7 あの子を探して――


 エレベーターの扉が開くと、中から御殿が現れた。

 彩乃と見知らぬ女性が言い争いをしている。

(あれは水無月先生? もうひとりは……)
 御殿は握ったネームプレートを見て悟った。もうひとりが噂のメイヴだということを。友をなぶり、はずかしめた張本人。
 御殿はホルダーに手を伸ばし、銃を取り出した。1丁の銃を両手でしっかりと包み込む。

「――メイヴ、その人から離れなさい」

 真っ赤なレーザーポインターがメイヴの額を捕らえている。
 メイヴは横目で御殿を見据える。
「ほお、その豆鉄砲で戦うということか?」
 腕に力を入れ、彩乃の体を引き寄せた。
「面白い、撃ってみろ。キサマの大好きな水無月先生に命中するやもしれぬぞ? ほれ? 引き金を引くのだ、はやく!」

 挑発上等。

 ――とはいえ、マガジンの中は実弾。彩乃を負傷させるわけにはいかない。
 御殿はレーザーポインターがメイヴに当たるよう、ゆっくりと移動し照準角度を変えてゆく。しかしながら御殿の歩みに合わせ、メイヴは彩乃を楯代わりにして動かす。そうやって彩乃の額に赤いレーザーが定まっては御殿はトリガーから指を離すのだ。

 御殿、メイヴ、両者とのにらみ合いが続くなか、彩乃が叫んだ。

「御殿さん、メイヴを止めて! 私に当たっても構わない、撃ちなさい! メイヴを止めてちょうだい!」
 彩乃の額を貫いたところで、その弾はメイヴを仕留めることができるのか?
 とうぜん彩乃を撃ち殺すことなど、御殿にできるはずもない。そのことは御殿もメイヴも分かっている。

 メイヴの胸元、御殿の視界に黒いブローチが飛び込んできた。

(あれが魔水晶。携帯化されたエーテルポット)
 ここで仕留めなければ被害は増してゆくことだろう。そんな心境が御殿を行動へと駆り立てた。
「水無月先生」
 御殿の言葉に彩乃が首を傾げる。
 メイヴは御殿の行動を予測するが、当然のことながら御殿はその答えを口にしない。ただ声にならない囁きを風にのせた。

『後遺症が残ったら……一生をかけて償います――』

 御殿の目がギラリと光り、彩乃の太股へ向けてレーザーポインターを走らせた。

 パン!

 一発。銃声。

「っ!」
 御殿の撃った弾丸が彩乃の太股をかすめて壁にめり込む。
 撃たれた彩乃は声にならない悲鳴をあげるも、堪え、その場にしゃがみ込む。負傷した足では立っている事すらままならない。

 してやられた――切羽詰った顔を見せたのはメイヴのほうだ。

「ほお。人質を負傷させ、お荷物にさせる計算か。確かに正論だ」
 人質はキビキビ動いてこそ価値がある。動きが鈍ければただの足手まとい。
 メイヴは関心しながらも、用済みと言わんばかりに彩乃の体を横に放り投だした。足を負傷された以上、人質として連れまわすことはもうできない。

 メイヴよ、水無月彩乃をここで殺すか?
 答えはNOだ。この女は利用価値がある。これから先も、ずっと、ずっと。メイヴは右腕として、いや、半身として迎え入れるつもりでいる。メイヴの視線は彩乃に夢中だ。彩乃に近づくたび、メイヴはいちいち予定を狂わされる。予定調和という概念がないようだ、水無月彩乃という女は。

 水無月彩乃――女王を振り回す女。女王から愛されし女。罪な女。

 罪な女の視線の先では黒い女豹が獲物を狙っている。獲物は2匹。メイヴと彩乃だ。彩乃を奪還した後にメイヴを仕留める。二兎追うもの、一寸の迷い無し。御殿はメイヴとの距離を徐々に詰めてゆく。
「メイヴ、大人しくシュベスタから身を引きなさい。さもないと――」
「さもないと……殺せるか? はたして、ぬしにワタシを葬ることができるであろうか?」
「試してみる?」
「やってみろ」

 バンバンッ。

 御殿は躊躇うことなくメイヴの頭に狙いを定め、トリガーを2回引いた。
 撃った弾が空気の螺旋を描きながら、メイヴの額に襲い掛かる!
 2発の弾がメイヴに到達するころ、メイヴは口元を歪ませた。

 ――ぬるい。

 メイヴの手前。突如として現れた黒い霧に弾が飲みこまれてしまった。と同時に御殿のナナメ上に黒い霧が現れる。
「あぶない御殿さん!」
 彩乃の叫び声。
 なんと黒い霧の中から2発の弾が御殿めがけて突っ込んできた!
「バカな!」
 御殿は頭からプールに飛び込むように弾を避け、床に突っ込んで前転、受身をとる。
「弾が空間を移動した!?」

 ハイヤースペック・闇霧あんむのカーテン――撃った弾が位置と軌道を変え、狙撃手に襲いかかる。まさに人智を超えた能力。これぞまさしく、メイヴが女王と呼ばれる所以だ!

「なにを驚いておる? ぬしがくれた弾を返してやっただけだろう。当然のことをしたまでだ」
 借りたものを返しただけ。たしかにメイヴは正論者だ。
「おとなしく受け取ってくれてもいいのに」
 御殿がため息をもらす。
「不要だ。用のないものは捨てるか返却しなければな。図書館の本と一緒じゃよ」
 メイヴは鼻高々に笑う。

 実弾は効かない、とうぜん退魔弾も。
 御殿はおとなしく銃をホルダーに納め、空泉地星に手をかけながら、スタスタとメイヴに近づいてゆく。
 距離が縮まった頃合をみて、御殿は伸ばした空泉地星でメイヴをナナメにつんざいた。

 フワリ――。

 また黒い霧。メイヴの体が黒い霧となって御殿の横をすり抜ける。と、次の瞬間には御殿の後ろをとり、肩甲骨と肩甲骨の間に手を当てる。
「飛べ」

 ドオオオオオオオオオオオオオオン!

 御殿の背中に車が突っ込むほどの衝撃が走り、爆風に後押しされたかのように遠くの壁まで吹き飛んだ。
「ウッ!」
 壁に叩きつけられた御殿は呻き、その場に崩れる。
「はははははっ。大げさに飛びすぎなのではないか? そんなに飛べとは言ってないぞ?」
 体を捻った滑稽な体勢の御殿を見ては、腹をかかえて爆笑するメイヴ。

 人間VS女王、力の差は歴然だった。

 脊髄に走る痛みに耐えながら、御殿は床に両手をついて起き上がる。乱れた黒髪を掻き分け、ユラリ、井戸からでてきた女のような姿勢でメイヴを睨みつける。
 圧倒的な力の差を見せ付けられれば、誰だって勝機を見失う。脅威を目の前に、今の御殿はまさにそれだった。
(打つ手はないの? なんでもいい、なにか戦略を作らねば……)

 御殿はあたりを見渡す。

 そこへメイヴが懐に潜り込んできた!
「なにか使えるものがあればいいのだが……と、周囲を洞察するのはオマエの癖かの?」
 御殿よりアタマ半個分長身のメイヴが立ちはだかり、御殿の腹に一発パンチを叩き込む!

 ドッ!

「うぐっ」
 強烈なボディブローを食らったボクサーのように御殿の体がくの字にひしゃげ、後ろによろけ、その場に崩れた。
 メイヴはひざまずいた御殿の首に手をまわし、クレーンのように体を持ち上げる。
「ほれ、咲羅真選手、頑張れ頑張れ! 今日は真っ白に燃え尽きる日だ!」
 メイヴは左手で御殿を吊り上げ、空いた右手を忙しなく動かしている。あまりの速い動きで、傍から見たら何をしているか分からないだろう。その答えは御殿の体を見れば分かる。

 ドドドドッドドドド、ドドドッドドドドドドゥ!!!!!

 空中で御殿が踊っている。重低音を奏でながら、体を大きく揺らしている。
 メイヴは右の拳を振り上げたままの姿勢で停止しているようにも見えるが、御殿の全身に数百発のパンチを叩き込んでいるのは明白だった。パンチが早すぎてモーションが見えないのだ。
「顔は殴らないでおこう……さらし首にするためには綺麗なままのほうがいいからな」

 メイヴの声が耳に届く中、御殿の視界がぼやけ始めた。

 目先のメイヴの表情は、麻薬乱用者がハイテンション時のように目を大きく開き、今にでもヨダレを垂らしそうなほどに興奮していた。想夜たちが言っていたとおり、とんでもないサディストだ。

 御殿は自分の首を締め上げてくるメイヴの手首をつかみ、懇親の力で引き剥がそうと試みる。それが無駄だと分かると、今度はホルダーの銃に手を伸ばした。
 銃をメイヴの顔面めがけて構え、

 バンッ。

 一発。
 メイヴに向けて発砲したが、恐ろしいことにメイヴは前歯で弾を噛んで挟み、それをペッと吐き捨てた。
「手癖が悪いゴキブリだな」
 メイヴはいっそう手に力を込める。

 ギリギリギリ……

「ぐ、ううう……」
 首に圧力がかかり、御殿の顔が一気に紅潮する。目玉が飛び出しそうなほどに血液が頭に溜まりだした。
「首をしめた圧力で目玉は飛び出す。どのくらいの時間がかかるかの? どれ、試してみるか」

 御殿の眼球があちらこちらへと天を仰ぎ、アル中患者のようにグッタリしながら体を痙攣させる。

「ほれほれ。あと1ミリ力を入れれば、ぬしの首はボキリといく。だがそれじゃつまらん。このままのほうがゆっくり楽しめると思わんか? 苦しみは長く続いてこそ、いっそうの快楽を味わえるものだ」

 苦痛を覚えた体は脳内麻薬であるβエンドルフィンを作り出す。それがまた気持ちがいいんだ。過酷な運動を続ける。鞭で体を打つ。激痛に耐える。肉体的苦痛を耐える行為はエクスタシーへの近道だ。と、メイヴは1人勝手な思想をうんちくに乗せ、御殿の鼓膜に誇らしげにとどけた。

「わたしの、友達が……世話になった、ようね」
「はて? 何の事だったかの?」
「とぼけないで、ちょうだい、ここで……詫びて……もらうわ」
「なんだ、おまえも同じ快楽がほしいのか。どれ――」

 メイヴは御殿の体を乱暴に放り投げて床に倒す。そのあと御殿の横っ面を踏みつけ、苦しむ姿を覗き込んだ。
「こんな感じでよいか?」

 グリグリグリ……

 メイヴの足から逃れるため、御殿は身をよじってあちこちに転げまわった。途中、視界に銃が飛び込んでくる。
 御殿は床の銃に手を伸ばそうとした。が、
「オモチャに頼らんでも、気持ちよくなれる方法があるぞ?」

 メイヴは銃を蹴飛ばし、今度は御殿の右手をグリグリと踏み潰す。

「くっ……」
 御殿の顔が痛みで歪む。手の甲の皮膚が削げ、骨をこれでもかと刺激してくる。その痛みに耐えられず、銃を諦めて手を引っ込めた。
 御殿は左手を床について側転し、メイヴとの距離をとった。負傷した右手に左手をそえ、痛みを拭う。痛いところに手を当てて鎮静効果をうながす。手当て、とはそういう意味からきている。

 銃はまだ一丁残っている。
 御殿はすぐさま銃に手を伸ばし、メイヴに銃口を向けた。
 両手で構えるも、目の前にいるはずのメイヴの姿が見当たらない。
「どこへ消えたの!?」

 まっすぐに視線をつくる御殿の顔のすぐ横――そこにメイヴの顔があった。

「どれ、銃の使い方を指導してやろう」
 と、御殿の手の上から銃を包み込むように握り締め、銃口を彩乃に向ける。
(いけない、このままでは水無月先生に当たる!)
 御殿は銃を持つ手を上下左右に振り回し、標的にされた彩乃から外す。
「はははは! 狩りの時間だ! 逃げろ逃げろ!」

 バン! メイヴが彩乃に向けて発砲した。銃声にあわせて彩乃が頭を覆う。

 バン! さらに一発。

 耐えられなくなった御殿は銃を捨て、メイヴの腕を引き剥がそうと両手を使って押しのける。
「もうおしまいか? そういえば、おまえはケッタイな技を使っておったな、こうか?」
 御殿の手首をつかみグルリと捻ると、メイヴの目の前で御殿の体が弧を描いて宙に浮き、そのまま床に叩きつけられた。

 ドン!

「うっぐ!」
 背中から落下した衝撃で、呼吸が乱れる。床の上、息絶え絶えで体を回転させてメイヴから距離をとっては、ふたたび構えの姿勢をとる御殿。
 メイヴは自分の手をみながら推察する。
「なるほど、関節の働きを使って物体の軌道が操れる体術ってことか。つまり――」
 メイヴは四つん這いになった御殿の手首をふたたびつかみ、
「こういうことじゃな?」
 声を発すると同時に御殿の関節を捻ってブン投げる!

 ドオオン!

「うぐ!」
 メイヴを中心に、御殿の体が分度器のような軌道を描いて床に叩きつけられた。
「関節ならどこでも使えるらしいな。どれ、今度は足で試してみるか」
 たいそう気に入ったらしく、メイヴは御殿の足首を捻っては投げ、捻っては投げを繰り返した。
「こうか?」

 ドン!

「こうか?」

 ドン!

「これはどうじゃ?」

 ドン!

「――ふむ。コツさえつかめば大したことないな。だが……もう飽きた」
 と、つまらなさそうに呟き、倒れた御殿の体に腰掛けた。
「おいキサマ」
 と、御殿の髪をつかんで表情をうかがう。
「今ここで関節をバキバキに折ってやってもいいのだが、チャンスをくれてやろう」

 御殿はメイヴを睨みつけながら、次の言葉を待つ。

「妖精界から持ち出されたモノがある。このくらいの、小さい水晶型の――」
「エーテル……、リバティ……」
「そうそう、それだそれ! キサマはそれがどこにあるか知っているのか?」

 物欲しそうに瞳孔を開かせたメイヴに向けて、御殿がニヤリと笑った。

「それなら……ここにあるわよ?」

 御殿は懐から小さくて丸い水晶を取り出した。
「ほほお。ぬしが持っておったのか」
 メイヴがエーテルリバティに手を伸ばした瞬間、御殿は手元のエーテルリバティを落下させ、メイヴの手首をつかんだ。
「なんだと!?」
 今度は倒れた御殿を中心に、メイヴの体が弧を描いて床に叩きつけられた。

 ドン!

「おかえし。お釣りはいらないわ」
 御殿は落下するエーテルリバティをキャッチし、メイヴを一瞥して立ち上がる。銃を回収し、横たわるメイヴに跨った。
「胸元の魔水晶、ここで破壊させてもらうわ」
 御殿がエーテルリバティを魔水晶に近づけた瞬間、御殿の体が上空に吹き飛び、天井に叩きつけられ落下する。
「汚い股でワタシを跨ぐとは、なかなかふざけたヤツじゃの」

 ドゥ!

 メイヴは落下してくる御殿を蹴飛ばし、遠くの壁に叩きつけた。
 壁にクレーターを作った御殿。
 メイヴはその胸倉をつかみ、高く詰まれた障害物の頂上めがけて投げつける。

 ドオオオン!

 障害物の頂上に頭から突っ込む御殿のすぐ横、瞬間移動でもしたかのようなスピードでメイヴが立ちはだかる。
「ゴミの分際でよくもまあ、ワタシに触れることが出来るものだ。少しは慎みがほしいな」
 メイヴは御殿の首に片手をまわし、御殿の体を高々と宙に持ち上げた。

 ギリギリギリ……

「う、ぐう……」
 メイヴの手首を引き剥がそうも、力が入らない。御殿は目を白黒させながら、身悶え続けた。
「断言しよう。5秒以内にキサマの首の骨をへし折る。女王直々に手を下してやるのだ。お礼の一つでも聞いておいてやろう」
 メイヴは御殿の懐からエーテルリバティを奪いとった。
 御殿はヨダレを垂らして食いしばる。顔がうっ血してゆく。

 薄れゆく意識の中、御殿はその人の声を聞いた――。

「――メイヴ、その手を……離しなさい!」

 なんと、彩乃がメイヴの足にしがみ付いて動きを封じているではないか。
「水無月、先生――」
 御殿が名前を呼んだ瞬間、メイヴは御殿の体を遠くへ放り投げた。

 足元の彩乃が懐から手榴弾を取り出し、吐き捨てた。

「メイヴ、妖精界に帰りなさい! これ以上、人間界を引っ掻き回さないで! それでもと言うのなら、ここで私と一緒に消えなさい!」
 食いちぎるように手榴弾のピンを噛む彩乃。世界のためなら、ここでメイヴと心中するのは容易い。意思は、限りなく固かった。
「おのれ、小癪こしゃくな!」

 天高く積まれたガレキの上、彩乃を振りほどこうと暴れるメイヴ、その指先にはエーテルリバティが握られている。

 メイヴはしつこくまとわり付く彩乃の体を蹴飛ばし、振りほどこうとする。

 その瞬間、メイヴの手にしたエーテルリバティと胸元の魔水晶が、御殿の視点からは一つの線に見えた。

 点と点が線となり、胸元の魔水晶へのルートが作り出される。

 天井から落下してくる障害物が、妖精が作ってくれた空への階段のよう――御殿はその瞬間を逃さなかった。

(――いける)

 御殿が腰のホルダーに手をかけた。

 ジャキン!

 取り出した空泉地星を伸ばして床を蹴り上げ飛翔、落ちてくる鉄板を踏みつけ、さらに大きく飛翔する。

 羽ばたけ! 羽は無くとも……熱き血潮で飛べるのだから!

 御殿がメイヴの胸元へ、直線を描いて突っ込んでゆく!

「女王メイヴ……そのオモチャ、この咲羅真御殿がプレゼントするわ――」

 空泉地星の矛先が、メイヴの指先にあるエーテルリバティをビリヤードボールのように押し出す! 後を追うように、押し出したエーテルリバティを魔水晶へと叩きつけ、懇親の力を込め、そのまま一気に捻り込んだ!

 空泉地星に押されたエーテルリバティが魔水晶をとらえ、甲殻の表面に亀裂を入れる!


 ピシッ!


「魔水晶が!」
 矛先がめり込んだ魔水晶の表面が蜘蛛の巣を張り巡らせたようにヒビ割れ、細かい飴細工の破片となって壊れてゆく!
 御殿はさらに力を込め、空泉地星ごと捻り込む!

 吐息がぶつかり合うほど近くで睨み合う御殿とメイヴ。

「咲羅真御殿、貴様あああああああああああああああああ――!!」

「友達からの伝言――女王メイヴ、この想い、受け取りなさい!!」

 想夜の、
 狐姫の、
 叶子の、
 華生の、

 多くの者たちの想いを、

 御殿はメイヴの胸に刻み込んだ!
 瞬間――
 
 ピキイイイイイイイイイイン。
 
 スパーク。

 天に昇るいくつものピンクが宝石に変わり、あちこちではじけた。
 同時に小規模の突風が巻き上がり、あたり一面を吹き飛ばす。
「魔水晶が……、おのれゴキブリ風情が!!」
メイヴが怒りを露にする。

 衝撃波で吹き飛ばされた彩乃はガレキに埋もれている。それでも這い上がろうとするのは、己の研究が招いた惨事――それが罪悪感から来るものだと御殿には思えた。

 けれど真相は違う。それが親の心、子知らず――というもの。

 バラバラに砕けた魔水晶を見つめ、御殿がニヤリとほくそ笑んだ。ざまあ見なさい、と――その後、力の抜けた安堵の笑みに戻ってゆく。

「任務……完了、いたしました」

 御殿と狐姫の請け負った任務はここで完了した。
 その後、御殿はこう付け加える。

「みんな。魔水晶……破壊、したよ――」

 御殿の表情が笑みに変わる。そうやって死戦の重圧から解放されるのだ。
 と同時に、多くの妖精のエーテルが解放されてゆく。プリズムとなった自由意志が街中に広がる。

 力はすべて出し切った。
 漆黒の番犬の役目が、ここで終わる――。

 否、終わりではない。
 御殿は伸びてきたメイヴの腕に頭をつかまれ、クレーンで吊るされた宙ぶらりんの人形のように垂れ下がる。
「出来損ないの分際で……生意気だ」

 バチッ!

 御殿の大脳にスタンガンをあてられたような衝撃が走った。頭部から全身へと電圧が走り、一度だけ痙攣を起こす。
 それきり、御殿はピクリとも動かなくなった。
 メイヴが腕の力を抜く。

 御殿は目を見開き、仰向けの姿勢を保ったまま真下へ落下してゆく。
 それだけでは終わらない。本当の苦痛は、これから始まるのだ。

「toirneach……toirneach……toirneach……」

 メイヴの詠唱がはじまると、大きく伸びた左右の羽がまばゆい光を作り上げ、耳元で卵パックをゆっくりと捻りつぶすようないかつい音を立て、いかづちの如く雄叫びを上げた。

 バチバチバチバチッ……バシュゥ!!

 強烈なスパーク。あたり一面を白で多い尽くす!
 やがて光は2箇所で収束し、次の瞬間、白くて眩い一本のレーザーとなり――

 ジュッ。

 一閃――落下してゆく御殿の心臓を貫いた!

 悲鳴を上げることなく、黒い花びらがスローモーションで落ちてゆく。その間、御殿は何が起ったのか分からないような、少しだけ驚いたような顔を見せていた。

 そうやってゆっくり、ゆっっくり、ゆっっっくりと落ちてゆく。

 ドン……

 床に背中が着く頃、御殿は手を広げて横たわっていた。ベッドの上、事後の女のように、まどろんだ瞳は、ただただ天井の一点だけを見つめていた。

 御殿の瞳孔は開いたまま、四肢も、眼球も、死体のようにピクリとも動かない。

 魔水晶に蓄積されていたエーテルの解放により、メイヴの体が次第に縮んでゆく。女王ほどの力の持ち主は、人間界だとエーテルを異常に消費してしまう。強靭な肉体を保っていられないらしい。
 先ほどの衝撃波でメイヴの顔半分ほどの皮膚が吹き飛び、陶器を割ったかのようにボロボロと崩れてゆく。皮膚の向こうは空洞、なにもない。まるで陶器の人形そのものだ。

 メイヴは御殿を見据えた。

「――見よ、このブザマな醜態を。この謝罪、キサマの何で償ってもらおうかの?」
 と、崩れた顔半分を手で覆い、ため息をつく。
「修復まで……少し時間が欲しいところだ」
 体、声までもがすっかり子供。魔水晶に頼っていたのが仇となり、もう微かな力も残っていない。

 10代前半ほどの幼体へと戻ったメイヴが御殿の元へ飛来する。その場にしゃがみ込み、御殿の豊満な胸を不思議そうに見つめ、手を伸ばして揉みしだいた。

 珍しいものを見つけた子供のように、御殿の体をいじり倒す。
「……これ、本物? しりこん? 人工オッパイ?」

 死んでいるのだろうか? 御殿からは何の返答もない。

 ゆっさゆっさ。メイヴが御殿の柔らかい胸で遊んでいる。けれど、目の前のガラクタからは何の返答もない。
「ふぅ」
 メイヴは諦め、御殿の胸元に掌を当てて詠唱を始めた。

(レーザーで貫いたはずの心臓はしぶとく動いているようだが、そんなことはどうでもよい。コイツは生かしておかないほうがいい)

 メイヴの本能が恐れている。目の前のゴキブリが邪魔で邪魔でしょうがないのだ。冷静を装っているが、怒り心頭といったところだろう。
「ガラクタを放置しておくとロクなことにならんからな」

 詠唱を終える頃――

 ドンッ! ドンッ! ドンッ! ドンッ!

 大きな地響きが連発して起きた!
 震源地はメイヴの掌、そして御殿の左胸。
 何発も、何発も。地響きが起こるたび、メイヴに押さえつけられた御殿の体がガクンッ、ガクンッ、と大きくバウンドしながら揺れた。衝撃波を浴びているように、強烈な電気ショックを浴びるように、ガクンッ、ガクンッ、と。

 ドンッ! ドンッ! ドンッ! ドンッ!

 メイヴは御殿の胸に、何発も何発も衝撃波を打ち込んだ。もう二度と、生き返らないように。何発も、何発も。何発も。

 八卦は脅威だ。こわい、こわい、にくい、にくい――けれど、メイヴは本音を認めない。女王のプライドがそれを認めない。

 劣勢だったはずのメイヴの顔から焦りが見えている。まるで一匹のゴキブリに殺虫剤をまるまる一缶使う臆病者の行動だ。薬品が最後の一滴を出し終わるまで、臆病者の女王は殺虫剤を噴射し続けるのだ。

「やめて! もうやめてええええええええええ!」
 彩乃の悲痛な叫び声。耳をふさぎ、半狂乱になって髪を振り乱していた。

 ――どのくらい長く攻撃が続いただろう。最初に耐えられなくなったのは床の造りだった。寝そべる御殿を中心に、床に蜘蛛の巣状のヒビが入り、そこにまぁるい穴が出来あがる。

 そこへ御殿は堕ちてゆく。ガレキとともに――。

 咲き誇る宿命を終えた花びらのようでいて、とても儚げな姿だった。

 空洞を見下ろし、メイヴは吐き捨てる。
「あの出来損ないめ、なんてことをしてくれたのやら……」
 壊れた左半分の顔面を手で覆い、堕ちてゆく御殿を睨みつけていた。

「いやぁ御殿……、もうどこにも行かないで! いやああああああああああああ!!」
 彩乃はボッカリ空いた床にすがりつき、恥を知らない子供のように泣きじゃくる。

 薄れゆく意識の中、御殿は目を閉じながら思う――彩乃の泣き叫ぶ声が聞こえたのは気のせいだろうか? 手を伸ばし、自分のことを救い出そうとしていたのは、気のせいだろうか? と。

 メイヴの矛先が変わった。

「水無月主任、その頭脳は実に見事だった。だが、いつもいつも……昔から、ワタシの邪魔ばかりする女だった」

 妖精実験も、魔水晶も、そして……『あのプロジェクト』も。すべて、すべて、MAMIYAの人間が邪魔をする。
 メイヴは冷たい声で呟いた。
 
「水無月彩乃。貴様もここで……死ね」
 
 黒き羽から発するレーザーが彩乃の胸を貫いた。

 レーザーをもろに喰らった反動で、彩乃の体が後ろに吹き飛ぶ。
 白衣が宙を舞い、そして――

 ……ドサ。

 床に沈んだ。
「う、うぅ……、御、殿――」
 虫の息だった。
 彩乃はそれでも起き上がろうと試みる。
 這って、這って、どこへ行くでもなく、ただ起き上がろうと試みる。その行為が意味を成すものなのか、彩乃自身も分からない。けれど、這って、這って、這って、這ってゆく。

 メイヴの笑い声がこだまする。

「はははっ。水無月彩乃、おもしろいぞ! 殺虫剤をかけられたゴキブリみたいじゃないか!」
 笑いたければ笑えばいい。侮辱するならすればいい。それでも彩乃は這って、這って、這って、這って――伸ばした手の先に誰が待っているわけでもない。ただ薄っすらと見える黒装束の幻に触れたかった。それだけ。もう二度と、手離したくなかった。
 彩乃はぼやける焦点を必死で合わせようとする。
 最後に一言、

「御殿……、ゴメンね、こんなお母さんで……、ゴメンね……、ダメなお母さんで、ゴメン、ね――」

 そういい残し、彩乃はゆっくりと瞼を閉じた――。


闇に消えた子


 御殿はむき出しの鉄骨にぶつかってバウンドしながら落ちていった。不幸中の幸いか、鉄骨に引っかかりながらの落下が、床への直撃を逃してくれていた。

 胸の下あたりが痛い。皮膚の上から押すとさらなる強烈な痺れと痛みが走る。
 なにをされたのだろう? 御殿はレーザーを食らったことさえよく覚えてない。その時には、ほとんど意識がなかったから。

「痛っ」
 肋骨の何本かもダメになっているようだ、ヒビが入っているのかもしれないし骨折しているのかもしれない。あちこちの内臓がビリビリと千切れるような痛みを発してくる。

 見上げると、何層にも床がぶち抜かれ、遥か頭上まで筒抜けの状態だ。メイヴの衝撃波が御殿の胸を通して地下の天井まで破壊していた。
 なんという恐ろしい破壊力なのだろうと身震いもした。女王相手によく生き残れたものだ、と我ながら関心する。

 御殿は体中に走る痛みをこらえ、足を引きずりながら通路を進んでゆく。


 避難警報が発令されたこともあり、フロアには御殿以外、もぬけの殻だった。

 警報音が響き、赤色灯があたりを赤く照らしている。

 通路の壁に背中を預け、もたれながら前のめりになって、一歩一歩進んでゆく。頼りない速度だが、このまま地上に向かえば助かる確率は上がる。


 ある研究室の前を通り過ぎようとした時のこと。
「……」
 御殿は、”あの独特な感覚”に襲われた。

 ゾッとする感覚――これ以上進むと地獄を見るかもしれない。そんな感情。

 これ以上、踏み込んではいけない。御殿の本能はそう訴えてきていた。
 にも関らず、御殿のとった行動は真逆のものだった。

 目の前の研究室のドアは開いている。非常警報により、システムがオートロックを解除していたのだ。

 ――誰かが手招きをしている。
 どこかで見たことあるショートヘアの少年――。
 天使か?
 悪魔か?
 それとも?
 御殿は催眠術にでもかかったように導かれ、中へと入っていった。


 人間大ほどの培養カプセルが陳列してある。
 中には誰もいない。
 さきほどの少年もただの幻だったのだと理解する。

 胸の痛みをこらえる御殿は銃をかまえ、警戒しながら足を踏み入れた。

(なんだろう、この懐かしい感じ――)
 はじめて訪れた場所ではない気がした。

 何かめぼしい物はないだろうか。そう、例えば……MAMIYAとの関連情報だ。つながりが掴めればMAMIYAも対策を打ちやすくなるだろう。高い金をもらっているのだ、仕事はキッチリこなさないと暴力祈祷師の名が廃る。

 あたりを見渡すと、キャビネットのガラス越しにファイルが詰まっているのが見えた。

 御殿はキャビネットの戸棚をゆっくりスライドさせて、中から無造作にファイルを取り出す。
 資料をペラペラとめくるものの、これといって欲しい情報が載ってるわけではない。学会などで発表された資料の切れ端が集まったスクラップだ。
 それらが不要と分かると元の場所に戻した。
 その後も何冊かを漁る。

 そんなことを何度か繰り返していると、その中に一冊だけ目を引く資料を発見する。


『八卦プロジェクト/分析・データ』



 背表紙のタイトルを手でなぞる。それと同時に胸騒ぎが走った。
(この胸騒ぎ、まただ)

 ファイルを開いてはいけない――本能が訴えてくる。先ほどから感じる寒気の正体はこれだったのだ。どういうわけだろう、ファイルを手にした瞬間にそれがわかった。そして、これが最終警告だということを御殿は感じとっている。

 いつだっただろう、同じことが前にもあった。
 先日、訪れたMAMIYA研究所での襲撃。あの時に戦った暴魔との会話で覚えた感覚――その不安感が蘇ってくる。


『魔界は、妖精界と手を組んだ――』


 暴魔はそう言っていた。
 その言葉どおり、御殿たちは妖精界と魔界を敵にまわすわけだが、問題はそんなことではない。あの時に覚えた不安感は、待ち受ける未来を本能で感じたから出てきたものだ――これ以上進めばさらなる地獄が待っている、と。
 それでも本能を無視し、ここまで進んできた。

 引き返すには……遅すぎたのだ。

 ファイルを簡単にめくる。
 前半は何かの研究データをまとめた報告書。その後、達筆な文字が続いていた。
「……日記のようね」
 喉がカラカラになる中、御殿は手元のファイルに目を通していった――。


【経過報告】

 12月某日
 八卦NO.01 起動。
 
 ついにこの日がやってきた。待ちに待った私の赤ちゃん、生まれてくるのが楽しみ。
 名前はなんて付けようかしら?
 元気な男の子なので強い名前がいいかしら?
 いえ、この子には性別なんて関係ないのだから、人間が作った性別の常識に縛られることはない。可愛くてかっこいい名前がいい。シリアルナンバーなんて似合わない。

 みんなが祝福してくれる。鴨原班長、チームの人達。
 私の赤ちゃん、あなたはみんなから祝福されて生を受けたの。おめでとう。

 脈拍:正常
 体温:正常
 性別:XXY寄り


【経過報告】

 3月某日
 
 サラサラの黒髪がうらやましい。抱きかかえるとなんて軽いのだろうと驚かされる。子供とはこんなにも軽いものなのか、それと同時にこんなにも重いものなのかとも思う――これが命の重さなのだろう、私は今、命の重さに喜びを抱いている。

 髪をなでると気持ちよさそうに目を細めて笑うので何度も撫でた。何度も何度も撫でた。
 顔立ちも女の子のようで肌もきめが細かい。
 遺伝子が女の子寄りなので、将来はガッチリとした体格になることを期待していない。けど元気ならばそれでいい。
 それにすぐ弟妹ができるから寂しくないと思う。

 この子の名前はすでに決めてある、どんな漢字にしようかしら?
 後から生まれてくる弟妹には『水』のつく名前をつけよう。水の無い名前に潤いを与えてくれるように。


【経過報告】

 6月某日
 
 子供の様子がおかしい。
 発育は正常だけど、言語の確認が取れず。
 スプーンやフォークの持ち方すら満足に覚えてくれない。出した食事も全て手づかみで食べたり、握りつぶしたり、放り投げたり。相変わらず言葉も話してくれない。

 知能に問題が生じたのだろうか?
 そんなはずはない、培養には細心の注意を払ったはずだ。
 どの数値にも問題はなかった、ちゃんと確認したのだ。
 だって私の子供だもの、気にかけないわけがない。
 培養カプセルのあの子を24時間見入っていたことなど珍しくなかった。
 それだけ愛おしい命。

 どんな子であっても私の子供。やや遅れて能力が発揮されることもあるだろう。発達障害など珍しいことではない。
 焦らずのんびりいこう。


 

【経過報告】

 12月某日
 
 お誕生日おめでとう。1歳になったね。

 今日はとても寒かった。子供のためにマフラーを編んだ。
 データばかり見てきた人生だったので初めての経験。詩織ちゃんが親切丁寧に教えてくれたおかげで一応完成。
 不恰好なのが気に入らないのか認識できないのか、あの子はしかめっ面でマフラーを見る。しかも手で掴んで食べようとする。慌ててマフラーを取り上げると泣いてしまった。

 ごめんね、次はきっとうまく作るから。
 もう一度、詩織先生にご教授していただこう。


【報告】

 同月
 
 信じられないことが起こった。
 こんなこと信じない。信じるものか。

 ――あの子の『破棄』が決定した。

 逃げよう。あの子を連れて、どこか遠くへ。
 海と山がある静かな街がいい。そこで一緒に、静かに暮らすの。

 けれどあの子の部屋へ向かったが、もぬけの殻だった。
 嘘だ……嘘だ、嘘だ、嘘だ。あの子を破棄したなんて!

 シーツの裏、クローゼットの中、バス、トイレ、すべて探したが見当たらない。
 みんなはあの子をどこへやったのだろう。あの子はどこにいるのだろう……

 追記 同僚にカウンセリングを進められた。余計なお世話だ。

 私の子供――返せ、返せ! 返せ!!


【経過報告】

 某日

 薬を飲んで無理やり睡眠をとる生活が続く。

 少し落ち着いた。が、感情の波はまた押し寄せるだろう。
 躁鬱状態にはもううんざりだったが、朗報がある――あの子の居場所がわかったのだ。

 あの子が発見された場所へ駆けつける。海と山に挟まれた小さな街、静かな街――そこであの子は生きていていた。生きていてくれた。

 でも遅かった。街は火の海だった――理由はわからない。逃げ惑う人達の流れに逆らい、私は荒れた街を走った。

 あの子の住んでいたと思われるアパートを突き止めた。部屋中を隈なく探したけれど、あの子の姿はどこにもなかった。

 死体だらけの街――いったい何が起こったのだろう? なぜこんなことになっているのだろう?

 地面で息絶えた人々――あの子と同い年くらいの子を見つけては、遺体をひっくり返して顔を確認する。

 この子は違う……この子も違う。
 たとえどんなに肉体が成長していようとも子供の顔くらい分かる。だって私はあの子の母親なのだから。

 あの子はここでどんな生活を送ってきたのだろう? あの子は今、どこで何をしているのだろう。

 ――会いたい。会ってこの手で抱きしめたい。
 私の両手はこんなにもあの子を望んでいるのだから。

 捜索途中、青年と少女が叫んでいた。
 彼らに近づくと、落下物により顔のつぶれた女性と鉢合わせる。妊娠していたらしい。
 幸い、お腹の子は無事のようだ。けれど一刻をあらそう。数分でお腹から取り出して呼吸を覚えさせなければ、赤ちゃんも助からないだろう。命が続く限り、なんとかしなければ。

 けれど、私が妊婦に触れてもよいのだろうか? 非情な研究を行った、穢れたこの手で触れてもよいのだろうか?

 罪悪感に襲われながらも私は青年と少女に対し、知っている限りの指示を与え、赤ちゃんを取り出させた。その後の生死はわからない。

 ここまで来たのに……あの子を見つけ出すことは出来なかった。

 ごめんね、駄目なお母さんで……ごめんね。


(経過邦国)


 今日も職員の何人かに当り散らしてしまった。
 あの子が呼んでいる。
 声がする。
 そんな気がする。
 気がするだけだ。

 ――だってあの子はもう、いないのだから。

 薬を飲んだら少し落ち着いた。
 マフラー、上手に編めたの。

 あの子の帰りを待っている。
 ずっとずっと、待っている。


けいかほうこく

 12月

 あの子がいないのに何を報告すればいいの?


ほうこく


 ごめんね。お母さん、母親失格だね。ゴメンね――コトノ。



『コトノ――。』


 御殿は目を疑った。

 最後のページを見た瞬間、御殿の視界がグラリと歪む。一瞬、ほんの一瞬だけ海と山に囲まれた街、そこですごした時間が脳を支配する。それらが無数のセピア色のフィルムとなって頭の中を占拠し始めた。

「この記憶は一体……誰のことなの?」

 記憶にない記憶。日記を読んで作られた想像にすぎない――と、御殿は都合のいい解釈を作っては感情を誤魔化す。

 培養した人間を造りあげてゆくうちに、女性自らが崩壊してゆく心情が淡々とつづられていた日記。何より、自分と同じ名が出てきたことに衝撃を受けたのは否めない。

 この場所で培養された『あの子』の名前は『コトノ』。研究データの基準をクリアできない知能の持ち主だったソレは、生後すぐに破棄されていた。

 ファイルの続きは途中で引きちぎられていた。気がふれた女性研究員が引きちぎったのだろうか? それとも何者かが故意に抹消したのか……?
 考える最中――

 『培養』
 『あの子』
 『医療廃棄物』
 そして『コトノ――』

 背後に迫ってくるような恐怖に耐えられなくなり、素早くファイルを閉じた。

 激しい頭痛をこらえているのも限界だった。ふたたび後頭部を鈍器でブン殴られたような衝撃がはしり、胸の中から何かがこみ上げ、御殿はあわてて口元をふさいだ。が、こみ上げる不快感を堪えきれなかった。これは肋骨の痛みからくる吐き気なんかじゃない、精神からくる吐き気だ。心のずっと奥底にしまいこんだ黒いもの。
 ファイルを放り出し、あわててその場を立ち去る。

 よろよろと、手探りで体をささえる物にしがみ付きながら廊下に出ると、壁に両手をついて体を支える。
 遊園地のコーヒーカップのように視界が回る。
 込み上げてくる不快な感情を堪えるも、
「う……うええええええええええええ!!」
 御殿はその場で嘔吐した。


ボニー&クライド


 フェアリーフォースが見届けるなか、狐姫と鴨原が向かい合っていた。

「――水無月先生から無理やり子供を引き剥がして、破棄したってことか?」
「制御不能の兵器をどうやって操作するんだ? コントロールの利かないバグだらけの人形だ。ゴミにすぎない」
「おまえのイカれた頭と一緒にすんなボケ」

 静かな口調になっている時は決まってブチ切れカウントダウンに入った時だ。

「当時の八卦プロジェクトは世界の期待を一身に集めていた」
 鴨原は吐き捨てるように毒づいた。
「期待していたさ。みんな、期待していた。医学の世界に波紋を呼ぶのだから当然さ。それがどうだ? 出来上がった試験体はロクに会話もできない、フォークも持てない、食事もできない、口に入れるものといったらヘッタクソに編まれたマフラーだけ。そんな失敗作に投資する奴がどこにいる? 水無月親子は世界中をガッカリさせたんだ、シュベスタは笑いものさ」

 狐姫の頭が一気に沸騰した。

「っっっっっっざけんな! 御殿をそんなふうにいうんじゃねーよ!! 御殿は料理だってできるし俺のグチだって聞いてくれる! 掃除も洗濯も! 理科と歴史は苦手だけど、勉強だってできるんだぞ! 失敗作とか……いうんじゃねえよ」
 目にいっぱいの涙を浮かべ、ワナワナと肩をふるわせ訴えた。

 ――やりきれなかった。

 大好きな相方がそんな扱いを受けるのが不憫でならない。御殿は生まれるべくして生まれてきた、そして自分と出会ってくれた――狐姫はそう思っている。出逢った時から、ずっとそう思っている。

 狐姫は鴨原を指差して叫んだ!
「御殿はな、おまえみたいな人間の形をした悪魔とは違うんだよ!!!!!」

 パアアアアアアン……。

 ドーム内に乾いた音が一発だけ鳴り響く。
 刹那、狐姫は軽く胸を突かれたような振動を感じ、痛みを覚える。

 機械のような冷たい口調で鴨原が言った。
「人間に対して生意気な態度をとるんじゃない……キャンキャンうるさいんだよ、人外が」
「……」
 狐姫は火薬の臭いで押し黙る。

 起こった出来事を受け入れられないでいる狐姫の目が、自分の胸元へとゆっくり移動する。視線の先には、マグマのように真っ赤に染まった自分の胸元。

 狐姫は衣服に染み出した自分の血を手で拭うと、まじまじと見つめる。
 目の前には銃を構えた鴨原。銃口からは煙が上がっていた。
「こ、狐姫さま!」
 華生の発狂する声が響いた。
 大げさだなあ、狐姫はそう感じる。けど、
「俺……、撃たれたのか?」
 華生の発狂っぷりは大げさでもなさそうだ、と改め、狐姫はその場に崩れた。

 鴨原は狐姫の手をグリグリと踏みつけ、
「ふん、妖怪風情が」
 狐姫の体を蹴り飛ばす。
 ぐったりとする狐姫は微動だにしなかった。
「弱者は淘汰される。社会の縮図だ。覚えておけ」
 その場にいる全員に向けての忠告だった。

 ――あたりがシンと静まり返る。

 惨いことをする男だ。と、誰かがそう思ったかもしれない。けど、誰も口にしなかった。今の状況だと、撃ち殺されかねない。おかみでありアンダーグラウンドの住人、鴨原はどこか狂っている。

 トドメと言わんばかりに狐姫の額に銃口が向けられる瞬間、周囲の軍隊が騒ぎ出した。
「おい、こっちに誰か来るぞ!」
 ドームにいた全員がその人物に注目した。

 非常口に人の姿、足を引きずり歩いてくる。

 視線の弾幕――その先に、御殿はいた。痛む胸に手をそえながら、ヨロヨロと足を引きずってやってくる。

「咲羅真さま!」
 鴨原が訝しげな表情を見せる。
「咲羅真? ふん、不良品のご登場か。生きていたとはな。相変わらず美人なのが余計にムカつくな」
 鴨原はボロ雑巾のような御殿を見下した。

 ドームの中央に知った顔が横たわっている。御殿はその姿を見るなり、目を見開いた。
「狐、ひ、め……………………狐姫!!」

 どうやら撃たれたらしい――そう察した御殿が狐姫に近づいてゆく。痛みで体を支えきれないから前かがみで走り、あわてて駆け寄るものだから足がからんでつまづき、転び、四つん這いになり、それでも手足を使って狐姫に近つき、血まみれの体をその胸に抱き寄せた。

「狐姫……ねえ、起きてよ狐姫」
「こ……と、の」
 狐姫の消え入りそうな声が聞こえた。
「狐姫!」
 よかった。息がある。ひとまずホッとする御殿。

 そんな御殿のみすぼらしい姿を見た狐姫が力なく吹き出した。
「なんだよ、おまえ……ボロボロじゃん」
「喋らないで、今、救急車を――」
 言いかけてやめた。

 救急車など来るはずもない。ここは戦場だ。死神が御殿と狐姫の首に鎌を当てているのは明白だった。

「こ、御殿……俺、おまえに伝えなきゃならない、こと、ある……みんなで、話し合って、そう、決めたんだ――」

 想夜と叶子と華生で話し合って出した答え。

「御殿……、水無月先生は、おまえの――」
 言いかけたところで信じられない声がこだました。

「射殺開始――!!」

 その声に負けないように、狐姫が声を振り絞った。

「御殿、おまえは1人じゃない! 水無月先生はおまえの――!!」

 背中に響く声。御殿は振り返り、目を吊り上げ、鬼の形相を作った。
「これ以上この子に手を出したら許さない!!」
 ドームに御殿の叫び声。それと同時に、

 ――パン!

 鈍い音が一発、響いた。

「……」
 狐姫の顔を赤い飛沫が覆った。

 沈黙――。

 その後、御殿の体が一度だけ揺れる。
 御殿は胸に違和感を覚え、黒服に滲んだ大量の汗を手で拭う。
「な……」
 赤い汗。御殿は黙ったまま赤く染まった手を見つめ、そっとつぶやいた。馬鹿馬鹿しくってやってられないって感じで、吐き捨てた。
「……なんじゃこりゃ?」と。
「咲羅真さま……いや……いやあああああああああ!!」
 華生が発狂した。
 狐姫だけではく、御殿までも銃弾の餌食となってしまった。

「丸腰の御殿相手になんて卑劣な!」
 目の前で起った光景に叶子は頭が沸騰し、怒りで耳まで真っ赤にする。
「やめて! もう、やめて……」
 華生はもう気が狂いかけていた。
 ハートプレートを装備していないのだから、心臓を守ってくれるものなど存在しない。かといって、銃弾を避けるつもりもない。その身を挺して楯となる――それがMAMIYAに属するということだ。

 けれど……、自分の心臓が打ちぬかれるなんて誰が想像できるだろうか。

 自分が簡単に死ぬだなんて、誰が思うのだろうか?

 普通の人間が思うだろうか?

 思わないだろ?

 だってそうだろ? 御殿は普通の人間の感情を兼ね備えた1人の人間と同じなんだから。医療廃棄物じゃないんだから。産業廃棄物じゃないんだから――狐姫は赤く染まる視界に映る御殿の背中を見ながら、そう思うのだ。

 その後、鴨原が指示を出した。

「黒いのを殺せ、狐を殺せ、MAMIYAの連中も皆殺しにしろ! 残りの研究員も全員始末しろ!!」

 関係者の抹殺。完全なる証拠隠滅。御殿は瞬時にスプリンクラーの聖水を思い出す。

 聖水を仕掛けたのもコイツなのか?
 悔しさ、もどかしさ、いろんな感情がこみ上げてきて涙が出てくる。御殿はたまらず声を振り絞り、フェアリーフォースに向かって叫んだ!

「想夜も……MAMIYAも……狐姫だって……あなた達のことを想って戦ってきたのに!!」
 御殿が怒りに叫ぶのをよそに、フェアリーフォース総員、銃を構えてトリガーを引きまくった。

 瞬間、御殿は両腕を広げて楯となり、叶子と華生、そして狐姫の前に立ちはだかった。MAMIYAの番犬らしく、有終の美を飾ることすらいとわないままで。

「御殿、もういいから! 今日の任務は終えていいから!」
(叶子、任務でこんなことをしてるんじゃないんだよ。わかるでしょう――)
「やめてください咲羅真さま!!」
(止めない。絶対に。あなたが妖精界で笑顔を取り戻せるのなら)
「御殿、やめろ……やめろおおおおおおおおおおおおおおお!!」
(……やめない。あなた達を失うくらいなら。大切な人を失うくらいなら、この身を挺して――)

 ――御殿の瞳に迷いはなかった。

 ズガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ!!

 飛んでくる無数のザッパーが御殿の体に叩きつけられる!

 撃った弾はやがて己に返ってくる――御殿はそれを受け入れたのだ。

 一発一発の弾が体に触れるたび、御殿の全身から血しぶきが舞い上がり、感電したかのようにグラグラと小刻みに揺れる!
 狂った酔っ払いのように、デタラメな踊りを見せながら、手を、足を、大きく振り回し、あたり一面を赤く染めてゆく!

 こんな時に、こんなことを思うのも何だけど、と御殿は考えていた――暴魔たちはわたしに撃たれて痛かったのだろうか? なんてね。

 御殿はその身を数々の悪魔に置き換えた――嗚呼、ボニーとクライドもこんな感じで死んだんだっけ? と。

 ――俺達に明日はない。

 嗚呼、わたし達に明日はないんだ――御殿は思う。紅茶の一杯でもゆっくり飲みたかった。みんなで。楽しく。と。

 泣き叫ぶ狐姫の全身に御殿の血の洗礼が降り注いだ。顔や髪、袴がビチャビチャと真っ赤に染まってゆき、やがてペンキをかぶったように全身が赤く染まる――その頃には狐姫は微動だにしていなかった。

 突如、狙撃に関った何人かの戦士たちがどよめいていた。
「笑ってる……あの女、撃たれながら笑っている――」
 女神の洗礼を受けた時のよう、御殿は静かに瞼を閉じ、まどろみの中で眠りに落ちるよう、それを受け入れる。

 御殿の安らかなる笑顔を前に、トリガーから指を離す者たちがいた。

 やがて、無表情の鴨原が片手を上げると、すべての銃声が止んだ。

 御殿は右ヒザを床につき、次に左ヒザ、力尽き、最後に前に倒れ、全身が床についた。顔、全身を地面に擦りつけ、血の海を作りながら、そこに沈んだ。

「こ……ひ、……め」

 蜂の巣にされてもなお、腕を動かして体を引きずり、ゆっくりとした匍匐前進で狐姫に近づいてゆく。

「こ、ひ……め……」

 御殿はモップでなぞったような真っ赤な経路を床に残しながら体を引きずる。やがて狐姫の体に到達するころ、すでに意識のない狐姫の頬にそっと手を添えて血を拭った――綺麗になるまで何度も、何度も。いつもの透明感ある白い肌になるまで、何度も、何度も。けれど、いくら拭いても血はヘドロのようにこびり付いたまま落ちない。

「ごめんね、きれいな顔なのに……ゴメンね、わたしの出した汚いので、汚しちゃって……」
 ふたたび手でそっと顔の血を拭き取るも、なかなか血が落ちない。血は洗い落とせないものなのだ、とようやく気づいた。
「ごめんね狐姫……ダメな相方で……ごめんね」

 瞼を閉じた狐姫の目尻、薄っすらと涙がうかんで流れた。頬を伝う涙の軌道だけが洗い流され、綺麗に血を拭ってくれた。

 心なしか、狐姫が笑っているように見える。
「バッカだなあ、こんなの洗顔料で落ちるだろ」と、言っているようだった。
 いつも狐姫がやってるように、わしゃわしゃ洗えば血は落ちるのだろうか?
 体についた血も、泡立てたボディーソープで落ちるのだろうか?
 ポンプから出した糸引く白濁液を手に取り、狐姫の白い肌を舐めるように手を滑らせる。
 そうやってみそぎの時間を作ってゆけば、狐姫の穢れは落ちるのだろうか?

 狐姫の手を、うなじを、腰を、胸を、太股を、聖域を――この手で、白い液体を使って、生まれたての綺麗な姿へ戻してゆくのだ。己のヘドロのような血で汚してしまった狐姫を、清めたいのだ。

 御殿は自分の手をじっと見つめた。

 ――ぞくり。

 刹那、絵もいえぬ衝撃が全身を走り、一種の快楽が御殿を包み込んだ。
 焦点が狐姫の胸元を捉え、口をそこに移しはじめる。
「狐姫……」

 何をしているのだろう? と、フェアリーフォースが訝しげに隣同士を見つめる。

 御殿は狐姫の衣服を犬のように口でくわえて、そっとずらし、露になった肌から覗く傷口に優しく口づけ、その後、舌を首筋に移動させる。
 互いの体を確かめ合う愛撫にも見える。
 野犬が死体をむさぼっているようにも見える。
 視界には、各々違って映っているのだろう。

「ははは、まるでゾンビだな」

 甲高い笑い声。鴨原には御殿がゾンビに見えたようだ。が、余興もそこまでだった。
 狐姫の胸元に添えられた御殿の手がマグマに沈んでゆくように、ゆっくりと狐姫の体にめり込んでゆく。
 それを皮切りに、笑い声はピタリと止んだ。

 ゴゴゴゴゴ……

 地獄の底から唸るような地響き。
 肌にビリビリと電気が走るような感覚がする。やがてそれは、その場にいた全員の体を大きく揺さぶった。
「地震?」

 いや、違う。これは――

 鴨原は異常な事態にいち早く気づいた。
「これは……妖精反応、だと!?」
 続けて御殿を睨みつけた。
「まさかこいつ……死ぬ直前に、ハイヤースペックを発動させたというのか!?」

 真っ赤な業火が、あたり一面を一瞬で覆う!

「くっ、廃棄物の分際で、ハイヤースペックを発動させたというのか!!」
 おののく鴨原が火の粉をはらう。気づいたときにはドーム内全てがマグマのカーテンに包まれていた。
「こんな出来損ないの不良品が、クソの役にも立たないゴミが……ハイヤースペックを発動させたというのか!?」

 「今さら!? どうして!?」――そんなこと誰にもわからない。これから始まる地獄だけが、それを語る資格を持っているのだから。

 あたりは一瞬にして炎の海と化した!

 蒸し風呂――いや、灼熱地獄にいるような暑さに総員の毛穴からドッと汗が滲み始めた。

 マグマが描く炎のカーテン。

 狐姫が御殿の腕を掴んだ。何かを胸にねじりこまれてくる違和感で目を覚ましたのだ。
「い、痛いよ……御殿」
「狐姫……」
 身をよじらせて悶える狐姫の胸元へ、御殿はさらに手を滑り込ませてゆく。

 狐姫の体がピクンと反応する。

「ひっ、こ、御殿……ダメだよ……そんなの、入んないよ」
 伸びてきた御殿の手を、顔を赤らめ両手で制止した。
 御殿は不思議そうに首をかしげて狐姫を見つめる。
 まるで壊れた人形のように首をカクッと曲げるので、狐姫にはいっそう不気味に見えた。瞳の輝きもギラついていて気持ち悪く思えてならない。

 そんな壊れた人形がこう言ってくるではないか。
「狐姫……わたしのこと、嫌い?」
 すぐ目の前に御殿の顔がある。
「こんな時に……、なに、言ってんだよ」
 狐姫は喘ぐように御殿に訴えた。

 顔と顔――狐姫が受け入れれば、唇と唇が触れ合う距離感。けれども正気をなくした御殿の瞳は、狐姫が知っているものではない。血を欲しがる獣の目、鋭い眼光。とはいえ、メスを欲するオスの目とも違う。

 御殿の瞳から発するのは、得体の知れない恐怖。狐姫にとっては初めての経験だった。目の前にいるのは、明らかに人間ではないからだ。

 攻撃しても歯が立たない亡霊のような存在。どんな猛者をも食い殺す野獣そのもの――脅威。御殿はそうなってしまった。

「ねえ、狐姫はわたしのこと……………………嫌い?」
 狐姫は野獣の眼ををキッとにらみつけた。
「おまえなんか……おまえなんか御殿じゃねーよ! 俺の知ってる御殿じゃない!」
「――!?」

 御殿は目をまん丸に見開いてゾンビのように生気なくジっと狐姫を見つめていた。しばらくしてから、またいつもの陽だまりのような暖かい笑顔に戻った――が、それが偽りの笑みだということが狐姫には分かる。

「狐姫は……わたしのこと……嫌い?」
 狐姫が叫んだ。
「嫌いだよ!」
 細くて力無き両手で、自分の中に入ってくる御殿の手を引き抜こうとする。
「こんな御殿なんか……大っ嫌いだ!!」
 狐姫は涙で訴えた。が、意外にも御殿は驚かなかった。それどころかホッとした表情を作り、こわばらせた肩から力を抜いた。それがさらに狐姫に恐怖を植えつけた。
「大丈夫、安心して……」

 御殿が伸ばした手をさらに狐姫に捻り込んできた。

「やめろ御殿……やめろおおおおおおおおお!」
 狐姫は恐怖し、泣き叫んだ。
 どのくらいの恐怖かって? 例えるなら失禁するほどに、だ。狐姫にとって、人類にとって、今の御殿は恐怖の塊。

 叶子も華生も固まったまま、動くことすらできないでいる。恐怖はすべてのものを硬直させた。

「アナタがわたしのことを嫌いでも……わたしは狐姫を……一方的に愛せるから」
 力を自覚した者の言葉だった。
 御殿はゆらりと腕をかかげ、狐姫の胸へとすべりこませた。空いたほうの手を使い、手ごろに膨らんだ狐姫の胸を愛でた。
「狐姫、入れてもいい……でしょ?」
「や、やめろ……やだ! やめて……こんなの、やだよお……」

 ――御殿がクスリと笑う。

「少し痛いけど、我慢してね。最初だけだから……だんだん気持ちよくなるから」
 そう言って、さらに狐姫の胸の中へ無理やり腕をねじ込んだ。
「イタッ! 痛った!」
 狐姫の胸元から出血のようにマグマが流れ出す。ジタバタ暴れだし、痛々しい叫びがあたりに響いた。
「痛い! 痛いよ御殿……抜いて、コレ抜いて……壊れちゃう、早く、抜いて!」

 御殿の腕に狐姫の鼓動が伝わる。いつもは元気いっぱいの男の子のような狐姫が妙にしおらしい。それがたまらなく甘味に思えて、さらに腕をグイグイねじり込んだ。

「痛い! 痛い! 痛い! ちぎれちゃう! 死んじゃうよぉ!」
 涙を流して暴れる狐姫。足をバタバタさせながら、挿入されたものを抜こうとするが、とうてい力が及ばない。なんというパワーなのだろう、いとも容易く狐姫がパワー負けしたのだ。

 狐姫は思う――肉体の痛みで泣き叫ぶなんて、今までなかった。そんなブザマな醜態を晒すくらいなら、腹を切って自決してもいい。過去に、腕をへし折られても、額をカチ割られてもヘラヘラ笑い返してきたというのに……なんだこれ、すげーカッコ悪い。

 狐姫は悟る――これは肉体の痛みではない……引き裂かれてゆく心の痛みなのだ、と。

 狐姫の胸から零れ落ちた大量のマグマ。
 哀しみのマグマはやがて涙となり、床に落ちては派手な爆炎を舞い上げ、周囲のあらゆる物体を、狐姫自身を、そして御殿すらをも飲み込んでいった――。


マグマの津波


 叶子と華生は己を守ることで精一杯だった。マグマに包まれる瞬間、2階の廊下に飛び移ったのだ。
 御殿と狐姫を連れてくることはできなかった。なぜなら、御殿と狐姫の体はすでに灼熱を帯びている。触れた瞬間、叶子も華生も蒸発してしまう。


「――マズい事になったわね……」
 叶子がくちびるを咬んだ。
 マグマの海が広がる光景を叶子と華生が見下ろしていた。マグマが華生を飲み込む隙をつき、叶子は彼女をここまで運んできた。間一髪のところでの救出だった。

 スナイパーの一撃から華生を庇い、鴨原の銃弾を食らって、スローモーションのように倒れる狐姫をその場にいた全員が見ていた。

 そこにかけつけた御殿が蜂の巣にされるのを、その場にいた全員が見ていた。

 血まみれの体を両足で支えながら、力なく倒れ、這いつくばって狐姫にたどり着いたのを、その場にいた全員が見ていた。

 狐姫を抱き起こし、なにかをつぶやく御殿。その後、事態が急変した。御殿と狐姫、2人の体をマグマの津波が飲み込む。巨大な炎のカーテンを作り上げ、その中から現れた化け物の姿を、この場にいる全員が、今……見ている。

「あれは、なんなんだ?」
 誰かが言う。
「あれは……人間なのか?」
 どこかで聞いたセリフ。フェアリーテイルを発動した叶子に向けて、かつて狐姫が言った言葉だ。人間とはかけ離れたものを見たときに使う言葉だ。
 そして、別の隊員かがこう言った。

「ははははは! あんな気持ちワリィものが人間のワケないでしょう! あれは……あれは……ただのバケモノだ!」と。

 全員の意見は正しかった。なぜなら、マグマのカーテンを振り払って、中から現れたのは、3メートルはあろうかという巨大な暴魔だったからだ。

 顔の形――瞳が退化し、シャチのようにのっぺりと口先が伸びていて、肌質もヌメヌメしている。バックリと開いた口から無数のトゲトゲしい牙をむき出し、どことなく暴魔のように暗いブルーグレーの色合い。頭から生えた滑らかでサラリとした質感のロングヘアーは、黒とブロンドが入り混じっていて色にまとまりがなく、違和感がある。まるでカラーリングに失敗したような醜さ。

 前腕の肉の一部がえぐれて、手首から肘をつなぐ並行した2本の骨――トウ骨と尺骨がむき出しの状態。
 それらは黒い金属――銃のバレルとハンドガードの造型をしていた。むき出した腕骨を、包帯と鎖が合わさった素材で乱暴に巻きつけて隠しているようではあるが、包帯の隙間から血のように赤く染まった薬莢が一滴一滴、こぼれ落ちては地面の上で金属音を奏でている。
 身にまとっている服も、肩から先がボロボロに裂かれた黒いジャケットのよう。ところどころ破れたパレオと袴が合わさったボロ布を腰に巻きつけているだけのみすぼらしさ。
 暴魔特有の筋肉の張り具合はとてもよく、それでいてふくよかな胸にサラシが巻きつけてあり、オスかメスかの区別さえできない。そんな得体の知れない生物。
 ユラリと幽霊のように動いては、時折、かるい水蒸気爆発に似た吐息を奏でる。

 ――そんなバケモノが今、ドームの中心を陣取っていた。

 バケモノは、最初に目に入ったであろう鉄骨をむしり取り、それを棒術のように器用にブンまわした後、戦車めがけて投げつけてきた。
「こっちに来るぞ、総員退避いいいいいい!」
 ものすごい勢いで鉄骨が襲い掛かる!
 蜘蛛の子が散らばるように、隊員がワラワラと散ってゆく。その中でも発砲準備ができている車体はあった。
「撃てええええええ!」
 合図とともに、バケモノの顔面ど真ん中に砲弾が叩き込まれた。

 ドオオオオオオオオオン!

 ヒット……したはずだった。が、大砲の弾を食らったバケモノの体は大きく仰け反るも、体勢を立て直し、再び建物の鉄骨をむしり取ってはそれをブン回して隊員たちを弾き飛ばした。

「クソ、バケモノめ……なんて馬鹿力なんだ!」
 マグマの波から逃れた鴨原が遠目に歯軋りをしている。

 バケモノが歩みを止めずに前進する。目の前に戦車があると理解すると、それを軽々と持ち上げ、箱のふたを開けるように、簡単に砲台を引っぺがした。さらに車体を逆さにして、ブンブン振っては車内からこぼれ落ちる乗組員を呆然と眺める。それに飽きると、今度は手にした戦車を遠くの壁めがけて投げつけた。まるで理性をなくした子供のようだ。
 その子供相手にフェアリーフォースの誰一人として太刀打ちできないでいる。

「まるで楽しんでいるようだわ……何が起こっているというの?」
 叶子も華生もまったく事情が読めていない。
「叶子様……」
 見るに耐えられない様子で華生が気づかう。
 投げつけられた車体を避けるべく、大勢の隊員が大急ぎで大移動をする。シールドで身を防いでいる者や反撃に出る者もいたが、全て無意味。次々に鉄骨で弾き飛ばされていった。

 バケモノは歩みを止めると、自分に標準を合わせる戦車をゆっくり指差した。
 神経のかよっていない腕をコントロールしているようで、ブルブルと震えている。身体能力のどこかに異常があるらしく、持ち上げるのに時間がかかるらしい。
 やがて腕が肩まであがると、人指し指でピストルの形を作り、狙いを定める。

 戸惑う指先――照準が定まらないのか、しばらく震えている、のだろうか? それとも正常に機能しているのか?

「何をしているのでしょう?」
「分からないわ」
 ごくり。華生と叶子が息を呑んだ時だ。
 バケモノのハンドピストルが、銃を撃った時の反動のように上にブレる!
 その時だった――

 ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!

 突如として地上から噴出した大爆発とともに、指先の遥か遠くにあったはずの無数の戦車が天井まで弾き飛んだ!

「どういうこと!? 弾を発射してないのに何台もの戦車が消し飛んだわ!」
 まるで対戦車用地雷を踏みつけたような光景。
 叶子はハッとする。
「そうか、指先でロックオンした対象を爆発で吹き飛ばしたのね! なんて能力なの……、距離という概念がないとでもいうの!?」
 見たこともない、想像すらしたことのない力を前に身を乗り出した。

 真っ赤な鉄の塊と化した戦車隊は、四方に散らばり、炎の数を増やしていった。

「ヴオオオオオオオオオオオオ!!」

 バケモノは雄たけびを上げた後、ただそれをジっとみつめている。
「……笑っている」
 華生がポツリと呟いた。
「え?」
「咲羅真さまが……泣きながら笑っている。涙を流しながら……笑っているんです」
 嗚咽をあげ、絶望の中で、力なく笑っている。そんな気がするんです――華生はそうつぶやいた。よほど感受性が高いのだろう、相手の気持ちを汲み取ってか、頬に薄っすらと涙が伝うのを叶子は見逃さなかった。華生は御殿の心の代弁者だった。

 突如として現れたバケモノ相手に、この状況を誰一人として止めることが出来ないでいる。
 ただ見ているだけ、それしかできないでいた。

 やがて業火のカーテンが叶子たちのいるギャラリーまで押し寄せ、マグマの津波が全てを飲みこんでいった――。


過去への入り口


 ――まぶしい。
 いつものように朝の日差しを浴びながら、キッチンで奮闘する御殿。

 春になったばかりだというのに、今日はやけに暑い。

 MAMIYAの一件も落着したし、2~3日中にこの部屋を引き払おう。学校は途中で辞めちゃったけど、次の仕事も控えているし、のんびりしていられない。
「ちょっと火力が強いかな?」
 御殿はコンロの火力を調節する。

 ドオオオオオオオオオン!

 爆発したような音を立てて、炎が舞い上がった。
「おっとっと!」
 こりゃマズイ。自分としたことが、コンロのレバーに力を入れすぎてしまった。狐姫にキャンキャン怒られる。今もキャンキャン吠えている。
「はーい、ちょっと待ってて~」
 あの子には美味しいものを食べてもらいたい。自分の作ったものをあんなにも美味しそうにほお張って食べてくれる。にこにこ、にこにこ。そんな狐姫の笑顔が御殿は大好きだ。

 なんだか俄然やる気がでてきた。
 御殿は砂糖容器に手を伸ばす。料理は手馴れたもので、体が勝手に動く。フライパンから目をはなさずとも、どの位置に、どの距離に調味料や調理器具があるのか分かっちゃう。御殿は天才シェフなのだ。狐姫の専属シェフなのだ。

「あれ?」
 雪の中に黒い子供。どうやら砂糖の甘さに釣られたアリ達が容器の中に迷い込んでしまったようだ。そこからからワラワラと黒いアリがあふれ出てきた。
「うわぁ、これもうダメみたいね……」
 しかめっ面の御殿は汚いものを振り払うように、容器を遠くの壁に叩きつけた。

 すると部屋の奥から「御殿、御殿」と狐姫の叫び声。そうとうお腹が減っているみたい。

「今できるから待ってて……あ痛!」
 何かが遠くから勢いよく飛んできて頭にあたる。
 怒ったアリ達が固い小石をぶつけてきたのだ。
「もー痛いなあ~……」
 額がヒリヒリする。イラついた御殿はホルダーからボニーを抜いた。が、横から飛び出してきた狐姫が腕にしがみ付いてきてうまく上がらない。
 「やめろやめろ」と言ってくるではないか。
 先に料理を作ってほしいのか、そんなにお腹がすいているのか。
 狐姫を振りほどき、ようやく一発、アリの行列めがけてぶっ放す。

 ドオオオオオオオオオオン!

 一発撃っただけなのに、TNT爆薬のようなものすごい爆発が起こり、天井を空高く吹き飛ばしてしまった。
 自分でもビックリしてしまう。大家さんになんて言い訳をしよう。
「敷金、返ってこないわね。失敗失敗」

 たははと笑う御殿の手前、アリ達は降参して四方八方に散らばって逃げていった。それがとてもおかしくって、クスリと笑う。残念ながら出番のないクライド――でもきっとクライドも笑ってくれる。

「あはは、変なの♪ ごめんね狐姫、今おいしいもの作ってあげるからね」
 御殿は腕をまくり、ニッコリ微笑む。こんな表情を作るのは初めてだったので、自分でも不思議に思い、さらに考えを巡らせる。

「――あれ? わたし、こんなに笑ったことあったっけ?」

 手にしたおタマをボ~ッと見つめる。そこにはグチャリと歪む自分の顔。逆さまになった自分の顔。
 ずっと見つめていると、さらなる疑問が脳裏をよぎった。

「わたし…………、誰から料理を習ったんだっけ?」

 慣れた手つきがピタリと止まった。
 疑問は続く。

「わたし……どこから来たんだっけ?」

 目の前で泣き叫ぶブロンドの少女――それがキッカケで、むかし出会った金髪の青年と数人のシルエットが脳内を支配していった。皆、御殿が心を許していた人たちだ。

 そうして孤高のエクソシストは気づくのだ――。

「僕………………、こんなところで何してるんだっけ?」

 過去から逃げてきたことに。

「僕………………誰だっけ?」

 未来に逃げこんだことに。

 記憶の奥底、対処しきれなかった地獄絵図を隠してきたことに。

 誰かに言われて思い出すような忘却の彼方にある記憶ではない。認識できない鉄枷――その名はトラウマ。

 対処不能の出来事を心の奥まで追いやり、臭いものにフタをするよう無かったことにする――それがトラウマ。アドラー的にはありえない過去の産物。けれども、それはしかと御殿の中に存在していた。

 思い出そうと抗い続けても、心の奥底に突き刺さったトゲは抜けない。発見することすらできない。認識できない場所に隠しているのだから。見ないようにしてきたのだから。
 やがてトラウマはジワリジワリと発酵し、その者の精神や行動にアウトプットされる。

 過去にアクセスしようとすると、御殿は激しい頭痛に襲われる。思い出すと危険だから。過去に向かい合うだけの力が伴っていないから。一気に精神が崩壊することを分かっていたから。

 記憶の副作用、過去から逃れるために用意されたコンプレックス。
 戦うことで過去の魔物を一掃する行動。蓄積された怒りを悪魔にぶつける日々。

 執拗に悪魔に怒りをぶつける原因は、御殿が抱える過去にある。悪魔をぶちのめしたいという願望を抱えている。そうすることで忌まわしい過去が消えて無くなると、心のどこかで思い込んでいる。過去が清算できると思い込んでいる。

 御殿の中ですべての時間が止まったかのように、思考が真っ黒に染まってゆく――。


 視界がぼやけ、ふたたびピントが合う。

 ただ前を見る。

 握っていたはずのフライバンは手元にはなく、見知ったブロンドの少女が右手に突き刺さっていた。

 シュベスタ研究所。御殿の意識が現実へと引き戻される――。

 狐姫が胸の傷口からマグマを流しながら、マグマの涙を流しながら、身悶えている。
 痛い、と。
 苦しい、と。
 こんなの嫌だ、と。
 泣き叫んでいる。

「戻ってきてよ、御殿――」
 戦場のなか、血のようなマグマを口からこぼした狐姫が訴えてくる!

「戻ってきてよ……御殿おおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
 頭の中で声が響いた。

 ――まぶしい。

 いつものように朝の日差しを浴びながら、御殿は太陽の光できらめく海と、緑で彩られた山を見ていた。