽くした。引き止めるはずだった右手が虚しく空振り、目の前を泳ぐ指の動きが不安な心境を映していた。
(ついていったら怒るかな……)
一瞬だけ、消える背中に惹かれて一歩出ようとした。
でもしなかった。御殿は想夜に留まることを望んだから。
目には見えなくとも、一歩先には強力なデッドラインが引かれているのだ。御殿はその先へ進んでいった。
「あたしも動かなきゃ!」
想夜は言われた通り、皆を安全な場所へ避難させることにした。
踵を返し、静まり返った廊下を走り抜ける。
◆
想夜は考えていた。御殿と罪もない人達――この2つを天秤にかけたことがどういうことかを。
時として、誰しも優先順位というものが変わる時がある。それは妖精も例外ではない。
脳裏に御殿の姿が浮かんだ。
(多分、あたし、あの人のことが――)
想夜は想う。
「さっきから、何これ……不思議なキモチ」
キュッと胸が絞まる感じ。
「胸、痛いよ……」
でも悪い感じがしない。
離れてしまうことがこんなにも切ないなんて。もっといろんなことを話したい。もっとそばにいてほしいのに。連れていってほしいのに――。
大好きな叶子にも、こんな感情を抱いたことはない。緊迫した状況下、多くの罪無き他者の命ではなく、咲羅真御殿のことを考える自分は愚かなのか? と自責の念が想夜をうちのめす。
御殿センパイは女。女の子相手にこんな感情を持つのは変だろうか? そんな感情、持ってることを御殿に知られたら嫌われるだろうか?
「嫌われたくないな……でも、相手の気持ちなんか操れないし」
MAMIYA研究所で詩織に弄ばれた時、とても嫌悪感を抱いた。女色魔の詩織に嫌悪感を抱いたというのに、今の自分は同性の御殿が気になっている――そんな感情が自分を棚上げしているようで罪悪感が沸くのだ。
「神様。このキモチ……なぁに?」
人を想うことで罪が生まれるのなら、いつかこの想いを捨てなければいけないのか。せっかく芽吹いた想いを殺さなければならないのか。
――それはあまりにも殺生だ。
想夜は静かに微笑んでうつむいた。
「こんな事態だというのに。あたし、最低だ――」
想夜はトボトボ歩き出した。
◆
ジャグリングよろしく、2つの小瓶を掌でクルクル弄びながら御殿は考えていた。
「さて。どうしたものだろう……」
ほぼ丸ごし。とりあえず聖水以外の飛び道具が欲しかったりする。
(離れたところから暴魔の体力を削りつつ注意を引きつけよう。最悪、接近戦になることも考慮しておくとして――)
あたりを見渡し、状況確認。彼氏の浮気にヒステリーを起こした女みたく、目についたものを暴魔目がけて手当たり次第にブン投げるつもりでいる。
あくまでこちら側に相手の気を引き付けるだけでいい。皆を逃がした後、御殿自身も逃げるつもりだ。
「無論、運がよければ、の話だけどね――」
逃げられる保障などない。1分後には暴魔に食われているかもしれない。御殿も。想夜も。学園の人たちも――。
廊下の壁。御殿は赤い光に気づいた。
「あれは……?」
廊下の隅に灯る赤色灯、ステンレス製の壁を細い指先でエロチックになぞった。
「消火器設置所、散水栓……」
そう赤い文字で書かれている。
扉の中には散水用のホースが設置されているはず、でもホースは威力が高いが持ち運びができない。
ガチャ。
ステンレスの扉を開けると、太いホースが。その脇に置いてある細長くて赤い物体に目がいく。
「ふむ……いいわね、コレ」
消 火 器♪
サイコーじゃないか。思わぬ所で武器ゲット。表情筋がニンマリ歪み、頭上にハートマークがふわふわと浮かんだ。
御殿は消火器を取り出し、ズシリと重い武器として身がまえた。ハリウッド俳優さながらの決めポーズ。
「……未来から来たサイボーグになった気分ね」
I’ll be back.
他にも何か見つけた。
「消火剤入りパックまで設置されている、至れり尽くせりね」
空豆状のパックに消火ジェルが詰まっている。てのひらサイズ。通常はこれを火に向かって投げつけて鎮火する。だが御殿はそうしない。
「ん……けっこう大きい」
消火ジェルをポケットにしまおうと思ったが、思ったよりも大きくて入りきらない。なので別の隠し場所が必要になる。
「し、仕方ないなぁ……この中でいいか――」
御殿はしぶしぶネクタイを緩めた。つづいてブラウスのボタンをはずす。
バックリと胸元が開いたブラウスの中へ細く棒状に変化させたジェルパックを押し込み、ほどよく柔らかに膨らんだ練乳プリンの渓谷に挟んだ。
「目立たないけど……谷間に感じる違和感が、なんか……経験したことない感覚。ま、まあいいか」
谷間に挟まるイチモツ消化ジェル――赤面でモゾモゾと胸を動かす。ちょっと大きすぎ。ポジションを整えるのが大変。
「……ふぅ、こんなもんかな」
2つのプリンが見事にやわらかい棒をくわえ込んだ。
「こっちには暴魔がいないわね」
想夜の様子が気になり、彼女が消えた方角へ急いだ。
御殿は隣の別館も隈なく調べた。人がいないことに安心したが、やはり違和感もある。
「おかしい、誰もいないなんて……」
ふたたび高等部へ戻ってゆく。
運がよいのか悪いのか。避難させる人がいないとわかってたら、余計な時間を取られずに済んだのに。でも回り道ではあったが、犠牲者を出すよりはマシだろう。それだけでも儲けもんだ。
「陽も沈んできたわね……」
窓の外に目をやると、沈みかけの夕日が街から明るさを奪っていく最中だった。
蛍光灯に照らされた長い廊下を眺めていると、突き当たりから足音が聞こえてきた。
「御殿センパーイ!」
想夜が手をふって走ってくる。
「あっちの校舎、誰もいなかったですよー!」
吉報だ。御殿はイチモツを挟んだ胸をなでおろし、向かってくる想夜に歩みよろうとした。ちょうどその時だ、
ヌゥ――。
想夜のすぐ横――窓の外を黒い影が覆う。たちまち廊下が暗闇に包まれた。
なんと巨大な暴魔が高等部の外を徘徊しているではないか。
「あぶない!」
標的を想夜に絞っていると察した御殿が叫んだ!
御殿は逃げ遅れた想夜に思い切り飛びついて覆いかぶさる。
窓ガラスが割れ、大型暴魔の指先が廊下へと割り込んでくる!
間一髪。攻撃は想夜の肩をかすめる程度にとどまったが、御殿は足を痛めてしまう。
「大丈夫?」
廊下に座り込む2人。
「御殿センパイ――」
安全な場所へ――想夜は御殿を引きずって、先ほどホースで固めた渡り廊下の扉へと移動する。
会話すら許されないまま、2発目がきた!
暴魔のナックルが扉を突き破ると同時に想夜の体を弾き飛ばす。
ドウッ。
「うぁっ!!」
華奢な体がバウンドしながら転がり、反対側の窓を突き破ってガラスの破片ごと校舎の外に落下していった。
「想夜!!」
想夜は校舎から投げだされてしまった。
御殿の叫び声の後、地面に落ちる窓枠やガラスの割れるノイズが響いた。3階からの落下、軽い怪我では済まされない。体を地面に叩きつけられたらおしまいだ。
「そ、想夜……」
御殿の顔から一気に血の気が引いた。
ついに……、犠牲者を出してしまった――。
「わたしは、あの子を守れなかった。想夜……」
最悪の結果を予想をする御殿も続けて暴魔の手払いで弾き飛ばされてしまう。
ドカッ!!
「ぐ……!!」
御殿の体がカーリングの石のように廊下をすべってゆく。
ドン!
「う……ぐっ」
壁に体を打ちつけられてようやく止まる。
開いた扉から2匹目の小型暴魔が侵入してきた。
それでも御殿は怯むことなく立ち上がり――
「犠牲はもう充分。ここで、食い止めなければ!」
懇親の力を使って立ち上がり、小型暴魔に飛び掛った!
敵の手前で大きくジャンプ。体を回転させ、遠心力の反動を活かし、手にした消火器でヌメッとした暴魔の頭を思い切りぶん殴った。
ガッ!
その一撃で小型暴魔の体がよろめく。そこへ足をかけて転ばし、さらにジャンプ!
「ふんっ!」
空中で消火器を振り上げて体を横に捻り、ふたたび暴魔の後頭部をぶん殴る!
ガンッ! ブシャアアアアアアアアアア!!
追い討ちのオマケ付き。消火器の中身を敵の顔面にぶちまけてやった。
目くらましが効いたようで、白い消化剤を被った暴魔が廊下で右往左往している。
「逃げる時間稼ぎくらいにはなりそうね」
傷ついた足を引きずり御殿が動いた、その時である――
ガシャーーーーーン!!!
窓ガラスの割れる音。御殿は腕から大げさなほどに血しぶきを上げて吹き飛んだ。大型暴魔の爪が外から割り込んできたのだ。
「う……ぐっ……2匹同時か。あまり、虐めないでくれる?」
ブラウスが赤々と染まる――腕からにじむ出血量が酷いことになっていた。
窓に近づくのは自殺行為だ。校庭をうろついている大型の奇襲を喰らうのが明白。
御殿は外をうろつく大型に見つからないよう身をかがめ、ほふく前進――廊下で横たわる暴魔からも距離をとった。
「分が悪すぎる……わね」
ひとまず撤退を考えた。
(想夜は無事かしら?)
安否が気になる。いや、生死が気になると言ったほうが正解だ。
おそらく地面で横たわっているであろう想夜を回収後、学園の外に避難しよう……まだ想夜の息があったら――そう考えていた。
「お願い想夜、無事でいて……」
心配もつかの間、起き上がった小型が御殿の逃げ場を塞いだ。
「……くっ」
暴魔の手前で御殿は食いしばる。
白い液体はピュービュー出し切った。もう打ち止めだ。消化ジェルも敵の隙をつかなければ使用不可能。おまけに体も傷だらけ。動きにキレが無い。
「ふう、万策尽きたか……」
万事休すだった――。
エーテルバランサー 想夜
3階窓から投げ出された想夜がガラスの破片と一緒に宙を舞い、地面へと落下してゆく。
地面に激突すれば即ミンチ、タイミングがズレれば校舎の壁に激突死。一瞬の判断、しくじれば……死ぬ。
想夜は空中で起用に身を反らしながら、迫り来る地面との距離をはかる。
「このくらいか……いや、もうちょい引きよせてから――」
頃合をみて、
「このくらいか……もう少し――」
静かに目を閉じ、
「このくらいだ。よし、イケる!!」
カッとまぶたを開いた。
「アロウサル!!!! 風を……紡ぐ!」
落ゆく体を空に向けて叫んだ!
瞬間、まばゆい光が想夜を包み込んでゆく――そうして蛹は姿を変えるのだ。生まれたばかりの蝶のように、羽を広げる妖精へと――。
「ワイズナー、おいで!」
背中に槍剣が構築され、胸元のベルトが重くなり、πスラッシュを作った。
羽をひろげた妖精。まるで床に落ちる瞬間の摩擦を知らない紙のように、地面すれすれを滑るように這ってゆく。地面に叩きつけられることもなく、発展途上の胸を少し掠る程度に至った。
「ふぅ、Bでよかった」
巨乳なら地面ですり減っていたところ。Bも捨てたもんじゃない。
想夜は地面近くから大空へと急上昇。背中のワイズナーを引き抜き、落ちてきたばかりの3階を目指す――バックリと割れたガラス窓から御殿の背中がチラリと見えた。
「こ、御殿センパイ!」
消火器だけで応戦する御殿の勇姿はカッコよくて、自分もそうなりたい、と想夜に勇気を与えてくれる。
「逃げてるだけじゃ何も始まらないんだ。暴魔は苦手、という言い訳はただの敗退宣言でしかない!」
苦手なものに立ち向かってこそ、昨日の自分よりも成長できる。昨日までの自分に打ち勝つことができる。
「できない理由は自分で決めているんだ! ……乗り越えるの、昨日までのあたしを!!」
壁の向こうには、乗り越えた時の爽快感が待っている。
想夜よ。壁を越えろ!!
妖精に不安は微塵もなかった――今までのように『戦ぼっち』じゃないってことを御殿センパイが教えてくれたから。
想夜は湧きあがる勇気を胸に秘め、校舎内へと突っ込んでいった。
「御殿センパイ伏せてぇぇぇ!!」
その声に御殿が振り返る。
「想夜!? え、なに? ……飛んでる!?」
腰を低くした御殿の頭上を追い越し、想夜が小型暴魔にワイズナーの刃を叩き込んだ。
ドオオオオオオオオオン!!!
音速に近いほどのスピードと体重を乗せた想夜の攻撃がクリーンヒット。
ド派手な爆音が校内に響く――まるでジェット機に体当たりをかまされたかの如く、体勢を崩した小型暴魔の巨体が廊下をゴロゴロと転がり、遠くはなれた突き当たりの壁に激突してめり込んだ。
妖精の速さが作り出した衝撃波で廊下の窓ガラスが全て飛び散る! まるで街に隕石が落下するように。
校舎の窓ガラスを全て壊すよりましかもしれない、13の夜。
小型暴魔と向かい合う想夜、足がガクガク震えている。人間で例えるならば子供の頃、近所のガキ大将にワンパン入れた時の感覚。「一発入れてやったぜ」とは言えど、あとに何をされるか分かったもんじゃないという恐怖。
乗り越えなければならない砦はすぐ目の前。
「あたしの力は充分にある、あたしの力は充分にある、あたしの力は充分にある――」
「あたしはやれる、あたしはやれる――」。おまじないのように何度も唱え、潜在意識に浸透させた。
それをキッカケに足の振るえがピタリと止まる――思い込みの力は強力だ。それは一つの壁を乗り越えた瞬間を意味していた。
「スー」
息を吸う。
「ハー」
息を吐く。
深呼吸、からの――
「よし、かかって来なさい!」
やけくそにコブシをかかげ、怒りで頭を沸騰させた。その後ろで、
「想夜……ぁ、あなた……」
御殿は声をふり絞り、目を丸くしながら見ていた。
羽を広げた妖精――。
得体の知らないものを見た時のように、うまく言葉が出てこない心境の御殿。
想夜にも御殿の気持ちが分かった。ひとり、勝手に、目の前の御殿に距離を感じる。離れていくことから生まれる孤独、孤立……それがとても嫌だった。どんな体の傷より痛かった。
想夜の目頭に熱く込み上げてくるものがある。
涙――瞳を覆う水分。気持ちがつまった水分。
(人間じゃないということがバレちゃった。学校にいられなくなる……友達にも気味悪がられるかな……えへへ)
乱暴に涙を拭う。
「でも、いいんだ……だって……」
そう言い掛けて想夜は鼻をすすった。鼻がツンとして喉が痛くなった。嗚咽をあげかけて口を噤んだ――でも笑顔は絶やさない妖精。
想夜の中には独自の法律がある。誰にも変えられない想夜だけのルール。
いま、こうして、ここにいるだけで、満足だった――。
「友達を守るためなら妖精界のルールは邪魔なだけ」
感情に振り回されてルールを逸脱。身勝手なお子様の得意技だ。だがそれでいい、どんな時も破壊と創造は一体だ。ルールを破るという破壊行為から生まれる『創造』の快感。より深い絆を求める創造――理にかなっている。
「御殿センパイ……」
想夜は振り向き、すぐ後ろにいる御殿の体を気づかう。
「そ、想夜……」
深手を負っている御殿。腕を痛めているが、傷口にもう片方の手を添えながらヨロヨロと立ち上がる。
「どういう鍛え方をしているのだろう、かなりタフな体だ」と、想夜でなくても誰もが思うだろう。
御殿は立ち上がると同時に、想夜の後方を見てギョッとした。
「危ない、後ろ!!」
その一声で想夜は正面を向く。遥か遠く、廊下の突き当たりまで吹っ飛ばした小型暴魔が雄たけびを上げながら2人に向かってきたのだ。
「想夜逃げて、潰される!!」
御殿の言葉に想夜がにっこり微笑んだ――こんな時でも自分のことを想ってくれる人がいるんだって思えたから……だから、笑顔が作れた。
「大丈夫ですよ。センパイ」
想夜は6枚羽に力を入れた。
「力を……紡ぐ! ピクシーブースター!!」
ボシュウ!
6枚の羽がブースターのように熱気を繰り出し、唸り声を上げる!
暴走機関車のように小型暴魔が突っ込んできた。
小型といえど想夜の体の何倍もある暴魔の巨体。それをワイズナーの腹で防御。制止するも、想夜はジリジリと押され後退してゆく。
「ブレーキがもたない!!」
御殿の読みどおり。想夜と暴魔――2つの物体が後ろの御殿へと迫ってゆく。
13の少女が特急列車を止めているような光景。
「この……なめるなあああああああああああああ!!!!!」
妖精が叫ぶ!!
羽がオーバーヒートを起こす寸前のこと。
――ピタリ。
想夜と暴魔の動きが止まった。
御殿が息をのむ。
「暴魔の突進を……防いだ!!」
間一髪、暴魔のタックルをワイズナーの腹でみごと防ぎきった。
器用に羽ばたいているために廊下に足が着くことはない、ゆえに転ぶこともない。想夜の体は常にバランスがとれた状態で、羽がブーストやブレーキの役割をうまくこなしている。暴魔渾身のタックルでさえも、御殿の手前に迫るころには羽のパワーにより失速していた。
「なんてパワーなの!? 暴魔の体当たりを相殺するなんて!!」
ただただ驚くばかりの御殿。
「まるで暴走列車を素手で止める小鳥のようだわ――」
そう感じた。
御殿は背中を見せる想夜をゆっくりと見上げ、こうつぶやく――
「想夜、あなたは……妖精……な、の?」
と。
御殿は食い入るように見つめている。
(羽……6枚の羽。妖精の羽だ……)
キラキラと、エメラルドの輝きをはなち透明感あふれるアメ細工のような芸術――そんな作品に思わず息を呑んだ。
処女のそれと同様――触れることで壊れてしまうのではないか? そう思わせるほどに繊細で、濁りを知らないほどに透明で、ピンと張った刃のように凛々しく、触れるものを切り刻むのように勇しく――穢れを知らないその姿からは、甘い甘い媚薬の香り……そうやって御殿の美意識を魅了していった。
それと同時に嫌なことも思い出す。先日の研究所での出来事だ。研究員に成りすました暴魔の言葉――
『魔界は妖精界と手を組んだ――』。
それが脳内でこだまする中、
「……ィ! ……御殿センパイ!!」
妖精の呼びかけで御殿は我に返る。
「忘れていたわ、ここが戦場だということを――」
戦い以外の思考は「殺してください」と言っているようなもの。ここは美術館ではなく戦場だ。先にやるべきことはあるはずだ!
「センパイ、早く……に、げて……」
「想夜!」
想夜が歯止めをかけている間にエクソシストは手を打たねばならない。躊躇無用、立ち向かう想夜が力尽きるのも時間の問題だ。
促された御殿がボロボロの体を引きずり、妖精と暴魔が押し引きを繰り返している真横をすり抜けてゆく。
その一瞬の隙をつき、御殿に向かって暴魔が牙を剥き出し襲い掛かってきた!
「センパイよけて!!」
叫んだ時だった。
御殿の眼光がギラリと光る。
静かに流れる水面のように、御殿の上体がユラリと揺れた。体をクルリと回転させ、大げさな音を立てることもなく素手と背中を使って牙を受け流したのだ。
そこへ足を引っかけて暴魔の体勢を崩す。
グラリとよろめいた巨体が前につんのめる。
ドン!
御殿は背中全体を叩きつけて追い討ちをかますと、暴魔は横倒しになり、近くのドアへ頭から突っ込んでいった。
「なに今の技!? ……AB同時押し?」
想夜の口から歓声が漏れた。
「映画に出てくる武道の達人みたい!」
想夜は歓喜する。山奥で修行でもしたのだろうか? そう思わせるほどに華麗な体捌き。御殿はつくづく謎が多い転入生である。
真っ先に危険に気づき、想夜のことを庇ってくれた。付け加え、自分がミスをしなければ全ての攻撃を避けていたのかもしれないのに――という罪悪感もあった。
回避もつかの間、攻撃をさばいた時にブラウスを暴魔の牙に引っかけてしまい、御殿のふくよかな谷間が露になっていた。消化パックまで裂け、オプションサービスなのか、中身のジェルがネットリとはみ出している。
「ま゛っ!」
ふたたび想夜の素っ頓狂な声が出た。2個の練乳プリンに白濁液がかかった御殿のデザート。実に美味しそう。
アレを塗れば大きくなるのかな? サービス精神も抜かりない人だな――とか関心してる場合じゃないでしょ想夜。
想夜はブンブン首を振る――戦場に余計な思考はいらんのじゃ! 欲しいのはありったけの勇気と胸の脂肪じゃ!!
御殿は2つの膨らみにしたたるネバネバに目線を落とし、「丁度いいや」と言わんばかりに谷間のパックを引き出した。
ヌルリ――。
糸を引いたパックを手に、暴魔に見つからぬよう死角となったドアの横に身を潜める。
「御殿センパイ、それどうするんです?」
ささやく想夜に御殿がウインク、唇に指を当てて「し~」の合図を送る。
やがて暴れ狂いながら部屋から出てきた暴魔。
その横っツラ目掛け、
「暴魔さん、これもサービスしてとくわ……」
御殿は凍るような冷たい口調で、ヌルヌルおもちゃ(※消火パック)を叩きつけた!
ベチャッ!
ネバネバしい音を立て、乙女の蜜のような粘液が暴魔の頭にこびりつく!
小型暴魔がたまらんとばかりにブンブン頭を振りまわして暴れはじめる。それでも顔面に粘りついたジェルは落ちない。
御殿が思っていた以上に糸を引く液体だった。
追加オプション、御殿は平たいロープのようなものを暴魔の足にグルグル巻きつけて動きを封じた。
「あれは……消化用ホース!?」
想夜が外に投げ出されてる間、御殿は消火器設置所から引っ張ってきていた。
廊下の奥のほうから延々と血液とホースが続いていた。傷ついた体で運んできたのが証拠として残っていた。
「御殿センパイ、そんな体でホースを……」
自分たちより巨大な敵に対して、怯むことなく立ち向かう姿に感極まって瞳がにじんだ。
「怖くない……怖くない! あたしだって……やってやるんだから!!」
想夜の瞳がギラリと光る。覚悟を決めた!
足を縛られて身動きが取れない暴魔。ホースを振りほどこうと暴れだす!
そんな暴れ牛の脇をすり抜けてゆく御殿。
「あとは妖精さんに任せるわ。わたしは外のヤツを片付けてくる!!」
「わかりました! 御殿センパイも気をつけて!」
大きくうなずくのは信頼の証。普段のポニテがいつにも増して凛と輝いていた。
「期待してる――」
御殿は言い残してウインク。廊下つき当たりの階段を上り、屋上へと消えていった。
◆
廊下の中央、視界を封じられた小型暴魔の動きはかなり鈍っているものの、あたりの壁に何度も激突する姿は暴れ牛のように荒々しくて近づきにくかった。
それでも想夜は闘牛の背中に飛び乗り、振り落とされないように耐えた。
ブンブンブン! まるでロデオだ。
振り落とされないよう暴魔の頭にのし上がり、しっかりと頭皮をつかんで離さない。
すぐ目の前に見え隠れするツルハシのように鋭い牙に恐怖を誘発されることもない。
「負けるもんか!!!!」
懇親の力を込めて、ワイズナーの矛先をブッ刺す!
ブシャアアアアアアアアアア!!
暴魔の額からドス黒いヘドロのような血が噴き出し、妖精の体中に汚らわしい洗礼を浴びせる。
「ゲホッ、ゲホッ、おえええええっ」
あまりの悪臭にむせる想夜。
ドン! ガン! ガン!
暴魔は額にまとわりつく妖精を右へ左へぶん回し、壁中、いたる所に小さな体を叩きつける。
想夜は歯を食いしばって、それに耐えつづける。
ガラスケースに置かれた賞状やトロフィーが散乱し、あたり一面に散らばる。
「あ……なんてことを!」
――それを見た瞬間、想夜はカッとなって頭に血がのぼった。
「みんなの努力を……何だと思ってるのよ!!」
額からワイズナーを引き抜いた想夜は、さらに暴魔の顔面めがけて突き刺した。
「ギュオオオオアアアアア!!!!」
暴魔の悲鳴。
2回目のヘドロ血の洗礼。
それでも想夜は羽にブーストをかけ、暴魔の周りをグルグル小回りしながら切りつけてゆく。物凄い速さで切りつける姿は、ハリケーンかカマイタチのよう。
ダメージを与えつつ、巨体の動きが鈍った頃合を見はからい、ワイズナーを逆手に持ちかえ、リボンを大きくゆらした。
「槍を紡ぐ!!」
ワイズナーからリボンが解け、ふたたび武器を結い始めた――ワイズナーがランスモードに切り替わる。
「食らえええええええええええええええええええ!!!!!」
槍投げ選手のごとく、暴魔の心臓に叩きつけた!
槍は暴魔に突き刺さるのと同時に巨体を前へ前へと押しのけてゆく。その攻撃で、みごと暴魔を校舎の外へと弾き飛ばした。
屋外まで飛んでいった槍をリボンを引っ張って回収。
「ふう……」
想夜は頬にこびりついたヘドロを肩で乱暴に拭った。
バケツのねずみ
御殿が段飛ばしで階段を駆け上がってゆくと、壁に貼られた一枚の護符に気づいた。
「これは、人払いの儀式」
何者かが前もって人気を払っていたらしい。どうりで人がいないはずだ。
護符の端っこに誰かさんの似顔絵。一緒にメッセージがつづられている。
――『下校時に魔臭がした。一応貼っとくぜ 狐姫ちゃんサマより』
「馬鹿ね、早く言ってよ」
とはいえ、連絡手段がないので報告のしようもなかった。
頼もしい相方に感謝しておくとして。
御殿は最上階の閉ざされた扉を開けて屋上に飛び出した。
頭上に広がる茜色の空のもと、慌てて四方を見渡し何かを探す。
「……あった!」
御殿の目に飛び込んできたのは鉄柵で高置された貯水タンク――さきほど想夜に案内されたときに目にしたものだ。
「急がなきゃ!」
タンクに駆けよりハシゴに手をかけて登り、タンク上の開閉レバーをひねる。
閉ざされた直径1メートルほどの円蓋をこじ開け、中を覗き込んだ。
中には大量の水がある。
大掛かりなフィルターを通して飲料水にしたり他の用途に使う――と想夜が教えてくれた。
「よし、イケる!」
てのひらに収まるほどの小さな十字架をポケットから取り出し、タンクの中に投げ入れた。
十字架が共にゆっくり沈んでいく――同時に腕をまくり、タンクの上に体を突っ伏す。
「さて……」
御殿は白い腕伸ばして水面に突っ込むと、静かに詠唱を始めた。
「十字架に宿りし神の御霊よ、聖なる泉に祝福を与えたまえ――」
霊媒業において特殊な十字架は、ただの水さえも聖水に換える効果がある。
御殿はこれから行う攻撃にそなえ、下準備を開始する。
御殿の手を通し、水中の十字架が波長を合わせて光りだした。ただの貯水がみるみるうちに光を帯び、キラキラ輝くそれにかわる。
淡く、そして蒼い光が水面とともに揺れ、御殿の顔を照らした。
「ふう、こんなところね」
そうやって大量の聖水を完成させた。
胸をなでおろすのもつかの間、すぐ真下から物音がした。
ズドーン!!
建物全体がグラリと大きく揺れ、貯水タンクもそれに習った。
「下の住人ががんばってるみたいね」
下の階で妖精と暴魔がド派手に競演しているのが屋上の御殿にもわかった。
「急がなきゃ」
御殿が上体を起こしたとたん、2回目のズドンがきた――タンクの上に立ったばかりの体を揺さぶられてバランスを崩してしまう。
おっとっと、御殿は腕を大きくブン回して体勢を立て直そうと試みるが、足をすべらせタンクの中に頭からダイブ。
ザッバアアアーーン!
タップリつまった聖水に落ちてしまった御殿はすぐに浮上し、水面に顔を出す。
「っぷは! ……こんな時に!」
想定外――長身の御殿でもタンクの底に足がつかないほどに水深は深かった。
バシャバシャと両手足で掻き分けてると、なんだかバケツの中の小動物になった気分になってくる。
「深いわね……」
ふと、水バケツにネズミを入れた実験話を思い出してゲンナリしてしまう。
嘘か誠か。ネズミと水バケツの話――水を張ったバケツにネズミを入れ、布を被せて真っ暗にする。するとネズミは泳ぐのを諦めてしまい、30秒ほどで溺死してしまった。いっぽう、布に一つの穴を開けてバケツ内に光を差し込ませると、ネズミは上の光に向かって泳ぎだす。この場合、ネズミは30時間以上も泳ぎ続けたという。
泳ぐことを諦めるのは生きることを諦めること。タンクの中で孤独死などという目標を立てた覚えはない。
30秒か?
30時間か?
もちろん後者だ!
人間、どんな時でも目標を持っていたいものである――。
「ネバネバが洗い流せてちょうどよかった……などと、悠長なことを考えている暇はないわね」
30時間も泳ぐ気は全然まったくサラサラないので、ピンと伸ばした腕をタンク上の丸いふちに手をかけ、両腕に力を入れる。
そうやって懸垂の要領で一気にバケツの外に上がった。
「ふぅ……この時期の水泳はまだ冷える」
4月中旬の寒空の下。大きなネズミは長い髪をブンブン振った――ズブ濡れになった犬みたく、あたりかまわず水しぶきを撒き散らす。
貯水タンクから飛びおり、聖水まみれのままフェンスから下の様子をうかがう。
「もうすぐ暗くなる」
夕日が役目を終え、闇の時間がやってくる。
魔が差す――。
魔が刺す――。
本舎と別館の間から差し込む夕焼けのプリズムが視界をさえぎる――日没まで時間がない。暗くなればなるほどに魔族は暴挙に打って出る。その力は日中の比ではなく、御殿をいっそう不利にさせるだろう。
目を細めて学内を見下ろすと、すでに隣校舎真下まで魔の手が迫っていた。
「大型か。案外早いのね、もっと遅くてもよかったのに」
御殿は歯をかみ締めてうそぶく。
「――こちらに気づいたか」
先ほどまで別館下にいたはずの大型が屋上の御殿に気づき、ものすごい速さで校舎の壁を這い上がってきた。地上の大型暴魔は3階に頭が届くほどの巨大サイズ。
「あと数秒でここに到達する、早くあの子に知らせなきゃ」
御殿はこれからの作戦を想夜と共有する予定でいた。
校舎に入ろうと扉に向かおうとした時だ。御殿の間に大きな影が立ちふさがり、行く手を阻まれてしまった。
「遅かったか!」
校舎へ駆け込む御殿の足より、屋上に到達する大型暴魔のほうが早かった。
御殿が大型暴魔を見上げる。
大型暴魔が御殿を見ている。
両者がにらみ合った。
目の前の敵に息を呑み、だじろぐ御殿。
そして――
「来る!!」
御殿に向かって大型暴魔の手が伸びてきた!
御殿は身構え、両腕で顔を庇いながら敵の攻撃に備えた。が、なにせ敵のデカさが半端ない。
伸ばされた暴魔の手の中、御殿はあっけなく握りつぶされてしまった――。