4 女王メイヴ


 広い客室にポツリ、ひとりの女性が立っている。

「いらっしゃい、待っていたわ」
「――詩織さん」

 詩織が片腕を組み、少しにやけた感じで上目づかい。女性の笑みというよりは、蛇がカエルを襲う前の舌なめずりのような笑み。艶かしい視線を想夜と狐姫に向けている。

 想夜は眉をよせて不安な表情をつくった。
「あたしには、どうしてもわからないことがあるの。どうして赤帽子と手を組んでいるの? さっきのマニキュアは何かのメッセージなんでしょ? ……教えて、詩織さん」
 詩織はただ寂しげに窓の外を見ながら、想夜に語りかけてくる。
「……マニ、きゅア?」
「はい。さっき、あたしにピンクのマニキュアを塗ってくれた」

 想夜と狐姫を驚かせたのは次の言葉だった。

「――このビッチ、どこまでも厄介なヤツだな」

 詩織が窓ガラスに映る自分に対して舌打ちをした。
「――え?」
 詩織の口汚い独り言に想夜がひるむ。まるで詩織が自分自身を罵っているように見えたからだ。
 いち早く異常な空気を察知したのは狐姫だ。
「想夜、予感的中だ。詩織さんに近づくな」

 狐姫に引き止められた想夜の足がビタリと止まる。事態はよくない方向に動いてるらしい。

 狐姫が詩織に問う。
「おまえ、詩織さんじゃないな……誰だ?」
 獣の嗅覚が騒いでいる。魔族特有の臭い、魔臭。腐った生ゴミの臭いが狐姫の鼻をつんざき、イラつかせる。

 そう、いま目の前にいるのは人間じゃない。

 鹿山詩織。彼女がMAMIYAに侵入し、シュベスタに情報をリークしていたのだろうか?
 否、彼女は彼女であって、そうではない。
 なぜなら――

「おい、早く詩織さんの体から出ろ。顔面に聖水ぶっ掛けるぞ」
 一本も持っていないクセに、狐姫は懐に手を忍ばせて威嚇を開始した。銃を持ってない場合にポケットに突っ込んだ手をピストルみたいに相手に向けて威嚇する。いつか御殿がやっていたのをマネてみたが、効果はそれなりにあった。

 詩織の動きがピタリと止まる。
 やはり詩織は憑依されていた――狐姫がラテリアから聞いた話から推測すると、想夜と出会う少し前に憑依されたのは確かのようだ。

 とはいえ、詩織には人格が残っていた。精神を振り絞って想夜にマニキュアのメッセージを残していたのだ。憑依現象が出たり消えたりするのは、恐らく香水が魔よけ代わりとなっているためだ。肉体を完全に則られてはいない。女子力が高いことが幸いしていた。

 ――詩織の足元に誰かが横たわっている。

「ラテリア!」
 狐姫が叫んだ。
 なんという素早い動きだろう。狐姫が移動している間にラテリアの位置を突き止め、ここまで連れ出したようだ。
 異常な速度に圧倒される狐姫。

「ラテ、リア?」
 想夜が見たこともない子供に目を向けた。
 まだ10代前半だろう、小さな子供だ。表情に子供特有のあどけなさが強く残っている。けれど人間ではないということが想夜にはわかった。この子も妖精。華生と同じ赤帽子。

 狐姫の目が据わった。
「ラテリアも殺す気か?」
「エーテルポットのレポートと”アレ”をこちらに渡すようにお願いしたのだけれど、言うこときかなくてね。で……お、し、お、き。躾けは大事でしょう?」
「アレって何のこと?」
 想夜が問う。

 エーテルポットのレポートとは詩織がまとめていた仕様書のこと。アレとはエーテルリバティのこと。以上のことから、現在可動中のエーテルポットは不完全なものであり、存在していてはいけないものと推測される。それ故、エーテルポットは別にもあるのだと分かった。それを破壊できる力が存在する。当然、狐姫しか知らない。そして今、それは狐姫のポケットに眠っている。

(これは華生に渡す。そうラテリアと約束した。悪魔に渡すわけにはいかないんだ)
 狐姫は袴の上からエーテルリバティに手をそえる。
(そして仕様書は、すでに安全な場所にある――)

 狐姫は詩織を睨みつけた。
「躾けと虐待は違うだろ」
 活かさず殺さず。必要以上にラテリアへの攻撃をくわえていない。なぶり殺しにでもする気か?

 狐姫は疑問に思う。詩織に憑依した悪魔が赤帽子の群集を率いていたのだろうか? と。

「狐姫ちゃん、詩織さんが赤帽子を人間界に呼んだの?」
「それを今考えてるんだよ。詩織さんはただのMAMIYAの研究員だ。シュベスタへの出入りが簡単にできるもんか。それにただの人間があんな群集をまとめられると思うか?」
 想夜と狐姫のやり取りを聞いた詩織が腹を抱えて笑った。
「あっはははは。フェアリーフォースなのに、なぁ~んにも知らされていないのね」
 はいはい、どうせバイトですよ。と、ふてくされる想夜。
「信用ゼロ、ね」と詩織からの追加攻撃がグサリとBカップに刺さる。
 詩織はラテリアの服を乱暴につかむと、部屋の隅に放り投げた。

 ドン……ドサ。

 小さな体が壁に打ちつけれて落下する。
「ラテリア!」
「酷いことしないでよ! まだ子供でしょ!?」
 狐姫と想夜が叫ぶも、ラテリアはピクリとも動かない。それに悪魔は人道を持ち合わせてなどいない。

 狐姫が一歩前に出た。
「意識不明事件の犯人は、おまえか?」
「さあ……どうかしらね」
 挑発的な態度。詩織はシラを切り、ピンクのマニキュアを高々とかかげて眺めている。
「街中に吸集の儀式を作ったのも詩織さんなの?」
「さあ……どうかしらね」
 こんどはつまらなさそうに答える。あくまで悪魔。詩織の意識を妨害してくる。この悪魔、てんで話にならない。

 怒り心頭直前、想夜はワイズナーを背中から引き抜いた。
 ズシリと重量感ある槍剣を両手で握り、肩幅より大きく足を開いてしっかりと構える。
「フェアリーフォースのことを知ってるのね。なら叶ちゃんのお爺ちゃんのことも知ってるんでしょ!? 全部話してもわうわ!」

 詩織は小馬鹿にしたように首をナナメに傾げ、想夜と狐姫を挑発してくる。
「それが答えかよ。なら吐いてもらうまでだぜ。どうせ憑依されてるだけだ。ちゃっちゃと除霊するぜ」

 狐姫が指をボキボキならしながら詩織に殴りかかる!
「ハンデをやるよ、最初は右腹へのボディーブローだ。いくぜ!」

 えぐるようなボディーブローを詩織の右脇腹に叩き込んだ。が、狐姫の拳があっけなく拳が宙を切る。一瞬で後ろを取られたのだ。
 と、同時に詩織は腕を真横に振りかざし叫んだ!

「アロウサル!」

「はあ!? なんだと!?」
 狐姫の顔から血の気が引いた。

「狐姫ちゃん下がって! 相手はただの悪魔じゃない!」

 想夜が叫ぶと同時に、狐姫は詩織の一歩手前で滑り込んで尻餅をつく。そのままバク転して距離をとった。

 詩織が両腕を大きく振りかぶり、床を引っかくマネをする。瞬間、幾本もの亀裂が床を切り裂いた。
 狐姫の左腕がバックリと裂かれて血しぶきを上げる!

 かまいたち――真空の刃が見えない牙となって狐姫の肌をえぐったのだ。

「くっそ、洒落になんねえ!」
 信じられねえ! 狐姫は裂けた皮膚を押さえながら目を大きく見開いて2~3歩下がる。
「あれはハイヤースペック! 詩織さん、ハイヤースペクターだったのね!?」
「接続元はラテリアか。だからダメージ転移を避けるために大きなダメージを与えなかったんだ」

 狐姫が横たわるラテリアを見る。

「赤帽子のスペクターだから、赤帽子の群れは言うことを聞いたのね」
 と、察する想夜。

 ハイヤースペクターは妖精よりも強い。強さを以ってして群れを率いていたのだ。言わば猿山のボス的存在である。

 雑居ビルで叶子を斬りつけ逃亡した赤帽子。そして、想夜と華生を襲撃した最後の生き残りの赤帽子――そいつが今、ここにいる!

 詩織は想夜と狐姫を身ながらニヤリと笑う。両手の伸びた爪は30センチはあろう鷹の爪状に変形させた。決して大げさなんかじゃない。映画で見る鉄の爪のような形状。違うところは、指先から伸びた爪は非常に長い。

「あの長さで届く距離じゃないだろ!?」
 狐姫が想夜に問うと、すぐに返答がきた。
「ザッパーだよ!」
「ザッパー? おまえ、連射できないって言ってたじゃん!」
「爪一枚一枚からザッパーを発射しているみたい。一定の距離に絞り込むことで体力を消耗せずに連発できるみたい!」
「短距離飛び道具とか……あんまりだぜ」
 と言いながらも、狐姫は下からえぐるようなアンダースローで拳を振り上げて、マグマの直球を投げつけた。
「変なもの投げつけないで」
 詩織はタバコの煙をはらうみたく、爪を使ってマグマの塊を横に払った。

 隙を突いた狐姫が詩織の懐に潜り込み足払いをかますが、詩織のスピードのほうが圧倒的に早い。狐姫は袴ごと太股を斬られてしまう。
「人の一張羅になんてことしてくれんだよ! 女子力高すぎだろ!」
 それを言うなら戦闘力。

 狐姫は足元を狙ってくる鉤爪を飛んで避け、詩織の側頭部に回し蹴りを叩き込んだ。
「ぐ!?」
 よろける詩織が体勢を立て直し、足元でちょこまかと転げまわって逃げる狐姫にザッパーを連打。みるみる床が剥がれてゆく。

 狐姫は寝転んだ姿勢から足を高く天上に上げ、それを勢いよく下げる。
「よっと!」
 その反動でジャンプして起き上がった。
「これは利くかな? フン!」
 詩織との間合いをつめ、回し蹴りを繰り出すも、軽々と受け止められてしまう。

「もういっちょいっとく? よ!」
 狐姫はさらに腰を横に捻り、反対から裏拳を繰り出すが、やはり受け止められてしまう。

 詩織は近距離、中距離に長けている戦闘形態だ。近距離戦向きの狐姫とは非常に相性が悪い。レンジの不利を想夜がカバーしてくれるのが幸いだ。

「狐姫ちゃん避けて!」
 アローモードに変えたワイズナーを想夜が構え、詩織に打ち込んだ。

 シュッ!
 光の刃が無数に拡散し、詩織に襲い掛かる!

 キンキン! タスタスタス!

 数本のレーザーは爪で弾かれ、残り数本は壁にめり込んだ。

 狐姫が姿勢を低く保ったまま駆け出し、ベッドの枕をむんずと掴むと詩織に向かって投げつけた。
 飛んできた枕を爪で切り刻む詩織の前に羽毛が散乱する!

 視界を遮られた詩織の懐へ、今度は想夜が斬り込んだ。
 詩織が10本の爪でワイズナーを握る!
 想夜がピクシーブースターを使ってゴリ押しで突き進む。

 力まかせの押し引き――想夜と詩織の睨み合いが続き、ついには爪の数本を弾き飛ばした。

 ブースターとワイズナーを使った想夜の体当たりで、詩織が後ろに吹き飛んだ!
「やったぜ!」

 想夜と狐姫に勝機が見えた。ハズだった――。

 だが状況は悪化したに過ぎなかった。弾き飛ばしたピンクの鉤爪が宙で回転し、はじけると同時にプリズムが拡散、細かいザッパーを飛ばしてきては想夜と狐姫の背中を切り裂いた。

 ドス! ドスドスドスドス!!

「うあ!?」
「くそ!」
 想夜は体中に引っかき傷を付けられ、狐姫は背中を斬られて血しぶきを上げる。
 特に狐姫には大ダメージだった。治りかけた傷がさらに広がってしまったのだから。
「狐姫ちゃん、大丈夫!?」
 想夜が狐姫を庇うようにワイズナーを詩織に向けている。

 想夜の手足から流れる大量の血液を目にした狐姫は事態の重大さを自覚し、すぐさまインカムの向こうに叫んだ。
「御殿……御殿、聞こえるか!」

 背中から聞こえる狐姫の声が弱々しい。血圧の低下も感じる。放っておけば狐姫の命は長く持たないだろう――このまま狐姫を抱えて窓ガラスを割って逃げたほうがよさそうだと想夜は考えた。

 想夜は狐姫を抱え、羽を広げた。
「狐姫ちゃん、撤退しよう」
「フザケンナよな、おまえ1人で逃げろよ。俺が引きつけておいてやっからさ」
 狐姫の気づかいは嬉しいが、ひとり残して逃げるわけにもいかない。ましてや窓から逃げる瞬間に詩織の攻撃が来たら?
 想夜は撤退を諦めざるを得なかった。

 戦うしかない――。


 想夜と狐姫が詩織と向かい合う。

「――あら、素直なのね」
 詩織の言葉に無言でワイズナーを構える想夜。

 悪魔に憑依されたスペクター。妖精界が知ったら驚くだろう。いや、すでに周知のことかも――想夜の額に汗が滲む。
 フェアリーフォースはこのことをもう知っているのだろうか? 政府の行動を把握しておきたい想夜だったが、パーティーから乱闘が続いていることもあり、力が残されていない。

(どうしよう)
 不安気な表情で狐姫を見つめた。

 突如、インカムからノイズ音。御殿から無線が入る。

『――ザッ……、こちら咲羅真御殿。狐姫、今どこ?』
「御殿だ!」
 狐姫ががっつくようにインカムに叫ぶ。
「御殿? 御殿か! 今どこにいんだよ、そっちは大丈夫か!?」

 御殿が申し訳なさそうに押し黙る。べつに責めているわけじゃない。そのくらい分かれよな。そんな気遣い、狐姫には無用だ。

『ザッ……、叶子様と合流した。華生さんも一緒。そっちは? 今どこにいるの?』
「2階だ! 今、想夜と2階にいる!!」
『ザッ……、今行くわ』

 バカ言ってんじゃねーよ。狐姫は脅威と化した詩織に目を向け、御殿を制止した。

「ダメだ! 来るな! 来るんじゃない! コイツ……かなりヤバイぜ!」
『ザッ……、狐姫……なにが起っているの? 状況を伝えなさい』

 実況? できるもんならしてみてーわ――人間の動きを遥かに超えた速さであちこち飛び回る詩織を前に、狐姫の目が忙しなく動く。

「クソ! なんだよコイツ! 早すぎて動きが読めねえ!」
 と、詩織が狐姫に突っ込んできた。
「狐姫ちゃん、上! 伏せて!」
「うおっ!?」
 うしろから想夜に頭を押さえつけられた狐姫は体勢を崩すも、それが幸いとなって爪の攻撃から難を逃れる。

「サンキュー!」
 狐姫が想夜に親指を立てながら、インカムに叫ぶ。
「いま想夜が応戦している! 敵は悪魔に憑依されてるぜ! しかもスペクターだ! ハイヤースペックを使ってきやがる!」
『ザッ……、ハイヤースペックですって!?』
 御殿の緊迫した状況が手に取るように分かった。
『ザッ……、いったい誰を相手に戦っているの!?』
「敵は赤帽子のスペクター、鹿山詩織だ!」
 狐姫は目の前の敵の名を御殿に告げた。

 ガッ!

「くそ、インカムが!?」
 狐姫のインカムが詩織の爪でやられた。
 無線のやりとりも、ここまでが限界だった。狐姫は壊れたインカムを捨て、応戦する想夜のバックアップにまわる。


 想夜は詩織のまわりをピクシーブースターでグルグルまわり翻弄するも、接近戦に長けた爪の連撃は想夜の攻撃を許してくれない。
 結局のところ、想夜は攻撃をあきらめざるを得ない状況だ。

「大丈夫か想夜!?」
 詩織との距離をとって撤退してきた想夜は擦り傷だらけだった。
 素早い動きで詩織の攻撃をかわしながら、攻撃を与えていたはずなのに、いつのまにか斬り刻まれている。
 いくら狐姫の動体視力が優れているとはいえ、詩織の攻撃すべては見切れない。上には上がいるということを見せ付けられてはプライドまでもズタズタに切り裂かれてゆくのだ。

 他者が頂点に君臨することを許さない妖精の異能、他の追随を許さない、ハイヤースペックたる所以だ。

 想夜が詩織を睨みつけ、ワイズナーを構える。正直なところ、万策つきていた。
 刻まれるのは時間の問題か。そう思った時だ――。


「エーテルポットの仕様書ならここにあるわよ。欲しいんでしょ?」



 部屋に聞き覚えのある声がこだまする。
 声の主は叶子。血まみれのドレスで佇んでは、彩乃から渡された仕様書を自慢気に詩織に向かって見せた。憑依される瞬間の詩織から連絡を受けたラテリアが、前もって仕様書を彩乃に手渡していたのだ。それが今、叶子の手の中にある。

 エーテルポットはMAMIYAが開発し、試作段階で止まったもの。この仕様書があれば完成形となる。それは軍事利用されるものではなく、世界の笑顔のために研究を進めてゆく産物。裏で誰が手を引いているのか知らないが、シュベスタの手には渡したりしない。

 ――全身が憑依される前に、自分が自分でなくなる前に、詩織は信じる人たちへと意思を託していた。

「MAMIYAの研究員だから使えると思っていたが……案外使えない女だったな。研究室の机を調べたが、何も出てこなかった」
 憑依した己の体を睨みつける詩織。もとい悪魔。

「研究室を調べた? そうか、あの夜、あたしを襲ったのはアナタだったのね!?」
 想夜はボコボコにされたが、腹に一発、ちゃんとお釣りを返しておいた。

 叶子が詩織と向かい合う。
「素敵な体に乗り込んだわね。いいように動く駒をもらえて、慌てふためくMAMIYAわたし達を見て、さぞかし滑稽だったでしょう」

 血まみれ叶子の破れたドレスを見た詩織がそれを指摘してきた。
「あら、ご令嬢としたことがはしたない。でも……叶子様の太股も、おいしそうですわね」
 スリットの隙間から覗かせる叶子のムッチリとした太股を舐めまわすように見つめている。
「叶子サマもお好きなんでしょ? オ ン ナ ノ コ」
 と、長爪でリズムを刻みながらメトロノームのように動かして発音してきた。

 叶子は腕を大きく横に振った。
「一緒にするな下衆が! はやくその体から離れなさい!」
「それとも別のモノが好きなのかしらぁ? 今、生えてるものね。あの愛宮のご令嬢のお股に……オ ト コ ノ コ」
 ふたたび長爪でゆっくりとしたメトロノームを奏でる。
「この――!」
 叶子自身への挑発などはどうでもいいのだ。詩織の体で醜態をさらす行為、それが叶子には不快極まりない。MAMIYAの人間への冒涜ぼうとくは、叶子への冒涜そのもの。叶子は怒り心頭だ。

 詩織の声がしだいに濁る。ふだんは白鳥が飛び立つような優雅なテンポで会話するのに――と、叶子たちは違和感でいっぱいになった。

「怒ラなイで叶子ちゃん。でもね、私はそんなアナタでも美味シくいただけちャうの。どっちの叶子チャんも好、キ、だかラ」
 どっちもイケるクチ、らしい。

 狐姫が想夜の耳元でささやく。
「ある意味お仲間じゃねーか。よかったな」
「もう、狐姫ちゃん!」
 怒るよ!? と頬を膨らませた。でも事実じゃん?

 けれど、なぜ詩織の精神が不安定になったのだろう? 想夜たちが詩織のバッグのシミに目を向ける。
「なんかいい匂い……おいバッグから何か滲み出してないか?」

 狐姫に指摘された詩織がバッグを見ると、水が滴っているのが見えた。詩織が慌ててバッグを払いのけると、床に中身が散乱する。その中から水晶のような透明な塊が姿を現した。

「氷だよ! 香水を混ぜた氷が解けて香りを発しているんだよ!」
 前もって香水を含ませた氷をバッグに忍ばせた者がいる。そう、詩織本人だ!

 香水は魔よけに使われる。そのことを知っていた詩織が時限爆弾ともいえる、お手製の『氷の香水』を仕込んでいたのだ!

 しかしながら、憑依とは時間の経過とともに変化があるもの。詩織の精神力が悪魔を上回れば、その肉体の支配者は詩織自身となる。いま、詩織は何を思っているのだろう? 誰を想っているのだろう?

「香、水……臭い、くさい、クサイ、くサイいい、いあああぁた、ああ、あた、あ、あた、新シい体が、欲シい……」

 ロレツが回らないまま、憑依された詩織が周囲を見渡す。その目に飛び込んできたのは、弱っている想夜と狐姫。
「アアあ、ア、あイツら2人の、どチ、どちラかに、する」
 詩織は鉤爪を床について姿勢を低く保ち、
「ドド、ど、ドッチモ、欲シい」
 獲物を捕らえる虎のごとく、2匹の野ウサギに飛びかかろうとした。
 瞬間――

 バシャッ。

「ぐああああああっ!?」
 詩織の顔面から派手な白煙が上がった。


「――間に合ったみたいね」
 割り込んできた御殿が、聖水の瓶を詩織のこめかみに投げつけたのだ。
 瓶の中から飛び出した聖水は詩織の視界を殺し、強烈な痛みを与える!
 ヨロヨロと足元がおぼつかない詩織が御殿を睨みつけた。

「エクソ、シスト……エクソシストオオオオオオオオオオオオオ!!」

 詩織の表情が見る見るうちに歪んでゆく。

「たしかにスペクターに憑依すれば戦力になるわよね。けれど、早く詩織さんから離れなさい」
 御殿が詩織の肉体を指さす。退魔弾が使えないのがもどかしい。実弾ではないが殺傷能力が高いので、詩織の肉体ごと破壊しかねない。

 詩織はただの研究者だ。戦い方など分からない。ただ、人の道を反れることなどしない。だからこそラテリアは能力を共有したのだ。そこを何者かに狙われた。詩織は今回、一番の被害者かもしれない。
 とはいえ、ハイヤースペックを所有している以上、詩織から力を奪わなければならない。それがエーテルバランサーの役割りなのだから。

「詩織さん、ちょっと痛いかもだけど我慢して――」
 想夜は詩織の胸めがけてワイズナーを振り上げた。

 ――そこへ叫び声が割って入る。


「やめて! この子に手を上げないで!」



 想夜のワイズナーがピタリと止まる。

 いきなり飛び込んできた人影が想夜と詩織の前に立ちふさがった――彩乃だった。

「詩織、戻ってきて、お願い」
 それと同じくして詩織の足が固まった。足にしがみ付くラテリアの姿があった。

 詩織の表情筋がピタリと止まり、ほどなくして口元がニヤリとする。

「アアア、アィ、愛さレていル者の、ま、末路ヲ、見せてヤ、やるよ。 ……動脈、切ルと、面白イんだぜえええ?」
 詩織に憑依した悪魔は自分の首筋に鉤爪を立てた。
「詩織ちゃ――!」

 シュッ! ペキペキペキ!

 電光石火。彩乃が叫び終わるよりもずっと早く、想夜の斬撃が繰り出された。まさに一瞬の出来事。横一文字、詩織の爪をワイズナーでぶった斬った。

 爪を無くしたスペクター詩織は牙を抜かれた野獣そのもの。

 その隙をついて懐にもぐりこんだ御殿が、詩織の額目がけて札を張りつけた。

「きゃあああああああああ!!」

 悪魔の叫び声。聖水の痛みよりも札のほうが激痛のようだ。詩織は仰け反り、床に突っ伏してゴロゴロと転がりだした。

「みんな! 詩織さんの体を押さえつけて、はやく!」
 御殿が支持を出し、懐から手帳を取り出しページを開く。そこには除霊のメソッドがズラリと書かれていた。

 札で発光している詩織の体からデカい風圧が飛び散り、周囲の者たちを吹き飛ばそうとする。風圧はナイフように鋭く、皆の皮膚を切り裂いてゆく。それでも向かい風に抗い、胴体と四肢を押さえつける想夜、狐姫、叶子、華生、彩乃。

 5人がかり。やっとの事で押さえつけたが、想夜や狐姫は体重が軽いもんだから、詩織が腕を一振りしようものなら床にピタンと叩きつけられてしまう。それでも体勢を立て直して詩織の手足に張り付いて動きを封じた。

 一同、凄まじく強い悪魔の馬力を痛感している。

 あとは詩織自身の精神力が続くかどうかが問題だ。意識が戻らなければ除霊した瞬間、詩織は息を引き取る。本能が心臓を動かすことを諦めてしまうからだ。もう終わりにしたい、と。

 研究所で詩織にはずかしめを受けた想夜だったが、憑依されていたと知って、さらに悪魔に対して腹を立てた。それでいて目の前の罪なき女性に想いを馳せるのだ。
「詩織さん、頑張って!」
「詩織さんお願い、戻ってきて!」
「戻って来い詩織!」
「詩織ちゃん!」
 想夜に続き、叶子、狐姫、続いて彩乃が叫んだ。

「う、うう……ぐっ、み……水無づ、月、先生――」
 祈りが通じたのか、詩織が彩乃に微笑みかけ、手を伸ばしてくるではないか。

(――水無月先生、守りましたよ。私、貴方の研究を、守りましたよ)

 詩織の意志が皆に通じた。か弱き女性でありながらも、見えない力に立ち向かった戦いの女神の姿がそこにはあった。
「今です、御殿センパイ! お願いします!」
 エクソシストの出番だ。
 想夜が叫ぶと同時に、御殿は詩織にまたがり詠唱を始める。

 一呼吸。御殿はメモを持った手で詩織の額に十字架を押し当て、もう片方の腕を天高く掲げたて叫んだ。

「主よ! 天で見守られし我らが主よ――」

「え、エクソしスト、やめろ! このビチグソ野朗、やめろおおおおおおおお!」
 額の十字架は焼印のように発熱し、詩織の額を焦がす。そこから勢いよく白い煙が噴射した。

 暴れる詩織――いや、暴れる悪魔が本性をさらけ出しては動きを鈍らせた。まるで詩織自身が憑依した悪魔を押さえつけているようだった。

 黒い物体がヌルリと詩織の体から離れ、巨大な虫のように這い出してきた!

 詩織は魂が抜けたようにグッタリと倒れている。

 詩織から引きずり出した悪魔の姿は異様そのものだった。大口から牙をむき出し、鼻より上が腐敗して溶けている。体は出来損ないの筋肉質のブルドックに似ていた。
 額には御殿の十字架のあと。

 御殿はのた打ち回る悪魔の首根っこにヘッドロックをかけて押さえ込み、一気にマウントをとる。
 ドガ!
 怒りまかせに悪魔の顔面にパンチを叩き込むと、悪魔をダウンさせた。憑依型は力が弱くて助かる。

 一同が息を呑む中、最後の除霊が始まった。
「おとなしく地獄へ戻りなさい、ご家族が心配するわよ」
 と、御殿は怒りの口調で皮肉めいた。
 悪魔は裂けた口でニヤリと微笑むと御殿にこう返した。

「カぞ、ク? 家族? 妖精たちのことか? ひヒ、ヒひヒヒヒ……」


 ヒひ、ヒ、ヒひヒヒヒひひヒヒ――。

 部屋中に挑発的な笑いがこだまする。どの道、黒幕をゲロするつもりはない。

 悪魔が御殿たちひとりひとりの顔に、無いはずの視線を移しながら言葉を発した。


「ああ……伝えておいてやるよ、
 魔界の連中に……、
 妖精界の連中に……、
 おまえ達を、八つ裂きに、するように、
 とな――」



(妖精界……)
 想夜が唇をかみ締める。
 侮辱されてることが悔しいのだ。
 御殿にはそれが見ていられなかった。


「はらわたを引きずり出し……、
 脳を抉り出し……、
 すべての人間を食い尽くすように――
 そう、伝えておいてやるよ。
 ひひ、ひ――」



 エクソシストは激しく悪魔を睨みつけ、名乗りを上げた。

「わたしの名は咲羅真御殿。地獄へ戻ってもこの名前、絶対に忘れるな――」

 悪魔の体を指でなぞって術を書き込む。続けて九字を切り、片腕を忙しなく大げさに振り上げ、トドメに勢い良く人差し指と中指を魔族に突きつけた。

 ビシッ!

「地獄へ帰りなさい!!」
「ぎゃあああああああああああ!」

 悪魔は腐敗臭を撒き散らし、黒い霧となって消えた。

 御殿は臭気に顔を背け、霧が晴れると強張らせた肩の力を抜いた。

 悪霊退散――見るもの全員のドギモを抜いた。間近で見ると、まるで戦争だ。

 ――そう、御殿はずっと戦場にいる。
 

遠い背中


 詩織の意識が戻り、一同は胸を撫で下ろす。
 けれども、少々の邪念があるにせよ、悪魔が簡単に体内に入り込むなどあるのだろうか。

「心に踏み込む隙を与えなければ憑依などありえない。心に隙がない者が憑依されるとすれば、体内に魔族の体の一部を流し込むくらいだ。例えば……血とか」

 狐姫の言葉に詩織がハッと顔を上げた。
「そう言えば、コーヒー……」
「コーヒーが、どうかしたんですか?」
 想夜が訪ねる。

 詩織は先日の残業のときに、ある男からコーヒーを差し出されていた。そのことを想夜たちに告げた。

「それって華生さんが誘拐された夜ですよ!」
「わたしと狐姫が吸集の儀式を破壊した夜ね」
「そうか、コーヒーの中にさっきの悪魔の血を入れてやがったのか」
「詩織ちゃん、コーヒーをくれた人って誰なの?」
 問う彩乃に詩織が答えた。

「鴨原元副所長です」

 MAMIYA研究所元副所長・鴨原 稔かもはら みのる――現在、厚生労働省の役員を務める男。多くの医療施設にも顔がきくことから推測すると、MAMIYAとシュベスタに出入りしているのは明白だった。

「――あの男か」
 御殿には見覚えがあった。MAMIYAの全社総会で目にした男。先ほどのパーティー会場でも御殿に意味不明な言葉を投げてきたのは記憶に新しい。

 ダブルスパイ、やっとたどり着いた。
 シュベスタへの1本の糸、ついに見つけた。

 鹿山詩織という駒を取り上げられた今、鴨原稔、どう動く?


 衰弱した詩織をベッドで休ませることにした。

 そのかたわらにはラテリア。憑依が解けたと分かり、すがるよう詩織に甘えている。

「――ふふ、私があげた香水、まだつけてるのね」
 彩乃は詩織から漂ってくるほのかな香りを感じ取っては、その頭を撫でた。
「彩乃さんと詩織さんて仲よしですよね、どこで知り合ったんですか?」
「詩織ちゃんが大学生だった時に、何度か講師を務めたことがあったの。詩織ちゃんの大学は私の母校だった」
 想夜の質問に彩乃が答えた。詩織の手を握り、顔を見つめて話を始める。

 詩織は照れ隠しで目をそらす。

「詩織ちゃんは勉強熱心な子でね、分からないことがあると私のところに走ってきて質問しに来てくれた。その時の笑顔ときたら……まるで想夜さんの笑顔みたいに無邪気で、向日葵のように輝いていた」
 彩乃の力無き笑い。やがて声を振り絞るように吐き出す。
「……詩織ちゃんの気持ちは薄々だけど気づいてた」
「気づいてた? ……どういう意味です?」
 想夜が首をかしげた時だ。
「水無月先生……あとは私がお話します――」
 ベッドから身を起こす詩織。弱々しく、頼りなさそうに聞こえるが、瞳の奥に一種の覚悟が見えた。詩織は胸のうちを全てを話すつもりでいる。


 大学を卒業した詩織の行く先は決まっていた。彩乃のいるMAMIYA、それが詩織の目標だった。その決意はかたく、やがて詩織はMAMIYAへの就職を果たす。

 あの人の背中を追っていたい。
 あの人に近づきたい。


 そして――あの人に触れたい。


 学生だった詩織の彩乃に対する尊敬の意は、やがてそれ以上の感情となる。

 詩織は恋をしたのだ。水無月彩乃。かつての恩師に。

 学生時代からずっと、ずっと。詩織は彩乃のことを想っていた。その髪に、その肌に、その唇に触れたい――と。勉強を教えるとき、すぐそばでフワリと香る彩乃の上質な香水。耳をくすぐる声質、細い指先を彩るピンクのマニキュア、ノートを走るペンを持つ指先の動きでさえ、それら一つ一つが詩織自身を愛撫するかのように思えた。

 叶わぬ夢を追いながら、詩織はそれでもいいと研究に没頭した。だって彩乃のそばにいられるのだから。

 学生だった詩織がバイトとしてMAMIYAを手伝う頃、ある研究が始まった――MAMIYAの中でもごくわずか、たった数人の研究員で構成された妖精実験。
 それが『ディルファープロジェクト』だ。

 ディルファープロジェクトの主な目的は、難病患者の治癒に使用するための人工細胞の開発だった。

 ディルファーとは何か?
 ――当初、バイトの詩織には知らされていなかった。ましてや彩乃でさえ華生の存在すら知らされてなかったほどに秘密裏にされていた。鴨原を通して後から知らされたのが彩乃だった。

 ディルファーのデータは人間にも理解しやすく数値化してある。それを軍事利用することもできれば、脅威への対策も作り出すことができる。

 妖精の能力は、まだ解明されていない難病を治すきっかけすらも持ち合わせていた。人類に大きな貢献ができるデータでもある。脅威なる力がすこやかなる生活を作る力へと変わることに、誰もが賞賛するだろう。


 ――ある時、チームの人間と愛宮鈴道が揉めだした。


 鈴道が激怒したのは、研究内容を逸脱した軍事産業へ向けてのものだった。
 鈴道同様に彩乃が憤慨したのは言うまでもない。もちろん詩織、沙々良も軍事利用反対派だった。
 故、チーム内で意見が分かれ、プロジェクトは足踏み状態となる。

 それがMAMIYAからこぼれた黒い雫、シュベスタの誕生である。

 軍事利用から遠ざかったMAMIYA。研究はサイバー義体と生身の神経の接続をスムーズにさせる人工細胞・人工神経の研究がメインとなった。

 のちにMAMIYAは、脳からの指令をスムーズに行えるサイバーボディ『トロイメライ』で特許を取得。四肢を失った障害者達へ、力強い貢献を果たした。

 ディルファープロジェクトの難病医療研究に必要となっていたのが人の細胞だ。とはいえ、被験者を募るにも法律や倫理、宗教問題も発生してくる。
 それでも前進しなければならない意志がそこにはある。MAMIYAは被験者を募り、臨床実験へと踏み込んでゆく。

「ディルファープロジェクトへの参加に、私は2つ返事で返した。嬉しかった――」

 詩織はプロジェクトの一員となった。夢が叶ったのだ――ずっと背中を追い続けていた彩乃のそばで研究ができる。憧れの人の隣で研究ができるのだ。


 トロイメライプロジェクトは着々と進んでゆく。他の企業とも連携を取りたかったが、まだ至らない点が多い領域なので、チームが単独で研究を続けてゆくこととなった。

 トロイメライの真骨頂は、肉体と一体化できることだ。肉体に装着されたトロイメライは人工細胞で覆われており、人間の遺伝子を読み取ることでクローン細胞へと変わる。即ち、義体として使用し続ければ、数年後には義体が徐々に生身の肉体へと変化を遂げる。まさに医療革命である。

 狂気の世界で研究を続けた者たちの叡智が、世界の笑顔を増やしたことは言うまでもない。

 世界に貢献できる。最初、詩織はそう思っていた。
 そんな矢先、彩乃はMAMIYAから他の研究施設に移ることになった。

「医療支援のプロジェクトとは別に、もう一つのプロジェクトが平行で行われていた。水無月先生はそちらのプロジェクトを優先することになった。医療支援プロジェクトから水無月先生が外れたために、その代役を任されていたから、そちらに参加することができなかった」

 MAMIYAに残された詩織は沙々良たちと連携し、彩乃の残した功績であるトロイメライの電気信号伝達義体の研究に着手した。彩乃の意思を受け継ぎ、世界に発信した。

 時を改め、詩織は彩乃からエーテルポットのデータ分析を任されるようになる。
 他人の体力を別の患者に移すことができる画期的な装置、エーテルポットの開発。学会で発表すれば再び世界中が引っくり返るだろう。

 傷ついた患者に頭脳を以ってして手を差し伸べる――正真正銘、水無月彩乃は天才だった。

 だが今回、エーテルポットの研究が引き金となり、多くの事件が起ってしまった。


 想夜は疑問に思う。
「あのぉ、彩乃さんが就いたもう一つのプロジェクトってなんだったんですか?」
「知らなくてもいいことよ。もう凍結したことだから」
 想夜に指摘され、詩織は口をつぐんで考える素振りを見せた後、ふたたび語り始めた。

 別れは突然やってくるものだ。彩乃がシュベスタに移ることになったのは、トロイメライ開発中のこの時期だった。

 なにか想うところがあったのだろう――MAMIYAを去った彩乃の行く先、もう一つの道。それがシュベスタだった。

 シュベスタは独自の研究、即ち、妖精実験を再開させていた。
 人体に数値化された妖精の遺伝子を人体で使えるように培養し、それを埋め込む技術。これが実現すれば、人体がかかえる問題の大半が解決する。
 妖精の組織の一部には万能組織が備わっている。それを利用する技術だ。副作用も格段に少ない。
 ヘローワークが医者と薬剤師で埋め尽くされそうな話。

 けれど、いい話には裏があるものだ。その時ばかりは被験者を募ることは極めて困難だった。
 議論の末、極秘で妖精のデータを含んだ人間を作成し、コンピュータシミュレートするといった無難な計画が進行する。先にシミュレートしたデータを作成しておけば、今後の細胞培養がスムーズにいくはずだった。

 彩乃がいたシュベスタでは、ハイヤースペックの原動力であるエーテルを蓄えるバッテリー装置、エーテルポットの作成に着手していた。


 その試用運転に一役買っていたのが、吸集の儀式である。


 シュベスタ研究所において。
 吸集の儀式を用いてエーテルポットに蓄えたエーテル。それを人間の体に流す計画が打ち出される。

 媒体作成には大量のエーテルが必要だった。
 だが、何度ものコンピュータシミュレートの結果はどれも無残で、実験は思うように進まなかった。

 軽量化したエーテルポットを被験者の大脳に埋め込むことも考慮されたが、脳神経に多大な負荷がかかり脳波が乱れる。ニューロンを伝う電気信号に強烈なスパイクウェイヴを発生させてしまうのだ。つまるところ、日常の行動に影響を及ぼしてしまうわけである。

 妖精を必要としないハイヤースペクターなど、作成不可能だった。

 そこで彩乃はあることを提案、ふたたびコンピュータシミュレーションで実行に移した。するとどうだろう、コンピュータが打ち出した答えは、彩乃たちを笑顔に導いてくれたのだ。エーテルポットの構造を人工細胞に変換させる技術は、細胞自体がバッテリーの役割を果たし、不必要なエーテルは体外に排出され自然へと解放される。人体への負荷もかからない非常に画期的な設計となっていた。すなわち、体内でエーテルコントロールができる生命体の作成である。

 そうして考案されたのがハイブリッドタイプのハイヤースペクター――妖精を必要とせずにハイヤースペックを発動させる人間の作成だ。


 病気や怪我などの患者であふれる病院施設の未来図が一気に崩れた。ましてや、彩乃は自分たちで作り上げたトロイメライまでをも超える領域に進んでゆく。

 水無月彩乃は天才を通り越し、神へと変貌を遂げようとしていた。

 本格的に実験は進み、コンピュータシミュレーションから、人体を使った実験に移行する。いわゆる人体実験だ。

 突然の出来事はやってくる――ある日、実験は凍結され、シュベスタのプロジェクトは解散した。被験者の成長にエラーが生じたためだ。成長にいちじるしい発達障害が見られたのだ。
 コンピュータシミュレートでは問題なくとも、運命は彩乃たちの研究を受け入れてはくれなかった。
 シュベスタには不完全なエーテルポットのみが残った。

 ――実験は失敗に終わった。


 なぜ彩乃は、そうまでしてシュベスタへの道を選んだのか?

 当時の詩織にはそれを聞くことができなかった。彩乃の心の奥に触れるのが怖かったからだ。嫌われたくなかったのだ。ましてや自分が愛するものの力になりたいと願い、相手の心にずかずかと踏み込んでゆく行為を優しさだなんていうのは、厚かましいにもほどがある。そんなのはただの身勝手な考えだ。

 プロジェクト凍結後、彩乃はシュベスタを去り、行くあてをなくした頃、昔から親交の深かった鈴道にMAMIYAに戻るよう声をかけられた。

 MAMIYAに戻った彩乃だったが、当初は出戻りだの裏切り者だのと異端児扱いされる日々が続いた。それはそれは惨い日々。それでも持ち前の大らかな人柄と研究者としての能力を認められ、人望をここまで伸ばしていった。


 ――さて、シュベスタでの研究を終えた彩乃がMAMIYAに戻ってきたわけだが、この時すでに詩織はラテリアと遭遇していた。つまりハイヤースペックを兼ね備えたスペクターとなっていたのだ。

 行くあてのない子供を警察につれてゆこうにも、ラテリアが嫌がる。
 詩織はしばらく面倒をみることにした。

 詩織は実家を出てから1人暮らし。独りゴハンにも飽きていた。
 子供の面倒を見るのは好きだ。やってみると案外向いていることに我ながら驚いた。

 談笑――調味料以外の味付けがあることを知ってからは、ラテリアと食卓を囲むのが楽しくなった。

 エーテルポットが完全なものとなれば、衰弱した人体への栄養補給ができる。彩乃の頭脳の成果を眠らせるわけにはいかない。
 現在の仕様だとエーテルポットは不完全だ。詩織は自ら買って出たエーテルポットの仕様書作成の傍ら、家で待っている子供の面倒も見る日々が続いた。


 やがて詩織は、自分の体の異変に気づく。
 異能を所有した己の肉体。どう振舞えばいいのかわからない。ましてや兵器に使用するなど考えもしなかった。

 彩乃に相談しよう。そう決めたあの日――事件は起った。

 エーテルポットの仕様書を作成しなければ、今頃はどうなっていただろう?

 コーヒーに手を伸ばさなければ、今頃はどうなっていただろう?

 そんなことを考えるのはナンセンス。だってこれは通るべき道なのだから。起るべくして起こっていることなのだから。
 ifの世界を語る時間は、ここではいらない。

 困難はあったけれど、詩織とラテリアはこうして無事でいる。


 詩織はラテリアを抱き寄せた。

「――だからね、私の役目はここでおしまい」

 そう言って、詩織はすすり泣くラテリアの顔をそっと抱き寄せた。
「詩織とは一緒にゴハン食べられないの?」
「ええ。もう一緒にはいられないの。おっかない人達が来ちゃうから、ね」
「……いや、詩織といる」

 こぼれる涙はひとときの別れの証。大丈夫さ、また食卓を囲める時は来る。最高の調味料は、その時までとっておけばいい。お腹が空けば空くほど美味しくなる。

「泣かないで……女はいつでも笑顔でいなきゃ」

 女にとって涙はジョーカー、枚数は限られている。だからこそ隠しておくのだ。そして最後の最後でテーブルに叩きつけてやればいい。
 いざという日のために――。

 ラテリアをギュッと抱きしめながら、詩織は涙でクシャクシャになった顔を必死で隠した。言った本人がこれじゃあ、示しがつかないね――と、顔をラテリアの肩に埋めた。

 彩乃がMAMIYA去って寂しかったこと。シュベスタから戻ってきてくれたことが嬉しかったこと。詩織にとって彩乃はスーパーヒロインなのだ。想夜が御殿やディアナを慕うのと同じように。

 ラテリアとの食事が美味しかったのは、きっと楽しいという調味料が効いていたからだ。みんなと一緒に食べる食事のように――想夜の中で詩織の気持ちが芽吹いていた。


 ラテリアは愛宮邸で引き取ることになった。見かねた華生が申し出たのだ。同じ種族、同じ境遇、通じるものがあったのだろう。妖精界に戻しても、また厄介なことに巻き込まれるのは目に見えている。ラテリアには、ここが安全なのだ。


 任務を終えた御殿は、狐姫よりも一足先にほわいとはうすへ帰った。明日になればいつものように、みな学校で会えるだろう。

 詩織が愛宮邸を出てからすぐのこと。狐姫は彩乃に聞きたいことがあるらしく、愛宮邸に残った。


妄想戦士 小安くん


 昨晩、妙な夢を見た。
 なに? 教えてほしいか、よし教えよう、こんな夢だ。

 隣に黒髪ロングストレートの女が笑顔で立っている。多分、嫁さんだ。
 顔は……どこかで見たことあるオスマシ系クールビューティー。普段は感情を表に出さい女だったと思う。それがどういうことか、ありったけの笑顔を子供たちに向けているではないか。なんつーか、洗い立てのシーツの香りが漂ってきそうだ。

 嫁の手元には赤ん坊――空色の髪の毛を頭のてっぺんで筆のように立たせ、それをピンクのリボンで結んでいる。大きい瞳がキラキラしていて、おしゃぶりなんかもくわえている……愛らしい。ちょんまげリボン、愛らしい。

 一方、俺も赤ちゃんを抱いていた。こちらは長いブロンドが4本に分かれた赤ん坊だ。ジト目で愛想の無い顔、俺が顔を近づけようもんならケリが飛んできそうな威嚇っぷり。俺に向けられる軽蔑の眼差しは、まるで変態を見下している目。でもっておしゃぶりなんかもしている。やっぱり愛らしい……が! なんということだろう、やっぱ俺に似てない。ちっとも似てない。

 隣の嫁さんが赤ちゃんに笑顔を向けて言う。
『ほ~ら、2人とも、メガネのパパでちゅよ~』
 と。

 おい、信じられるか? 「パパ」だってよ。
 男がパトロン以外のパパになるには色々やることあるだろ。ほら、アレとかアレとか。
 いろんな事をすっ飛ばして、いきなりパパになっちゃったよ俺。

 いやいやいやいや、2人とも俺に似てないだろ。そもそも嫁さんにも似てないだろ。てか、それって誰の子だよ! まさか捨て子じゃないだろうな? 誘拐とかしてないよな? めんどうはゴメンだぜ……。

 俺と黒髪ロングの周りを、ヘアバンドの少女とメイド服の少女がキャッキャと走り回っている。
 俺、こんなに子だくさんだっけ?
 そもそも結婚してたっけ?

「――ふむ。そろそろ身を固めろという神様のお告げだろうか? ……だが! 神など信じない! 断じて認めん!」
 くわっ。何度も壁に頭を打ち付けて雑念を振り払った。
 妄想乙。


 犠牲者が出なかったことは奇跡なのか、それとも護衛の実力か。

 重役の護衛は御殿の任務ではないが、皆と力を合わせて守り抜いた功績は高く評価された。
 生徒の犠牲者はゼロだったことにも胸を撫で下ろす。心なしか、暴魔がエサを選んでいたようにも思えた。人間を片っ端から食い散らかす連中にはあり得ないことだが。まるで論理的思考を持った生き物にも見えた。
 疑問が募るも、解決には至らず。

 御殿が帰り仕度を済ませて叶子の部屋を出た時だ。
「おい、咲羅真御殿――」
 背中に男の声がかかった。
 御殿は立ち止まり、振り返る。
「小安班長」
 御殿の視線の行く先に、腕を組んで壁にもたれかかっている男の姿がある。
 長身に鍛え上げられた肉体。他人が見れば、小安と向かい合う御殿はどう見ても華奢な女性だ。
 強靭な肉体の小安とはいえど、凶暴な妖精を相手に立ち振る舞ったのだ。早く仕事切り上げて熱いシャワーでも浴びたいところだろう。それともキツイ一杯が先だろうか? 大人の楽しみは人それぞれ。

「もう帰るのか?」
「ええ。今日の任務は完了しましたので、これで失礼します」
「そ、そうか」

 小安の沈んだ顔。
 もちろん鈍感な御殿には気持ちの行く先など分からない。せいぜい疲労感が顔に出ているくらいに受け取っている。

「今日はこれで失礼します」
 ペコリ。御殿は深く会釈をすると、余計な雑談もなく小安の横を通り過ぎてゆく。今日すべきことは終わった。早く帰って夕食の準備だ。

 そんな御殿の態度が小安には素っ気無い態度に映ったかもしれない。けれど御殿は御殿で忙しい。食事の準備以外にも報告書の作成もあったりで大変なのだ。
 本当のところは、ちょっと遅い夕飯の支度をしなきゃならないので、急いでいるところだったりする。もうお腹ペコペコ。かといってパーティーのオードブルに手を出すのはしたなく思えた。お預けを食らった番犬がここにいる。

「ち、ちょっと待て」

 小安が御殿に近づいてきた。天井を見上げ、目線は明後日の方角。
「……なんでございましょう?」
「その、なんて言うか……このあいだは、胸倉を掴んだりして……失礼なことをした」
 と、照れ隠しに頭なんかをかいたりしてる。

 それを聞いて御殿は思い出した。愛宮邸での出来事。御殿の胸倉を掴んで、いきなり説教かましてきた時のこと。先ほども想夜にセクハラコンボをかましていたようだったが。13歳の少女相手に暴言を5コンボくらい決めていたハズだ。いつも失礼なことをしているような気がするのは御殿の気のせいだろうか。
 でも、そこは大人の対応。御殿に落ち度があったのは事実なのだから。

「――いえ、わたくしに責任がございます。小安班長の言葉は当然だと思います」
 御殿が防弾コルセットを外していたのが気になったのだろう。小安はチラリチラリと腰回りを見ている。
 御殿はずっと装備したまま戦場を切り抜けてきたのだから、他人にとやかく言われる筋合いはない。小安は御殿の飼い主ではないのだから、叶子の件で頭に血が上っていたとはいえ、戦闘スタイルを強要するのはやり過ぎだ。そのことに関して小安は「言い過ぎた」と重く受け止めている。
 己の過ちを認める男。いさぎのよい男。

 小安自身、どうして咲羅真御殿をここまで気にするのか困惑していた。装備を軽量化させたのは小安の言葉もあるだろう。御殿に何かあったらと思うと気が気ではない。隊員の安否を気遣うのも小安の努め。人の上に立つ者は、広い視野も持ってなければならない。

「では、わたくしはこれで――」
 小安は去り行く御殿をふたたび言葉で引きとめた。
「お、怒ってるのか?」
 御殿が立ち止まり、ロングをなびかせ振り返る。
「別に怒ってませんけど」
 挙動不審な男を前に、御殿はキョトンと首をかしげた。
「では失礼しま――」
「ま、待て」
「まだ何か?」
 はよ帰って晩ゴハンを作らねば狐姫の罵声が飛んでくる。相方の罰ゲームはシビアだ。先日だってコンビニで……いや、これに関しては、もはや何も語るまい。

 小安はもごもごと口の中に言葉を溜め込んでいる。

「つまりだな、その……」
「はい」
「体、痛むか?」
「ええ、少し……一応、普通の肉体ですので」
「手当てなら手伝うぞ」
 と言ったあとに後悔するメガネ野郎――俺はなんという破廉恥な下衆野郎に成り下がってしまったのだ、と拳を太股に叩きつけんばかりに堪える。
 はい、セクハラセクハラ。

 御殿は顔面を蒼白にしながら引いた。
「い、いえ。自分で手当てできますから……」
「だ、だろうな~。そんな感じするもんな。なんていうか、場慣れしてるっていうか……包帯巻くのが似合いそうだもんな~」
 小安の目が泳ぐ。

 なにを想像しているのか教えてやろう。この男、ナース服がはだけた御殿の白い肌を想像している最中だ。「は、班長おお~。御殿にそんなお注射しないでくださぁ~いっ」とか、泣きっ面で悶えている御殿を想像している。

「???」
 御殿が不思議そうに小安の顔を覗き込むと、小安は何事もなかったように声をあげた。
「よーし、せっかくだ! 送っていこう!」
 おい小安、声が裏返ってないか? 「結構ですよ。歩いて帰れる距離ですし……」

 困り顔の御殿に小安の容赦ない追撃が始まる。

「いや、道端の小石で転んだら大変だ。膝とか擦りむいたら痛いだろう。骨折! 骨折とか痛いよな~。アレは腫れと痺れが同時に来るからなあ~」
「まあ、痛いと思いますが……」
「痛くてワンワン泣くだろう?」
「泣きません」

 ジリジリと迫る小安。

 壁際に追い詰められた御殿は上目遣いで小安を見上げ、視線をそらして縮こまる。押しに弱いらしく、あげくには背中の壁に邪魔されて逃げ場を失ってしまう。
 さらに壁にもたれかかった御殿の頭上を小安の腕が屋根のようにさえぎる。
 はいきた、壁ドーン。

 御殿は一瞬だけピクリと肩を震わせると小安を見上げた。

 困った顔が御殿の本音。いつも気丈に振舞っているが、それだと神経が張り詰めてしまう。自分で稼いで食べていかなくてはならない。エサにありつけなければ野垂れ死に。気持ちはいつも不安が付きまとっている。

 仕事中のメイド達が御殿と小安を見てクスクスと笑っている。もう見世物としか思えない光景。恥ずかしい。なにこれ、何の罰ゲーム? 御殿はふたたび目をそらした。

 しかも小安はまったく周囲の視線に気づいてない。それどころか責めの一手を打った。
「ああ、あれだ。一杯飲むか? いい店があるんだ。ピアノの音色が綺麗な――」
「み、未成年ですから……」
「……そうだっけ?」
 忘れてた。

 いやいや、ここで引き下がれば男が廃るってもんだ。いけ! いくんだ小安! ぐいぐい攻めろ!!

「オレンジジュース! オレンジジュースがおいしいぞ。なんてったって果汁500%だからな!」
 なに言ってんだコイツ? とか言われてもいい! ガンガン行け! 相手は小娘だ! 前から! 後ろから! 上へ下へ! 突いて突いて突きまくれ!

「それ本当にジュースですか? 果汁のパーセンテージがおかしいですよ。無茶な製造工程の還元ジュースじゃないですか?」
「アホ抜かせ! ビタミンたっぷりだぞ~」
 御殿が顔を背け、怪しいセールスマンを見るような目を向けている。

 還元ジュースは火を通しているのでビタミンが死んでしまい、ほとんど摂取できない。これ豆知識な。

 しかし、料理スキーにはどんなジュースなのか気になるところ。ドロッドロの液体が出てきたら嫌だけど。

 ここで小安が大げさな咳払い。
「ウオッッッホン! ところで……赤ちゃんって、可愛いよな」
 キリッ。
 フレームの隙間から鋭い目線。

 御殿の思考が乱れ始めた。無理に内容を捻じ曲げられたからだろう、頭の上に?マークが陳列する。目の前の男には会話の流れがない。もう支離滅裂。

「なんていうか、その……つぶらな瞳のちょんまげリボンの女の子とか、目つきが悪い金髪の子とか……か、可愛い……よな?」
 よせ、相手は未成年だぞ!(小安の天使心)
 イケ! イケって! (小安の悪魔心)
「ちょんまげで目つきが悪い……侍ですか?」
「ヘアバンドが似合う子供とか、メイド服が似合う子供も……可愛い、よな」
 もう押し倒しちゃえよ。廊下でもどこでもいいからさ、いけ! そこでひん剥け! オッパイぽろり! ポロリもあるよ、ポロリもあるよ!(小安の悪魔心)
 ピーポーピーポー。ウーウー! (小安の天使心)
「ヘアバンドをした目つきの悪いメイド侍……が、いたんですか?」
「そんなヤツいねーよ」
 少し離れた場所、ヘアバンドをした目つきの悪いメイド侍の男が歩いて行くのを御殿は見逃さなかった。仲良くちょんまげリボンの武士と喋りながら去ってゆく。まるで江戸時代からタイムスリップしてきたかのようだ。

 アングラにはいろんな人がいるものだ。愛宮邸、恐るべし。

 御殿と小安。煮え切らない会話が成立しないまま、時間だけが過ぎていった。

「――用事ありますから、失礼します」
「お、おう」
 御殿は一礼して去っていった。

 チッ、根性ねーな。人間辞めてハゲちまえ! (小安の天使と悪魔の心)
「さっきからステレオうるさい、ハゲるかボケ!」
 小安、乙。
 

……似てないわよ


 騒動が一段落した後、愛宮邸に残った想夜は、彩乃のいる部屋で掃除の手伝いをしていた。戦闘後でも働き者である。

 いつの間にか、外は本降りになっていた。

 追い討ちの稲光。
 テラスの出窓を大粒の強い雨がノックしてくる。
 激しい音を立てては、彩乃の心を煽ってくる。
 稲光を唸らせては、彩乃を脅迫してくる。過去からは逃げられないぞ、と。

 先の戦闘で、部屋にはいろんなものが散乱していた。
 と、そこへ小さな影が入ってきた。

「――水無月先生」

 片付けに没頭する彩乃の背中に声がかかる。
 彩乃と想夜が振り向くと、入り口付近に狐姫がもたれかかっているのが見えた。
「あ、狐姫ちゃん」
「あら狐姫さん、まだ残っていたの?」

 狐姫がゆっくりと彩乃に近づいてくる。

「覚えててくれたんだ?」
「そりゃあね、御殿さんの相方だもの。この間、しつこくしちゃったこともあるし……」
 先日の御殿の件のことだ。いろいろしつこく聞きまくってたっけ。
 彩乃は苦笑しつつ反省している。
「気にしなくていいよ」

 狐姫は彩乃の目の前で、モゴモゴと口を開いた。
「あの、水無月先生……ちょっと、御殿のことで聞きたい事、あんだけど……」
「御殿さんのこと? 狐姫さんのほうが詳しいんじゃない? いつも一緒にいるんでしょ?」
 お友達なんだから、と大人の笑顔を返してくる。

 ほら、それ。わざとらしく無理に作ってる笑顔――狐姫はそれが気に入らない。はぐらかされているようで、子供扱いされているようで、内心、狐姫は少しイラついていた。

「水無月先生、そういう茶番はいらないんだっ」

 狐姫は声を荒げた。そういうところが子供。でも、そういうところは素直。
 狐姫の声にビックリした想夜はもちろん、片付け最中の彩乃の手がピタリと止まった。
「ど、どうしたの、狐姫さん?」
 狐姫は波立つ心情を押さえ込んで口をつぐんだ。
「いや……悪りぃ、ごめんなさい。今の、無し」
 彩乃はドモる狐姫に微笑んだ。
「気にしないで。職場ではしょっちゅうよ?」
 大人の世界も大変だ。
「あたし、廊下にいるね」
 想夜が気をきかせて部屋を出ようとするが、狐姫は少し考えてから「いや、ここにいて構わない」と、引き止めた。
 想夜は大切な仲間だから、そばにいてほしかった。

 それほど重大なことを、これから聞き出そうとしてる。


「なあに? 御殿さんについて聞きたいことって」
 彩乃は他人事のように振舞い、破れたシーツを折りたたんでいる。
 そんな女優の演技が、次の言葉で止まるということを狐姫は想像していた。

「咲羅真御殿。アイツ……何者なの?」

 ほらな。やっぱり止まった――硬直した彩乃を見ては、そう思う狐姫。

 想夜は何のことを話しているのか分からずに、ただ呆然としているだけだ。

 続けて質問を繰り返す。
「御殿は何者なんだ? どこから来た? 誰なんだ?」
「え!?」
 驚いたのは想夜だった。だってパートナーの素性を知らないなんてありえないでしょ? 一番近しい間柄だと思っていた狐姫でさえ、実は御殿のことを何も知らないのだから。
 意外な事実。いつも御殿のそばにいる狐姫だから、相方のことを何でも知っている、というわけではないようだ。

「俺、アイツとはじめて逢ったのって、今年のはじめなんだ」

「今年!?」
 想夜はひどく驚いた。相方だから、てっきり昔ながらの縁で結ばれていると思ったのだ。
 聞くに、御殿と狐姫が出逢ってから、4ヶ月ほどしか経っていない。2人の時間はその程度の年月だけだ。だから狐姫は、御殿の過去をほとんど知らない。

 彩乃は黙ってうつむく。狐姫も想夜もその心境はわからない。

 しばらくしてから彩乃は、力ない笑顔を狐姫のほうに顔を向けた。
「どうして……そんなことを聞くの?」
「だって……そっくりじゃん。先生と御殿」

 実は想夜も同じことを考えていた。あのお日様の香り、温もり――御殿と彩乃はよく似てる。研究所ではじめて彩乃と出逢った時に感じた違和感の正体はこれだった。

 彩乃は沈黙した。
 しばらく経つと、か細い声でこう答えてきた――
「……似てないわよ」
 と。

 狐姫は身を乗り出すように訴えはじめた。
「似てるよ。何かを考える時に黙ってうつむく仕草とか、無理に笑うぎこちない表情とか……まるで十字架を背負っているような、罪悪感が作りだす遠慮がちな笑顔とかも、瓜二つだ」
「……よく見ているのね」
「いちおう相方だからな。でも分からないんだ。御殿の年齢からして、水無月先生との親子関係は考え難い。御殿の母親なら、先生はそんなに若くないだろ? 御殿はどう見ても10代後半から20歳前後だ。俺もアイツの正確な年齢は知らないけど」
 姉妹なの? 狐姫が言いかけた時だった。

「お腹がね、痛むのよ。ちょうど、この……子宮のあたりが、ね」
 そう言って、彩乃は両手をそっとお腹に添えた。

 MAMIYA研究所でもプライベートでも、頻繁に腹部をさすっている姿が目撃されている。そのことを狐姫は調べていた。

 御殿とそっくりな水無月彩乃を不思議に思う狐姫――彼女には、何かただならぬ事情があると思った。もし、何らかの血縁関係があるのなら、ほっとくわけにもいかない。余計な首を突っ込んででも、なにかしてやりたいと相方は行動に移したのだ。

 やがて彩乃は何かを諦めたかのように、狐姫の肩にそっと手を置いた。
 狐姫は彩乃に促されるまま、一緒のソファに腰を下ろした。

 続いて彩乃は想夜を見ながら、ソファの空いている場所を手でポンポン……とやる。
 想夜もそこへ座った。

 子供たちに絵本を読んであげるみたく、彩乃は2人に挟まれ、むかし話を始めた。


「4年半前にね……、子供が出来たの」



「――え!?」
「赤ちゃん……生んでたのか?」
 想夜と狐姫の横で彩乃はゆっくりと首を左右する。

「いいえ。卵子を取り出して、それに精子を入れて受精させた。精子は私の遺伝子から作り上げたものよ。子供の肉体は培養カプセルの中で管理されていた」

 女の遺伝子だけで人間は作れる。何年も前から医療はそこまで進歩している。

「培養? まさか、その子供って――」
 彩乃は、コクリ……。ゆっくりと頷いた。


「ええ、あの子は……、
 咲羅真御殿さんは、正真正銘、
 私の子供――」



「御殿センパイが彩乃さんの……子供!?」
「じゃあ御殿の性別も知っているの?」
「あの子は男の子よ」

 もはや疑うことが難しくなってきた。想夜と狐姫は彩乃の話に耳を傾けた。

「最初は女の子として生まれてくる予定だった。けれど、染色体の不安定要素が多くてね、それで肉体の性別が定まらなくなってしまった」
 結果、御殿の体は男女の要素を兼ね備えた状態に陥った。それが科学の副作用だ。

 彩乃は話を進めた。
「私の知らないところで子供は受精された。卵子を冷凍保存しておいたのだから、いつか出逢う子供のことを望んでいたわ。ただ、その受精卵のデータに少しだけ別のデータを上書き修正することで、子供は別の固体へと生まれ変わっていった」
「別の……固体?」

 狐姫は息を呑んだ。彩乃の口から出てきた言葉に驚愕したからだ。

「華生さんが持っていたデータは、ディルファーという妖精から取り出した一部だった」
「まさか、ディルファーのデータが……御殿センパイの中に!?」
 想夜は愕然とした。


 そう。それがもう一つの……ディルファープロジェクト――。


「その研究って、コンピュータシミュレーションだけで終わったんじゃないんですか!?」
 彩乃は首を左右に振った。
「いいえ。そのプロジェクトは、進行していたの」
「御殿センパイの中に……ディルファーが……」

 膨大なディルファーのデータは8つのプログラムに分けられた。
 人間にも受け入れやすいように数値化されていたので時間はかからなかった。
 シュベスタは、そのデータを8人の人間に組み込む計画を進行した。

 データは生きた人間に。また、別のデータはまだ生を受けていない受精卵に組み込むプロジェクト。そうやって作り出される予定だった生命体がある。

「ディルファーのデータを人間に埋め込むプロジェクト……だと?」
 狐姫が声をもらす。彩乃が何のことを話しているのかは分からない。が、ただ事ではない事態になっているのは明らかだった。

 その生命体は妖精を介さずしてハイヤースペックを発動させることができる、いわばハイブリッドタイプの戦闘マシーン。
 プロジェクトはすでに製作段階を突破していたのだ。

「ハイブリッド、タイプ……」
 いま聞いた単語に、今度は想夜が声をもらす。もはや人間のやっていることについて行けてない。
 人間の頭脳と思想に恐怖を覚える妖精の姿がそこにはあった。


 シュベスタはこれを極秘プロジェクトとした。

 極秘プロジェクトは全部で8回行われる予定だった。
 彩乃が関ったのは第一号。最初のハイブリッド生命体。

「彩乃さんがシュベスタに移った理由って、ひょっとして――」
「御殿を育てるためだったのか!?」
 想夜と狐姫の問いかけに、彩乃はゆっくりと首を縦にふり、遠くを見つめながら言う。

「最初の一人に選ばれたのが……私の子供だった」
 それが約4年半前の出来事だ。

「つまり、御殿は今……」
 彩乃がうなずいた。
「ええ。あの子の生存時間は日本標準時の計算上、4歳と5ヶ月くらいね」
「……は?」
「御殿センパイが……たったの4歳?」

 狐姫の頭が真っ白になり、視界が回る。我に返ったころには、複数の嫌な考えが波のように襲ってくる。

「じゃあ、アイツの子供時代っていつなんだ? 学校にも通ってないのか? 戦闘以外の思い出すらないのか?」
 実家は? 家族は? 本籍は? 部活は? 責めるように問いただす狐姫の声。

 今度は彩乃が苛立たしさを見せた。
「わからない! わからないけれど、あの子にも子供時代があったの! 私、この手で育てたの! ちゃんと子供時代が、あったの……」
 震える両手を見つめては、そこに走馬灯を描き出す。そうしてポツリ、またポツリと彩乃は、とある街で起った事件を打ち明けた。

 炎の波に包まれた街。かつて、そんな街が存在していた――。


 狐姫は口をつぐんだまま聞き入り、それっきり口を開くことは無かった。その後、黙って部屋を後にした。

 狐姫は思う。本当は誰かにそばにいて欲しかった。不安という虫に食われた心の隙間を誰かに塞いでほしかった。

 華生に手渡したエーテルリバティは彩乃の手に渡った。華生曰く、そのほうが都合がいいとのこと。
 かつてはMAMIYAに謀られた華生の信頼までも得ているのだから、彩乃はやはり『せい』なのだろう。

 足早に進んでゆく家路の途中、狐姫の頬に冷たい感覚。
 見上げた夜空は無情にも雨という形となって、狐姫の視線を退けた。
 

女王メイヴ


 部屋には想夜と彩乃の2人きり。沈黙が続いていた。

 御殿の過去を聞かされた想夜は複雑な心境だった。なぜなら御殿の中にはディルファーの一部がいるのだから。
 それでも、ちょっとホッとするのだ。心のどこかで御殿に妖精の血が流れているという親近感が湧いたから。不謹慎だけど、それが本音だった。


 無言が空間を支配する中、想夜も部屋をあとにする。
「あ、あたしも今日は帰ろうかな。もう遅いし。また寮長にジャーマンスープレックスされちゃう」
 てへへ、と笑って扉に向かう時、ふと疑問がわいて振り返る。
「彩乃さん、問題がなければ、失踪した研究員の名前を教えてもらえますか?」

 女の感。いや、野生の感だろうか? 想夜はどうしてもそれが気になっていた。

 彩乃はあっさりと答えた。
「関わった多くの人の消息が途絶えた。主要メンバーの2人のうち、1人は分からない。会った事がないの。他のメンバーも会ってないみたい。場合によってはもうこの世には――」
 彩乃が口をつぐんだが、すぐに口を開いた。
「もう1人は――」
 彩乃が言いかけた時だった。

「相変わらずお喋りな女だな、水無月主任――」

 想夜の背中から声が響いた。
 その声を聞いた途端、想夜だけじゃなく、彩乃までもが凍りついたように固まった。声自体が氷のように冷たかったのだ。

 想夜のすぐ後ろに声の持ち主はいる。けれど想夜は、背筋が凍りついたように固まって動けなかった。

 彩乃はその人物を見るなり、目をカッと見開いた。
「あなたは……湖南鳩 冥舞こなはと めいぶ!?」

「冥舞? 冥舞って……」
 想夜やっとの思いで首を捻る。

 想夜のすぐ後ろ、たった数センチ後ろに湖南鳩冥舞と呼ばれる長身の女性は立っていた。

「――いつの間に!」
 気配はなかった。想夜が全身で振り向いた瞬間――

 ドスッ!

 鈍い音とともに胸のあたりに衝撃が走り、想夜の全身を大きく揺らす!
「あ……がっ……」
「想夜さん!!」
 一瞬だけうめき声をあげた想夜はポカンと口を開いたまま、痛みの走る胸を見下ろす。
 胸に何かが食い込んでいるのが見える。

(……手刀)

 女の手刀が想夜の胸に刺さっていた。

 想夜が顔を上げると、自分よりも遥かに長身の女性がそこにいる。

 黒いドレスに包まれた女――床近くまで伸びた赤茶色の髪は黒ずんだ血の色にも見える。ほっそりとして、グラマラスで、外国人モデルのような体型。ドレスの襟が胸元まで抜いてあり、肩が露になっている作り。まるで花魁を思わせる着こなしっぷり。

 頭が高いと言わんばかりに、想夜のことを冷たい眼差しで見下してくるではないか。

 ズバッ!

「うあっ!?」
 手刀を引き抜かれた反動で、想夜は前につんのめり、そのまま床に膝をついた。
「あ……っ、あ……っ」

(刺された! 刺された! あたし死んじゃう!)

 パニックに陥る想夜が両手で胸を摩る。
 血は出ていない。
 ホッとする。
 痛みもない。
 胸を撫で下ろす。
 そんな一瞬の出来事の中、想夜の脳が忙しくなる。
(幻覚だったの!?)
 いや違う。胸を貫かれた時に痛みはあった、はずだ。

 なにが起ったの!?
 なにが起ったの!?
 なにが起ったの!?
 なにが起ったの!?

 なにが起ったのかわからないまま、想夜はその場にペタリと座り込んだ。

(冥舞……、冥舞……、どこかで聞いたことある名前、……まさか――)

 想夜の頭がグルングルン回る。情けない格好。両膝をハの字に曲げてちょこんと女の子座り。マヌケ面でゆっくりと上を見上げる。
 そうして気づくのだ。

「まさか……女王、メイヴ? あの女王メイヴ!?」
 想夜がその名を口にした瞬間、メイヴに胸倉をつかまれて引き上げられた。
「うぐ……っ」
 クレーンで吊り上げられた人形のように、想夜の体が簡単に宙に浮かぶ。

 ヘソを出し、足をバタつかせ、必死になってメイヴの腕を掴んで剥がそうとするも、とうてい力が及ばない。

 想夜のオテンバ過ぎるところが気に入らなかったのだろう。メイヴは空いた片方の手で想夜の頬を強くつねった。
「低級バランサーが気安くワタシの名前を口にするなど片腹痛い。悪い子は……おしおきしなきゃ、ね」

 ギュウウウウウッ。

「痛い! 痛ったぁ……!!」
 足をバタつかせ、涙を浮かべてあえぐ想夜の顔に、メイヴはグッと顔を近づけた。
「MAMIYAで鹿山女史に入れたケリ。なかなか面白かったぞ」
(MAMIYAでのケリ……まさか!?)

 MAMIYA研究所に侵入した夜――あの時、想夜と詩織の戦いをコイツは見ていたのだ! 監視されてると感じたのは気のせいなんかじゃなかった。苦痛に悶えながら、やっとそのことに気づく。

 ――が、メイヴにとってはどうでもいいこと。ハエの蹴りを眺めているようなものである。
「でもまあ、ペットとして躾ければ従順な犬になるでしょう。あとで首輪を買ってやろう……大事にするんだぞ」
「う、ぐうぅぅ」
 ギュ~っとつねられた頬に激痛が走り、たまらず涙目から雫が落ちる。
 ジタバタと暴れる想夜の行動が、メイヴをよけいにイラつかせた。想夜めがけて手をふりあげ――

 パン! パン! パン!

 メイヴは想夜の両頬に往復ビンタの洗礼を浴びせる。
 唇を切り、想夜の口元が血で汚れる。
「やめて! もう充分でしょ!?」
 彩乃は想夜とメイヴの間に割って入り、カゴの中の小鳥を取り戻した。

 崩れ落ちる想夜の手前、彩乃が覆いかぶさる。

「水無月主任、またワタシの邪魔をするのか?」
 そして次の言葉を聞き、想夜は怒りに打ち震えた。

「貴方も愛宮鈴道と同じ道を歩みたいのか?」

「な、なんですって!?」
 声を発して顔を上げる想夜を睨みつけるメイヴ。彩乃をどけて、足元に転がる想夜の横っ面をグリグリと踏み潰す。
「黙れ低級妖精。汚いツラで高貴なワタシの顔を見るなど1000年早い」
 言った後でさらにイラついた表情を作る。

「低級妖精? いや、違うな。お前はただのゴミだったな。雪車町想夜――」

「うっ……ぐぅ……っ」
 弱すぎて話にならない、とでもいいたいのか。力の差を感じては、悔しさのあまり歯を食いしばる想夜。
(何もできない。何もできない――無力……無力)
 メイヴは想夜の髪を鷲づかみ、彩乃の体にぶつける。その反動で2人の体が吹き飛んだ。

 ボフッ。

 幸い、ベッドの上がクッションとなり、よけいなダメージは許された。

 メイヴが遠くのほうから語りかけてくる。
「愛宮邸――最後にここへ来たのはいつだっただろうか? 確か……愛宮鈴道が御託を吐いていた時だったな」
 そう言って自分の右腕を吟味する。手刀で鈴道の心臓をえぐった、とでも言いたいのだろうか。

 愛宮鈴道を殺害したのはメイヴなのか?
 想夜が恐怖した、その時だ。

「へえ。面白いことを聞かせてもらったわ――」

 メイヴの話を聞いていたのは想夜と彩乃だけではなかった。
 部屋の入り口に人影が2つ。
 ひとりはヘアバンド、腕を組んで壁にもたれている。
 もうひとりはメイド、すでに戦闘体勢、怒りまかせの赤く尖った目をメイヴに向けていた。

「叶ちゃん! 華生さん!」

 2人とも絆創膏に包帯まみれで虫の息。だって、あれだけの戦闘を切り抜けてきたのだから、本来ならば立っていることすら奇跡に近い。

 メイヴがニヤリと笑い、一歩出る。
「ほお。真菓龍まかろんのご令嬢ではないか。姫が家畜に成り下がったとは聞いていたが……これはまた、随分とみすぼらしい姿になったものだ」
 血みどろのメイド服を見下しては、メイヴがせせら笑う。

 華生はブレイドの矛先を怒り任せにメイヴに向けた。
「おだまりなさい! 貴方が起こした一連の悪行、ここで償っていただきます! お嬢様に、愛宮の方たちに、今すぐこの場で謝罪なさい!!」
 叶子と華生が呼吸をそろえた!

『アロウサル!』

 ハイヤースペックを発動させた2人が、ネイキッドブレイドを手にして斬り込んでいく!
「ふん、話にならん」
 ゆらり。メイヴの体が幽霊のように揺れた。と同時に、

 ドドッ!

 重い音が2回、部屋に響いた。

 メイヴの言うとおり、話にならない結果に終わる――あの叶子が、華生が。女王のたった一蹴りで、壁まで吹き飛ばされてしまったのだ。

 それも当然。先の戦いで体力が消耗しきっていた2人には、もう戦う力など残っていなかった。
 華生はそのままダウン、意識はあれど手足はピクリとも動かない。

 いっぽう叶子も、肉体の衰弱によりハイヤースペックが解けてしまう。ネイキッドブレイドがプリズムを残して消え、武器無き叶子は、もはや無力な少女そのものだった。
「くっ、よくも……よくも、おじいさまを――」
 くやしさのあまり歯を、唇を、力の限りかみ締め、絨毯に拳を這わせ、メイヴを睨みつけては這い上がろうとする。

 この湧き上がる怒りの衝動をどうやってメイヴにぶつければいいのだろう?
 叶子の目にじんわりと涙が浮かんでいた。方法が思いつかないのだ。
 それでも腕の力を緩めない。

 私は叶子、愛宮叶子だ……ここで立たなきゃ愛宮叶子じゃないでしょう。ここで立つのが、愛宮叶子でしょう――生まれたての子ヤギのように懇親の力を膝にこめるが、もう立ちあがる力さえ残っていなかった。

 メイヴは這いつくばった叶子に近づくと、豊満な膨らみを鷲づかみにし、後ろに押し倒した後、両手の自由を奪って身動きを封じた。
「くっ、なにをする!」
「ハイヤースペックが解けてからまだ時間が浅いな……どれ、お嬢様の”剣”とやらがどうなっているのか、小さくなる前に遊ばせてもらうか」

 女帝は叶子のドレスの中へ手を伸ばし、叶子のそれをまさぐり始めた。

「き、さま……」
「叶ちゃん、逃げて!」
 辱めを受ける叶子が足を閉じて必死にもがく。が、無駄な抵抗に終わる。
「ほお。愛宮のご令嬢はこういう形をしているのか。これはこれは、実に興味深いな。はははははっ」
「ん、うっ……んっ……やめ、て」
 頬を染め、屈辱に耐える叶子。
 スカートの中でなにをされているのか、妖精の異能を持つ想夜には明白だった。

 想夜の前で。
 彩乃の前で。
 華生の前で。
 叶子はしっとりと濡れた姿を強要された。

 もがいて、もがいて、もがき続けて――それでもメイヴの手からは逃れられない。ドレスの中の剣を弄ばれる叶子の瞳に、薄っすらと涙が滲んでは頬を伝う。

「はははははっ、見ているか真菓龍華生。貴様の大好きなお人形の潮吹きの時間だっ」
 横たわる華生にメイヴが叫ぶ。
「うぅ、お、嬢様……」
「うっ……ん……!」
 抵抗むなしく、叶子が力つきる。

 果てる叶子の姿を、ただただ見ていることしかできない華生――こんな状況でも許すことを選ぶのか。否、そこまでお人好しではない。でも、反撃する力もない。無力、無力、無力――。

 メイヴはニヤリと笑い、叶子のスカートから手を抜いた。指にからみついた糸がねっとりと滴り落ちるその光景を、白ワインを味わうかのように見つめては吟味する。

 メイヴは煽るように顔を上げる仕草のまま、横目で華生を見ている。
「ん? なんだ物欲しそうな顔をして。これが欲しいのか――」
 メイヴは叶子から搾取した純白の蜜を華生の顔に塗りたくり、さらには口の中に捻り込んだ。
「う……げほっ、お嬢……はま――」
 嗚咽を上げなら愛する人の名を掲げる華生。
「ははは。美味であろう。ご令嬢の白い蜜の味は――」

 とつぜん彩乃が突然叫んだ!
「想夜さん、待ちなさい!」
 想夜がベッドから飛び出し、メイヴの足元にしがみついて動きを封じに出たのだ。無論、意味無き弱者の行動。飼い主の足にじゃれつく子犬そのもの。けれど何かしなきゃ! そう思っての行動。

「やめて! もうやめて……お願い!」

 想夜が叫ぶ。訴える。叶子と同様、耐え難い苦痛を感じているのは想夜も一緒なのだ。友達が辱められて黙っていられるわけないでしょ!?

 メイヴは想夜の頬を挟んで開口し、もう片方の手を口に突っ込むと、その小さな舌を摘まみ出し、こう言った。
「お願いします、でしょ? 躾けがなってないメス犬風情が。ほらあ、言ってごらんなさい。さん、はいっ♪」
「おねあい……しまふ」
「よろしい」

 パンッ!

「うぐっ!」
 想夜の舌は女帝から開放されたが、ふたたびビンタを喰らってベッドまで吹き飛んだ。
 その体を彩乃に支えられながら、何も出来ないでいる無力なエーテルバランサー想夜。

「よいか? よく聞け――」
 メイヴがそこにいる全員を見渡した。

「お前たちは生きているのではない。生かされているのだ、われわれ妖精界の意志でな」
 人間は無力な存在だ。所詮は何もできん哀れな人形だということを、努々忘れるな――メイヴは言葉を残し、闇に溶けていった。


 ――脅威が去った。
 想夜たちはただ、それを黙って見ているしかできないでいた。

「くっ!」
 ドンッ! 叶子は怒りまかせに、床に拳を打ちつけた。

 無力は罪――誰も、何も抵抗できなかった。それが各々の心に罪悪感を残した。

 ベッドの上の想夜が、雨に打たれた子犬のように震えていた。
「想夜さん、こっちへいらっしゃい」
 彩乃は想夜の髪に手を伸ばし、膝元へと引き寄せた。
「彩乃さん……」
 安心感からか、想夜の全身の力が抜ける。と同時に大量の涙が溢れ出した。
「う……うぅ、うああああああああああああああん!!」
 妖精はついに、彩乃の膝元で泣き崩れてしまった。

 ――なにも出来なかった。
 怖かったのだ。
 とても。
 とても。

 あの凍りつくような眼差し、声――存在そのものが力のパラメーターを逸していた。頭10個、いや100個分か、はたまたそれ以上か。ズバ抜けて高い。高すぎて今の想夜には認識できないのだ。その強さたるや、想夜の想像を遥かに超える力の持ち主。それが女王メイヴたる所以だ。

 想夜は改めて思うのだ。あれは妖精なのか? と。
 そうして結論を出す。

 いや、あれは鬼だ。人を、妖精を、全てを喰らう鬼なのだ――と。

 鬼は外。
 福は内。
 鬼は嫌いだ。邪悪だ。いらない。この世にいらない。あんなの、早くどこかに行っちゃえばいいんだ。
 そうだ、御殿センパイに除霊してもらおう。それがいい。


鬼なんかに生まれなくて良かった。
 妖精でよかった。
 邪悪な者の気持ちなど理解し難い。
 豆を投げつけられる痛みなどいらない――。



 想夜は妖精であることに誇りを覚えた――が、なんだろう? この……心の片隅に魚の骨が引っかかるような不快感は。そうして胸をさすり続けた。

 彩乃は泣きじゃくる想夜の頭を優しく撫でる。
「うん、怖かった。怖かったね。よしよし、いい子ね……」
 そう言って、何度も、何度も、想夜のことを優しく撫でてくれた。
 彩乃は想夜の頭を撫でながらも、メイヴが胸元に身に着けていた黒い水晶が頭から離れなかった。


狐姫の気持ち


「ただいま……」
 時刻は22:00を回っていた。

 大雨の中、狐姫が家に戻ると御殿が出迎えてくれた。
「どうしたの狐姫、ズブ濡れじゃない! ちょっと待ってなさい」

 タオルタオル。御殿は忙しなくスリッパを鳴らして戻ってきては、狐姫の髪にタイルをかけ、水気を優しく拭き取った。

「ほら、拭いた拭いた。お風呂入りなさい。ごはんもできてるから――」
 そう言って、またスリッパをパタパタさせて台所へ戻ってゆく。

 パーティー会場ではうまいもんがたくさん出た。あんな惨事があったので、ほとんど食べられなかった。お腹ペコペコ、のハズだった。でも、食欲がない。狐姫は鳴らないお腹に手を当てた。

 狐姫の様子を察して御殿が心配してくる。
「背中の傷どう? 痛む? おかゆにしようか? それとも、もう休む?」
 お風呂にする? ゴハンにする? それとも――いつから過保護になったんだよ。と毒づくことも出来ず。
「いや、大丈夫。食う……」
 受験勉強中の元気の無い学生よろしく、狐姫はテーブルに両手を添えながら椅子に腰を下ろした。

『もう一つのディルファープロジェクト』
『ある街での事件』
『咲羅真御殿の過去』

 彩乃から聞かされた話は、狐姫の頭をグチャグチャにかき回しては脳の処理を鈍らせた。

 台所で支度をする御殿の背中が遠く感じる。それでも無理にゴハンを口に詰め込んだ。
 いつもと変わらない味。
 でも、おかしいな……箸がすすまない。

 おいしい、ハズなのに……味がしないんだ。

 味を決めるのは舌ではなく心だなんて、そんな難しいことを考える余裕もない。

 やがて狐姫の箸が止まった。

 いつもと同じ夜食なのに、狐姫の食事はあまり喉を通らなかった。


 食後――。
 狐姫が浴室に入ろうとすると、寝室のドアが開いていることに気づく。御殿の寝室だ。
 そっと中を覗いてみると、ベッドの上で寝息を立てていた。散々暴れまくったもんだから、よほど疲れたのだろう。

 狐姫が寝室に足を踏み入れる。
「電気もつけっぱじゃん、ガキじゃないんだから……」
 しょーがねー奴だなあ、と狐姫はクスリと笑う。

『あの子は4歳と5ヶ月――』
 彩乃の声が頭で響いた。

 部屋の灯りを消そうと思ったが、スイッチに伸びた手が止まる。

『好きなんでしょ?』
 こんどは叶子の声が響いた。

 狐姫はノソノソとベッドに近づき、御殿の寝顔を見入った。
 御殿はスヤスヤと寝息を立てている。

 子供のような寝顔。
 警戒心のない寝顔。
 無邪気で、無邪気で――。


 その日、御殿は悪夢で目が覚めた。

 鏡にやつれた自分が映る。口のすぐ横にご飯粒がついていたのに気づき、肩を落す。
「子供じゃあるまいし」
 よほど疲れていたのだろう。自分としたことがみっともない姿で眠ってしまったらしいと、御殿は落胆する。
 御殿は額の汗を手で拭うと、気だるそうに起き上がり、台所に向かう。

 砂漠を散歩してきたかのように喉がカラカラ。
 冷蔵庫に手を伸ばし、中から冷えたミネラルウォーターを取り出すとキャップをあけ、直に口をつけてあおった。

 食道に流れ込んでくる冷水が御殿の喉の渇きを潤す。

「ふう……」
 口元からこぼれる水を乱暴に手で拭う。
 いつもはコップにそそいで上品に飲む習慣がある。
 直飲みする狐姫にも「コップを使いなさい」と口うるさく言ってある。狐姫に人としての生活に慣れてもらうためだ。よその家で失礼のないように躾けるのも御殿の役割だったりする。

 狐姫と出会った頃、狐姫は人間生活としての最低限の習慣は持っていた。が、最低限の習慣しかなかった。手でつまめるものは手でつまんで口まで運ぶ。たとえそれが他人のものであっても、だ。
 食事なんかは楽しむものではない、ただのエネルギー摂取。野生の動物と同じ思考で行動していたのかもしれない。
 気に入らないヤツは半殺し、まんま、スラム街で育った子供のようだった。攻撃対象が同種である妖獣や魔族が相手だったからこそ、今もこうして人間のコミュニティに出入りできているようなものである。心にどんな闇があるのかは知らなかったが、狐姫も地獄を歩いてきた1人なのだと感じていた。

 ――御殿もある日を境に人が変わった。
 心を開かない無表情さはクールと言ってしまえば聞こえがよいが、心の闇から作り出される態度は、どんなに取り繕ってもそこに影を落すもの。

 もし、狐姫が片っ端から人間を八つ裂きにする習慣を持っていたのなら、今ごろ2人は出会っていたのだろうか?

 御殿は考える。
「きっと、出会っていたでしょうね……」
 ――敵として。

 悪魔、人間、問わず、無差別に焼き殺す獣をボニー&クライドで打ち抜いていただろう。
 いや、逆にマグマの底に沈められていたかもしれない――相方に対して、そんなことを考える自分はどうかしている。

 今日の自分はなにか変だ。と思う。
 ……いや、違う。
 変ということがいつもの日常なのだ。暴力祈祷師に平和な日常などありえない。とも思う。

 台所の蛇口をひねり、長い黒髪を手で束ね、ステンレスにかがみこんでは流水を頭から被る。それでも汗だくになった体はヘドロが巻きついた感じがして気持ちが悪く、シャワーを使わざるをえなかった。

 頭の中を空にしたかった。が、シャワーヘッドから流れる水に打たれていると、いろんなことが脳裏をよぎる。

 悪夢には慣れていた。毎日見てきたからだ。いつも朝起きてから気づくのだ――ああ、夢の中に過去の出来事がでてきていたな……と。

 戦場から戻った戦士が悪夢にうなされ、まともな精神を保てなくなる戦士はめずらしくない。御殿もその中の1人だった。むしろ、誰しも過去に捕われ、悪夢にうなされる事がある。ひとつ違えているとしたら、御殿には見覚えのない過去の記憶があることだ。それも起きれば忘れる。

 結局のところ、悪夢は忘却の彼方よりずっと先に位置する幻。人間なんてそんなもんだ。

 それでもふとしたキッカケで、呼び覚ますもの。
 大好きな人達が目の前で無残な姿で息絶えて行く。血まみれになり、目の前の恐怖に慄き、手足をもぎ取られてのたうちまわる。

 ――そんな過去は持っていない……はずだ。心が作り出す妄想が悪夢となって現れるなんて珍しいことじゃない。

 恐怖と不安は冷静さを欠落させIQを下げる。あまり心には置いておきたくない感情だ。けれど、それがなければ生き延びられないのもまた事実。やっかいな感情だ。

 想夜、叶子、華生、そして他の人達、みんな強い。己のことを守る術を持っている。狐姫だって寝室で呑気に爆睡している。

 大丈夫、みんな無事だ。これからも――御殿はそう、自分に言い聞かせた。