4 狐姫のグルメ


 マンション名、ほわいとはうす。それが御殿と狐姫の住む建物。

「――雪車町だっけ? 俺、焔衣狐姫。よろしくな。想夜って呼んでいい?」
「うん、いいですよ。あたし雪車町想夜です。よろしくね、焔衣さん」
「俺も下の名前でいいよ。ですますも無しで。仲良くしような想夜。で、この黒いのが咲羅真御殿」
「よ、よろしくお願いします。咲羅真センパイ」
「よろしくね、雪車町さん」
 御殿の手前、想夜がペコリとお辞儀する。失礼のないようにしなくちゃね。
(高等部の人かあ、きれいな人だなあ。モデルのようなスラリとした体形に流れる黒髪ロングストレート。出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる。まるで雑誌から飛び出してきたかのよう。毎日何を食べているんだろう? ダイエットとかしてるのかな? 部活とかはもう決めたのかしら?)
 中学生から見た高校生は憧れだ。暴力祈祷師さながらの凛とした姿勢や引き締まった体も目を引くところがある。御殿の正体を知らない者から見れば、明らかに浮いた存在だった。

 想夜が御殿に見とれていると、狐姫が顔を向けてニシシと笑う。
「このマンション、宇宙人に攻撃されそうな名前だろ? 上からレーザー振ってきそうだよな? な?」
「う、うん」
 想夜は返答に困り、顔を引きつらせた。
「おまえもそう思うよな!」
「う、うん」
「いかにもって感じだよな!」
「うん」
「失礼だなおまえ。いちおう人ん家だぜ? 瞳まで輝かせるかフツー。自分のアジトが攻撃確定されたみたいで嫌な感じだぜ」
「初対面で否定するのもどうかと思って。シャコウジレイ的な……」
 ションボリと肩をすくめる想夜。
「変な気使うなよ。そこは否定しろよ、傷つくぜ……」
 狐姫もいっしょに肩をすくめた。


 御殿と狐姫は客人をほわいとはうすに招いた――。

 簡単な自己紹介を済ませた後、御殿と狐姫は玄関に詰まれたダンボールを隅によせる。
 先日、叶子の屋敷にお邪魔したばかりだというのに、今日は自宅に招き入れている。まるで友達ごっこでもしているような感覚、御殿には受け入れられない。

 友達、できるといいね――御殿はふと、狐姫に言った言葉を思い出す。その言葉が御殿自身に向けて誰かが言っている気がして、ふいに切なくなる。

 御殿が玄関に想夜と叶子を迎え入れた。
「越してきたばかりで客人用のスリッパも用意してなくて――」
「大丈夫。気にしないで」
 叶子が御殿に笑顔を向けた。冷徹なイメージを持つ愛宮の血が流れているのに、白百合のような繊細で優しい笑みを作り出してくる――それも裏社会で学んだポーカーフェイスなのだろうか? 白百合ではなく白薔薇かもしれない。掴んだ瞬間、指先にトゲが刺さっているなど裏社会では当たり前のことだ。
 御殿は内心、余計な勘ぐりを入れる自分のことを嫌っていた。
 昔、疑うことを知らない時間が自分にもあった……気がする。けれど、喰うか喰われるかの世界では不要な感情だ。その事を戦場で学んできた。
 そこで想夜が紙袋を差し出した。
「あ、あの。ごあいさつ代わりの差し入れを持ってきました。といっても叶ちゃんが持ってきてくれたんだけど。愛宮邸のパン、とってもおいしいんですよ。あたしも大好きなんです」
 照れ隠しに頭をポリポリとかく。

 紙袋を開けると、甘くて香ばしい香りが室内に漂い、一同の小腹をくすぐる。みな目を閉じ、香りを堪能している。
「おいしそうね。紅茶を入れましょう。おふたりとも適当に座っていてください」
 想夜と叶子はお客様。御殿はふたりをテーブル席に促した。

 想夜が挙手して名乗り出る。
「あ、あたし手伝います」
 そう言って、そそくさと台所に近づいてゆく。
「それじゃ、私も手伝おうかしら」
 と叶子もテーブルに両手をついてゆっくり立ち上がった。
「それじゃあ、雪車町さんと叶子さんには何をしてもらおうかな」
 せっかくのご好意、断わるのも失礼に感じた。
 御殿の指示に従い、皆せっせと引越しの手伝いを始める。

(何かしなきゃ要請実行委員会の名が廃れるわ。ここが頑張りどころなんだからっ)
 想夜は腕をまくり、鼻息吹かして意気込んだ。
 御殿が狐姫のほうを向く。
「狐姫、お皿だしてちょうだい」
「うい~。投げるぜ~、ちゃんと受け取れよ御殿」
「やめなさいって何度言えばわかるの?」
 フリスビーみたいにお皿を投げようとする狐姫。それを母親のように叱る御殿。
「うっそー。ビビッてやーんの」
 狐姫がダンボールから取り出したばかりの食器を洗い、支度をはじめた。とてもやんちゃな子供である。


 御殿は台所で湯を沸かしながら指示を出し、忙しなく動いている。
 想夜はダンボールを片付け。詰まった衣類を取り出して驚愕する。
「うわ、おっきい……」
 想夜が4分の3ブラを両手でかかげた。
「サイズ的に狐姫ちゃんだと大きすぎるわね。きっと御殿センパイのものね。どれどれ……うう、やらやきゃよかった」
 自分の胸にブラを当てては自爆。カップの差にガックリと肩を落した。
「世のなか不公平すぎるうーっ」


 衣類の整理を終えた想夜がリビングに戻ってくると、コンロの前で御殿が何かやっているのが目に入る。
 カチッ、ボッ!
 にやり。御殿の口元がゆるんだ。
「……素晴らしい」
 ほんとうに素晴らしい。ガ ス コ ン ロ 。
「咲羅真センパイ、なんだか嬉しそうですね」
「そう? 御殿でいいわ、雪車町さん」
「わかりました。あたしも想夜って呼んでください、御殿センパイ」
「OK、想夜」
 御殿は少しご機嫌だ。まさかガスコンロごときで舞い上がってるとは誰も思うまい。

 ポットや茶葉をそろえたり、パンを皿の上に並べたり。エプロン姿でスリッパをパタパタさせる御殿は、まるで新妻みたい。
「想夜、ちょっと火、見ててくれる?」
「わかりました」
 御殿はそそくさと寝室に消えた。
 想夜は両手でコンロにもたれかかり、楽しそうに鼻歌まじりで火の監視。沸騰するまでしばらく時間がかかりそう。


 茶葉の香りが漂う中、ひと足先に準備を終えた叶子はテーブル席についていた。
 想夜は借りてきた猫のようにキョロキョロと部屋を見渡す――落ち着かない態度。淑女のように静かに座る叶子とは正反対だ。普段、学校を走り回っている姿とはぜんぜん違う。
 想夜が叶子に耳打ちをする。
「広いお部屋だね、叶ちゃん」
「ふふ、そうかもね」
「いいなぁ~。マンション住まい」
 お子様は一人暮らしにあこがれを抱くもの。
 カップの絵柄に見入っていた叶子が横目でチラリと想夜を見る。
「あら、女子寮じゃ不満? MAMIYAとしては生徒に不自由のない寮生活を提供しているつもりだけれど?」
「不満ではないの。でもひとり暮らしにあこがれるっていうか、何でもひとりでできる大人って感じが格好いいっていうか……」
 想夜はねだるように言う。無論、棚からボタ餅が落ちてくるわけじゃないんだけどね。
 そこへ叶子が現実を突きつけた。
「――あこがれるのもいいけれど、現実問題として家賃の支払いがあるわよ? 光熱費、生活費、新聞の勧誘、N○Kの無謀な取り立て、その他もろもろ。栄養のバランスも考えて食事をとらなくちゃね。まあ大変」
「んぐ!」
 想夜の時給では絶望的な予算案。とうぜん議決は通らない。今の自分には騒がしい女子寮がお似合いのようだ、と現状を認めざるおえなかった。
「他にも炊事洗濯掃除ゴミ出し、それから……」
「う……女子寮で、いいです」
「『女子寮で』?」
 『で』ってなによ。叶子の細かい追加攻撃。とりあえず寮生活でガマンしとくか、みたいな言い方が引っかかった。
「う、女子寮が……いいです」
「声が小さいわね」
「じょ、女子寮がっ、いいです!」
「よくできました♪」
 弾むように喋る叶子の手前、現実に打ちのめされた想夜だった。


 やかんも沸騰しかけた頃、空白の席に想夜が目をやる。
「御殿センパイ遅いなあ、パンさめちゃうよ。紅茶の入れ方ってどうするのかしら? お湯を注げばいいのかなあ?」
「呼んできたら?」
「そうします」
 想夜はキッチンを離れ、隣の寝室を目指す。

 想夜が寝室の扉をノックしようとする、ちょうどその時だ。部屋から出てきた御殿が目の前に立ちふさがり視界を遮った。
「おわっぷ!」
 迫ってきた御殿の谷間に顔を突っ込んでは、変な雄たけびを上げる想夜。
「ああ、想夜。寝室は自分で片付けるからいいわ」
 入っちゃダメと想夜をうながす御殿。内心では焦り、そそくさとベッドの下の引き出しを閉じて何重にも鍵をかける。
「さ、一息いれましょう」
 想夜の小さな背中を押してリビングへ連れて戻る。
「御殿センパイ、寝室の片づけも手伝いましょうか?」
「寝室は本当に大丈夫だから――」
 想夜を椅子に座らせてから一息、御殿がキッチンに戻る。
「ごめんなさい、まだ寝室の整理が終わってなくて……」
 火を止めてお茶の仕度をする御殿に想夜が親指を立てた。
「パンツ見られたくないんですね、わかります!」
「あ、あはは……」
 御殿、苦笑。性別がバレたら地獄だ。

 一同がテーブルをかこむ。大皿の上に色とりどりのパンが並べられている。
「うわぁ、まるでパン屋さんにいるみたいだわっ」
 瞳を輝かせながら歓喜する想夜。
(どれから食べようか迷ってしまうわ。ううん、いけないいけない。このパンは御殿センパイと狐姫ちゃんを歓迎するためのものだもの。ここはぐっとガマンガマン……)
 想夜はおあずけをくらった子犬のように、テーブルで静かに待つ。
 紅茶は御殿が淹れる。慣れた手つきでカップに注いだ。
 ティーポットに茶葉を入れ、沸騰したばかりのお湯をそそぐと、熱湯の中で茶葉が踊る。
 想夜がティーポットを真剣に見ている。
「うわあ、紅茶の葉が上下してる」
「ふふふ。面白いでしょう?」
 上がったり下がったりを繰り返しては妖精の舞を見せてくれる茶葉たち。ジャンピングという効果だ。茶葉をジャンプさせると紅茶の風味が増して美味しくなる。

 で、3分ほど待つ――。

 お湯で温めたカップに注がれる紅茶。琥珀色に満たされたカップからやってくる媚香が食卓をさらに彩った。


狐姫のグルメ 『愛宮のサンキュー、サンライズ』


 忙しい現代社会――人も狐も、食に関しては職を忘れてもいい。
 除霊や聖水にとらわれず、幸福で満腹が満ちる時、俺は自分勝手になる。
 暴魔に邪魔されずものを食べるという孤高の行為。その行為こそが暴力祈祷師に平等に与えられた、最強の『サンキュー』といえよう――。

 俺はテーブルに並べられたパンに目をやった。
「――ほお。より取り見取りのパンじゃねえか」
 舌なめずり。皿の上に盛り付けてあるパンを前に、合掌――。
「イタダキマス……」
 両手に余るほどの大きなメロンパンに手を伸ばす。と同時に脳内でシックなBGMが流れ始める。
「メロンパンか。甘くて大きくて食べ応えがあるんだよなあ、どれどれ」
 裏表をゆっくり吟味し、それを一口――。

 もきゅっ。もきゅっ。もきゅっ……。

「うん……うん……。ほほお~う」
 サクッ。
 しっとり。
 もっちもち。
「ほほおおお~う」
 しっかりメロンパンしてるなぁ~。上の生地がクッキーのような心地よい硬さだ。中の生地はしっとりとしてモッチモチ。これはただの小麦粉じゃないな? 米粉とか使ってるのかな? なかなかやりおる」
 後味さっぱり。
「うん、うん。俺はこういうのも好きなんだ。気取らない味、こういうのでいいんだよ、うん――」
 関東ではメロンパン、関西ではサンライズ、またはサンライスと呼ぶ。
「パンなのにライス。関西人の考えることは謎だらけや。ホンマ謎だらけやで……」
 紅茶が注がれたカップに手を伸ばす。黒髪ロングの店員登場。この店はなかなか気が利くじゃあないか。
 くんかくんか。
「うん、実にいい香りだ。いつも淹れてくれるやつだな。えーと、なんていう紅茶だっけ? ……忘れた」
 ま、いっか――狐姫は口にカップを近づけた。
 ズズズ……
「……あ、そうそう思い出した。『れでぃぐれ~』だ、やっと思い出したよ。果物の皮と茶葉が相まってなんちゃらかんちゃら……じ、実にいい香りだな、うん」
 パンを紅茶で流し込むと、ほどよい風味が口の中いっぱいに広がる。
「うまいもんを食べるとうまい紅茶が飲みたくなり、うまい紅茶を飲むと、またうまいもんが食べたくなる。西洋の菊マサムネ的発想。悪くない」
 後を引くうまさ、でもしつこくない。やるじゃないか黒髪ロング紅茶。やるじゃないか愛宮パン。
 関東と関西をまたにかける食文化、ここにありだ!
「ようし、のってきたゾ~。スピードアップだ!」

 本気の料理には本気で取り組まなくてはならない。それが料理に対する礼儀だ。
 脇まで上げた裾をさらに意味なくまくり上げ、食という名の戦いへと赴いた――。
 シックで落ち着いたBGMがノリノリのギター演奏に変わる。
 ロックだ! 食はロックだ! 俺の中で戦いの火蓋は切られた。
 メロンのほんのりとした甘さと紅茶のほどよい香りが口の中で、戦という名のハーモニーを奏でる。
 気取らなくていい。気取らなくてもいいんだ。
 素直に、ただ己の食欲をぶつけるんだ!
 くわっ。
 ――開眼。パン相手、もはや遠慮はいらない。食って食って食らいつくす!

 ガツガツ、ガツガツ!

 そうこうしているうちに戦は終末を迎える。
 モキュ、モキュ、モキュ。ゴクゴクゴク、ぷはー。
 パンを咀嚼して一網打尽。紅茶で流し込んだ。
「ふぅ~食った食った。余は満足じゃ」
 合掌――。
「……ごちそうさまでした」
 いやあ、食った食った。今日はメロンパン日和だな。また食べよう。
 サンキューメロンパン。
 サンキュー。サンライズ!
 リビングの窓から山に向かって叫ぶ!

「サンキュー! サンライズ!」

 ほっむらーい、こっひ~め! Uh~♪
 ※次回の狐姫のグルメは『帰ってきたクッキー』 お楽しみに。


ぞうきん何枚?


 独りごとを連呼しながらパンをほおばる狐姫のことが不思議な生き物に見える――想夜はポカンと口を開いたまま。グルメについてゆけず。

 叶子が狐姫の口の周りについたクリームをテッシュで拭き取っている。
「うふふ、口のまわりこんなにしちゃって。また作ってもらうわね」
 狐姫の面倒を見ている叶子の横で、想夜は顔面蒼白のままだ。
 「サンキュー、カツサンド。サンキュー、チョココロネ」――狐姫はまだ一人でブツブツ言っている。
 ツッコみの催促かしら? と、想夜は頭を悩ませる。グルメな獣人を前にコロコロ変わる想夜の表情。人間界は不思議でいっぱい。

 狐姫の騒がしさには慣れている御殿。微笑み、カップに口をつけた時だ――瞬間、凍りつくように冷たい殺気を感じて目線をあげた。
「……?」
 隣に座る狐姫、向かいにはニコニコと笑みのたえない想夜、その向かいには叶子が上品なしぐさでカップに口にしている、それだけだ。それ以外に変わった様子はない。

(気のせいか)
 ――突き刺さるような視線は気のせいだったのか? 勘ぐる御殿だったが、その真横から相方が口をはさんで空気を破ってきた。
「おまえら知ってる? 御殿のパンツはトランクスなんだぜ。しかも趣味の悪い文字パン」
「「「ブフォッ!!」」」
 狐姫以外の全員が一斉に紅茶を吹き出し、ゲホゲホ咳き込んだ。ゴックンに失敗した女子の末路。
 3人分のしぶきを一手に引き受けた狐姫が顔を乱暴に手で拭う。
「をわ!? きっっったねえな! 人の顔に変な液体かけんじゃねーよ!」
 3方向から思いもよらない顔面シャワー。不覚だった。
「ティッシュ、ティッシュ!」
 狐姫以外の3人が口から液体を垂れ流し、ティッシュ箱をたぐり寄せては中身を取り出す。
 狐姫の言う通り、御殿のトランクスには『3分の4の純情』や『ラヴなっくる』etc。と変な文字がプリントされてるものばかり。誰の影響なのか、意味不明な文字がつらなる痛パンを愛用しているのは事実だ。

 ビショ濡れの狐姫に想夜が何かを手渡した。
「はい、狐姫ちゃんも拭いて」
「おう、さんきゅ」
 狐姫は想夜から布巾を受け取り、わしゃわしゃと顔を拭いた。
「いやあ、さすが案内人だぜ。気が利くな………………ん? 雑巾じゃねーか!!」
 ビターン!
「わぷっ!?」
 想夜の顔面に雑巾を投げつけた。
 顔面に張り付いた雑巾を想夜が不満そうに引き剥がした。
「もう! テーブルを拭いてって言ったのっ」
「ふつう俺の顔が優先だろ! おまえらのせいでビショ濡れになったんだぜ?」
 と、狐姫は吠えつつ顔から液体を滴らせている。
「悪趣味なパンツの話題を振ってきたのは狐姫さんだけどね」
「あ、悪趣味……」
 叶子の心無い言葉――御殿しょんぼり。

 口も体も動かす。ビショ濡れのテーブルをみんなでフキフキ。

 叶子がテーブルの下を覗く。
「床までビショビショだわ」
「誰かタオルとってくれ、髪も濡れちゃったぜ……」
「はい、狐姫さん。これで拭いて」
「さんきゅ」
 狐姫は濡れた髪をタオルで拭いた。
「いやあ~さすが愛宮のお嬢だぜ~、やっぱ気がきくな…………雑巾じゃねーか!!」
「床を拭いてほしかったのよ」
「俺の髪のほうが優先だろ! タオルくれよ!」
「ほら狐姫、これで拭いて」
「さんきゅ。さすが御殿だぜ、やっぱ気がきく…………これも雑巾じゃねーか! おまえらどんだけ雑巾好きなんだよ! 何枚雑巾あるんだよ、いい加減にしろ!」
「床を拭いてほしいかったのよ」
「俺は髪を拭 き た い の !」
「どうせ夜になったらお風呂入るんでしょ?」
 夜まで濡れてろということか。
「御殿……今度おまえが寝てる時に鼻の穴に耳栓つっこんでやるからな。覚悟しとけよ――」
 ――てんやわんやで片付け、全員着席。


 ふう。
 一息もつかの間、想夜が切り出した。
「御殿センパイは4分の3ブラをしてるのに、下はトランクスなんですか?」
 ギクッ。いきなりの右ストレート。
(もう性別に感づいたというの!?)
 御殿の手がピタリと止まる。
「御殿センパイ……最先端なんですね!」
 キュピーン☆
 想夜の白い歯と親指が光る。下着の着こなしはMAMIYAの研究よりも上をいってる、と思ってるらしい。御殿は胸を撫でおろした。
「昔からトランクスなんですか?」
「ええ、動きやすいから……」
 御殿はモジモジと顔を赤く染め、口を尖らせ視線をそらす。忘れてくれと言わんばかりに空になったカップに紅茶を注いで話題を濁した。
 ポットからそそがれる瑠璃色の液体が、ふたたび透明感あるさわやかさを見せてくれる。それに目をうばわれる想夜の頭には、すでにパンツのことはなさそう。
 ダンボールから取り出して間もないティーセット、持ってきてよかったと御殿は思った。


「御殿センパイの淹れてくれた紅茶、とってもおいしい……」
 カップを見つめて無邪気な笑顔。緊張はあれど、いつの間にか友達みたいに接している。誰かれかまわずに打ち解けるのが上手い。でなければ便利屋など努まらない。
「本当ね。いつも飲む紅茶に負けず劣らずだわ」
 御殿の淹れる紅茶は、舌の肥えた叶子嬢まで舌鼓を打つほどに評判がよかった。愛宮邸で出される紅茶に負けず劣らずなのだから、なかなかの腕前である。
 愛宮邸の紅茶は茶葉がうまく調合されていることを御殿は知っている。茶葉について聞きたい気持ちもあったけれど、MAMIYAとの関係は内密にしなければならないので、よけいな口出しはしない。想夜は学園の生徒といえど部外者。情報漏洩はご法度だ。

 御殿の気持ちを察してか、叶子が愛宮邸で使っている茶葉について教えてくれた。
「御殿さん、うちの紅茶に興味がありそうね。うちはダージリンをベースとした特別な調合をしてるの。寸分の狂いもなく、いつも同じ味が出せるのよ?」
 そのセリフに御殿は胸おどらせた。調合法まで伝授してくれるとは、やはり愛宮のご令嬢は気がきく。
 「この茶葉とこの茶葉を――」「――そんな調合法があるんですか? 今度試してみますね」「こんど茶葉、分けてあげるわね」――御殿は洞窟でエロ本を見つけた少年のように、興味深々でメモを取り瞳を輝かせている。
 それを横で見ていた狐姫がドン引き。
「うわっ、キモイな御殿、変な笑い方すんなよな。頭のネジでもぶっとんだのか? 残り少ないネジなんだから大切にしろよ」
「……そうするわ」
 軍人並みに口が悪い。失礼しちゃう言葉だ、が、狐姫の言葉で御殿の頭が冷えた。我を忘れて興味に浸る己の未熟さが恥ずかしかった。

 ゆっくりと時間が流れる――。

 なぜだろう。御殿はこんなにあっさりと時間に溶け込んでいる自分が不思議でならなかった。
 そんなやりとりを前に、紅茶の知識に疎い想夜が無理に首をつっこんでくる。
「だぁじりん……て、初めて聞きました。おいしいんですか?」
「あっ、バカおまえ――」
 狐姫が制止したが時すでに遅かった。紅茶マスター御殿の目がキラリと光る!
「よく聞いてくれたわ想夜、ダージリンっていうのはね、鼻から抜ける爽やかなシャンパンのような香りが――」

 ――早送り。

「あーウゼー」
 御殿の紅茶マメ知識がはじまり、そこへ叶子が乱入。狐姫ゲンナリ。
「――そうそう……でね、インドの紅茶畑で作られて――」
「他の茶葉より数段に香りもいいのよね――」
「茶葉……? 畑? メ、メモ取らせてくださいっ」
 カバンから筆記用具を取り出す想夜を残して話は進んでゆく。
「それは気候や環境などが生み出す賜物。『紅茶のシャンパン』の異名にふさわしい存在――」
「もう一回、最初から……ちょ、ヘイ! リッスン!」
「アルコールでもないのにお酒の二つ名を勝ち取るなんて。やるわね、ダージリン!」
「ヘイ! リッスン! ヘイ! リッスン!」
「――セイロンというのはスリランカの別名で――」
「ヘイ! リッスン! ヘイ! リッスン! ヘイヘイ! リッスンリッスン!!」
「うぁあああああああああああ、ウゼエエエエエエエエ!!」
 HEY! HEY! HEY! アーティストのように連呼する想夜。だって誰もリッスンしてくれないんだもん。

 ウンチクは続く――。

 せかんどふらっしゅ、ろいやるすとれーとふらっしゅ、ごーるでんちっぴーふらわりーおれんじぺこー、るふなきゃんでぃでぃんぶらにるぎりぬわらえりあ、なんとかかんとか……(早送り)。
 まるでお経だ。
 知識がフルコンボとなって想夜を襲った。途中からRPGの復活の呪文みたく聞こえてくるから、紅茶の知識がない者にはたまったもんじゃない。一文字でも間違えたらどんな目にあうことか。ひぃぃぃぃおそろしー!
 ※長い呪文をメモしたら、何度も確認しましょう。


 午後のひととき。
 パンと紅茶を囲んでは盛り上がる一同。

 んでもって、話題は要請実行委員会へ。
「あん? 要請実行なんだって? それ便利屋っつーか、奉仕部っつーか、第二ボランティア部っつーか? つまりただのパシリじゃ……むぐぐ!?」
 御殿は狐姫の口に手を添えると、相方の失態を取りつくろうように話を変える。
「どうして要請ナントカをはじめたの?」
「えっと、それはですねえ……」
 鼻頭をポリポリ。想夜の目線が何かを思い出してるように宙を泳ぐ。
「人間の役に立ちたいな~って思って」
「人間? おまえも人間だろ」
「あ、そうだった」
 はははっ。笑う狐姫に想夜も合わせる。妖精であることは内緒。

「あたしでも誰かの役に立てると思うんです。あたし、ほんのちょっとのことでも優しくされるとすごく嬉しいんです。だから他の人にもそれを感じてもらえたらいいな~、なんて。ははは……」
 照れ隠しにアタマをかいた。乾いた笑い声のあとに想夜は紅茶をすする。

 優しさや思いやりは感染する、というのが想夜の心経だった。
 他の人の心にも同じ感情が芽生えてくれるように――そうやって、自分の行動が人から人へ波紋のように伝わってゆくと信じている。ひとりでも多くの笑顔が見たいため、想夜は今日も意気奮闘する。

「――なので町案内、あたしに任せてください」
 御殿は想夜がひとり学内を走り回る姿を想像した――まだ13歳だというのにシッカリもの。利害を求めず、他者のために走り回る少女のことが偉大に思えてくる。引越しの手伝いに来てくれたのも助かった。オマケに町を案内してくれるという。聖色市に来たばかりで右も左もわからない御殿にとっては、至れり尽くせりの助っ人だった。

 叶子がダンボールから取り出したばかりの料理本を手にする。
「この本見てもいいかしら?」
「どうぞ」
「御殿さんと狐姫さんは自炊するの?」
「まあな」
「へえ」
 興味津々、叶子はペラペラと本をめくって質問してきた。
「どれどれ~……『家庭料理の鉄人 マグロ女になろう!』 ……???」
 ちょっとアレなタイトルに叶子が首をかしげた。
 本の内容は……ただのマグロ料理本ですね、はい。

「わたしと狐姫が交代で作るんです。そのほうが安上がりだし、味付けも自分好みに仕上げられるから」
「俺は無洗米のほうが楽でいいんだけど、御殿がうるさいんだよな……小姑みたく」
 げしげしっ。
 テーブルの下、スラリと伸びた御殿の横スネを狐姫が行儀悪くはじいてくる。
 ムスっとする御殿がジト目で反論。
「普通米と無洗米は甘みに違いがある。時間が経つと味にも違いがでる――とか、いちいち指摘してギャーギャー騒ぐのは誰でしたっけ?」
 チラ。
「んぐ!」
 狐姫が声を詰まらせる。こめかみにうっすらと青筋を浮かせる御殿を見て、コイツは怒らせないほうが学園生活を満喫できるな、と理解するのだ。

 ピクニックのように賑やかな食事。
 『楽しいお喋り』という調味料が加わることにより、味は一変するものだ。コンビニでパン買って一人で食べるより、何倍も美味しかったことが想夜には驚きだった。
 いつもは委員会が忙しく、部室でひとりランチしてる想夜だけど、この時間は味覚が全然違った。
 MAMIYAのパンだから美味しいという理由。それだけでは片付けられない食の神秘がここにはある。想夜にはそれが新鮮だった。

「2人とも生活用品は揃ってるのかしら?」
 殺風景な部屋をグルリと見渡しながら叶子が聞く。
 キッチンには最小限の調味料と食器だけ。料理好きには似合わない。
「いえ。必要なものはこれから揃えようと思っていたところです。洋服も買える場所があるといいのですが――」
 注文したばかりの制服は夜届く。御殿の黒装束に防弾コルセット、狐姫のベルトだらけでパンクな袴姿――校内では変なコスプレイヤーとしか見られないだろう。
 狐姫が御殿に耳打ち。
(学校で防弾コルセットして歩いてる奴なんかいねーだろフツー。戦場か?)
 それに対して御殿も反撃。
(袴で出歩く生徒もいないと思うけど。コスプレじゃあるまいし)
(蹴りやすいんだよ! とくに回し蹴りとかハイキックがな!)
 狐姫が御殿のケツに蹴りを入れるフリをする。それを御殿は身をかばうよう、手で制止する。
(今ビビッてやんのっ)
(……子供)
 もっとこう、軽装が欲しいところなのよね。ジャージとまでは言わないが。

 ヒソヒソ……
「2人でコソコソと何を話してるんです?」
 テーブルに突っ伏した想夜がジ~っと見つめている。すでに不審者使い。
「買い物に行きたいのだけれど、この町の事ほとんどわからなくて……ね、狐姫?」
「お、おう! せっかく引っ越してきたんだ、ファッションセンスを磨こうと思ってな! いい店あったら教えてくれ!」
 ガタッ!
 それを聞いた想夜が立ち上がる。
「そんなときの要請実行委員会です! そんなときの 要 請 実 行 委 員 会 です!!」
 キュピーンッ!
 ふたたび立てた親指。眩しすぎる白い歯が太陽のように光り輝く。
(おい御殿、コイツ2回言ったぜ? 俺たちの服装ってそんなに不審者っぽいのん?)
(軍服を着ているようなものだからね。決して私服には見えないわね。わかる人には暴力祈祷師だってわかるし)
 ボソッと耳打ちする狐姫に御殿が返し、少し考えるしぐさをつくった。
(買い物の案内か……ちょうどいいかも。MAMIYA関係の情報収集をするために単独調査しようと思っていたけれど、ひとりじゃ時間がかかりそう。愛妃家女学園の詳細も調べなければならないし。要請実行ナントカさんは愛妃家の生徒。なにかと重宝しそうね)
 それらを踏まえて御殿は結論を出した
「――それじゃあ、想夜に町のナビをお願いしようかしら」
「お任せください!」
 やっとリッスンしてくれてホっとする。御殿の手前、胸を張る想夜であった。
「よっしゃ、そうと決まればれっつらごー!」
 狐姫が拳を高々とあげた。



聖色せいろんの人々


 街まで続く大通りをまっすぐ進む想夜たち御一行様。
 添乗員役の案内もあり、街でショッピングと洒落込むことになるわけだが。はてさて、どうなることやら。

「おい御殿、見ろよっ、でっかい公園があるぞ!」
 狐姫が遠くを指差して瞳を輝かせている。待ちきれないのか走り出した。とても楽しそう。
(位置的には公園の向こう側に愛宮邸があるってことか)
 御殿は初めて見る公園のように、何も知らない態度をつらぬいた。
「あれは聖色総合公園。町のみんなが利用しているんです。叶ちゃんちの愛宮邸はこの公園の向こう側にあるんですよ。芝生の上で食べるサンドウィッチとか、もーサイコーなんです!」
 くうぅぅぅ~、たまらんち。想夜が全身で美味しさを表現する。
 公園にはスポーツをする人や家族連れで賑わっている。日々、たくさんの人が利用している場所だ。

 役所が清掃に力を入れていることもあり、市全体が清潔感を放っていた。
 しかも添乗員があれやこれや、解説つきで親切丁寧にナビゲートしてくれるのが嬉しいじゃないか。
「たしかに、広くて見晴らしのいい場所ね」
 気兼ねなく食べるお弁当は最高かもしれない。ゴロンと芝生に寝そべって本を読んだり、ゆっくりと会話が楽しめる場所――御殿にはそんな想像ができた。
(けど銃撃戦には向かない場所ね、障害物がなさすぎる。あ、でも自販機を防弾代わりに……、上空からの攻撃は森林の中に身を隠して……)
 ――自分の職業病にゲンナリする御殿。

 防弾代わりになりそうな自販機を睨みつけるように遠くから見る御殿。その視線を読んだ想夜が忠告をしてくる。
「あの販売機は使っちゃダメですよ。76%の確立で貴重なコインが呑まれます。キィー! 今月お財布ピンチなのにぃ~」
(呑まれたな)
(呑まれたのね)
「自販機で税金摂取してんじゃね?」
 狐姫の言葉に対し、想夜がポンと手を叩く。
「なるほど! そういう手もあったんだね~。市民の小銭を少しずつ摂取する仕組み、サラミ法ね! あったまいい~♪ ……よくないよ!」
 クワッ。お金返して! と、ひとり可愛く地団駄を踏んでいる。
「と、とにかく、市民から税金をかっさらう国税局ような自販機には近づかないことです。みんなあの自販機にマルサというあだ名をつけてるんですっ。あ、それとですね――」
 忙しなく、各所を説明してくれるよくできた添乗員。笑顔を絶やさず、子供のように無邪気で屈託がない。わかりやすい感情を向けるのは素直さのあらわれ。心が濁っていない証拠でもある。

 横から狐姫が質問をぶつけてくる。
「あのベンチもペンキトラップとかあるのか? 座ったらケツにベットリ、とか」
「そんな危険な物を市役所が放置するわけないでしょう」
 と叶子が笑う。
「え~そうかぁ~? 過信しすぎじゃね? 座った瞬間うしろに倒れるとか、座席の真ん中が折れるとか。町って危険なんだぜ?」
 それを聞いた叶子が苦笑する。
「そんなバカな。カメラが回ってるわけじゃあるまいし」
 ドッキリか。
「あはは、大丈夫だよ狐姫ちゃん。普通のベンチだよ」
 想夜がベンチ中央にドカッと尻を落した瞬間、地面で固定していたネジが外れてベンチごと後ろに引っくり返った。池から飛び出したスケキヨの足よろしく、大股開きでVの字になっている。
「ほらな。やっぱり」
 狐姫は他人の振りしてさっさと歩いていった。


 公園はいつもの活気で溢れている。穏やかな光景にホッとしながら想夜は案内を続ける。
「――で、あっちがカフェテリアですよ? 駅前にはおいしードーナツ屋さんがあるんです! 食べたいですか? 参りますか? 参りましょうそーしましょー!」
 アゲアゲで拳を高々と2~3回ぶん回す。
「あいつ、ゼッテー自分が食べたいだけだろ」
「狐姫も食べたいんでしょ?」
「まあな」
 キビキビとしたやり取りがはずんだ。


 聖色駅前に到着。
 先頭を歩く想夜が手を後ろにまわしてクルリと振り返る。

「着きましたよ、ここが聖色駅前です。お買い物でしたら一通りの物がここでそろいます」
 一行は駅ビルへと続く歩道橋の階段をのぼり、中央のドーナツ状に丸まった建築物の中に入る。
 独創的な歩道橋は、巨大なドーナツの輪を数本もの階段で支えている造りをしていた――通称UFO道ユーフォどう。ドーナツ内部は屋根もあり雨風もしのげる。そこから駅ビルや改札口へと進むことができ、ターミナルの役目も担っていた。

「変わった形の歩道橋だな。市長はきっとドーナツをこよなく愛してるんだろう……わかるよ。うん、わかる」
 狐姫は大げさに両手をひろげて天井をあおいだ。
「そして、この設計も市長の思惑だな! 食をそそる造り、なかなか見所のある奴じゃなぁいか聖色市長!」
 謎がすべて解けちまったぜ。じっちゃんの名を懸けるまでもない。迷探偵が目を閉じて腕を組み、ウンウンと頷いては独り納得している。
 叶子は狐姫を無視して御殿に話しかける。
「ここからショッピングビルや改札口に出られて便利だって評判がいいの」
「御殿センパイ、ここからショッピングビルや改札口に出られるんですよ? 便利ですよね」
「なるほど。ここからショッピングビルや改札口に出られるのね……便利だわ」
「おいコラ!」
 狐姫がズカズカと3人の前に立ちふさがった。
「おまえら今スルーしただろ? セリフが重複してるじゃねーか! ゼッテーわざとだろ!」
 狐姫が拳をぶん回している。
「だって……市長がドーナツ好きとか嫌いとか、歩道橋のデザインと関係あるわけないじゃん」
 と、想夜が唇を尖らせる。それに対し狐姫がハードボイルド俳優のように反論。
「チッチッチ。決めつけはよくないぜお嬢ちゃん。ドーナツを食べると市長になれるっていうことわざもあるくらいだからな!」
 ねーよ。

 御殿がビルの入り口に目を向けた。
「駅前にもたくさん出店しているのね」
 さっき会話の中でドーナツがでてきたこともあり、自然と小さなドーナツ屋に目がいく。カウンターで若い店員と人当たりのよさそうな中年男性が話しているのが見える。
 他の者も御殿の視線にならう。
「おい、ドーナツ売ってるぜ」
 色とりどりのドーナツを前に、狐姫がたちまち元気になる。

 ドーナツ屋の店員と客との会話が想夜たちのところまで聞こえてきた。
 なぜか興味をそそがれた想夜と狐姫。探偵よろしく、自販機に隠れて偵察したりして。
 御殿と叶子もしぶしぶつき合う。
「なぜ隠れるの?」
 叶子が想夜の背中に声をかける。
「しぃ~。あの男性客、市長秘書とか名乗ってる。きっと偉い人だよ。陰謀の臭いプンプンね!」
「あん? 税金で食ってる奴が偉いわけねーだろ。秘書なんかヤキソバパン買うだけのパシリだろ」
 想夜と狐姫が自販機から身を乗り出すように見ている。
 叶子、呆れ顔。
「2人とも盗み聞きはよくないわよ?」
「叶ちゃん、これも仕事のひとつだよ。お給料はガマン料だよ」
「政府を監視? あなたの同好会も立派になったものね」
「要請実行委員会ですっ」
 と、即座に訂正。想夜の陳腐なプライド。
「はいはい」
 叶子がかるくあしらった。
「やれやれ」
 腰をかがめた御殿は黙って探偵ゴッコに付き合う。

 狐姫が端末に語りはじめた。
「こちら県警本部。ミナト303さんまるさん、至急応答せよ! そちらの状況を知らせろ」
「はーい♪ こちらミナト303。現場の状況は……」
 想夜も端末片手に吠える。が、すぐ隣で会話しているので意味のない無線ごっこが虚しい。
 自販機の横から頭が4つ飛び出した異様な光景――それを見た通行人が笑いながら通り過ぎてゆく。中には実況動画にアップしている者まで出てくる始末。もはや探偵もクソもない状況。
「なんか俺たち、目立ってなくね?」
「しー。狐姫ちゃん、敵に見つかっちゃうよ! 見つかったらミサイル撃ってくるんだよ」
「敵かよ、ミサイル設定? てか、すでに警察がコッチ見てるんだけど。明らかに不審者じゃん、俺たち」
「狐姫ちゃん全っ然わかってないなあ。女は見られると輝くもんだよ」
「小学生にも撮られてるぞ」
「女は撮られるたびに輝くものなの」
 キリッ。引き締まった顔を狐姫に向ける想夜。
「誰の受け売りだよ」
「テレビでグラビアカメラマンが言ってた。ちょっと、えっちぃ番組」
 言いながら頬を赤くする。
「シャッター押しながら自分も脱いじゃうカメラマン? ブーメランパンツの?」
 と、狐姫。それに対し、
「そうそう! 探偵業としては現場を押さえる時も脱いだほうが仕事はかどると思うのよね。動きやすいし。多分――」
 想夜、支離滅裂なご意見。
「想夜、おまえの症状……手遅れじゃね?」
 狐姫は血の気が引いた。

 4人はなおも客の会話に耳を傾けた。

 この場所からだと男性秘書と店員の声がよく聞こえる。
「お客様、いつもお買い上げありがとうございます!」
「いやぁ~、うちの市長がね、ここのドーナツ好きでよく買いに来るんですよ、今日も頼まれちゃって。そこのUFO道もドーナツ型に推薦するくらい大好物なんですよ~」
(((本当に市長の設計だった!!!!!!)))
「ほらな、言ったべ?」
 狐姫ドヤ顔、大正解。スルーした奴ら、あとで罰ゲームだな。
 はっはっは~。店員と秘書が高笑い。
「はっはっは~、じゃねーだろ。自分の好物を歩道橋にするなんて、いい度胸してやがるぜクソ市長。完全に税金とポケットマネーを履き違えているパターンだな」
「秘書さん、領収書まで切ってる……歪みないね」
「ちゃっかりスタンプカードも満タンだった」
「税金泥棒なんかほっとけよ。とっとと中に入ろうぜ――」
 探偵ゴッコに飽きた狐姫がビル内のテラスモールへと入ってゆく。その後ろに3人も続いた。


 食器売り場。
 御殿は熱心にキッチン用品を見ていた。ひとつひとつ手に取って使いやすさを確認している。
 御殿の横に想夜がならんだ。
「御殿センパイ、フランパン買うんですか?」
「ええ、余計な調理器具は持ってこなかったの」
 今回の事件が終わったら早々に切り上げる予定だったので、簡単なフライバンと鍋だけで済ませる予定だった。それでも料理人の素性は隠しきれない。いろんな種類のフライパンを手に取っては、頷いたり首をかしげたり。
(御殿センパイ、きっと頭の中ではお料理の創作意欲がわいているのね)
 想夜は御殿の腕前に期待していた。

 数分経過――。
 あまりにも熱心に吟味する御殿に、想夜はそれとなく質問をぶつけてみた。
「御殿センパイ、フライパンってどれも一緒じゃないんですか?」
「ん~? 違うわよ。重さとか材料のスベリ具合とか火の通りとか、殴り具合とか……」
 手に取ったフライパンから目を離さず、真顔で答えてくるのがちょっぴりコワイ。
(な、殴り具合? 何を殴るのかしら?)
 料理下手な想夜にはフライパンの良し悪しなんてわからない。ゆで卵と温泉卵は一緒だと思ってるくらいだ。殻のままの卵を直接レンジにかけてヒドイ目にあったこともある。卵がレンジの中で爆発したときは血の気が引いた。とうぜん、薄力粉よりも強力粉のほうが戦闘力が800ほど高いと思っている。家庭科の成績が全科目の足を引っ張ってるのは言うまでもない。

「こ、御殿センパ~イ……」
 猫なで声で想夜が擦り寄る。
「ん~?」
 生返事。あいかわらずフライパンに夢中だ。
「あたし家庭科苦手なんですよね~。今度、料理教えてほしいんですけど……」
 チラッ。想夜が御殿の顔色をうかがった。料理人の恩恵を受けるチャンスである。
 すると食器類を見ていた狐姫が横から口を挟んできた。
「あ~あ、言っちゃった。御殿の修行は厳しいぞ~? そのへんの鬼料理長なんか比べ物にならねーよ? 死ぬよ? おまえ死ぬよ? エリクサー装備しとけよな。保険にも入っとけよ」
「うぐ……」
 想夜がたじろぐ。
「狐姫ちゃん、過去になにかあったの? 冷や汗が滝のよう」
「女にはアレだ、いろいろあるんだよ」
「それに健康保険と生命保険、どっちに入ればいいの?」
 どっちを指すかによって、これから始まる拷問タイムの内容がガラリと変わる。
「どっちも入っとけ」
「ひぎぃ! 包丁の使い方が悪い、とか怒られてマグロ包丁投げつけられる!」
 想夜ガクブル。ひぎぃと申しております。

 ※マグロ包丁――日本刀のような形をしたマグロ解体用の長い包丁。

 狐姫がおもしろがって煽りをきかせてきた。
「ああそうだぜ。煮物を沸騰させようもんなら、おまえが熱湯風呂に投げ込まれるんだ。入浴した分だけCM時間がもらえるかもしれないぜ。よかったな、ナントカ委員会」

 ※熱湯CM――過去の遺産。合言葉は「押すなよ! 絶対だからな!」。

「料理なのに熱湯に入らないといけないの!?」
 まさに命がけ。やっぱり料理指導を断ろうと思った矢先、
「料理教えてほしいの? いいわよ」
 御殿からの死刑宣告。すでに手遅れだった。
「うぅ……よろしくご教授願います」
 涙目の想夜。痛くしないで、優しくして――想夜の願いは叶うのだろうか?


 食器を購入後、一同は食料品売り場へと移動する。
「食品の買いだめをしておいたほうがいいかも。今日は軽くすませたいな――」
 エスカレーターのベルトに手をかけながら御殿がつぶやく。ちょっとグッタリしたご様子。
 ここ数日いそがしかった。連日の事件調査、荷物整理、引越し、各種手続き。なんやかんやで多忙な時間をこなしていた。
 それを聞いた狐姫の眉がピクリと動く。
「軽く、だと? 甘ったれたこと言ってんじゃねーよ。それじゃあ世界取れねーぞ、わかってんのか?」
 話がボクシングの世界王者とゴチャ混ぜになってるらしい。
 御殿はうつむき、魂の抜けたような小声で答えた。
「そんなこと言うなら狐姫が作ってよ。そうねぇ、ビーフフトロガノフあたりがいいかなぁ」
「うわ、またメンドクセー料理がきたな」
 2日くらいかかる料理だ。狐姫はそれを知っている。
「いや、やっぱ軽くていい。なんかもうね、カップ麺でいいですよ」
 そんなやりとりを見ていた想夜と叶子が互いの目を合わせて相槌をうつ。
「せっかく聖色市にきてくれたことですし歓迎会も兼ねてどこかで食べていきませんか? 安くて美味しいとこ知ってますから案内します。ね、叶ちゃん?」
「そうね」
「さっきパン食ったばっかじゃん」
「あれはおやつだよ」
 想夜が自信ありありで答える。
「食事とおやつの線引きってどこだよ?」
 狐姫がガラにも無く難しいことを聞いてくる。
 想夜が難しそうな顔で答えた。
「う~ん、甘いか甘くないか?」
「人生かよ。じゃあ菓子パンは食事として全滅だな」
「てりやき、卵焼き、大和煮――甘味料を使った食事も全滅ね」
 狐姫と御殿が肩をすくめる横で、想夜が腕でバツを作った。
「あー! やっぱ今の無し、無しです! 甘いのも食事です!」
「じゃあパフェは食事ね」
「もうっ、御殿センパイのいじわる~」
「パフェは食事だろ、常識的に考えろ」
「狐姫さんの常識って……」
 叶子がひいた。


 ――とかやってるうちに食品売り場に到着。
「ちょうどタイムセールみたいね」
 『お一人様一点限り』の張り紙が眩しすぎる。
 いち、にい、さん、しい、狐姫が指差し確認。
「4人分買えるじゃん! おっしゃ!」
 ガッツポース。いつもは1人、せいぜい2人分しかゲットできない。今のうちに食材を大量ゲットだ!

 叶子と並んだ御殿が申し訳なさそうにしている。
「ごめんなさい。叶子さんまでつき合わせちゃって」
「ううん。気にしないで」
 箸より重いものを持ったことがないようなご令嬢。ジャガイモのつまったカゴをぶら下げているのは珍しい光景だ。


 想夜が魚売り場を偵察中――。
「うわ~、おっきなハマグリ」
 水に浸かったハマグリに顔を近づけた瞬間、変な液体が飛んできた。
 ビュッ! ビチャ!
「うあ!?」
 想夜の顔面が変な液体でビショビショになってしまった。
「うわぁ……顔にかかっちゃったよ~、口にも入っちゃった~」
 乱暴に手で拭ってその場を離れる。

 売り場にはいろんな新鮮な魚類がならんでいて、どれも想夜の興味をひく。妖精界にも似た光景があり、食材は違えど懐かしさを感じた。

「魚屋なのに栗が売ってる! こっちは、タコの口? これは……マグロの目玉!! なにに使うの!?」
 あ、思い出したわ! 想夜はポンッと手を叩く――妖精界の森に住んでる魔女のおばあちゃんがそんなアイテム使ってた。大釜でトカゲや薬草をグツグツ煮込んで紫色の液体を作るのだ。でも用途は不明だった。
「人間界でもマジックアイテムの製造が可能なんだ、へー」
 と自己完結。

 鮮魚売り場でキョロキョロと見渡す想夜。
「う~ん、リバイアサンの赤味が売ってないなあ。アレ、お醤油で食べるとトロッとして美味しいんだけど」
 んなもん人間界にねーよ。

 想夜、続いて肉売り場へ。
 ケースに入れられた霜降り肉をジッと見つめている。
「100グラム……2000円?」
 きっとなにかの冗談だろう。ほら、昔バーガーショップでスマイルが売ってたっていうジョーク。ちゃっかりとカウンターのプレートにメニューとして表記されてた過去の遺物。
 きっとあの類の冗談だ。「これください」と注文すれば、肉屋さんが100グラム2000円分のシニカルスマイルをくれるのだ。きっとそうに違いない。
 シニカルスマイルかー。ヒュー、カッコイイ~♪ と、またもや自己完結。
 想夜は目を輝かせながら、後ろからやってきた御殿に親指を立てた。
「御殿センパイ! 100グラム2000円スマイルですって。クールですよね!」
「……?」
 ビニール袋両手にポカンとする御殿だった。



古賀 沙々良こが ささら


 叶子が両手にぶらさげたビニール袋の中身を覗いていた。
「お肉に野菜、調理器具――これだけの荷物でも4人で分担するとかなり楽になるわね」
「また用があったらいつでも呼んでください」
 と想夜。
「ふふふ、ふたりともありがとう」
「サンキューな!」
 両手にぶら下げたビニール袋はさほど荷物にならなかった。これならしばらく歩き回れそう。

 想夜たちは歓迎会を兼ねて適当な店を探していた。
「どこにしましょうか? おふたりは何か食べたいものありますか?」
「ジャガイモとニンジンが入ってない食いもん」
 狐姫がかったるそうに答えた。
「狐姫ちゃん、ジャガイモとニンジン嫌いなの? 好き嫌いなさそうなのに」
「バッカおまえ、タイムセールでこれだけ買ったんだぞ? しばらくの間、ジャガイモとニンジンの入った料理に困らないだろうが。今日くらい別のもん食べようぜ」
 と、袋詰めの野菜を想夜の前に掲げた。
「狐姫ちゃん、毎日ジャガイモとニンジンだと飽きちゃうの?」
「ったりめーだろ。じゃあ想夜は一ヶ月ドーナツだけで飽きないのか? いいか、ドーナツだけだそ? 他のもんは食えないんだぞ!?」
「うん、飽きないよ」
 想夜がまんべんのニッコリで返してきた。
「マ、マジかよ……、見かけによらずタフだな。一ヶ月ドーナツだけで過ごしたことあんの?」
「ないよ」
 にっこり。
「いや、ねーのかよ」
 ガクッと肩を落す狐姫。
「だって不健康じゃん」
 狐姫ちゃん何言ってるの? やれやれ、しょうがない子だなあ――みたく半笑い、生暖かい目で返されてしまった。狐姫、結構ショック。
「そ、そうだよな、不健康だ……うん、もういいや」
 狐姫はうなだれた。なんつーの? 話してて体力が減ってゆく感じ。負のスパイラルに堕ちてゆく感じ。ツッコミ役が1人ってのも疲れる、納得いかない。


 テラスモールから出た4人は駅前ターミナルにいた。
 たくさんの商店が並ぶ街なか、とつぜん叶子が立ち止まった。
「ん? あれは――」
「どうしたの、叶ちゃん?」
 想夜の目線の先に一台のミニバンが停車していた。
 ドアにMAMIYAのロゴ。街なかに天下のMAMIYA車が停まっていても、なんら不思議ではない。むしろ見かけない日の方が違和感がある。MAMIYAの名はそれほどまでに定着していた。
「あ、MAMIYA研究所の車だわ」
「ん? どこだ?」
「ほら、あの車」
 想夜の後ろから御殿と狐姫が覗き込んだ。

 白衣の女性が想夜たちに気づいたらしく、車の窓から身を乗り出して大手を振っている。

「叶子ちゃ~ん、こんちはー」
 女性の声を聞いた瞬間、想夜が「ひぃっ」と猫をつついたかのように身を縮ませた。
「どうした想夜、鳥肌が立ってるぜ?」
「な、なんでもなぃ、ょ」
 と狐姫の後ろに身を隠す。明らかに声が震えている。
「ちょっと挨拶してくるわ」
 叶子が車に向かって歩き出したので、想夜もしぶしぶその後ろに着いてゆく。
「(おい御殿。車の人、叶子の知り合いかな?)」
「(――のようね。MAMIYAの研究員みたいだけれど)」
 叶子の背中にピッタリ張り付く想夜。その後ろで御殿と狐姫が耳打ちし合っている。

 一行が車に近づくと研究員が車から降りてきた。
「学校の帰りっすかあ? お疲れちゃんで~す!」
 白衣がへらへらと笑みをうかべ、フランクなノリで叶子たちを迎えた。

 その女性、研究中に邪魔になるであろう髪を無造作にまとめあげ、ピンで留めてアップにしている。髪から数本のこぼれ毛が見え、オシャレに無頓着っぽいあたりが研究員らしい風貌。白衣の下はニットとジーンズ姿といったラフな格好。それはそれは、性格とファッションを一体化させているような人物だった。愛宮のご令嬢と知ってもなお、特別な態度はとらない姿勢を貫いていた。

 ――どうやら白衣は、叶子とは見知った間柄のようである。そう感じた御殿と狐姫は警戒を緩めた。

 いっぽう想夜は怯えた小動物ように叶子の背後に身を隠し、恐る恐る顔を覗かせているではないか。
「こ、こんにちは。沙々良さん」
 沙々良と呼ばれる研究員は小動物を見るや否や、近づいてきて背中をバンバン叩いた。
「おー、想夜タン。久しぶりー!」
「タ、タン……」
 想夜のアホ毛が飛び出る。おまけに胸から心臓が飛び出しそうなくらい叩いてくる。叩くというより脊髄殴打に近い。羽を出していたら間違いなく骨折している。
 沙々良が手を差し出してきた。
「ほれ、想夜タン。再会の握手しよう!」
「嫌です」
 プイッ。
 想夜がそっぽを向いて手を引っ込めたものの、沙々良は想夜の手を強引に引きよせ、両手で掴んで離さない。おまけに上下にブンブン振り回してくる。
 積極的な性格を前に、想夜タンは肩が脱臼しそうです。
「(想夜も知り合いか?)」
「(らしいわね)」
「(すげービビってるぜ。握手も拒否ったぞ。 ……無駄な抵抗だったがな。なんかあったのかな?)」
「(人には事情があるものよ)」

 耳打ちし合う御殿と狐姫に叶子が言う。
「紹介するわ。彼女は古賀沙々良さん。MAMIYA研究所の職員よ――」
 クルリと向きを変えて沙々良に紹介。
「――で、こちらは沙々良さんご存知の想夜と、明日から愛妃家女学園に転入予定の――」
 ご令嬢らしく慎ましやかに、そして丁寧に紹介を始めた。間違っても護衛役とは言わない。
 御殿が一歩前に出た。
「はじめまして、咲羅真御殿です。明日から愛妃家女学園に転入予定です。こちらはルームメイトの焔衣狐姫」
「お、おう。よろしくな、沙々良さん」
「よろしくー、狐姫さんも握手しよう!」
「お、おうよ」
 狐姫の小さな手をガッチリ掴んで振り回す。狐姫、脱臼しそう。

 ――狐姫が異変に気づいたのはその時だった。

「……ん?」
 狐姫がしばらく握られていた手を離す。
 自然に沙々良との距離をとり、しかめっ面であたりをキョロキョロと見回しはじめた。
(悪魔特有の硫黄臭!? 魔臭がするな……)
 狐姫はそれを瞬時に嗅ぎ分けていた。
「(おい、御殿……)」
 狐姫が耳打ちをしてきたので、御殿は耳を傾けた。
「(この研究員、魔臭がプンプンするぜ?)」
 とたんに御殿の表情がこわばった。慌てて身構えようとしたものの、「落ち着けって!」と狐姫に裾をつかまれ引き止められた。
 狐姫は横目でチラリと白衣に目をやる。
「(コイツは魔族じゃない、魔臭が白衣に付着してるだけだ。おそらくコイツの近くに暴魔がいる)」
「(近くに? つまり……MAMIYA研究所?)」
 コクリ。
 頷く狐姫を見た御殿が押し黙り、息を呑んだ。

(MAMIYA研究所か。あした調査するつもりでいたけれど、思ったよりも緊急を要するかもしれないわね)

 御殿は考えたあと、沙々良に聞いた。
「あの、職場見学ってできますか?」
(今からかよ。ずいぶん思い切ったな)
 大胆行動。御殿のそういうところ、狐姫は嫌いじゃない。
「転入したばかりで聖色市のことも分からないですし、社員食堂とかも気になってしまって……」
 御殿が狐姫をチラ見する。
 狐姫、すぐさまそれに合わせる。
「こ、御殿ぉ~、お腹すいたよぉ~、社食で何か食べなきゃ死んじゃうよおぉ~」
 獲物を追尾する豹のごとく、初対面でも御殿は冷静に対応する。アウェイにぐいぐい斬り込んでゆく覚悟がなければ物事は進まない。
「沙々良さん。御殿センパイは料理のお勉強をしているんですって」
 想夜が沙々良に伝える。
(想夜、ナイスフォロー!)
 御殿と狐姫が心で叫ぶ。
 だが想夜の様子がおかしい。
「ででで、でも、お仕事忙しいですよね~、邪魔しちゃ悪いですよね~。また今度ということで。あ、はは――」
 小動物が目を白黒させている。行きたくないっぽい。
(あ、バカ。余計なことをクソポニテ!)
 狐姫が御殿を肘でつついて促すと、御殿が強引に話を進めはじめた。ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
「沙々良さん。お邪魔ならば即撤退しますので、是非とも見学させてはもらえないでしょうか?」
「え~~~~」
 想夜が顔をしかめた。
「おう、そうさせてもらうぜ」
 御殿も狐姫もアウェイへ。アウェイへ。
「え~~~~~~~」
 また想夜が顔をしかめた。

 MAMIYA研究所への潜入は宗盛を通せば容易いが、それだと内部者に怪しまれる可能性がある。
 突然の申し出――断られることがあれば、後日、改めて潜入調査を試みるつもりだ。だが魔臭漂う状況下、緊急性がある。すぐに行動にうつしたい。
(愛宮叶子はどう出る?)
 御殿は横にならぶ叶子の出方を待った。乗り気でなければ素直に従うつもりでいる。それでも日を改めて、研究所には顔を出すことになるだろう。

 叶子がしばらく考えてから口を開いた。
「そうね、社員食堂で昼食ってのもいいかもね。沙々良さん、お邪魔してもいいかしら?」
「ええ。叶子さんの友達だったら問題ないんじゃないですかねぇ。ちょっと待ってて」
 沙々良は少しだけその場を離れた。懐から携帯端末を取り出して何件かに連絡をいれている。急すぎる話だったようで、アポイントのようなものが必要らしい。

 しばらくして、電話中の沙々良からOKサインが送られた。
「OKみたいだぜ、よかったな」
「研究所の社食はおいしいけれど、他には研究室くらいしかないわよ? それでもいいの?」
 叶子の言葉を聞いた御殿はホッとした。
「わたしと狐姫は大丈夫です。一応、研究所も見ておきたいですし」
「仕事熱心なのね」
「恐縮です」
 仮の学生だが任務はきっちりこなす。
 愛宮のまわりを魔族にうろつかれてはたまったもんじゃない。銃は目立たぬよう、脇のホルダーに所持している。施設内での発砲は避けたいので、懐に忍ばせた聖水だけで切り抜けられれば幸いだ。
 それに狐姫もいるので心強い――そう考え、御殿はジャケットの上から銃と聖水を確認した。
「それじゃあ、出発しましょうか――」
「で、では、あたしはこの辺で失礼します」
 想夜がそそくさと帰ろうとする。が、狐姫に襟首を摘ままれた。
「ちょっと待て。さっきから何なのおまえ。案内役がついて来ないでどうすんだよ」
「MAMIYA研究所とか行ったことないもん。案内できるわけないじゃん」
「なにキョドってんだよ。んなもんテキトーでいいんだよ、テキトーで」
「だって行ったことないもんっ」
「いいから早く、乗 れ よ っ」
 狐姫は嫌がる想夜のケツを蹴り上げ無理やり車に押し込んだ。