7 それぞれの愛情表現


 鴨原からメモを渡された御殿は、さっそく想夜たちを連れて彩乃のいるMAMIYA研究所を訪れた。

 水無月チーム応接室。
 一同はソファに腰を下ろして難しそうな顔をしていた。

「鴨原先生にお会いしてきたの?」
「ええ。リンさんの件、何とかなるかもしれません」
 母彩乃に問われ、御殿は淡々と答える。続けてブレインチューニングの詳細を伝えた。
「ブレインチューニングの八神先生……」
「はい。すでに鴨原さんから八神先生に連絡がいっている状態です」

 彩乃の中で小難しい医療系の脳波が忙しなく飛び交っている最中だ。

 狐姫が御殿の脇を肘でかるく突いた。
「えー、信用できるのかあ? おまえのことを蜂の巣にしたヤツだぜ? 頭にこないのん?」
「狐姫だってお腹撃たれたでしょう? 頭にこないの?」
「腹? なんともねーよ? 見る?」
 狐姫が道着を胸下まで捲り上げてヘソを丸出しにする。
「いいから。早くお腹しまいなさい」
 が、御殿に制止されておヘソをしまう。

「狐姫ちゃん、雷っておヘソ取りにくるんだよ? 知ってた?」
 ふふーん。想夜が自慢げに話を始める。
「へーそー。んなわけあるかよ! うんちくカモーン!」

 雷とヘソの由来――へそを隠すように前かがみになることで姿勢を低くたもつ。これにより、高い場所への落雷する習性を持った雷から身を防ぐことができる。そんなことから、一説によると『ヘソを隠す』という防御方法が知れ渡ったのです。ちなみに雷はヘソをとったりしませんし、ヘソに落雷したりしません(もちろん高層ビルの屋上で、ヘソを空高く出してブリッジしていたら別ですが)。

「そう言えば彩乃さん、リンちゃんは?」
 想夜が彩乃にたずねた。
「屋上にいるはずよ」
「屋上?」

 ゴゴゴゴゴ……

 リンのことが気になった想夜が屋上へ向かおうとしたところへ、突然の雷鳴。屋上の避雷針に落雷したようだ。
 肌に伝わるビリビリとした感覚。ほんの一瞬だが、想夜たちは妖精反応を感知した。


雷に見守られて


 母が無くなってから1年が経過した。

 もともと体が弱かったリンの母は、死を覚悟で娘を出産する。
 奇跡的にリンを生んだあとに病状が悪化。これといった治療方法がなく、死と隣り合わせの生活の中で、恐怖に屈せぬよう騙し騙しやってきた。

 リンがこの世に生をうけたと同時に、リンの中にも「母の病状を悪化させた」という罪悪が芽生えてゆき、母の死後、罪悪感は「母を殺した」というものへと変化を遂げる。

 リンが生まれなければお母さんは――などとは思わない。命を与えてくれた人は、娘の卑屈を望んでいないと分かっていたからだ。 多忙な父親とはほとんど時間を共にしていない。リンの生活は、もっぱら家政婦が請け負っていた。

 家政婦だってルー家専属ではない。他の家庭でも同じ仕事をしているのだから、リンだけには構っていられない。ルー家の仕事を終えると、すぐに次の家庭へと向かわなければならない。それ故、リンの食卓はいつも1人きりだった。

 雨――。
 
 とつぜんの雨。
 霧雨ともいえよう、リンの体温をゆっくり、そしてゆっくりと奪っていく。そんな冷たいベールに身を委ねる。

 嗚呼、雨はリンの味方なの?

 凍てつく体を両手で抱きしめ、己を震わせる。まるで命を削り取られてゆくかのよう。

 嗚呼、雨はリンの味方なの?

 多くのしがらみから保護してくれるかのような霧雨が愛おしい。それが癒しのベールなら、雨は母のようにリンのことを見守っていてくれるのだろう。
 
 雷――。
 
 とつぜんの雷雨。
 雨は次第に激しさを増し、やがて雨雲が怒りを露にする。

 とつぜんの稲光。
 黒い雲がフラッシュし、高温から空気が膨張を起こして雷特有の振動を起こす。

 リンは不思議と安心感を得るのだ。まるで雷が寄り添っていてくれるような気がしたから。

 父からは自分が八卦の1人だと聞かされている。けれど何も心配はいらない。ただの治療の名称に過ぎないとのこと。

 ――だが、リンにはそう思えなかった。

 リンにとって、雷は友達だ。
 時折、こうして空を見上げるたび、リンに呼び寄せられたかのように雷が集まってくる。味方のピンチに野性の群れが駆けつけるかのように。

 リンは空を仰ぐように両手を伸ばした。
 いつもリンのことを見守ってくれる雷が、亡き母のように感じる。

 雷に抱かれ、雷に温もりを覚える――そうやってリンは、ふたたび安心を得る。

 手術以来、いつもそばにいてくれたのは雷だった。父より誰よりも、リンのそばにいてくれた。姿カタチはないけれど、雷鳴の轟きはリンにとっての通信手段だ。リンが雷に語りかけると、雷もまた、それに答えるように返事をしてくれる。

 雷・コミュニケーション。

「ママ……ママは今、どこにいるの?」
 死んだ人は星になる。なんて迷信だ。けれど、星のようにいつでも我々を見守っていてくれるという話を否定したくない。でなければ、本当に母が亡き者へと変わっていってしまいそうだったから。

 11歳の少女は、母と雷を重ねることで心の安定を保ってきた。

 八卦の力は自分の命をつなぎとめておいてくれる役割りを担っている。きっと母が託してくれた力なのだと信じて疑わない。

 いつもいつも、知らない人がリンを狙ってくる。
 先日だって、何者かに連れ去られそうになったばかりだ。
 誘拐されかけたリンが嫌がると、不思議と雷が身を守ってくれた。よほどの力を持った者でない限り、リンを誘拐することはできない。

 ロナルドはリンが連れ去られないよう、いつも神経を尖らせていた。
 リンの体調のこともあり、ついにはコールドスリープケースに閉じ込めるようになった。

 箱入り娘とはほど遠い、ショーケースのお人形。

 誰にも連れ去られぬように。誰にも取られぬように。

 神様にも取り上げられないように、ロナルドは娘をケースに飾っておく。それが間違ったやり方であることは分かっている。けれども、治療方法がないのなら、それも仕方がないではないか。
 守れる力がないのなら、それも仕方がないではないか。


 リンが屋内に戻ろうとした時だった。
 とつぜん現れたフードを被ったスウェット姿の男たち。数人の黒い影がリンを抱えては連れ出そうとする。

 恐怖するリン。叫ぼうにも体毛だらけの黒い手で口を塞がれ、なにも言うことができないでいる。

 ――と、そこへ階段を駆け上がってきた想夜が、塔屋の中から飛び出してきた。

 想夜の鼻に妖精たちの匂いが漂ってくる。妖精反応とは違い、何人かの妖精たちが近くにいる証拠だ。

「あなた達、その子を離しなさい!」
 想夜は瞬時にワイズナーを召還させて構えたものの、右手首に痛みが走り、今までのように扱うことが困難であることに気づく。
(ウソ! こんな時に!?)
 ワイズナーを落してしまった想夜が、すかさず叫び出した。
「誰か! 誰か来て! リンちゃんがさらわれそう!」

 想夜の声に驚いた男たち、慌てふためきながら互いの顔を見ている。

 隙を見たリンが頭を振り回し、男の手から口元を解放させた。とたんに泣き叫ぶように大声を張り上げた。
「もうイヤ! 誰もリンに触らないで! ママ! ママ! ママ!」
 愛しい人を連呼した時だ。

 ゴゴゴゴ……バチバチバチ!!

 あたりが真っ白にスパークし、ビリビリとした稲光がリンを丸ごと包み込む。

 雷が去った後、周囲には誰もいなかった。フードの男達は逃げたのか。雷に消されたのか。死体が見当たらないとなると、雷で消し飛ぶ前に逃走したようだ。


 屋上が静けさに包まれた。

 想夜は顔を覆った腕をゆっくりと下げる。
 突如、リンは支える力も抜け切り、その場に倒れてしまった。
「リンちゃん!」
 想夜がリンに近づいて体に触れた時だ。
「痛!」
 想夜の指先がバチッと音を立て、雷によってリンに触れることを拒絶されてしまう。

 誰にも近づくことができないお人形――そうやって雷に抱かれ、リンは眠りにつく。


 周囲の者たちがリンに近づけたのは、しばらく時間がたってからのこと。それまでは誰一人として、リンに指一本触れることができないでいた。

 彩乃がリンの脈をとりながら様子を見ている。
「大丈夫。少し休ませてあげましょう」

 ほどなくしてロナルドがやってきた。
「リン! リン!」
 駆けつけたロナルドによって抱きかかえられたリン。すぐさまタンカで運ばれてゆく。

 ロナルドは彩乃に向かって鋭い視線を送りつけ、指差し、罵りはじめた。
「ドクター水無月、アナタがいつまでものんびりしているから事態は悪くなる一方だ」

 その言葉で頭に血が上った狐姫が割って入る。

「そりゃないだろ! 水無月先生はずっとリンのことを気にしてたんだぜ? だいたいアンタ、言いたい放題言いやがって、金ですべて解決できるとしか思ってねーだろ!」
「なんだと? 妖怪風情が偉そうに。いいか、金は力だ。生活費だけでも精一杯のキミがどうあがこうとも、それは変わらない」
「ボンビーで悪かったな! 世の中には金で解決できないことだってあるんだ! 現に娘のリンを救うことだって出来てねーだろオマエ!」

 ロナルドを差す指にいっそうの力をこめる狐姫。

 ロナルドが言葉を詰まらせる。
「なんだと?」
「はは、図星だよな? リンを救う手がかりを持ってきたのは御殿だ。自分のことを蜂の巣にしたヤツのところまでいって情報を手に入れてきたんだ。御殿は金だけのために動いているんじゃない。それが分からないって言うのなら、アンタはただの銭ゲバおやじだぜ!」
「手がかり? いったい何のことだ?」
美味おいしいところだけには敏感だな! それとも金の匂いでも嗅ぎ分けたのか? 俺でも出来ない芸当だぜっ」

 今度は狐姫がロナルドを指差し、罵りはじめた。そうやって言葉の殴り合いが続くのだ。

 想夜は泣きそうな顔で、何も言えないままオロオロするばかり。

 見ていられなくなった御殿が、狐姫とロナルドの間に割って入った。
「狐姫、もういいから」
 御殿が狐姫の両肩に手を置いて宥めた。

 仲間をけなされたことで頭に血が上っている狐姫は、それでも尚、ロナルドに突っかかった。

「いいや、この際だから言わせてもらうぜ! だいたいアンタ父親だろ!? 娘のことを俺達に丸投げしておいて、よくもまあ偉そうな口が叩けたもんだよな!」
「狐姫、気持ちは分かるけど言い過ぎよ。少し落ち着きなさい、ね?」
 「いい子だから」と、御殿が闘牛のようにいきり立つ狐姫の頭を撫でる。
 と同時に、ブロンドの暴れ牛が少しだけ大人しくなった。
「フン!」
 狐姫はふてくされてそっぽを向いた。
 ロナルドも言葉に詰まりながらも言いたいことがあるようだ。それでも言葉を殺して大人の対応。

 ――場の空気がシンと静まり返った。

 黙っていた彩乃がロナルドの前に出る。
「ロナルドさん。これは我々からの提案なのですが――」

 彩乃は御殿から伝えれたことをロナルドに話す。

「ブレインチューニング?」
 ロナルドがせせら笑う。
「さっきの話か。そんな子供じみた研究で娘を救えるものか。馬鹿にするのもいい加減に――」
「貴方が本気でリンさんを救う気があるのなら……貴方とリンさんの命、我々に託してみませんか?」

 彩乃はロナルドの言葉を遮り、これから先の手札を切った。
「私は子供を生んだ経験がありません。ロクに育てることもできなかった。けれど……」

 彩乃は胸に手をあて少しだけ悲しげな顔。けれども、そこに宿る秘めたる想いをロナルドに提示する。

「けれど、私は御殿に笑っていてほしい。ずっと、ずっと、笑っていてほしい。親なら……そう願って当然だと思います」
 彩乃の背中を、御殿は無表情で見つめていた。その胸の内は誰にも見えないが、御殿の日頃のぎこちない感情操作から察するに、きっと喜びを隠し通しているんだろうなと想夜たちは思う。

「ロナルドさんも、一旦戻りましょう?」
 御殿がロナルドを促し、先導する。

 塔屋に入り、階段を下るときのこと。フラついたロナルドが手すりに寄りかかり、眉間を手で覆う。
「ロナルドさん、どうしましたか?」
「なんでもない。ちょっと目眩がしただけ……だ」
「ロナルドさん!?」
 その場にうずくまり、倒れそうになるロナルドを御殿が支える。
「狐姫、ロナルドさんを下の階まで運びましょう。想夜はみんなに知らせてきてちょうだい」
 御殿の指示のもと、各々が行動に出た。


『偉い』って何だろう?


 ロナルドが過労で倒れたとの連絡を受けた側近たちが愛宮総合病院に駆け付けた。が、いささか人数が少ない。急な事態で人手が足りていないのだろうか。
 とつぜんの出来事にロナルドの部下たちは困惑していたものの、少し休めば回復するとのことを聞いて胸を撫で下ろしていた。


 売店でジュースとお菓子を買うため、想夜と狐姫がロビーを歩いている。
「ボディーガードの人が来てくれたみたい。よかったね」
「あ~」
 想夜の問いかけに狐姫、生返事。

 とはいえ、病室前には黒服が1人しか待機していない。残りの数人は駐車場で談笑していた。
 それを不審に思った想夜が狐姫に耳打ち。
「狐姫ちゃん。なんだかロナルドさんのボディーガード、少ないね」
「ああ。楯が一人だけとか、あんまりだぜ。会社でなんかあったのかね」

 あの人たち、ロナルドさんが倒れたというのにあんなに笑ってる――ロビーの窓から見える黒服たちの顔を見るたび、想夜は悲しい顔を作って嫌悪感でいっぱいになる。

 愛宮鈴道が命を落とした時も同じだった。多くのものは皆、MAMIYAが機能していればそれでよかった。今回のロナルドも同じ道を歩んでいる。

 「偉いって、何だろう?」――会社を統括できれば誰でもいいのか。代わりがいればそれでいいのか。想夜は子供ながらも、頭首の存在に疑問を感じてしまう。


 無理に起き上がるロナルドを制止した彩乃は、叶子に相談の末、御殿たちに入院中のロナルドの護衛を任せることにした。現在のロナルドの護衛が手薄すぎるのだ。ましてやリンが誘拐されかけたとなれば、尚のこと御殿たちの力が必要となる。

 2~3日の間だが、御殿と狐姫は彩乃とロナルド両者の護衛任務に入る。彩乃の護衛も掛け持ちしているため、御殿と狐姫は分担作業になるだろう。明らかに人手不足のため、叶子たちも協力を依頼した。


 ――待合室。

 護衛中の御殿と叶子がソファに腰を下ろしている。
「華生にリンさんの護衛を任せているわ。何かあったら知らせてくれる」
「ありがとう」

 こころ強い味方を持ったものだと、御殿は誇りに思う。

「狐姫さんは?」
「想夜と売店に行ったみたい。お菓子買ってくるって言ってた」
「ふふ、あの2人は仲がいいのね」
「想夜と狐姫が仲良くなって、叶子は寂しくない?」
 人間界に来てから、ずっと叶子に懐いていた想夜。友達が増えるたび、叶子との会話も減ってゆくだろう。
「私にベッタリだと想夜のためにもならないでしょう。人間界で友達が増えてゆくのはいい兆候だと思うわ。それに……」

 叶子はソファの上で指を交差させ、大きく両手をあげてリラックスをする。

「それに、私には華生がいるもの」
「ごちそうさまです」
 御殿がくすりと笑う。

「御殿も2人に混ぜてもらえばいいのに。寂しくない?」
 叶子がいたずらっぽく御殿に目を向けると、御殿が苦笑する。
「シュベスタ戦の前に狐姫に言われた。『俺が想夜に取られてヤキモチやいてんの?』って。今思うと、それが狐姫の「もっと俺に甘えて」という合図だったんだって思う。狐姫も寂しかったのね。もっと遊んであげたほうがいいのかも」
 入院していた狐姫が御殿に枕を投げつけながら訴えた。「もっと甘えろ、もっと近づけ」と。

「晴湘市での貴方の思い出は酷だもの。心に壁を作ったとしても不思議じゃないわ。御殿は人間でしょ?」
「八卦でも?」
「八卦でも」
「華生さんにも似たようなことを言われたわ。八卦だろうと関係ないって。 ……心が、軽くなった」
「当然よ、私の華生だもの。言葉で元気づけるなんて朝飯前。それに私だってハイヤースペクターだけど、人間としての尊厳は忘れていない」

 人間としての尊厳――いろんなものに想いを馳せるということ。叶子も御殿も、それを持っている。

「だからね、御殿。あまり深く考えないで。私たちの『今』を楽しみましょう。私たちが出逢えたのは妖精たちからのプレゼントだと思って、ね?」
「……うん」
 御殿と叶子は、おでこをくっつけながら微笑んだ。


 ほどなくして想夜と狐姫が売店から戻ってきた。
「おかえりなさい。いいの買えた?」
 御殿が想夜と狐姫のために、腰をずらしてソファをあけた。
「おうよ。御殿にも買ってきてやったぜ」

 狐姫は自慢げにお菓子を差し出した。

「叶子にはバナナチョコチップアイスな」
「さんくす」
 叶子がバナチョコアイスを受け取る。
「御殿には……ほれ、バナナ」
 ブチッ。狐姫がバナナの束から一本だけ引き千切り、御殿にわたす。
 バナナを受け取る御殿が、首を傾げてキョトンとする。
「……どうしてわたしだけバナナ一本なの?」

 わたしもバナチョコアイス食べたい――そんな心境が周囲に伝わってくる。

 それを見た狐姫が不満をもらす。
「は? おまえ、それってバナナに対する冒涜だろ。バナナに謝れ」
 狐姫がバナナを御殿の頬にグリグリと押し付けた。

 バナナを手にした御殿。狐姫を無視して叶子にバナナを差し出す。
「叶子」
「や」
 叶子が交換拒否、カップのフタをはずしてアイスをすくう。
 しかたないので御殿はバナナの皮をむいて一口ほおばる。それを横で見ていた叶子が「いい食いつきっぷりね」と一言。なんだかからかわれている感じがする。

「しゃーねえ、ロナルドさんにもバナナ持っていってやるか」
 先ほどは言い過ぎた。負い目だって感じていないわけじゃない。
 バナナは栄養豊富。食事代わりにもピッタリだ。各種ビタミン、カルシウム、鉄分を含んだスーパーフード。チョコバナナアイスにだって劣らないぜ。
 ソファから立ち上がる狐姫に御殿が声をかける。
「用心のために2人で行動しなさい」
「わーったよ。いくぞ想夜」
「了解ちゃーん♪」
 狐姫はグローブのようなバナナの束をヘルメットのように頭の上に乗せ、想夜を連れて待合室を出ていった。


うっかり双葉


 巧が入院している病室。
 ロナルドがいる病室。
 2つの部屋は隣同士。

 うっかり双葉。考え事をしていたために、弟のいる病室と間違えてロナルドのいるほうへ入ってしまう。
「す、すみません。病室間違えちゃって……」
 そのことに気づいて慌てて出て行こうとするも、背中に声がかかる。
「待ちなさい」

 振り返る双葉に、ロナルドが言葉を続ける。

「キミは確か、隣部屋の子のご家族だね?」
「あ、はい……そうです」
 貫禄のある男相手に双葉は少々おそれながら、上目づかいで頷く。

 ロナルドが難しそうな顔をつくって双葉に問う。

「外には誰もいなかったのかい?」
「ええ……はい」
「1人も?」
「はい、誰もいませんでした……けど?」
「そうか」
 ロナルドが窓の外に目をやる。

 なんということだろう。外で待機させていた部下にすらそっぽを向かれる有り様。金ばかり追いかけていたがため、人望すらも逃げてゆく。
 金ではなく人に目を向けていたら、こんな事態にはならなかったのだろうか?
 そう考えるのも時間の無駄と分かり、馬鹿馬鹿しくなっていた。

 室内を見渡す双葉。見舞いの花束もない殺風景な場所を見るたび、何かで彩りたくなる。
「あの、これ……」
 双葉は売店で買ってきたプリンをロナルドに差し出した。
「よかったら食べてください。」

 2つのプリン。自分の分と弟の分――自分の分は、また買えばいい。ひとつくらい誰かにあげても死にはしないし、ダイエットにはちょうどいい。

 ロナルドは無言でプリンを受け取ると、それをまじまじと見つめて何かを思う。食べるでもなく、つき返すでもなく、ただ黙ってプリンを見ている。

 やがてロナルドが口を開いた。
「ご家族の方、どこか悪いのか?」
「ええ。弟が近々手術する予定なんです。ですが……」

 その手術代がバカ高くって、手術まで漕ぎ着けないんです――なんて言えるわけもなく、双葉は口をつぐんだ。

 ロナルドは双葉の曇った顔をまっすぐに見つめ、近くのイスに視線を送る。
「もしよろしかったら座らないか?」
「は、はあ」
 ロナルドにうながされた双葉は警戒心を保ちつつ、イスに腰を下ろした。


(え? なんだろこの空気。超気まずくない?)
 キョドる双葉。見知らぬ男と何を話せっていうの? イスの上でそわそわ、モジモジしだす。

 ベッドの上でロナルドが外の景色に目をやる。仲良く空を羽ばたいている2匹の鳥を見るたび、リンの元気な未来を想像してしまう。
「ワタシにも娘がいるのだが、体が弱くてね。治療が必要らしい」
「そ、そうですか」
 重い話。
 他人の話。

(あーしには関係ない。巧のことで、精一杯……)
 それが双葉の本音。

 ロナルドが力ない言葉で俯く。
「――金はある」
(あーそーですか)
「――が、治療法がない」
(ああ……そうですか)
 巧とは正反対。柊家の場合、治療方法はあるが、金がない。
 結局のところ、双葉もロナルドも同族だ。
 
 ――愛するものを救えない。

 金がない。
 治療方法がない。
 ない、ということは未来をこうまで否定してくるものなのだと痛感させられる。

 けれども、両者には可能性がある。

 双葉は『ワリのいいバイト』がある。成功すれば金が入る。それは巧の手術費用に当てられる。

 そして、ロナルドにもブレインチューニングという一筋の未来が与えられていた。

「実は娘の治療方法が見つかってな。先ほど、斡旋業者がそのことを伝えにきてくれた。少し離れた場所に脳神経外科の名医がいるらしい」
「よ、よかったですね」

 双葉の社交辞令――顔が引きつる。なんて答えたらいいのかわからなくて、ぎこちない笑い。はっきり言って他人の幸せなど必要ない。それで巧が救われるわけでもないのだから。

「人間なんてのは勝手なものだ。相手が元気なうちは見向きもしないクセに、どちらかが窮地に立たされれば掌を返したように、相手にすがりつく。きっと娘は煙たがっているだろうな」
「オジサンと娘さん、仲が悪いの?」

 失礼とは感じながらも、双葉は直接質問をぶつけた。

「仕事が忙しいという言い訳を免罪符として生きてきた。娘との時間を作ろうとすれば、なぜか仕事上でトラブルが頻発してな。で、結局は娘との時間をおろそかにしてしまう。どこの家庭でもありがちな親と子の問題さ」

 仕事をサボれば家族を養えず、家族との時間を増やせば増やすほど、仕事では干されてゆく――養う側はいつだって孤独だ。自分には家庭があると言い聞かせ、自己満足だけで体にムチを打って走るビジネスパーソンがどれだけいるだろう。起業して大金を稼ぐ身分になっても、それは変わらない。ましてや妻に先立たれてからは、いっそう状況が悪化する一方だ。

「こうして病院のベッドで寝ていると、ふと思うよ。自分が生きている間に娘に何かを残しておいてやりたいと。金じゃなく、なにか、こう……娘から離れていかないもの。例えば……そう、身につく技術とか教養とか――」
「古っ」
 双葉は吹き出した後、「やば……」と言わんばかりに口をつぐみ、肩をすくませた。
 気まずくなったという理由もあるが、思うことを双葉は遠慮なく言う。
「技術やお勉強なんてさ、結局は自分がやりたいから身につくわけでしょ? 食べ物と同じで、無理やり口の中に突っ込まれてもストレス溜まるだけだって。子供ってさ、やっぱ親がしてくれた何気ないことだけでも生きていけるもんだと思うよ?」

 習い事でもなく、小難しい教養でもない――子供たちが欲しいものは、他にある。

「昔さ、子供のときに近所の神社でお祭りがあったんだけど、夜遅くまで宿題が終わんなくって。それで結局、まだ小さかった巧もお祭りに行けなかった」
「……それで?」
「そうしたらさ、パパが冷蔵庫から小さなプラスチックの箱に入った水アメを出してきて、1本の割り箸を2つに折って、こう……水あめを練ってねり飴をあーしと弟にくれたの。冷蔵庫から水あめを取り出した時のパパったら、まるで魔法使いみたいでかっこよかった。大人ってスゴイなって思った」

 双葉が楽しそうに水飴を練る仕草。
 それを前に、ロナルドは黙って聞き入る。

「なんでパパが水飴なんか持ってたかっていうとね、商店街のお店の人からもらったらしいのよね。パパはお金を持ってなかったけど、いろんな人たちと交流があったから。パパはあーしが宿題終わらないってこと分かってたみたい。そこんとこ、もうちょっと娘を信じろよって思うけどね。ま、あーしの学力じゃ、それもしかたないか」

 幼少期の双葉――浴衣姿で、夏祭りを満喫。露天が立ち並ぶ中で巧の手をとって、ねり飴を口に含んでほころんでいた。それらは、ありもしない現実ではあるが、双葉の中で思い出としてつづられてゆく。

 天井を見上げる双葉は夜店のまぼろしに包まれ、ねり飴の甘さに酔いしれるのだ。
「その時の水飴の味。あのあま~いあま~いヤツ。あーし、絶っっっ対に忘れない」


 まぼろしの夜店から戻った双葉は、ロナルドを向かい合う。
「パパは勉強とか教えてくれなかったけど、あーしと巧に残してくれたの。大人のスゴイところってヤツをね!」

 双葉は両手で拳を作って意気込んでいた。それだけ父が誇らしいのだ。

「……で、ご両親は今どうしているんだ?」
 ロナルドに問われた双葉は、照れ隠しで鼻っ柱をかいて目をそらした。
「それがさぁ、あーしの本当の両親、蒸発しちゃってさ……で、あーしと弟、今のパパとママに引き取られたんだ」
「……」

 ロナルドは睨みつけるように、それでいて聞き入るように双葉を見ている。

「ねり飴は、まだあーしと弟を置いていなくなる前の話。今の両親、超いい人達でさ。子供ができなかったから、あーしたちのことすごく気に入ってくれたみたい。あーしも弟も、今のパパとママのこと、大好き」

 ニカッと白い歯を見せて笑う双葉。重い空気を吐ききって、窓の外を見る。

「そりゃあ、あーし達を捨てた生みの親を憎んでいるよ。けど、蒸発したのも仕方なかったのかなって思う。だって、人間って完璧じゃないし、どこかで計算が狂っちゃうことってあるもんだよね。はじめからあーしと弟を捨てる気なんて、なかったんだと思う――」
 ヘラヘラと笑う双葉。そうして俯き、呟く。
「――そう、思いたい」

 親の本音など子供の双葉には分からない。けど、不必要なら生んだりしない。双葉は必要とされて生を受けた。そう信じたい。でなければ、その身が砕けてしまいそうだから。自分が存在していることを疑問に感じてしまうから。

 信じることで背筋を伸ばして歩いてゆけるならば、そうすべきだと思う――絶対的な心の支えがあるのなら、もはやソイツの辞書に絶望の文字はない。

 気を取り直し、双葉がロナルドに質問をぶつける。
「オジサンはさ、やっぱ娘のこと、好き?」
「当然だ」
「愛してる?」
「当然だ」
「すべてを投げ出しても?」
「資産か? そんなものいつでも捨てる覚悟がある」
「命も?」

 双葉のゾッとするような冷たい声に、ロナルドは目の前の真顔の女子高生を睨みつけた。

「当然だ……命も、差し出せる」
 無愛想にふるまう投資家を前に、双葉の表情が明るくなった。
「その言葉が聞けて、なんだかホッとした。あーしの生みの親も同じことを考えてくれてる気がするから」
 そう言って双葉は小さな吐息でうつむいた。
「あーしもね、命、差し出せる……巧のためなら――」
 ロナルドはしばらく双葉を見つめたあと、静かに言葉を吐いた。
「どうして見ず知らずのキミとこんな会話をしているのか、不思議でならない」

 ロナルドは苦笑しつつスプーンをとり、プリンをすくって口に運んだ。そうして思い出すのだ。

「仕事ばかりで、娘にプリンの一つも買って帰らなかったな」
 と。
 金があるのに、たった一つのプリンすら買ってやれない。そうして娘との空白の時間が過ぎてゆく。

 愛する人が床に伏せた時、はじめて窮地に陥るのが人間だ。追い詰められなければ、互いが紡ぐ時間の大切さなど見向きもしない。いつまでも一緒にいられると思い込んでいる。

 いつかは離れ離れになる日が来ることも、想像できないままで――。

 双葉が病室を出て行くときに振り返る。
「オジサンの娘さんもプリン好きなんでしょ?」
「……ああ」
「なら、はやく治療しなきゃ」
「……ああ」
「オジサンも早く良くなってね!」


 騒がしいギャルが出て行ったあとの病室。
 ひっそりと静まり返る空間にロナルドだけが残された。
「おかしな娘だな」
 ロナルドは苦笑した。

 ロナルドの脳裏にふと、子供の頃の思い出が蘇る――そういえば、よく父が屋台に連れて行ってくれた。大して金もないクセに、ポケットの小銭をあさり、ねだるロナルドにお菓子を買ってくれた、と。


 双葉が出て行ってからしばらくすると、廊下から声が聞こえてきた。

「「バナナンバナナンバーナーナー♪」」

 大声とはほど遠い、口ずさむように楽しそうに歌う幼い少女の声とケロケロ声。2人いるようだ。

「病院内ではお静かに!」
「はう! ご、ごめんなさい」
 看護師の怒鳴り声で黙り込む女の子の声とケロケロ声。女性看護師の顔がよほど恐かったらしい。少女たちの声が震え上がってるのがロナルドにはよくわかる。ひょっとしたら漏らしているかもしれない。

「想夜の声がうるさいんだよ、もっとボリュームしぼれよヘッポコ妖精!」
「狐姫ちゃんの声だって大したもんだよ、妖獣カラオケボックス!」
「誰が2時間300円だ! 俺はそんな値段じゃねー!」
「あー、あたし1時間100円のとこ知ってるー」
「よし、今度いこーぜ!」

 女子トークらしい支離滅裂な会話。足音がドアの外で止まるとノック音――。

「……どうぞ」
 ロナルドの許可のもと、リボンのポニーテールとブロンドの少女が入室してきた。

「キミ達は確かMAMIYAの……」
「ウィッス、狐姫ちゃんサマです! こっちは雪車町ツルツル想夜でっす♪」
「ご紹介に預かりました、ツンツルテンの狐姫ちゃんの友人、雪車町想夜でっす♪」
「は? なに言ってんのおまえ。ツルツルはおまえだっつってんだろーが。バカにしてんの?」
「狐姫ちゃんが先に言ってきたんでしょ? 冗談はパンツだけにしてよね」
「おまえ、俺のパンツで笑えんの?」
「うん」
「なんだと? おまえのアニマルパンツだって冗談丸出しじゃねーか!」
「なによっ、先にあたしのパンツ剥いだの狐姫ちゃんでしょ! あれ、ゴムが伸びちゃったんだからね!」
 くわっ。妖精と狐がいきり立つ。
「やるってか! ……おやぁ? ちょうどベッドがあるじゃねーか、ここで2試合目といくか!?」

 だんだんロナルドの眉間のシワが深くなってゆくのを見て、想夜と狐姫が押し黙る。

「ごめんなさい」
 シュンとうな垂れ、謝る2人。
 静まり返ったところでロナルドが口を開いた。
「――なにか用か? リンのことなら先ほどドクター水無月と咲羅真氏から説明を受けたが?」
 狐姫が首を傾げる。
「ああ確か、チューイング……ガム?」
 チューニングな、ブレインチューニング。

 狐姫はバナナの束を取り出すと、ロナルドの前に差し出した。

「その……さっきは屋上で、言い過ぎたぜ。ごめんなさい」
 ペコリ。狐姫が深々と頭を下げる。
 好き勝手言われ、確かにいい気分ではなかっただろう。けれど、それに答えないほどロナルドは子供じゃない。
「……いや、いい。ワタシも大人気なかった」

 狐姫がバナナの束から1本むしり取った。

「ロナルドさん、これやるよ、これ食って元気だせよな!」
「あたし達からの差し入れです。リンちゃんのこと、任せてください」
 ロナルドは訝しげな表情を作った。
「キミ達みたいな子供も同行するのか?」
「おうよ。俺、けっこう役に立つんだぜ?」
 トン、と拳で軽く胸を叩く。マーシャルアーツの狐姫ちゃんサマ、ここにあり。
「そうか……」
 身近にいる子供といえば娘のリンだ。虚弱のためか、子供を目にする度に頼りなさを覚えてしまう。


 ロナルド、先ほどから狐姫の耳と尻尾が気になっていた。アンダーグラウンドでは変てこな生き物を多々に目にするものの、こうして間近で見ると、いやはや動物に癒される感じがして心が軽くなる。ペットセラピーといってしまえば、目の前のケモミミ少女に噛みつかれるだろうか? それともニシシと笑って自慢げに毛並みを自慢してくるのだろうか? 年頃の女の子は謎である。

 それに何より、想夜の人間離れした透明感ある肌や、周囲をなごませる存在感も気になっていた。現代のイメージとは、打ちっぱなしのコンクリートに囲まれ、システムに制御された牢獄がまっ先に思い浮かぶわけだが、そういう世界とは無縁の生き物に見えてならない。

 ロナルドが想夜を見つめる。
「質問なのだが、ひょっとして……キミが話に聞く『妖精』か?」
「はい。妖精です」

 恥ずかしがることはない。想夜は自分が妖精であることに誇りを持っている。

「ディルファーと、一緒の?」
 ロナルドくらいのレベルともなれば、ディルファーの情報くらいとっくに手中にある。
「あたし妖精ですけどディルファーとちゃいますねんでよ。あたし、いろんなもの壊したりしないもん」
「ウソこけ。ディルファー並みにあっちこっち破壊しまくってるじゃねーか。あと人間語、さらに大変なことになってんぞ? 手術の時に脳ミソに電極でもぶっ刺されたんじゃねーの?」
 狐姫が想夜に攻め寄る。

「雪車町想夜といったな。先日、鬼になったという情報を耳にしたが……大丈夫なのか? キミはその……鬼じゃないのか?」
 眉をひそめ、想夜を危険な害虫でも観察するように見る。失礼な物言いだが、ロナルドの言うことは正しい。今ここで食い殺されたらたまらない。もちろん、目の前で無邪気に笑う妖精を前にしてみれば、ロナルドは「鬼になった妖精など、俄かに信じ難い」といった感情が先走っている。

 想夜はうつむき、少し悲しげに声を絞った。

「――はい、ゲッシュという呪いによって体内に鬼を植え付けられました。あたしが呼ぶと鬼が姿を現し、あたしの体を依り代として様々な苦痛を与えてきます。あたしにも、まわりの人達にも」

 想夜はシュベスタ最上階で、嗚咽を上げてのた打ち回ったときの苦痛をふたたび頭に描いた。多くの人々の苦痛を味わいながらも、それを甘美として受け入れ、削られるダイヤのように輝きを放ち、灼熱の中で叩かれる刀のような強靭さを携え、苦痛こそがその者を強靭な魂へと進化させることを、その身を以ってして目の当たりにした――想夜が「己の足で立ち上がる」という覚悟を決めた瞬間、藍鬼は想夜の肉体を完全に乗っ取り、目に写る全ての者たちを食い殺そうとした。それは藍鬼が想夜の魂を主として認めた瞬間でもあった。なぜなら強い存在は、弱いやつに対して目もくれないのだから。

「ロナルドさんの言うように、あたしの中には鬼が住んでいます。正直言って、今のあたしにはコントロールが難しいです」

 とたんにロナルドの表情が曇った。

「妖精のクセに鬼になっただと? そんな危険なヤツに娘を任せるわけにはいかない。すまないがキミは今回の件から外れてくれ」

 つっけんどんにするロナルドに対し、想夜は訴えるように口を出す。

「あたし鬼になっちゃったけれど、八卦であるリンちゃんの中には妖精の力が宿っているんです。ハイヤースペックはスペクター本人でさえも飲み込んでゆく。それを黙って見ているだけだなんて、あたしにはできません」

 想夜は少し深呼吸。その後、ゆっくりと話をはじめた。

「あたし今、事情があって妖精界とケンカしてるんです。こっちの世界にいても、ほとんど何も出来ないけど、できることを少しでもやっておきたい。少しでも力になりたいんです。この世界には、あたしのことを好きでいてくれる人たちがいる。そのことを知っているから。あたしもこの世界の人たちのことが……大好きだから――」

 押し黙るロナルド。なにも想夜に嫌悪感を抱いているわけではない。ただ、リンに危険因子が近づくことを恐れているのだ。愛娘のことで、それくらい切羽詰まっていた。

 とたん、狐姫が何かに気づいたらしく、目がすわる。バナナの皮をむくと、ムシャムシャと食べはじめた。
「まあ、アレだよな……なんてゆーの? 俺らも八卦の事情に両足突っ込んじゃったというか、御殿に右手を突っ込まれちゃったというか、渦中にいることは事実だし――」

 モグモグ……ごっくん。狐姫はバナナを飲み込み、廊下の方向を睨みつけた。

「つまりこの部屋…………、敵に囲まれたぜ?」
 そう言って、バナナの皮を入り口付近に投げ捨てた。
 突如――

「いたぞ! あの男だ!」

 乱暴にドアが開かれ、フードを被った数人の男たちが押し寄せてきた。先ほど屋上でリンを誘拐しようとした連中だ。リンの雷で消し飛んだのではなく、素早く退避しただけだった。

「そーら、おいでなすったあ! やるぞ想夜!」
「ウィッさー」
 バナナの皮で男たちが滑って転ぶ!
 取れたフードから現れた顔は、びっしりと黒い毛で覆われた狂犬の頭部だった。
「どう見ても人間じゃねーな、あいつら何者だ!?」
「黒妖犬だよ! 狂犬の妖精……どうして人間界に!?」
 先ほど、想夜が屋上で嗅ぎ取った妖精の匂いはコイツらの体臭だったのだ。

 想夜がワイズナーを引き抜いて構えをとる。
(やっぱり右手首の力がすんなり入らないわ)
 しばらくの間、仲間たちのフォローが必要になると自覚する。

「場所を変えるぜ! リンを運ぶトレーラーが準備してある! 想夜、ロナルドさんを別の部屋に移動してくれ!」
「了解ちゃん! ロナルドさん、こっちです!」
「おい、どこへ連れてゆく!?」

 しぶるロナルドを無視し、想夜がワイズナーを振り上げて横一線を斬る!
 黒妖犬たちを牽制すると、割れた海ができあがる。
 その中央をロナルドの手をとって走り抜けていった。


 病室を抜け出した想夜とロナルド。
 想夜がロナルドの手を引き、廊下を走りぬける。
「いったいあの黒い犬の大群は何なんだ!?」
 走る想夜の背中にロナルドが声をかける。
 想夜は黒妖犬たちに追いつかれぬよう、終始、後ろを振り返っては様子を伺っている。
「話はあとです! 今は逃げなきゃ!」
 看護師や患者の間をすり抜け、想夜はロナルドをリネン室にかくまう。


 リネン室。
 部屋中、タオルやシーツカバーなどが大量に置かれている。洗濯物の束まである。

「ここに入ってください!」
「何故ワタシがこんな狭い場所に閉じ込められなければならないんだ!?」
 文句を言いつつ、ロナルドはしぶしぶ想夜に従う。

 ふと、想夜の視界に洗濯物などを回収するためのカートが飛び込んできた。

 想夜はカートに近づくと、中に詰まったシーツを取り出す。
「1人くらいならこの中に入れるわね」

 突如、廊下から黒妖犬の声が聞こえた。
『おい、この中を調べろ!』

 想夜がリネン室の中からドアを開けて廊下の様子を伺うと、黒妖犬たちが廊下に止めてあったカートの中身を乱暴にあさっているではないか。

 想夜はドアをゆっくりしめた。
「……カートの中は絶望的ね」
 カートにロナルドを隠して移動しようと思った想夜だったが、すんなり諦めて別の逃げ道を探す。

 次に想夜の目に飛び込んできたのは壁に設置された洗濯シュート――専用の入れ物に大量の洗濯物を入れて1階まで落す縦長の通路だ。

「仕方がない。ここを使おう……ちょっと、ロナルドさん」
 想夜がロナルドを手招きする。
「どうした?」
 疑いもなく想夜に近づく投資家。
「これ巻いて」
 想夜はシーツでロナルドをグルグル巻きにすると、シュートに押し込んだ。
「ちょ、おい! なにをする! こんなことをしてタダで済むとでも思っ――」
 ミイラ化したロナルドを、想夜は容赦なく1階まで突き落とした。


 ボフ……。

 体中に巻きつけられたシーツがクッションとなり、ロナルドは傷ひとつなく着地。
 後に続くように、上から想夜が羽を広げて落下してきては、シュートから出てくる。
「ロナルドさんを運んで飛ぶつもりだったんだけど、あたしの右手、まだ完治してないから……ごめんさい」

 想夜の手首に巻かれた包帯を見たロナルドが難しそうな表情を作り、痛々しさのあまりそっぽを向いて答える。

「いや、いい。お大事に――」
「えへへっ」
 それを聞いた想夜が白い歯を見せてニッコリと笑う。
 その気丈さにどう接したらいいのか分からないロナルド、難しい顔にさらに拍車をかけるのだった。

 想夜は彩乃の研究室にロナルドを匿うと、狐姫が向かったであろう地下駐車場へと向かった。


リン・ルー


 御殿が鴨原から伝えられた手土産――ブレインチューニングの施術。

 まずはリンを遠く離れた病院に連れて行かなければならない。それには高速道路を使って移動する。
 とうぜんリンの体調を保つために大掛かりな装置も一緒に運ぶのだからトレーラーは必要だ。
 何事もなければ、3時間ほどで目的地にたどり着く。

 何事もなければ――。


 想夜と狐姫がバナナをかぶって出て行ったあとの応接室――。

 御殿と叶子、リンの護衛から戻ってきた華生が待機していた。
「――はい、御殿の分ね」
 何かあったときのための連絡用として、小型の片耳ヘッドセットを御殿に渡す。

「なんだか廊下が騒がしいわね」
 耳のヘッドセットを調節しながら、御殿が周囲に目を配る。
「なにかあったのかしら?」
 席を立つ叶子が廊下の様子を見るために待合室を出てゆく。
 御殿も叶子に続いた。

「ロナルドさんに何かあったのかも」
 と、叶子が後ろについてくる御殿に声をかけた。
「いま狐姫と想夜が面会しているはず。一体誰がロナルド氏を襲うというの?」
「リンさんは八卦よ? すでに存在が嗅ぎつけられているのだから真っ先にルー親子が襲われるわ」
「ロナルド氏専用のボディーガードがいるはずでしょう?」

 叶子は難しい顔をして答えた。

「それがロナルド氏の企業、現在は派閥抗争が耐えなくてね。ロナルド氏は会社の中でかなり浮いた存在とされているのよ」
「部下のやり方に納得いってない上司はたちまち晒し首にされかねない。企業の恐ろしいところよね」

 アメリカのIT企業である某リンゴ社は、創設者ですらクビにしてしまったほどである。もっともその後、経営不振に陥ったリンゴ社は、クビにしたはずの創設者を呼び戻し、その知恵にあやかって起業再建に成功している。いやはや現金なものである。

「リンさんはこれからコールドスリープケースに移されるはず。わたし達も急ぎましょう」
 御殿が叶子を追い越すように走り出した時だ。突如、叶子の足が止まる。
「ちょっと待って。宗盛から通信が入ったわ――」

 しばらくヘッドセットに耳を傾けていたに叶子だったが、しだいに顔色が強張ってゆき、やがて御殿の方を向いて事実を告げた。

「どうかしたの叶子?」
「……状況が変わったわ御殿」
 御殿が首を傾げた。
「黒妖犬という妖精たちが病院内をうろついている。リンさんを襲った連中ね」
「雑草を刈ってくるわ」
 先走る御殿を叶子が引き止める。
「問題はそれだけじゃないの」
「え?」
「今から1時間後……ダフロマが日本列島に上陸する」
 叶子の口から出た言葉で、こんどは御殿の顔が青ざめてゆく。
「……なんですって?」

 つまり、リンのブレインチューニングを行う前にダフロマが日本を襲うこととなる。リンがブレインチューニングを施術した後では、到底間に合わない。施術中に日本が終わることが予想できるからだ。

 大幅な予定変更――。

「なんということ? 今の状態のままリンさんを戦わせるというの? あの体で?」

 この言葉だけは口にしないほうがいいだろう。現実になるのが恐ろしいからだ――いま体に過度な負荷をかければ最悪……リンは命を落とす。

 御殿がこめかみに手を添え、今後の計画を考える。
 叶子も拳を作って焦りを見せた。
「まるで誰かがこのタイミングを狙ってきたかのようだわね。急いでダフロマを破壊しなければ日本が危ない。急いだところでブレインチューニング中にダフロマが侵略してくる。やるしかないわね……」
 叶子がヘッドセットに囁いた。
「こちら叶子。沙々良さん、彩乃さんにつないでくださるかしら?」

 事情を説明する叶子。

 案の定、ヘッドセットの向こうは騒然としていた。

 ほどなくして叶子がヘッドセットで呼び出された。
「こちら愛宮。彩乃さん? はい……、ええ……、わかりました。すぐにそちらに向かいます」
 相槌を数回繰り返すと、叶子は華生を親指で促す。
「ご指名よ、華生」
「かしこまりました。お嬢様」
 叶子が御殿に視線を向ける。
「御殿、私と華生はロナルドさんを護衛するよう彩乃さんから頼まれたわ。上にいる黒妖犬どもを一掃してくる。あなたはトレーラーに同行しながらリンさんを護衛してちょうだい」
「わかった。くれぐれも気をつけて」
 御殿は走り去る叶子と華生を見送った。


がんばれ詩織


 想夜に救助されたロナルドが彩乃の研究室に来たのもつかの間、今度は別の問題が浮上していた。

 普段は白衣にタイトスカート姿の詩織だが、機戒操作の作業が多いためにツナギを着用しながらトレーラーの中で奮闘していた。

 コールドスリープケースにリンを寝かせる詩織の表情は不安いっぱいだ。その後ろで彩乃とロナルドが激しいやり取りをしているのだから。

 叶子から連絡を受けた彩乃がロナルドに事情を説明した。
「ふざけるな! 話が違う! リンを捨て駒にでもする気か! 先ほどまで『我々に任せてくれ』と大口叩いていただろう? あれはワタシに投資を続けさせるためのゴマすりだったのか?」
「そうではありません。リンさんを病院に送り届ける前にダフロマと接触してしまうんです。戦わなければ……どの道、日本に未来はありません。今、日本にはリンさんの力が必要なのです」

 わが子の危機ともなれば、冷静さを欠落させてしまうのが親だ。そしてロナルドは、まぎれもなく『親』だった。

「リンとバケモノを戦わせるだと? リンはまだ子供なんだぞ!? そもそもダフロマとは一体なんなんだ?」
「ダフロマとは、先日のスペックハザードで暴徒化した暴撃妖精です。フェアリーフォースがゲッシュ界に閉じ込めたのですが、何者かによって解放されてしまいました」
「暴撃妖精とゲッシュ界の話は耳が痛くなるほど聞かされた。もう結構だ。で、何者かとは誰のことだ?」

 彩乃が力なく首を左右させた。

「わかりません」
 ロナルドが大げさに呆れた感じで天井を仰いだ。
「わかりませんわかりません。アナタの言葉はもう聞き飽きた。こっちは黒い犬どもに追いかかられるし、娘が誘拐されかけるしで大忙しだ」

 彩乃にだって言い分はある。文句があるなら迫ってくる敵に言ってほしい。クレームの矛先違いは八つ当たり意外の何者でもない。

 とはいえ、体の弱い娘を戦場に、しかも先陣きって使われるとなれば話は別。

 彩乃だって人の親。今のロナルドがおかれている心境が痛いくらいにわかるのだ。つまるところ、自分の子供が兵隊にとられるということに、平常心を奏でる親はいないということだ。

 誰かが戦わねばならないのは分かっている。けれど、何も自分の子供じゃなくてもいいではないか。兵隊なんてたくさんいるのだろう? よそを当たってくれよ。ウチの子供を連れて行かないでくれ――愛する我が子よ、ここにいておくれ。戦場にはいかないでおくれ。日々平穏な吐息をしていておくれ。
 それが親の本音である。


 トレーラーの中で詩織が忙しなく動いている。リンを保護するためのスリープケースと生命維持装置を接続するのにてんてこ舞い。ブルーカラーよろしく額に汗し、つなぎ姿でせっせせっせとエンジニア。配線をパズルのように並べ変え、機材にピンをさしている。

 スイッチを入れて、異常がないかを確認。
「よし、動いた。ふう……こんなもんかな。準備できたわよ、リンちゃん」
 額の汗を拭う詩織。コンテナの中で大人しく座っているリンのほうに向き直り、ニコリと微笑む。ふと、リンの手にしている写真を見ては覗き込んだ。
「ん~? それは何かな?」
 妖精界からやってきたラテリアの面倒もみていたこともあり、子供の扱いはうまい。研究者の道を歩んでいなかったら、小児科医か保母さんの職を選んでいたかもしれない、と本人は言う。
「リンちゃんの写真? パパと一緒の?」
 こくり。リンはうなずくと詩織に告げる。
「うん。リンと、パパと……ママ。ママがまだ生きていた頃、一緒に日本の高原に旅行に行ったときの写真」

 家族一緒の写真――リンの宝物。

 リンが写真立てを自慢げに詩織に見せた。
「へえ~。いいなあ。パパとママは仲よしさんなんだね」
「うん。でも、パパ、仕事でずっと家に帰ってこなくって、ママ、体が悪くなっても、パパに隠していたの。それで……ママ、死んじゃった」
 とたんに詩織の顔に縦線が入る。

(ど、どうしよう……私、触れてはいけないところに触れてしまった?)

 私のばかばか! 自分の失敗を焦る詩織をよそにリンは話を続ける。
「ママはパパのお仕事の邪魔にならないように、心配させないように、ひとりで解決しようとしてたんだよ」

 ロナルドは多忙だ。病気のことを打ち明ければ、仕事中のロナルドの気が散るだろう。それを思ってリンの母はずっと口を閉ざしていた。相手を想う想像力が備わっていたのは事実。

 自己主張ばかり訴える想像力の欠落した人間が増えるこの世界で、リンの母はひっそりと道端に咲く花のように、決してでしゃばらず、慎みをもった女性であったことが伺えた。

 そんな母を真っ向から肯定しなかったのは、意外にもリンだった。
「でもね、それって正しいことなのかなって、リンは思うの。だってそうでしょ? 愛する人が大切なことを黙っているのって、逆に家族を信頼してないってことでもあるし、苦しめることにもつながると思う」

 どうしてそんな大切なことを言ってくれなかったの? みんなで話し合えば解決策はあったかもしれないのに――母亡き今となっては、本当に解決策なんてあったのかどうかも分からない。

 解決できたかもしれない、というifの世界に心惹かれるのは、とつぜん世界から姿を消した母に対する不満があったのだろう。
 打ち明けて欲しかったのだ。「助けてほしい」という言葉を使って。家族なのだから。親子なのだから。

 うつむくリンの秘めたる思いを察した詩織がリンの手を両手で包み込んだ。
「だったら、今度はリンちゃんがパパに伝える番なんじゃないかな? これからパパとたくさんの時間を使って思い出を作ってゆくんでしょ?」

 詩織は写真立てを手に取り、家族3人が笑顔の写真をリンに向けて見せた。

「ほら、よく見て。みんな笑ってる。リンちゃんのママは、パパとリンちゃんに心配させたくなかった。打ち明けないというやり方だって、立派な愛情表現なの。ひとりひとり、愛情を表すやり方って違うの。ママのやり方に疑問を抱くのなら、リンちゃんのやり方でパパに愛情を表現してみたらどうかな?」
「ママにはママの愛情表現?」
「そう」
「リンにはリンの愛情表現?」
「そう。突然いなくなっちゃったお母さんだけれど、いなくなるまでの間、リンちゃんとの笑顔の数を増やしたかったんじゃないかな? それだけお母さんはリンちゃんのことが大好きだったのね」

 病気のことを子供に打ち明けて、日々を深刻な顔で生きるより、何食わぬ顔で娘との笑顔の数を増やしていったリンの母――笑顔の増やし方は無数にあるということを、その命で証明した奥ゆかしき女性。日々、体が蝕まれていこうとも、家族の前で笑顔を続けてゆくその姿を、女神たちはずっと応援していた。

 詩織とのやり取りの中で、リンが思うところ。それは、やり方は違うけれど目的は一緒なのだという結論――母は家族のことをずっと想っていたということ。ロナルドがビジネスの時間に触れている時も、リンが学校に行っている時間も、ずっと、ずっと。

 リンは写真立てをその胸に抱くと、詩織に言った。
「リンが眠っている間も、パパとママと、一緒にいられるようにできる?」
「もちろん」
 詩織はリンから写真立てを受け取ると、スリープケースのすぐ横に写真立てを飾った。
「ほら。こうしておけば、眠っている間もずっと一緒にいられる」

 リンの安心する顔を確認した詩織は、リンの体を横にしてケースに寝かせた。

「さっきも話したと思うけど、いま日本が大変なことになっていて、リンちゃんの力が必要なの」
 詩織の言葉を聞いたリンは、しばらく考えたのちに静かに口を開いた。
「力を使ったら、パパは喜んでくれる?」

 リンの質問に難しそうな表情でうつむく詩織。けれども本心を伝えなければならない。それこそが詩織からリンに向ける愛情表現だから。

「ううん。きっと悲しむと思う。なぜなら、力を発動すればリンちゃんの体にとっても大きな負担がかかるから。パパはそれを心配すると思う」
 詩織の本音にリンが答える。
「でも、リンしかやれる人、いないんでしょ?」
「ええ」
「だったらやる。それがパパへ贈るリンの愛情表現だから。パパを守れるなら。たくさんの人を守れるなら。リンはパパが悲しむほうの愛情表現を選ぶ」
 幼き戦士の瞳には覚悟の力がみなぎっていた。
 まだ若年である目の前の少女に、詩織は胸を打たれるのだ。

 身近な人を悲しませることを前提とした愛情表現――そのやり方は酷く乱暴かもしれない。けれど、やがてその芽は成長を遂げ、人々の目を奪うほどの花を咲かせるだろう。

 パパとママに見守られながら、リンは暴撃妖精との戦いに備えるべく眠りにつく――。
「おやすみ、リンちゃん」

 詩織がケースの上にそっと手をそえる――リンの夢の中、微笑んでくれる両親との時間を願って。


 ――さて、雷の八卦の準備が整った。

 運転席の沙々良がコンテナ内の詩織に通信をつなぐ。
「鹿山ちゃん、そっちの準備はOK?」
『準備完了。リンちゃんは眠ってます。水無月先生を呼んでくだい』
「あいよー!」
 沙々良がヘッドセットを使い、別室で待機している彩乃に声をかける。
「水無月先生、駐車場のトレーラーにリンさんを移しました。いつでも出発できます」


 病院内の応接室。

 彩乃のヘッドセットから沙々良の声が聞こえてくる。出発の準備ができたようだ。
「――分かったわ。ありがとう沙々良ちゃん」
『お安い御用でー』

 彩乃は視線をヘッドセットからロナルドに移す。
「それではロナルドさん、リンさんをお借りします――」

 彩乃がロナルドを一瞥したあと、部屋を後にする――本来なら差し伸べるべき手を持っているのは彩乃たちのはず。だが、ダフロマに対抗できるのはリンだけ。手を差し伸べるのは八卦であるリンのほうだった。そこまで事態は変化していた。


 ひとりその場に残ったロナルド。こんな時、親は何も出来ない。
 ただ祈るだけならば、いっそのこと自分が戦場に赴きたかった。だが、ロナルドは八卦の親ではあるが八卦ではない。つまり、何もできないのだ。戦場では役立たずの現実――それが酷くロナルド本人を痛めつけるのだ。亡くなる前の妻の時と同じく、たとえ病気を打ち明けられても、何もできなかった、あの時のように。病に対して無力だった、あの時のように――。

 疲労が蓄積しているロナルド。病み上がりのためか、体が鉛を抱えたように重い。
「ふう……」
 ため息まじりでソファに腰を下ろした。目を閉じ、目頭に指をあてて軽くマッサージしたあと、天井を見上げて仰天する。

「クソ! こんなところに!?」

 ロナルドは天井の刺客に気がついていなかった。なんと黒妖犬のひとりが天井に張り付いているではないか!

 黒妖犬が鉤爪を立てて、ロナルド目がけて落下してきた!

 ――首をかき斬られる!

 そんな時だ。突如、何本もの閃光がロナルドの周囲で走り、誰かが黒妖犬の体全体を斬り裂いた後に部屋の隅まで蹴り飛ばした。
「ふう。間に合ったわね」

 スレンダーな長身。ヘアバンドを飾った黒髪をかき上げ、ひとりの戦士が立ちはだかった。すぐ横にはミルクティー色のシニヨンヘアのメイドが付き添っている。

「キミたちは、たしか愛宮の……」
 ロナルドが言いかけるのと同時に、部屋のなかに黒妖犬たちが雪崩れのように押しかけてきた。

 戦上等――叶子はニヤリと口元を緩め、華生に目配せをした。

「さて……派手にいこうかしら? いくわよ華生」
「かしこまりました。お嬢様――」
 叶子と華生がネイキッドブレイドをかかげ、ロナルドの壁となって君臨した。


狐姫 VS 黒妖犬


「あの男を始末しろ! 娘も探せ!」
 黒い犬たちが吠えながら部屋に乗り込んできた!

 部屋の中、ストレッチャーに誰かが寝ている。小さな女の子のようだ。

 くいっ。黒妖犬のひとりが指で指示を出すと、他の者がストレッチャーのシーツを剥がす。

 案の定、中から黒髪のおさげが現れた。背を向けて横になっている。

 黒妖犬が互いに顔を見合わせ頷くと、横になる少女の肩に手をかけて振り向かせた。
 だが少女が男たちに顔を向けると、ニヤリと笑う。その後、髪の毛に手を乗せた、その時だ。

 ズルリ……。

 ウィッグが外れ、その下からブロンドヘアが現れた。
 ブロンドはゆっくり振り返り、ニヤ~っと笑う。
「よお。俺、狐姫ちゃん。仲良くしよーぜ?」
 なんと中から出てきたのはリンではなく狐姫の姿。「かかったな」のニヤリ顔を黒妖犬たちに向けている。

「クソ! 偽物だ!」
 囮の罠と知ったとたん、黒妖犬のひとりがストレッチャーを蹴り上げてひっくり返した。

 ガシャアアアン!

「をわ!?」
 狐姫がキャスターから放り出されて横転。すぐさま起き上がっては半身構えの姿勢をとる。
「あっぶねーな、病院内ではお静かにって教わらなかったか?」
 うん教わった、御殿に。うるさいくらいに言われたぜ。看護師にも怒られたぜ。

 狐姫が横たわるストレッチャーを飛び越え、黒妖犬のひとりに飛び蹴りをかました。

「ホワチャアアアアアア!!」
 狐姫が声を張り上げる!
 蹴りを食らった黒妖犬が後ろに吹き飛び、廊下をすべってゆく。
「こっちは病み上がりなんだ。ちっとは気ぃ使えってんだ!」

 想夜とパンツ合戦をしたり、黒妖犬を蹴り飛ばしたり――とても退院直後の行動とは思えません。

 狐姫は半身の姿勢で鼻を親指ではじくと、片足でターン。黒妖犬の腹に回し蹴りをぶちかます。
「アチャア!」

 ドッ!

 重い音を立てて黒妖犬が遠くへケリ飛ばされると、後ろで待機していた2匹、3匹が同時にボーリングのピンのようにはじき飛ばされてゆく。

「相手は狐一匹だ! 殺れ!」
 雪崩れのように廊下を埋め尽くしながら、黒妖犬の群れが狐姫目がけて襲い掛かる!
「いいぜいいぜ~! 来なよ、ホレホレ!」

 血湧き肉躍る狐姫、ウキウキした気分で犬たちを挑発。その場でピョンピョンと軽くジャンプ。準備運動はほどほどに、クイックイッと手招きで敵を向かい入れる。

 向かってくる黒妖犬の束を、蹴って殴って投げ飛ばす狐姫。壁に追い込まれると、カーテンを器用に使って黒妖犬をくるんで動きを封じ、顔面や横っ腹に数発パンチを叩き込んではノックダウンをさせる。

「ホワチャアアアアアア!」

 奇声とともに狐姫の裏拳が炸裂!
 後ろによろける黒妖犬にさらなる追い討ちの回し蹴り。
「いいねいいね~。狐姫ちゃんサマの筋肉が喜んでるぜ~」
 ブロンドをなびかせて、ストレッチャーに飛び乗り、向かってくる敵を回し蹴りの嵐で蹴散らしていった。

 狐一匹に時間を取られていた黒妖犬の独りがイラつきをストレッチャーに叩きつける。
「いい気になるなよクソガキが!」

 ガチャン!

 蹴飛ばされたストレッチャーが走り出し、部屋から廊下へと飛び出した。
「あぶね!」
 走るストレッチャーの上で体勢を崩しながらも、なんとかバランスを保つ狐姫。
「ヒャッハー!」
 と、波乗りサーファーよろしく、ストレッチャーに乗ったまま階段をガタンガタンと滑り落ち、地下駐車場まで下っていった。


 廊下でキョロキョロとする御殿。
「狐姫はどこへ行ったのかしら……?」
 耳を澄ますと何やら遠くの方から物音が――。

 グワッチャーン!
 ガチャン!
 ドカ! ドカ!
「ホワッチャアアアアアアア!」
「殺れ! 殺せ殺せ!」
「アチャアアアアアア!」
 ドカッドカッドカッ!

 ――通路の奥のほうでけたたましい音と元気いっぱいの奇声が聞こえてくる。

「……あっちか」
 賑やかこの上ない。どう考えても相方しかいない。狐姫が暴れている場所は非常に分かりやすい。乱闘騒ぎが発煙筒の役割りを担っている。

 御殿は廊下を走りぬけ、地下駐車場へと続く階段を下りていった。

 愛宮総合病院 地下駐車場――。

 鉄戸を開けた御殿が地下駐車場に飛び込んだ。
 広がる空間に無数の車が駐車してある。
 すでに想夜と狐姫が黒妖犬の群れと殺りあってた。

「ホワチャ! ホワチャ! ホアチャアアアアアア!」

 蹴って殴って、黒妖犬を蹴散らす狐姫。大した助走もつけずに一蹴りで黒妖犬が後ろに吹き飛び、遠くにいた群れまでをもボーリングのピンのように弾き飛ばしてゆく。

 想夜が狐姫のすぐそばで応戦しているが、術後ということもあり、いささか心もとない動きだ。ワイズナーを振り回す余力を残しているのだろう。前衛を狐姫にまかせて、自分はでしゃばるようなマネはしない。慎ましい嫁のようでもあった。

 黒妖犬の群れは狐姫と想夜に任せておくとして、御殿ものんびり構えてられない。5体6体の黒妖犬の手首を捻ってブン投げ、瞬く間に蹴散らしてゆく。

 一通り敵を片付けたあと、御殿はトレーラーの駐車してある場所へ向かう途中、叶子と連絡をとる。
「こちら咲羅真、目の前の敵を片付けた。これからトレーラーに向かう」
『了解。こちらの黒妖犬も一通り片付けた。時間がないわ。急いでちょうだい』
「了解」
 御殿が通信を切ろうとした時だった。駐車場の中が何やらただならぬ空気に見舞われる。肌にピリピリと覚えのある感覚が伝わってくるのが分かる。

(これは……妖精反応!?)

 ハイヤースペック発動時の力の波が御殿を包み込む。
 駐車場中央通路の奥、御殿が遥か前方を目を凝らしてみる。
『――御殿、どうかして?』
 ヘッドセットから聞こえる叶子の声に御殿が答える。
「ちょっと待って」

 遠くの物陰から、誰かが近づいてくる――。

 御殿はさらに目を凝らし、暗闇を覗き込むように、こちらに近づいてくる人物を見つめた。
『どうしたの御殿?』
「誰かが……こっちに近づいてくる」
『敵? 味方?』
「不確定、状況確認中――」

 ゆっくりと歩み寄ってくるシルエットは、華奢な女のもの。
 やがて照明で顔まではっきり映し出された。

 御殿が叶子に報告する。
「ターゲット1名確認。10代と見られる女性。髪は金髪。制服姿、学生だと思われる。こちらに接近中」
 その姿に見覚えがあった。狐姫が退院するとき、ロビーですれ違った女子生徒だ。力を持った人間は、いつでも身近にいるのだと確信せざるを得ない。
『真打ちのご登場ってわけか。つくづく敵に愛されてるのね、御殿』
 嬉しくない。

 金髪ギャルは御殿と距離を置き、ピタリと歩みを止めた。その場でグーパーをしながらニカッと笑顔を向けてくる。

「やっほー、咲羅真……御殿? ムズかしくって読むのメンドイわ~。名前のセンスなくない? 『黒髪オッパイ』でいいじゃん」
「人の名前を愚弄ぐろうする暇があったら、自分から名乗りなさい」

 御殿の頭に少々血が上っている。人に馬鹿にされるような名前を所有しているつもりは無い。『御殿』という名は、本人の誇りだ。

 耳を指でホジホジ、ギャルがかったるそうに振舞う。
「あーし柊双葉、よろりんこー」

 双葉の手前、御殿と叶子はひっそりと、ヘッドセットでのやりとりを続けていた。

『想夜と狐姫さんは? 援護に来られそう?』
 チラリ。御殿は双葉と名乗る少女から警戒を逸らさず、横目で周囲をうかがった。
「……無理ね。想夜と狐姫は黒妖犬ブラックドックと応戦中」
 100体ほどの黒妖犬を蹴散らしまくっている。とてもじゃないが御殿の面倒までは見られそうもない。
『1人で大丈夫?』
「やってみる」
 御殿は双葉を睨みつけ、正面から向き合った。

 地下駐車場の御殿と双葉――西部劇のガンマンよろしく、距離を保ちつつ隙をうかがう。

「リンって子、どこ? いるんでそ? もらってくから居場所教えてくんない? さっき病室見たんだけど、いなくってさ~」
 さらっと誘拐宣言。目的は八卦の力だろうか?
「欲しければ力づくで――」
 御殿が喋り終わる前に双葉の目がカッと開き、体がフラリと揺れる。
「言われなくてもそうするっての!」

 双葉が一瞬で御殿の懐に潜り込んできた。と同時にボディーブローを叩き込んでくる!

 双葉の拳を両手で受け流した御殿が間合いをとった、が――
「足元おるす! デッカイ胸で下が見えてないんじゃないの?」
 双葉の足払いを食らった御殿が体勢を崩した。
 一瞬だけ時間稼ぎが出来た双葉が、両腕をクロスして構えをとり詠唱をはじめた!

「ハイヤースペック・柊双葉アインセル!」

 御殿の目の前で突如、双葉の体が2体に分裂した。
「双子!?」
 驚愕した御殿が叫んだ。

 一瞬で2体に分裂した双葉。
 双葉と双葉、互いに手を合わせて御殿の方を見ながらニッコリ笑う。
「あーしは柊双葉」
「あーしも柊双葉」
「「ふたりはひとり。ふたりでひとり」」

 御殿がヘッドセットに向かって叫ぶ!
「こちら咲羅真、ハイヤースペクターを確認! 敵は2体に分裂。柊双葉と名乗る人物! 咲羅真、これより戦闘体勢に入る!」
『分身の術!? 相手はクノイチ?』
「不明!」

 叶子に返答する暇もなく、御殿は左右から飛んでくる攻撃を両手で受け流した。
「あーしは右から攻撃ね」
「あーしは左から攻撃ね」
 双葉の手刀から鞭のようにしなる長い空気の塊が突き出している。薄っすらとした空気の刃を出現できるらしく、それで御殿を切り刻んでくるのだ。
(これは……ザッパー!?)
 双葉の指先、かまいたちのような鋭い空気の刃は発射されることなく留まり続け、スペクター本人を援護する。
 御殿には双葉の爪の攻撃に見覚えがあった。
「これは……赤帽子のネイルブレイド!?」

 先の赤帽子狩りを行っていたのは双葉だった。どうやら赤帽子との戦いでネイルブレイドを身につけているらしい。

 御殿が叶子に通達する。
「敵はネイルブレイドを使用してくる! 赤帽子狩りの犯人と思しき人物かもしれない」
『なんですって!? 私のかわいい仔猫ちゃん達の仇を、是非とも討ってちょうだい!』
 ヘッドセットの向こうで、叶子がハンカチを食いちぎる光景が想像できそうだ。
 とはいえ、迂闊に近づけば手足がバラバラにされてしまう。素手の攻撃が危険だと察した御殿は、ホルダーから2丁拳銃を引き抜いた。

 御殿の攻撃を許さない双葉が、すかさず斬り込んできた!

 カシッ! カシッ!

 御殿は空気の刃に触れぬよう、双葉AとBの手刀をボニーとクライドで払いのけて応戦する。

 カッ! カッ!

 二丁銃と双葉のネイルがぶつかり合い、乾いた金属音を発する。

 リンが誘拐されればダフロマの進行が阻止できなくなる。黒幕はそれが狙いなのか? となると、双葉はそのことを知っているのだろうか? それは本人に聞くのが手っ取り早い。御殿はその疑問を双葉に問う。

「柊双葉さんと言ったわね。八卦の力に興味があるなら、考え直したほうがいいわよ?」
「は? 言ってる意味わかんないんですけど?」
「ダフロマが上陸すればタダ事では済まされない。一体どれだけの被害者がでると思うの?」
「あー、説教? そういうのいらないんで」
 せせら笑いのなか、双葉が空気の刃で切りつける。躊躇など一切しない。

 リンの命が狙いだろうか? それともどこかの研究機関にリンを売って八卦のデータを抽出するつもりだろうか?

 少なくとも御殿には、目の前の金髪ギャルが八卦のデータに興味があるようには思えなかった。喋り方や会話の内容で、その者の知能は大体わかる。
 双葉には言葉の切り返しの乏しさやボキャブラリーの少なさが目立つ。故に、双葉には悪人のような高度な計算能力はなく、リンの誘拐以外に何も考えていないようだと御殿は思った。
 とはいえ、目の前にいるのが敵意を持ったハイヤースペクターであることには違いない。

 右双葉のネイルブレイドを回避すれば、左双葉の足払いで体勢を崩される。左双葉の足払いを回避すれば、今度は右双葉のネイルブレイドが御殿の頬に一筋の赤いラインを引く。実に厄介な敵だ。

 御殿は攻撃を避けつつ、その場でターンを決め、銃のグリップの底で右双葉のこめかみを殴りつけようとした。が、反対から攻撃してきた左双葉に逆にこめかみを殴りつけられ転倒してしまう。

「くっ……ゲッシュ界のハイヤースペクターとはケタ違いの強さね」
 軽い脳震盪を起こしながらも立ち上がる御殿の耳に、ヘッドセットを通して華生の声が聞こえる。
『咲羅真さま、よく聞いてください。敵はアインセルの可能性がございます』
「アインセル?」
『アインセルとは人間に化けて生活する妖精です。スペックハザードで暴徒化したアインセルが人間と接続をしたのでしょう』
「だとすると、柊双葉はアインセルからハイヤースペックを継承してるわけか」
『はい。ですが能力がよく分かりません。ただの分身とは思えないのです。詳細が分かるまで、くれぐれもお気をつけてください』
「了解」
 御殿は左右から切り込んでくる2人の双葉を裏拳で振り払い、ハエを払う要領で遠くへ追いやる。

 バンバン!

 御殿がトリガーに手をかけ、双葉たちに発砲するが、弾は器用にかわされてしまった。まるで蜃気楼を撃つかのように弾がすり抜けてゆく。
 それでも双葉ABとの距離を作ることができた。


トレーラーを出発させろ!


 想夜と狐姫が黒妖犬の群れたちと殴り合いの大喧嘩をしている。

「キリがないぜ! 妖精界はこんな元気な奴らばっかなのん!?」

 黒い塊を蹴散らす狐姫。向かってくる敵を遠くまで蹴り飛ばしては悪態をつく。フェアリーフォースの強さにはほど遠いが、こうも束になって来られると、さすがに息が上がってくる。

「妖精界も人間界も一緒だよ。いろんな人達がいるの!」
 想夜がワイズナーを振り回しながら応戦する。バランサー権限がない以上、黒妖犬たちを帰界させることができない。斬るかダウンさせて、大人しく帰ってもらうしかない。ましてや右手が以前よりもパワーダウンしているものだから、敵を帰界させるどころか、ヘタしたら想夜自身が天界に召されてしまう可能性だってある。
 人間界の警官から職を奪ったら、そいつは警察ではなくなる。最悪、ただ威張り散らしているだけの役立たずだ。

 命をかけた戦場では、権限や肩書きがアテにならないことが今の想夜には痛いほど理解できた。それでいて『力がすべて』というおかしな考えに向かわないためにも、己の気持ちがブレないよう、しっかりと精神を保っていなければならない。13歳には荷が重過ぎるが、バランサー権限やワイズナーに頼らず、頭と全身を使って頑張るしかないのだ。権力にあぐらをかく馬鹿な大人にならぬよう、その身にしっかりと努力を焼き付ける子供の姿がそこにはあった。

 このような状況を女神が与えるのは、想夜にはそれを乗り切る力があるという確信があってのこと。「あたしには無理」といった過小評価はノンノン、だ! 想夜の行動はいつだってアクティヴ全開、前へ前へGOGOだ!

 狐姫は黒妖犬の両足を両脇で抱え込んで、力任せで一気に巨体を持ち上げた。
「ふんぬぅううがああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
 そのまま時計針のようにジャイアントスイングでぶん回し、敵の群集めがけて投げつけた。
 と同時に、多くの黒妖犬が吹き飛んでゆく。起き上がるには時間がかかるだろう。

 狐姫が想夜の尻を叩くように叫んだ!

「今だ! トレーラーを出発させろ!!」
 と同時に想夜が運転席の沙々良に叫ぶ。
「沙々良さん、ここはあたし達が食い止めます! はやく国立病院に向かってください!」
「想夜タンは大丈夫なん!?」
 運転席から身を乗り出す沙々良が叫んでくる。
「これだけの黒妖犬が相手だと時間がかかります! ダフロマが上陸したら、またどこかの街の人たちが酷い目にあっちゃう!」

 晴湘市の災害は繰り返してはならない! 想夜の心にはそんな揺ぎ無い思いが詰まっていた。

「わかった、キミ達もすぐについてきて!」
 想夜の願い、確かに受け取った。沙々良はハンドルを握りしめ、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。


 駐車場から、雷の八卦を乗せたトレーラーが出発する――。

 それを見逃す双葉ではない。
「トレーラーが出発するよ?」――ひとりの双葉がもう1人の双葉に囁いた。
「ははは、タダ乗りと行きますか?」
「ははは、タダ乗りと行きますか!」
 同じセリフでも語尾のイントネーションが違うだけでちゃんとした会話になっている。2人の双葉が出発寸前のトレーラーに向かって走り出す。

「まずいわね」
 御殿がすばやく銃を引き抜いて2人の双葉に向かって連続発砲。

 バンバン!
 キキン!

 だが、弾丸すべてがネイルブレイドで弾かれた。

 走り出すトレーラーに向かって双葉ABがジャンプ。
「よっ」
「ほっ」
 双葉が1人、2人、荷台コンテナに飛び移った。

 双葉に続いて何体もの黒妖犬がウジャウジャとしがみ付き、トレーラーの荷台が植物に寄生するアブラムシのような黒い塊となる。

「はいはーい、無銭乗車はご遠慮願いまーす」
 沙々良がハンドルを切って蛇行運転、駐車場出口の壁に黒妖犬をこすりつけて引き剥がす。気持ちていどではあるが、敵を半分ほどに軽減させることができた。

 狐姫が駐車場から出てゆくトレーラーを見送りながら、御殿に叫んだ。
「やばいぜ御殿! 双子に逃げられちまった!」
 御殿はすぐさまヘッドセットで沙々良に通達する。
「沙々良さん! わたし達もただちにそちらに向かいます。トレーラーの荷台に敵が乗り込んでます、気をつけて」
『あいよー! 打ち合わせ通りの経路を使うから急いでねー」
 沙々良はいつだってマイペースな喋り口調。そんな余裕たっぷりの話し方が御殿の焦りを取り去ってくれる。

「急ぎましょう」
 御殿が駐車しておいたバイクに駆けつけようとした時、横から黒妖犬が飛び掛かってきた!
「御殿センパイ伏せて!」
 御殿のこめかみに敵の拳が届く瞬間、ピクシーブースターで突っ込んできた想夜が黒妖犬に体当たり、みごとに弾き飛ばした。
 想夜に弾き飛ばされた黒妖犬は柱に体を強打してダウン。御殿は間一髪のところを妖精に助けられた。
「助かったわ想夜! ……狐姫は!?」
「狐姫ちゃんならあそこです!」

 想夜が指差す方向、壁際で狐姫が黒妖犬たちに追いやられていた。

「狐姫!」
 狐姫を援護するためにバイクから離れようとする御殿を想夜が引きとめた。
「御殿センパイには御殿センパイのすべきことがあるでしょ! 狐姫ちゃんを信じてよ!」
 いつになく真剣な眼差し。そんな顔も作れる子なのだと御殿を驚かせた。
 追い討ちをかけるように狐姫が御殿を一喝した。
「もたもたすんな御殿! ダフロマが来ちまう! 先に行け!」
 狐姫は黒妖犬にパンチを叩き込みながら御殿を先へ先へと促した。

 友だちを信じなさい――御殿の心に幻龍偲の声が響く。

「わかった。ここはまかせる!」
「おうよ! 俺も後から追いつく! こっちは長い入院生活で体がなまってんだ。派手にやらせてもらうぜ!」
 狐姫が半身の姿勢で構えをとった。
「殺れ!」
 リーダー犬の指示のあと、狐姫ひとりに対して黒妖犬が一斉に群がった。


 御殿がヘッドセットに叫ぶ。
「こちら咲羅真、これから国立病院に向かう」
『こちら叶子。わかったわ。わたしと華生も後から追う。晴湘ハイウェイに黒妖犬の群れが向かったという情報が入ったわ。くれぐれも気をつけて――』
「了解――」

 御殿は通信を切った後、想夜の肩を叩いてバイクのほうへと促した。
「トレーラーを追うわよ想夜。乗って――」
「ウィっさー!」
 想夜は敬礼後、飛翔してバイクの後部座席に舞い降りた。御殿の腰よりやや上に手を回してしがみつく。

 むぎゅうううううっ。ふくよかな膨らみを鷲づかみにする。

「想夜……掴むところ、違う」
 狐姫も想夜も同じことをする。御殿は女子に恨まれることでもしているのだろうか。

 ヴオオオオオオオン!!

 後部座席に想夜を乗せた御殿のバイクが黒妖犬の群れを弾き飛ばしながら、駐車場を走り抜けてゆく。
「しっかりつかまってなさい!」
「はい!」

 バイクが地下駐車場の出口から飛び出し、高速道路へ乗り込むためにインターチェンジへと向かった。


 ひとあし遅れ、地下駐車場の宗盛と小安も車に乗り込みシートベルトをしめる。
「トレーラーが出発したようだ。小安、我々も急ぐぞ」
 宗盛が銃を取り出し、マガジンの弾数を確認。
「お嬢様はどうします? まだ病院にいますが?」
「危険だと思うか?」
 何食わぬ顔の宗盛がマガジンをセットしなおした。
「いいえ、思えませんね!」
 小安がニヤリとする。
 ハイヤースペクターの愛宮叶子を想像してみれば、誰だって不安は消し飛ぶ。
 小安が素早くギアを操作し、一気にアクセルを踏み込んだ。
 御殿のバイクを追うように、小安の車が続けて地下駐車場から飛び出していった。