12 酔酔会すいようかい ババロア・フォンティーヌ


 ルー邸。
 突如、誤送荷物から無数の黒い甲冑が溢れ出し、屋敷の中をうろつき回る。まるで意思があるかのように四方に散らばっては双葉とリンをつけ回し、そうやって徐々に追い込んでいった。

「リン、必ず逃がしてあげるからね」
 先ほどからリンの手を引いて走り回っていた双葉が息を切らしている。何十体もの甲冑を殴りつけてはリンを死守し続けてきたのだから当然の結末だ。

 必ず逃がしてあげる――自分で言った言葉に自信があるわけじゃない。ただそれを約束することで、未来が良い方向に変わることを期待したに過ぎない。

 ――甲冑が動き回るルー邸には、もう2人の逃げ場などなかった。

「さがっててリン!」
 双葉はリンの手を強く引っぱると、自分の後ろで匿った。

 双葉の後ろから不安気な表情を覗かせるリン。黒い甲冑の群れを睨みつけては、恐怖を拭うために双葉の手をギュッと握り返した。

「大丈夫、あーしが守ってあげるから。それより――」
 双葉が指先をリンの胸へと差し出す。
「ちょっとゴメン、試させて……」
「どうしたの、双葉?」
 キョトンとするリンの胸に双葉の指先が触れた瞬間、

 バチ!

「あつ!」

 一面がスパークし、限りなく雷に近い静電気によって指先がはじかれた。

 慌てて手を引っ込める双葉。
「かーっ、やっぱダメか~……八卦の能力はコピーできないのね」
 その事実は分かっていたこと。切羽詰まった状況下、いっそう双葉の額に汗がにじみ出る。

 アインセルの能力は全てをコピーできるわけではなかった。妖精の存在を必要としない八卦のハイヤースペックはコピーができないらしい。

「だからことのんの体に触れた時にもはじかれたのか……」

 先日、双葉は御殿のレゾナンスをコピーしようと試みた。が、コピーできたのは体術のみ。触れた指先が拒絶されたのは、コピーに失敗したからだ。八卦の力は主と認めた者のみに使用許可が下る。ディルファーは細胞になっても尚、戦士を厳選するのだ。

「しゃーない。やるっきゃないか……」
 ペロリと舌なめずり。緊張で乾いた唇を潤すと、腕をまくって構える。
「体術だけじゃ心もとないけど……かかっておいで!」
 双葉が挑発すると同時に、甲冑の一体が槍を大きく振りかぶって切り付けてきた。
「はっ」

 グワシャアアアン!

 双葉はリンを逆方向に押しのけると、自分も真横に飛びのいて攻撃をかわした。後ろに飾ってあった壺が真っ二つに割れて床に散乱する。
「へへへ、とろいとろい……うわ!?」

 ド!

 双葉がへらへら笑っていたのも束の間、ふすまの向こうから飛び出してきた甲冑から背中に蹴りを食らい、前のめりになって頭からテーブルに突っ込んだ。

 ガシャーン!

「う、ぐう……」
 ド派手に食器類をなぎ倒し、掴んだテーブルクロスごと床にずり落ちる。
 せっかく作った料理が散乱し、力作を床一面にぶちまけた。
「このっ、せっかく作ったあーしの料理を……!」
 双葉は床に落ちたフォークを拾い上げ、怒り任せに甲冑に突き刺した!

 ドス!

 鎖帷子くさりかたびらの隙間にフォークを捻じり込み、騎士の体を壁に固定させることに成功した双葉。すかさず腕を交差させて能力を発動させる。

「ハイヤースペック・柊双葉アインセル!」

 双葉の体が2体に分裂する!
「あーしは柊双葉」
「あーしも柊双葉」
「「2人はひとり、2人でひとり。行くよ!」」

 双葉ABに分裂後、左右から騎士を挟み込み、全身目がけてパンチの五月雨を浴びせる!

 バン! バンバンバン!

 リズミカルに甲冑を殴りつける音が響く。
 左右から何百発ものパンチを食らった甲冑がベコベコにへこみ、床にペタンと座り込むと、首から上の兜がグッタリと下を向いて微動だにしなくなった。

 ――やがて騎士は双葉ABの足元に崩れた。

「……ふう。ことのんから古武術コピっておいてよかった。武闘家の能力でもコピっておかなきゃ太刀打ちできないっしょ。あ痛たた……」
 切った口元から血が滴る。それを手で拭うとABは1人に戻り、リンに向かって笑顔を見せた。
「リン、もう大丈夫だよ。こっちおいで」
「双葉……」
「怖かったね……」

 リンを抱き寄せる双葉。先日負傷した両腕は、想夜の紡ぐ能力を用いて砕けた骨を繋ぎ合わせたおかげでご覧の通り。戦闘への支障はない。
 けれどもコピーした能力にも使用期限があることを知る。使えば使うほど、能力が弱まってゆき、最後は消えてなくなる。
 甲冑に見舞った今の突きで虎頭舞式ことぶしき古武術は弾切れ。

「手持ちのカードが一つ消えちった」
 御殿の体術のほうが効率よく戦えるが、生憎ここには肉弾戦に長けた戦士がいない。いるとすれば……

 双葉が足元に倒れた甲冑を睨みつけた。

「こいつの剣術、使えそうね。コピっておいてよかった」

 双葉は甲冑が手にしていたレイピアを拾い上げ、手元から矛先までをなぞるように視線を移す。すでに騎士から能力をコピーし、剣を使って応戦できるはずだ。

 家の中にはまだ騎士がうろついている。全滅させるまでは気が抜けない。
「行くよ、リン!」
 リンの手を引きキッチンを出ようとした時だ。

 ザシュ!

 壁の向こうからレイピアの先が飛び出してきて、双葉の頬をかすめた!
「痛!?」
「双葉!?」
 目の下を切った双葉が廊下に血をまき散らして後退する。
「そこに隠れてたのか! くっそ~う……シクったわ」
 手で血を拭い、甲冑を睨む。
「お前の相手はこのあーしだ……来い!」

 双葉と甲冑――互いにフェンシングのように矛先を向けて戦う。

 カン、カン!

 レイピア同士が奏でる戦闘開始の合図。
 騎士が一歩引けば双葉が一歩踏み込み、双葉が一歩後退すれば騎士が一歩出てくる。
 相手の技をコビーしたところで、所詮は時間稼ぎに過ぎない。なぜなら相手も同じ戦力を向けてくるのだから、双葉だけが有利に戦える保障などどこにもないのだ。

 カンカン!
 カアアアアアン!

 レイピアとレイピアがぶつかり合い、そこらじゅうに喧騒を響かせる。
 双葉は手首を返し、甲冑のレイピアを脇にはさんで固定させると、その場でくるっとターン。
「ほりゃ!」
 体勢を崩した甲冑の脇腹に回し蹴りをぶち込んで廊下の奥まで弾き飛ばした。

 グワシャアン!

 廊下の突き当りで崩れる甲冑を一瞥し、双葉がケタケタと笑う。
「あーら、ごめんあそばせえ~」
 おほほほほ、余裕を見せる双葉だったが、すぐさま別の甲冑に腕を掴まれ外に放り出された。

 ガシャアアアアンッ!!

 派手に窓ガラスを撒き散らしながら、双葉の体が宙を舞う。庭に放り出されて落下し、転がりながら茂みに突っ込んだ。
「う……ガチで、ヤバイって……」
 茂みから顔を出す双葉。葉っぱだらけの髪の毛のまま地面に肘をつき、必死で起き上がろうとするも、体じゅうに蓄積されたダメージが彼女の筋肉に待ったをかけてくる。
 弱った双葉を甲冑がグルリと取り囲み、各々が細い首に刃を当ててきた。
「やば、これって……あーし、勝ち目ゼロ、じゃん?」
 騎士が双葉の髪の毛を鷲掴みにして首を持ち上げながら呟いた。

『双葉さん……柊、双葉さん――』

 耳に飛び込んでくる婦人の声――双葉がギョッとして騎士の顔に目を向けた。

「その声は……!?」

 聞き覚えのある声――双葉に『割のいいバイト』を斡旋したババロアだった。

「双葉さん。あなたにはガッカリ。せっかく仕事を与えて差し上げたというのに……ダメな子」
「バカなことを言うなよ! あーしにリンを誘拐させて日本を地獄に変えようとしてたんだろ! もう騙されないからな!」
 騎士がぬうっと顔を近づけて威圧してくる。
「簡単に組織を抜けられるとでも思っているのかしら?」
 と、両腕を使って双葉の頭を思い切り石碑に打ち付ける!

 ドカ!

「ぐう!」

 切った額から血を流し、崩れる双葉。目に血液が入り込み、視界を真っ赤にぼやけさせた。

「こ、こんな……ところで……」
 真っ赤に染まった視界の中に騎士が立ち、双葉を見下ろしている。
「簡単には殺さない。酔酔会を白日の下にさらけ出した罪、その体で時間をかけて支払いなさい――」

 グサ!

「きゃああああ!」
 背中にレイピアを突き刺された双葉が悲鳴を上げた。
「どう? 気持ちいいでしょう?」
「う、ぐ、ああああ……!」

 レイピアをグリグリと捻じり込み、砂場をシャベルで穿り返すかの如く、肩甲骨を抉り出そうとしてくる。
 双葉の背中からレイピアを引き抜くと、今度は掌を串刺しにする。

 ストン!

「う、ぐあ!?」

 双葉の掌を貫通したレイピアが地面まで到達し、その場にJKを張り付けにして固定させた。

 甲冑は身動きができなくなった双葉の横を通り過ぎると、リンに向かって歩いてゆく。
「雷の八卦。そなたの首はもらってゆく。せいぜい我ら地獄の妖精のために働き続けなさい――」
 騎士がリンの首に手をかけ、捻じり始めた。
「ぐ、う……っ」

 ギリリリ……。

 籠手から伸びた指先に力が加わり、少しずつ少しずつ細い首を締め上げてゆく。
「ふ、ふた、ば……ふた、ば……」

 リンの頭部にたまった血液が眼球へと集中しはじめ、瞬く間に白目を真っ赤に染め上げていった。

「リン……リン、リン! やめろ……やめろお! リンから手を、放、せ……っ」
 双葉はレイピアを引き抜き、両腕を前へ前へと這わせながら砂利の上を移動して騎士の足にしがみついた。
「放せ……放せ、よ……クソババア……!」
 どんなに叫んでも、どんなに嘆いても、弱者と強者の差は歴然としていた。
 甲冑が双葉の頭を踏みつけ、グリグリと足首を小刻みに回す。
「臭い体で触れるな……用無しが」
「さんざん利用しておいて、用無しとか、言うなや……クソ、ババア」
「まあ、ババアですって? ノンノン、バロアです。バ ロ ア」

 グリグリ――甲冑が双葉を踏みつけた足に一層の力を入れ、侮辱を続けた。

「間抜けな両親に捨てられた可哀そうな猫だと思って声をかけて差し上げたというのに……」

 グリグリ……。

「死にぞこないの弟の手術費用のため……」

 グリグリ……。

「空っぽでつまらない日々を塗り替えるため……」

 グリグリ……。

「そうやって、そなたは無駄な悪あがきを続けてきた」

 グリグリ……。

「けれども、失敗、失敗、どれも失敗の連続……」

 グリグリ……。

「頭の悪い女子高生にできることと言ったら……」

 グリグリ……。

「街角に立って男を誘うことしかないわよねえ、この役立たずの腐れJKがっ」

 グリグリグリグリ……。

 言いたい放題、やりたい放題――ババロアの怒りは静かに、そして永遠に続くようだった。

 侮辱され続け、唇をかみしめて耐える双葉。けれども、耐えられない言葉だってある。
「今のご両親もお気の毒ねえ。出来損ないの捨て子の面倒を見なければならないのだから、それも2人、ふーうたーあり!」
「まれ……」
「いい事を思いつきました。せっかく助かった弟の首、ここでそなたを殺した後に奪いに行って差し上げましょう!」
「だまれ……」
「そして偽善者のご両親に送って差し上げるのです。一体どんな顔をするのかしら? ワクワクしませんのこと?」
「だまれよ……黙れ! 黙れ黙れ黙れよ! クソババア!」

 ――叫ぶ。
 叫ぶ。が、双葉に何ができようか?

 力を得たハイヤースペクターが抱く絶望は、一般人が抱く絶望よりも遥かに大きい。それが戦場に赴く代償なのだ。

(パパ、ママ、巧……悔しいよ、あーし、家族をバカにされて、スゴイ悔しい、悔しいよ……!)
 双葉は手元の砂利を握り締め、それが無意味な行為だと自覚しては指の力を抜いた。
(あーし、ここで終わるの?)

 ――違う。
 アインセルの能力はこんなもんじゃない。

「双葉! 双葉あああ!」
 リンの悲鳴が耳に届くたび、双葉は己の無力さを呪うのだ。

 生みの親の顔。
 育ての親の顔。
 愛する弟の顔。
 それらが双葉の脳裏に現れ、笑顔を向けてくれた。

 双葉は内に眠る存在に声をかける。
(ねえアインセル、起きてる?)
(…………)
 アインセルから返事はない。そもそもアインセル本人からの声を聴いたことがない。

 声を聴いたことはないけれど、体の奥底に眠る確かな存在に気づく。
(これは……この感覚は、何?)
 双葉の体の奥底から、説明し難い勇気が沸き上がってくる。
 空だと思っていたお菓子箱の隅、そこに見つけた最後のお菓子。

 よかった。まだ1個だけ残ってたのか――そんな安心感を抱きながら最後の一個を口に放り込む、あの時の感覚。

 もはや遠慮はしない。ここまで来て遠慮のかたまりはゴメンだ。
(あーしの中に眠る小さなお菓子、大切な一粒――)

 そうやって双葉は、体の奥に眠りし力の存在に気づくのだ――そう、それがハイヤースペクターの切り札。フェアリーテイルだ!!

 双葉はゆっくりと起き上がり、ふらつく体を2本の足でしっかりと支えて踏ん張った。

 目の前の騎士にババロアの残像がかぶる――見たことのない地獄の妖精を前に、双葉はそれを睨みつけながら叫ぶのだ!


「フェアリーテイル・リフレイン――」


 割れたガラスの中に双葉がいる。
 ガラスに映る双葉がこちらを向く。双葉のほうを向く。まるで意思を持ったガラスであるかのように。
 ガラスに反射した双葉の姿が家の中の鏡に映る。
 鏡に映る双葉がこちらを向く。双葉のほうを向く。まるで意思を持った鏡であるかのように。
 そうやって、映るもの一つ一つが柊双葉を名乗り、ガラスの中から、鏡の中から彼女たちがやってくる。
「マジだる~い」
「はあ~、馬鹿馬鹿しくってやってらんな~いっ」
「オケいこー、オケ!」
「巧~、ゴハンできたよー!」

 双葉ABCDEFG、
 双葉が2人。
 双葉が4人。
 双葉が8人。

 HIJKLMN――双葉が……総勢16人。
 各々の双葉たちが好き勝手にセリフを吐きながら、騎士たちをグルリと取り囲んだ。
 双葉Aがポツリ、口を開いた。

「JKを、舐めるなよ――」

 16人の双葉が一斉に騎士たちに襲い掛かった!!

 ガ! ガ! ガ!
 ドガ! ド、ド、ドド!

 甲冑をこれでもかと言わんばかりにボコボコに殴りつける!

 双葉が蹴る!
 双葉が突く!
 双葉が斬る!

 一人一人が今までコピーしてきた技のバックアップを引き出し、攻撃に移る!
 騎士たちの甲冑がひちゃげ、原型を留めないほどに変形していた。
「マ、マダ……マダダ……マダマダマダマダ!!」

 不気味に響くババロアの声を連呼する甲冑の隙間から、グニャリと黒い液体があふれ出してスライムのような軟体を作り上げた。やがて人型を形成し、ヘドロを被った騎士が現れる。

 双葉の瞳に絶望が芽生えた。
「新しい騎士の登場……? こいつ、まだ、生きているのか……てか、もう、ダ、メ……」
 無数の双葉がテレビのノイズのように一瞬で消えた。
(……もう、戦えない――)
 双葉が力尽きる瞬間、奇跡は起こる!

「双葉さん、あとは任せなさい!」

 突如現れた声。

 ザシュ! ザシュザシュザシュ!

 無数に乱れる閃光とともに黒い騎士の体が斬り裂かれてゆく!

 首を落とされた騎士にとどめを指すと、ヘアバンドの令嬢が2本のネイキッドブレイドを置いて双葉の体を支えた。
「双葉さん、しっかりなさい!」
「あんたは……愛宮、叶、子……」
 うっすらと瞼を開ける双葉の瞳に叶子が入り込んできた。
 叶子の後ろには華生や小安が立っていた。

 双葉がリンに手を伸ばすと、リンもその手を握り締めた。
「リ、リン……」
「双葉、もう大丈夫だから! 今病院に連れてってあげるから!」

 双葉はリンの手を強く、強く握り返した。

「リン……お願い、酔酔会の奴らに、一発、見舞ってやって……、ことのん達のため、に――」
 しだいに双葉の意識が遠のいてゆく。

 叶子が双葉の体を抱き寄せ揺さぶる。
「しっかりなさい双葉さん! あなたには守るべき人たちがいるのでしょう!?」

 フェアリーテイルの最後は狂人か廃人――双葉はその場で力尽き、眠りにつく。目覚める頃にはどうなっているのだろう? 晴湘市にいる想夜に接続を解いてもらいたいところだが、遠く離れたこの場所からでは間に合わないだろう。それを理解し、諦めるのだ。

 やがて双葉の視界が完全に暗闇に包まれた。
「巧に会いたい、どこでもドアが……あれば、いいのに――」
 たくみ――弟の名を口ずさみ、双葉はゆっくりと瞼を閉じた。


鴨原の正論


 ――晴湘市。

 横倒しになったビルの中から朱鷺が顔を出し、あたりを睨みつけるように警戒する。
「――着いたぞ。足元に気をつけろ」
 そう言ってガレキをどけながら、後ろからついてくる想夜たちを先へと導いた。
「ここが……晴湘市?」
 想夜の視線の先は黒い霧が太陽を覆い隠し、皆既月食のようだった。
 遥か頭上にあるはずの太陽。それが黒いフィルターを通しているので真っ黒なボーリングの玉のように見えるのだ。

 ――晴湘市は暗闇に包まれていた。

 せっかく目的の地に辿り着いたというのに夜中のように真っ暗。霧が分厚いバリケードとなって、想夜たちの行く手をはばむ。

 狐姫が身震いする。
「ここ、本当に日本なのか? まだ真昼間だぜ? 日食でもないのに、なんでこんなに暗いのん?」

 見渡す限りが黒い霧で覆われ、まるでこの世の果てを彷徨っている感覚に襲われる。

 御殿が鼻を曲げ顔をそらす。
「酷い匂いね。タンパク質が分解される時のような、雑菌が繁殖した時のような……」

 川のヘドロから舞い上がる悪臭が一同の嗅覚を刺激する。とてもじゃないが呼吸を続けていたら気が狂ってしまいそうだ。
 かつては海と山に囲まれた街。その面影は微塵もなかった。

「なぜこんな状態になってしまったの……?」
 周囲を見渡す御殿が落胆した。死んだ街の光景を突き付けられ絶望しているのだ。
 想夜が端末のライトで足元を照らす。
「だいぶ目が慣れてきましたけど、街の中もこんなに暗いのかな?」
「電気が通ってないから、電灯は期待しないほうがいいかも。この街は機能していないのだから」
 と、御殿が答えながら銃のライトを点灯させて進む。
「こんな酷いことをするなんて……あんまりです」
 御殿の言葉でションボリと肩を落とす想夜。内心、地獄の妖精に怒りを覚えていた。


 川岸を歩く一行。

 想夜のすぐ後ろを流れる川から異様な悪臭が立ち込め、ドロッとした粘液が汚らしさを醸し出す。
「目をそむけたくなるような光景だな。悪臭が肺に染みつきそうだ。春夏をおいてきて正解だったな」
 朱鷺も御殿のように顔をそむけた。
「川まで墨汁みたいだぜ……」
 川の中に生き物が生息しているとも思えない。覗き込む狐姫が水中を凝視していると、気泡がプクリ、プクリと浮かび上がってくる。
「……ん? おい、何か浮かび上がってくるぞ」
 狐姫が慌てて一歩二歩と後退し、川沿いから避難した瞬間だった。

 ザッパアアアアンッ。

 黒いヘドロをまとった1匹の大型犬が飛び掛かってきた!
 ――いや。飛び掛かってくるというよりは、のぼせて風呂から上がる時のように動作が鈍い。コンクリート製の川沿いを這うように手足を動かし、やっとのことで立ち上がる。

 人型の黒い大型犬。どこかで見たことある姿に目を丸くする。
「こいつ、まさか……!?」
 狐姫がたじろいだ。
 先日、晴湘ハイウェイから落下した黒妖犬だった。その酷い姿たるや、顔面の皮膚が剥がれ落ち、瞼の皮膚を失った場所は眼球がむき出しになっている。全身のあらゆる箇所が腐敗しており、歩くというより下半身を引きずるといった動作。

「なんだよ、あの体についている妙な生き物は!?」

 狐姫の視線の先、かつて巨大な骨格を保護していた筋肉にドス黒い海藻がうじゃうじゃと群がり、ヒルよろしく血を吸い取ってはピクリ、またピクリとうごめいているではないか。

「あの海藻に全身の血肉を食われているのか!? こんな姿になっても生きているとは……もはやこの世の地獄としか思えんな」
 朱鷺は絶念刀に手をかけながら後退し、黒妖犬との距離をとった。

 川の中には間違いなく悪しき生物が生息している。ババロアの手中に堕ちた者は皆、朽ち果てるその瞬間まで地を彷徨う苦しみを味わうのだ。

 一同、地獄の妖精の恐ろしさを改めて実感した。

「上空から侵入していたらどうなっていたことか……」
 と、朱鷺が霧に覆われた空を見上げた。
 鴨原の言う通り、空からの侵入を避けたのは正解だった。そのやり方を選んでいれば、今頃は全員、目の前の黒妖犬と同じ末路を辿っていただろう。

「川に落下したらアウトね、早くここから離れましょう」
 御殿は皆を川から引き離した。

「これからどうするよ?」
 狐姫が御殿の背中に問いかけてくる。
「このまま川に沿って下りましょう。南へ走れば海岸がある。街までは遠回りになるけれど、そこから商店街に入れるかもしれない。急ぎましょう」
 御殿の支持で想夜たちが一斉に走り出した。

 瀕死の黒妖犬は、追いかけてくる途中で足腰の筋肉が崩れ落ち、やがて息絶えた。酔酔会に加担した者の断末魔だった。


思い出の晴湘港


 川沿いに走ってきた御殿が海岸で立ち止まり、あたりを確認する。
「敵の気配はないみたい。ひとまず安心ね」

 海岸はとても静かだ。灰色に変色した海は死んだように微動だにしない。

 想夜が海水近くで立ち止まった。
「波が……ないです。ここ、本当に海岸なの?」

 海は波という鼓動を用いて命を現すもの。波は海の心臓とも呼べるだろう。けれども、目の前の海にはそれがない。

 想夜が子犬のようにシュンとして、悲し気に、ポツリとつぶやいた。
「海が……死んでいる」

 寄せては返す波、それすら無いのに、なぜ海岸と呼べるのだろう?
 潮風すらないのに、なぜ海岸と呼べるのだろう?
 今まで人間たちが思い描いてきた海岸の意味を改めて考えさせられる。

 ブロックにまとわりつく海面は元気がなく、ネットリとしていて怨みを抱いた液体にも見える。塩分を多く含んだ死海というものがあるが、それとは違う。死体のような海だった。
 時折、呼吸を思い出したように小さな波が作られる。有毒物質を含んだヘドロのような水面が上下に揺れ、それが繰り返される度に酷い悪臭を放ってくる。

 海には波と潮風がよく似合う――日常のあちらこちらに散らばる”当たり前”が、どれほど価値があるものかを思い知らされた。それはどんなに分厚い札束より、どんなに高価な宝石よりも尊い。

 御殿はとても悲しそうな顔をしていた。
「前はこんなに酷い海じゃなかった。海面は透き通っていてパラオの海のようだった……」
 透き通る海の中で、たくさんの小魚が踊りを見せてくれる。まるで竜宮城にいるみたいに。晴湘市の海は、そういう場所だった。
 御殿が西を指さし、想夜たちを先導する。
「向こうに市場があるの。行ってみましょう」
 海岸から離れて市場へと向かう。


思い出の市場


 かつて漁業に携わっている者たちで盛んだった場所。今は人っ子ひとり見当たらない。

 霧に覆われた一歩先には、誰も見向きもしないであろう汚れた浮き玉や破損したプラスチックコンテナが散乱している。

 壊れた自動販売機の片隅に、小さなプラスチックコンテナが転がっている。御殿はそれに近づき、両手で手繰り寄せて宝物のように扱う。

「3年前、おろし作業を手伝ったお礼にね、ここの漁師さん達がアジフライをご馳走してくれたの。揚げたてで白身がフワフワしていて……、タルタルソースとかお塩とかつけて、たくさん食べさせてくれた」
 想夜が小さな声を御殿の背中にかけた。
「……美味しそう、ですね」

 よく動いた後のごはんは一段とウマいことを想夜自身よく知っている。けれども素直に味覚を追及できない理由は、漁師たちがもういないという悲しみからくるものだった。

「ええ。漁師さん達は美味しい魚を獲ってくれて、美味しい料理を作ってくれる人達だった……」
 御殿はそう言うと、霧に閉ざされた海に視線を当て、遠く、ずっと遠くを眺めた。
「――けれども、あの日。みんな、みんな、殺されてしまった……」
 と、悲しそうに立ち上がる。

 狐姫が想夜の隣にやってきて自慢気に話しはじめる。
「想夜知ってっか? 鮫の皮でサワビをおろすと美味いんだぜ?」
 想夜が目をまん丸にして輝かせている。
「ほんと? 狐姫ちゃん物知りぃ」
「だろお~? ……御殿の受け売りだけど」
 たはは、と笑う狐姫の横で、御殿もくすりと笑った。
「ふふ、実はそれも漁師さんの受け売りなんだけどね」

 鮫の皮は歯と同じエナメル質でできている。ワサビをおろすとまろやかな味と風味が作り出される――晴湘市の漁師から御殿へ。御殿から仲間たちへと伝わる豆知識。

 あなたに美味しいものをたくさん食べてもらいたい――そんな伝言ゲームのように続いてゆく思い。人はそれを意思と呼ぶ。

 意思は人から人へと受け継がれる。
 意思はいたるところに足跡を残す。
 それに反し、意思はいたるところに痕跡をも残す。

 人の思いは時として傷跡にもなりうる。それは脳の記録だけにはとどまらない。晴湘市の街中、いたる所に傷跡が残り、それは記録として残り続けている。


 市場から出た想夜があたりを見回すと、遥か遠くに中央が天まで突起した建造物が見えた。中央塔、その左右に別塔がそびえ立つ、小さな山脈のような造り。

「御殿センパイ、あれを見て下さい!」
 と、巨大な黒い城を指さす想夜。
 狐姫と並んで御殿が目を凝らして見ている。
「デカい城だな。テレビで見た遊園地の中にあんなのがあったぜ?」
「ここからだとよく見えないわね」
 朱鷺も目を凝らしながら様子を伺っていた。
「……内陸部は霧が薄くなっているようだな。街に入れるかもしれぬぞ? どうする咲羅真どの?」
「行ってみましょう」

 御殿を筆頭に、一同は市場を離れ、晴湘市内を目指した。


思い出の晴湘市内


 市内に足を踏み入れると、思っていたより霧が薄いことが分かった。ライトがなくても移動できる明るさだ。

 御殿がライトを消す横、想夜の様子がおかしいことに気づく。
「どうかしたの想夜?」
 想夜は極寒の地に足を踏み入れたかのように、唇の色を変えてブルブルと震えていた。
「センパイ、御殿センパイ……」
 不安いっぱいの表情で、御殿の袖をつかんできた。
「大丈夫?」
 御殿が想夜の手に触れると、体温が尋常ではない速度で低下してゆくのがわかった。
「この場所、なんか変なんです」

 想夜が涙いっぱいに、喘ぐように訴えてくる――ただ事ではない事態に陥っている事が周囲の者たちにも分かった。そして、次の言葉で真実が語られる。

「この街の人達、まだこの地に留まっています! 魂が縛られたまま、動けないんです!」
「なんですって!?」
 御殿が目を見開いて驚いている。

 妖精の想夜には聞こえる。晴湘市の人たちの悲鳴――助けて! 熱い! 痛い! 苦しい! 早くここから出して!

 誰か、誰か、助けて――幾億もの悲鳴が想夜の頭を浸食してゆく。今にも発狂してしまいそうだ。

 妖精の想夜には見える。3万もの魂たちの足に絡みついたヘドロの鉄枷――それが死人しびとのを捕らえて離さないのだ。

「こんな、こんな仕打ち……酷い、酷いよ……うぐっ……」
 想夜は耳を塞いでうずくまり、しまいには嗚咽を上げた。
「こ、ここはそんなに危険な場所なのか!?」
 狐姫が周囲を見渡し、警戒を強めた。
 朱鷺が狐姫の横に並んで街を見据える。
「ここはもはや人の街ではない。ババロアの腹の中。地獄の妖精の領域テリトリー。拙者たちがいること自体、奇跡なのさ」

 ここは地獄の一丁目――普通の人間では精神が持たないだろう。ここに失踪した子供達がいるのなら、早く救出しなければ命に関る。もっとも、誘拐された子供達がまだ生きていればの話だが。

「想夜、立てる?」
 気使う御殿の手前、想夜は呼吸を整えて立ち上がる。軍人とはいえ、まだ13歳。荷が重すぎるのだ。けれども、その荷は想夜にしか運べない。聖色市のエーテルバランサーの名は想夜が背負っている。年齢を理由にして責任逃れは許されない。
「だ、大丈夫です。子供たちを助けるまでは……負けません。だって、だってあたしは――」
 フェアリーフォースなのだから――。
 その言葉を胸に刻み、邪悪な空気に飲まれぬよう、想夜は気を引き締めて歩き出した。


 街に近づくにつれ、バックリと割れたアスファルトの亀裂が増えてゆく。

 点滅しない信号が柱からナナメに垂れ下がり風に揺れる。
 少しでも動くものがあれば目を向けるのだが、ただビニール袋が飛んで行くだけだった。

 オーブントースターにへばりついた油カスのように、建物を覆う炭が街を真っ黒にコーティングしていた。
 御殿はそれらを見る度、この街が機能していない事実を突きつけられる。
「――行きましょう」
 黄昏ている場合ではないと心にムチを打ちながら、御殿は足を踏み出す。


思い出の駅前中央広場


 裏路地を抜け、駅ビルに近づいてゆく。

 見えない気配が13歳のエーテルバランサーを恨めしそうに見つめている。死者が助けを求めているのだ。そのことに気づいている想夜だったが、何もできない無力さ故に罪悪から瞼をギュッと閉じ、だんまりを決めこみ、俯きながら足早に進むことしかできなかった。

(力になりたいけれど、今は何もできないの。ごめんなさい……)
 小さなフェアリーフォースが拳に力を入れた。罪なき人々をこんなふうに闇に縛り付けている存在に殺意を覚えたのだ。


 ビルに囲まれた駅前の小さなスクランブル交差点。横断歩道の中央で一同が立ち止まった。

「おい、あれを見ろ!」

 狐姫が指さす方に、みずぼらしいコートをまとった女性が倒れていた。周辺には暴魔同士が争った跡があり、黒い血痕がぶちまけられている。

「まさか、誘拐された子供!?」

 想夜たちが顔を見合わせ、恐る恐るコートの女性に近づいてゆく。

 狐姫が一足早く、コートの人物を覗き込んで声をかけた。
「だ、大丈夫か?」
 コートの隙間から垂れる長い乱れ髪。その向こうに酷く血色の悪い顔が見えた。
「あ……ありがとう、ござ、ござ、いマス」
 振り向いた女性の顔を見た狐姫がゾッとする。

「……ホントウニ、助カリマシタワ。クケッ、クケッ、クケケ!!」

 女の顔面半分はアスファルトのようにゴツゴツした皮膚で覆われており、とても人間の姿として成立していなかったのだ。

「こ、この女……人間じゃねえ!」

 たじろぐ狐姫の目の前。女は懐からナイフを取り出すと、目の前で横たわる暴魔の肉をえぐり取り、肉片にかじりついてはウマそうにむさぼり始めた。

「魔族だったのか! 空腹に耐えかねて手あたり次第に暴魔を殺してやがる!」

 魔族だけではない。ここにいる妖精達も皆、人間界と地獄を行き来する地獄の妖精。敵も味方もあったもんじゃない。

 コートの女が立ち上がり、むき出しになった目を狐姫に向けて囁いた。
「アナタもオイシそうね……」
「うわあっ」
 驚愕した狐姫が尻尾をピンと伸ばして後退するが、躓いて転倒してしまう。

 女が狐姫に襲い掛かる瞬間、御殿が割って入り、女のこめかみに銃口を突きつけた。

「それはわたしのデザート。横取りしないでくれるかしら?」

 バン!

 何の躊躇もなくトリガーを引く。と同時に薬莢がアスファルトに落下。あたりに火薬の匂いが充満し、後頭部をぶちまけた女が後ろに吹き飛んで背中から地面に落下する。

 ビクン……ビクン……。

 女は数回痙攣した後、ピクリとも動かなくなった。

「た、助かったぜ……」

 尻餅をついた狐姫が立ち上がり、袴についた埃を払う。と同時に御殿の言ったセリフにハッと気づく。

「御殿、おまえ……どさくさに紛れてとんでもねーこと言わなかったか?」
 頬を真っ赤に染める狐姫の手前、「ほんの冗談よ」と御殿がサラリと言ってのけた。緊迫した状況下だからこそ、冗談のひとつでも言わなければやってられない。叶子のテンションでも感染ったのん?
「それよりも……あれを見て」
 御殿が双眼鏡を狐姫に手渡す。
「何か見えたのか?」

 狐姫が双眼鏡を覗くと、遠く離れた場所に点々とコンテナや奇妙な装置が設置されているのが確認できた。

「コンテナがあるぜ……まさかあのコンテナの中って――」
「ええ。子供たちが監禁されているわ」

 荒れた荒野、山中、街中、いったいどれだけの子供たちが捕われているのだろう?

「ボクにも見せて」

 水角が双眼鏡を除くと一際大きなコンテナが見えた。それを監視するように、白くて巨大な脂肪の塊がうごめいている。

 水角が双眼鏡の中に奇妙な生物を見つけた。
「想夜ちゃん、あそこで動いている生き物って……何?」
 右往左往する脂肪の塊を見た水角が、想夜に双眼鏡を渡した。
 想夜はそれを確認すると、とたんに悲しい顔を作った。
「あれ、トロルだよ……」
「トロル?」
「うん、森の妖精。普通は温厚で大人しい性格なんだけど、あんなに威圧的で酷い姿のトロルを見たのは初めて」
 白い巨体は妖精のような可愛らしい姿などではなく、醜く太った脂肪と筋肉の塊だった。全身の血液が抜かれたかのような、血色の悪い白肌でコーティングされた巨体。何段にも膨れ上がった腹、ブクブクと膨れた顔。裂けるほどに大きな口からは、不ぞろいな牙をむき出している。

 目の前のトロル――もはや妖精ではない。まるで怪物だ。

 コンテナの近くには例の装置が確認できた。調太郎の言う通り、巨大なスポイトを逆さまにしたような形状。透明な容器には墨汁のような液体が入っており、そのほとんどが既に地面へと注入されているようだ。

 想夜の視線の先、ひときわ巨大なトロルが複数のトロルの頭を叩いて支持を出している。上司に無理やりこき使われている奴隷のようにも見えた。

「なんて酷いことをするの? きっとスペックハザードで感染したトロルが狂暴化して、地獄の妖精に無理やりここに連れてこられたんだ。絶対許さないんだからっ」
 双眼鏡を握り締める想夜の手に力が入る。今にも怒り任せに握りつぶしてしまいそうだ。


 御殿が険しい顔を作る。装置は全部で5ヵ所に設置されている。それらもじきに役割を終えるはずだ。

「装置の中身が空になったらおしまいね」

 突如、街のあちこちで青白い発光が始まった。

「何をしてるんだろう?」
 水角が姉に問う。
「街のいたるところで魔族を召喚しているみたいね。あれを潰しておかなきゃキリなく敵が攻めてくる」
「お姉ちゃん、どうする?」
「時間がないわ。調太郎からもらった地図を確認しましょう」

 御殿が懐から地図を取り出し、×印を確認する。汚染エーテル注入装置への近道ルートが載っているはずだ。

 想夜たちが頭を近づけながら地図を覗き込んだ。
「手分けして各装置に向かいましょう。全部で5ヵ所。コンテナ内の子供はわたしが救助するから無視して構わない。駅前の中央広場に魔除けの陣を描いておくから子供たちをその中で保護しましょう。装置を破壊後、子供たちを街の外へ誘導する。OK?」
「俺は先に召還ポイントを潰すぜ。ランデブー地点は街の中央広場な。後で会おうぜ……お互い、生きてたらな――」
「気をつけてね、狐姫――」
「任せとけ」
 狐姫は片手を上げながら背を向け、その場を後にした。


 御殿の手前で想夜が大きく挙手。
「あたし山奥にある一番遠い場所に向かいます! 羽を使えばひとっ飛びだし」
「暗いから気をつけて。敵に見つかって下から狙い撃ちされないようにね」
「了解ちゃん!」
 想夜はビシッと敬礼した後、山の方へと飛んでいった。


 水角が忍者刀に手を腰にさした。
「ボクは廃屋に向かうよ。あそこまでは障害物が多いけれど、壁をすり抜ければ一直線に行けるから――」

 御殿が水角の両肩に手を置く。

「水角、お姉ちゃんの戦いに巻き込んでしまったことを許してちょうだい」
 水角は御殿の目をまっすぐ見つめた。
「ここはお姉ちゃんが育った街なんでしょ? なら一秒でも早く取り戻さなきゃ。そのためならボク、いくらでも戦える」

 そう言って水角はニコリと笑った。けれども笑顔の向こうには沸々と湧き上がる怒りがある。罪もない人々を地獄の業火の燃料にした奴らを許すわけにはいかないんだ、と秘めたる思いを抱くのだ。

「ありがとう、水角。気をつけてね――」
 水角の頭を撫でる御殿。
「うん、任せてよ!」
 水角が御殿の腕を離れ、その場を去ってゆく。


 朱鷺が長く伸びた絶念刀に手をかけ腰を上げる。
「――では、拙者は残りのポイントを潰そう」
「お願いします。くれぐれも気をつけて」
「案ずるな。すぐに終わらせてやるさ」
 と、絶念刀と共に霧の中へと消えていった。


 残された御殿がホルダーから2丁拳銃を取り出して構えた。

「子供たちの救出が遅れれば、事態は取り返しのつかない方向へ向かう。装置の中身がすべて注入されれば晴湘市は本当の地獄に変わる。一刻も早く散らばった装置を破壊しなければ――」

 御殿は女豹のように姿勢を低く保ち、街中を走り抜けていった。


水の無双


 水角は進む。
 迷路のように入り組んだ路地、無数の建物をすり抜け、遊歩しながら一直線に目的地を目指す。

 やがてたどり着いた空き地の片隅。あたりは巨大なバリケードが張り巡らされ、一般人が立ち入ることができない。ミネルヴァ重工が所有する土地だ。建物の死角となったその場所が、市民に知られることはなかったのだろう。誰一人として近づけるような造りをしていない。調太郎がデリバリー中に気づいたのは奇跡に等しかった。

 バリケードをすり抜けた水角の目の前に、巨大なスポイトとひっくり返したような装置が現れた。透明な容器の中に墨汁のような液体が残っており、幾本もの柱でしっかり固定されている。

「――これが汚染エーテル。この装置を使って地面に注入しているのか……」

 装置に近づこうとした瞬間、尋常ではない多さの気配に囲まれていることに気づいた。

(……来たね?)

 水角が敵陣を見渡す。右から左へ、サッと視線を流してカウントした。

(パッと見、100体……かな?)

 小型、中型、大型暴魔。中には妖精の姿をした悪しき存在も混じっていた。

 左腰に差した刀の柄に手を添えながら、一歩、二歩と進んでゆく。

「それじゃあ……はじめようか――」

 「アロウサル」――水角がハイヤースペックを発動させた。瞳が透き通ったブルーに変わり、水を司る八卦に変貌を遂げる。

 水角は名乗りを上げた。

「ボクは水無月水角。お姉ちゃんの大切な人たちに随分と酷いことをしてくれたみたいだね。お前たちの相手、この水を司る八卦が相手してあげる。100体同時でいいよ、かかってきなよ。どうせ群れてなければ何もできないんでしょ?」

 エメラルドに輝く忍者刀に手をかける。と同時に、敵が一斉に飛び掛かってきた!

 水角の鋭い目がギラリと光る。

「――遅いよ」
 上空から押し寄せる攻撃の波をスルリとかわし、相手の後ろに滑り込むように移動すると、振り上げた忍者刀を素早く振り下ろす!

斬るKILL!!」

 ズバ!

「ギャアアアアア!」

 トカゲ暴魔の背中を容赦なく斬りつける水角。エメラルドの刃、その切れ味たるやおぞましくも鮮麗――敵の後頭部から脊髄、そして背骨をなぞるよう、尾てい骨から尻尾までを一色線の水流を描くよう、綺麗にぶった斬った。
 斬られた暴魔が悲鳴を上げ、背中から噴水の如く血しぶきを撒き散らしてその場に倒れこんだ。それっきりピクリとも動かない。

 地面に倒れた暴魔を踏みつけ、次の暴魔が押し寄せてきた。

 ドッ、ザシュ!

 水角が2匹3匹と蹴りを入れて体勢を崩させ、問答無用で叩き斬る!
 あたりにヘドロの血しぶきが舞い上がり、水角の頬を真っ黒に染め上げた。

「フフ……ッ」
 真っ黒に染まった水角の顔半分がニヤリとする。

「ボクを怒らせるとどうなるか、二度と忘れられないよう、その体に刻み込んでやるよ――」

 袖で拭ったヘドロ血がびっしりと繊維こびりつき、純白のパーカーをゼブラに染めた。

 威勢だけよい餓鬼が叫びながら軍勢を差し向けてくる!

「ひるむな、相手はただの人間だ! 八つ裂きにしろ! 皮をはいで晒せ! 殺せ! 殺せ殺せ殺せええええええ!」

 水角は飛び掛かってくる悪魔を睨みつけながら、口をカッと般若のように開いて笑った。

「どれだけの人を食べてきたの? いくら何でも食べ過ぎでしょう? でっぷりとしたみっともない腹をしまいなよ。それともその命で晴湘市の人々の苦痛が拭えるとでもいうのか? あまりボクを……怒らせるなよ」

 シュ!

 一閃――。

 スパッ。スパスパスパアアアン!

 真横に一筋の光が走り、鬼神と化した水の八卦が悪魔たちの首を刎ねてゆく!

 ザシュ! ザシュ! ザシュ!

 キャベツにゆっくりと包丁を滑り込ませる時のような鈍い音とともに、暴魔の肉が骨ごとぶった斬られてゆく。

 肉厚の魚に包丁を突き刺した時の感覚が忍者刀から柄を伝い、水角の手に手ごたえを感じさせた。

 醜い面した脳天へ、でっぷり膨れた腹へ、エメラルドの刃を叩きつけては乱暴にさばいてゆく――そうやって暴魔を、地獄の妖精たちを斬り裂いていった。

 幾十にもおよぶ悪魔の死骸の中、水角は忍者刀を握りなおすと後ろから迫ってくる巨大な影に意識を傾けた。

(想夜ちゃんが言っていたトロル。デカイのがおでましか……)

「なんだあ、てめえ……!?」
 水角の頭上にぬうっと白い脂肪の塊が顔を覗かせてきた。筋肉と脂肪に包まれた鬼の出来損ないよろしく、ギロリと眼球を向け、大口開いて牙を突き立てては威嚇してくる。

 水角が眼球を忙しなく上下に動かし、トロルの足元で止める。
(4メートルはあるかな。狙うなら足か……)
 分析完了。いつも敵のどの部分を狙うかを一瞬で判断してから刀に手を伸ばしている。
(……ん?)

 目の前のトロルの後ろ、別のトロル数体が物陰に隠れていることに気づいた。皆、スペックハザードの感染者のようだ。晴湘市で無理やり働かされているようだ。

 水角は目の前のトロルを睨みつけた。
「みんなお前に怯えているよ、ブラック主任。あまり部下をいじめるなよ」
「ぬかせぇえクソガキがぁあ! ここではババロア様が絶対! ババロア様こそが法律なんだよ!」
 と、言葉を叩きつけるように吐いては足元に転がっている鉄骨に手を伸ばし、水角目掛けて振りかぶった!
「おおっとお~、手がすべっちまったああ~っ。営業妨害は撲殺刑だあああっ」

 鉄骨が下ろされる瞬間、水角は相手の手首を左手で弾いて軌道を変えさせ、隙が出来たところへ右手の刀を振り下ろす!

 ズバシュッ!

 真正面からナナメに斬り込みを入れると、巨体の足の付け根から真っ黒な血しぶきが舞い上がった。

「ギャアアアアア! 足! 足いいいい!」
 太ももから大量の出血が始まり、周辺に黒い水たまりを作り出す。

 泥水をはね上げながらのたうち回る脂肪の塊に冷たい眼差しを落とす水角が刀を振り上げた。

「助けて! 八卦だ! 八卦が来たあああ! ババロア様助けて! 助けてええええ!」
「うるさいなあ」
「殺される! 八卦に殺され――」

 スパーン!

 悲鳴をあげてのた打ち回るトロルの首を、水角は冷徹な眼差しで躊躇なく弾き飛ばした。

「街の人たちの魂、食べてるんでしょ? 全部返してもらうよ」
 巨体が地面に突っ伏した瞬間、

 どおおおん……。

 その場一面に地響きを奏でた。

 水角がエメラルドの矛先を振りかざし黒血を振り払うと、隠れていたトロルたちがいっそう身をすくめて怯え始めた。

「安心してよ。キミ達は殺さないから」
 そう言ってニコリと笑い、刃を鞘にゆっくり収める。

 トロルの死骸からプリズムが湧きあがり空へ登ってゆく。食われた住人の魂が解放された証。それを地面から這い上がってきた黒い霧が掴んで離さない。死人の魂をこの地に留めるために鉄枷を強いるのだ。斬っても斬っても、黒き鉄枷は一向に切れない。

 大人しいトロルとは逆に、残りの悪魔が襲い掛かってきた。
「生かして返すな! 殺せえええ!」
「いま逃げればボクに斬られずに済むのに……」

 水角はめんどくさそうに敵を睨み返した。

「ハイヤースペック・ソニックウォーター」

 水角は外壁に溶け込み、壁の向こう側へと移動した。

「あん? どこだ!? ヤツはどこに消えやがった!?」
 水角の姿が消えた壁を不思議そうに見つめる悪しき妖精や悪魔たち。キョロキョロと見渡しながら、壁の向こうの殺気に気づく。
「壁の後ろだ、回り込め!」
 そう叫んだ時だ。

 ス……。

 悪魔の額めがけ、壁から矛先が静かに飛び出してきた!

 脳を貫かれた妖精がその場に崩れ落ちる!

「早くしろ! 壁の向こうに回りこめ!」

 妖精たちが一斉に移動しようとしたところへ水角が呆れるようにうそぶいた。

「言ったでしょ? それじゃあ遅いんだってば――」

 スパ! スパスパスパ!!

 水角がイラつきを叩きつけるよう、悪魔の首を壁ごとぶった斬ってゆく!

 右から左へ。
 左から右へ。
 壁の中でエメラルドの刃が海中のサメのように漂う。

 音速で左右される斬撃が壁と妖精を頭からスライスしてゆく。腹の中に詰まった晴湘市の住人の魂を傷つけぬよう、巧の技で斬り裂き、千切りにしてゆく。

 壁を斬り裂いて現れた水角が、残りの暴魔の処理を始める。

「遊びじゃないんだから真面目に殺しに来てよ」

 ブシャ!

「ボクが今までどれだけの暴魔を退治させられたと思ってるの?」

 ビチャ!

「もっとも、ボクを飼育したのはお前らのボスなんだけどね……」

 ザシュ!

 荒れた街に、ビルの壁面に、地獄の妖精たちの黒血が降りそそいだ。

 水角は墨汁の洗礼を全身に浴びながら、斬って、斬って、斬り突き進んでゆく。鬼神の如く刀を振り下ろし、幾体もの妖精、暴魔の屍を越えてゆく。小さくとも、女の子のように華奢であろうとも、水の八卦はまごうことなき戦士だった。

 青く光る瞳からテールランプの残像。水角の進む道に地獄の使者たちが横たわっている。

 雀の子、そこのけそこのけお馬が通る――「馬が通るからあぶないよ」。小林一茶は小さな雀たちに想いを馳せた。が、今回ばかりはちと話が違う。

 闇に堕ちた妖精たちよ、そこを動くな。今からその首を刎ねてゆく――水の八卦、水無月水角が……そのまかり通った悪行を刎ね上げる!

 ザシュ!
 ザシュ!

 水の鬼神が悪魔の肉を骨ごとぶった斬る!

「こんなもんじゃない。こんなもんじゃ許されないんだ! この街の人々の苦痛は……おまえらの黒き血では清算が追いつかないんじゃないのか!?」

 墨汁をかぶったような姿の水角。かつては純白だったパーカーが黒く染まる。

「答えろよ、答えてみせろよ。好きなんでしょ? 人間たちの悲鳴がさ!」

 立ちはだかる妖精たちを睨みつけ、矛先を向けた。想夜のように鬼化などできなくとも、立派に鬼を演じて見せる。姉の記憶から学んだ人々の地獄を以ってして、水角はやいばの鬼と化していた。

「ボクの言っていることは間違っているか!?」

 ザシュ!

「ギャアアア!」
 敵の両足を斬り崩し、首をバンバン刎ね上げる!

「来いよ……来なよ。復讐の始まりだよ。晴湘市の人たちの代わりに、ボクが相手になってあげるよ――」

 悪魔を前に、人は誰しも鬼にならなきゃいられない――。
 鬼にでもならなきゃ、やっていられないでしょ――。

 だからこそ、その胸に秘めたる怒り……決して眠らせるな!!

 前に進むために覚悟を決めろ!
 斬ると決めたら容赦なく斬れ!
 躊躇すれば……そこで負ける!

 水角よ……さらなる鬼となれ!
 

狐姫 VS 召喚士


 狐姫は集合団地に来ていた。

 無数の暴魔はすでに蹴散らしてある。あとは召喚ポイントと装置を見つけて停止させればいいはずだ。

 足元に転がる暴魔を蹴飛ばす。
「……ふう、終わったぞいっ。以外とあっけなかったな」

 取り壊し途中の団地に巨大クレーンがもたれかかっている。工事現場を避けて裏手に回ると、団地の脇に比較的大きな駐車場があり、陣が描かれていた。

 駐車場に侵入した狐姫がしゃがみ込み、陣を凝視する。
「召喚ポイントめーっけ。ここから魔族を召喚しているのか」

 目の前に広がる陣を見る度、想夜に案内された廃墟の光景を思い出す。想夜と華生は元MAMIYA研究所で召喚士数人と出くわしており、召喚された赤帽子50人と殺りあった。そこから推測すると、やはり妖精界と魔界が手を組んでいることは事実のようである。

 メイヴの支持により、召喚士たちは赤帽子を魔界のポートを通して人間界に送信させていた。魔族はフェアリーフォースの幹部であるメイヴに肩入れする一方、地獄の妖精であるババロアにまで関与しているのだ。魔界は妖精界をも手中に収めたいらしい。

「装置とやらは見当たらないな……」

 狐姫がクレーンによじ登って見下ろすと、取り壊し中の団地の中に奇妙なスポイト型の装置を発見する。

「あったあった! あんなところに隠していやがったのか」

 すぐさまクレーンから飛び降り、装置に近づく。パネルを操作して電源を切ると電力供給が途絶え、装置が動作を停止した。

「――止まった。あっけないもんだな、ははっ……」
 八重歯を見せながら、額の汗を拭った時だ。
「……ん?」
 すぐ後ろで閃光が走る。

 振り向むく狐姫の視線の先で、陣の中央から大型暴魔が飛び出してくる。その周りでフード姿の6名が詠唱を続けていた。

「アイツらが例の召喚士か。フン、性懲りもなくポンポンと暴魔を生み出しやがって」

 暴魔は蹴散らせばいい。だが厄介なのは召喚士。先日、元MAMIYA研究所で想夜を襲った赤帽子を人間界に送り込んだ連中だ。

「アイツらを始末しておかないと地獄からウジャウジャと悪魔がやってくる。 ……ここでやるしかねえ」

 狐姫が召喚士に向かって猛スピードで走りより、その背中に飛び蹴りをかました!

 ド!
 ……ズシャアア。

 後ろから飛び蹴りを食らった召喚士が一直線に吹き飛び、団地の壁にビターンと張り付いた。

 一斉に振り向く召喚士たちの視線の先、半身に構える狐姫が鼻を指で弾いた。

「お仕事中に悪かったな。残業代は俺のマグマで払ってやるよ」
 力を入れた拳が灼熱と化し、真っ赤な水飴を地面に垂らした。
「考えるな。感じろ。俺のマグマを感じろよ……」

 ジュッ……ジュッ……。

 マグマが地に落ちる度、小さな蒸気を作り出す!
 マグマの申し子、準備は整った。

「…………よし、かかってこい」

 クイックイッ。狐姫が手を差し出して誘う。
 その合図で、召喚士が幽霊のように浮遊しながら一斉に動き出す!

 狐姫の視界から逃れるよう、左右バラバラに移動する召喚士たち。大きく距離をとったかと思うと、瞬く間に狐姫との距離と縮めてきた。
「お!?」
 召喚士たちは狐姫の懐に潜り込むと殴ったり蹴ったりせず、ペタリと巫女装束に触れるだけだった。
 大捕り物よろしく、前後左右から掌で触れられた狐姫がキョトンとしている。
「は? 何してんの、お前ら……」
 言いかけた時だ。

 ドオオオオオオオオン!

 狐姫の体が勢いよく吹き飛ぶ!

 煙幕をまとって飛んでゆく狐姫の体が駐車場のアスファルトに叩きつけられ、何度もバウンドして団地に突っ込んだ。

「痛ってええええ……、うげぇ、吐きそう……」
 ガレキの中から身を起こした狐姫がゆっくりと立ち上がり、尻についた埃を払った。
「お~痛てっ、胃が超痛てえ……なんだよ今の攻撃は!?」

 体の表面にダメージを与えるというより、内部から破壊されるような衝撃だった。鳩尾みぞおちにボディーブローを受けることはあれど、胃袋を直接殴られた時の痛みなど経験したことがない。それを可能にできる状況を語るなら、メスで腹を開いて胃袋を掴むことくらいだろう。

「……そうか、これがブラスターか。ヤベエぜ、ブラスター……」
 油断したのも束の間、召喚士が狐姫を取り囲み、ふたたび掌を当ててきた。
「またかよ、くそったれ! バカの一つ覚えみたいに人の体にベタベタ触りやがって! さわんじゃねーよカス、金取るぞ!」

 狐姫はまとわる蚊を払うように裏拳をブン回し、周囲に群がる召喚士たちに狙いを定めた。が、拳は敵を捕らえることなく空振り。ブラスターのダメージからか、めまいを起こしてバランスを誤り、その場に膝をついてしまった。

「くそお~、頭がくらくらするぜえ~」
 そこへ召喚士が2名、素早く戻ってきては、ふたたび狐姫の体にタッチした。

 ドオオオオオオオオン!

「ぐあ!?」
 爆炎を上げながら狐姫の体が吹き飛んでゆく!

 小さな体がゴロゴロ転がってバウンドして停止。出来立てアツアツの石焼き芋のように全身から煙を吹き出している。

「う、ぐう……洒落になんねえ……俺、めっちゃホクホクじゃん」

 狐姫が頭をブンブン振り回し、スッキリしない脳ミソに喝を入れる。細い腕で地面をしっかりととらえ、やっとのことで起き上がった。
 グチャグチャになったケモ耳と尻尾の毛並みを整えて冷静になる。
「飛び道具に頼らないのは褒めてやるが……なぜアイツらは、わざわざ俺の全身に触れるんだ?」

 考えろ! 感じろ! そうして瞬時に悟る――体に触れることで爆発の威力を高めているのだ、と。炭酸水を振ったあとにフタをしているようなもの。膨張する炭酸水は行き場を失い、入れ物自体に内側から圧力を与える。やがて入れ物は遠くへ弾け、飛んでゆく。

 いま狐姫に起こっているダメージも同じことが言える。狐姫は炭酸水のビンそのもの。体内でブラスターの圧力がかかり、敵の掌を出発点として、どこまでも遠くへ吹き飛んでゆく。威力がデカイほど、吹き飛ぶ距離も長い。
 召喚士は肉弾戦に向いてない。時間のかかる戦闘が命取りらしく、一瞬で戦闘を終わらせたがっている。そのため、狐姫の拳というリスクを伴いながらも至近距離をとって攻撃を仕掛けてくるのだ。
 当然、ブラスターの威力は絶大。食らい続ければ狐姫の肉体はボロボロになる。それを避ける方法は召喚士との距離をとることだ。

「アイツらと距離をとったほうが無難ってことなのん? 遠くから石の投げ合いっこでもしろってのかよ、性に合わねえぜ……」
 狐姫はボクサーのガードのように、両腕で全身を守った。が、召喚士たちは狐姫の全身に触れて動きを封じてきた。

 ドドドドドド!!

 敵の攻撃は実にいやらしい。今度は狐姫の体が吹き飛ばないほどの威力でブラスターを連発し、四方八方から小さな体に体内爆発を起こしてくる。連続で体力を削ることで時間短縮を狙っている。

 6人に囲まれてボコボコに殴られる有り様。集団リンチにあっているのと同じである。それでも狐姫は両足で踏ん張ってガードし続けた。

(――ヤベえ、本格的にヤバくなってきだぞ!? このままガードし続けていたら完全に体力を削られて殺されちまう――)
 狐姫は両腕で防御しながら、次の行動を考えていた。

(どうする? ジワジワと体にきてるぜ……)

 ガードする場所すべてに防御創が蓄積されてゆく。
 ガード無しでブラスターを食らえば致命傷は避けられない。狙うなら……カウンターだ!

「しゃーねえ、1発くらいは我慢の子でいくか」
 狐姫は両手を差し出し、リング上のボクサーよろしくウェルカムポーズで挑発を決めた。
「ほーれほーれ♪ 」
 召喚士の一人が警戒する一方、狐姫の背後をとらえた別の召喚士が後ろから忍び寄る!

 ペタリ……。

 狐姫の後ろから右脇腹にタッチ。

 ドウッ。

 &ブラスター発動。

 メリッ……。

「うぐ!?」
 鈍い音の後、狐姫の横っ腹がくの字に折れ曲がる。肋骨がピシリと音を立て、横っ腹に強烈なシビレが駆け抜けた。

(うはっ、痛ってええええ……肋骨2本くらい逝ったべ? でもガマンガマン)

 狐姫は右脇に召喚士の腕を挟み込むと、自分の右腕を相手の腕の外側から内側にからませた。続けて肩関節を固定させ、勢いよく手前に引き寄せる。

 ……コキッ。

 鈍い音とともに召喚士の関節がはずれた。
「ウッ!!」

 激痛でうめき声をあげる召喚士。狐姫から逃れようと暴れるも、今度は袖を掴まれて手首を固められてしまう。

「おっと! 逃げんじゃねーよ、ゆっくりしていけ。わざわざ腹に一発食らってやったんだ、簡単に逃がすかよ、フン!」

 ベキッ。

 狐姫は何の躊躇もなく腕に力を込め、召喚士の手首をへし折った。
「ぐう!?」
「よしよし、そんなに気持ちいいか、オラア!」
 痛みをこらえてうずくまる召喚士の顔っ面に裏拳を叩き込んだ。
「もういっちょ、ホワチャアアア!!」
 立て続けに拳を下からえぐるように振り上げ、召喚士の横っ腹めがけてボディーブローを叩き込む!

 メキ……。

 肋骨をえぐるように叩き折る鈍い音。召喚士の体が真横に折れ曲がった。
「借りたもん返さねえと御殿に叱られるからな。肋骨の借りは返しとくぜ!」

 狐姫は相手の腹にヒットさせた拳に力を入れ、内臓ごと奥へ奥へと押し込んだ。

 あまりの激痛に悶える召喚士だったが、全身を狐姫に押さえ込まれ、完全に逃げ場を失った。

「アチャア! アチャア! ホワチャアアアア!!」
 怒り任せに何発ものパンチを浴びせ続け、一気に敵の体力を奪ってゆく。

 ドサ……。

 ――やがて、召喚士がその場に崩れた。

「フウウウウウウウウウ~ッ……1匹終了――」
 狐姫は甲高い吐息で首を左右に振り、額の汗を乱暴に腕で拭った。

 マグマを背負いしソルジャーの挑発は続く。

「オラ来いよ。次はもっとおもしれーもん見せてやるぜ」

 すっかり頭に血がのぼっている狐姫。痛みなどどこ吹く風。アドレナリンがそうさせる。「ゲヘヘ」と笑いながら、血管の浮き出した瞳で敵を挑発。まるで何かの中毒患者のようにアブナイ表情。

「来ないならこっちから行くぜ。あと2発くらいは耐えられるからな……」
 戦場で待つことは好きじゃない。地面を蹴り上げ、猛スピードで助走をつけて召喚士Cの顔面に飛び蹴りをかまして吹き飛ばした。

 ズシャアアアア。
 蹴られた召喚士Cが真後ろに吹っ飛びながら地面に叩きつけられ、勢いよく泥水を跳ね上げる!

 隙をついた他の召喚士4人が狐姫を囲み、ペタペタと掌を張りつけてくる。
「次はお前か?」
 狐姫はニヤリと口元を吊り上げ、召喚士Dの手首をつかむと手前に引き寄せた。
「エントロピー合戦なら負けねえぜ!」
 狐姫の拳が灼熱の飴玉のように熱を帯びる。

 ジュウウウウウウウウウッ……ボウッ!
 焼印を入れるかの如く、狐姫は灼熱の掌で召喚士の手首を焼いた。同時に敵のローブ全体に炎が燃え広がる!

「ギャアアアアアアアッ」
 炎に包まれた召喚士。熱さのあまり身をよじり、狐姫から距離をとろうとするが、ヘッドロックで動きを封じられているので身動きが取れない。

 炎に包まれ燃える奴。それ即ち、マグマに嫌われし者!
 炎にいだかれ燃える奴。それ即ち、マグマに愛されし者!

 ブロンド狐の少女は……紛れもなく後者だ!!

「ジタバタするなよ。これ、さっきのお返し。利子つけて返してやんよ――」
 狐姫は召喚士の頭を脇に挟んで腰を落とし、前かがみになった敵の横っ腹にボディーブローをブチ込んだ。
「ホワタアアアアアッ!!」

 ドオオオオオオオオオンッ。

 狐姫に後ろ首を掴まれた召喚士の体が振り子のように宙へと舞い上がり、孤を描いて落下する。
「利子が1発で終わるわけねーだろ……バカか」
 狐姫は再び敵の体を押さえ込み、空いたほうの拳で無数のパンチを腹に目掛けてぶっ放す!
「あちゃあ! ほわちゃあ!」

 ドン! ドン! ドン! ドン! ドン!
 灼熱のパンチを浴びた召喚士の体が燃え上がる!

 マグマの鬼――たじろぐ召喚士たちを睨みつけ、口を開いた。

「死ぬ気で来い。人間界にケンカを売った代償、ここで耳そろえて払っていけ……」

 狐姫の目はすでに座っており、常人のソレとは違っていた。
「ほらほらどうした? お前らの大好きなおさわりゴッコの時間だぜ……俺に触った奴から暖めてやるよ。料金はその体できっちり払ってもらうがな――」
 狐姫は両手を差し出し、ジリジリと召喚士たちに近づいていった。

 一歩、二歩――迫りくる狐姫を前に、召喚士たちが顔を寄せ合い、ヒソヒソと打ち合わせを行う。やがて意を決したように輪を作り、両手を掲げて詠唱を開始する。

「暴魔召喚か。いいぜ、待ってやる」
 狐姫が立ち止まり、詠唱を聞き入った。

 3秒……。

 5秒……。

 10秒……。

 狐姫がだんだんとイラつき始める。

「さすがに4人だと遅えな。さっさと召喚しろよノロマ。もうお前らの活躍ってそれだけだろ?」
 詠唱が終わる頃、目の前の空間がグニャリと歪み、晴湘市と魔界がつながれる。青白い発光のあと、トロルがヨダレを垂らしてのご登場。暴れ狂ったように牙を向き出して威嚇の雄叫びを上げる。
「グオオオオオオッ」
 召喚士はその後、ひっそりと姿を消した。
「あ! アイツら逃げやがった! ……ま、いっか」

 狐姫が見上げたその先に、何倍もの大きさの敵がいる。マグマの申し子は、それにひるむことなく立ち向かってゆく。

「地に堕ちた妖精――ようやくデカイ奴のご登場か……いいぜ、相手にとって不足なし、かかってきな!」

 狐姫は親指でクンッと鼻をはじくと姿勢を低く保ち、半身の構えでステップを踏んだ。


つまらぬ物を斬る


 御殿の足元に無数の悪魔が倒れている。皆、ボニー&クライドの餌食と化していた。

 御殿の視線の先に子供たちが捕らえられたコンテナがある。先ほどまで御殿が発砲する度に、中から子供たちの悲鳴が聞こえていた。

(子供たちはまだ無事のようね)
 御殿は悪魔の死体を乗り越えてコンテナに近づき、電子ロックを解除する。

 ギイイィ……。

 開く扉の向こうに子供たちの姿。みな無事だった。年上の子供は小さな子供たちを庇うように抱きかかえているが、怯えた目を御殿に向けてくる。

「誰!? 悪魔なの!?」
「うわあ悪魔だ! また悪魔が来た!」
 キャーキャーと喚く子供たちだったが……、
「違うよ! よく見て!」
「人間だ! 人間のお姉ちゃんだよ!」

 御殿の姿を見るや否や、子供たちはこわばった表情を崩して近づいてくる。
 その中から年長の女の子が御殿に近づいてきた。

「――あ、あの……お姉さん、悪魔?」
 御殿がゆっくりと首を左右に振る。
「違うわ。相方には毎日そう呼ばれるけどね」
 それを聞くと、女の子がペコリとお辞儀をする。
「あの……、ありがとうございます!」

 無表情の御殿。こんな時、どんな顔をすればいいのか分からない。日々の暮らしの中で子供と接することなど皆無に等しい。相手はいつだって牙を剥きだしてくる悪魔ばかり。
 子供たちに想いを馳せた時だ。

 ズキッ……。

 御殿の体内。腹部のずっと奥の奥。細胞の一部にぬくもりを帯びた血流を感じる。今まで経験したことのない痛みと躍動感。別の生命体になったような不思議な感覚。

(今の感覚は……?)

 正体不明の不安に襲われた。誰かにそばにいて欲しくなり、心の拠り所として、つい子供たちを求めてしまう。

(こんな時に……一体どうしたというの、わたし。しっかりしなきゃ……)

 ぎこちない笑みを子供たちに向け、街の中央を指さした。ここに来る途中、広い場所に魔除けの陣を張っておいた。そこなら時間稼ぎくらいはできるだろう。

「ここから真っ直ぐ歩いてゆくと駅前に広場がある。地面におかしな模様が描いてあるから、その中で大人しくしていなさい。そこなら悪い奴らは襲ってこないわ」
「分かりまし、た……」
 突然女の子の顔色が悪くなり、体がふらついた。
 御殿が慌てて支える。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。みんな、行きましょう!」
 年長のお姉さん、しっかり者の女の子。誘拐された身でありながら、自分の役割をしっかり受け止めている。

 御殿は女の子の頭に手を添えると、パレオをひるがえしてターン。子供たちに背を向けながら声をかける。

「用事が済んだら迎えに行くから、絶対に模様の外に出てはダメよ?」
 と、その場を後にする。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
 子供たちは御殿の背中に声をかけ、広場へ向かって一目散に走り出した。


 御殿は子供たちと別れた後、ボニー&クライドのマガジンを取り出し、そこに弾を詰め込んだ。
 魔族と地獄の妖精たち。ここに来るまで、敵数は充分に減らしておいた。魔界からの召喚ポイントも、今頃は狐姫が潰しているはず。ゆっくりとだが、状況は着々と有利な方向に流れている。


 街を走り抜ける御殿がたどり着いたのは、駅から少し離れたバスターミナル。

 周囲を見渡し、違和感を覚える。
(建物の倒壊が不自然ね……)

 その付近だけ建物が著しく倒壊している。乱暴に切り取られたようにビルや家屋がポッキリと折れているのだ。そこを中心として四方八方に被害が拡大していた。

 不自然に破壊された大通りを進んでゆくと、建物の陰からコソコソと何者かがついてくるのが分かった。

(……2匹か)

 神経を研ぎ澄ます――横目でターゲットを確認後、振り向きざまに腰のホルダーに手をかけ、ボニーとクライドを瞬時に引き抜いた!
 と同時に――

 ババン!!
 2発発砲!

 ギュオンギュオオオオオオン……。
 退魔弾が詠唱波紋を描きながら一直線に飛んで行く!

「ギィ!!」
「ギャギャ!?」
 ビルの片隅に2匹分の奇声が響いた。

(当たった? ……いや、かすめただけか)
 手ごたえはあったが、致命傷ではない。
「隠れてないで出てきなさい!」

 御殿が銃口を構えながら叫ぶと、建物の隙間から2匹の悪魔がノロノロと現れた。小柄だがシワだらけで醜い面した灰色の餓鬼。2匹とも腕と肩に退魔弾の術波を食らって出血している。弾の発する詠唱に触れたために肉がただれていた。

 悪魔を睨みつける御殿の表情が凍りついた。
 ノコギリを引きずりながら、御殿を恨めしそうに見つめて近づいてくる。

 ――見覚えのある悪魔だった。

「……そのツラ、思い出したわ。よくも碧さんの命を奪ってくれたわね――」

 晴湘市の災害時、碧の目の前でビルを真っ二つに斬ったノコギリ悪魔――御殿はコイツらに借りがある。

 御殿は両手でボニー&クライドを突き出し、ふたたび構えた。

「わたしのことを覚えているか? 地獄から帰って来てやった」
「ギ?」
「ギギィ?」
「「ギャギャギャギャ!」」
 2匹の悪魔が互いを見つた後、御殿のほうを向いて小バカにしたように首を傾げた。その後、間髪入れずに凄い速さで飛び掛ってきた!

 右。
 左。
 両方からの挟み撃ち。ノコギリですり潰しにかかる!

 御殿が身をかがませると、その真上をノコギリが交差!

 ヒュン!
 ヒュン!

 左右からの斬り込みを避ける御殿。敵との間合いを詰め、腹に銃のグリップを叩き込んで応戦する。
 餓鬼が器用にノコギリを上下に揺らして御殿の攻撃を受け流す。

 カッカッ!
 キン!
 バンバン!

 御殿が敵の攻撃を銃で受け流し、隙を突いて発砲。冷めた目つきのエクソシスト、このていどの攻撃は屁でもない。

 ――もう、昔の弱い御殿ではないのだ。

 2匹の悪魔が御殿にまとわりつくように、素早い動きで翻弄してくる。

 キン!

(しまった! 銃が!?)

 ノコギリで銃をはじき飛ばされた御殿が瞬時に腰に手を伸ばし、装備していた空泉地星を引き抜く。それを振り上げ、ゴルフアイアンのスイングよろしく小石をはじいて餓鬼の額に命中させる!

 ガッ。

「ギギイ!」

 ひるんだ餓鬼の隙をついて銃を拾う御殿。すかさず2本のレーザーポインターを左右に散らばった餓鬼に向けてロックオンさせた。

「チェックメイト」
 引き金を引こうとした時だ。

「わーい! ババロアさまがウサギさんを連れて来てくれるよー」

「ダメ! そっちに行っちゃ!」
(子供!? まだ逃げていなかったの!?)
 物陰から意味不明な言葉を口にしながら子供が飛び出してきた。どうやら他の子供たちからはぐれてしまったようだ。

 御殿の脳裏にババロアのハイヤースペックが浮かんだ。
(ババロアの能力に感染して操られているのね!?)
 男の子の後を年長の女の子が必死に追いかけている。
「ババロアさまー! ウサギさーん!」
「ダメ! 戻りなさい! 戻るの!」

 嬉しそうに叫ぶ男の子、とても正気には見えなかった。

 追いかける女の子は。やがて男の子をつかまえた。
「捕まえた! いい子だから戻るの、ね!?」
 男の子を守るように抱きしめる女の子。
 そのすぐそばに2匹のノコギリ悪魔。

 御殿がとっさに子供たちを引き寄せて庇った。が、すぐ目の前で2匹の悪魔はビルにノコギリを入れ始め、瞬く間に斬り終える。

 ズズズ……、ビルが斜めにスライドして倒壊する!

 あの時と同じ――碧は御殿を庇ってビルの下敷きとなった。まるでデジャビュを見るように、御殿の脳裏にあの時の映像が再生される。

 御殿が叫んだ!
「早く逃げなさい!」
「……え? あれ? 僕、さっきまでみんなと広場にいたはず……」
 御殿の声で我に返った男の子。それを死守する女の子――御殿を気づかい躊躇するが、御殿の強い口調に促され、その場から無事回避。慌てて駅前広場に走っていった。

 御殿がホッとしたのも束の間、子供を突き飛ばした反動でガレキに足をとられて倒れこみ、起き上がるのに時間がかかっていた。

「くっ、こんな時に!」
 御殿が見上げた視線の先に、倒壊したビルが降ってくる!

 ケタケタと腹を抱えて笑う餓鬼たち。

 瞼を強く閉じる御殿。
(間に合わない。ここまでか……)

 影が彼女を覆い、丸ごと押しつぶす――。

 奇跡が起こるのは、まさにそんな瞬間だった――。


「ギャアギャアうるせえな……」



 黒い霧の向こうから誰かの声――ゆっくりとこちらにやってくる。
 御殿が目を凝らして見てみると、そこには風になびく長い髪。他の追随を許さない長刀。
「あれは……朱鷺さん!」

 侍は……風と共に現れた――。

 朱鷺は無言のまま餓鬼の目の前で立ち止まり、シトラススティックをペッと吐き出すと絶念刀に手をかけた。そして――

 ズバシュッ!!
 一閃。

「ギ?」
「ギギ?」

 どこかを斬られたのだろうか? ――己の体を確認する餓鬼2匹に朱鷺が言い放つ。

「斬ったのはお前らの体じゃねえよ……薄汚ねえ餓鬼なんざ斬る価値もねえからな」
 と、絶念刀をゆっくりと鞘に収めた。

 瞬間――

 ビルのそばで倒れていたはずの御殿が、なぜか朱鷺の足元で座り込んでいるではないか。

 なにが起こったのかわからぬまま、御殿はキョトンとしている。ビルの真下にいたはずなのに、まるで瞬間移動したかのようだった。
「一体、なにが……?」
 御殿が朱鷺を見上げると、それに答えるように口を開いてきた。

「空間を斬り取った。咲羅真どのとビルとの関係を斬ったのさ。これで『咲羅真御殿がビルに潰される』という因果関係はなくなる」

 つまらぬものを斬ってしまった――朱鷺に言わせれば、御殿がビルの下敷きになること自体がつまらぬ事。

 朱鷺は乱れ髪をかき上げニヤリと笑い、餓鬼たちにこう付け加えた。

「それから……貴様らの立ち位置とビルとの距離も斬らせてもらった。好きなんだろう? ビルが倒れる光景がよお」

「ギ?」
「ギギギ?」
「何が起こるのか理解不能といった感じだな。まあいいさ。それは拙者からの手土産だ、遠慮なく潰れておけ――」
 朱鷺は続けて言う。

「もっとも、貴様らが斬り続けてきた人や建物は、拙者からしてみれば決してつまらないものではない。そこんところを、よおぉく覚えておけ。と言っても……貴様らはもう、死んじまうがな――」

 いつの間にかビルの真下に移動していた餓鬼たち。上空から降り注ぐ影を見上げた――が、時すでに遅し。その真上に巨大なビルの影が押し寄せる!

「ギギギギ!」
「ギッ……!?」

 ズウウウウウウウウウン……。

 ビルが倒壊し、2匹をノミのようにプチッと潰した。まるで晴湘市の怒りが悪魔たちを飲み込んでゆくかのようだ――叢雲朱鷺は、街の怒りの代弁者だ。

 朱鷺が絶念刀を静かに収める。
「拙者は装置を破壊したらババロアのもとへ向かう。お主には、まだやることがあるのだろう? こんなところで死んでいる暇はないのではないか?」
「ええ、そうね……。死んでる時間なんて、ない――」
 朱鷺に差し出された手を取り、御殿がゆっくりと立ち上がった。
「朱鷺さん、ありが――」

 ありがとう。御殿の言葉の途中、朱鷺はシトラススティックを取り出して口にくわえ、そっと背を向けた。

「礼なんかいらねえよ。どうしてもと言うのなら、こんど味噌汁でも作ってくれ――」

 侍はそう言い残し、風と共に去っていった。


 御殿は巨大なスポイト型の制御装置を前にしゃがみ込むと停止ボタンを押した。二度と機能しないようにハーネスも破壊し、深く息を吐く。
「――ふう……これでよし。もう作動しないでしょう」
 立ち上がり、皆のもとへ向かおうとした時だった。
「――!?」
 かつて感じたことないほどの寒気で鳥肌が立ち、背筋が凍った。

 ポツリ、ポツリ――。

 雨降り出した視線の向こう、御殿の背後に忍び寄る影。
 停車している黒いカボチャの馬車の手前、そこに婦人はたたずんでいた。

 御殿が振り向き、笑みを浮かべた婦人をまっすぐに見つめる。

「おまえが……ババロア・フォンティーヌか――」


おかしなお菓子の治療薬


 山のふもとの装置を解除した想夜が飛行しながら戻ってくる時だった。
「ん? あれは……」

 上空から地上を見下ろすと、霧の向こうに微かに見える子供たちの姿。大勢、どこに向かうでもなく立ち止まっているではないか。

「子供たちだわ。あんなところで何してるのかしら?」

 様子がおかしいことに気づいた想夜が高度を下げて近づいてみると、子供たちがぬかるんだ地面に突っ伏して悶えていた。

 年長の女の子が悲鳴に近い声を上げながら子供たちを看病している。
「みんな、しっかりして!」

 意識が遠のいてゆく子供たちを抱きかかえると、女の子はベソをかきながら周囲を見渡し助けを求めた。

 誰か。助けて――そんな言葉を吐いたところで誰も助けに来やしない。なぜならここは地獄の一丁目。子供にだってそんなことくらいは分かる。結局のところ口をつぐむむしかないってことも。

 男の子、女の子。この地にいるすべての子供たちは、すでにババロアのハイヤースペックによって感染させられていた。

「ああ……神様、神様……お願い……」
 女の子の悲願むなしく、バタバタと倒れてゆく子供たち。
 やがて全員の意識はなくなり、起き上がる頃にはゾンビのように徘徊を始めるのだ。

 集団で行動を始め、生ける屍となりてババロアの駒となる。晴湘市という生簀いけすで飼いならされ、時がくれば臓器を摘出される。

 子供たちは皆、ゲッシュ界への通路を開くために、一滴残らず生き血を搾り取られるのだ。


 ――そんな地獄が始まる。
  逆ハーメルン事件の幕開け――。


 そんな地獄に待ったをかけるリボンの妖精。

「そんなことさせないんだから!」

 想夜が背中の風呂敷を胸元に持ってくると、それを両手いっぱいに抱え込んだ。

「あたし達からのプレゼント、受け取って!」

 元気いっぱいに両手を広げ、妖精界のお菓子を空一面にぶちまけた。

「それええええ!」

 キラキラとプリズムを放ちながら、ゆっくりと、ただただゆっくりとお菓子たちが降ってくる。

 それを見た子供たちの瞳に一筋の光――希望の光。

 想夜が空から叫ぶ。
「みんな忘れちゃダメ! 思い出すの、おやつの時間を! あまいあま~い、心安らぐひとときを! 家族や友達と一緒に食べた、あの幸せだった瞬間を……思い出すの!」

 季節外れのサンタクロースの贈り物。
 妖精からの贈り物――。

「大好きな人たちと食べる美味しいもの。好きな人たちと過ごす甘い時間。思い出して! ババロアなんかに負けないで!」

 ぬかるみの上。子供たちが両手を差し出すと、そこにお菓子が舞い降りてくる。まるで天使の羽のように――甘い香りに誘われて、子供たちの瞳が我を取り戻してゆく。プレゼントを手にした子供たちが包み紙を広げ、中からお菓子を取り出した。

「うわあ、おいしそう……」

 一口サイズの魔法のお菓子。小さいけれど、そこにギュッと詰まった愛情。それを口に運ばずにはいられない。

「ねえ見て! 私のやつ、フルーツのつぶつぶが入ってるのよ!」
「うわあ、オレのはチョコがのってる! 超うまそう~!」

 甘い罠に導かれ、お菓子を口にした途端、自然と口元がほころんだ。

 ぱくっ。
 パクリ。

 子供たちの小さな口の中、広がる甘い世界――すべての地獄から解放される瞬間、あまいあま~い別世界へといざなわれてゆく。

 ――光の世界。

「うんまーい!」
「甘くておいしひ~」

 素直な表現、その笑顔。
 いつまでもいつまでも、忘れないでいて。


 ずっと、ずっと、忘れないでいて……。
 いつもあなたのことを、
 見守っていてくれる存在がいるという事を――。



 想夜が額の汗を拭う。
「すっごーい! 効果テキメン。一瞬でババロアのハイヤースペックが解除されちゃった!」
 残ったお菓子を口に運びながら、
「うん、さすが聖色サンドの生みの親ね」

 学校の売店では血で血を洗う戦いを招く調太郎の創作料理――けれども地獄と化したこの場所を楽園に変える創作料理。聖色サンドの生みの親は、不思議な力の持ち主だ。

 子供たちは中央広場へと走っていった。

 急降下した想夜がぬかるみに着地して周囲を見渡すと、遥か向こうに黒い建造物が見えた。

「あの建物は一体……?」

 中央が突起した城のような造り。そのただならぬ気配がリボンの妖精にまとわりついてきては、小さな胸の奥底の不安を掻き立ててゆく。

 コツ……。

「……ん?」
 ローファーの先に金属製の物体が触れ、想夜がそれを拾い上げた。

「これは……御殿センパイの銃――」

 ズシリと重い銃を両手で不器用に扱う。想夜の手にはやや大きいガバメントカスタマイザー。退魔弾が装備された銃は重量を増し、日頃から器用に扱っている御殿にさらなる頼もしさと驚異を覚えた。訓練校で銃器の扱いは教えられたので安全装置くらいの知識はある。間違っても暴発させたりはしない。

 ぬかるみには軽く争った形跡があり、足跡が入り乱れていた。おそらく想夜の手にしている銃は、御殿が構えた瞬間、何者かに払い落とされたのだ。

 泥を拭い取った銃を風呂敷で包み、ワイズナー用ベルトの間に挟み込んだ。
「――これでよし。急がなきゃ。御殿センパイ、すぐに行くから待っててね!」
 想夜は遥か遠くにそびえ立つ、黒き牙城を睨みつけた。